昭和は遠くなりにけり

古代に思いを馳せ、現在に雑言す。・案山子の落書・

§11 太安万侶の道標、

 藤原京が教えるように、古代日本は古代中国の理想を忠実に実践をしてきた観があります。しかも、安万呂の道標が示すように、陰陽思想は日本独特の発展を既にこの時点で遂げてもいます。思うに、こうしたことが可能だったのも陰陽思想が日本の自然の理に適ったものだったからに他なりません。
 前章では陰陽の基本ともいう手順で、地を分割しました。次いでというわけではありませんが、今度も同じような手順で天を分割してみましょう。

方は分割し、円は集める

 井田制も条坊制もその基本は方形にありました。方形は陰の形ですが、生み出す数は陽の9です。井田が9区画、条坊が(9×9)区画というふうにです。ところで、易では9の数は陽爻を表わします。また、陰爻を表わす数は6と決められています。そうすると、陽爻の9を方形の陰の形が生み出した以上、陰爻の6を生み出すものは円形の陽の形ということになります。つまり、方形の整列が陽数を生み出すのであれば(下図bの左、下図cの右)、円の整列が陰の数を生み出すはずです(下図a、下図bの右)。
f:id:heiseirokumusai:20170612051144g:plain  6を生み出す円の並べ方としては、a図の①から⑥までの並べ方が最も最小の形であります。しかし、これには井田の中央に当たるものがありません。一段増やして⑩まで並べれば⑤が中央となりはしますが、残りが奇数となり陰陽の対とはなり得ません。それになにより、この形は円とはかけ離れていますし最小形でもありません。また、地の基本形井田に擬することも出来ません。したがって、この場合はb図の右が正解ということになります。この右図は最小の個数で陰爻の数6を含み、形も天の基本形円に近いといえます。そして、これらをさらに円に近い形に並べれば(c図左)、49+1本という易占で用いる筮竹の数あるいは大衍の数も生まれてくるのです。つまり、b図の右を発展させるとc図の左になるわけです。これは井田を発展させて条坊を作り上げたのとまったく同じ手順です。同じ手順で、それぞれの特質を生かし、しかも、論理的にも納得の出来る結果が出せる。古代人がこうした結果を見逃すことはなかったでしょう。それに、さらなる論理的にも納得が出来る結果がc図の左右より導き出せもするのです。
 c図左は円という陽の集まり、つまりは天です。これを一つの世界と考えた場合、右図の方という陰の集まりつまりは地の世界がそうであったように、当然、この天の世界も陰と陽が対として存在することになります。地方の右図の場合は中央の一区画を減らすことによってこれを成立させました。天円の左図の場合は、逆に一区画増やすことによってこれを成立させることになります。方形の集まりとは違って、円形の集まりは隙間だらけです。49個の円の要素を取り除けば大きな一つの天の形、円の要素が残ることになります。これを加えれば50という陰陽調和の数が出来上がります。この50という数は、易経のいう大衍の数でもあります。このような結果が、やはり古代人にとっては無視の出来ないものであったと考える他はないでしょう。
 無論、こうした結果は図形が持つ性質の一つに過ぎず、陰陽とはかかわりのないものではあります。しかし、陰陽思想の究極は、陽からも陰陽が生じ、陰からも陰陽が生じるとする考えにあります。この考えは、太陽の動きによって昼から夜つまり陽から陰に遷り変わるという自然界の消長盛衰だけでは説明のつかないものです。例えば、陰(雌)からは陰陽(雌雄)は生まれますが、陽(雄)からは何も生まれません。ここにはどうしても抽象的な思考が入り込まざるを得ないのです。当時の抽象的な思考の最たるものは数の計算と幾何です。例えば7は陽数ですが、これを陽数3と陰数4とに分けることが出来ます。つまり陽から陰陽が生まれたのです。したがって、「記紀神話」で男神伊邪那岐命が多数の神々を生むとすることに何の不思議もありません。また、陰の方形同士、陽の円形同士を陰陽の対と見なすことにも何ら矛盾は生じません。

数と形

 古代を野蛮な時代とする人がいますが、抽象に関する限り現代と大差はありません。例えば、『老子』に、道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず、とあります。これを現代は、こうしたことを限りなく続けることが万物を生じることに繋がるなどと解釈していますが、三が四を生じ、四が五を生じ、さらに‥‥と続けみても、生じるのは抽象の数であって物ではありません。『老子』が三が物を生じると言っている以上やはりこれは物につなげなくてはなりません。
 抽象の数が最初にとる物の形は幾何です。今日の幾何では、一は点を表し二は直線を表わします。そして、三は三角形を表わすことになります。三角形は抽象に於いても現実に於いても形つまり物の最小単位なのです。したがって、この場合現代的な解釈によって、物の最小単位の三角形から万物が生まれるとするのが最も適切なのです。それに、古代においては数と形とには密接な関係があり、古代人が数を形として捉えていた節もあるのです。
f:id:heiseirokumusai:20170612051727g:plain  「漢書律暦志」に、その算木の制度は口径一分、長さ6寸、それを271本用いれば六角形をなし、一握りとなるとあります。
 算木は紀元前から中国にあった、竹や木で出来た数学の計算用具です。271本という数は45×6+1= 271と出来、一本の算木を中心に45本の算木で出来た正三角形六個が取り囲んでいる形を示しています(ハ図)。ロ図は算木を正三角形に積み上げた各段ごとの総数を右端に示したものです。これは、いわゆる俵積み算の説明で使う図形と同じです。三段で6俵。9段で45俵。つまり数を形で捉えるという方法です。しかも、9は陽爻の数、6は陰爻の数ですから、9段の6個では270となり、さらに中心の一本とで271となります。しかもこの271は、2+7+1とでき、さらに2+3+4+1つまり1+2+3+4= 10とすれば、「漢書律暦志」のいう天地の五方位が完備して終わる数"十"とすることが出来るのです。また、これは5を中心とする正三角形の俵積みの形でもあります。
 また「律暦志」には、算によって事物を計り数え、生命の道理に順うともあります。偶奇陰陽を備えた数や幾何図形は事物や道理を推し測るにはうってつけの道具ともいえるものなのです。計算に算木、易占に筮竹。易の最小単位は八卦八卦は三爻よりなります。三や三角形は事物や道理の最小単位でもあるのです。
 今日、数学も幾何学も古代に比べ数段の進歩はありますが、その基本となる抽象の概念に変わりはないのです。また、古代も現代も抽象と現実とを繋ぐ役割を数と幾何が担っていることにも変わりはないのです。古代思想とはいえ陰陽五行や八卦は論理的完成度の高い思想といわねばなりません。論理的完成度が高いからこそ、後進地域の日本に根付くことが出来たと考えるべきです。

地は分割し、天は一つに集める

 最後に、天即ち陽を分割したとは言いましたが、正確には、陽は寄せ集めると言うべきかも知れません。なぜなら、陽は2分割出来ない奇数でもあり、寄せ集める他はないからです。それに、奇数を寄せ集めれば、偶数にも奇数にもなります。一方偶数は、2分割することにより偶数にも奇数にもなりますが、寄せ集めただけでは偶数にしかなりません。したがって、方(地)は分割し、円(天)は集めるということになります。
 皇極紀元年の条の最後に、聖徳太子の娘上宮大娘姫王が『天に二つの日無く、地に二人の王無し。…』と言ったとあります。確かに、天には二つの日はありません。しかし、地には多くの王がいました。思うに、世界即ち地を統一即ち集めることは、アレクサンダーにもチンギスハンにも難しかったという事なのでありましょう。

§10 石舞台古墳は飛鳥天皇陵か、

石舞台古墳は飛鳥天皇陵か
 天円地方という言葉があります。古代の中国人が、天は円く地は四角いと考えたことから生まれた言葉です。しかし、古代人はどのようにして、天は円く地は四角いとする考えに至ったのでしょう。また、この考えを、古代の日本はどのように受け止めたのか。また、それはいつの時代に伝わってきたのか。そして、その考えは古墳造りに何らかの影響を及ぼしているのかいないのか。これも、古代史の一つの課題です。

天円道地方  条坊制都市藤原京を覆う碁盤の目。地を地の形で覆われた藤原京は陰陽思想に適う都市といえます。しかし、地を四角とする考えは島国国家日本で何の抵抗も無く受け入れられているものなのだろうか。天を円いとする考えは天円道(太陽の動き)からある程度つかめたと思いますが(1図)、地を四角とする考えはどこから来たのでしょうか。
f:id:heiseirokumusai:20151220231631g:plain  「魏志倭人伝」には今の対馬を方四百余里といった正方形で捉える表現があります。これは面積を表す場合に便利な表現で、古代中国の土地制度の井田制(方格線地割)から生まれたものと思われます(a図)。古代人は、この井田制を国中に施し、さらには世界中に施せば、どのように複雑な世界も無数の正方形の集まりで捉えられることに気づきました(b図)。そして、終には全世界を正方形で表せると考えるようにもなったのです。つまり、大きな正方形からは小さな正方形が生まれ。逆に、その小さな正方形を集めれば元の大きな正方形に戻る。したがって、全世界の小さな井田を集めれば、大きな井田つまり九州が出来るとしたのです(c図)。そして、天は円く、地は方に象るとする古代中国の思想に至ったわけです(1図)。
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境の神と賽の神  地を方とする思想は土地を四角に分けるという行為から生まれています。無論、これは私見であり仮説に過ぎません。それに、それほど重要ではありません。ただ、何らかの行為が思想を生み、何らかの思想が行為を生むという点においては重要なことです。
 土地を四角に分けるという行為。日本では、条坊制の遺構や条里制の遺構として各地に残っています。条坊遺構は、藤原京を手始めに各時代ごとの成立年代やその過程が史料との突合せによって詳しく調べ上げられています。しかし、条里遺構は史料との関係から、制度としては奈良時代中期の天平年間を遡らないとされています。つまり、条坊制は国の制度として始まったが、条里制はそうではなかったということになります。
 条里や条坊という方格地割の制度を離れれば、土地を分ける、あるいは割くという行為は弥生時代の環濠より始まります。環濠は不整形のもので、外部からの進入を防ぐという実用一点張りのものがその最初です。しかも、この時代は村落共同の社会で、土地(耕地)を分けてそれぞれに配分するという制度の無かった時代でした。しかし、環濠という人工の境界が生まれた意義は大きかったはずです。
 内と外、幸いと災い、環濠を挟んで相反するものが対峙する世界が、環濠によって生まれたのです。外敵という具象が造らせた環濠が様々の抽象をも造り始めたのです。やがて、これらが陰陽思想と結びつくのは時間の問題でしかありません。
 ところで、抽象化は環濠の内と外だけに起こったのでしょうか。いや、環濠そのものの抽象化も起こったと考えるべきでしょう。古代人は環濠に何を見出したか。それは境の神ではないだろうか。ただし、それは単なる境界の神ではなく、外敵を阻止する神、災いを阻止する神、後世でいうところのサイの神ではなかったか。
 サイの神が水の流れや人の行く手に立ちはだかった時、人や流れはその向きを大きく変えます。人の場合は引き返せますが、流れは引き返すことは出来ません。f:id:heiseirokumusai:20151220232048g:plainしたがって、右か左かに流れを変化させます。この変化のさまは賽の転がり方によく似ています(左図参)。賽は正方形の辺を境にしていずれか一方に転がります。また、賽の目は陰か陽つまりは右か左かを示します。結果として、人や流れは90度方向を変えることになります。この流れや道筋をパターン化して組み合わせれば、ちょうど碁盤の目のようになります。

 さて、条里制とは里を碁盤の目のように区画したものです。また、条坊制とは坊を碁盤の目のように区画したものです。里は一里四方の面積区画を表し、坊も同じような面積区画を表しています。

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いずれにしても基本の形は、井田制や九州制にあります。ただ、里は陰の数6×6の36分割するすのに対して、坊は陽の数9×9の81倍するという違いがあります。ただし、これは文献上の定義で、ここで必要なことはどちらも正方形を表しているということです。つまり、地を方とする抽象的な古代中国の世界観の定義を支えているのがこの具体的かつ現実の方形区画の制度なのです。
 日本にも、この二つの制度は存在しますが、地を方として捉えていたかどうか良くは分かりません。崇神紀には四道将軍を畿外に派遣して国を安定させたとあります。四道は、北陸、東海、西海、丹波の四つで、正確に東西南北を指しているわけではありませんが、国土を畿内と畿外とに分けさらに畿外を四つに分けていることから、これは陰陽五行の五方として国土を捉えていると考えられます。五方の国土はやがて八卦の八方位と組み合わされ、八方で表わされることになります。

道祖神・岐の神・木の俣の神・御井の神  どうやら日本では、地は形の方としてではなく、方向の四方や八方として捉えられていたようです。そして、この四方八方の具象としての道の制度があったのだと思われます。このことは、サイの神が賽の神や塞の神としてではなく道祖神として後世に残されていることによっても、ある程度は推察できるのではないでしょうか。
 道祖神はその名が示すように道の神です。祖形は中国にあるとされています。日本の道の神としては「記神話」に伊邪那岐命の褌から道俣神が生まれたという話があります。人の股を覆う褌から道の俣の神が生まれるという発想は、なかなかおおらかで面白いのですが、伊邪那岐命男神であるのが少々気になるというのが一般的な感想でしょうか。
 道俣神は岐の神(巷の神または辻の神)のことで、道路が分岐や交叉をする場所に現れるとされる神です。ところで、「記神話」にはもう一柱の別の神が分岐や交叉をする場所に現れています。それは、木の俣の神です。古代人がここに神を見出したのは、真っ直ぐに伸びている木が分かれるのは神の力が働いたため、木の俣には神が宿る、そう考えたためという他はないでしょう。
 古代人は、川や道が向きを変えるところに神を見出し、さらには道が分かれるところにも神を見出し、今また、木の俣に神を見出しました。しかし、この木の俣の神にはもう一つの別名があるのです。「記神話」は、この神のまたの名を御井の神としております。
 御井の神とは、その名のとおりの井戸の神です。しかし、木の俣の神と井戸の神とが同じというのはどういうことなのでしょうか。その答えは井の字に組んだ井桁にあります。木で出来た井桁は、人口の木の俣ともいえる形をしているからです。そして、この井桁を複数個地面に並べると、井田や条坊そっくりにもなるのです。
f:id:heiseirokumusai:20151220233903g:plain  さて、これまでは単に境とか分けるとかで話を進めてまいりましたが、これからは陰陽思想が生み出す原則を交えて話を進めていくことにいたします。
 陰陽思想における境とは陰と陽との境のことです。この境は鬼神や霊魂さらには神々が出入りをする場所であります。また、分けるとは陰と陽とに分けることを意味し、方格線で分けられた区画はすべて陰と陽とが対になるように分けられていることになります。この原則は、条里制・井田制・九州制・条坊制に生かされています。なお、今日文献で見る九州は、実際の州を当てはめたもので、本来の考えに基づくものではありません。むしろ日本の畿内・畿外制の方がよりその基本に近いものといえます。つまり、畿内即ち中央、畿外即ち地方、地方即ち八方、ということです。
 条里制の基本は36区画よりなります。36は偶数ですから条里制は正確に陰陽の対で出来ています。井田制・九州制と条坊制はそれぞれ9区画と81区画ですので対としては一区画余ることになります。しかし、この一区画は公田と中央と宮域としてそれぞれにあてがわれますので、これもやはり原則通りといえます。そうしますと、陰陽を分ける方格線つまり道は、神々の出入りするところであり、陰陽の境の神の居る所ということになります。
 井桁は、この陰陽の境の神の居る方格線道路に相当します。しかも、四つの境と四つの交叉を持つ構造をしているのです。つまり、八方に境の神を宿す構築物といえます。八方はすべての方向をも意味していますから、井桁はすべての方向からの災いを遮る理想的な形ともいえます。正倉院の校倉造はこの井桁を積み上げたものです。また、藤原京もこの井桁を並べた都なのです。
 井桁はその名のとおり、基本は井戸に用いるものです。しかし、井戸水の神ではありません。井戸の水を守る神です。いや、正確には井(桁)そのものの神というべきかもしれません。このことは、桂川に築かれた灌漑用の葛野大堰、この大堰を大井と表記し、井堰という国字にもなっていることからもうかがい知れると思います。井は八方すき無く、内を守り外をはらうという字形です。水の流れを変える堰や水の流入を防ぐ堤に用いるに最適の文字なのです。そして、おそらくは墓にもです。

最初で最後の方墳石舞台?  古代の日本は、地を方として捉えたのではなく、方を、賽や塞やそして井つまりサイの神に守られている方形の区域として捉えていたのです。さて、そうなりますと、上円下方墳あるいは上八角下方墳の下方は地の方ではなくサイの神に守られた方形墳ということになります。
 墳墓におけるこうした捉え方は、前方後円墳が築かれていた時代には当然なかったと思われます。仮に、見瀬丸山古墳を大王墓としての最後の前方後円墳とした場合、最初の大王墓としての方墳は石舞台古墳ということになります。石舞台古墳は、飛鳥京区域の最奥の奥津城と呼ぶにふさわしい場所にあります。単純には飛鳥天皇の墓と呼べるはずです。しかし、封土の剥ぎ取られた石舞台を天皇陵であったと呼ぶ者はいません。ただ、本居宣長の『菅笠日記』のなかに、地元民が石舞台を推古天皇陵と呼んでいたとする記述があるそうです。つまり、『記』では推古は改葬されていますから、この古墳も改葬の可能性があるということになります。
 では、石舞台古墳を改葬してみましょう。先ず、最初にしなければならないことは封土を剥いでサイの神に守られた方形墳をなくすことです。次に、石棺を取り出して改葬地に運び、安置することです。しかし、その前に改葬地を選ばなくてはなりません。どのように選ぶか。無論、霊魂の移動の可能な北東方向に設定します。そこで、石舞台から北東方向に向かいますと、舒明天皇陵につきあたることになります。
 舒明天皇陵は、上八角下方墳で、牽牛子塚古墳よりも新しい墳形プランで築かれています。しかし、中に安置されているのは横穴式石室用の石棺です。しかも、丸山古墳と同じ T字型に二つの石棺を安置しているということです。つまり、舒明陵は丸山古墳に近しい横穴式石室墓からの改葬であると言えるのです。さて、丸山古墳に最も近しい墳墓、それは今のところ石舞台だけのようです。

 斑鳩東方朔 ≪陰陽の風 03≫

§9 牽牛子塚古墳は皇祖母陵、

多氏と秦氏、その3
 多氏は神武直系の皇別氏族です。神武記の系譜は、多氏一色で塗りつぶされているといっても過言ではありません。いってみれば、日本全国津々浦々に多氏がいるということです。秦氏もまた、多氏に劣らず日本全国に居を構えています。このことは、多氏が秦氏を率いてか、あるいは多氏が秦氏に誘導されてか、いずれにしてもこの両氏は何らかの繋がりを持って全国に散らばっていったと思われます。

多神社は神八井耳命そのもの  今回は二番目の課題、牽牛子塚古墳と多氏・秦氏とのかかわりについての私見を述べてみましょう。その前に、多氏の系譜と秦氏の寝屋川近辺の居住地について、少し述べておきましょう。河内国茨田郡には、幡多郷、秦村、太秦村があり、摂津国豊島郡には、秦下郷、秦上郷があります。どちらの郡にも秦氏が多数居住していたことが、これだけのことからでも確認できると思います。ちなみに、『記』では、これら二つの郡とかかわりのある茨田連と豊島連は共に日子八井命の子孫となっています。下に示したのは、『記』による系譜です。なお、手島連は豊島連、意富臣は多臣のことです。

神倭伊波礼毘古命神武天皇







日子八井命(茨田連の祖・手島連の祖)


神八井耳命(意富臣・小子部連・坂合部連・雀部臣ら合わせて20氏の祖)

神渟名川耳命綏靖天皇
・伊須気余理比売

 さて、この系譜から何が言えるでしょう。そう、言えることは、一つしかありません。それは、皇祖神武の直系はすべて多臣にかかわる氏族だということです。大臣クラスでも豪族クラスでもない多氏になぜこのようなことが豪語できるのか、それは、とりもなおさず神武陵の真北に多神社があるということに他ならないからです。そもそも、多臣の祖、神八井耳命の引き受けた役目は、「記紀」にもあるように、神祇を掌る忌人(いはいびと)となることだったのです。
 神祇とは、天神地祇のことで、この場合は天ツ神と国ツ神とになります。多神社は、南に天ツ神の神武を、東に国ツ神の三輪山を奉ることの出来る位置にあります。『紀』によれば、神八井耳命畝傍山の北に葬られたとあります。多神社の地は正にそれに適合します。
 神八井耳命は、多神社に祭られていますが、この神は自らが祭られると同時に自らも天神地祇を奉る神でもあるのです。このことは、伊勢の祭神天照にも当てはまることで何ら不思議はありません。神や仏を拝んでいた老人が、やがては仏になって拝まれる。日常茶飯事、古代より続く見慣れた光景です。

牽牛子塚古墳の前身、益田岩舟  さて、1図のもう一つの課題、牽牛子塚古墳と二氏とのかかわりですが、この答えは、既に安万呂の道標に見えています。すなわち、益田岩舟がその答えです。なお、今回、神武陵の位置を少し変更しました。詳しくは、章を改めて説明していくことになります。
 益田岩船は飛鳥の石造物の一つで、非常に巨大なものです。今日、この岩船は、他所から運び込まれたものではなく、最初からこの場所にあったものとされています。このことは、本来多神社は、この岩船と三輪山とを同時に奉るために建てられた神社であったことを物語っています。と申しますのも、益田岩船と三輪山と多神社とを直線で結ぶと、きれいな直角三角形が出来るからです。≪下図参≫
f:id:heiseirokumusai:20151211200250g:plain 三輪山、香具山、丸山古墳が鬼門軸上に載ることは既に話しましたが、今回新たに岩船が加わりました。丸山古墳以外は自然物ですから、非常に起こり難い偶然というほかはありません。しかし、こうした偶然を見つけ出し、これを利用するということは、とりもなおさず、古代人が何よりも陰陽五行思想の観点から自然を見つめていたという証でもあります。
 しかし、ある程度の誤差はともかく、自然を完璧なまでに利用することは現代に於いても不可能です。それは益田の岩船も同じです。岩船については次のような説明がウィキペディアにあるのでこれを載せます。

横口式石槨の古墳・横口式石槨の建造途中で石にひびが入っていることが分り放棄されという説。その後別の石を使って完成したものが、岩船から南西(東が正しい)へ500メートルほど行ったところにある牽牛子塚古墳であるという。東側の穴と違って、西側の穴には水がたまらない事からも亀裂が入っている事がわかる。

 益田の岩船が横口式石槨の陵墓として造られようとしていたことは、丸山古墳との関係から確かと思われます。また、牽牛子塚古墳が岩船の後継であることも、本墳が岩船のほぼ南東に位置することからして確かと思われます。なぜなら、南東は天門・風門ライン、法隆寺・多神社・吉野宮そして伊勢内宮のラインだからです。そしてそうならば、益田の岩船は法隆寺あるいは多神社となり、牽牛子塚古墳は吉野宮あるいは伊勢内宮となります。

牽牛子塚古墳は皇祖母陵  古代人は、益田の岩船を陵墓とすることには失敗しましたが、牽牛子塚古墳をその後継とすることで、真北の笠縫邑より東南に八卦地母神葛城山を拝することをも付け加えることが可能となり、災いを転じて福と成したわけです。これこそが、陰陽五行の真骨頂なのです。古代人が、八卦や陰陽五行を自在に操って、大和の地にまほろぼを築こうとしていたことだけは、上の図からも読み取れると思います。
 ところで、益田岩船が陵墓として完成していたとしたら如何でしょう。多神社ー父(神武)ー母(岩船)という並びになるのではないでしょうか。神武は初代の天皇です。いってみれば皇祖父です。そうしますと、母は当然皇祖母ということになります。牽牛子塚古墳を益田岩船の後継とすれば、牽牛子塚古墳は皇祖母の陵墓となります。
 皇祖と呼ばれる神あるいは人は『紀』の中には何名かいますが、皇祖母尊の号を奉られているのは皇極斉明だけです。そうすると、俄然生きてくるのが牽牛子塚古墳を斉明陵とする説です。この説は古くよりあるようですが、近年この古墳の近くから大田皇女のものとされる墳墓が発見され、この説はさらに強固なものとなってきています。

大和を覆う幾何学文様  詳細は省きますが、牽牛子塚古墳は、見瀬丸山古墳同様それぞれの時代の頂点を極めているといっても過言ではないほどの規模と豪華さを備えた古墳です。しかし、見瀬丸山古墳がそうであるように、本墳も陵墓の指定はありません。また、「記紀」にも何も記されてはおりません。しかし、人は語らずとも、この二つの墳墓は安万呂の道標の中で、大和を見守るように配置されているのです。
f:id:heiseirokumusai:20151211200509g:plain  日本で最初の条坊制都市、藤原京。直交する直線が描く賽の目で覆われた世界です。この賽の目で覆われた世界を、二つの直角三角形a・cと一つの平行四辺形bとが互いを補い合うように、さらに覆いかぶさっています。今話題としている牽牛子塚古墳は、その平行四辺形bの一つの頂点にあります。
 牽牛子塚古墳、畝傍山三輪山、そして舒明陵(段ノ塚古墳)、この四つを直線で結ぶと、きれいな平行四辺形が出来ます。これは偶然ではあり得ません。それに、天武系の祖の舒明陵がこの位置にあるのは不自然です。また、牽牛子塚古墳は益田岩船との関係から位置を変えることは出来ません。したがって、この平行四辺形を成立させるためには、舒明陵をこの位置へ持ってくるのが最善の方法です。それに『紀』によれば、皇極二年九月に舒明天皇は改葬されたとあります。
 ところで、舒明天皇は最初どこに葬られていたのだろうか。『紀』には滑谷岡(なめはさまのおか)とあります。比定地は明日香村の外れの山中、これもまた天武系の祖としては不自然な場所です。思いますに、元舒明陵は野口王墓(天武陵)のある鬼の俎板や鬼の雪隠の辺りにあったとするのが自然と思われます。あるいは、そのいずれかが本来の舒明陵であった可能性もあります。現舒明陵には二つの石棺があると聞きます。双墓(ならびのはか)と言われている鬼の俎板と雪隠、二つとも舒明陵に移したと思えなくもありません。ただ、石棺である点に疑問は残ります。
 既に述べたことですが、牽牛子塚古墳は(単なる)八角墳です。しかし、舒明陵は上八角下方墳です。墳形としては舒明陵の方が明らかに新しい形です。つまり、舒明陵はいつの時代かに、おそらくは文武天皇の時代に山科山陵と一緒に造られたものと思われます。なぜなら、山科山陵も上八角下方墳だからです。また、『続日本紀』文武三年十月に載る越智山陵と山科山陵の造営の記事、この中の越智山陵を段ノ塚古墳(現舒明陵)とすれば、つじつまがすべて合います。それに何より、『紀』のいう皇極二年の改葬記事に合わせたのでは、舒明陵は上八角下方墳どころか単なる八角墳の可能性もありません。
 それはさておき、この平行四辺形の意味するものは何なのか。そこで、当時の人に畝傍山と問えば、どのような連想をするかを想像してみましょう。おそらくそれは、神武と畝傍の橿原宮ではないでしょうか。そして、さらに続けて三輪山と問えばどうでしょう。当然、神武の后、三輪山の神の娘ヒメタタライスズヒメが答えとして返ってくるはずです。つまり、平行四辺形の四つの頂点のうちの二つ、畝傍山三輪山とで夫婦を表しているということなのです。
 どうやら、牽牛子塚古墳は舒明の后、斉明の陵墓であると言う他はないようです。すなわち、この四辺形に囲まれた藤原の宮は、神武の子孫、舒明の子孫にふさわしい都なのです。
 さて、牽牛子塚古墳が皇祖母の墓となれば、当然多氏はその子孫です。また、秦河勝が茨田連の血族だとすれば、これもその子孫となります。仮に血族でなかったとしても。秦大蔵造万理は皇孫建王を奉る子孫と言えなくもありません。それになりより、秦氏は皇祖母斉明とのつながりだけでなく、もう一方の皇祖母ヒメタタライスズヒメとのつながりもあった可能性があるのです。
f:id:heiseirokumusai:20151211200815g:plain  神代紀および神武紀によれば、ヒメタタライスズヒメ三輪山の神の娘であると同時に三島のミゾクイの神の孫でもあります。三島のミゾクイの神の三島とは、秦氏がその名前を地名に残すほど居住していた豊島郡と茨田郡との間にある摂津国三島郡のことです。また、ミゾクイの神のミゾクイは溝杭とも表記でき、灌漑技術とかかわりのある神の名とも受け取れます。灌漑技術の神といえば、秦河勝もまたそう呼べなくもありません。
 秦氏が、天皇家外戚あるいはその祖と何らかのかかわりがあることは確かと思われます。なお、この地には讚良郡があり、野讚良の諱を持つ持統天皇とのかかわりも考えなければなりません。彼女の諡、高天原廣野姫には皇祖母の意味もあるのです。

 斑鳩東方朔 ≪陰陽の風 09≫

§8 秦造河勝と常世神信仰。

多氏と秦氏、その2
 古代人はあらゆるものを陰と陽とに分けました。同じものをもです。ものには裏と表があります。太陽が山の東に昇れば、山の西側は影となります。しかし、太陽は時間と共に移動します。太陽が西に傾けば、今度は山の東側が影となります。同じ一日、同じ山でありながら陰陽は時間と共に移り変わってゆきます。太陽が東より揚がり、西に隠れるのは自然のならいです。陰陽の変化と循環もまた自然のならいです。陰陽思想は自然に即した思想なのです。季節変化の明瞭な日本では、自然と受け入れられた思想と思われます。
 実際、日本の陰陽思想は独自の発展を遂げています。「記紀」の書かれた時期のこの思想の最先端では、神霊の持つ二面性の陰陽化を既に終えていたと思われます。神霊を荒魂(あらたま)と和魂(にぎたま)の二つに分けて奉っていたことがその証です。神霊の持つ二面性、これが最も激しく現れる自然現象は川です。稲作を始めてより河川のそばから離れられなくなった民族が直面した河川の恵みと氾濫、陰陽に善悪は無いように河川にも善悪はありません。しかし、洪水は容赦なく人も家屋も田畑も押し流してゆきます。

桂川富士川  桂川は京都を流れる川、富士川は静岡を流れる川。誰もが知る事実です。しかし、この二つの川が同じ名前だということを知る者はあまりいないと思います。しかし、この二つの川に、秦河勝がかかわっていることは、おそらく多くの人が知っていると思います。
f:id:heiseirokumusai:20151203205447g:plain  河勝の時代、富士川は平地部に出ると東遷し、桂川のように蛇行を繰り返し田子ノ浦港あたりに流れ出ていたといわれています。図の旧河道は、その想定図です。ただし、正確ではありません。河道の南側は氾濫原で、江戸時代までたび重なる水害に見まわれていたそうです。当然、河勝の時代もそうであったはずです。さて、河勝はこの川に、名前どおりに勝てたのだろうか。
 皇極3年7月、葛野の秦造河勝は常世神信仰を勧める不尽河(富士川)の大生部多を打ち懲らしめたとあります。この物語は普通、人々を惑わす、いわゆる新興宗教咎めた話として解釈されていますが、ここでは河勝と川とのかかわりという観点から話を進めて行きたいと思います。実は、この物語から生まれる連想は、以外とも言える歴史の断片や古代人の頓知を導き出してくれるのです。そこで、先ずはこの物語の要点を少しまとめておきましょう。

  1. 場所は、不尽河(富士川)のほとり。
  2. 時期は皇極天皇の時代。(この時の河勝の推定年齢、80~90才)
  3. 常世神信仰とは、富と長寿をもたらす不老不死を唱える宗教。
  4. 信者は、この神に対して財産の喜捨を行わなければならない。
  5. この神は、橘につく虫で、蚕に似ている。(常世の橘の話は垂仁記に、虫の話は仁徳記にあり)
  6. 河勝が大生部多を打ち懲らしめる。

以上を、川とのかかわりで捉えた場合、先ず、目に付くのが4番目だと思います。4は、信者が財産を失うことを意味しています。つまり、洪水によって財産を失うことにつながります。4をそういった意味で捉えると、今度は、3が川のもたらす恩恵を意味しているという風に見えてまいります。そこで、この恩恵の中に長寿があることに注目して1を見ると、不尽河には不死川の意味も訓みもあることに気付きます。そして、長寿ということでは河勝もまた長寿だということが2より分かります。
 ところで、この大生部多という名前、この名前からどのような連想が可能ですか。単純には、大きく多く生きる、つまりは長寿だということではないでしょうか。ということは、この物語は、元々は長寿比べの話ではなかったのだろうかと。とは申しましても、川同士のことでありますから恩恵比べということになります。
 葛藤という言葉があります。仏教用語だそうですが、日本ではこれを争いとか揉め事という意味で使っています。さて、富士川は、不尽河とも不死川とも藤川とも表記出来できます。一方、桂川は葛川とも出来ます。もともと桂川は、河勝の住む葛野(かどの)を流れる葛野川だったのですから、葛川が桂川になったとするべきでしょう。葛はカズラのことでカツラともいいます。藤もカズラのことで葛の仲間です。葛藤という言葉は、人の心の迷い、心中での善悪の戦いと言うのが本来の意味です。つまりは、身内同士の争いを意味しています。大生部多が秦の一族という説も、あながち無視は出来ないのかもしれません。
 さて、5の場合ですが、なぜ河勝は勝てたのだろうか。思いますに、桂川富士川と同様の暴れ川であった可能性があります。秦氏の当初の居住区域は嵯峨野あたりだとされています。これは、桂川の氾濫区域を避けてのことと思われます。しかし、そこは高燥地の荒野です。即、定住が出来るというわけではありません。そもそも、秦氏が、葛野という水田耕作に不向きな地域のさらに不向きな嵯峨野に居を構えることが出来たのは灌漑用堰堤、葛野大堰(かどのおおい)があったためです。
 葛野大堰に関する情報は風聞に頼る他はないのですが、秦氏つまりは河勝が造ったとするのがこの物語の趣旨に合うように思われます。なぜなら、桂川も本来は富士川と同様に財産を奪うだけの川であったのが、河勝が葛野大堰を築くことで、富をもたらす川となった。このことが、桂川即ち河勝が富士川即ち大生部多 に優るという当時の世論を引き起こし、その結果、皇極紀に載るほどのわざ歌やこの物語が生まれた。つまりは、無理の無い物語の解釈が可能となったわけです。
 しかも、そう解釈することで、次のような推論も成り立つようになるのです。それは、河勝は富士川には行っていないということです。なぜなら、河勝が行けば、富士川もまた富をもたらす川となるからです。つまり、この物語の本当の意図は、富士川を制することの出来るのは河勝だけだという褒め囃子なのです。
 では、なぜ富士川でなければならなかったのだろうか。葛藤に合わせるために富士川(藤川)を選んだのだろうか。それはありうることです。例えば、葛は葛城氏つまり曽我氏を意味します。一方、藤はそのものずばり藤原氏を意味します。そして、面白いことに、ここでは曽我氏が藤原氏に勝つ話となっているのです。しかも、曽我氏と藤原氏は同属だとも言っているのです。あるいはこれが史実かもしれません。しかし、これについては別の機会にいたしましょう。

東に流れる川、西に流れる川  神霊の二面性、川の二面性については最初に述べました。また、神霊の二面性を荒魂と和魂とに分けたことも述べました。そこで、川を分けた場合どうなるかを考えてみましょう。次の図を見比べて下さい。
f:id:heiseirokumusai:20151203205754g:plain  単に賽のように曲がるということでは両者は同じですが、古代人はこの両者を同じようには見ていません。千種川の場合、古代人はこれを明らかに太秦として捉えています。その証拠に、ここには秦河勝の墓が存在します。河勝の墓は、坂越浦に浮かぶ生島にあるそうです。無論、これは単なる伝承でしかありません。 事実、河勝の墓は他にもあるのです。それは、太秦の北を流れる寝屋川の北岸です。無論、この地の墓も単なる伝承でしかないでしょう。しかし、本家本元の太秦、ここには伝承さえもありません。あるのは、かって広隆寺境内にあった石塔がそうではなかったかという伝聞だけです。それは、なぜなのか。
 その前に、大井川を見てください。大井川は、日本武の時代、焼津の方に向かって流れていました。当時、焼津近辺で船の乗り入れられる河口は、この大井の河口しかなかったはずです。つまり、日本武の焼津での話はこの大井川より始まるということです。彼はここで賊に欺かれ、火責めに遭っています。
 ところで、この話の舞台、『古事記』では相模の国になっています。また、欺いたのは国造となっています。国造とは、ある地域の支配者で、ある意味ではその地域の土地神ともいえる存在です。そこで、もし日本武を欺いたのが国造で、その結果を受けて、『紀』国造を賊と表記したのだとしたら、ここでの土地神は大井川の神そのものということになります。また、『記』の場合は相模川ということになります。
f:id:heiseirokumusai:20151203210122g:plain  これまで五つの川の図を提示しました。千種川を除いた残りの川、これらには無視の出来ない共通点があるのです。それは、山あいから平地に流れ出すとき、必ず西に向きをとるということです。これは太秦とは全く逆の流れ方です。そう、太秦の流れ方は和魂、桂川の流れ方は荒魂なのです。
 倭建の東征は、景行天皇の、東方の荒ぶる神を言向け和平(ことむけ やわせ)という命令より始まっています。倭建にとって、あるいは「記紀」編者にとっては、大井川も相模川桂川(荒魂)なのです。ちなみに、桂川は葛野大堰(おおい)があることに拠り大井川とも呼ばれています。また、相模川の上流には桂川葛野川と呼ばれる川があります。葛も藤も蔓草の仲間です。つまり、これら四つの川は蔓草のような流れの川として古代人に捉えられていたのです。氾濫と豊穣、川もまた、葛藤をしているのです。
 どうやら、秦の河勝の墓が現太秦には無い理由が見えてきたようです。そう、現太秦には、西に流れ、しかも賽のように曲がって流れる川が無いのです。もし河勝の墓が京都にあったのだとしたら、その墓は、天神川の西に曲がるあたりから南に曲がるまでの間にあったと思われます。
 それならば、西に流れる川が何を意味するのか、またなぜ和魂なのか、少し連想をしてみましょう。先ず思いつくのが西方浄土の思想だと思います。これは確かでしょう。河勝は仏教徒ですし。しかし、東を荒魂とする思想は仏教からのものではありません。
 荒魂は、新魂とも呼ばれています。新魂と東、この二つから来る連想は日の出です。新たなる太陽は東より生まれます。なかなか良い連想の運びですが、まだ一歩足りないようです。そう、陰陽五行の思想が入っていません。
f:id:heiseirokumusai:20151203210427g:plain  陰陽に季節を配置すると、陰が冬で陽が夏となります。その中間が春と秋です。これに四門をあてがうと図Aとなります。五行では、春は東を指しますから、春を東に合わせると図Bとなります。これによって東が鬼門となります。鬼門は少男、若猛るの荒々しさを象徴します。雄略天皇は、大泊瀬幼武尊とも大長谷若建命とも表記されます。どちらも読みは、おおはつせのわかたけるのみこと です。泊瀬(初瀬)は、大和の東に在ります。そのせいか、彼は大悪天皇と呼ばれています。しかし、この地を流れる初瀬川は西に流れています。そのせいか、彼は有徳天皇とも呼ばれています。

 日は東に生まれ、西に沈みます。人もまた、東に生まれ西に逝く。西に流れる川の如くに人生を終える。それが自然の習いだと、古代人がそう思ったとしても不思議はありません。現に、人に災いをなす川は東に流れ、国家にまつろはぬ蝦夷は東に住んでいます。東征したとはいえ、倭建は帰途病没しています。東は鬼門なのです。病没後、倭建の魂は白鳥となって西に飛び立っています。鬼門軸は霊魂の移動軸。世にいう魂振りとは、東に留まる霊魂を西の浄土に送り出すのが本来の目的と思われます。

 斑鳩東方朔 ≪陰陽の風 08≫

§7 秦の河勝と茨田の堤。

多氏と秦氏、その1
 前節で、田原本町秦庄と田原本町多とを組み合わせることで太秦が生まれました。これを不思議と感ずるよりも、馬鹿げていると思う方のほうが多いと思われます。そこで、もう少し付け加えておきましょう。

太秦の意味するもの  多氏と秦氏とのかかわりを「記紀」の中に見つけることは出来ません。しかし、多と秦庄とをさらに重ね合わせてみると、見えなかった関係が「記紀」の中に見えてまいります。
f:id:heiseirokumusai:20151127014017g:plain  1図は、多神社と秦楽寺とを重ね合わせた状態を表現したものです。この図によれば、多氏と秦氏は神武の子孫ということになりますし、同時に牽牛子塚古墳の子孫ともなります。また、多神社は伊勢の斎宮ということにもなります。都合三つほどの大きな課題がこの図より生まれたことになります。そこで、先ず今回は、神武の子孫という課題から始めることといたしましょう。
 最初に、多氏の場合。「記紀」には多氏の祖は、神武の子の神八井耳命とあります。多氏は間違いなく神武の子孫です。次いで、秦氏秦氏については、応神の時代に渡来してきたという以外は分かりません。したがって、多氏と秦氏との関係を直接「記紀」から引き出すことは不可能です。しかし、田原本町でもそうであったように、太秦とのかかわりからそうした関係を「記紀」から導き出せるのです。

 寝屋川市太秦の地名があることは既に述べていると思いますが、この市には他にも市西部に古代史上の難工事と目される茨田堤が築かれたとされる古川が流れており、また、これを記念するための茨田堤碑が古川の本流淀川左岸に建立されてもいます。
 さて、この茨田堤ですが、仁徳記では茨田堤は秦人に造らせたとあります。他方、仁徳紀には、茨田連がこの築造に携わっていたことが記されています。その茨田連ですが、これが神武の子孫なのです。神武記によると、茨田連の祖は日子八井命だとあります。日子八井命は、多氏の祖である神八井耳命とは、同じ父母を持つ兄弟同士で、紛れもなく神武の子孫ということになります。

父・神倭伊波礼毘古命神武天皇







日子八井命(茨田連の祖)


神八井耳命(多氏の祖)

神渟名川耳命綏靖天皇
母・伊須気余理比売

 そこで、「記紀」それぞれの記事の中で茨田堤にかかわるとする秦氏と茨田連との間に何らかの血縁関係があったとしたら、当然、秦氏もまた神武の子孫ということになります。また、そうではなかったとしても、茨田堤を通して茨田連と秦氏がつながりを持つということだけは「記紀」の突合せから導くことが出来ます。どうやら、多氏が寝屋川の太秦秦氏とつながったようでもあります。しかし、これだけではまだ十分とはいえないかもしれません。しかし、秦河勝が茨田連衫子(ころものこ)だとしたら如何でしょう。  

 しかし、この説明の前処理として、太秦の意味を少し考えて見ましょう。全くの私見というほかは無いのですが、茨田堤の築造技術とのかかわりでの呼び名ではないかと考えております。と申しますのも、仁徳紀では茨田堤の築造に際して人柱を立てたとありますが、茨田連衫子だけが別の方法を用いて完成させたとも読み取れる節があるからです。どのような方法か、それは分かりません。ただ、言えるのは、垂仁紀に、野見宿禰が殉死に代えて埴輪を用いたとあります、それと同じことが、ここでも起こったということではないだろうかと。
 人柱や殉死の風習が古代の日本にあったとは思われません。それに、そういった遺物はまだ発見されていないと聞きます。ただ、これと良く似た風習が古代の日本にあったことも確かです。それは持衰(じさい)です。西日本の各所から発見された、弥生時代の戦死者とされている受傷人骨。私は、それらの殆どが持衰ではないかと思っています。
 それはさておき、中国大陸あるいは朝鮮半島より伝わった新たで高度な土木技術。この技術を駆使し、従来の旧習を一掃したのが、野見宿禰や茨田連衫子(秦河勝)らではなかったのか。そして、こうした技術と一緒に、ある意味での宣伝効果を生むための人柱や殉死の話も伝わった、そう考えるべきでしょう。

 さて、秦河勝と茨田連衫子との関係ですが、この二つの名前、実は、全く同じ意味合いを持っているのです。先ず、姓としての秦ですが、秦は「はた」とも「はだ」とも読みます。通説では、「はた」は機織の機に由来するもの、「はだ」はその製品の褒め言葉、肌に由来するもの、とされています。いずれにしても、秦の訓みは、布や衣服、特に柔らかい肌着を指していると思われます。一方、衫子の衫(ころも)は、衣のことです。衫は薄い布で出来た肌着を意味してもいます。つまり、どちらも同じものを指しているのです。
 次に、河勝ですが、これはそのものずばり河に勝つということです。当時のことですと、正確には、河伯(川の神)に勝つということです。一方、茨田連衫子は、人柱という非情な河伯の要求を退け、これに打ち勝っています。やはり、これも同じ意味合いを持ちます。
 以上のことから、私は、秦河勝と茨田連衫子とが同じ人物であると結論づけました。無論、秦河勝と茨田連衫子との間には、前者が用明天皇の時代の人物であるのに対し、後者は仁徳天皇の時代の人物であるという大きな時間の差があることは確です。しかし、上も下も巨大古墳造りにいそしんでいた仁徳の時代に、茨田堤という公共事業が行えたとは、とても思えません。それになにより、「記紀」が、崇神や垂仁の時代に出来たとする狭山池の築造年代が、今日では7世紀の前半期に設定されるようになってもいるのです。したがって、茨田堤を仁徳11年の4世紀前半に位置づける必要はなくなってきているといえます。
 しかし、それならば、茨田堤が築かれたのは、実際いつ頃の時代なのだろうか。私は、茨田堤が築かれたのは大陵命(おおみささぎのみこと)の時代だと考えています。と申しますのも、鷦鷯(さざき)はささぎとも訓めるからです。

 ここで、少し連想をしてみましょう。「記紀」は、茨田堤が築かれたのは大さざきのみこと(仁徳天皇)の時代だとしています。さざきは、『紀』では鷦鷯、『記』では雀の字をあてています。鷦鷯はミソサザイ、雀はスズメのことです。『紀』と『記』では全く違った鳥を指しているのです。それぞれ違う鳥を指していながら、それでいて、共に仁徳を指しているわけですから、大さざきは鳥の名前ではないということになります。それに、仮に鳥のことだとしても、どちらも小さな鳥でしかありません。これでは、大さざきは、大きい小さな鳥というわけの分からない意味を持つことになります。
 ところで、応神天皇仁徳天皇は同一人物である、という説のあることをご存知でしょうか。この説は、『記』に応神を大雀命と呼んでいることから生まれたもので、それなりの理由のあるものだと思いますす。しかし、ここでは同一人物として捉えるのではなく、ある仮説の下に連想を進めていきます。その仮説とは、「記紀」編纂者が大さざきを、応神・仁徳共通の呼び名として用いた、と。
 応神と仁徳に共通のものとは何か。「記紀」を読んでも、そんなものはありません。それに「記紀」の編纂者が「記紀」を編纂する以前に「記紀」を読むことは出来ません。では、編纂者は何によって共通のものを見出したのか。実は、そのものを見つけ出すことは、現代の我々にとっても非常に簡単なのです。無論、彼らにとってもそうです。なぜなら、それは山のように大きな巨大古墳だからです。つまり、応神・仁徳に共通する呼び名とは大陵命(おおみささぎのみこと)なのです。
 さらに連想を進めましょう。下に示したのは、すべて全長300メートル以上の墳丘長を持つ巨大古墳です。そして、すべてが大陵命(おおみささぎのみこと)の墓と呼び得るものです。

大仙古墳(河内・中期)
上石津ミサンザイ古墳(河内・中期)
河内大塚山古墳(河内・後期)
渋谷向山古墳(大和・前期)
 ・誉田御廟山古墳(河内・中期)
 ・造山古墳(備前・中期)
 ・見瀬丸山古墳(大和・後期)

 全国で墳丘長200メートル以上の大規模古墳は、全部で38基ほどがあるそうです。しかし、その中で後期古墳とされるものは、河内大塚山古墳と見瀬丸山古墳のわずか二つにすぎません。しかも、この二つの古墳は、いわゆる孤立墓で、他の大王墓とは違って、周辺に同時代の大型古墳を伴ってはいません。このことから、この二つの古墳の時代、巨大古墳が築けたのは大王だけであったとする仮説が成り立ちます。もし、この仮説がまちがいでは無いとするなら、この時代の大王にあらゆる権力が集中したことを意味し、その結果、大規模な公共事業とでも言い得る茨田堤の築造に着手が可能になったと言えることになります。
 さて、『記紀』が編纂された時代は大和の時代です。当時の大和において、大陵命(おおみささぎのみこと)と呼ばれ得る古墳は、平城京中軸線上にある見瀬丸山古墳をおいて他にはありません。その丸山古墳が築かれたのは6世紀末と推定されています。仮に、茨田堤がこの古墳の主の時代に築かれたのだとしたら、秦河勝が仕えた用明天皇の時代と近くなります。そうなれば、当然、茨田連衫子が秦河勝であるという可能性は俄然大きくなることになります。

 最後に、茨田堤について、少し私見を述べさせていただいて、この章の終わりといたしましょう。茨田堤は、古代史上有名な公共土木事業なのですが、今日でもそうであるように実態は庶民にはあまり知らされていないようです。下の図は非常に不完全なものですが、あえて、参考のため掲げました。これも、茨田堤の資料がほとんど無かったからです。
f:id:heiseirokumusai:20151127015519g:plain  仁徳紀によれば、茨田堤は、淀川の水を直接河内湖に流れ込ませないためのものと読めます。通説では、この堤は、寝屋川市の太間あたりから始まり大阪市旭区千林あたりまで続くらしいのですが、その堤の築かれた古川を、現代地図の上で、千林あたりまで完全にたどることは出来ませんでした。今日、古川はかっての河内湖あたりまで延びており、どこから西流させたのか、残念ながら適切な資料を見つけることが出来ず、これも分かりませんでした。この図では、門真市宮野町の堤根神社あたりから西に向けて描いてあります。無論、いわゆる適当にです。
 しかし、全くのいい加減というわけではありません。それなりの理由はあります。
f:id:heiseirokumusai:20151127015728g:plain  左の拡大図が、その理由の答えです。古川は、この箇所で大きく西に流れを変えています。そう、ここはまさしく太秦です。この地を守る堤根神社の祭神は、茨田連の祖、日子八井(耳)命です。ここでは、茨田連と太秦がつながっています。茨田連と秦氏、限りなく近づいてきたようです。
 なお、古川沿いに築かれている堤は「記紀」にある茨田堤ではないという説があります。こうした説があるのも、茨田堤については不明な点が多過ぎるためと思いますが、古代史というものは、分かっているようでいて、分かっていないことの方が多いということを、この茨田堤でつくづく感じさせられました。しかし、そうであるからこそ、素人の連想が活きて来る機会もあるというものかもしれません。

 斑鳩東方朔 ≪陰陽の風 07≫