§5.投馬國を取り除け。
周知のように、倭人伝は魏志の東夷伝の中では意外とも言えるほど字数の多い記事内容となっています。このことは陳寿が倭を特別視していることの表れと見えます。従って、前回で述べたような陳寿の意図があるとしたとしても、強ち見当外れとはならないはずです。しかし、それはそれとして、後漢に朝貢した倭の二つの国が同じであるということを別の観点からもう少しだけ補足をしておきましょう。
その前に、例えば野生動物の場合ですが、彼らは、早く大きく、早く強くなったものが生き残る確率が高く、しかも長い間優位性を保つことが出来るといわれています。そしてこれは、人の世界、特に古代においては人にも国家にも当てはまることだと思います。
さて、倭奴國が漢委奴國王の印綬を得た背景にあるのは、倭奴國が倭国内において一番最初に覇権の掌握と後漢王朝への道の確保という偉業を成し遂げるだけの実力を持ったということです。つまり、先ほどの野生動物の例というのではありませんが、倭奴國はどこよりも早く大きく強くなったということで、従って、どのような国も倭奴國を差し置いて覇権を得ることは難しいということなのです。
またそうではなかったとしても、(漢)倭奴國の朝貢も倭國王帥升(等)の朝貢も同じ後漢代のことです。もしこの二つの国が互いに異なる別系統の国家だとしたら、後漢王朝はそれなりの対応をするでしょうし、『後漢書』にも当然そうした記載があるはずです。しかし、そうした記載が『後漢書』に見られない以上、やはりこの二つの国は同一の国と見做すのが順当ということになります。これは前章の最後でも述べたことですが、おそらく倭國王帥升という表記は、倭奴國王帥升というのが本来の表記ではなかったろうか。
戸数に聞く
我田引水という悪い喩えがあります。しかし、古い倭田であれば、たとえそれに水を引いたとて、どこからも文句は出ますまい。
とまあ、そうこうするうちに倭奴國から帥升等の倭國へ、さらには女王國へと国家の流れが繋がったようにも見えます。思うに、「魏志倭人伝」はその読み方をほんの少し変えるだけで思わぬ方向への展開が起こります。ここでいう読み方を変えるとは、丁度パズルのピースの一つを動かすというようなものです。そして、それによってその動いたピースに繋がってくるピースが次から次へと動き出すのです。
たとえば、福岡県福岡市東区の志賀島で発見されたとされる金印に彫られている印文には「漢委奴國王」とあります。またこの印文の読みは、「漢(かん)の 委(わ)の 奴(な)の 國王(こくおう)」というのが通説となっています。ただこう読みますと、漢委奴国は「魏志倭人伝」に載る5番目の国の奴國と同じではないかという事になります。またそうなりますと、これまで述べてきたことから奴國が邪馬台國ということにもなります。
無論、これはこれまでに述べている仮説の結末としては間違ってはいないのですが、これだけですと「魏志倭人伝」の中では情報量の少ない奴國を邪馬壹國に結びつけるという無意味な展開がおこります。つまり、つながって動くピースが殆ど無いということになります。
しかし、これをそのものずばり、読み方を「漢(かん)の 委奴(いと) 國王(こくおう)」と変えれば、今度は「魏志倭人伝」に載る4番目の国の伊都國が漢委奴國ということになります。伊都國も邪馬壹國も「倭人伝」のなかでは情報の多い国ですからこの二つを結びつけることは非常に意味があるということになります。つまり、つながって動くピースが多いというわけです。
しかし、この二つの国を結びつけるに当たっては、問題が一つあります。それは官制です。奴國の場合は、奴國の官制を末盧國へ移しかえることができたのですが、この二つの国の場合はそれができないのです。
投馬國の官制と戸数との矛盾
さて、「魏志倭人伝」によれば、投馬國は戸数五万余を擁する大国です。人口は普通に見積もっても、かるく二十万を越します。人口二十万というのは、今日の大都市制度の一つである特例市の条件にかなう数字です。これほどの国勢を彌彌と彌彌那利の二官制度で維持できたのか、陳寿の「倭人伝」は大丈夫なのかと少々考えさせられます。
しかし、どうやらここに先ほどの官制の問題を解く糸口があるようです。そこで、先ずは投馬國の官制の問題点を掘り起こすことから始めてみましょう。
戸数が導く新たな仮説
下の図と表は1~3章での結果を受けてのものです。表は、戸数の少ない国の順に上か下へと書き並べたものです。なお、奴國の2官は末盧國に移しています。また、図、表共に奴國の戸数二萬餘を大伊都國二萬餘戸と書き改め、奴國という表記は止めています。
對馬 一千余 2官 不彌 一千余 2官 一大 三千余 2官 末盧 四千余 2官 大伊都 二万余 3官 投馬 五万余 2官 邪馬 七万余 4官 |
上の表.5aを見て誰もが先ず気づくことは、戸数が一万に満たない国の官は2官に統一されていたのではないのかということではないでしょうか。そこで、新たな仮説を立ててみましょう。
● つまり、戸数が一万に満たない国の官は2官、それ以上は3、4官であると。
仮にそうだとしますと、戸数五万余の投馬國は2官ではなく、3官もしくは4官でなくてはならないことになります。そうするとこれは矛盾ということになりますし、投馬國は不都合な存在ということにもなります。では、どうするか。
1章では奴國が不都合でした。それでこれを取り除くこととしました。その結果は読んでの如く完璧といえませんが大きな進展は得られたようです。そこで、今度は投馬國を取り除くことにしましょう。手順は奴國と同じ、つまりパズル邪馬壹國のピースに適うように整形することです。それで、そのように整形したのが上のtable図.5aです。
読み手側のミス
さて、仮説に従えば投馬國の官には矛盾があります。また仮説を離れても、5万の戸数の大国に官2名は少なすぎます。この矛盾、仮説が悪いのか、それとも「倭人伝」の誤記載等か。実際、「倭人伝」には景初2年と景初3年の問題が示すように後世の誤写等があります。しかし、1章での卑奴毋離の例が示すように、今問題としているものについては後世の誤りと見るよりも「倭人伝」の編集時での不手際とする方がいいでしょう。と言うのも、1章では陳寿のミスとすることで進展が得られたのですから。それに、仮説が悪いかどうかということも、偏に進展が得られるか如何かということにかかっているのですから。
思うに不手際は、誰もがしていることだからこそ、誰もが感じていることだと思いますが、不手際というものは書くほうの側にだけではなく読むほうの側にも存在します。例えば、「倭人伝」の戸数に関しての一般的な読み方は、下の左表.5bのようにすべてを加えると15万をも超える数になるというものです。
對馬國 一大國 末盧國 伊都國 奴國 不彌國 投馬國 邪馬國 |
千餘戸 三千許家 四千餘戸 千餘戸 二萬餘戸 千餘家 五萬餘戸 七萬餘戸 |
合計 | 15万余戸 |
01.斯馬國 02.巳百支國 03.伊邪國 04.都支國 05.彌奴國 06.好古都國 07.不呼國 08.姐奴國 09.對蘇國 10.蘇奴國 11.呼邑國 12.華奴蘇奴國 13.鬼國 14.爲吾國 15.鬼奴國 16.邪馬國 17.躬臣國 18.巴利國 19.支惟國 20.烏奴國 21.奴國 |
22.對馬國 23.一大國 24.末盧國 25.伊都國 26.奴國 27.不彌國 28.投馬國 29.邪馬壹國 |
30.狗奴國 31.侏儒國 32.裸國 33.黒歯國 |
戸数15万というのは「韓伝」によれば三韓の総戸数に匹敵するほどの数です。「倭人伝」には、これ以外にも狗奴國や海を渡った東にも国があるとしていますから、このままですと倭の総戸数は20万あるいは30万を優に超えてしまうことになります。この数が、当時の倭の戸数として多すぎるのであれば、これは読み手側の不手際と言えなくもありません。
無論、読み手側の不手際は同時に書き手側の不手際でもある。これもまた確かなことです。例えば、書き手側の不手際、つまり「倭人伝」の著者陳寿の最大のそれは、邪馬壹國を会稽東冶の東に位置づけたことです。しかし、これとても善く善く考えてみれば、実は読み手側の不手際と言えなくもないのです。
そもそも陳寿は、「倭人伝」の前では書き手側ではありますが、倭に関する文献資料等の前では読み手側に回ることになります。文献資料等がどのくらい正確であったかはわかりませんが、3章の最後でも述べたように倭に関しての情報はかなり正確であったと思われます。
ただ陳寿は、そうした資料の中から倭の風俗が南方系である事に注目し過ぎたため、また倭をそう評価する必要があったため、里程記事部品や国別記事部品をことさら南に向くように、また大きな国らしくなるように積み上げていった。その結果が、かつその証が、今日我々が「倭人伝」を読むと邪馬壹國が九州の南の海上に在ったり、その戸数が十五万を超える大国に見えたりもすることになる、ということなのです。少しばかり皮肉った言い方をすれば、我々はすこぶる正確に陳寿の「倭人伝」を読んでいるとも言えます。
そもそも陳寿や当時の中国人にとって、倭は東夷のなかでも格別な存在であり、且つ伝説的な存在であったと思われます。その証拠に、「倭人伝」は女王國(邪馬壹國)を郡より萬二千餘里の距離にあるとしています。郡より萬二千餘里という距離は、当時の彼らにとって『山海経』の世界の入り口に当たるほど遠い場所です。実際、「倭人伝」は『山海経』の国の一つ黒歯国へ女王國より到達できるとしています。
『広志』逸文と其餘旁國
思うに、古代中国に伝説の倭人の国を現実のものとして示した陳寿の功績は大きいといわねばなりませんが、我々に伝説の邪馬台国、判じ物の「倭人伝」を残した不手際もまた大きいといわねばなりません。なお、この件については陳寿が参考にしたとされる『魏略』の魚豢による可能性もあるのですが、ここでは話の都合上陳寿としています。
普通、不手際というものは何事においてもそうだと思いますが、その多くは原史料等の利用時に生じるものです。幸い、先人の研究のおかげで『魏略』が「倭人伝」の原史料の一つであると突き止められています。前章ではその逸文から進展の糸口をつかむことができました。原史料が完全に失われない限り、今回も、この章に必要な矛盾を解く何らかの糸口が残されているはずです。
倭国東南陸行五百里、到伊都国、又南到邪馬臺国、自女(王)国以北、其戸数道里、可得略載、次斯馬国、次巳百支国次伊邪国、案倭西南海行一日、有伊邪分国、無布帛、以革為衣、蓋伊耶国也。
上記は『翰苑』に残されている『広志』の逸文といわれているものです。ここには、「倭人伝」が其餘旁國としている伊邪國についての記述があります。内容は、「伊邪国というのは、確か倭の文献にあった海を西南に一日行ったところにある布の代わりに革を衣服にしている伊邪分国のことではないのか」というものです。
『広志』逸文はそれ自体が価値のある原史料でもあるのですが、その価値を更に高めているのがこの逸文の中にある、少なくとも二つ以上の『広志』にとっての原史料の存在です。一つは、次伊邪国までの文。これは普通『魏略』によったとされています。もう一つは、それより後の文。これはX史料によったという他はありませんが、今回の重要史料です。なお、この逸文には誤字や脱字が多く、背景色のあるところと()内は岩波文庫の訂正と補筆のあるものです。また、伊耶国が伊邪国の誤写でない場合は、さらにX史料がもう一つ増える事になりますが、これはここではそれほど重要ではなく省きます。
「広志逸文」の伊邪国が「倭人伝」が略載もできない傍余の国とした21ヵ国のうちの一つ、表.5cの3番目の国である事に間違いはないと思いますが、こうした内容のX史料があることは「倭人伝」の
自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳
の記述といささか抵触があるように感じられます。なぜなら、その余の傍国と女王国以北の国との違いとされる戸数と道里の略載の可不可が、文面通りの遠絶によるものとは言い切れなくなってきたからです。
そもそも遠絶ではない国の戸数にしても、百戸程度ならともかく、千ましてや投馬國の五万もの戸数を一郡使が数えたとは思えません。また、道里の南へ水行二十日、これとても現実に体験した結果とは思えません。これは明らかに倭人からの情報収集によるものです。そうなりますと、「倭人伝」には「今使譯所通三十國」とする記事がその書き始めの最後の一節にあるのですから、必要ならば、それら交流が可能な30ヵ国の情報を集めることは簡単であったろうし、あるいは集めていたかもしれません。
ところで、もし其餘旁國の情報がすべて魏にもたらされていたとしたら如何でしょうか。しかも、それが『広志』逸文のX史料のような形であったとしたら。