昭和は遠くなりにけり

古代に思いを馳せ、現在に雑言す。・案山子の落書・

・安万呂の道標

§48.斑鳩文化圏と法隆寺の創建。

さてお気付きのように、図.47bでは定説に違えて法隆寺の瓦を一番最初に掲げました。それは、もし法隆寺が川原寺の後に出来た寺ならば、おそらく法隆寺式の瓦と言うよりも斑鳩文化圏そのものが存在しなかったと思われるからです。なぜなら、川原寺に続く薬師…

§47.高市文化圏。

『日本書紀』は、法隆寺の前身とされる若草伽藍の焼亡を670年と記しています。もしそれが事実だとすれば、斑鳩文化圏が成立したのは壬申の乱以降ということになります。また、『日本書紀』は壬申の乱の翌年から高市大寺の造営が始まったとも記しています。そ…

§46.都と寺。

大官大寺の出発点を示しているかもしれない吉備池廃寺という道標からは随分と離れてしまいました。しかし、吉備池廃寺からの降り道がはっきりとしない以上、この道標からは離れ、藤原京大官大寺から遡るのが順当ということになります。それに、今のところと…

§45.高市大寺は川原寺か?

さて、元明陵から山田寺まで道標に従って輪廻の路を下ってまいりましが、実はこの路の途中にもう一つ別の道標があるのです。それは吉備池廃寺と呼ばれている古代の寺院跡です。そして、この寺院跡が大官大寺の前身である百済大寺跡ではないかとも言われてい…

§44.平城京の交差点、大極殿と東大寺大仏殿。

交差点とは、道の集まるところであると同時に道の分かれるところでもあります。そういう意味では分岐点とも起点ともさらには中心とも呼べるものでもあります。 「記紀」の書かれた時代、その時代の中心は平城宮第一次大極殿にありました。その大極殿の玉座にい…

§43.輪廻の交差点、法隆寺。

人は過去を直接見ることはできません。それが現実というものです。前章では、過去を横から眺めましたが、これが出来るのは宇宙広しといえど、アカンベーをして人を煙に巻いて死んで行った物理学界の徐福アインシュタインだけであります。 思うに、人は過去を…

§42 不改常典とは十七条憲法。。

推古天皇元年に聖徳太子が摂政になってからを普通飛鳥時代と呼びます。それより前は古墳時代ですから、言うなれば推古元年は泥の時代から金色に輝く仏像と歴史を記す文字の時代へと移り変わろうとする、正にその飛鳥時代の幕開けの年に当たると。 思うに、飛…

§41 推古天皇こそ、故を温ね新しきを知る道標。

大化の改新に明治維新に、そして何とか維新の会。古いものを新しく見せたがるのが古来からの人の性というものなのでしょうか。それともそういった新しいものを疑うのが私の性というものなのでしょうか。 そういうわけで、『日本書紀』は私から見ると、どうし…

§40 天武天皇と法隆寺。

断家についてrikorikoシェスタさんはその感想をブログで述べていました。我が家も私の代で断家となりますが、私は六無斎ですので、当初から断家についてはあまり考えたことはありません。また、そういうわけで墓参りにもあまり行ったことはありません。そろ…

§39 『古事記』の中の法隆寺。

現在の理が過去の理に勝る。『日本書紀』を読めばたいていの場合そう言えなくもありません。例えば、孝徳も文武も正確には軽王であって軽皇子ではありません。しかし、文武の場合は『日本書紀』編纂の時点では元明天皇の皇子となります。この現在の理により…

§38 儀鳳暦と大射。

十三夜に十五夜に十六夜、そして二十三夜。これらは全て月の呼び名です。ただし、これらの呼び名が成立するためには定朔の暦が出来ていなくてはなりません。 定朔の暦の最初は戊寅元暦と呼ばれているものです。ただ、時期尚早というか、これは後に平朔の暦と…

§37 朔旦冬至と即位、そして大嘗祭。

人は、夏の暑い日には日陰を好み、冬の寒い日には日向を好みます。もしかしたら、私達にとって、『古事記』と『日本書紀』とはそう云うものなのかも知れません。 また、人は、作物や草花を日向には植えても、日陰には植えません。そのせいか、庭の日向は決ま…

§36 大嘗祭の最初は持統天皇か。

飛鳥から木簡が出土し、大化の改新の詔の信憑性が疑われ出してから久しくなります。しかし、大化の改新そのものを疑う人は未だ居ないようです。まして、壬申の乱を疑う人はさらに居ないでしょう。しかし、改新の詔を疑う以上、大化の改新そのものをも疑うと…

§35 天武紀の道標、大嘗祭。

『日本書紀』を読んで思うことですが、『日本書紀』は支配する側の論理によって書かれていると。 しかし、こうも思います。すなわち、これを書いたのは支配される側の人達であると。したがって、ここには支配される側の論理もあると。 思いますに、『日本書…

§34 国津神は歌い、天津神は歌わず。

随分と昔のことですが、私は中学の修学旅行で立ち寄った神社で初めて御神籤を買いました。しかし、それが吉だったか凶だったかは今はもう憶えていません。それに、たとえそれが吉であったとしても、アイスキャンデーのおまけ当たりほどの喜びがあったとも思…

§33 倭建が背負ったもの。

建前と本音。心中はNoであるのに、Yesと返事をしてしまう。裏と表を使い分ける。今もそうだとは申しませんが、これが一昔前の日本人でした。しかし、これぞ陰陽の極意。狭い日本のことです、裏と表を使い分けてこそ狭い日本も広くなるというもの。 神功と景…

§32 ワケの系譜と天智天皇九州死亡説。

天孫の系譜は天照より始まります。いや、正確には須佐ノ男と天照との兄弟げんかより始まりますとするべきかもしれません。なぜなら、旧約聖書にも人類の系譜が兄弟げんかより始まると記されているからです。思うに、人類の争いの系譜をたどれば兄弟げんかに…

§31 欠史8代、物語10代。

神功を卑弥呼と見做し、『百済記』との間に120年のずれを生じさせた『日本書紀』。後世はこれにどう対処すればよいのか。そもそも『日本書紀』は神功を肯定しているのか、それとも否定しているのか。 思うに、興にも武にも当てはまらない雄略を倭の五王の時…

§30 日本書紀の中の道標。

不老不死や神仙の思想が古代の日本に入り込んでいることは、「記紀」やそのほかの物語等にそうした思想の産物としての物語が見出せることから確かなことと思われます。しかし、そうだからと言ってそれらの著述者がそうした思想を信じていたかどうかはまた別の…

§29 竈の煙と天命。

ねたみそねみは人の世の常ですが、「記紀」はこれを臆面もなく取り上げて、うわなりやこなみや、挙句のはてには天皇までも揶揄し、あるいは誹謗したりもしています。聖帝仁徳もこれに関しては形無しのようです。 仁徳天皇について、太安万侶は序文に 烟を望…

§28 雄略と宋。

専門家に解けない謎は素人にも解けない。それが一般的な常識というものなのでしょうが、素人からすれば、専門家に解けない謎は素人でなければ解けない、というのが常識なのです。 私事で恐縮ですが、私はかつて友人と一人の女性を張り合ったことがあります。…

§27 秦氏の出自。

地震に大雨、そして争い。ある日突然住み慣れた土地を離れなければならなくなる時があります。古代においても現代においても世界のどこかの一角で常に起こっている悲しい歴史の繰り返しでもあります。歴史は、我々に何を教えようとしているのだろう。 古代は…

§26 船氏と大化。

史部の設置は雄略の時代に遡ります。雄略紀には何人かの史の名が載ってはいますが、史の任命記事はありません。史の任命記事の初出は欽明紀にあります。欽明14年、王辰爾が船史の姓を賜ったとあります。また、同30年、王辰爾の甥の膽津が白猪史の姓を賜った…

§25 船氏の道標。太安万侶の道標、その25。

古墳は巨大なモニュメントである。しかし、古墳が我々に語りかけることはなく、大きな沈黙のままに横たわっている。我々に語りかけるのは、決まって歴史家であり考古学者でありそして政治家である。しかし、誰の墓かと尋ねれば、政治家以外は決まって沈黙を…

§24 大王の系譜を篩う。

すべての物事を陰陽的に捉える。これは決して好ましい態度ではありません。しかし、小さな砂粒にさえ影があるように、物事は意外なほど陰陽的に出来ています。 さて、陰陽は捉えかたによっては相反するものが同時に存在して一見矛盾しているように見えます。…

§23 王朝の入れ物、大王墓。

道標は迷うことなく目的地に着くためのものです。そのためには先ず目的地をはっきりと決める必要があります。私の当面の目的地は見瀬丸山古墳です。そのためには、とにもかくにも河内大塚山古墳にたどり着く必要があります。そして、そのためには大仙陵から…

§22 古墳群の中の道標。紀の中の道標。

古墳の年代を決めるのは副葬品である。副葬品の中で最も有力視されるのが、土師器や須恵器である。では、土師器や須恵器の年代を決めるものは何か。 最も確実な方法は、年代のはっきりしている奈良時代の土師器や須恵器から遡ることである。しかし、仮にそれ…

§21 古墳の分岐点。

『隋書』や『日本書紀』等が歴史の入れ物なら、墳墓は何の入れ物なのだろう。死者の歴史か、それとも単なる過去か。最近、年を取ったせいか過去のいやな記憶は思い出さなくなり、都合の好い記憶だけを選ぶようになりました。思うに、人の脳も何らかの入れ物…

§20 歴史の分岐点。

太安万侶の道標、素人の案内でかえって道に迷ったかもしれません。実は、斯く申す私も陰陽の道に太安万侶の道標があるのか、それとも太安万侶の道標に陰陽の道があるのかが分からなくなってしまいました。しかし、それはどちらでも好いことです。歴史の道を…

§19 陰陽という入れ物。

古代人はすべてのものを陰と陽とに分けました。転じれば、すべてのものが陰と陽とに分かれるとなります。前章では太陽を陰と陽とに分けて、八咫烏と金鵄をそれぞれ太陽と月とにしました。それなら、月を陰と陽とに分ければどうなるのか。あるいは、そう皮肉…