昭和は遠くなりにけり

古代に思いを馳せ、現在に雑言す。・案山子の落書・

§16 形としての8。

 今日、いや昔から我々は8を末広がりの縁起のいい数として捉えています。しかし良く考えてみれば、これは八という漢字が大陸から伝わって以降のことであり、日本古来からの捉え方ではありません。また、「記紀」にしても8を、八十、八十万、八百万といった、とにかく数が大きいことを表わすことに用いているようですが、これとて八卦の思想が伝わって以降のことでなければ、8をそのような意味で使うことはできないはずです。
 八卦の思想がいつ頃伝わったのか、それは分かりません。ただ、「隋書俀国伝」に阿毎多利思比孤の国の制度として "八十戸に一伊尼翼を置く"という記載があります。おそらく、600年代頃までには伝わっていたと思われます。そして、やがては形としての8が現れて来るようになります。

八角形と天皇の御世

形としての8は、奈良時代以前だと八角墳に、それ以降だと八角堂にその姿をとどめています。ただ、仏教建築である八角堂は、八角円堂ともいわれるように円の代用とみなすこともできます。また、八角墳にしても、これを天円地方の組み合わせである上円下方墳の変形とみなすこともできなくはありません。しかし、円墳や方墳は八角墳以前より存在しています。しかも、八角墳には単なる八角墳と上八角下方墳の二種類が存在し、素人目にも円墳と方墳の単純な組み合わせではないことだけは明らかです。
 ところで、形としての8の姿をとどめているものがもう一つあります。それは天皇の玉座である高御座(たかみくら)です。高御座という呼び名がいつの頃よりあるのかはわかりませんが、『日本書紀』には "壇場" と書いてタカミクラあるいはタカトノと読ませている記事が清寧・武烈・天武の紀に見えます。また、必ず "壇場を設けて" と記載されていることから即位や儀式の場合にのみ用いていたと思われます。ただ、武烈から天武までの200年近くの間、壇場を設けたという記事は見られず、壇場の設置は天武が最初であった可能性があります。そして、その時の壇場が八角形であった可能性もあります。

治天下天皇の御世から馭宇天皇の御世へ

 「記紀」に、"やすみししわがおおきみ" とほめたたえる歌謡があります。『記』の場合は漢字の音表記ですが、『紀』はすべて "八隅知" と訓で表記しています。八隅とは、八つの方位の隅のことで、八紘あるいは八荒ともでき、国や世界の隅々ひいては天下を言い表す言葉といえます。そうなりますと、"やすみししわがおおきみ" とは治天下大王の歌謡表現ということになりそうです。さて、古代での治天下という表現は、古くは江田船山古墳鉄刀の銘文にまで遡りますが、書は張安という半島系の人の手によるもので、歌謡表現の "やすみししわがおおきみ" の時代とはかなりの隔たりがあります。したがって、そういう意味でのもっとも古いものとしては船氏王後の墓誌ということになります。これが出来たのが668年で、天武の時代に非常に近くなっています。

惟 船氏故王後首者 是船氏中祖王智仁首児那沛故首之児也 生於乎沙陁宮治天下天皇之世 奉仕於等由羅宮治天下天皇之朝 至於阿須迦宮治天下天皇之朝 天皇照見知其才異 仕有功勲 勅賜官位大仁品為第 三殞亡於阿須迦天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅 故戊辰年十二月殯塟於松岳山上共婦安理故能刀自同墓 其大兄刀羅古首之墓並作墓也 即為安保万代之霊其牢固永刧之寶地也
①《王後の墓誌

 なお、八紘に関しては、神武紀に "八紘をおおいて宇とせんこと、亦よからざらむや" とあります。また、「古事記序文」には "天統を得て八荒を包む" ともあります。古代、天皇の御世を "治天下天皇" から "御宇あるいは馭宇天皇" に変わった時期があったとされていますが、思うに、御宇や馭宇に至るには、先ず御世という表現の時期がなくてはなりません。船氏王後の墓誌には、単に "天皇之世" とあるだけで御世とはありません。御世という表現は「古事記序文」に二度ほど用いられていますが、御宇や馭宇の表現は序文にはありません。このことから、序文の書かれた和銅年間(708~715)には、御宇や馭宇の表現は無かったと思われます。なお、慶雲4年(707)の威奈真人大村墓誌銘には御宇の表現があるそうです。一説では、御宇や馭宇の用字は大宝律令以後だともされています。
 馭宇の公的表現は養老五年十月の元明天皇の詔 "諡号は、其の国其の郡の朝廷馭宇天皇と稱せ" が最初です。また、この年の前年に『紀』完成の奏上が『続紀』に載っていることから、御世、さらには御宇や馭宇の表現は史書編纂の過程で生まれたものと思われます。思うに、御世は和文表記です。この和文表記を漢文表記らしくしたのが御宇や馭宇の表記だったのではないだろうか。そして、その本となったのが神武紀の "八紘をおおいて宇とせん" であったのかもしれません。
 では、御世の表現はいつ頃からあるのだろうか。御世の表記ではありませんが、"御" を同じように用いて、しかも王後の墓誌と同時代に書かれたと思われる金石文があります。

池邊大宮治天下天皇大御身勞賜時 歳次丙午年 召於大王天皇與太子 而誓願賜我大御病太平欲坐 故将造寺薬師像作仕奉詔 然當時崩賜 造不堪 小治田大宮治天下大王天皇東宮聖王大命受賜 而歳次丁卯年仕奉
②《法隆寺金堂薬師如来像光背銘》

丙寅年四月大旧八日癸卯開記 栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時 請願之奉弥勒御像也 友等人数一百十八 是依六道四生人等此教可相之也
③《野中寺弥勒像》

との二つです。
 紀年銘からみる限り、①の王後の墓誌が書かれたのが戊辰年(668)、②の金堂薬師如来は丁卯年(667)、③の野中寺弥勒像は丙寅年(666)となります。無論、②の金堂薬師如来については見当違いと指摘するとは思いますが、しかし①②③の文を見比べた場合、同じ時代に書かれたように見えることもまた確かです。とりわけ問題の②には、①にも③にも共通するキーワードがあります。それにしても、三年も続けてこうした金石分が出来たというのも不思議な気がします。あるいは、667年を境に何かがあったのかも知れません。『紀』によれば、667年に近江への遷都が敢行されています。
 8からは随分と離れてしまったようですが、こうした日本語的な文章には、その時代の話し方が反映されているように見えます。②と③押しなべて丁寧な敬語表現となっているのはそのせいでしょう。特に②は優しささえ感じられ、同じ法隆寺の金堂にある釈迦三尊像光背銘とは時代背景がまるで違っているようにさえ思えます。この釈迦三尊像光背銘ができたのが623年ですから、②とでは半世紀近くの隔たりがあるということになります。おそらくそれで好いのだと思います。
 思うに、文字による情報の記録が文であり文章です。これは読むことによって情報が引き出されます。また、言葉による情報の記録が話しであり語です。これは語らせるあるいは話させることによって情報が引き出されます。
 稗田阿礼が誦んだとされる『記』、ここには "御" を接頭語とする言葉がたくさん出てきます。『記』は②とそれほど遠く離れていない時期に話し言葉で書かれた語り物ということなのでしょう。それはさておき、古事記本文には御世を表わす言葉として "御世" と "治天下" の他は何もありません。つまり、天武の時代には "八紘" あるいは "八荒" は未だ掘り起こされていなかったということになります。しかし、周知のように天武は、八色の姓と、諸王と諸臣の合わせて8種60階の位階の制度を制定した天皇でもあります。しかも、彼の制定した制度はすべて8とかかわりがあり、正に8尽くしの観があるのです。そして、おそらく「古事記序文」が示す "昇りて天位に即きたまいき" 天皇である彼が天位に即くために昇った "壇場" は8角形であったはずです。
 それならば、天武の8は何処から来たのであろうか。しかし、その前に彼が定めた位階の制度を少し見てみましょう。

諸王12階 諸臣48階
明位 浄位 正位 直位 勤位 務位 追位 進位
4階 8階 8階 8階 8階 8階 8階 8階

 左は、天武が制定した位階を表にしたものです。位階は、明位から進位までの8種類、そのそれぞれに大と広の2つの階があり、明位を除くそれらの2階のそれぞれがさらに4つの階に分かれ、明位が4階になる以外はすべて8階となり、すべて合わせると60階になるというものです。
 ところで、この位階の構成数"1・2・4・8"、何かに似ていると思いませんか。そう、これは八卦の生成の構成数と同じなのです。しかも、あと4階を加えることが出来れば64階となり、易の64卦そのものになります。そこで、あとの4階を加えてみましょう。思うにそれは、太后天皇、皇后、太子の4階であったはずです。
 そもそも位階制定の時代、位階は天皇が自身と太子を除いた皇親と諸臣に与えたものです。したがって、与える側に位階がないのは当然です。しかし、天皇の位、太子の位という地位はあります。当然、太后や皇后にもあるはずです。
 「記紀」の時代延いては「記紀」の編纂された時代、太后や皇后がなんの抵抗もなく天皇位やそれに匹敵する地位ついたとする史実や物語があります。記紀の時代、それは取りも直さず天武の時代ですが、太后天皇、皇后、太子の地位は同等に近いものであったのやもしれません。少なくとも、太后、皇后、太子はそうであった可能性があります。そのように考えれば、"おおきみは神" と称えられた時代、明位の明は神明の明とするのが妥当かもしれません。もしそうであるなら、天神地祇の神明の位階は、天に4階、地に4階、合わせて8階があることになります。思うに、明こそは日月を表す文字。すなわち、陰と陽、天と地を表す文字なのです。
 なお、天武紀によれば明位を授かった者はいません。また、太子である草壁が位階を授けられたのも不可解です。草壁は果たして太子だったのか。歴史、すなわち歴史書。我々が今日歴史と呼んでいるものの本をたどれば歴史書に行きつきます。『紀』は事実も記すが、そうでないものも記す。②の法隆寺金堂薬師如来像光背銘にしても紀年銘通りの667年とすればすべて一つの齟齬もなく前後の金石文とつながるのです。8という数や紀年銘金石文がそのことを語っているようにも見えます。
 それにしても、天武を初め古代の日本人が8に思いをかけるさまには、並々ならぬものがあるようです。しかし、高御座と八角墳、古代人はどちらもが八角形であることに戸惑いを感じることはなかったのだろうか。生者と死者、そのいずれをも八角形の中に納めても良し、納まっても良しとする発想は何処から来たものなのだろうか。
 思うに、納めるあるいは納まるという以外、つまり八角形の上に立つあるいは座るということであれば、これを仏教に求めることは可能です。それは、仏像の多くが蓮華文を台座としているからです。そして、この蓮華文の基本的な形が、八弁の蓮華文なのです。
f:id:heiseirokumusai:20170717211316j:plain  左のⒸⒹⒺは、蓮華文を台座としている弥勒と観音像です。Ⓒは③の野中寺金銅弥勒菩薩半迦思惟像。画像は、門脇禎二・水野正好編の吉川弘文舘出版 河内飛鳥 より借用。Ⓓは百済観音像、Ⓔは九面観音像です。どちらも法隆寺の有名な菩薩像です。画像は、高田良信小学館出版 法隆寺の謎と秘話 よりの借用。
 なお、借用とは言っておりますが無断借用でございます。ⒶとⒷもやはりそうでございます。この二つは、森郁夫著ニュー・サイエンス社発行 考古学ライブラリー 43 瓦 からの借用です。なにとぞ御容赦のほどを。
 仏といえば蓮の花。仏像に蓮華文は欠かせないというのが日本に普通にある常識です。しかし、日本への蓮華文の最初は小さな仏像、たとえばⒸやⒹのような形で入って来たと思われます。そして、それらは一部の人の目に留まるだけでのものでしかなかったと思います。それが今日の常識を生み出すほど多くの人々の目に留まるようになったのは、やはり寺院の屋根の軒先を飾る瓦当て文様からだと思います。
 ⒶとⒷは寺院の軒先を飾った瓦当ての文様です。Ⓐは蓮華文のようには見えませんが、しかも六弁しかありません。実は、これは高句麗の瓦です。高句麗は古くから中国文化と接していたため瓦当ての文様も非常に簡略されたものとなっています。Ⓑは奥山の久米寺のもので見ようによっては八角形に見えなくもありません。なお、Ⓓの台座は6角形、Ⓔの台座は8角形となっており、台座と瓦当て文様とは何らかのかかわりがあるように思えます。それに、寺院には八角堂の他に六角堂も存在します。とは申しても、円の等分割は6や8が一番簡単だからと言われてしまえばそれまでの事ではありますが。
 ところで、寺院と言えば瓦、瓦と言えば蓮華文。それが当時の常識です。と言うのも、そもそも瓦は寺院で利用するためだけに日本に入ってきたものだからです。つまり、瓦と蓮華文すなわち寺ということなのです。それが何故か、藤原宮にも平城宮にも蓮華文の瓦が使われています。中国のように瓦やその文様が仏教とはかかわりなく発展していった国ならばともかく、日本のような事情では何らかの抵抗を感じると思われるのだが、それともこれも高御座と八角墳の場合と同じようになんの戸惑もなく受け入れたのだろうか。あるいは、天皇は神であり仏であるということなのかもしれません。
 無論そうしたこととは関係なく、高御座や八角墳を道教や古代中国の政治思想の影響として捉えることも可能です。しかし、その道教等にしても八角形を天下八方と主張できるのは八卦八方位の思想があって始めて可能となるものなのです。なぜなら、方位には八方位のさらに上の十二方位があるからです。かって日本では東南を巽(たつみ)、北西を乾(いぬい)と呼んでいました。巽は辰巳のことで、十二支の方位の辰と巳の方角を指し、乾は戌と亥の方角を指しています。そういう訳で、この十二方位から天下を見れば、天下八方とは呼べません。つまり、天下を八方で良しと言えるのは、偏に八卦のおかげなのです。