狐拳。
葛城山より人の世を見ていますと、人の歴史はイジメの歴史とでも呼べそうでございます。イジメが何故起こるのか、それは分かりませんが、弱者が強者をイジメたという話はまだ聞いたことがございません。ただ、時代によって弱者も強者も変わっていっているようでございます。
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今日問題とされているイジメのほとんどは、ある種の群れが引き起こしています。もしかしたら群れを健全に保つため、群れに悪影響を及ぼす病弱者等を取り除こうとする行為なのかも知れません。しかし、これでは野生の猿となんら変わりません。それに野生の場合、実際にこれを行うのは自然です。我々はこれを自然の掟と呼んでいます。人の社会にも掟はありますが、イジメの掟があるとは思えません。しかし、イジメのゲームは確実にあるようです。
"狐拳"という拳遊びがあります。ジャンケンと同じ三すくみのゲームですが、ジャンケンが抽象的であるのに対し狐拳は現実社会をすこぶる反映させたゲームと言えなくもありません。そのせいでしょうか、宮沢賢治はその著『なめとこ山の熊(岩波文庫)』のなかで次のように述べています。
日本では狐けんというものもあって、狐は猟師に負け、猟師は旦那に負けるときまっている。
ここでは熊は小十郎にやられ、小十郎が旦那にやられる。旦那は町のみんなの中にいるからなかなか熊には食われない。
けれどもこんないやなずるいやつらは、世界がだんだん進歩するとひとりで消えてなくなって行く。
ここでの狐拳は三すくみではなく一方通行のイジメの狐拳となっています。人の社会とはいわれていますが、人の顔でいられるのは抽象を扱っている間だけ、現実に面すればたちまち猿の顔になるようです。
人の社会に巣食うイジメは、猿から人へ引き継がれた大いなる遺産なのか、イジメの横行する昨今、イジメに正義や民主主義のレッテルを貼っての先進大国のイジメ制裁は考え直さなければならないのではないだろうか。制裁を受けた国で先ず困るのは一般庶民ではないのだろうか。それも貧しい、いわゆる弱者です。
思いますに、国家の得る利益は必ずしも国民の利益とはならないが、国家のこうむる損害は必ず国民の損害となります。このことは民主国家であれ非民主国家であれ同じです。特に弱者のこうむる損害はどちらの国も甚だしいものがあります。弱者が困ることを承知の制裁は、まさにイジメそのものでありましょう。イジメの横行はこの先進大国に原因があるようにさえ思えます。
宮沢賢治は進歩を良い方に考えていたようですが、進歩の恩恵は豊かな者には早く、貧しい者には遅くやってくるものです。また、逆に進歩がもたらす災いは、貧しい者には早く豊かな者には遅くやってくるもののように見えます。民主主義に巣食うイジメと格差、一方通行の狐拳を見ているような気がします。
色即是空 空即是色
因果は巡る風車 チンチンポイポイ ポイ捨て
要らないのいらないの 飛んでけー
結構でございました。
この呪文は、私がまだ大和の葛木山にいました頃に、葛木の一言主大神より伝授されたものでございす。呪力のほどは保障できませんが、ジャンケンの前に唱えてパーを出すと大抵は勝つことになっております。