昭和は遠くなりにけり

古代に思いを馳せ、現在に雑言す。・案山子の落書・

§8 秦造河勝と常世神信仰。

多氏と秦氏、その2
 古代人はあらゆるものを陰と陽とに分けました。同じものをもです。ものには裏と表があります。太陽が山の東に昇れば、山の西側は影となります。しかし、太陽は時間と共に移動します。太陽が西に傾けば、今度は山の東側が影となります。同じ一日、同じ山でありながら陰陽は時間と共に移り変わってゆきます。太陽が東より揚がり、西に隠れるのは自然のならいです。陰陽の変化と循環もまた自然のならいです。陰陽思想は自然に即した思想なのです。季節変化の明瞭な日本では、自然と受け入れられた思想と思われます。
 実際、日本の陰陽思想は独自の発展を遂げています。「記紀」の書かれた時期のこの思想の最先端では、神霊の持つ二面性の陰陽化を既に終えていたと思われます。神霊を荒魂(あらたま)と和魂(にぎたま)の二つに分けて奉っていたことがその証です。神霊の持つ二面性、これが最も激しく現れる自然現象は川です。稲作を始めてより河川のそばから離れられなくなった民族が直面した河川の恵みと氾濫、陰陽に善悪は無いように河川にも善悪はありません。しかし、洪水は容赦なく人も家屋も田畑も押し流してゆきます。

桂川富士川  桂川は京都を流れる川、富士川は静岡を流れる川。誰もが知る事実です。しかし、この二つの川が同じ名前だということを知る者はあまりいないと思います。しかし、この二つの川に、秦河勝がかかわっていることは、おそらく多くの人が知っていると思います。
f:id:heiseirokumusai:20151203205447g:plain  河勝の時代、富士川は平地部に出ると東遷し、桂川のように蛇行を繰り返し田子ノ浦港あたりに流れ出ていたといわれています。図の旧河道は、その想定図です。ただし、正確ではありません。河道の南側は氾濫原で、江戸時代までたび重なる水害に見まわれていたそうです。当然、河勝の時代もそうであったはずです。さて、河勝はこの川に、名前どおりに勝てたのだろうか。
 皇極3年7月、葛野の秦造河勝は常世神信仰を勧める不尽河(富士川)の大生部多を打ち懲らしめたとあります。この物語は普通、人々を惑わす、いわゆる新興宗教咎めた話として解釈されていますが、ここでは河勝と川とのかかわりという観点から話を進めて行きたいと思います。実は、この物語から生まれる連想は、以外とも言える歴史の断片や古代人の頓知を導き出してくれるのです。そこで、先ずはこの物語の要点を少しまとめておきましょう。

  1. 場所は、不尽河(富士川)のほとり。
  2. 時期は皇極天皇の時代。(この時の河勝の推定年齢、80~90才)
  3. 常世神信仰とは、富と長寿をもたらす不老不死を唱える宗教。
  4. 信者は、この神に対して財産の喜捨を行わなければならない。
  5. この神は、橘につく虫で、蚕に似ている。(常世の橘の話は垂仁記に、虫の話は仁徳記にあり)
  6. 河勝が大生部多を打ち懲らしめる。

以上を、川とのかかわりで捉えた場合、先ず、目に付くのが4番目だと思います。4は、信者が財産を失うことを意味しています。つまり、洪水によって財産を失うことにつながります。4をそういった意味で捉えると、今度は、3が川のもたらす恩恵を意味しているという風に見えてまいります。そこで、この恩恵の中に長寿があることに注目して1を見ると、不尽河には不死川の意味も訓みもあることに気付きます。そして、長寿ということでは河勝もまた長寿だということが2より分かります。
 ところで、この大生部多という名前、この名前からどのような連想が可能ですか。単純には、大きく多く生きる、つまりは長寿だということではないでしょうか。ということは、この物語は、元々は長寿比べの話ではなかったのだろうかと。とは申しましても、川同士のことでありますから恩恵比べということになります。
 葛藤という言葉があります。仏教用語だそうですが、日本ではこれを争いとか揉め事という意味で使っています。さて、富士川は、不尽河とも不死川とも藤川とも表記出来できます。一方、桂川は葛川とも出来ます。もともと桂川は、河勝の住む葛野(かどの)を流れる葛野川だったのですから、葛川が桂川になったとするべきでしょう。葛はカズラのことでカツラともいいます。藤もカズラのことで葛の仲間です。葛藤という言葉は、人の心の迷い、心中での善悪の戦いと言うのが本来の意味です。つまりは、身内同士の争いを意味しています。大生部多が秦の一族という説も、あながち無視は出来ないのかもしれません。
 さて、5の場合ですが、なぜ河勝は勝てたのだろうか。思いますに、桂川富士川と同様の暴れ川であった可能性があります。秦氏の当初の居住区域は嵯峨野あたりだとされています。これは、桂川の氾濫区域を避けてのことと思われます。しかし、そこは高燥地の荒野です。即、定住が出来るというわけではありません。そもそも、秦氏が、葛野という水田耕作に不向きな地域のさらに不向きな嵯峨野に居を構えることが出来たのは灌漑用堰堤、葛野大堰(かどのおおい)があったためです。
 葛野大堰に関する情報は風聞に頼る他はないのですが、秦氏つまりは河勝が造ったとするのがこの物語の趣旨に合うように思われます。なぜなら、桂川も本来は富士川と同様に財産を奪うだけの川であったのが、河勝が葛野大堰を築くことで、富をもたらす川となった。このことが、桂川即ち河勝が富士川即ち大生部多 に優るという当時の世論を引き起こし、その結果、皇極紀に載るほどのわざ歌やこの物語が生まれた。つまりは、無理の無い物語の解釈が可能となったわけです。
 しかも、そう解釈することで、次のような推論も成り立つようになるのです。それは、河勝は富士川には行っていないということです。なぜなら、河勝が行けば、富士川もまた富をもたらす川となるからです。つまり、この物語の本当の意図は、富士川を制することの出来るのは河勝だけだという褒め囃子なのです。
 では、なぜ富士川でなければならなかったのだろうか。葛藤に合わせるために富士川(藤川)を選んだのだろうか。それはありうることです。例えば、葛は葛城氏つまり曽我氏を意味します。一方、藤はそのものずばり藤原氏を意味します。そして、面白いことに、ここでは曽我氏が藤原氏に勝つ話となっているのです。しかも、曽我氏と藤原氏は同属だとも言っているのです。あるいはこれが史実かもしれません。しかし、これについては別の機会にいたしましょう。

東に流れる川、西に流れる川  神霊の二面性、川の二面性については最初に述べました。また、神霊の二面性を荒魂と和魂とに分けたことも述べました。そこで、川を分けた場合どうなるかを考えてみましょう。次の図を見比べて下さい。
f:id:heiseirokumusai:20151203205754g:plain  単に賽のように曲がるということでは両者は同じですが、古代人はこの両者を同じようには見ていません。千種川の場合、古代人はこれを明らかに太秦として捉えています。その証拠に、ここには秦河勝の墓が存在します。河勝の墓は、坂越浦に浮かぶ生島にあるそうです。無論、これは単なる伝承でしかありません。 事実、河勝の墓は他にもあるのです。それは、太秦の北を流れる寝屋川の北岸です。無論、この地の墓も単なる伝承でしかないでしょう。しかし、本家本元の太秦、ここには伝承さえもありません。あるのは、かって広隆寺境内にあった石塔がそうではなかったかという伝聞だけです。それは、なぜなのか。
 その前に、大井川を見てください。大井川は、日本武の時代、焼津の方に向かって流れていました。当時、焼津近辺で船の乗り入れられる河口は、この大井の河口しかなかったはずです。つまり、日本武の焼津での話はこの大井川より始まるということです。彼はここで賊に欺かれ、火責めに遭っています。
 ところで、この話の舞台、『古事記』では相模の国になっています。また、欺いたのは国造となっています。国造とは、ある地域の支配者で、ある意味ではその地域の土地神ともいえる存在です。そこで、もし日本武を欺いたのが国造で、その結果を受けて、『紀』国造を賊と表記したのだとしたら、ここでの土地神は大井川の神そのものということになります。また、『記』の場合は相模川ということになります。
f:id:heiseirokumusai:20151203210122g:plain  これまで五つの川の図を提示しました。千種川を除いた残りの川、これらには無視の出来ない共通点があるのです。それは、山あいから平地に流れ出すとき、必ず西に向きをとるということです。これは太秦とは全く逆の流れ方です。そう、太秦の流れ方は和魂、桂川の流れ方は荒魂なのです。
 倭建の東征は、景行天皇の、東方の荒ぶる神を言向け和平(ことむけ やわせ)という命令より始まっています。倭建にとって、あるいは「記紀」編者にとっては、大井川も相模川桂川(荒魂)なのです。ちなみに、桂川は葛野大堰(おおい)があることに拠り大井川とも呼ばれています。また、相模川の上流には桂川葛野川と呼ばれる川があります。葛も藤も蔓草の仲間です。つまり、これら四つの川は蔓草のような流れの川として古代人に捉えられていたのです。氾濫と豊穣、川もまた、葛藤をしているのです。
 どうやら、秦の河勝の墓が現太秦には無い理由が見えてきたようです。そう、現太秦には、西に流れ、しかも賽のように曲がって流れる川が無いのです。もし河勝の墓が京都にあったのだとしたら、その墓は、天神川の西に曲がるあたりから南に曲がるまでの間にあったと思われます。
 それならば、西に流れる川が何を意味するのか、またなぜ和魂なのか、少し連想をしてみましょう。先ず思いつくのが西方浄土の思想だと思います。これは確かでしょう。河勝は仏教徒ですし。しかし、東を荒魂とする思想は仏教からのものではありません。
 荒魂は、新魂とも呼ばれています。新魂と東、この二つから来る連想は日の出です。新たなる太陽は東より生まれます。なかなか良い連想の運びですが、まだ一歩足りないようです。そう、陰陽五行の思想が入っていません。
f:id:heiseirokumusai:20151203210427g:plain  陰陽に季節を配置すると、陰が冬で陽が夏となります。その中間が春と秋です。これに四門をあてがうと図Aとなります。五行では、春は東を指しますから、春を東に合わせると図Bとなります。これによって東が鬼門となります。鬼門は少男、若猛るの荒々しさを象徴します。雄略天皇は、大泊瀬幼武尊とも大長谷若建命とも表記されます。どちらも読みは、おおはつせのわかたけるのみこと です。泊瀬(初瀬)は、大和の東に在ります。そのせいか、彼は大悪天皇と呼ばれています。しかし、この地を流れる初瀬川は西に流れています。そのせいか、彼は有徳天皇とも呼ばれています。

 日は東に生まれ、西に沈みます。人もまた、東に生まれ西に逝く。西に流れる川の如くに人生を終える。それが自然の習いだと、古代人がそう思ったとしても不思議はありません。現に、人に災いをなす川は東に流れ、国家にまつろはぬ蝦夷は東に住んでいます。東征したとはいえ、倭建は帰途病没しています。東は鬼門なのです。病没後、倭建の魂は白鳥となって西に飛び立っています。鬼門軸は霊魂の移動軸。世にいう魂振りとは、東に留まる霊魂を西の浄土に送り出すのが本来の目的と思われます。

 斑鳩東方朔 ≪陰陽の風 08≫