古代雑記
「記紀」の編纂にあたって、安万呂はまず何をしたのでしょうか。幸いなことに、彼はその手掛かりを後世のために残しております。序文には、彼が『古事記』を撰録するとき、稗田阿礼をその道案内としたと書いております。その稗田阿礼が手がかりなのです。 稗田…
周知のように、倭人伝は魏志の東夷伝の中では意外とも言えるほど字数の多い記事内容となっています。このことは陳寿が倭を特別視していることの表れと見えます。従って、前回で述べたような陳寿の意図があるとしたとしても、強ち見当外れとはならないはずで…
さてお気付きのように、図.47bでは定説に違えて法隆寺の瓦を一番最初に掲げました。それは、もし法隆寺が川原寺の後に出来た寺ならば、おそらく法隆寺式の瓦と言うよりも斑鳩文化圏そのものが存在しなかったと思われるからです。なぜなら、川原寺に続く薬師…
『古事記』には15個(①~⑮)の崩年干支があります。下表.3aがそれです。 - 表.3a『古事記』記載の崩年干支 - ① ② ③ ④ ⑤ ⑥ ⑦ ⑧ ⑨ ⑩ ⑪ ⑫ ⑬ ⑭ ⑮ 推古 崇峻 用明 敏達 安閑 継体 雄略 允恭 反正 履中 仁徳 応神 仲哀 成務 崇神 戊子 壬子 丁未 甲辰 乙卯 丁未 己巳…
「捨てる神あれば 拾う神あり」と申しますか、亡国の民陳寿にとって晋は正に拾う神そのものだったようです。陳寿にとって『三国志』あるいは『魏志』を書き上げることが晋への恩返しだったのかも知れません。 『魏志』は30巻。「魏志倭人伝」はその30巻中の最後…
『日本書紀』は、法隆寺の前身とされる若草伽藍の焼亡を670年と記しています。もしそれが事実だとすれば、斑鳩文化圏が成立したのは壬申の乱以降ということになります。また、『日本書紀』は壬申の乱の翌年から高市大寺の造営が始まったとも記しています。そ…
大官大寺の出発点を示しているかもしれない吉備池廃寺という道標からは随分と離れてしまいました。しかし、吉備池廃寺からの降り道がはっきりとしない以上、この道標からは離れ、藤原京大官大寺から遡るのが順当ということになります。それに、今のところと…
最近、邪馬台国に関しての新しい知見が得られなくなりました。それは、古代史ブームが去ったということにもよるのでしょうが、もしかしたら新たな発掘の成果待ちという歴史家の消極的な研究態度によるものも又あるのではないかと思ったりもします。 ところで…
さて、元明陵から山田寺まで道標に従って輪廻の路を下ってまいりましが、実はこの路の途中にもう一つ別の道標があるのです。それは吉備池廃寺と呼ばれている古代の寺院跡です。そして、この寺院跡が大官大寺の前身である百済大寺跡ではないかとも言われてい…
たった60個の組み合わせしか持たない干支ですが、繰り返すことで無限の年数を表すことができます。前号では、「記紀」の骨組みは1501年間に納まると述べましたが、正確には79章の中に納まるということです。下図参照 章とは19年を1章と数える暦法の単位です…
例えとしてはどうかとは思いますが… 先ずは始めましょう。 大和は本来奈良盆地の東南地域だけを指しての呼称でした。それが時代が降るとともに拡大されて、先ず奈良県全体を指す呼称へと変わり、そして最後は大和民族という呼び方があるように日本の国を指す…
交差点とは、道の集まるところであると同時に道の分かれるところでもあります。そういう意味では分岐点とも起点ともさらには中心とも呼べるものでもあります。 「記紀」の書かれた時代、その時代の中心は平城宮第一次大極殿にありました。その大極殿の玉座にい…
邪馬台国問題は、煎じ詰めれば「魏志倭人伝」そのものの問題です。どう解釈するかということも大事ですが、忘れてならないことは "「魏志倭人伝」は陳寿の作ではあるが、陳寿の見聞録ではない "ということです。つまり、「魏志倭人伝」は他者の手になる資料…
『古事記』と『日本書紀』は、歴史家や文学者やその他の専門家といわれている人たちによって語りつくされている観があります。しかし、謎は残されたままです。それになにより、素人は未だ語ってはいませんし、一億分の一の検証が残されてもいます。 無論、素…
これは、古代雑記の第一弾として書き始めたものです。そのため、前置きが少々長くなりますことを先ずお詫びしておきます。 ✎...........................................................................................................................…
牛刀をもって鶏を割く。 『論語』にも載る古人の言葉です。 思うに、古代を語るに牛刀はいりません。以下の記事は、週刊爺チャンネルC"C"+と銘打って誰も見ていないようなホームページを運営していた時に、古代雑記(「記紀」の素顔・安万呂の設計図)冒頭で…
人は過去を直接見ることはできません。それが現実というものです。前章では、過去を横から眺めましたが、これが出来るのは宇宙広しといえど、アカンベーをして人を煙に巻いて死んで行った物理学界の徐福アインシュタインだけであります。 思うに、人は過去を…
古代雑記、これは嘗てのこのブログのタイトルでした。このタイトルは立岡章平遺稿集の表題から借りたものです。立岡章平氏についてはこの遺稿集の他は知りませんが、古代史と文学論を手掛ける評論家と見えます。 思うに、歴史もまた広い意味での文学です。『…
推古天皇元年に聖徳太子が摂政になってからを普通飛鳥時代と呼びます。それより前は古墳時代ですから、言うなれば推古元年は泥の時代から金色に輝く仏像と歴史を記す文字の時代へと移り変わろうとする、正にその飛鳥時代の幕開けの年に当たると。 思うに、飛…
大化の改新に明治維新に、そして何とか維新の会。古いものを新しく見せたがるのが古来からの人の性というものなのでしょうか。それともそういった新しいものを疑うのが私の性というものなのでしょうか。 そういうわけで、『日本書紀』は私から見ると、どうし…
断家についてrikorikoシェスタさんはその感想をブログで述べていました。我が家も私の代で断家となりますが、私は六無斎ですので、当初から断家についてはあまり考えたことはありません。また、そういうわけで墓参りにもあまり行ったことはありません。そろ…
現在の理が過去の理に勝る。『日本書紀』を読めばたいていの場合そう言えなくもありません。例えば、孝徳も文武も正確には軽王であって軽皇子ではありません。しかし、文武の場合は『日本書紀』編纂の時点では元明天皇の皇子となります。この現在の理により…
十三夜に十五夜に十六夜、そして二十三夜。これらは全て月の呼び名です。ただし、これらの呼び名が成立するためには定朔の暦が出来ていなくてはなりません。 定朔の暦の最初は戊寅元暦と呼ばれているものです。ただ、時期尚早というか、これは後に平朔の暦と…
人は、夏の暑い日には日陰を好み、冬の寒い日には日向を好みます。もしかしたら、私達にとって、『古事記』と『日本書紀』とはそう云うものなのかも知れません。 また、人は、作物や草花を日向には植えても、日陰には植えません。そのせいか、庭の日向は決ま…
飛鳥から木簡が出土し、大化の改新の詔の信憑性が疑われ出してから久しくなります。しかし、大化の改新そのものを疑う人は未だ居ないようです。まして、壬申の乱を疑う人はさらに居ないでしょう。しかし、改新の詔を疑う以上、大化の改新そのものをも疑うと…
『日本書紀』を読んで思うことですが、『日本書紀』は支配する側の論理によって書かれていると。 しかし、こうも思います。すなわち、これを書いたのは支配される側の人達であると。したがって、ここには支配される側の論理もあると。 思いますに、『日本書…
随分と昔のことですが、私は中学の修学旅行で立ち寄った神社で初めて御神籤を買いました。しかし、それが吉だったか凶だったかは今はもう憶えていません。それに、たとえそれが吉であったとしても、アイスキャンデーのおまけ当たりほどの喜びがあったとも思…
建前と本音。心中はNoであるのに、Yesと返事をしてしまう。裏と表を使い分ける。今もそうだとは申しませんが、これが一昔前の日本人でした。しかし、これぞ陰陽の極意。狭い日本のことです、裏と表を使い分けてこそ狭い日本も広くなるというもの。 神功と景…
天孫の系譜は天照より始まります。いや、正確には須佐ノ男と天照との兄弟げんかより始まりますとするべきかもしれません。なぜなら、旧約聖書にも人類の系譜が兄弟げんかより始まると記されているからです。思うに、人類の争いの系譜をたどれば兄弟げんかに…
神功を卑弥呼と見做し、『百済記』との間に120年のずれを生じさせた『日本書紀』。後世はこれにどう対処すればよいのか。そもそも『日本書紀』は神功を肯定しているのか、それとも否定しているのか。 思うに、興にも武にも当てはまらない雄略を倭の五王の時…