昭和は遠くなりにけり

古代に思いを馳せ、現在に雑言す。・案山子の落書・

§17 神仙、風門がつなぐもの。

 とにもかくにも、8は大きな数を表わす。また、そうした意味で古代人がこれを使ってきたことは確かなことです。しかし、古代には百足る、あるいは百足らずという言葉があります。そして何よりも、十分という言葉が今日にあります。そもそも現実の場面では、8は必ずしも大きい数というわけではありません。実際、数えるために用いる人の手の指は10本あるのですから。つまり、10で全部ということになります。それとも、足の指もありますから、百なら全部と言い切れると考えるべきかもしれません。
 聖徳太子の十七条憲法には、百寮とか百姓とかの言葉が出てきます。これは、大勢の官僚とか大勢の姓のある者とかという意味よりも全部の官僚あるいは全部の姓のある者という意味合いで使われています。今日で言えば、正に100%という意味です。その証拠に、百足る、あるいは百足らずは百を基準にしての言い回しなのです。
 とにもかくにも、数の大きさでは8は百にも十にも劣るようです。しかし、数の形としての大きさではどうでしょうか。そもそも人は100角形を即座に捉えることが出来るだろうか。おそらく10角形でも無理と思います。個人的見解かもしれませんが、3角形や4角形や5角形、そして6角形と、おそらく誰もが8角形までは即座に捉えることが出来ます。しかし、9角形になると角や辺を数えないと確信は持てません。そういう意味では、数の形としての最大のものはやはり8角形ということになりましょうか。
 さて、八角堂に八角墳、そして高御座。古代からの八角形の造形物としてはこの三つが際立っています。しかし、その出自に即座に答えられるものとしては天武朝に始まったと思われる高御座ぐらいでしょうか。それ以外は、どれがその最初であるかは俄かには答えられません。ただ、個人的見解を述べさせていただけるなら、八角墳の最初は寝屋川市にある石宝殿古墳。また、八角堂の最初は前期難波宮内裏南門の左右に建っていた八角形の建物と思います。ただ、これに関しては道教関係の建物とする見解もあるようです。

日本的神仙思想

 第4章では、八角墳の野口王墓が藤原京の中軸線上にあるとしました。また、これが道教のいう朱宮だともしました。ここまでは確かと思われます。しかし、朱宮が八角形かどうかは分かりません。ただ、道教の建物としての高楼があります。これが八角形であったりすることはよくあることです。しかし、これは道教のいう仙人を呼び寄せたり、あるいは空を飛ぶ仙人を見たりする望楼でしかなく、朱宮ではありません。
 そもそも道教は、本来個人の現世利益に特化した方術の宗教で、仏教のように鎮護国家衆生済度を最初から目指していたものではありません。したがって、たとえ天皇が仙人になれたとしても、果たして人々が "やすみししわがおおきみ" などと唱和したりするものかどうか、はなはだ疑わしいと言うほかありません。それに、天皇が仙人になって如何しようというのだろう。鶴と一緒に空のかなたに飛んで行こうとでも言うのだろうか。秦の始皇帝にしても、漢の武帝にしても、彼らは神仙的仙人になりたかったわけではありません。彼らは、ただ偏に不老長寿になりたかっただけなのです。難波宮内裏南門で神である天皇が仙人を望む。あり得ない話です。
 思うに、本家本元の中国でさえいったいどれ程の者が神仙となり得て名を残したというのだろうか。ましてや、道士の渡来のない日本ではなおさらに少なかったと言うほかはありません。私の知る限りでは、奈良県吉野郡吉野町にあった龍門寺に大伴仙・安曇仙・久米仙の三仙人が居たという話ぐらいです。それにしても、道教の仙人が仏教寺院に居たというのも奇妙な話ですが、あるいは神仙等の物語は僧侶が持ち込んだのかも知れません。
 時代は下りますが、孫悟空三蔵法師が出てくる『西遊記』は僧と仙人との物語です。また、『三国遺事』には新羅の慈蔵法師が唐の太和池の辺で神人と会って問答をしたとあります。当時、朝鮮、特に中国ですが、道士と法師の間に疎外感はなかったように見えます。とりわけ外来の仏教からすれば、土地神的道教を積極的に利用し布教に役立てるというのが、常套というものでしょうから。日本でも、仏教説話といわれる『日本霊異記』にさえ少なからず道教的要素が入り込んでいるようにも見えます。思うに、『霊異記』は中国文学や中国仏教説話の影響を受けて出来たものとされています。そして、それらの作品には最初から道教的要素が入り込んでいるのです。
 言ってみれば、日本はシルクロード文化の最終処分場のような位置にあります。放っておいても種々の文化が切れ切れの状態で入ってきます。陰陽五行と八卦の思想、加えて天文暦法の技術や儒仏の教え、それら必要なものさえ最低限整えておけば、あとは全体は入らなくとも一部分さえ入っていれば、日本なりの道教が創れるのです。現に後世、陰陽道を創り上げています。そしてなにより、龍門寺の三仙人は既に日本的とも呼べる仙人なのです。思うに、この三仙人は「記紀」が創り出したものと言えます。

藤原宮と神仙境

 さてこの三仙人、大伴仙・安曇仙・久米仙と聞いて何を思い出すだろう。それは、おそらく天孫降臨と神武東征の物語ではないだろうか。天孫降臨では、大伴連の祖天忍日命と久米直の祖天つ久米命の二神が武装して邇邇藝命を先導しています。また、神武東征では、八咫烏の案内で莵田の地に入った神武は、この地の支配者兄宇迦斯を大伴連の祖道の臣の命と久米直の祖大久米の命の二人に討たせています。なお、安曇仙は単純には安曇連の役割を受け持っていたということになります。つまり、安曇氏の職掌は皇孫や天皇の食事の世話をする膳職です。思うに、大伴、安曇、久米は常に天皇に付き従っていた伴の造であります。どうやら日本では、仙人になったところで、天皇からは離れられない不自由な身の上でしかなかったのかもしれません。
 ところで、三仙人の居た龍門寺跡は竜門岳の南斜面の中腹にあるのですが、この龍門岳の北が神武大和平定の最初の舞台の宇陀なのです。また、時代は下りますが、南は天武が近江朝廷から逃れて隠棲した吉野の宮がある宮滝です。天武はこの吉野の宮から天下平定を目指したといいます。思うに、龍門岳の龍門とは登竜門の竜門のことでしょうか。天下平定を目指す天武の一行は、いわばこの登竜門を昇りきったということなのでしょう。
 思うに龍門岳は、飛鳥や藤原の宮人から見れば、ちょうど東南つまりは風門に当たります。まさにこの地は、彼らにとっては神風の吹く神仙境なのです。持統天皇は天武の死後何度もこの地を訪れています。あるいは、神仙となって空を飛ぶ天武の姿を見ようとしていたのかも知れません。持統がつけたとも言われている天武の諡号天渟中原瀛真人、その中の真人は仙人のことだとも言われています。そして、その仙人の姿こそがあるいは神武なのかもしれません。
 第4章でも述べたことですが、綏靖と継体紀を除けば神武の名は天武紀にしか見えません。おそらく神武天皇は、天武の時代に生み出されたものなのかも知れません。『紀』によれば、神武は畝傍の東南の橿原の宮で即位し、道の臣と大久米を畝傍山の周りに住まわせたとあります。また、畝傍山の西の川辺の地に久米邑があるのはそのためだともしています。今日、畝傍の南に久米寺と久米の地名が残されていますが、当時つまり天武の時代ですが、伴の造の久米部を大伴氏が率いて常に天皇の側にいたという伝承から久米邑のあるこの地を神武の宮処とした可能性があります。また、膳職に膳の臣ではなく安曇という海部の統率者が顔を出しているのも天武の大海人という名前がかかわっているためとも言えます。三仙人の話は単に伝説にすぎませんが、伝説といえど当時の歴史的背景が生み出したものであることに違いはないと思います。
 ずいぶんと横道にそれてしまいましたが、古代人が八角形にこだわるのは実は道教の影響からではなく八卦からのものなのです。また、天皇自身が八角形を利用するという行為は、おそらく仏教からのものと思われます。しかし、これらについては章を改めて述べたいと思います。そこで、最後に久米仙人の話を少し述べてこの章の終わりとしましょう。
 久米仙人の話は、『今昔物語』ばかりではなく仏教関係の諸書や『徒然草』など随筆や説話などにも少なからず記述があるそうです。ただ、これらの書は奈良時代を遡ることはなく、この話が天武時代にできた可能性はほとんどありません。しかし、話の内容や久米寺の創建が白鳳時代に遡ることから、全く無いとも言い切れません。
f:id:heiseirokumusai:20170724211804g:plain  左は、龍門岳と藤原の宮との地理的関係を図示したものです。この図からもわかるように、龍門岳は藤原の宮から単に東南に位置するというだけではなく、飛鳥や藤原の地を流れる川すべての源流域である龍門山地の主峰としての存在感の方がより強いのです。たとえば、『万葉集』の藤原宮御井歌に、"水こそば とこしへにあらめ 御井のま清水" と歌われているように、これも竜門岳があってこその賛歌と言えます。思うに、水の都の藤原京にとって龍門岳は欠くことの出来ない存在なのです。
 さて、久米仙人の話しですが、"天平年間に大和国吉野郡の竜門寺に籠もって、飛行の術を行っていたが、川で洗濯する若い女性の白い脛に見惚れたせいで神通力を失って墜落。結局、その女性を妻として俗界に暮らすが、後に高市遷都の折り木材を空に飛ばせて運んだ功により免田30町を賜り、それで久米寺を建立した" というものです。
 単純には、これは久米寺縁起とでも呼べそうなものですが、久米寺は白鳳年間の寺で、もう一つの奥山の久米寺になるとさらに古くなり、とても天平年間の話しとは出来ないようです。物語の中に高市遷都とあることから、あるいは難波の宮もしくは大津の宮からの遷都の時の話なのかも知れません。しかし、これに付いては別の章で触れることとし、ここでは猿も木から落ちると言うか弘法も筆の誤りと言うか、なぜ仙人が墜落し、また、それがなぜ久米仙人でなくてはならなかったのか、素人の疑問に少しばかり時間を割いてみましょう。

神武記と久米仙人

 『日本霊異記』に、仙人ではありませんが雷が落ちるという話しがあります。これは、雷岳の地名説話が発展したものと思われますが、この原型となるものあるいは同じ原型からできたと思われるものが雄略紀にもあるので少し比べてみますと、どちらも雷を捕らえるという話で、主人公もまた共に少子部蜾臝(スガル)となっています。ただ、『霊異記』では雷岳に落ちた雷を捕らえているのに対し、『紀』では三輪山に登って三輪山の神の化身である蛇を捕らえるという違いはあります。『霊異記』の作者が『紀』を読んでいたかどうかは分かりませんが、雷岳は一つしかありませんし配役もまた同じです。単純には、この二つの話は全く同じものであるということになります。ただ、そうなると三輪山と雷岳は同一の地点ということになります。無論、これは現実としてはあり得ないことではあります。しかし、これがもしあり得ることだとしたら如何でしょう。
 何度か言ったことですが、三輪山は藤原や飛鳥からは鬼門に当たります。また、藤原や飛鳥を通り三輪山に向かう北東の線を引くと、この線上に益田岩船と丸山古墳の前方部、そして香具山が乗るということも既に述べたと思います。ところが、実はもう一つ乗るものがあったのです。それは、賽の隈です。第6章ではこれを太秦として話を進めていますが、要は塞の神の居る場所ということです。そこでは川は流れを遮られ、流れを賽のように直角方向へと追い遣られます。そして、おそらくは空を飛んでいる仙人や雷もその上では行く手を遮られ、あるいは墜落することになるのでしょう。
 桜井市から橿原市にかけての地図を見ると、山田寺の西で曲がり終えたかっての阿部山田道がほぼ真っ直ぐ真西に向かって橿原市西池尻町の外れまで延びていたことをかなり正確に掴み取ることができます。また、その東と西のそれぞれに賽の隈を持つ川が流れていることも分かります。東の川は飛鳥川で、賽の隈は阿部山田道のすぐ南にあります。もし雷が落ちるとすればこのあたりで、物語の雷の落ちた雷岳は、賽の隈とは阿部山田道を挟む位置関係、山田道の北側にあります。そして、その東には奥山久米寺があります。
 次に、西の川は高取川で、万葉集には "賽の隈檜隈川" と歌われています。なお、下線の部分は当て字です。この川の賽の隈は丸山古墳のすぐ西にありますが、阿部山田道からはかなり離れています。しかし、仙人が落ちるとすればこのあたりでしょう。それに、ここが三輪山に向けて北東に引かれた線上に乗るもう一つのもの、つまり本家本元の賽の隈なのです。さて、賽の隈を過ぎた高取川の流れは、やがて阿部山田道を抜け東に久米寺を望んで畝傍山の西へと流れ下ります。その畝傍山の西こそが、神武紀の記す久米邑のある川辺の地なのです。そして、この地と対を成すのが三輪山の西、狭井川の辺なのです。
 「記」の天孫降臨や神武の物語から、大伴仙と久米仙が道の臣の命と大久米の命に置き換わるという意味のことは既に述べたと思います。実は、神武記には久米仙が若い女性の白い脛に見惚れて神通力を失うという話に置き換わる物語もあるのです。
 物語の場所は狭井川の辺。下図の左上部に拡大図があります。①のT字型の流れを持つ正に賽の川と呼び得る川の辺です。ここで、大久米の命は高佐士野であそぶ七媛女と出会っています。そして、彼と相対したのが七媛女の先頭を歩いていた富登多多良伊須須岐比売の命なのです。
f:id:heiseirokumusai:20170724212057g:plain  ところでこの話、何かに似ていると思いませんか。そう、天孫降臨の段、天の八街での天の宇受売の命と猨田毘古の神との対峙の場面です。この時、天の宇受売は陰(ほと)をあらわにしたと思われます。これを見て、猨田毘古は初めて口を開いたといいます。天の宇受売が猨田毘古を制したということでしょうか。
 天の宇受売は天の岩戸以来 "陰(ほと)" を冠する女神です。そして、富登多多良伊須須岐比売もまた "富登(ほと)" を冠する媛女(おとめ)です。大久米の命は八街のように流れが分かれる川の辺で、七媛女の先頭に立つ "陰(ほと)" を冠する媛女を見たのです。そして、大久米の命は彼の黥ける利目の神通力を失ったということなのでしょう。連想が先走りしているかもしれませんが、他にも数の一致があります。それは、高佐士野の(たかさじの)七媛女に対し高天原の七伴緒(ななとものお)という構図です。
 「記紀」には七伴緒という呼び方はありません。あるのは五伴緒という呼び方です。内訳を見てみますと、中臣連の遠祖天児屋命、忌部首の遠祖布刀玉命、猿女君の遠祖天宇受売命、作鏡連の遠祖伊斯許理度売命の五名です。これ以外にも幾柱かの神が付き従っていますが、それらの神は鏡や剣といった三種の神器と同列に語られており、また子孫をも持ちません。この段で、子孫を持ち命と呼ばれているのはこの五伴緒と大伴連の遠祖天の忍日の命と久米直の遠祖天つ久米の命の七名、つまりは七伴緒ということになります。
 まとめてみますと、天宇受売命と富登多多良伊須須岐比売は七名の連れの先頭に立って相手と対峙し、これを制した。そしてその場所が、流れや道が交叉する塞の神のいる天の八街や川の八街だったということです。人は相手を見ることによって相手を制したり、逆に制せられたりします。猨田毘古と大久米の命は女性を見たことによってその神通力を制せられた。久米の仙人もまたそうでした。
 思うに、久米の仙人の話は天孫降臨神話や神武東征譚がその元となっているようです。また、川辺にある久米邑と三輪山より流れる狭井川の辺は、三輪山と高取川の賽の隈とを結ぶ鬼門軸でつながっているのです。そこで、図17bを見てみましょう。  ⒶとⒷ、良く似ていると思いませんか。そう、ⒶとⒷは阿部山田道を通して東西の関係にあります。つまり、ⒶはⒷでもあるのです。どうやら雷岳と三輪山がつながったようです。つまり、三輪山とⒶとは鬼門軸でつながり、ⒶとⒷとは阿部山田道でつながる。そうなれば、『霊異記』の雷岳と「雄略紀」の三輪山とが重なり合うことになります。