昭和は遠くなりにけり

古代に思いを馳せ、現在に雑言す。・案山子の落書・

§6 太秦と川。

斎宮、笠縫邑、秦楽寺、そして太秦
 伊勢内宮は瀧原宮を遷したもの。瀧原宮は吉野宮を遷したもの。では、斎宮は如何なる宮を遷したものなのだろう。
 これはそれほど難しい課題ではありません。というのも、伊勢内宮にしろ瀧原宮にしろ、その造宮の基本は、それらを吉野宮の真東に位置させることだったからです。従って、斎宮も、何かの宮を真東に遷したものと考えればいいわけです。つまり、斎宮の真西にどのような宮があるかという事になります。無論、理想の地形の上でのことではありますが。
 結論から先に申しますと、それは秦楽寺となります。正確には、笠縫邑というべきかも知れません。崇神紀6年の記事に、宮中に祀られていた天照大神倭大国魂神を皇居の外に移し、天照大神を豊鍬入姫命に託し、笠縫邑に祀らせたとあります。そう、この記事中の笠縫邑のことです。
 今日、笠縫邑の候補地としては、この秦楽寺の他にもいくつかあります。しかし、現斎宮と地形的に似通ったところとしては秦楽寺の他はあまりないように思われます。なお、現斎宮の跡地は東西二キロ南北七百メートルもある広大なもので、現秦楽寺の境内とは比べ物にはなりません。したがって、秦楽寺、ましてやその中の笠縫神社をそれとするのではなく、もっと広い意味での笠縫邑として捉えた方が良いかも知れません。しかし、どうしても正確にというのであれば次のような方法があります。
f:id:heiseirokumusai:20151120210654g:plain  左図は、秦楽寺の置かれた位置関係図です。この図から、笠縫邑を点として捉えることが可能となります。その点とは、葛城山の北東に伸ばした直線と、牽牛子塚古墳の北に伸ばした直線との交点がそれです。
 逆に申しますと、こうした関係図が描けるということが、秦楽寺が笠縫邑であるといえることにもなるのです。なお、図中の神武陵は現今の陵とは違って「記紀」の言う神武天皇陵です。
 ところで、秦楽寺と書いてはおりますが、どう読むべきでしょうか。シンラク寺でしょうか、それともハタラク寺でしょうか。実は、ジンラク寺と読みます。秦楽寺と書いて、何故ジン楽寺と読ませるのか、それは分かりません。だだ、この寺は田原本町秦庄という所にあります。秦庄という地名がいつ頃からあるのかはわかりませんが、秦庄というからには、秦氏との関わりがあると思われます。おそらく、そこに、ジンにどうしても秦をあてがわなければならない理由があったのだと思われます。

 なお、秦は呉音では "ジン" と発音します。奈良時代以前は基本的に呉音の時代ですからあるいは従来からの呉音の "ジン" がそのまま残ったのかもしれません。それとも、本来は神楽寺であったものを秦庄にある関係から秦楽寺としたのかもしれません。神も呉音では "ジン" と発音します。ただし、秦氏の秦は あくまで"ハタ" であってシンでもジンでもありません。ただ、秦河勝の後裔と称している世阿弥が申楽という文字を用いています。申は神の字に近く興味を引くところではあります…
 さて、普通、秦氏と寺といえば、聖徳太子との関係で語られることが多いのですが、推古後の飛鳥時代に限った場合、斉明天皇との関わりが最も深いようです。斉明四年五月、皇孫建王が八歳で亡くなっています。斉明は、この皇孫の冥福のために秦大蔵造万理に何かを作らせています。私は、これが、斑鳩中宮時に残る天寿国曼荼羅繍帳だと思っています。

太秦と川  さて、斉明は、天皇の二年、吉野の宮を作らせています。実は、これにかかわっているのが秦氏なのです。秦氏がどのようにかかわってくるか、太秦の位置する地形から話を始めてまいりま しょう。
f:id:heiseirokumusai:20151120210942g:plain
上図三図は、すべて太秦という地名です。2-1図には太秦は載ってはいませんが、田原本町秦庄と田原本町多とを組み合わせると太秦が出来上がります。なぜなら、多安万呂は太安万呂でもあるからです。
 無論、これでは判じ物となります。しかし、我々は今日、「記紀」や「倭人伝」を判じ物として扱っています。もっとも、そうした多くは素人によるものかもしれません。しかし、年輪年代測定、同位元素年代測定、これらも広い意味での判じ物です。近代とはいえ、所詮、我々は多かれ少なかれ何らかの判じ物に頼っているのです。まして、古代人ならなおさらのことでしょう。
 「古事記序」には、日下と書いてクサカと謂い、帯と書いてタラシと謂うとあります。これは立派な判じ物です。それになにより、帝紀の撰録と旧辞の討かくを命じた天武は、「あとなしごと(クイズ)」の大家なのです。これも一私見ですが、こうしたものは天武時代に出来たのではないかと私は考えています。そして、その最たるものが太秦ではないかと。しかし、もしかしたら、秦を「はた」あるいは「はだ」と読む方が、謎が大きいのかもしれません。

 それはさておき、太秦の場所に関しての一つの仮説を立てましょう。それは、太秦のある地形は川が大きく曲がり西に向かうという共通点がある、と。
 この共通点は、前節で述べてきた、吉野宮、瀧原宮、伊勢内宮との共通点と全く同じです。都合六箇所の共通点の一致、偶然とはいえないでしょう。秦氏がこれらの三つの宮の造営に関与していることは確かです。では、それなら、これら川と地形の意味するものは何か。また、これらのものに先行するオリジナルは何なのか。また、それはあるのか、それとも無いのか。
 しかし、その前に2-3図の説明をしておきましょう。広隆寺に関しては、平安遷都前後に現在地に移転したという説があります。また、村上天皇の日記から、秦河勝の邸宅が大内裏の位置にあったことが知られています。つまり、とはいっても仮説の先取りになるのですが、元広隆寺大内裏の南、天神川の曲がりの東の位置にあったとすることが出来ます。これは、仮説からの単純な計算結果ではありますが、結果の指し示している処には古代人の基本的な思想があります。
 東西の関係、そして南北の関係には、1図からも分かるように古代人にとっては単純かつ明瞭な何らかの思想を見出していたと思われる節があります。これもまた一つの仮説ですが、太陽は東から西へと移動しますが、移動前も移動後も同じ太陽です。もし、古代人がそう考えたとしたら、大内裏の南にあった広隆寺も西に移った広隆寺もやはり同じ広隆寺です。
 つまり、ものを東西に移動させても変わらないということです。東西関係にある秦楽寺斎宮、同じく吉野宮と瀧原宮と伊勢内宮、これらはすべてそれぞれに同じだということです。そして、蘇りの南北関係、これもある意味では同じということなのかもしれません。

 さて、川の曲がり角に、古代人は何を見出したのだろうか。それは、サイの神です。川が大きく曲がるのは神の力が働いたため。神が流れをさえぎったため。古代人がそう考えることはありうることです。
 「記紀神話」には多くの神が登場しますが、古代人はどういった処に神を感じていたのだろうか。感覚としては尋常ではない処ということなのだと思います。例えば、草しかない野原の一角に巨大な岩が置き忘れられたようにあったりした場合、人が運ぶことの出来ない岩であれば、神が運んだと。そう考えるのではないだろうか。
f:id:heiseirokumusai:20151120211220g:plain  3-1図は、太秦のオリジナルとも呼べるものです。川の曲がり角にはサイの神がいます。この神はあらゆるものを遮ります。悪霊も、災いも。つまり、丸山古墳はこの神によって守られているのです。そして、そう、太秦も。そして、無論、吉野宮等もです。
 サイの神は、賽の神とも書けます。賽は、一天地六、陰陽のはかりです。形は、正方形の集まり。意味するところは正義です。3-2図は、甘樫の丘の下を流れる飛鳥川です。飛鳥川はこの丘の下で正しく、賽の川の如く曲がっています。允恭天皇はこの丘で氏姓を正したといいます。

 斑鳩東方朔 ≪陰陽の風 06≫

§5 伊勢神宮の前身は宮滝か。

大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山…  『万葉集』、巻第一の二番目に載る舒明天皇の歌です。香具山は、“とりよろう 天”と歌われるように、大和三山の中では特別視されている山です。これについては何らかの理由があるとは思いますが、今回は別の観点から、再度、四つの門の方位図を用いて考えてみることにいたしましょう。
f:id:heiseirokumusai:20151114220629g:plain  先ず、1.図の丸山古墳と三輪山を結んだラインに注目してみましょう。前にも述べたことですが、このラインはかなり正確に北東を向いています。下ツ道が丸山古墳前方部から発しているように、このラインもやはり丸山古墳前方部から発しています。香具山はちょうどこのラインの上に位置しています。
 このラインは、既に話していることですが、陰陽の境に位置する鬼門軸の通る特殊なラインです。ここでは霊魂の移動が自由で、三輪山の神即ち香具山の神、香具山の神即ち丸山古墳の神、丸山古墳の神即ち三輪山の神、‥という関係が自然と出来上がります。つまり、祖霊を神と考えるならば、天に住む神が“あもりつく”ことの出来るラインとなるのです。
 また、加えて別の特殊なラインが香具山のすぐ横を通っていることが、さらにこの山を特別視することにも繋がっているのです。その別の特殊なラインというのがこれからの課題、法隆寺から宮滝に向かう天門軸あるいは風門軸とも呼べるラインであります。
f:id:heiseirokumusai:20151114220915p:plain  左図は、既出の五行八方位・四門の図です。これまでは単に軸とかラインとかと述べてきましたが、門につながるのは道です。したがって、ここでは道として話を進めていきます。
 〝すべての道はローマにつながる〟とは西洋のことですが、大和の場合だと“すべての道は香具山につながる“となります。しかも、香具山の道はローマの道とは違い特殊な道です。それは、この道が“土行”の道だからです。
 “土”行は、五行の相克や相生では、その一角を占める一要素にすぎませんが、これを方位図に当てはめた場合、中央という性格を有するようになります。つまり、香具山の道は宇宙の中央、や国の中央を走る、天道とも王道とも呼べる特別な道なのです。したがって、この道を歩くことが出来るのは、宇宙の支配者、国の支配者、つまり神、あるいは神と目される王者のみです。
 記紀の時代の人々が、香具山を2図のAの位置にあると考えていたことは、神武紀や崇神紀で香具山の土を特別視していることからして確かと思われます。つまり、宇宙の中心の大和のそのまた中心に位置する香具山は必然的に、「天降りつく 天の香具山、天降りつく 神の香具山」と歌われる特別な山ということになり、大和の国見をするにふさわしい山ということにもなるのです。

天門と風門のライン。法隆寺から宮滝へ、宮滝から瀧原宮へ、そして瀧原宮から伊勢神宮へ。
f:id:heiseirokumusai:20151114221059g:plain このラインは方位図どおり正確に南東を向いているわけではありませんが、古代人が法隆寺を天門、宮滝を風門としていたことは宮滝のほぼ真東に瀧原宮があることから確かと思われます。
 瀧原宮は元伊勢の一つですが、現在の伊勢神宮の出来る直前にあったと思われる神社です。と申しますのも、文武天皇二年に度会郡に遷した多気大神宮は、この瀧原宮であった可能性があるからです。なぜなら、斎宮瀧原宮はほぼ北東の位置関係にあるからです。北東の位置関係は、先ほど述べた丸山古墳と三輪山、そして法隆寺聖武天皇陵とに見られるように古代においては大事なものだったからです。
 古代においても現代においてもそうですが、地形と方位とを都合に合わせて変えることは不可能です。しかし、自然は広くて大きい、ある程度の違いを認めれば、良く似た地形はあるものです。つまり、宮滝から可能な限り真東に位置し、東から西へ流れる川のある開けた場所としては瀧原宮が最適ということなのです。それになにより、宮滝、瀧原宮そして伊勢内宮、これらの地を流れる川はすべて東から西に、しかも良く似た河道を流れているのです。
f:id:heiseirokumusai:20151114221308g:plain  上図は、三つの宮(なお、宮滝は吉野宮と解釈してください)それぞれの川との位置関係を略図で示したものです。四角で囲った河道の形、三者とも良く似ていると思いませんか。しかも、宮の位置は決まって河道の曲がり角です。これを偶然とすることは出来ないでしょう。
 そう、これは偶然ではありません。宮滝を風門とみなせばすべて理解が出来ます。風門は長女でもあります。風門と長女、これは伊勢内宮と同じです。伊勢の枕詞は神風。祭神の天照は長女。伊勢は東にあるように見えますが、実は風門にもあたり、南東にもなります。つまり、伊勢は風門として天門につながっているのです。
 さて、天門に位置するのは太一です。そうなりますと、伊勢内宮の祭神は太陽と太一とういことになります。

 斑鳩東方朔 ≪陰陽の風 05≫

§4 神武東征と鬼門.

鬼門。陰陽を生み出すもの、陰陽を隔てるもの。

 古代人は万物を陰陽に分けました。先天と後天もある意味での陰陽であります。道教儒教、これも陰と陽との関係に置き換えることが可能です。古代と現代、これもまた然りでありましょう。そして最後に『古事記』と『日本書紀』、これもあるいはそうなのかもしれません。
 もし、そうだとしたら。『古事記』と『日本書紀』、これが陰と陽で、しかも安万呂の手によるものなら、陰陽を生み出す太安万侶は太極ということになります。

 陰とは何か、陽とは何か。 陽と揚。陰と隠。これら漢字の音に連想をめぐらせば、陽は日の揚がることを意味し、陰は日の隠れることを意味していることになります。そして、これによって、東を陽とすることが出来、西を陰とすることが出来るようになります。つまり、太陽の状態によっても陰陽が決められ、これも陰陽の法則の一つとすることが可能となります。そうしますと、北半球の中緯度では太陽の昇る南が陽となり⇒a、太陽の昇らない北が陰となります⇒b。
f:id:heiseirokumusai:20151110214405g:plain  1.図は東西の陰陽関係図aと南北の陰陽関係図bとを組み合わせて東西南北の陰陽関係図cとし、これを中国陸海地図の上に投影したものです。
 陰陽思想が既に固定化してしまっている現代から見れば、陸を陰とすることはともかく、海を陽とすることはおかしく映るかもしれません。しかし、この図から東西南北の陰陽関係と中国の陸海の関係とが非常に良く重なり合っているのが確認できると思います。
 そもそも、中国最初の古代文明は、南より北上してきた伝説の≪夏≫によるものといわれています。夏は北上の過程で、中国大陸は西に陸が広がり、東に海が広がる地形だということを知ったのではないだろうか。もし、これらの伝説や推測が間違いというほどのものではないとするならば、東の海を陽に、西の陸を陰とした時期が古代中国にはあったと言えなくもありません。無論、水界の海を陽とみなすことには無理があるのは確かです。
 しかし、陽である太陽は、天と地、さらには西と東、つまり陰陽の間を巡り回っています。これと同じように、陰である水は雨として陽である天より陰である地に降り注ぎ、川の流れとなって陰の大地より陽の大海へと流れ出でて行きます。すなわち、海を水の集まりとするのではなく、水の入れ物と解釈すれば、海を陽としても何ら差し支えはありません。現に日本では、天を海とも雨とも解釈します。また、日本語の漢字音に頼れば、洋は陽でもあります。

 古代人はあらゆる物を陰と陽に分けました。しかし、正確には、相反するものをと言うべきかもしれません。たとえば、天と言えば地。しかし、山と言えば、川なのか、それとも谷なのか…分かりません。しかし、陸と言えば、違うことなく海です。陸が陰なら、海は陽となります。
 中国は東南に海が開ける地勢です。古代中国の神話によれば、共工祝融と争って敗れ、怒った共工が天の柱を折ったため天が傾き、その結果大地も傾き東南が海になったとあります。この神話は、無論、実際の中国の地勢から生まれたものですが、背景にあるのは陰陽五行思想です。
 共工は、洪水を引き起こす神であるため、北に位置する“水”の神のようにも見えますが、西羌が信奉していた神ともいわれ、西に位置する“金”の神です。“金”は陰気で冷気、争いを誘う気です。洪水を起こせるのは“金生水”という相生の原理からです。一方、祝融は南に位置する“火”の神。“火”の相剋は“火剋金”、相生は“火生土”ということになります。いずれを取っても共工には勝ち目がないという話になります。

鬼門の国、日本
 さて、それならば、四方を海に囲まれた日本にはどのような神話があるのでしょう。
f:id:heiseirokumusai:20151110215036p:plain
 上図2と3とを見比べると分かるように、日本と中国は東南に海が開けているという、陰陽五行思想にとって都合の良い共通点があります。つまり、日本でも中国と同じ陰陽五行思想が根付き発展する可能性があるということです。ただ、唯一異なる点は、日本は北西にも海が開けているということであります。もしかしたら、日本では、共工祝融の神話が二つ必要ということなのかもしれません。
 周知のように、日本は北東に延びる地勢です。いってみれば、日本全体が鬼門軸のようなものなのです。しかし、そうは言っても、当時の日本に3図や4図のような正確な地図があったわけではありません。しかし、古代の中国人が、自国を北西に陸地が広がり東南に海が開ける、つまり北東に海岸線の延びる地勢だというふうに理解していたように、当時の日本人、とりわけ飛鳥時代の人々はこうしたことをかなり正確に知っていたのではないだろうか。
 下図は、神武即位前の日本の地理図、あるいは神話図です。『日本書紀』の中で神武天皇の名が出てくるのは神武紀とその子綏靖天皇の出自系譜以外は天武紀が最初です。ある意味では神武の出現は天武朝を遡ることはないということなのかもしれません。そういう意味では、この地図は飛鳥時代の神話地図といえなくもありません。
f:id:heiseirokumusai:20151110215634g:plain  地図の無かった古代ですが、北東に延びる海岸線は分かっていたと思われます。4図は、その中でも特に長い海岸線を有する箇所を4つ選んで、色づけて示したものです。
 先ずaですが、これは神話の原点とも言うべき「魏志倭人伝」の世界です。次いでbとc、これは誰もが知る正真正銘の神話、出雲神話と日向神話の世界です。dはcの延長、天孫神武の東征神話の世界です。一目瞭然とはいかないかもしれませんが、これらの世界、いずれも鬼門軸の東南あるは北西に海を臨んでいます。また、それぞれが互いに対峙する関係にもあります。
 そこで、「記紀」神話の双璧、出雲神話bと日向神話cの世界に注目してみますと。bから見てcは南に当たります。cからbを見た場合は、北もしくは東となります。しかし、cの延長d、つまり日向神話の最終目的地の大和から見た場合、bは西となります。その結果、bが西で、cが東となれば、これは、共工祝融の関係と同じです。また、出雲神話には八岐大蛇が出てきますが、共工の話にも同じような大蛇が出てきます。つまり、共工祝融に敗れることを日本の神話に直せば、出雲神話の国神が日向神話の天孫に国を譲らさられたとなるわけです。
 五行思想では、相克の関係で東は西に勝てません。西に勝てるのは南だけです。神武東征といってはいますが、この話の内容は西と南の関係です。神武の最終上陸地点は熊野です。大和から熊野を見ると南になります。また、神武は熊野から大和に東から侵入しています。つまり、大和は神武から見て西になります。これも、共工祝融と同じ西と南の関係なのです。
 ところで、共工祝融が争った結果、中国では天と大地が傾いたのですが、日本ではどうなったのでしょう。そこで、地図の向きを少し傾けてみましょう。
f:id:heiseirokumusai:20151110215913p:plain  5図は、鬼門軸と南北軸を入れ替えたものです。角度にして、45度の傾きがあります。既に述べたことですが、南北は蘇りの軸、北東は霊魂の入れ替わりの軸です。どちらも死者にとっては再生の軸です。祖霊を神とみなせば、神にとって南北軸も北東軸も同じです。神話の世界では、北東軸を南北軸としても何ら不都合は生じないはずです。
 この図を見て、先ず気付くことは、伊勢と出雲が意外なほど西と東の突端にあるように見えることだと思います。おそらく、古代人はもっと極端に感じていたと思われます。そう、出雲は国の最西端、伊勢は国の最東端と。
 そこで、もう一度やり直しますと、伊勢が東で、出雲が西なら、出雲と日向は西と南の関係。また、伊勢が東と決まれば、大和は西か南。しかし、熊野は大和の南。したがって、大和と熊野は西と南の関係。いずれも共工祝融の関係に置き換わります。つまり、西の金行が南の火行に負けて国譲りを迫られるという話がこの二つの神話の骨子です。

 “記紀”の話の中には、陰陽五行の思想から生まれた可能性のあるものが多々見受けられます。このことは、この思想が日本に根付き発展していったためと思われます。特に鬼門軸の一端、裏鬼門の思想は日本独自のものと思われます。鬼門を忌むという風習がいつ頃から起こったのかは分かりませんが、少なくとも飛鳥や奈良時代には無かったと思われます。例えば、神武東征譚。神武の出発地点は鬼門軸方向に延びる日向の海岸、最終上陸地点はやはり鬼門軸方向に延びる熊野の海岸。このことは、鬼門を避けたと言うよりも、鬼門を利用したと言うべきかも知れません。差し詰め、神に近い神武は、鬼門から鬼門へと飛び移って行ったということでいいのかもしれません。
 ところで5図、伊勢が鬼門で、出雲が裏鬼門のようには見えませんか。もし、大和から見てそのような関係が成り立つのだとしたら、f:id:heiseirokumusai:20151110220137p:plain6図のような関係も成り立つのではないだろうか。
 aは霊の行き交うライン。このラインの意味するものは、国土創生の祖と国家創生の祖との対峙です。国家は、支配する者と支配される者とで成り立っています。どちらが欠けても国家は成り立ちません。まさに陰と陽との関係です。したがって、どちらかが上でどちらかが下という関係ではありません。全くの対等です。ただ違うのは、霊が伊勢にあるときは天照、三輪にあるときは大物主となることだけです。
 bは蘇りのラインです。また、同時に神武東征のラインでもあります。その意味するところは、祖廟としての法隆寺の主、即ち丸山古墳の主が朱宮としての日向で神武天皇として蘇ったと。なぜなら、図中図cは、前節で述べた四者の関係を示した同図中図dより必然的に生まれたものだからです。
 どうやら、安万呂の道標、法隆寺・宮滝の天門・風門ラインが出雲をとおして伊勢へとつながったようです。

 斑鳩東方朔 ≪陰陽の風 04≫

§3 見瀬丸山古墳は聖徳太子の墓か。

陰陽の狭間
 安万呂の道標には二つの陰陽の狭間が出てまいります。一つは、見瀬丸山古墳と三輪山とを結ぶライン。もう一つは、法隆寺聖武天皇陵とを結ぶラインです。このラインは北東あるいは南西に向かっており、それぞれの向きで鬼門もしくは裏鬼門と言われています。ただし、鬼門とはいっても奈良時代のことであり、法隆寺聖武の場合からも分かるように今日的な鬼門の意味があったわけではありません。
f:id:heiseirokumusai:20151105001843g:plain  上の図は、陰陽五行と方位の関係を四つの段階で表したものです。最後の段階の、五行を八方位に当てはめた図を見れば分かると思いますが、北東、北西、南西、南東の四ヶ所に土行があてがわれています。土行は五方では中央に当たりますから、この場合は鬼門とか裏鬼門とかの意味は無く中央あるいは中間の意味しか持ちません。つまり、法隆寺聖武陵、丸山古墳、三輪山はいずれも世界の中央かつ中間なのです。
 つまり、陰陽の狭間とは陰陽の中間のことで、陰でもなく陽でもなく且つ陰でもあり陽でもあり、しかも陰陽が移り変わるその境を指しているのです。言葉だけですと矛盾染みた表現になってしまいましたが、図のaとbとを重ね合わせれば、陰陽が互いに打ち消し合って表面には現れなくなる境のあることが分かると思います。この場合、ab共に円の直径軸に向かうにつれて陰陽の気が弱くなり、直径軸ではそれぞれの気がなくなると同時に反転するというふうに考えると分かりやすいと思います。
 さて、陰陽の狭間というのは陰陽の影響を受けない隙間ということで、鬼が自由に出入りできる出入口つまりは鬼門とも呼ばれるのですが、『記紀』には今日的な鬼は登場していません。斉明紀に鬼が出てきますが、人々はこれを恐れているようには描かれていません。つまり、当時の鬼は、いわゆる悪霊ではなく、先祖の死霊つまりは鬼神のことだったと思われます。当時、人に害をなす悪霊は、八岐大蛇の話からも分かるように、鬼の形ではなく龍の形で落雷や風水害をもたらすと思われていたとみるべきでしょう。
 ところで、陰陽思想はあらゆる物を陰と陽に分けたのですが、霊魂をどのように分けたのか、そうした書物は残念ながら市立図書館にはありませんでした。死霊を陰、生き霊を陽とも考えられなくもないのですが、それはともかく、陰陽の影響を受けない陰陽の狭間ではどちらでもいいことなのでしょう。それが、本来の鬼門という考えなのかもしれません。

聖武即ち聖徳太子、太子即ち丸山古墳の主、古墳の主即ち三輪の大物主。
 陰陽の狭間、即ち鬼門は霊魂が自由に出入りできるところてす。したがって、鬼門でつながっている法隆寺聖武陵はそれぞれの主の霊が互いに行き来の出来る状態になっていることになります。そうなりますと、聖武の霊が法隆寺にあったり、聖徳太子の霊が聖武陵にあったりするわけです。つまりは、聖武聖徳太子であり、聖徳太子聖武であるということになるわけです。
 時代は少し下がりますが、聖武天皇聖徳太子の生まれ変わりとする話が『日本霊異記』にあります。ただ、これは仏教説話で、後世に伝わった因果応報や輪廻転生の仏教思想から生まれたものです。しかし、聖武を聖徳に結びつけるという発想はそうした思想が伝わる以前からあったようです。例えば聖武という漢風諡号、これは明らかに聖徳太子の聖を意識しての付け方と見えます。
 ところで、〝生まれ変わり〟と良く似た思想が道教にあります。f:id:heiseirokumusai:20151105002103g:plainそれは、人は死後、天界につながっている朱宮で修行を積み、不老不死の神仙となって天界で遊ぶという神仙思想です。朱宮というのは南にあって、道教の説く蘇りの場所と普通には解釈されているものです。天界とは、神仙境とも桃源郷ともうけ取れるもので、仏教でいう浄土にあたります。
 浄土と天界、実はこのどちらにも逝ったと思われるのが聖徳太子なのです。推古紀での聖徳太子と片岡の飢え人とのやり取りは神仙思想によるものですし、高麗の僧慧慈の話は浄土思想によるものです。つまり、聖徳太子は儒仏道を修めていたということです。
 さて、浄土の思想は、金銅仏の光背銘などから飛鳥時代には既に広く一般に浸透していたことが分かっています。一方、朱宮の思想はどうでしょうか。無視できない事実があります。藤原京平城京、それぞれの都の中心を真南に走る朱雀大路の延長線上に、野口王墓と見瀬丸山古墳がf:id:heiseirokumusai:20151105002317g:plainそれぞれ存在していることです。これを、南にあるという朱宮とすることは出来ないだろうか。
 野口王墓は、誰もが認める天武天皇の古墳です。この天皇は儒仏道を修めた天皇として有名ですから、野口王墓に関しては朱宮とみなしてもいいのかもしれません。それに、藤原京の基となる条坊の地割り整備は天武時代に始まっているとされていますから、おそらくは確でしょう。
 一方、丸山古墳はどうか。この古墳、そしてこの古墳より始まる下ツ道、そしてこの下ツ道のもう一方の始点平城宮、これら三者はすべてその造営時期が異なっています。しかし、平城宮の主、天武系の聖武から見た場合、本古墳を朱宮とみなしていることは天武の例からして確かと思われます。この場合、本古墳の主は聖武の前身、聖徳太子をおいて他にはありません。
 聖徳太子は、『隋書』によれば、冠位十二階を定め、国・イナキ制を定め、また、法隆寺釈迦三尊像光背銘によれば、法興という年号を持ち、法皇という尊号を持つ、いってみれば日本で最初の本格的な国造りをした人物です。つまり太子は、国土創生の神である大国主であり、その幸魂奇魂である三輪の大物主でもあるのです。

 斑鳩東方朔 ≪陰陽の風 03≫ 

§2 八卦方位図と大和。

二元論と五元素  古代人はあらゆる物を二つの元素に分けました。また、古代人はあらゆる物を五つの元素にも分けました。一見矛盾しているようにも感じますが、物には裏と表があります。言い直しましょう。古代人はあらゆる物を陰陽に分けました。無論、五つの元素をもです。

 陰陽五行の循環  陰陽思想は、あらゆる事象を陰陽の消長盛衰で説き、五行思想は、あらゆる物質の生成消滅を五行の相生相剋で説きます。
f:id:heiseirokumusai:20180824225628g:plain左1.図は陰と陽の消長盛衰を十二支の循環で表したもの。ただし、私の作図です。2.図は普通に見られる五行の相生相剋の循環図です。どちらも意味するところは、止まることのない変化の循環です。陰陽も五行も常に時間と共に変化しています。
 したがって、ある時点でのそれを知るには、それを捉える道具が必要となります。その道具が次に示す易です。道具としての易の操作は非常に単純ですが、その指し示しているところの卦から必要な情報を得るには多大の知識と連想が必要とされます。なお、ここで取り上げるのは易というよりもその基本となる八卦であります。

八卦と爻  八卦とは八種類の卦の総称です。卦は三つの爻の組み合わせよりなります。爻は、陰か陽かのどちらかで出来ています。したがって、三つの爻の組み合わせは、2×2×2=8となり、卦は八種類となります。なお、易は、この八卦二つの組み合わせ、8×8から出来る六十四種類の卦を利用したものです。
f:id:heiseirokumusai:20151102010631g:plain 八卦にはそれぞれに名前があります。乾・坤・震・巽・坎・離・艮・兌がそれです。これらは、自然や家族やその他の関係に置き換えられ易占で利用されます。例えば、乾は天あるいは父、坤は地あるいは母というふうにです。
f:id:heiseirokumusai:20151102010900g:plain  4.図は、八卦方位図に自然と家族を配当し、『山海経』等の言う四つの門をも同時に示したものです。八卦の方位は、いわゆる後天図の配当になっています。
 なお、八卦方位図にはもう一つ先天図と言われるものがあります。そもそも、後天と言う呼び名はこの先天図が出来たためそう呼ばれるようになったものです。これが出来たのが、11世紀の北宋の時代、邵雍(しょう・よう)の創作と推測されています。したがって、奈良時代には存在せず、ここでは省きます。なお、易に関してはウィキペディアにかなり詳しくあります。

八卦方位図と大和  それでは、この方位図を使って大和を少しのぞいてみましょう。
f:id:heiseirokumusai:20151102011054g:plain  左の5.図は、大和三山に家族を配当した方位図をあてがったものです。万葉集の有名な歌、あるいは可笑しな歌、中の大兄の三山の歌をこれで解釈してみましょう。普通は、畝傍山を女性と見立てています。方位図では、畝傍山は妹もしくは母となり、この見立てに適合します。
 妹と見た場合、耳成や香具山は兄となります。当時、夫が妻を親しんで呼ぶのに″いも″という語を用いていました。また、妻から夫に向けては″せ″を用いていました。この″いも″と″せ″、当時の漢字表記では″妹(いも)″と″兄(せ)″となるのです。そうなりますと、中の大兄は中男、つまりは耳成山ということになります。
 『日本書紀』によれば、長男は古人大兄皇子、少男は大海人皇子かあるいは蚊屋皇子のどちらかとなります。なお、少男とは末子のことで、それ以外は長男を除いてすべて中男となります。
f:id:heiseirokumusai:20151102011325g:plain  一方、母とした場合は、財産をめぐっての兄弟争いということになりましょうか。なお、このやり方は、方位図の中心をどこに置くかによって解釈が違ってきます。6.図や7.図のようなやり方もあります。しかし、この場合でもそれぞれの性別は変わりません。ただ、方位図の中心を藤原宮においた場合、畝傍と耳成はいいのですが香具山が長女となってしまいます。
 立場が変われば、人も変わり、占いもまた変わる。人の世の宿命でしょうか。それとも、あるいは、あたるも八卦、あたらぬも八卦ということなのかもしれません。しかし、そうだからと言って、必ずしも常に駅裏の易占いになるというわけではありません。と申しますのも、この方位図、陰陽の羅針盤とも言えるものだからです。しかし、安万呂の道標を踏破するには、今少し準備が足りないようです。

 最後に、三山の歌の解釈、色々とあるようですが、珍説を一つ紹介しておきましょう。
f:id:heiseirokumusai:20151102011453g:plain  耳成山の謂われについては、この山がほぼ円錐形で裾野を持たない、つまりはパンの耳のような余分の出っ張りの無い姿からきているとされています。
 持たない者が、持とうとする。これは自然の成り行きです。三山の中で、最も多くの耳を持っているのが香具山です。当然、耳成山はこの山から取ろうとするでしょう。
 さて、香具山が耳成山より守ろうとした畝傍山ですが、この畝傍の謂われは、裾野が畝のようになっている姿からきているとされています。裾野は山の耳で端、つまりは嬬でもあります。どうやら、“嬬”争いとは言っても、この場合は“妻”争いではなく“端”争いのようです。最後にこの歌の原文を載せておきます。

高山波 雲根火雄男志等 耳梨與 相諍競伎 神代従 如此尓有良之 古昔母 然尓有許曽 虚蝉毛 嬬乎 相挌良思吉
かぐやまは うねびをおしと みみなしと あひあらそひき かみよより かくにあるらし いにしへも しかにあれこそ うつせみも つまを あらそふらしき

 

 斑鳩東方朔 ≪陰陽の風 02≫