昭和は遠くなりにけり

古代に思いを馳せ、現在に雑言す。・案山子の落書・

§42 不改常典とは十七条憲法。。

 推古天皇元年に聖徳太子摂政になってからを普通飛鳥時代と呼びます。それより前は古墳時代ですから、言うなれば推古元年は泥の時代から金色に輝く仏像と歴史を記す文字の時代へと移り変わろうとする、正にその飛鳥時代の幕開けの年に当たると。
 思うに、飛ぶ鳥の目となって、その飛鳥時代を俯瞰すれば、緑の大地より鈍く築き上げられた古墳の数々と、その間から鋭く碧空へと突き出した金色に輝く相輪を載せた寺々の塔とが綾を為すように見えることでしょう。

 さて、聖徳太子飛鳥時代の寺はと問えば、郷土の俳人正岡子規が、柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺と詠んだように斑鳩の古刹法隆寺を先ず挙げると思います。その古刹法隆寺の金堂には、遥か飛鳥の時代から千数百年の時を越えて尚且つ端座し続ける仏像があると聞きます。その仏像は、光背に歴史を秘めた銘文を背負い、嘗ては飛鳥時代をその金色の輝きで照らしていたと言われています。しかし、今はその金色の輝きは既に無く、ただ千数百年来変わらぬ飛鳥の微笑だけが残されていると聞いております。

三つの時代(聖武天皇東宮聖王・上宮法皇

 飛鳥時代が遺した法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘より上宮法皇の時代が600年代であることが分かります。また、法隆寺金堂寺薬師如来像光背銘より東宮聖王の時代が660年代であることが分かります。そして、奈良時代の寵児、聖武天皇の時代は720年代であることが分かっています。そこで、これら三つの時代を甲寅と甲子との年を中心として関連のある主要な事柄を表にして示すと下のようになります。
 なお、上宮法皇の時代つまり推古紀に当たる箇所ですが、これは前章での聖徳太子の崩年干支辛巳を上宮法皇の崩年干支壬午に合わせるために干支を一年だけ引き下げた結果をうけての配置です。ただし、推古紀外の用明はそのままとしています。
 ところで、前章では干支を引き下げたことで、冠位12階と冠位26階とが同じ甲子となることを話しました。実は、もう一つあるのです。それは、聖徳太子斑鳩の宮へと移り住んだ年の干支と近江遷都の年の干支とが同じ丁卯となってもいるのです。このことから、天智紀に載る近江へ都を移した皇太子とは東宮聖王つまり天武というシナリオが描き出せる事になります。

ー 表.42a ー






丙午    





丙午 646  池辺崩年





丙午    
丁未 707 ①文武崩年 丁未     丁未 587 ②用明崩年


               
甲寅 714 聖武立太子 甲寅 654  孝徳崩年 甲寅 594 ④聖徳立太子
乙卯 715 ⑤元正即位 乙卯 655 ⑥斉明即位 乙卯    


               
甲子 724  聖武即位 甲子 664 ⑦x⇒
⑨冠位26階
甲子 604 小墾田宮
⑩冠位十二階
乙丑     乙丑 665 ⑪x⇒ 乙丑 605 ⑫十七条憲法
丙寅     丙寅 666  弥勒像銘 丙寅    
丁卯     丁卯 667  薬師像銘
⑬近江遷都
丁卯 607  聖徳太子
斑鳩
戊辰     戊辰 668  王後墓誌 戊辰    

 さて、この表をどのように解釈するべきか。とは申しましても、持論通りに解釈する他はありません。

 東宮聖王(聖徳太子)の父池辺大王(用明天皇)の崩年干支を聖武天皇の父文武天皇の崩年干支に合わせて丁未としたのではないかという疑念は、法隆金堂寺薬師如来像光背銘や聖武聖徳太子の生まれ変わりとする思想等に接すれば、誰もが抱くことだとは思います。ただ、それを誰もが納得する説明や証明に変えるということになると、甚だ難しいものがあり一朝一夕とは参りません。それに、これは定説を否定するようなものですので、その初っ端から聞く耳持たずとされる場合の方があるいは多いのかも知れません。
 無論、そうしたことも説明や証明が的確に出来れば問題はないとは言えます。しかし、法隆寺金堂の釈迦三尊像薬師如来像の光背銘の今日の定義的な解釈を見れば分かるように、本来なら原告側の証人となる者が長い年月の間に被告側の証人とされてしまっています。従って、これはある意味では起訴が出来ない状態だとも言えます。結局は、次のように呟くしかないのかも知れません。つまり、前もって嘘だと断わってつく嘘を本当だと信じてしまっている者にそれを嘘ですよと証明して見せることなど誰にも出来ようはずはないと。
 しかし、私的な不満はさて置き。こうした表が描ける以上その真偽は後へ回すとして、この表からさらに何が描けるかを試みてみましょう。

 甲寅という干支を五行の方位や夏暦に当てはめてみますと、東や春や正月さらには日の出といった明るい未来への始まりというイメージで捉えることができます。おそらく、そういったことから神武東征元年や聖徳太子聖武立太子の年にこの干支が当てられているのだと思います。ただ、そういった感覚でこの表の孝徳を見ると、非常に違和感を感じることになります。
 しかし、そうだからと言って、果たして孝徳は本当に甲寅の年(654)に死んだのだろうかなどと始めれば、勝手に思い込んで勝手に悩むなと、そう言われそうな気がしますし、またそれが事実であるからこそ、そうなっているのだと、そうも言われそうな気もします。 確かに、仮説に仮説を重ねれば普通そう言われます。それに仮説に仮説を積み重ねる事は決していい遣り方とは言えません。しかし、要は考え方一つです。これを仮説とせず道標としましょう。つまり道標が道標を導いたと。これはいい遣り方です。思うに、物事は考え方や見方一つで変わります。無論、これもまた勝手な思い込みと言えますし、そう言われもします。

 ところで、近代的な歴史書に慣れた我々は、歴史つまり時間を平面に展開した形で捉えることが出来ます。しかし、古代では必ずしもそうではなかった可能性があります。例えば、本題からは少し外れますが、古代の絵画や壁画の中には、今日的な写実とは違って、多視点から捉えた動物や人物が描かれているものがあると言います。そうしたことは立体の動物等を平面に描こうとすることで起こるのですが、あるいは、古代人は見えない部分を見えないままで残すことに躊躇いがあったのかも知れません。また、あるいは本当に描きたい部分が見える方と見えない方との両方に跨っていたのかも知れません。
 古代エジプトではこの問題を解決するため、描きたい部分のパーツ化を行っています。正に好いとこ取りの手法とも呼べるものですが、横向きの顔に正面を向いた目を描くことになりますので、中高生が真似をしますと国定教科書の美術教師は必ず落第点を付けることになります。しかし、同じような手法で描かれたピカソの絵に対しては何故か落第点ではなく数億何がしかの値札を付けるとか。思うに、見方一つで芸術作品となったり反古となったり、真となったり偽となったりするのがこの世の常かと。そうした世界は、飛ぶ鳥の目で見るよりもいっそ猫の目で見た方がいいのかも知れません。何でも、古代エジプトの壁画には横向きの猫の絵もあるとか。

三つの時代とそれぞれへの投影

 そこで表.42aをいっそのこと横向きにしてみましょう。この表は、干支一回り60年毎の三つのパーツよりなっていますので下図のようにできます。図中の三つのは、ⓐからⓑへの投影をA、ⓑからⓒへの投影をB、ⓐからⓒへの投影をCとしたもので、オリジナルに対しての二次的なものという意味合いを示したものです。右はそれを表にしたもので、表.42aの中に示した⑦x⇒と⑪x⇒とを導き出すのがここでの課題となります。

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ー 表.42b ー
丁未 崩年 ①⇒   C⇒②
甲寅 立太子 ③⇒   C⇒④
乙卯 即位 ⑤⇒ A⇒⑥  
甲子 遷宮   ⑦x⇒ B⇒⑧
冠位   ⑨⇒ B⇒⑩
乙丑 憲法   ⑪x⇒ B⇒⑫
丁卯 遷宮   ⑬⇒ B⇒⑭

 『日本書紀』は養老4年(720)に完成したとされていますから、ⓐの場合は乙卯(715)よりも後の出来事は基本的に存在しません。従って、ⓑやⓒへの投影は出来ません。表.42bからもそのように読み取れます。ⓐからの投影が可能なのは丁未と甲寅と乙卯の三つで、丁未と甲寅はⓒへ、乙卯はⓑへ投影されています。既に述べていることですが、丁未の場合は、文武の死を投影して用明の死としたもの。また、甲寅の場合は、聖武立太子を投影して聖徳太子立太子としたものです。
 さて、乙卯の場合ですが、これは元正の即位を投影して斉明の即位としたものです。ただ、そのためには斉明は前天皇の死去あるいは譲位を受けなくてはなりません。つまり、結果として孝徳の死を甲寅としなければならなかったいう事です。このことは、孝徳つまり天智は甲寅(654年)に死亡したというわけではないという事になります。では、天智はいつ死んだのだろう。
 確か前章では、天智の行き着く先は孝徳と斉明の17年間の他にはないと言いました。ついては、それをここで決めてみましょう。これは表.42bの ⑦x⇒ B⇒⑧ が即決められれば簡単なのですが、ただ両者の関係は互いが互いを補う関係つまり鶏と卵の関係のようなもので、悪く言えばというより正確には仮説による仮説の証明となります。しかし、これに関しての言訳は本章の中ほどで既に終えていると思います。また、各章での素人云々の記述もそうした意味での表現です。従って、これ以降はこうした言訳染みたもの言いは省くこととします。

 さて、24章では次の表を見せたと思います。これは漠然とした表で、各天皇の治世の末年も背景色のあるところ以外は確証の得られないものです。また、孝徳(天智)の末年をここでは662年としていますが、これは天智つまり孝徳と斉明の治世の末年が661年ではないことを暗に示しているだけであって正確なものではありません。それで、ここではもう少し正確な年代を割り出してみることにします。

ー 表.24c ー
宣化 欽明 推古(豊浦) 舒明 皇極 孝徳 推古(小治田)



檜隈天皇
阿毎多利思比孤
志帰嶋天皇
乎沙陁天皇
上宮法皇


等由羅天皇
敏達天皇

阿須迦天皇
用明天皇


池邊天皇
崇峻天皇
天智天皇




小治田天皇
~585? 622 ~628 641 646 ~662 671

 天智の治世は、池辺天皇(用明)と小治田天皇(推古)との間にあります。用明の崩年は丙午(646)ですから、これに孝徳と斉明の治世17年を加えると663年がはじき出されます。これがいわゆる天智の崩年という事になるのですが、これが合っているか如何かを確かめなくてはなりません。これを確かめる一番の手立ては、推古の元年が664年であることを証明することです。そこで、表.42bへ戻りましょう。
 664年はⓑの甲子に当たります。この証明は先ほども述べたように ⑦x⇒ B⇒⑧ を成立させることです。ⓒの B⇒⑧ は表.42aより推古が小墾田宮へ遷った記事です。これを、ⓑからⓒへの投影とした場合、推古が実際に小墾田宮へ遷ったのは664年となります。つまり推古が小治田天皇と呼ばれることになるのはこの年以降という事になり、この年が実質的推古元年となります。
 少し補足をしますと、推古紀によれば、推古は豊浦宮で即位をしていますが、推古を後世が豊浦天皇と呼んだのは王後墓誌の中でだけです。墓誌は何故推古を当世風に小治田天皇としなかったのか、それは豊浦天皇が小治田天皇とは別人だったからでしょう。墓誌が出来たのは668年近江遷都の直後です。そして、この時には小治田宮治天下天皇は既に近江大津宮治天下天皇となっていたとするのが私の見解です。無論、これだけでは説明としては不十分かもしれません。そこで、もう一つ付け加えて置きましょう。それは当初からの課題、⑪x⇒ B⇒⑫ 説くあるいは解くことです。
 B⇒⑫をⓑからⓒへの投影とした場合、X⑪はⓑでは何と呼ばれていたのか。それがここでの解題です。私はこれを、元明の言う不改常典と考えています。元明は女帝です。男帝を見習うよりも女帝を見習うことを優先するでしょう。しかも、小治田と東宮聖王が母子の関係だとしたら、文武と母子の関係にある元明にとって小治田は見習うべき先帝となります。
 ところで、天武は11年の9月に唐突な詔を発しています。それは、跪く禮や匍匐(はう)禮は止めて、難波朝の立禮を用いよというものです。このことは難波朝後に跪く禮と匍匐禮が用いられていたことを示すものですが、そうしたことをうかがわせる記事は斉明紀にも天智紀にもありません。しかし、奇妙なことには、そうした記事が難波朝の後にではなく前にはあるのです。推古12年9月、次のような詔の記事があります。「宮門を出入りする時は両手を地面につけて、両足を跪いて敷居を越えてから立って行け」と。推古紀には同じ年に十七条憲法制定の記事がありますから、この二つの記事をⓑからの投影と見做せば天武11年の詔も元明の不改常典も無理なく受け入れられることになります。