古代雑記

一億分の一の検証  昭和枯れ芒、素人のつぶやき。

船氏と大化。太安万侶の道標、その26。

 史部の設置は雄略の時代に遡ります。雄略紀には何人かの史の名が載ってはいますが、史の任命記事はありません。史の任命記事の初出は欽明紀にあります。欽明14年、王辰爾が船史の姓を賜ったとあります。また、同30年、王辰爾の甥の膽津が白猪史の姓を賜ったとあります。そして、敏達紀では今度は王辰爾の弟の牛が津史の姓を賜っています。思うに、史の最初は王辰爾の一族で占められていたのではないだろうか。それがために、史の共通の祖先としての王仁の名が創り出されたのではないだろうか。
 無論、そうしたことは、『日本書紀』にかかわりのある船氏の身贔屓と言えなくもないわけではないのですが…

船氏と高麗

 欽明紀によれば、王辰爾が船史に任命されたのは樟勾宮に天皇行幸した時でのことになります。樟勾宮が何処にあるのかは分かりませんが、王辰爾や弟の牛が船史や津史に任命されていることから、おそらく近くに津をひかえた高床式倉庫群の一角にでもあったのではないかと思われます。そして、この兄弟もまた津近くに居を構え、船や津に関係する職務に携わっていたものと思われます。
 当時と比べるにしても、あるいは古すぎるかもしれませんが、「魏志倭人伝」に次のような記事があります。

王、使を遣わして京都・帯方郡・諸韓國に詣り、及び郡の倭國に使するや、皆津に臨みて捜露し、文書・賜遺の物を傳送して女王に詣しめ、差錯することを得ず。
岩波文庫魏志倭人伝…』より》

 以上下線部の記事は「倭人伝」が一大率と記す官人の職務の一部です。文書や荷物の仕分けは文字を読める者にしかできないことです。あるいは船氏は先祖代々そうしたことに携わってきた一族なのかもしれません。それに当時といえど、下線部の職務は卑弥呼時代からそれほどの変化はなかったと思われます。ただ、時代と共に扱う物資の量が大幅に増えた、これは歴史の流れとしては当然の成り行きでしょう。そして、彼らの職務も単なる仕分けから文字による記帳管理へと変わって行ったということなのでしょう。
 欽明紀には、王辰爾は船の税の記録をさせられたとあり、また、甥の膽津が白猪の屯倉の戸籍を作らされたとあります。このことから、欽明以降の史の主要な業務が租税の記帳管理であったことが分かります。そして、この時期から史の数も増え彼らの活躍も活発になって行くのだと思います。
 ところで、王後墓誌の当人、墓誌によれば舒明天皇の代に大仁を賜り活躍をしているはずなのですが、肝心の舒明紀には彼の名前どころか船史さえも載ってはいません。ただ、先代の推古天皇の17年に船史龍が、肥後国葦北の港に暴風に遭って漂着した百済の船へ遣わされたとする記事があります。このことから敏達の時代、船史が漂着した高麗との対応にも当たっていたと想定できます。敏達紀によれば相楽(京都府相楽群)に高麗人用の館があったとされていますから、船史はそこで高麗人と応対していたことになります。
 当時、ただし敏達の時代ではなく舒明以前の時代に置き換えるのですが、高句麗新羅百済に出兵していた時期があります。その場合、高句麗は直接日本海を渡って日本に来るわけですが、はたして彼らが日本海を渡って帰還できたのか疑問が残ります。欽明紀では彼等のためにわざわざ相楽に館を作らせていることから、彼らが長期にわたって相楽に滞在していた可能性があります。いや、そればかりか彼らがそこに住み着いた可能性さえあるのです。
 高句麗が日朝交流のメインルート対馬経由で日本と往き来できるようになったのは、百済高句麗が手を結んだ642年以降のことです。しかし、その642年に高句麗では淵蓋蘇文によるクーデターが引き起こされています。淵蓋蘇文の手によって殺されたのは栄留王以下重臣貴族180数名といわれています。この年まで、高句麗日本海経由で何度来日していたのかは分かりませんが、多くの高麗人が帰国できなくなった可能性は大と言わねばなりません。そして、船史と彼らとの交流はさらに延びていったものと思われます。
 日本と高句麗との交流がいつ頃より始まったかは推測する他はないのですが、好太王碑が示すように基本的には日本と高句麗とは敵対関係にあったと見るべきでしょう。また、日本から見ても高句麗は対中国外交行路よりも離れており、対高句麗外交のメリットはなかったものと思われます。したがって、交流の発端は高句麗側の一方的な事情によるものとするべきでしょう。つまり、高句麗が日本との交流にメリットがあると感じ始めたということです。そして、その時期を高句麗と隋との関係、さらには百済新羅との関係も険悪さを増した612年前後と見てもそれほどの大差はないでしょう。
 思うに、高句麗の外交使節団は非常に豪勢であったと考えられます。欽明紀には高句麗の献上物が横領されたという記事があるほどです。なお、推古13年(605)に高麗国の大興王が飛鳥寺の大仏のための黄金三百両をたてまつったという記事がありますが、この記事の前には新羅遠征の記事があることを考慮すれば、この記事は唐と新羅が同盟を結んだ648年以降とした方がより史実に近くなります。と言うのも『日本書紀』には大化3年(647)に新羅の金春秋が来日したともあるのです。そしてなにより、『隋書』は607年以前の倭について"兵ありと雖も征戦なし"としていますし、また新羅百済が倭を大国として敬仰し、常に通使・往来をしているともしています。そもそも推古紀には阿毎多利思比孤が入るのですから、推古13年の記事は割り引いて読まなければなりません。しかも、この記事の行方によっては、飛鳥大仏は648年前後に作られた可能性が浮かび上がってもくるのです。そして当然のことですが、飛鳥大仏の像造年が変われば、飛鳥寺の創建年も変わります。

大化は仏教公認の年号

 飛鳥寺は『日本書紀』では、法興寺元興寺、大法興寺といった呼び名で出てきます。 元興寺という呼び方は元法興寺という意味だと思いますが、大法興寺とはどういう意味なのでしょうか。天武9年に飛鳥寺は元は大寺であったとする記事があることから、大寺としての法興寺とも受け取れなくもないのですが、普通、大寺の呼び方としては何某大寺といった寺名になると思います。あるいは、(小)法興寺に対しての大法興寺とした方が善いのかもしれません。その場合、(小)法興寺というのは法隆寺の前身である若草伽藍とするべきかもしれません。
 法興寺という呼び名は、法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘にある法興という元号を記念してのものと思います。本来、釈迦三尊像は若草伽藍に安置されていたもので、若草伽藍焼失後に法隆寺に安置されたものでしょう。また、若草伽藍の仏像が尺寸王身像であるのに対し、飛鳥寺の仏像は丈六像であることから寺の呼び名に大が付いたものとも言えます。また、大を付けたことから、飛鳥寺は若草伽藍よりも後に出来た寺という事にもなります。 ただ、飛鳥寺と若草伽藍とでは伽藍配置が異なっています。しかし、飛鳥寺の三金堂は中金堂と東西の2金堂とではその造りが異なっています。東西の2金堂を後の建て増しとすれば、飛鳥寺も本来は若草伽藍と同じ四天王寺式の伽藍配置であったとできます。
 崇峻即位前紀によれば、四天王寺飛鳥寺は同じ時期に同じ気運の元で出来上がったと読み取れます。敏達(舒明)の廃仏の時代から用明の崇仏の時代へと歴史が大きく変わり始め、造寺造仏への気運の高まりのなかで、その法興の原点を釈迦三尊像や若草伽藍に求めたということなのでしょう。崇峻元年には百済から来た聆照律師以下6名の僧に蘇我馬子が受戒の法を請うています。そもそも、国が正式に仏教を取り入れるということは、受戒によって僧を誕生させるということなのです。
 さて、24章では崇峻紀を孝徳紀に移動させました。崇峻元年は孝徳元年、つまり大化元年です。大化元年8月8日に次のような記事があります。

故に、沙門狛大法師福亮、恵雲、常安、霊雲、恵至、寺主僧旻、道登、恵隣を以って十師と為す。別に、恵妙法師を以って百済寺寺主と為す。

 この記事から、この時点で僧であったのは寺主の旻だけであったことが分かります。また、寺主は僧でなければならなかったようにも見えます。そうなりますと、この時点より前にある寺は、もしかしたら僧旻が寺主となっている、おそらく若草伽藍(法興寺)ただ一つだけだったのではなかったろうか。そして、この時に出来始めていた寺が百済大寺だったのではないだろうか。用明紀から崇峻紀にかけて丈六の大仏造りの記事があります。おそらく、大仏、大寺、大化は当時の仏教徒が待ち望んだ機運当来を告げる合言葉だったのかも知れません。大化は道登や恵妙に取って記念すべきものだったはずです。
 思うに、宇治橋を構築したのが道登であれ道照であれ、彼ら僧の未来に橋をかけたのが用明天皇なのです。宇治橋の大化2年は、この天皇の崩年を記念してのものと見るべきでしょう。

船氏の前身

 さて、この宇治橋を西に渡り大和へ向かえばやがて木津川に突き当たります。京都府木津川市に高麗寺跡と呼ばれる寺院跡があります。創建が飛鳥時代に遡るとされる古い寺院跡で、私は相楽の高麗の館とかかわりがあるのではないかと思っています。ここは現在木津川市ですが、町村合併以前は相楽郡山城町大字上狛と呼ばれています。
f:id:heiseirokumusai:20171009222640g:plain  高麗寺跡は1938年以来本格的な発掘調査が何度か行われています。それによると、飛鳥寺と同じ軒瓦が使われてもいるし、川原寺(奈良県明日香村)と同じ軒瓦が使われてもいるそうです。普通には飛鳥寺の瓦が創建時、川原寺の瓦がその後という事になるのですが、伽藍配置はどう見ても飛鳥寺式あるいは四天王寺式よりも川原寺式に近いように見えます。ただし、正確には法起寺式になるということだそうです。
 高麗寺は、上図からも分かるように奈良街道に添って築かれた古墳列の延長線上にあるようにも見えます。あるいは、これら古墳群を築いた後裔氏族の手による寺なのかもしれません。ところで、高麗寺を一字の寺名にするとどうなるでしょうか。おそらく狛寺となるはずです。
 船氏の氏寺と目される野中寺、この寺に伝わるのが丙寅年の銘文を持つ銅造弥勒菩薩半跏思惟像です。銘文は本像台座の框(かまち)部分にあって、栢寺智識が中宮天皇のために作ったとする内容が記されています。しかし、銘文中には難解なものもあり、例えば栢寺ですが、実は未だに何処にある寺なのか分かっていないそうです。一説では橘寺(奈良県高市郡明日香村)のことだとも言われていますが、定説とはなっていません。
 私は、素人としてですが、栢寺は狛寺のことではないかと思っています。無論、犭偏と木偏とでは大きな違いがあります。しかし、漢字としての読みは同じ「はく」ですから、狛が栢に変われば善いわけです。そこで、これを変えてみましょう。

友等人数一百十八
《16章に全銘文があります。》

 上に載せたのは銘文の一節です。この一百十八の一の位置に十八を押し込むと栢という漢字になります。つまり、木は十と八より成るわけです。それとも、木を「こ」と読み、百を「も」さらには「ま」と読めば、栢寺は「こまでら」と読めます。馬鹿馬鹿しいと言われればそれまでの事ですが、栢を橘とするよりは善いと思うのですが。なお、栢は俗字で、柏が正しいとか。

丙寅年四月大旧八日癸卯開

 これも銘文の一節です。最後に「開」とありますが、これは暦注の一つ十二直の中の11番目に当たるものです。暦注というのは、その日の吉凶を暦に記したものです。内容としては、その日に何々をしてはならない、あるいは何々をすると善いといった類のものです。詳しくは省きますが、当時既に暦注が流行っていたようです。また、四月八日というのも釈迦の生まれた日を祝っての灌仏会(かんぶつえ)に当たります。思うに、この弥勒菩薩像は縁起の善い日を選んで造られたようです。狛を栢としたのは、寅年の卯の日は五行では "木" となりますから、これに合わせたということなのかもしれません。
 船史は文字に長けた人たちであり、また当時の大陸の最先端の文化に直に接していた人たちでもあります。暦や暦注や灌仏会を日常に取り込んでいたとしても不思議はありません。それに、彼らの先祖が漢字仮名や万葉仮名を発展させた可能性もあります。船の仲間に舶があります。狛、柏、舶、いずれも "はく" と読めます。あるいは、狛を "こま" と読ませたのは船氏なのかもしれません。
 船氏が船や津を管理していた以上、その主要区域である淀川水系に深くかかわっていたことは確かでしょう。当時の淀川水系で最も賑わっていたのが宇治の渡し場と木津の渡し場であったことは奈良街道沿いに古い古墳列のあることからも想像できます。船氏の一族がそれらの地に根を下ろしている可能性もあります。また、淀川水系を通して秦氏との接触があったことも確かでしょう。あるいは、秦や漢を "はた " 、"あや" と読ませたのも船氏なのかも知れません。
 船氏は墓誌銘や欽明紀にあるように中国系漢人の王氏であることは確かです。さて、漢人でありながら異民族の王朝の覇業に貢献した宰相に王猛(おうもう、325~375)がいます。前秦(351~394)の3代王苻堅(ふけん)はこの王猛を重用して華北統一に成功し、前秦の全盛期を築きます。この時、高句麗新羅など朝鮮半島の諸王朝は朝貢して服属したといいます。また、その時苻堅は大秦天王と称していたとも言われています。
 前秦は王猛の死後十年足らずで斜陽に向かい始めます。そして、その後十年足らずで滅亡しています。思うに、この時期に王猛の一族が朝鮮半島に向かったのではないかと。彼ら王猛の一族は、異民族の中で功を成した人たちです。彼らが異民族のそのまた異民族に身を投じることはありうることです。仮に彼らが朝鮮半島に達したのが400年前後だとすれば、倭が半島で活動していた時期に当たります。もし、彼ら王猛の一族の消息が半島では得られないのだとすれば、彼らが直接日本に来た可能性もあります。また、渡来したのが王猛の一族だけではなく前秦の民も一緒だったとすれば、彼らこそが秦の民ということにもなります。