昭和は遠くなりにけり

古代に思いを馳せ、現在に雑言す。・案山子の落書・

§8 秦造河勝と常世神信仰。

多氏と秦氏、その2
 古代人はあらゆるものを陰と陽とに分けました。同じものをもです。ものには裏と表があります。太陽が山の東に昇れば、山の西側は影となります。しかし、太陽は時間と共に移動します。太陽が西に傾けば、今度は山の東側が影となります。同じ一日、同じ山でありながら陰陽は時間と共に移り変わってゆきます。太陽が東より揚がり、西に隠れるのは自然のならいです。陰陽の変化と循環もまた自然のならいです。陰陽思想は自然に即した思想なのです。季節変化の明瞭な日本では、自然と受け入れられた思想と思われます。
 実際、日本の陰陽思想は独自の発展を遂げています。「記紀」の書かれた時期のこの思想の最先端では、神霊の持つ二面性の陰陽化を既に終えていたと思われます。神霊を荒魂(あらたま)と和魂(にぎたま)の二つに分けて奉っていたことがその証です。神霊の持つ二面性、これが最も激しく現れる自然現象は川です。稲作を始めてより河川のそばから離れられなくなった民族が直面した河川の恵みと氾濫、陰陽に善悪は無いように河川にも善悪はありません。しかし、洪水は容赦なく人も家屋も田畑も押し流してゆきます。

桂川富士川  桂川は京都を流れる川、富士川は静岡を流れる川。誰もが知る事実です。しかし、この二つの川が同じ名前だということを知る者はあまりいないと思います。しかし、この二つの川に、秦河勝がかかわっていることは、おそらく多くの人が知っていると思います。
f:id:heiseirokumusai:20151203205447g:plain  河勝の時代、富士川は平地部に出ると東遷し、桂川のように蛇行を繰り返し田子ノ浦港あたりに流れ出ていたといわれています。図の旧河道は、その想定図です。ただし、正確ではありません。河道の南側は氾濫原で、江戸時代までたび重なる水害に見まわれていたそうです。当然、河勝の時代もそうであったはずです。さて、河勝はこの川に、名前どおりに勝てたのだろうか。
 皇極3年7月、葛野の秦造河勝は常世神信仰を勧める不尽河(富士川)の大生部多を打ち懲らしめたとあります。この物語は普通、人々を惑わす、いわゆる新興宗教咎めた話として解釈されていますが、ここでは河勝と川とのかかわりという観点から話を進めて行きたいと思います。実は、この物語から生まれる連想は、以外とも言える歴史の断片や古代人の頓知を導き出してくれるのです。そこで、先ずはこの物語の要点を少しまとめておきましょう。

  1. 場所は、不尽河(富士川)のほとり。
  2. 時期は皇極天皇の時代。(この時の河勝の推定年齢、80~90才)
  3. 常世神信仰とは、富と長寿をもたらす不老不死を唱える宗教。
  4. 信者は、この神に対して財産の喜捨を行わなければならない。
  5. この神は、橘につく虫で、蚕に似ている。(常世の橘の話は垂仁記に、虫の話は仁徳記にあり)
  6. 河勝が大生部多を打ち懲らしめる。

以上を、川とのかかわりで捉えた場合、先ず、目に付くのが4番目だと思います。4は、信者が財産を失うことを意味しています。つまり、洪水によって財産を失うことにつながります。4をそういった意味で捉えると、今度は、3が川のもたらす恩恵を意味しているという風に見えてまいります。そこで、この恩恵の中に長寿があることに注目して1を見ると、不尽河には不死川の意味も訓みもあることに気付きます。そして、長寿ということでは河勝もまた長寿だということが2より分かります。
 ところで、この大生部多という名前、この名前からどのような連想が可能ですか。単純には、大きく多く生きる、つまりは長寿だということではないでしょうか。ということは、この物語は、元々は長寿比べの話ではなかったのだろうかと。とは申しましても、川同士のことでありますから恩恵比べということになります。
 葛藤という言葉があります。仏教用語だそうですが、日本ではこれを争いとか揉め事という意味で使っています。さて、富士川は、不尽河とも不死川とも藤川とも表記出来できます。一方、桂川は葛川とも出来ます。もともと桂川は、河勝の住む葛野(かどの)を流れる葛野川だったのですから、葛川が桂川になったとするべきでしょう。葛はカズラのことでカツラともいいます。藤もカズラのことで葛の仲間です。葛藤という言葉は、人の心の迷い、心中での善悪の戦いと言うのが本来の意味です。つまりは、身内同士の争いを意味しています。大生部多が秦の一族という説も、あながち無視は出来ないのかもしれません。
 さて、5の場合ですが、なぜ河勝は勝てたのだろうか。思いますに、桂川富士川と同様の暴れ川であった可能性があります。秦氏の当初の居住区域は嵯峨野あたりだとされています。これは、桂川の氾濫区域を避けてのことと思われます。しかし、そこは高燥地の荒野です。即、定住が出来るというわけではありません。そもそも、秦氏が、葛野という水田耕作に不向きな地域のさらに不向きな嵯峨野に居を構えることが出来たのは灌漑用堰堤、葛野大堰(かどのおおい)があったためです。
 葛野大堰に関する情報は風聞に頼る他はないのですが、秦氏つまりは河勝が造ったとするのがこの物語の趣旨に合うように思われます。なぜなら、桂川も本来は富士川と同様に財産を奪うだけの川であったのが、河勝が葛野大堰を築くことで、富をもたらす川となった。このことが、桂川即ち河勝が富士川即ち大生部多 に優るという当時の世論を引き起こし、その結果、皇極紀に載るほどのわざ歌やこの物語が生まれた。つまりは、無理の無い物語の解釈が可能となったわけです。
 しかも、そう解釈することで、次のような推論も成り立つようになるのです。それは、河勝は富士川には行っていないということです。なぜなら、河勝が行けば、富士川もまた富をもたらす川となるからです。つまり、この物語の本当の意図は、富士川を制することの出来るのは河勝だけだという褒め囃子なのです。
 では、なぜ富士川でなければならなかったのだろうか。葛藤に合わせるために富士川(藤川)を選んだのだろうか。それはありうることです。例えば、葛は葛城氏つまり曽我氏を意味します。一方、藤はそのものずばり藤原氏を意味します。そして、面白いことに、ここでは曽我氏が藤原氏に勝つ話となっているのです。しかも、曽我氏と藤原氏は同属だとも言っているのです。あるいはこれが史実かもしれません。しかし、これについては別の機会にいたしましょう。

東に流れる川、西に流れる川  神霊の二面性、川の二面性については最初に述べました。また、神霊の二面性を荒魂と和魂とに分けたことも述べました。そこで、川を分けた場合どうなるかを考えてみましょう。次の図を見比べて下さい。
f:id:heiseirokumusai:20151203205754g:plain  単に賽のように曲がるということでは両者は同じですが、古代人はこの両者を同じようには見ていません。千種川の場合、古代人はこれを明らかに太秦として捉えています。その証拠に、ここには秦河勝の墓が存在します。河勝の墓は、坂越浦に浮かぶ生島にあるそうです。無論、これは単なる伝承でしかありません。 事実、河勝の墓は他にもあるのです。それは、太秦の北を流れる寝屋川の北岸です。無論、この地の墓も単なる伝承でしかないでしょう。しかし、本家本元の太秦、ここには伝承さえもありません。あるのは、かって広隆寺境内にあった石塔がそうではなかったかという伝聞だけです。それは、なぜなのか。
 その前に、大井川を見てください。大井川は、日本武の時代、焼津の方に向かって流れていました。当時、焼津近辺で船の乗り入れられる河口は、この大井の河口しかなかったはずです。つまり、日本武の焼津での話はこの大井川より始まるということです。彼はここで賊に欺かれ、火責めに遭っています。
 ところで、この話の舞台、『古事記』では相模の国になっています。また、欺いたのは国造となっています。国造とは、ある地域の支配者で、ある意味ではその地域の土地神ともいえる存在です。そこで、もし日本武を欺いたのが国造で、その結果を受けて、『紀』国造を賊と表記したのだとしたら、ここでの土地神は大井川の神そのものということになります。また、『記』の場合は相模川ということになります。
f:id:heiseirokumusai:20151203210122g:plain  これまで五つの川の図を提示しました。千種川を除いた残りの川、これらには無視の出来ない共通点があるのです。それは、山あいから平地に流れ出すとき、必ず西に向きをとるということです。これは太秦とは全く逆の流れ方です。そう、太秦の流れ方は和魂、桂川の流れ方は荒魂なのです。
 倭建の東征は、景行天皇の、東方の荒ぶる神を言向け和平(ことむけ やわせ)という命令より始まっています。倭建にとって、あるいは「記紀」編者にとっては、大井川も相模川桂川(荒魂)なのです。ちなみに、桂川は葛野大堰(おおい)があることに拠り大井川とも呼ばれています。また、相模川の上流には桂川葛野川と呼ばれる川があります。葛も藤も蔓草の仲間です。つまり、これら四つの川は蔓草のような流れの川として古代人に捉えられていたのです。氾濫と豊穣、川もまた、葛藤をしているのです。
 どうやら、秦の河勝の墓が現太秦には無い理由が見えてきたようです。そう、現太秦には、西に流れ、しかも賽のように曲がって流れる川が無いのです。もし河勝の墓が京都にあったのだとしたら、その墓は、天神川の西に曲がるあたりから南に曲がるまでの間にあったと思われます。
 それならば、西に流れる川が何を意味するのか、またなぜ和魂なのか、少し連想をしてみましょう。先ず思いつくのが西方浄土の思想だと思います。これは確かでしょう。河勝は仏教徒ですし。しかし、東を荒魂とする思想は仏教からのものではありません。
 荒魂は、新魂とも呼ばれています。新魂と東、この二つから来る連想は日の出です。新たなる太陽は東より生まれます。なかなか良い連想の運びですが、まだ一歩足りないようです。そう、陰陽五行の思想が入っていません。
f:id:heiseirokumusai:20151203210427g:plain  陰陽に季節を配置すると、陰が冬で陽が夏となります。その中間が春と秋です。これに四門をあてがうと図Aとなります。五行では、春は東を指しますから、春を東に合わせると図Bとなります。これによって東が鬼門となります。鬼門は少男、若猛るの荒々しさを象徴します。雄略天皇は、大泊瀬幼武尊とも大長谷若建命とも表記されます。どちらも読みは、おおはつせのわかたけるのみこと です。泊瀬(初瀬)は、大和の東に在ります。そのせいか、彼は大悪天皇と呼ばれています。しかし、この地を流れる初瀬川は西に流れています。そのせいか、彼は有徳天皇とも呼ばれています。

 日は東に生まれ、西に沈みます。人もまた、東に生まれ西に逝く。西に流れる川の如くに人生を終える。それが自然の習いだと、古代人がそう思ったとしても不思議はありません。現に、人に災いをなす川は東に流れ、国家にまつろはぬ蝦夷は東に住んでいます。東征したとはいえ、倭建は帰途病没しています。東は鬼門なのです。病没後、倭建の魂は白鳥となって西に飛び立っています。鬼門軸は霊魂の移動軸。世にいう魂振りとは、東に留まる霊魂を西の浄土に送り出すのが本来の目的と思われます。

 斑鳩東方朔 ≪陰陽の風 08≫

§7 秦の河勝と茨田の堤。

多氏と秦氏、その1
 前節で、田原本町秦庄と田原本町多とを組み合わせることで太秦が生まれました。これを不思議と感ずるよりも、馬鹿げていると思う方のほうが多いと思われます。そこで、もう少し付け加えておきましょう。

太秦の意味するもの  多氏と秦氏とのかかわりを「記紀」の中に見つけることは出来ません。しかし、多と秦庄とをさらに重ね合わせてみると、見えなかった関係が「記紀」の中に見えてまいります。
f:id:heiseirokumusai:20151127014017g:plain  1図は、多神社と秦楽寺とを重ね合わせた状態を表現したものです。この図によれば、多氏と秦氏は神武の子孫ということになりますし、同時に牽牛子塚古墳の子孫ともなります。また、多神社は伊勢の斎宮ということにもなります。都合三つほどの大きな課題がこの図より生まれたことになります。そこで、先ず今回は、神武の子孫という課題から始めることといたしましょう。
 最初に、多氏の場合。「記紀」には多氏の祖は、神武の子の神八井耳命とあります。多氏は間違いなく神武の子孫です。次いで、秦氏秦氏については、応神の時代に渡来してきたという以外は分かりません。したがって、多氏と秦氏との関係を直接「記紀」から引き出すことは不可能です。しかし、田原本町でもそうであったように、太秦とのかかわりからそうした関係を「記紀」から導き出せるのです。

 寝屋川市太秦の地名があることは既に述べていると思いますが、この市には他にも市西部に古代史上の難工事と目される茨田堤が築かれたとされる古川が流れており、また、これを記念するための茨田堤碑が古川の本流淀川左岸に建立されてもいます。
 さて、この茨田堤ですが、仁徳記では茨田堤は秦人に造らせたとあります。他方、仁徳紀には、茨田連がこの築造に携わっていたことが記されています。その茨田連ですが、これが神武の子孫なのです。神武記によると、茨田連の祖は日子八井命だとあります。日子八井命は、多氏の祖である神八井耳命とは、同じ父母を持つ兄弟同士で、紛れもなく神武の子孫ということになります。

父・神倭伊波礼毘古命神武天皇







日子八井命(茨田連の祖)


神八井耳命(多氏の祖)

神渟名川耳命綏靖天皇
母・伊須気余理比売

 そこで、「記紀」それぞれの記事の中で茨田堤にかかわるとする秦氏と茨田連との間に何らかの血縁関係があったとしたら、当然、秦氏もまた神武の子孫ということになります。また、そうではなかったとしても、茨田堤を通して茨田連と秦氏がつながりを持つということだけは「記紀」の突合せから導くことが出来ます。どうやら、多氏が寝屋川の太秦秦氏とつながったようでもあります。しかし、これだけではまだ十分とはいえないかもしれません。しかし、秦河勝が茨田連衫子(ころものこ)だとしたら如何でしょう。  

 しかし、この説明の前処理として、太秦の意味を少し考えて見ましょう。全くの私見というほかは無いのですが、茨田堤の築造技術とのかかわりでの呼び名ではないかと考えております。と申しますのも、仁徳紀では茨田堤の築造に際して人柱を立てたとありますが、茨田連衫子だけが別の方法を用いて完成させたとも読み取れる節があるからです。どのような方法か、それは分かりません。ただ、言えるのは、垂仁紀に、野見宿禰が殉死に代えて埴輪を用いたとあります、それと同じことが、ここでも起こったということではないだろうかと。
 人柱や殉死の風習が古代の日本にあったとは思われません。それに、そういった遺物はまだ発見されていないと聞きます。ただ、これと良く似た風習が古代の日本にあったことも確かです。それは持衰(じさい)です。西日本の各所から発見された、弥生時代の戦死者とされている受傷人骨。私は、それらの殆どが持衰ではないかと思っています。
 それはさておき、中国大陸あるいは朝鮮半島より伝わった新たで高度な土木技術。この技術を駆使し、従来の旧習を一掃したのが、野見宿禰や茨田連衫子(秦河勝)らではなかったのか。そして、こうした技術と一緒に、ある意味での宣伝効果を生むための人柱や殉死の話も伝わった、そう考えるべきでしょう。

 さて、秦河勝と茨田連衫子との関係ですが、この二つの名前、実は、全く同じ意味合いを持っているのです。先ず、姓としての秦ですが、秦は「はた」とも「はだ」とも読みます。通説では、「はた」は機織の機に由来するもの、「はだ」はその製品の褒め言葉、肌に由来するもの、とされています。いずれにしても、秦の訓みは、布や衣服、特に柔らかい肌着を指していると思われます。一方、衫子の衫(ころも)は、衣のことです。衫は薄い布で出来た肌着を意味してもいます。つまり、どちらも同じものを指しているのです。
 次に、河勝ですが、これはそのものずばり河に勝つということです。当時のことですと、正確には、河伯(川の神)に勝つということです。一方、茨田連衫子は、人柱という非情な河伯の要求を退け、これに打ち勝っています。やはり、これも同じ意味合いを持ちます。
 以上のことから、私は、秦河勝と茨田連衫子とが同じ人物であると結論づけました。無論、秦河勝と茨田連衫子との間には、前者が用明天皇の時代の人物であるのに対し、後者は仁徳天皇の時代の人物であるという大きな時間の差があることは確です。しかし、上も下も巨大古墳造りにいそしんでいた仁徳の時代に、茨田堤という公共事業が行えたとは、とても思えません。それになにより、「記紀」が、崇神や垂仁の時代に出来たとする狭山池の築造年代が、今日では7世紀の前半期に設定されるようになってもいるのです。したがって、茨田堤を仁徳11年の4世紀前半に位置づける必要はなくなってきているといえます。
 しかし、それならば、茨田堤が築かれたのは、実際いつ頃の時代なのだろうか。私は、茨田堤が築かれたのは大陵命(おおみささぎのみこと)の時代だと考えています。と申しますのも、鷦鷯(さざき)はささぎとも訓めるからです。

 ここで、少し連想をしてみましょう。「記紀」は、茨田堤が築かれたのは大さざきのみこと(仁徳天皇)の時代だとしています。さざきは、『紀』では鷦鷯、『記』では雀の字をあてています。鷦鷯はミソサザイ、雀はスズメのことです。『紀』と『記』では全く違った鳥を指しているのです。それぞれ違う鳥を指していながら、それでいて、共に仁徳を指しているわけですから、大さざきは鳥の名前ではないということになります。それに、仮に鳥のことだとしても、どちらも小さな鳥でしかありません。これでは、大さざきは、大きい小さな鳥というわけの分からない意味を持つことになります。
 ところで、応神天皇仁徳天皇は同一人物である、という説のあることをご存知でしょうか。この説は、『記』に応神を大雀命と呼んでいることから生まれたもので、それなりの理由のあるものだと思いますす。しかし、ここでは同一人物として捉えるのではなく、ある仮説の下に連想を進めていきます。その仮説とは、「記紀」編纂者が大さざきを、応神・仁徳共通の呼び名として用いた、と。
 応神と仁徳に共通のものとは何か。「記紀」を読んでも、そんなものはありません。それに「記紀」の編纂者が「記紀」を編纂する以前に「記紀」を読むことは出来ません。では、編纂者は何によって共通のものを見出したのか。実は、そのものを見つけ出すことは、現代の我々にとっても非常に簡単なのです。無論、彼らにとってもそうです。なぜなら、それは山のように大きな巨大古墳だからです。つまり、応神・仁徳に共通する呼び名とは大陵命(おおみささぎのみこと)なのです。
 さらに連想を進めましょう。下に示したのは、すべて全長300メートル以上の墳丘長を持つ巨大古墳です。そして、すべてが大陵命(おおみささぎのみこと)の墓と呼び得るものです。

大仙古墳(河内・中期)
上石津ミサンザイ古墳(河内・中期)
河内大塚山古墳(河内・後期)
渋谷向山古墳(大和・前期)
 ・誉田御廟山古墳(河内・中期)
 ・造山古墳(備前・中期)
 ・見瀬丸山古墳(大和・後期)

 全国で墳丘長200メートル以上の大規模古墳は、全部で38基ほどがあるそうです。しかし、その中で後期古墳とされるものは、河内大塚山古墳と見瀬丸山古墳のわずか二つにすぎません。しかも、この二つの古墳は、いわゆる孤立墓で、他の大王墓とは違って、周辺に同時代の大型古墳を伴ってはいません。このことから、この二つの古墳の時代、巨大古墳が築けたのは大王だけであったとする仮説が成り立ちます。もし、この仮説がまちがいでは無いとするなら、この時代の大王にあらゆる権力が集中したことを意味し、その結果、大規模な公共事業とでも言い得る茨田堤の築造に着手が可能になったと言えることになります。
 さて、『記紀』が編纂された時代は大和の時代です。当時の大和において、大陵命(おおみささぎのみこと)と呼ばれ得る古墳は、平城京中軸線上にある見瀬丸山古墳をおいて他にはありません。その丸山古墳が築かれたのは6世紀末と推定されています。仮に、茨田堤がこの古墳の主の時代に築かれたのだとしたら、秦河勝が仕えた用明天皇の時代と近くなります。そうなれば、当然、茨田連衫子が秦河勝であるという可能性は俄然大きくなることになります。

 最後に、茨田堤について、少し私見を述べさせていただいて、この章の終わりといたしましょう。茨田堤は、古代史上有名な公共土木事業なのですが、今日でもそうであるように実態は庶民にはあまり知らされていないようです。下の図は非常に不完全なものですが、あえて、参考のため掲げました。これも、茨田堤の資料がほとんど無かったからです。
f:id:heiseirokumusai:20151127015519g:plain  仁徳紀によれば、茨田堤は、淀川の水を直接河内湖に流れ込ませないためのものと読めます。通説では、この堤は、寝屋川市の太間あたりから始まり大阪市旭区千林あたりまで続くらしいのですが、その堤の築かれた古川を、現代地図の上で、千林あたりまで完全にたどることは出来ませんでした。今日、古川はかっての河内湖あたりまで延びており、どこから西流させたのか、残念ながら適切な資料を見つけることが出来ず、これも分かりませんでした。この図では、門真市宮野町の堤根神社あたりから西に向けて描いてあります。無論、いわゆる適当にです。
 しかし、全くのいい加減というわけではありません。それなりの理由はあります。
f:id:heiseirokumusai:20151127015728g:plain  左の拡大図が、その理由の答えです。古川は、この箇所で大きく西に流れを変えています。そう、ここはまさしく太秦です。この地を守る堤根神社の祭神は、茨田連の祖、日子八井(耳)命です。ここでは、茨田連と太秦がつながっています。茨田連と秦氏、限りなく近づいてきたようです。
 なお、古川沿いに築かれている堤は「記紀」にある茨田堤ではないという説があります。こうした説があるのも、茨田堤については不明な点が多過ぎるためと思いますが、古代史というものは、分かっているようでいて、分かっていないことの方が多いということを、この茨田堤でつくづく感じさせられました。しかし、そうであるからこそ、素人の連想が活きて来る機会もあるというものかもしれません。

 斑鳩東方朔 ≪陰陽の風 07≫

§6 太秦と川。

斎宮、笠縫邑、秦楽寺、そして太秦
 伊勢内宮は瀧原宮を遷したもの。瀧原宮は吉野宮を遷したもの。では、斎宮は如何なる宮を遷したものなのだろう。
 これはそれほど難しい課題ではありません。というのも、伊勢内宮にしろ瀧原宮にしろ、その造宮の基本は、それらを吉野宮の真東に位置させることだったからです。従って、斎宮も、何かの宮を真東に遷したものと考えればいいわけです。つまり、斎宮の真西にどのような宮があるかという事になります。無論、理想の地形の上でのことではありますが。
 結論から先に申しますと、それは秦楽寺となります。正確には、笠縫邑というべきかも知れません。崇神紀6年の記事に、宮中に祀られていた天照大神倭大国魂神を皇居の外に移し、天照大神を豊鍬入姫命に託し、笠縫邑に祀らせたとあります。そう、この記事中の笠縫邑のことです。
 今日、笠縫邑の候補地としては、この秦楽寺の他にもいくつかあります。しかし、現斎宮と地形的に似通ったところとしては秦楽寺の他はあまりないように思われます。なお、現斎宮の跡地は東西二キロ南北七百メートルもある広大なもので、現秦楽寺の境内とは比べ物にはなりません。したがって、秦楽寺、ましてやその中の笠縫神社をそれとするのではなく、もっと広い意味での笠縫邑として捉えた方が良いかも知れません。しかし、どうしても正確にというのであれば次のような方法があります。
f:id:heiseirokumusai:20151120210654g:plain  左図は、秦楽寺の置かれた位置関係図です。この図から、笠縫邑を点として捉えることが可能となります。その点とは、葛城山の北東に伸ばした直線と、牽牛子塚古墳の北に伸ばした直線との交点がそれです。
 逆に申しますと、こうした関係図が描けるということが、秦楽寺が笠縫邑であるといえることにもなるのです。なお、図中の神武陵は現今の陵とは違って「記紀」の言う神武天皇陵です。
 ところで、秦楽寺と書いてはおりますが、どう読むべきでしょうか。シンラク寺でしょうか、それともハタラク寺でしょうか。実は、ジンラク寺と読みます。秦楽寺と書いて、何故ジン楽寺と読ませるのか、それは分かりません。だだ、この寺は田原本町秦庄という所にあります。秦庄という地名がいつ頃からあるのかはわかりませんが、秦庄というからには、秦氏との関わりがあると思われます。おそらく、そこに、ジンにどうしても秦をあてがわなければならない理由があったのだと思われます。

 なお、秦は呉音では "ジン" と発音します。奈良時代以前は基本的に呉音の時代ですからあるいは従来からの呉音の "ジン" がそのまま残ったのかもしれません。それとも、本来は神楽寺であったものを秦庄にある関係から秦楽寺としたのかもしれません。神も呉音では "ジン" と発音します。ただし、秦氏の秦は あくまで"ハタ" であってシンでもジンでもありません。ただ、秦河勝の後裔と称している世阿弥が申楽という文字を用いています。申は神の字に近く興味を引くところではあります…
 さて、普通、秦氏と寺といえば、聖徳太子との関係で語られることが多いのですが、推古後の飛鳥時代に限った場合、斉明天皇との関わりが最も深いようです。斉明四年五月、皇孫建王が八歳で亡くなっています。斉明は、この皇孫の冥福のために秦大蔵造万理に何かを作らせています。私は、これが、斑鳩中宮時に残る天寿国曼荼羅繍帳だと思っています。

太秦と川  さて、斉明は、天皇の二年、吉野の宮を作らせています。実は、これにかかわっているのが秦氏なのです。秦氏がどのようにかかわってくるか、太秦の位置する地形から話を始めてまいりま しょう。
f:id:heiseirokumusai:20151120210942g:plain
上図三図は、すべて太秦という地名です。2-1図には太秦は載ってはいませんが、田原本町秦庄と田原本町多とを組み合わせると太秦が出来上がります。なぜなら、多安万呂は太安万呂でもあるからです。
 無論、これでは判じ物となります。しかし、我々は今日、「記紀」や「倭人伝」を判じ物として扱っています。もっとも、そうした多くは素人によるものかもしれません。しかし、年輪年代測定、同位元素年代測定、これらも広い意味での判じ物です。近代とはいえ、所詮、我々は多かれ少なかれ何らかの判じ物に頼っているのです。まして、古代人ならなおさらのことでしょう。
 「古事記序」には、日下と書いてクサカと謂い、帯と書いてタラシと謂うとあります。これは立派な判じ物です。それになにより、帝紀の撰録と旧辞の討かくを命じた天武は、「あとなしごと(クイズ)」の大家なのです。これも一私見ですが、こうしたものは天武時代に出来たのではないかと私は考えています。そして、その最たるものが太秦ではないかと。しかし、もしかしたら、秦を「はた」あるいは「はだ」と読む方が、謎が大きいのかもしれません。

 それはさておき、太秦の場所に関しての一つの仮説を立てましょう。それは、太秦のある地形は川が大きく曲がり西に向かうという共通点がある、と。
 この共通点は、前節で述べてきた、吉野宮、瀧原宮、伊勢内宮との共通点と全く同じです。都合六箇所の共通点の一致、偶然とはいえないでしょう。秦氏がこれらの三つの宮の造営に関与していることは確かです。では、それなら、これら川と地形の意味するものは何か。また、これらのものに先行するオリジナルは何なのか。また、それはあるのか、それとも無いのか。
 しかし、その前に2-3図の説明をしておきましょう。広隆寺に関しては、平安遷都前後に現在地に移転したという説があります。また、村上天皇の日記から、秦河勝の邸宅が大内裏の位置にあったことが知られています。つまり、とはいっても仮説の先取りになるのですが、元広隆寺大内裏の南、天神川の曲がりの東の位置にあったとすることが出来ます。これは、仮説からの単純な計算結果ではありますが、結果の指し示している処には古代人の基本的な思想があります。
 東西の関係、そして南北の関係には、1図からも分かるように古代人にとっては単純かつ明瞭な何らかの思想を見出していたと思われる節があります。これもまた一つの仮説ですが、太陽は東から西へと移動しますが、移動前も移動後も同じ太陽です。もし、古代人がそう考えたとしたら、大内裏の南にあった広隆寺も西に移った広隆寺もやはり同じ広隆寺です。
 つまり、ものを東西に移動させても変わらないということです。東西関係にある秦楽寺斎宮、同じく吉野宮と瀧原宮と伊勢内宮、これらはすべてそれぞれに同じだということです。そして、蘇りの南北関係、これもある意味では同じということなのかもしれません。

 さて、川の曲がり角に、古代人は何を見出したのだろうか。それは、サイの神です。川が大きく曲がるのは神の力が働いたため。神が流れをさえぎったため。古代人がそう考えることはありうることです。
 「記紀神話」には多くの神が登場しますが、古代人はどういった処に神を感じていたのだろうか。感覚としては尋常ではない処ということなのだと思います。例えば、草しかない野原の一角に巨大な岩が置き忘れられたようにあったりした場合、人が運ぶことの出来ない岩であれば、神が運んだと。そう考えるのではないだろうか。
f:id:heiseirokumusai:20151120211220g:plain  3-1図は、太秦のオリジナルとも呼べるものです。川の曲がり角にはサイの神がいます。この神はあらゆるものを遮ります。悪霊も、災いも。つまり、丸山古墳はこの神によって守られているのです。そして、そう、太秦も。そして、無論、吉野宮等もです。
 サイの神は、賽の神とも書けます。賽は、一天地六、陰陽のはかりです。形は、正方形の集まり。意味するところは正義です。3-2図は、甘樫の丘の下を流れる飛鳥川です。飛鳥川はこの丘の下で正しく、賽の川の如く曲がっています。允恭天皇はこの丘で氏姓を正したといいます。

 斑鳩東方朔 ≪陰陽の風 06≫

§5 伊勢神宮の前身は宮滝か。

大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山…  『万葉集』、巻第一の二番目に載る舒明天皇の歌です。香具山は、“とりよろう 天”と歌われるように、大和三山の中では特別視されている山です。これについては何らかの理由があるとは思いますが、今回は別の観点から、再度、四つの門の方位図を用いて考えてみることにいたしましょう。
f:id:heiseirokumusai:20151114220629g:plain  先ず、1.図の丸山古墳と三輪山を結んだラインに注目してみましょう。前にも述べたことですが、このラインはかなり正確に北東を向いています。下ツ道が丸山古墳前方部から発しているように、このラインもやはり丸山古墳前方部から発しています。香具山はちょうどこのラインの上に位置しています。
 このラインは、既に話していることですが、陰陽の境に位置する鬼門軸の通る特殊なラインです。ここでは霊魂の移動が自由で、三輪山の神即ち香具山の神、香具山の神即ち丸山古墳の神、丸山古墳の神即ち三輪山の神、‥という関係が自然と出来上がります。つまり、祖霊を神と考えるならば、天に住む神が“あもりつく”ことの出来るラインとなるのです。
 また、加えて別の特殊なラインが香具山のすぐ横を通っていることが、さらにこの山を特別視することにも繋がっているのです。その別の特殊なラインというのがこれからの課題、法隆寺から宮滝に向かう天門軸あるいは風門軸とも呼べるラインであります。
f:id:heiseirokumusai:20151114220915p:plain  左図は、既出の五行八方位・四門の図です。これまでは単に軸とかラインとかと述べてきましたが、門につながるのは道です。したがって、ここでは道として話を進めていきます。
 〝すべての道はローマにつながる〟とは西洋のことですが、大和の場合だと“すべての道は香具山につながる“となります。しかも、香具山の道はローマの道とは違い特殊な道です。それは、この道が“土行”の道だからです。
 “土”行は、五行の相克や相生では、その一角を占める一要素にすぎませんが、これを方位図に当てはめた場合、中央という性格を有するようになります。つまり、香具山の道は宇宙の中央、や国の中央を走る、天道とも王道とも呼べる特別な道なのです。したがって、この道を歩くことが出来るのは、宇宙の支配者、国の支配者、つまり神、あるいは神と目される王者のみです。
 記紀の時代の人々が、香具山を2図のAの位置にあると考えていたことは、神武紀や崇神紀で香具山の土を特別視していることからして確かと思われます。つまり、宇宙の中心の大和のそのまた中心に位置する香具山は必然的に、「天降りつく 天の香具山、天降りつく 神の香具山」と歌われる特別な山ということになり、大和の国見をするにふさわしい山ということにもなるのです。

天門と風門のライン。法隆寺から宮滝へ、宮滝から瀧原宮へ、そして瀧原宮から伊勢神宮へ。
f:id:heiseirokumusai:20151114221059g:plain このラインは方位図どおり正確に南東を向いているわけではありませんが、古代人が法隆寺を天門、宮滝を風門としていたことは宮滝のほぼ真東に瀧原宮があることから確かと思われます。
 瀧原宮は元伊勢の一つですが、現在の伊勢神宮の出来る直前にあったと思われる神社です。と申しますのも、文武天皇二年に度会郡に遷した多気大神宮は、この瀧原宮であった可能性があるからです。なぜなら、斎宮瀧原宮はほぼ北東の位置関係にあるからです。北東の位置関係は、先ほど述べた丸山古墳と三輪山、そして法隆寺聖武天皇陵とに見られるように古代においては大事なものだったからです。
 古代においても現代においてもそうですが、地形と方位とを都合に合わせて変えることは不可能です。しかし、自然は広くて大きい、ある程度の違いを認めれば、良く似た地形はあるものです。つまり、宮滝から可能な限り真東に位置し、東から西へ流れる川のある開けた場所としては瀧原宮が最適ということなのです。それになにより、宮滝、瀧原宮そして伊勢内宮、これらの地を流れる川はすべて東から西に、しかも良く似た河道を流れているのです。
f:id:heiseirokumusai:20151114221308g:plain  上図は、三つの宮(なお、宮滝は吉野宮と解釈してください)それぞれの川との位置関係を略図で示したものです。四角で囲った河道の形、三者とも良く似ていると思いませんか。しかも、宮の位置は決まって河道の曲がり角です。これを偶然とすることは出来ないでしょう。
 そう、これは偶然ではありません。宮滝を風門とみなせばすべて理解が出来ます。風門は長女でもあります。風門と長女、これは伊勢内宮と同じです。伊勢の枕詞は神風。祭神の天照は長女。伊勢は東にあるように見えますが、実は風門にもあたり、南東にもなります。つまり、伊勢は風門として天門につながっているのです。
 さて、天門に位置するのは太一です。そうなりますと、伊勢内宮の祭神は太陽と太一とういことになります。

 斑鳩東方朔 ≪陰陽の風 05≫

§4 神武東征と鬼門.

鬼門。陰陽を生み出すもの、陰陽を隔てるもの。

 古代人は万物を陰陽に分けました。先天と後天もある意味での陰陽であります。道教儒教、これも陰と陽との関係に置き換えることが可能です。古代と現代、これもまた然りでありましょう。そして最後に『古事記』と『日本書紀』、これもあるいはそうなのかもしれません。
 もし、そうだとしたら。『古事記』と『日本書紀』、これが陰と陽で、しかも安万呂の手によるものなら、陰陽を生み出す太安万侶は太極ということになります。

 陰とは何か、陽とは何か。 陽と揚。陰と隠。これら漢字の音に連想をめぐらせば、陽は日の揚がることを意味し、陰は日の隠れることを意味していることになります。そして、これによって、東を陽とすることが出来、西を陰とすることが出来るようになります。つまり、太陽の状態によっても陰陽が決められ、これも陰陽の法則の一つとすることが可能となります。そうしますと、北半球の中緯度では太陽の昇る南が陽となり⇒a、太陽の昇らない北が陰となります⇒b。
f:id:heiseirokumusai:20151110214405g:plain  1.図は東西の陰陽関係図aと南北の陰陽関係図bとを組み合わせて東西南北の陰陽関係図cとし、これを中国陸海地図の上に投影したものです。
 陰陽思想が既に固定化してしまっている現代から見れば、陸を陰とすることはともかく、海を陽とすることはおかしく映るかもしれません。しかし、この図から東西南北の陰陽関係と中国の陸海の関係とが非常に良く重なり合っているのが確認できると思います。
 そもそも、中国最初の古代文明は、南より北上してきた伝説の≪夏≫によるものといわれています。夏は北上の過程で、中国大陸は西に陸が広がり、東に海が広がる地形だということを知ったのではないだろうか。もし、これらの伝説や推測が間違いというほどのものではないとするならば、東の海を陽に、西の陸を陰とした時期が古代中国にはあったと言えなくもありません。無論、水界の海を陽とみなすことには無理があるのは確かです。
 しかし、陽である太陽は、天と地、さらには西と東、つまり陰陽の間を巡り回っています。これと同じように、陰である水は雨として陽である天より陰である地に降り注ぎ、川の流れとなって陰の大地より陽の大海へと流れ出でて行きます。すなわち、海を水の集まりとするのではなく、水の入れ物と解釈すれば、海を陽としても何ら差し支えはありません。現に日本では、天を海とも雨とも解釈します。また、日本語の漢字音に頼れば、洋は陽でもあります。

 古代人はあらゆる物を陰と陽に分けました。しかし、正確には、相反するものをと言うべきかもしれません。たとえば、天と言えば地。しかし、山と言えば、川なのか、それとも谷なのか…分かりません。しかし、陸と言えば、違うことなく海です。陸が陰なら、海は陽となります。
 中国は東南に海が開ける地勢です。古代中国の神話によれば、共工祝融と争って敗れ、怒った共工が天の柱を折ったため天が傾き、その結果大地も傾き東南が海になったとあります。この神話は、無論、実際の中国の地勢から生まれたものですが、背景にあるのは陰陽五行思想です。
 共工は、洪水を引き起こす神であるため、北に位置する“水”の神のようにも見えますが、西羌が信奉していた神ともいわれ、西に位置する“金”の神です。“金”は陰気で冷気、争いを誘う気です。洪水を起こせるのは“金生水”という相生の原理からです。一方、祝融は南に位置する“火”の神。“火”の相剋は“火剋金”、相生は“火生土”ということになります。いずれを取っても共工には勝ち目がないという話になります。

鬼門の国、日本
 さて、それならば、四方を海に囲まれた日本にはどのような神話があるのでしょう。
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 上図2と3とを見比べると分かるように、日本と中国は東南に海が開けているという、陰陽五行思想にとって都合の良い共通点があります。つまり、日本でも中国と同じ陰陽五行思想が根付き発展する可能性があるということです。ただ、唯一異なる点は、日本は北西にも海が開けているということであります。もしかしたら、日本では、共工祝融の神話が二つ必要ということなのかもしれません。
 周知のように、日本は北東に延びる地勢です。いってみれば、日本全体が鬼門軸のようなものなのです。しかし、そうは言っても、当時の日本に3図や4図のような正確な地図があったわけではありません。しかし、古代の中国人が、自国を北西に陸地が広がり東南に海が開ける、つまり北東に海岸線の延びる地勢だというふうに理解していたように、当時の日本人、とりわけ飛鳥時代の人々はこうしたことをかなり正確に知っていたのではないだろうか。
 下図は、神武即位前の日本の地理図、あるいは神話図です。『日本書紀』の中で神武天皇の名が出てくるのは神武紀とその子綏靖天皇の出自系譜以外は天武紀が最初です。ある意味では神武の出現は天武朝を遡ることはないということなのかもしれません。そういう意味では、この地図は飛鳥時代の神話地図といえなくもありません。
f:id:heiseirokumusai:20151110215634g:plain  地図の無かった古代ですが、北東に延びる海岸線は分かっていたと思われます。4図は、その中でも特に長い海岸線を有する箇所を4つ選んで、色づけて示したものです。
 先ずaですが、これは神話の原点とも言うべき「魏志倭人伝」の世界です。次いでbとc、これは誰もが知る正真正銘の神話、出雲神話と日向神話の世界です。dはcの延長、天孫神武の東征神話の世界です。一目瞭然とはいかないかもしれませんが、これらの世界、いずれも鬼門軸の東南あるは北西に海を臨んでいます。また、それぞれが互いに対峙する関係にもあります。
 そこで、「記紀」神話の双璧、出雲神話bと日向神話cの世界に注目してみますと。bから見てcは南に当たります。cからbを見た場合は、北もしくは東となります。しかし、cの延長d、つまり日向神話の最終目的地の大和から見た場合、bは西となります。その結果、bが西で、cが東となれば、これは、共工祝融の関係と同じです。また、出雲神話には八岐大蛇が出てきますが、共工の話にも同じような大蛇が出てきます。つまり、共工祝融に敗れることを日本の神話に直せば、出雲神話の国神が日向神話の天孫に国を譲らさられたとなるわけです。
 五行思想では、相克の関係で東は西に勝てません。西に勝てるのは南だけです。神武東征といってはいますが、この話の内容は西と南の関係です。神武の最終上陸地点は熊野です。大和から熊野を見ると南になります。また、神武は熊野から大和に東から侵入しています。つまり、大和は神武から見て西になります。これも、共工祝融と同じ西と南の関係なのです。
 ところで、共工祝融が争った結果、中国では天と大地が傾いたのですが、日本ではどうなったのでしょう。そこで、地図の向きを少し傾けてみましょう。
f:id:heiseirokumusai:20151110215913p:plain  5図は、鬼門軸と南北軸を入れ替えたものです。角度にして、45度の傾きがあります。既に述べたことですが、南北は蘇りの軸、北東は霊魂の入れ替わりの軸です。どちらも死者にとっては再生の軸です。祖霊を神とみなせば、神にとって南北軸も北東軸も同じです。神話の世界では、北東軸を南北軸としても何ら不都合は生じないはずです。
 この図を見て、先ず気付くことは、伊勢と出雲が意外なほど西と東の突端にあるように見えることだと思います。おそらく、古代人はもっと極端に感じていたと思われます。そう、出雲は国の最西端、伊勢は国の最東端と。
 そこで、もう一度やり直しますと、伊勢が東で、出雲が西なら、出雲と日向は西と南の関係。また、伊勢が東と決まれば、大和は西か南。しかし、熊野は大和の南。したがって、大和と熊野は西と南の関係。いずれも共工祝融の関係に置き換わります。つまり、西の金行が南の火行に負けて国譲りを迫られるという話がこの二つの神話の骨子です。

 “記紀”の話の中には、陰陽五行の思想から生まれた可能性のあるものが多々見受けられます。このことは、この思想が日本に根付き発展していったためと思われます。特に鬼門軸の一端、裏鬼門の思想は日本独自のものと思われます。鬼門を忌むという風習がいつ頃から起こったのかは分かりませんが、少なくとも飛鳥や奈良時代には無かったと思われます。例えば、神武東征譚。神武の出発地点は鬼門軸方向に延びる日向の海岸、最終上陸地点はやはり鬼門軸方向に延びる熊野の海岸。このことは、鬼門を避けたと言うよりも、鬼門を利用したと言うべきかも知れません。差し詰め、神に近い神武は、鬼門から鬼門へと飛び移って行ったということでいいのかもしれません。
 ところで5図、伊勢が鬼門で、出雲が裏鬼門のようには見えませんか。もし、大和から見てそのような関係が成り立つのだとしたら、f:id:heiseirokumusai:20151110220137p:plain6図のような関係も成り立つのではないだろうか。
 aは霊の行き交うライン。このラインの意味するものは、国土創生の祖と国家創生の祖との対峙です。国家は、支配する者と支配される者とで成り立っています。どちらが欠けても国家は成り立ちません。まさに陰と陽との関係です。したがって、どちらかが上でどちらかが下という関係ではありません。全くの対等です。ただ違うのは、霊が伊勢にあるときは天照、三輪にあるときは大物主となることだけです。
 bは蘇りのラインです。また、同時に神武東征のラインでもあります。その意味するところは、祖廟としての法隆寺の主、即ち丸山古墳の主が朱宮としての日向で神武天皇として蘇ったと。なぜなら、図中図cは、前節で述べた四者の関係を示した同図中図dより必然的に生まれたものだからです。
 どうやら、安万呂の道標、法隆寺・宮滝の天門・風門ラインが出雲をとおして伊勢へとつながったようです。

 斑鳩東方朔 ≪陰陽の風 04≫