昭和は遠くなりにけり

古代に思いを馳せ、現在に雑言す。・案山子の落書・

§2.漢の倭の奴國はなかった。

 例えとしてはどうかとは思いますが… 先ずは始めましょう。

 大和は本来奈良盆地の東南地域だけを指しての呼称でした。それが時代が降るとともに拡大されて、先ず奈良県全体を指す呼称へと変わり、そして最後は大和民族という呼び方があるように日本の国を指す呼称へと変わって行きました。
 そこで、そうゆうことなら、漢委奴國、あるいは倭奴國、さらには伊都國の場合はどうかと考えてみたのです。そこで、時代を卑弥呼の時代まで降ってみましょう。すると、「魏志倭人伝」の記す戸数千余戸は狭義の伊都國、「魏略逸文」の記す万余戸は広義の伊都國とすればいいことに気がつきました。

漢委奴國の後裔

 邪馬台国親魏倭王の称号を持ち、30ヵ国もの国々を統治する王国です。官の配置は国家の威信を示すものです、何の決め事もなく官を配置することはあり得ません。そう考えての前回での仮説でした。この仮説、的は存外はずれてはいないと思います。そうなりますと、奴國、ますます取り除ける可能性が出てまいりました。しかし、「二萬餘戸 東南百里」がまだ残っています。
 そこで、仮説をもう一つ立てましょう。

● それは、奴國が漢委奴國か、あるいは伊都國が漢委奴國かということです。

 漢委奴國の初出は建武中元二年(57年)、後漢光武帝の時代です。『後漢書』に

倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬

とあります。
 後漢代で、倭國に関する公式外交記録としては、他に安帝の永初元年(107年)の記事

倭國王帥升等 獻生口百六十人 願請見

があるのみです。
 ただ、この倭國と委奴國とが別の国だとする見解もあるようです。なお、漢委奴國の表記は金印からのもので、『後漢書』の倭奴國のことです。
 倭奴國の前身については想像するほかありませんが、『漢書』の地理志に

…樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云…

とあります。
 このことから、倭奴國は楽浪郡設置のBC108年頃には百余国中の一国にすぎなかったと思われます。

 さて、百余国中の一国から徐々に国力をつけた倭奴國はやがて頭角を表わすとともに覇権を得て、中元二年(57)には後漢より漢委奴國王の称号を与えられています。BC108年頃に百余国あった倭人国が、この時期どの程度の数が淘汰されて減っていたかは分かりません。しかし、減った数の分だけ倭奴國が大きくなったことは確かでしょう。
 ところで、先ほどの永初元年に後漢王朝より倭國王という称号をうけた国が漢委奴國とは違う国だとする見解があるといいました。しかし、仮にそうだとしても、その国が漢委奴國を差し置いてどのようにして覇権を得ることが出来たというのだろう、それに違う国なら『後漢書』に当然そうした記載があるはずです。やはりこの時期、倭奴國は更に拡大し名実共に倭を代表する国家へと成長していったと見るべきでしょう。また、そう見ることで、この時期に最初の倭人国の王ではなくいわゆる倭国の王が誕生したと言い得ることが出来るようにもなります。

 思うに、『後漢書』が記す「倭國王帥升等 獻生口百六十人 願請見」というさりげない記事の裏に倭国大変貌があったことは確かなことです。なお、『北史』と『隋書』はこの国を倭奴國としています。

成長する古代国家

 倭奴國王と倭國王をとの違い、そこには隔絶するほどの権力の差があったはずです。そして、そのことが倭国を大乱へと導く要因となったと思われます。ただし、倭國王の表記を倭奴國王を単に略したものとする見方があります。しかし、略して尚且つ意味が通じるとされる倭奴國王の実力、そもそも生口百六十人を献じるという背景には倭奴國王の倭國王としての絶大の権力があったと想定する他はないでしょう。
 すなわち、倭奴國王から倭國王への変貌が倭国を変貌させた。そして、なによりも倭奴國そのものが大きく変貌した。このことを抜きにして、那珂川の入り江近辺に二万余戸の弥生国家奴國を想定したり、糸島半島の付け根に一万余戸の同じく弥生国家伊都國を想定したりすることは無駄というほかありません。

 ところで、倭奴國が膨張した場合どのようなことになるでしょう。単純には、膨張前の国に対する呼び名と膨張後の国に対する呼び名との二つの呼び名ができるはずです。つまり、以前のままの倭奴國と仮称大倭奴國とです。この場合、以前の倭奴國はどのように扱われるのでしょうか。おそらく、「倭人伝」の中の伊都國のように特別な地域として扱われるのではないでしょうか。もしそうだとすれば、漢委奴國は奴國にはなり得ず、伊都國へたいしてのみ可能となります。
 そうすると、伊都國は委奴國の別表記ということになります。おそらく伊都國と表記したのは委奴という卑字を嫌ったためと思われます。伊都國は、中国の使者が留まったり一大率が置かれてもいる特別な国です、そういったことは当然ありうることです。そして、そのように考えれば、倭奴國を「倭人伝」の記す戸数千余の伊都國とすることもでき、膨張した倭奴國を『魏略』逸文にある戸数万余の伊都國とすることも出来るようになるのです。しかも、「倭人伝」と『魏略』のいずれの記事もが妥当となり得るのです。

 さて、これまでに述べたこと、内容の是非は別として、齟齬を感じなかった読者は倭奴國を「いとこく」と読んだのだと思います。また、齟齬を感じた読者は「わのなこく」と読んだのだと思います。実は、この章の最初に「漢委奴國、あるいは倭奴國、さらには伊都國」としたためたのは倭奴國を「いとこく」と読んでほしかったからです。

漢委奴國は漢の倭の奴國か

 漢委奴國王を「漢の倭の奴国王」とする読み方は、漢委奴國を「魏志倭人伝」に載る奴國の前身と見ることから始まったものです。また、奴國を「なこく」と読むのは九州博多地区を儺県(ながあがた)と呼んだ時期があり、その名残りの那(な)によるものです。従って、この読み方が正しいかどうかは、儺県に漢委奴國の遺産が残されているかどうかを確かめればよいことになるはずです。
 ところで、前章では「記紀」に載る北部九州の三つの地名、末盧、伊都、宇美を「魏志倭人伝」の、末盧、伊都、不彌にそれぞれ対応させました。無論、これが正しいと言うのではありません。ただ、神功紀の分注に「魏志倭人伝」からの引用があることから、『日本書紀』そして『古事記』の編纂者が「魏志倭人伝」を読んでいると判断したからです。そして、それなら彼らはこの「魏志倭人伝」からどれだけの国名を理解しえたのだろうかと考え、神功記そして神功紀と仲哀紀とからこの三点セット(末盧・伊都・宇美)に至ったわけです。
 前章では、この「記紀」の三点セットと国生み神話とから、少し乱暴であったかもしれませんが、奴國の官制を末盧國へ移すことができました。また、「記紀」の三点セットという突拍子もないものに固執したのは、「記紀」編纂者らにも末盧から邪馬壹までの6ヵ国のうち、末盧、伊都、不彌の三国以外は理解でき得なかったという、いささかというよりもかなり乱暴な結論を引き出し、とどのつまりは、彼らの理解でき得なかった国は抹消、あるいは更地にして、理解のできる形に再構築するべきという、これもまた乱暴な結論に至ったわけです。
 思うに、「記紀」の編纂者にも分からなかった地名が現代の我々に分かるはずはありません。まして、通説にとらわれて奴國を那国とすることに固執してしまっては、せっかく神功紀にも、かつ神功記にも那の県どころか那の津さえも姿が見えていない事実を無駄にしてしまう事になります。そもそも、当時の港が伊都の近辺にあったことは「魏志倭人伝」が述べていることでもあります。港を支配することは当時の覇者の必須の条件です。もし覇者である漢委奴國王が奴國の王であるならば、当然漢委奴國王の最大の遺産である港は奴國にあり、加えて倭國の港を管理する一大卒は当然奴國に居たはずです。しかし、一大卒が居たのは伊都國です。それに、通説が奴國とする地域に、奴國を覇権国家へと導けるような港があったかどうか、疑問です。

奴國と儺県は有名無実の関係

 下の図は神功紀と仲哀紀に載る北部九州の海に面した4つの県の凡その位置関係を示したものです。

 さて、仲哀紀によれば天皇一行が筑紫に入ることを聞きつけた岡県主が船で周芳の沙麼に出迎えたといいます。周芳の沙麼は今の山口県防府市あたりですから非常に遠くから出迎えたことになります。また、同じように聞きつけた伊都県主が今度は穴門の彦島に船で出迎えたといいます。穴門の彦島というのは今の山口県下関市ですからこれも非常に遠くから出迎えたことになります。
 こうした出迎えは、天皇の権威の表れと言ってしまえばそれまでですが、ただそうだとしても実は儺県主がなぜかこれに加わっていない。順序からすれば、岡県主の次が儺県主となるべきだと思うのだが、それとも権威の誇示よりも地名説話の有る無しの方が大事ということなのだろうか。しかし、岡県主には何の説話もないのです。それに説話と言っても所詮はこじつけですから、無ければ作ればいいだけのことではないだろうか。どう割り引いても、儺県主が顔を出さないのは不可解です。
 そもそも儺県は筑紫の表玄関とも呼べる那の津を擁する古代の地方行政区域です。しかも仲哀紀をしたためた『日本書紀』の編纂の時期には那の津は那の大津とも呼ばれ遣唐使船等の出発港でもありました。従って、そうした行政区域からの天皇への出迎えの記事のない仲哀紀は、それを編纂する側にもまたそれを読む側にも不自然な感を与えるのではないだろうか。しかし、この港が出来たのが当時の人の記憶に残るほど新しいものだとしたら如何だろう、当然仲哀天皇の時代では天皇を出迎える船はなかったということになり、誰もがそうした記事のないことにも得心するのではないだろうか。

 ところで、古代では唐津湾から博多湾にかけての津の中心は糸島水道にあった可能性があります。糸島水道というのは図.2bにあるように糸島半島のつけ根部にある唐津湾に開いた河口と博多湾に開いた河口とが繋がっている状態をいうものです。しかも時代を遡れば遡るほどこの二つの河口は奥行きも広かったということでもあります。従って、この水道が塞がったとしてもこの二つの河口は港として充分に機能したろうということです。

 卑弥呼の時代、この水道は当然開いていました。しかし、神功紀が書かれた時代、この水道は閉じていました。しかし、神功紀が書かれた時代においてさえこの糸島の港は有名だったようにも見えます。
 たとえば、神功紀によれば、神功皇后新羅遠征への筑紫での出発地点をこの糸島の港としているように見えます。無論、懐石の説話のために糸島つまり伊都に立ち寄らせたとも出来ますが、伊都の説話は既に仲哀紀に載っているのです。それに何より『古事記』では皇后が新羅遠征から帰還し、懐石を捨てたところが伊都だとしているのです。つまり伊都は、皇后の本土上陸の最初の地点であり本土出発の最後の地点だという事を「記紀」は教えているのです。しかもこの糸島の港の有名さは、「記紀」編纂の時点まで語り継がれるほど長い期間そうであったことをも教えているのです。

 卑弥呼の時代、通説が奴國とする地域に国家が管理するほどの港はなかった。しかし、伊都國には後世に語り継がれるほどの港があった。つまり、奴國には古代の覇者の必要条件とされる有力な港がなく、伊都國にはそれがあった。従って、奴國を古代の覇者漢倭奴國の後裔とすることはできないが、伊都國をそれとすることはできるということです。
 どうやら奴國を通説から切り離し浮き上がらせることだけは出来たようです。ただし、これはあくまで奴國と伊都國とが異なった国である場合のことでの結論です。本当に証明しなくてはならないのは、漢倭奴國⇒(倭)奴國⇒伊都國なのです。しかし、漢倭奴國を「漢の倭の奴国」と読む限り、また奴國を「なこく」と読む限りこの証明は不可能です。つまり、この場においては「漢の倭の奴国」はなかったとする他はないのです。

♪.こちら666放送。

 近近二回目の米朝会談が行われるとか。
 ところで、6月12日の一回目の米朝会談、巷では異様な噂が囁かれていたのですが、何事もなく終わったようです。
 ちょと、その当時の葛城村チンプイ放送でも聞いてみますか。

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「御隠居さん、米朝会談が終わりましたね」

  --☏--

「そうじゃのう、ババ抜きゲームの次は核抜きゲームということじゃったんかのう」
「巷では、6月12日は666という悪魔の数になるというので随分と騒いでおったが」
「それにシンガポールは死ンガポールにも出来るというので、なんか異常なことでも起こるんかと思ったりもしたんじゃが、呆気なかったのう」
「これだったら桂米朝の落語でも聞いといた方が良かったかのう」

「何、朝日会談が予定されていると」
朝日新聞にでも書いてあったか」
「それにしても朝日会談とは言わずに、何で日朝会談と言うのかいのう」
朝日新聞の宣伝になるからかいのう」

「ところで666という数じゃが、わしは昔フリーメーソンの数と聞かされたことがあるんじゃが」
「なんでもこれは完全格差社会を目指す秘密結社らしいのじゃが」
「トランプはどうもフリーメーソンらしいかのう」

「どうやら米朝会談というのは、完全核差を目指す米国と、完全核差に反発する北朝鮮との核差ゲームじゃったらしいのう」
「で、どうなったて」
「核差で逃げられたらしいのう」
「何でも、36計逃げるに如かずということらしいからのう」
「何せ、6掛ける6は36じゃきにのう」

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 皆様。女が三人寄れば姦しいと申します。
6でなしが三人並びますと越路吹雪フリーメーソンと申します。
そこで皆さん完全格差社会を阻止するためにも例の呪文を唱えましょう。

 けっこうけだらけ ねこはいだらけ
        チチンプイプイ たむろっど

結構でございました。

§44.平城京の交差点、大極殿と東大寺大仏殿。

 交差点とは、道の集まるところであると同時に道の分かれるところでもあります。そういう意味では分岐点とも起点ともさらには中心とも呼べるものでもあります。

 「記紀」の書かれた時代、その時代の中心は平城宮第一次大極殿にありました。その大極殿玉座にいたのが元明と元正、二人の女帝です。そして、この二人の女帝の時に日本の歴史の起点「記紀」が成立しているのです。
 では、「記紀」は二人の女帝のために書かれたものなのだろうか。…
否、そうではありません。しかし、その答えは二人の女帝の居た大極殿玉座の東と南とに目を遣ればたやすく見つかります。

 上図からもわかるように、平城宮第一次大極殿の東には聖武陵があり、南には見瀬丸山古墳があります。しかも、聖武陵は一条小路ときれいに重なっていますし、朱雀大路は見瀬丸山古墳を起点とする下ツ道と直結しています。つまり大極殿は下ツ道と一条小路との交点つまり交差点に位置しているのです。
 周知のように、平城京一条小路は計画の上でのものです。下ツ道もまた計画の上でのものです。そうしますと、大極殿聖武陵もまた計画の上でのものということになります。しかも、聖武陵よりも早くできた大極殿の位置は後からできた聖武陵の位置に拠っていると…。
 何度か言ったことですが、「記紀」は聖武天皇のために書かれたものであると。そして、今またそれに大極殿を中心あるいは交差点とする平城京もまた聖武天皇のために造られたという一言を新たにつけ加えることとなります。

平城京条路の基準

 平城京都城の形は、その前後に出来た藤原京平安京がきれいな矩形であるのに対してその東に矩形の出っ張り部りを持つ歪な形をしています。またその宮域部もこれに合わせてか、やはり東に出っ張り部を持っています。
 思うにその原因は、平城京があまりに北により過ぎていることにあるのではないかと。 実際、平城京を一条ほど南に引き下げますと、宮域にかかる大型古墳の破壊は免れ、しかも一条北大路はウワナベ古墳とその東の丘陵部から離れることが出来、計画上だけではなく現実の大路として東四坊大路と真っ直ぐに繋がるのです。また、京域を今度は東に一坊ほどずらしますと、東西五坊ずつの十坊の京域が得られて、出っ張り部の外京に配せられた寺院を全て京域矩形内に収めることが出来るようになります。
 無論、九条十坊の京城などを想定することは、九条八坊を古代の京城の基本のあり方とする定説からは随分と逸脱するものです。しかし、平城京はその形からして既に逸脱しているとも言えます。また近年聞くところによると、十条大路の遺構が見つかったとか。こうなると、これは逸脱というよりも自由な京城造りと言い換えたほうが好いかもしれません。ただ、そうなるとなぜ京域を必要以上に北に偏らせたのかということになります。

 周知のように、藤原京平城京の南北に走る大路が下ツ道を基準にしていることは誰もが認めている事実です。では、京域を東西に走る大路は何を基準としているのだろう。藤原京の場合は横大路がそれとされています。しかし、平城京の場合、何々が基準となっているといった話は未だ聞いたことがありません。しかし、何かを基準としていることは確かなことです。そして、その基準に合わせた結果、平城京は必要以上に北に偏ってしまったと。
 無論、その基準とは聖武天皇陵のことなのですが、その前に。
 藤原京の中軸線の延長線上に山科山陵と野口王墓があることは古代史に興味のある者なら誰もが知っていることだと思います。しかし、平城京の中軸線上に見瀬丸山古墳と聖武天皇陵のあることは誰も知らないというより、誰も言った験しがないと言うべきかもしれません。実際、見瀬丸山古墳はともかく聖武陵は中軸線上にはないのですから。しかし、大極殿平城京の中心と見れば、これを東西によぎる線、ここでは一条小路(条間路)となりますが、これは紛れもなく中軸線と言えます。
 ところで、平城宮の形、これはいわゆるカギ形をしています。カギ形というのは細長い矩形を直角に折り曲げた形で、平城宮でいえば南北に延びている宮城(矩形)を東のほうに折り曲げた形と見做せます。つまり、南北に延びる中軸線が宮域で東に曲げられたということになるのです。そして、このように解釈すれば、平城京の中軸線上に見瀬丸山古墳と聖武陵があると言える事にもなります。
 無論これだけでは説得力に欠けるかも知れません。しかし、曲げられているのは何も平城京の中軸線だけではないのです。実は、藤原京の中軸線もまた曲げられているのです。

 藤原京の中軸線を北に延ばすと、平城京内では東二坊大路となります。そして、この二坊大路は図.44aからも分かるように、平城宮の東で折り曲げられて一条大路に繋がっています。なお、通説では二坊大路が直進を遮られ東に折り曲げられた原因を大路北進方向前面にある海龍王寺としています。また通説によれば、海龍王寺は平城京建設以前から存在している何らかのいわくのある寺であるため、二坊大路をこの寺域の手前で曲げる他はなかったのではないかともしています。
 思うに、東二坊大路は藤原京の中軸線です。この中軸線が曲げられたということは、この先に位置する山科山陵との繋がりが断たれたということになります。では、なぜ山科山陵との繋がりを断ったのだろう。それは前章でも少し述べているように、天智天皇が廃仏派であったことによることが最大の理由と思われますが、あるいは文武天皇の遷都宣言によるものかもしれません。しかし、それはともかく中軸線は曲げられるということです。しかも、これによって大極殿を通る中軸線の両端に陵墓があるという藤原京の原則、無論藤原京だけでは原則とは呼べないのですが、それが平城京にも当て嵌まるとなると、これはやはり原則ということになるのです。

聖武陵を決めた法隆寺山田寺

 大極殿を通る中軸線の両端には陵墓がある。余談かもしれませんが、藤原京の場合はどちらも天皇陵です。そうなると、平城京の場合も天皇陵でなくてはならなくなります。つまり見瀬丸山古墳の主は天皇であると。
 それはともかく、平城京の条路の基準となる聖武陵の位置をどうやって決めたのであろう。前章でも、またこれまでにもそれについての凡そのあらましは述べていますので改めて説明するまでもないとは思いますが、少し付け加えておきましょう。

 上図.44aの中で平城京造営計画以前より存在するのが法隆寺山田寺です。そして、何度も言っているように、法隆寺から北東に延ばした線上に聖武陵があるのです。無論、これは正確にと言いきれるものではありません。また、山田寺から北に延ばした線上にも同じく聖武陵がありますが、無論、これも正確にというわけではありません。実際、この二つの交点は正確には聖武陵よりも少々南寄り且つ西よりの位置にあります。
 さて、この場合この位置に必要とされるのはこの大極殿の主の陵墓となるもの、欲をいえば陵墓と見做せるものです。それは小高くふくらんだ丘が最適ということなのですが、地形図を見れば分かると思いますが、この位置のすぐ北に佐保丘陵の飛び出しがあるのです。これは稀有の偶然というよりも、古代人には神意と見えたかもしれません。

 ところで、多少の反論はあるとは思いますが、『古事記』は元明天皇の代に完成しています。また、『日本書紀』が完成したのは元正天皇の代であります。しかし、この編纂を命じたのは間違いなく元明でしょう。また、元明が孫の聖武のために「記紀」を編纂させたことも間違いのないことでしょう。思うに、「記紀」はいわゆる過去を扱う歴史書です。しかし、「記紀」には未来の王である聖武への願望が託されています。ある意味では、元明は孫の聖武の未来をも編纂させたとも言えるのかも知れません。そして、おそらく聖武の陵墓をも。
 思うに、聖武聖徳太子の生まれ変わりとしたいというのが元明の願望ではなかったのか。また、聖武に祖父蘇我倉山田麻呂の造寺造仏の遺志を引き継がせたいというのが元明の願望ではなかったか。そして、そのために法隆寺の北東の地と山田寺の北の地の重なるところを聖武陵と定め、その陵を基準として東西に引いた直線を平城京の中軸線とし、それと南北に引かれたもう一方の中軸線との交点を大極殿とする平城京を造営した。これ、全ては聖武のためであり、同時に元明の願望でもあった。

 天平17年(745)、聖武元明の願望に答えるかのように平城京の東の地において大仏の建立を始めます。さて、この大仏建立の地とされた位置ですが、あるいはこれも元明の願望の地しかも正確な位置であったのかもしれません。

 上は、法隆寺山田寺東大寺の金堂と塔との配置図です。なお、縮尺は同じではありません。
 さて、この三つの寺、図を見る限りにおいては三者三様の塔と金堂の配置となっています。しかし、東大寺から法隆寺山田寺とを見た場合必ずしもそうとは言い切れないのです。東大寺の場合、普通西塔と金堂と東塔という風に東西関係で捉えられるのですが、これを南北関係で捉えると東大寺の塔は全て南塔ということになります。これは正に山田寺と同じです。
 ところで、東大寺の中軸線、これは普通、南大門、金堂(大仏殿)、講堂といった南北の軸で捉えることになります。この図ではほかに山田寺がそうなっています。しかし、法隆寺の場合は如何でしょう。この場合、中軸線を南北で捉えるのは難しいのではないだろうか。そうすると、東西で捉えることになります。
 しかし、もしかしたら法隆寺の金堂は南面しているから東西の線は金堂の側面を貫くため中軸線とは呼べないと言うかもしれません。しかし、それなら橘寺の場合は如何だろうか。
 橘寺は、東西に塔と金堂が並びしかも金堂は塔に向かいあっています。従って、この場合東西に引かれた線は、塔の中心を通りぬけ、さらに金堂の正面からその中心を通り抜けるようになります。つまりは中軸線となるわけです。

 平城京の中軸線線でも述べたことですが、中軸線は南北だけとは限らず、東西にも想定が可能です。平城京についていえば、大極殿を通るものが中軸線であると。これを寺に当てはめれば、塔と金堂を通るものが中軸線であると。
 そこでもう一度、図44bに目を遣ると、東大寺の中軸線は聖武陵と東大寺西塔と東大寺金堂とを結ぶ線だということがわかります。また、聖武陵や東大寺の西と南に位置する法隆寺山田寺、そのそれぞれの中軸線をそれぞれ西と南からたどれば共に塔そして金堂へと続きやがて聖武陵を経て東大寺の塔そして金堂へと繋がります。つまりこの三つの寺の塔と金堂の配置は同じだということになります。しかも、東大寺の金堂つまり大仏殿を通る中軸線は聖武陵を経て平城京大極殿にも繋がったことになります。

聞き違い、言い違い。書き違い。(他人事コーナー e8 社会と笑い)

遠い昔の話でございます。

 巷では、TPPが良いの、あるいはTTPが良いのと大騒ぎをしているようです? これを葛城山から眺めていますと、てってってっ、ぺっぺっぺっ と、ただ唾を飛ばしあっているようにしか映りません。

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 さて、h抜き、玉抜き、骨抜き、ババ抜きは別として、巷ではアベノミクス三本の矢が抜けたという噂もございます。何でも、アメリカ抜き、核抜き、拉致抜きがそれだそうですが、世捨て人の身しかとは分かりません。
 私のように千数百年も生きていますと、見間違い、聞き違い、言い違いはしょっちゅうでございます。それにつけても思うことですが、安倍総理の質疑への応答を聞いていますとなぜか質問とは違った応答がされているように感じられます。総理ほどの者でも聞き違いや言い違いはしょっちゅうなされるのかと、まあ年だけは取りたくないものでございます。それに較べれば、マア、私の書き違えなど消しゴムで消すまでもないことにございます。

 そもそもこのコーナーは、正確には「 悪事(まがごと)も一言 善事(よごと)も一言 役君小角の他人事(ひとごと)コーナー」 という長ったらしいものです。モデルとしておりますのは、役君小角と葛木の一言主大神の二人です。通説ではこの二人は立役と敵役の関係となっていますが、役君小角がいたのは文武天皇の時代で一言主大神がいたのは雄略天皇の時代ですから両者の間には2百年以上のもの隔たりがあります。また、通説の元となった『日本霊異記』や『続日本紀』は役君小角の死後百年ほど経ってからのものですので、史実といえるのは役君小角が伊豆島へ配流されたということだけだと思います。
 ここでは役君小角を一言主大神の子孫に設定し、小角に「悪事も一言、善事も一言」という一言主大神の役割をさせて、有る事有る事を喋らせております。無論、無い事無い事も喋っております。まあ、内容は読んでの如くでございます。
 ただ、惜しむらくは本ブログを始めて2ヶ月近くになるというに、未だにクモの巣ブログでございます。広告の一つも入れて一丁前に決めてみたいのですが、そういった気にもなれません。と、まあ「悪事も一言、善事も一言」と言うより独り言のようなものでございます。とまあこれは以前のブログでの愚痴でございます。

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そこで、つまらない一言を放ってしまった皆様。
その一言を取り除く特別な呪文を お教えいたしましょう。

色即是空 空即是色
 因果は巡る風車 チンチンポイポイ ポイ捨て
  要らないのいらないの 飛んでけー

結構でございました。

環太平洋パートナーシップ

 環太平洋パートナーシップ協定(TPP)という言葉を聞いて随分と久しくなります。恥ずかしい話ですが、TPPがいつの間にやら記憶の中でTTPとなっていました。まあ、そのくらい久しかったということでしょうか。
 ただ、そのTPPも今日ではTPP11となっているとか。時代は年と共に常に変わっていくようです。
 ところで、インターネットスラングにh抜きのttpがあるとか。そうしますと、差し詰めTPP11はアメリカ抜きのTPPということになるのでしょう。

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 TPPからアメリカが離脱をしてから、TPPの風向きにいろいろの変化が起こっているようです。とは言っても、本来TPPは「小国同士の提携によって市場価値を上げる」というのを目的の一つとしていたと聞きます。従って、アメリカの離脱は不自然とは言えず、むしろ日本がこれにとどまることの方が不自然とさえ言えそうです。もしかしたら風向きに変化を与えているのは日本なのかもしれません。

 さて、TPPの細かいことには立ち入らず、先ず貿易ということだけについて考えてみますと。貿易というのは輸出と輸入の二つから成り立っています。無論、これは誰もが知ることでしょう。しかし、輸出100%と輸入100%の意味を知っているかというより、これについて考えたことがあっただろうかということなのですが。しかし、それよりも輸出200%とか輸入200%とかと言った言い回しが成り立つのか如何かと問い直した方がいいのかもしれません。
 結論から申しますと、輸出の200%はあるが、輸入の200%はないということになります。つまり、必要以上に輸出は出来ても、必要以上の輸入は出来ないということです。思いますに、裕福な国というのは必要なものは全て輸入をしています。一方貧しい国は必要なもの全てを輸入しているわけではありません。従って、仮に関税が撤廃されて商品が安くなったとしても、裕福な国の輸入が増えるわけではありません。しかし、貧しい国の場合はあるいは増えることになるのかもしれません。
 さて、その貧しい国も加盟するというTPP。そのTPPが掲げるのが関税の完全撤廃、全ての国に適応される平等な条件です。しかし、その平等なはずの条件から上に述べたような不平等が生じます。おそらくTPPのようなものが世界中に施された場合、裕福な国の輸出は増え、貧しい国の輸入が増大することは確かでしょう。

 誰もが感じているように、世の中は必ずしも平等に出来ているわけではありません。たとえそこに完璧とも言えるほどの平等な条件を宛がったとしても平等になるわけではありません。また、TPPに入れば何処かの国に対して有利になるなどというのは小さなものの見方です。この小さなものの見方が世界を歪に導き、アメリカをTPPから離脱させた要因ともなっているようにも見えます。
 最初にも述べたように、TPPは小国間の連携というものがその基礎となっています。これは明らかに大国を意識してのもので、大国と対等に張り合うための小国間の連携協定それがTPPであると。しかし、小国の上にいくら小国を重ねようと大国とはなり得ません。それは不平等の上に幾ら平等を重ねようと平等とはなり得ないのと同じです。

 思うに、不平等は小国にも大国にも存在します。たとえば経済大国日本、この国は完全無欠のTPP47とも呼べる都道府県でできています。しかし、この国では地方の疲弊、都市部の繁栄、一票の格差といった不平等への進行が始まっています。もしかしたら、TPPの行き着く先は不平等貿易なのかもしれません。

 思うに、社会の不平等をなおざりにして、貿易や経済だけの平等を謳ったとしても、どこからも拍手喝采は得られないのではないだろうか。

 

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なぁーんも なぁーんも
寛容 寛容
へば 寛容

何事も寛容寛容へば寛容、誠惶誠恐、頓首頓首。