§3.古事記崩年干支の示すもの。
『古事記』には15個(①~⑮)の崩年干支があります。下表.3aがそれです。
① | ② | ③ | ④ | ⑤ | ⑥ | ⑦ | ⑧ | ⑨ | ⑩ | ⑪ | ⑫ | ⑬ | ⑭ | ⑮ |
推古 | 崇峻 | 用明 | 敏達 | 安閑 | 継体 | 雄略 | 允恭 | 反正 | 履中 | 仁徳 | 応神 | 仲哀 | 成務 | 崇神 |
戊子 | 壬子 | 丁未 | 甲辰 | 乙卯 | 丁未 | 己巳 | 甲午 | 丁丑 | 壬申 | 丁卯 | 甲午 | 壬戌 | 乙卯 | 戊寅 |
これを1501年(19年×79章)の干支年表に貼り付けてみましょう。おそらく、誰もが推古天皇の崩年干支、戊子年から始めると思います。この戊子年は『記』・『紀』共に一致する最初の干支で、それは628年に当たります。あとは順次遡って崇神天皇崩年干支、戊寅318年に至ります。下は、その結果であります。
───────────── 脊椎骨 ───────────── 庚午・辛未・壬申・癸酉・甲戌・乙亥・丙子・丁丑・戊寅・己卯・庚辰・辛巳・壬午・癸未・甲申・乙酉・丙戌・丁亥・戊子 ⑮戊寅(318)崇神崩 己丑・庚寅・辛卯・壬辰・癸巳・甲午・乙未・丙申・丁酉・戊戌・己亥・庚子・辛丑・壬寅・癸卯・甲辰・乙巳・丙午・丁未・ 戊申・己酉・庚戌・辛亥・壬子・癸丑・甲寅・乙卯・丙辰・丁巳・戊午・己未・庚申・辛酉・壬戌・癸亥・甲子・乙丑・丙寅 ⑭成務・⑬仲哀 丁卯・戊辰・己巳・庚午・辛未・壬申・癸酉・甲戌・乙亥・丙子・丁丑・戊寅・己卯・庚辰・辛巳・壬午・癸未・甲申・乙酉・ 丙戌・丁亥・戊子・己丑・庚寅・辛卯・壬辰・癸巳・甲午・乙未・丙申・丁酉・戊戌・己亥・庚子・辛丑・壬寅・癸卯・甲辰 ⑫甲午(394)応神崩 乙巳・丙午・丁未・戊申・己酉・庚戌・辛亥・壬子・癸丑・甲寅・乙卯・丙辰・丁巳・戊午・己未・庚申・辛酉・壬戌・癸亥 ⑪仁徳・ 甲子・乙丑・丙寅・丁卯・戊辰・己巳・庚午・辛未・壬申・癸酉・甲戌・乙亥・丙子・丁丑・戊寅・己卯・庚辰・辛巳・壬午 ⑩壬申(432)履中崩 癸未・甲申・乙酉・丙戌・丁亥・戊子・己丑・庚寅・辛卯・壬辰・癸巳・甲午・乙未・丙申・丁酉・戊戌・己亥・庚子・辛丑 ⑧允恭・⑨反正 壬寅・癸卯・甲辰・乙巳・丙午・丁未・戊申・己酉・庚戌・辛亥・壬子・癸丑・甲寅・乙卯・丙辰・丁巳・戊午・己未・庚申・ 辛酉・壬戌・癸亥・甲子・乙丑・丙寅・丁卯・戊辰・己巳・庚午・辛未・壬申・癸酉・甲戌・乙亥・丙子・丁丑・戊寅・己卯 ⑦己巳(489)雄略崩 庚辰・辛巳・壬午・癸未・甲申・乙酉・丙戌・丁亥・戊子・己丑・庚寅・辛卯・壬辰・癸巳・甲午・乙未・丙申・丁酉・戊戌・ 己亥・庚子・辛丑・壬寅・癸卯・甲辰・乙巳・丙午・丁未・戊申・己酉・庚戌・辛亥・壬子・癸丑・甲寅・乙卯・丙辰・丁巳 ⑥丁未(527)継体崩 戊午・己未・庚申・辛酉・壬戌・癸亥・甲子・乙丑・丙寅・丁卯・戊辰・己巳・庚午・辛未・壬申・癸酉・甲戌・乙亥・丙子 ⑤安閑 丁丑・戊寅・己卯・庚辰・辛巳・壬午・癸未・甲申・乙酉・丙戌・丁亥・戊子・己丑・庚寅・辛卯・壬辰・癸巳・甲午・乙未・ 丙申・丁酉・戊戌・己亥・庚子・辛丑・壬寅・癸卯・甲辰・乙巳・丙午・丁未・戊申・己酉・庚戌・辛亥・壬子・癸丑・甲寅 ④甲辰(584)敏達崩 乙卯・丙辰・丁巳・戊午・己未・庚申・辛酉・壬戌・癸亥・甲子・乙丑・丙寅・丁卯・戊辰・己巳・庚午・辛未・壬申・癸酉 ③用明・②崇峻 甲戌・乙亥・丙子・丁丑・戊寅・己卯・庚辰・辛巳・壬午・癸未・甲申・乙酉・丙戌・丁亥・戊子・己丑・庚寅・辛卯・壬辰 ①戊子(628)推古 ───────────── 脊椎骨 ───────────── |
たった是だけのことではありますが、骨格の中でも一番大事な6個の脊椎骨を得ることができました。この6個というのは表からも分かると思いますが、同一の列に並ぶモード19で整えられた干支なのです。
ところで、実はこれと同じモードによるものと思われる箇所が『日本書紀』に見出せるのです。
下に示したのがそれです。
───────────── 脊椎骨 ───────────── 癸卯・甲辰・乙巳・丙午・丁未・戊申・己酉・庚戌・辛亥・壬子・癸丑・甲寅・乙卯・丙辰・丁巳・戊午・己未・庚申・辛酉・ 壬戌・癸亥・甲子・乙丑・丙寅・丁卯・戊辰・己巳・庚午・辛未・壬申・癸酉・甲戌・乙亥・丙子・丁丑・戊寅・己卯・庚辰 孝安崩年・孝霊元年 辛巳・壬午・癸未・甲申・乙酉・丙戌・丁亥・戊子・己丑・庚寅・辛卯・壬辰・癸巳・甲午・乙未・丙申・丁酉・戊戌・己亥・ 庚子・辛丑・壬寅・癸卯・甲辰・乙巳・丙午・丁未・戊申・己酉・庚戌・辛亥・壬子・癸丑・甲寅・乙卯・丙辰・丁巳・戊午・ 己未・庚申・辛酉・壬戌・癸亥・甲子・乙丑・丙寅・丁卯・戊辰・己巳・庚午・辛未・壬申・癸酉・甲戌・乙亥・丙子・丁丑・ 戊寅・己卯・庚辰・辛巳・壬午・癸未・甲申・乙酉・丙戌・丁亥・戊子・己丑・庚寅・辛卯・壬辰・癸巳・甲午・乙未・丙申 孝霊崩年・孝元元年 丁酉・戊戌・己亥・庚子・辛丑・壬寅・癸卯・甲辰・乙巳・丙午・丁未・戊申・己酉・庚戌・辛亥・壬子・癸丑・甲寅・乙卯・ 丙辰・丁巳・戊午・己未・庚申・辛酉・壬戌・癸亥・甲子・乙丑・丙寅・丁卯・戊辰・己巳・庚午・辛未・壬申・癸酉・甲戌・ 乙亥・丙子・丁丑・戊寅・己卯・庚辰・辛巳・壬午・癸未・甲申・乙酉・丙戌・丁亥・戊子・己丑・庚寅・辛卯・壬辰・癸巳 孝元崩年・開化元年 甲午・乙未・丙申・丁酉・戊戌・己亥・庚子・辛丑・壬寅・癸卯・甲辰・乙巳・丙午・丁未・戊申・己酉・庚戌・辛亥・壬子・ 甲戌・乙亥・丙子・丁丑・戊寅・己卯・庚辰・辛巳・壬午・癸未・甲申・乙酉・丙戌・丁亥・戊子・己丑・庚寅・辛卯・壬辰 舒明元年 癸巳・甲午・乙未・丙申・丁酉・戊戌・己亥・庚子・辛丑・壬寅・癸卯・甲辰・乙巳・丙午・丁未・戊申・己酉・庚戌・辛亥 舒明崩年・皇極元年 壬子・癸丑・甲寅・乙卯・丙辰・丁巳・戊午・己未・庚申・辛酉・壬戌・癸亥・甲子・乙丑・丙寅・丁卯・戊辰・己巳・庚午 斉明元年・天智元年 ───────────── 脊椎骨 ───────────── |
『日本書紀』には、神武東征元年から始めて持統天皇まで、太歳紀年干支が44個ほどあります。そして、そのうちの4個、1割弱ほどが『古事記』のモードと合ったことになります。
・・孝霊・孝元・開化・・・ ・・皇極
これが多いか少ないか、とにもかくにも痕跡とは呼べそうです。しかし、この痕跡、決して小さくはありません。と言うのもこのモードのあるところがいわゆる欠史8代の箇所だからです。つまり、『古事記』には崇神以前にも骨格があるらしいと言うことになるのです。
そこで、あらためて崇神までの骨格を書き並べてみました。
・⑮崇神・⑫応神・⑩履中・⑦雄略・⑥継体・④敏達・
そして、これをさらに次のように書き換えてみました。
・○・‥…‥・○・○・崇神・応神・履中・雄略・継体・敏達・○・
そして、「・○・」に当たる部分を補っていくことにします。補い方は19のモード、あるいはその整数倍のモードとします。
そうすると、19の2倍の38年毎に天皇の治世が代われば良いことが分かります。下がその主要な部分の結果です。なお、右欄に説明の無い白抜き文字にはポインタ表示で説明をつけています。
───────────── 脊椎骨 ───────────── 甲子・乙丑・丙寅・丁卯・戊辰・己巳・庚午・辛未・壬申・癸酉・甲戌・乙亥・丙子・丁丑・戊寅・己卯・庚辰・辛巳・壬午 甲子(BC.717)邇邇芸 癸未・甲申・乙酉・丙戌・丁亥・戊子・己丑・庚寅・辛卯・壬辰・癸巳・甲午・乙未・丙申・丁酉・戊戌・己亥・庚子・辛丑・ の命降臨元年 壬寅・癸卯・甲辰・乙巳・丙午・丁未・戊申・己酉・庚戌・辛亥・壬子・癸丑・甲寅・乙卯・丙辰・丁巳・戊午・己未・庚申 癸丑(668)邇邇芸命崩 辛酉・壬戌・癸亥・甲子・乙丑・丙寅・丁卯・戊辰・己巳・庚午・辛未・壬申・癸酉・甲戌・乙亥・丙子・丁丑・戊寅・己卯 甲寅(667)穗穂出見命 癸丑・甲寅・乙卯・丙辰・丁巳・戊午・己未・庚申・辛酉・壬戌・癸亥・甲子・乙丑・丙寅・丁卯・戊辰・己巳・庚午・辛未・ 壬申・癸酉・甲戌・乙亥・丙子・丁丑・戊寅・己卯・庚辰・辛巳・壬午・癸未・甲申・乙酉・丙戌・丁亥・戊子・己丑・庚寅・ 辛卯・壬辰・癸巳・甲午・乙未・丙申・丁酉・戊戌・己亥・庚子・辛丑・壬寅・癸卯・甲辰・乙巳・丙午・丁未・戊申・己酉 己亥(82)穂穂出見崩 庚戌・辛亥・壬子・癸丑・甲寅・乙卯・丙辰・丁巳・戊午・己未・庚申・辛酉・壬戌・癸亥・甲子・乙丑・丙寅・丁卯・戊辰 己未(62)神武即位 己巳・庚午・辛未・壬申・癸酉・甲戌・乙亥・丙子・丁丑・戊寅・己卯・庚辰・辛巳・壬午・癸未・甲申・乙酉・丙戌・丁亥・ 元年 戊子・己丑・庚寅・辛卯・壬辰・癸巳・甲午・乙未・丙申・丁酉・戊戌・己亥・庚子・辛丑・壬寅・癸卯・甲辰・乙巳・丙午 丙申(25)神武38年崩 丁未・戊申・己酉・庚戌・辛亥・壬子・癸丑・甲寅・乙卯・丙辰・丁巳・戊午・己未・庚申・辛酉・壬戌・癸亥・甲子・乙丑 BC←・→AD 丙寅・丁卯・戊辰・己巳・庚午・辛未・壬申・癸酉・甲戌・乙亥・丙子・丁丑・戊寅・己卯・庚辰・辛巳・壬午・癸未・甲申 甲戌(14)綏靖38年崩 乙酉・丙戌・丁亥・戊子・己丑・庚寅・辛卯・壬辰・癸巳・甲午・乙未・丙申・丁酉・戊戌・己亥・庚子・辛丑・壬寅・癸卯・ 甲辰・乙巳・丙午・丁未・戊申・己酉・庚戌・辛亥・壬子・癸丑・甲寅・乙卯・丙辰・丁巳・戊午・己未・庚申・辛酉・壬戌 壬子(52)安寧38年崩 癸亥・甲子・乙丑・丙寅・丁卯・戊辰・己巳・庚午・辛未・壬申・癸酉・甲戌・乙亥・丙子・丁丑・戊寅・己卯・庚辰・辛巳・ 壬午・癸未・甲申・乙酉・丙戌・丁亥・戊子・己丑・庚寅・辛卯・壬辰・癸巳・甲午・乙未・丙申・丁酉・戊戌・己亥・庚子 庚寅(90)懿徳38年崩 辛丑・壬寅・癸卯・甲辰・乙巳・丙午・丁未・戊申・己酉・庚戌・辛亥・壬子・癸丑・甲寅・乙卯・丙辰・丁巳・戊午・己未・ 庚申・辛酉・壬戌・癸亥・甲子・乙丑・丙寅・丁卯・戊辰・己巳・庚午・辛未・壬申・癸酉・甲戌・乙亥・丙子・丁丑・戊寅 戊辰(128)孝昭38年崩 己卯・庚辰・辛巳・壬午・癸未・甲申・乙酉・丙戌・丁亥・戊子・己丑・庚寅・辛卯・壬辰・癸巳・甲午・乙未・丙申・丁酉・ 戊戌・己亥・庚子・辛丑・壬寅・癸卯・甲辰・乙巳・丙午・丁未・戊申・己酉・庚戌・辛亥・壬子・癸丑・甲寅・乙卯・丙辰 丙午(166)孝安38年崩 丁巳・戊午・己未・庚申・辛酉・壬戌・癸亥・甲子・乙丑・丙寅・丁卯・戊辰・己巳・庚午・辛未・壬申・癸酉・甲戌・乙亥・ 丙子・丁丑・戊寅・己卯・庚辰・辛巳・壬午・癸未・甲申・乙酉・丙戌・丁亥・戊子・己丑・庚寅・辛卯・壬辰・癸巳・甲午 甲申(204)孝霊38年崩 乙未・丙申・丁酉・戊戌・己亥・庚子・辛丑・壬寅・癸卯・甲辰・乙巳・丙午・丁未・戊申・己酉・庚戌・辛亥・壬子・癸丑・ 甲寅・乙卯・丙辰・丁巳・戊午・己未・庚申・辛酉・壬戌・癸亥・甲子・乙丑・丙寅・丁卯・戊辰・己巳・庚午・辛未・壬申 壬戌(242)孝元38年崩 癸酉・甲戌・乙亥・丙子・丁丑・戊寅・己卯・庚辰・辛巳・壬午・癸未・甲申・乙酉・丙戌・丁亥・戊子・己丑・庚寅・辛卯・ 壬辰・癸巳・甲午・乙未・丙申・丁酉・戊戌・己亥・庚子・辛丑・壬寅・癸卯・甲辰・乙巳・丙午・丁未・戊申・己酉・庚戌 庚子(280)開化38年崩 辛亥・壬子・癸丑・甲寅・乙卯・丙辰・丁巳・戊午・己未・庚申・辛酉・壬戌・癸亥・甲子・乙丑・丙寅・丁卯・戊辰・己巳・ 庚午・辛未・壬申・癸酉・甲戌・乙亥・丙子・丁丑・戊寅・己卯・庚辰・辛巳・壬午・癸未・甲申・乙酉・丙戌・丁亥・戊子 戊寅(318)崇神38年崩 甲戌・乙亥・丙子・丁丑・戊寅・己卯・庚辰・辛巳・壬午・癸未・甲申・乙酉・丙戌・丁亥・戊子・己丑・庚寅・辛卯・壬辰 壬午(622)上宮法皇崩 癸巳・甲午・乙未・丙申・丁酉・戊戌・己亥・庚子・辛丑・壬寅・癸卯・甲辰・乙巳・丙午・丁未・戊申・己酉・庚戌・辛亥 辛丑(641)飛鳥天皇崩 丙午・丁未・戊申・己酉・庚戌・辛亥・壬子・癸丑・甲寅・乙卯・丙辰・丁巳・戊午・己未・庚申・辛酉・壬戌・癸亥・甲子 甲子長岡遷都 ───────────── 脊椎骨 ───────────── |
以上が、干支より得られた脊椎骨、安万呂の設計図です。『日本書紀』では痕跡程度のものでしたが、『日本書紀』にはもう一つ別のモードでの脊椎骨が認められます。それは干支を三等分した、モード20でのもので、3行ごとに干支が一巡してきます。また、これからも1500と1年の干支年表は得られます。
なお、これら全体の干支年表は、カテゴリー・古代雑記の案内と表・「記紀」の設計図、表1、表2、表3として載せてあります。
さて、干支は60年毎に繰り返します。また、章法では19年毎に朔旦冬至が繰り返すように仕組まれています。また前章では、閏年が19年の中の決まった位置、こうした表の場合では決まった列で繰り返すことになっていると述べました。そして、今回は、天皇の死去と即位の年が19年毎の、あるいは何度目かの19年毎のある決まった列で繰り返されるということを述べたということなのですが、実は、安万呂がこの列の位置を決めたのにはちゃんとした理由があるのです。
そして、その理由となるものが表.3dの最後から2番目と3番目の2行と言うよりも19年を1章と数える単位での2章の中にあるのです。そこでは、正に法隆寺金堂釈迦三尊像光背に記された上宮法皇の崩年干支と、船氏王後墓誌に記された阿須迦天皇の崩年干支とが同じ位置に来るという、この稀有な偶然が起こっているのです。
偶然と必然、こうした表を用いて始めてそれらが目に見える形となります。つまり「記紀」の骨組は、暦法や干支の特性が醸し出した稀有な偶然をうまく利用して作り上げているのです。そして、そのお陰で、我々は同じ方向に向かう三つの脊椎を得ることができたということです。
思うに、干支紀年法や暦法がなければ稀有な偶然どころかありきたりの偶然さえも起こらなかったでしょう。しかし、ここで本当に注意するべきは、安万呂や『日本書紀』編纂者が上宮法皇の崩年干支を知っていたということです。そして、それにもかかわらず『日本書紀』がこの上宮法皇の死を1年違えて載せているという事実です。
無論、これには理由があります。それは『日本書紀』が聖武天皇のために書かれたものだからです。つまり、聖武の祖父草壁が太子のままで持統天皇の3年になくなっていることが影響を与えているのです。
持統の3年は、持統10年、なお持統は11年ありますが持統の11年は文武元年となりますから持統は10年となり、その10年から遡れば草壁の死は8年前となります。一方、上宮法皇つまり聖徳太子の死は推古天皇の末年から数えてやはり8年前となります。つまり、聖徳太子の死を草壁太子の死に合わせたということです。
思うに『日本書紀』ただ読んでいるだけでは真実は見えてはまいりません。しかし、それはさておき、モード19の設計図が「記紀」に認められるということは、『古事記』の編纂者が『日本書紀』の編纂にも関与している証とも見え、もし『古事記』が安万呂の手によるものだとしたら、安万呂は『日本書紀』にも関与しているということになります。
思うに、安万呂、いえ古代人は虚構にさえも設計図を必要としているのです。いえ、虚構というよりも理想と云うべきかもしれません。かって奈良盆地を南北に走る三本の理想の道がありました。そして、この道を骨格として藤原京、平城京が生まれたのです。
ところで、表.3dの最初の行と最後の行の骨格の列の干支を見ると、壬申と甲寅とになっています。壬申は近江壬申の乱。甲寅は九州は日向神武東征の年。さて、奈良盆地を南北に走る三本の道。これらの道は北は奈良山を越えて近江につながり、南は海を渡って九州日向につながります。これもまた偶然なのだろうか。
暦注は迷信の設計図か
古代といえば迷信の支配する世界、と誰もが思いがちですが、迷信の上に理想は築けません。もっとも、人によってはその理想そのものが迷信であるというかもしれません。しかし、この迷信にも立派な決まりごとがあるのです。たとえば「具注暦」、「具注暦」は今日でも使われていますが、古代のような使われかたはされていません。それはおそらく、それらのほとんどが迷信だとされているからでしょう。それに、古代と現代とでは暦注そのものにも大きな違いがあります。
その違いはさておき、この具注暦に大きくかかわってくるものの一つ、太歳神について少し話をしておきましょう。と申しますのも、この太歳神の本体である太歳は、『日本書紀』が用いている太歳紀年(干支)法の起源となったものでもあるからです。
太歳とは木星の鏡像のことです。木星は12年ほどの公転周期を持つ惑星です。つまり木星のモードは12ということになります。モード12といえば、干支もそうですし、月順もそうです。つまり、それがために古代人はこの惑星に長い間多大の関心を払っていました。やがて、12年の公転周期に十二支の方位を割り振り、太歳は毎年その年の十二支と同じ方位にあるとしたのです。つまり太歳を、子の年は子の方位に、丑の年は丑の方位にある太歳神とし、さらには、その神のいる方位に向かって行ってはならない禁則事項つまり暦注を作り上げたのです。これは太歳と十二支方位との立派な決まりごとです。また、禁則事項にしても陰陽五行の決まりごとより導かれたもので、無作為の結果が招いたものではありません。
なお、木星の動きは十二支方位の並び順とは逆になります。したがって、図では寅と申の起点を結んだ直線を木星と太歳の対称軸としています。これによって太歳は十二支方位の順に運行しているようになります。例えば、丑の位置にある木星の鏡像が寅の位置の太歳となり、子の位置にある木星の鏡像が卯の位置の太歳となり、亥の位置にある木星の鏡像が辰の位置の太歳となるという具合にです。そしてこの位置に太歳神が居ると古代人は考えたのです。
古代人を動かすもの
人は、あるいは近代人は、その人生の評価を幸、不幸の単位で表現します。また、人の行為を善、悪の単位で表現します。古代人もまた同じようにそれらをある単位を用いて表現していたのです。その単位とは吉と凶です。古代人は、吉と凶の間に人の生活があると考えていたのです。
どのように科学が発達しようと、明日の幸と不幸、あさっての吉と凶とを知るすべはありません。現代人といえど、明日の吉凶を知りたければ陰陽五行等の占いに頼るほかは無いでしょう。あとは、信じるか信じないかの違いがあるだけです。
古代人は何故信じたのでしょう。いえ、信じることができたのでしょう。それは天文・暦法が発達し、一年を一月を正確に知ることができるようになったからです。その結果古代人は、季節や月の満ち欠けを正確に予測することができるようになり、一年後の春も一月後の満月も同じ春や満月がめぐりまわってきているという事実を知ることになったからです。
かって古代人は日に名前をつけていました。一日が終わるごとに新しい日が生まれると考えていたからです。そのために複数の新しい名前を用意しました。
太古、空には十個の太陽が輝いていました・・・羿(ゲイ)という弓の達人が九つの太陽を射落とし・・・
これは中国の太陽神話の一節です。十個の太陽とは、十干のことです。やがて十二支と組み合わせて干支として用いるようになりました。
思うに、干支は日の名前であって数詞ではありません。たとえば、同じ太陽であっても冬と夏とでは違って見えます。同じ一日、同じ一年ですが,きのうと今日、去年と今年は違います。現に人は年を取っています。人から見れば一日たりとて同じ日はありません。干支もまた同じです。干支は、去年と今年、去年の十二月一日と今年の十二月一日とでは違っています。年や日を干支で呼ぶことは、この人の感傷にそぐう行為なのです。
「太陽のもと新しきことなし」とは古代人の道破した言葉であると、芥川龍之介はその著に記しています。千変万化のように見える世界ですが、宇宙創成の始めからすべてが備わっている世界です、新しいものなど存在しません。古代人がそう考えたならば、世界のすべてを陰陽五行で表現したとしても不思議ではありません。
万物流転。これも古代人の言葉です。現代社会は安定しています。しかし、古代は明日はおろか一時間先の運命さえ定かではありません。古代人が一歩を踏み出すためには強い後押しを必要としたのです。そのためにも先ず吉凶を知る必要があったのです。陰陽五行に占い。古代人はそれを信じるというよりも必要としたのです。