古代雑記

一億分の一の検証  昭和枯れ芒、素人のつぶやき。

安万呂の道標、その4.

鬼門。陰陽を生み出すもの、陰陽を隔てるもの。

 古代人は万物を陰陽に分けました。先天と後天もある意味での陰陽であります。道教儒教、これも陰と陽との関係に置き換えることが可能です。古代と現代、これもまた然りでありましょう。そして最後に『古事記』と『日本書紀』、これもあるいはそうなのかもしれません。
 もし、そうだとしたら。『古事記』と『日本書紀』、これが陰と陽で、しかも安万呂の手によるものなら、陰陽を生み出す太安万侶は太極ということになります。

 陰とは何か、陽とは何か。 陽と揚。陰と隠。これら漢字の音に連想をめぐらせば、陽は日の揚がることを意味し、陰は日の隠れることを意味していることになります。そして、これによって、東を陽とすることが出来、西を陰とすることが出来るようになります。つまり、太陽の状態によっても陰陽が決められ、これも陰陽の法則の一つとすることが可能となります。そうしますと、北半球の中緯度では太陽の昇る南が陽となり⇒a、太陽の昇らない北が陰となります⇒b。
f:id:heiseirokumusai:20151110214405g:plain  1.図は東西の陰陽関係図aと南北の陰陽関係図bとを組み合わせて東西南北の陰陽関係図cとし、これを中国陸海地図の上に投影したものです。
 陰陽思想が既に固定化してしまっている現代から見れば、陸を陰とすることはともかく、海を陽とすることはおかしく映るかもしれません。しかし、この図から東西南北の陰陽関係と中国の陸海の関係とが非常に良く重なり合っているのが確認できると思います。
 そもそも、中国最初の古代文明は、南より北上してきた伝説の≪夏≫によるものといわれています。夏は北上の過程で、中国大陸は西に陸が広がり、東に海が広がる地形だということを知ったのではないだろうか。もし、これらの伝説や推測が間違いというほどのものではないとするならば、東の海を陽に、西の陸を陰とした時期が古代中国にはあったと言えなくもありません。無論、水界の海を陽とみなすことには無理があるのは確かです。
 しかし、陽である太陽は、天と地、さらには西と東、つまり陰陽の間を巡り回っています。これと同じように、陰である水は雨として陽である天より陰である地に降り注ぎ、川の流れとなって陰の大地より陽の大海へと流れ出でて行きます。すなわち、海を水の集まりとするのではなく、水の入れ物と解釈すれば、海を陽としても何ら差し支えはありません。現に日本では、天を海とも雨とも解釈します。また、日本語の漢字音に頼れば、洋は陽でもあります。

 古代人はあらゆる物を陰と陽に分けました。しかし、正確には、相反するものをと言うべきかもしれません。たとえば、天と言えば地。しかし、山と言えば、川なのか、それとも谷なのか…分かりません。しかし、陸と言えば、違うことなく海です。陸が陰なら、海は陽となります。
 中国は東南に海が開ける地勢です。古代中国の神話によれば、共工祝融と争って敗れ、怒った共工が天の柱を折ったため天が傾き、その結果大地も傾き東南が海になったとあります。この神話は、無論、実際の中国の地勢から生まれたものですが、背景にあるのは陰陽五行思想です。
 共工は、洪水を引き起こす神であるため、北に位置する“水”の神のようにも見えますが、西羌が信奉していた神ともいわれ、西に位置する“金”の神です。“金”は陰気で冷気、争いを誘う気です。洪水を起こせるのは“金生水”という相生の原理からです。一方、祝融は南に位置する“火”の神。“火”の相剋は“火剋金”、相生は“火生土”ということになります。いずれを取っても共工には勝ち目がないという話になります。

鬼門の国、日本
 さて、それならば、四方を海に囲まれた日本にはどのような神話があるのでしょう。
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 上図2と3とを見比べると分かるように、日本と中国は東南に海が開けているという、陰陽五行思想にとって都合の良い共通点があります。つまり、日本でも中国と同じ陰陽五行思想が根付き発展する可能性があるということです。ただ、唯一異なる点は、日本は北西にも海が開けているということであります。もしかしたら、日本では、共工祝融の神話が二つ必要ということなのかもしれません。
 周知のように、日本は北東に延びる地勢です。いってみれば、日本全体が鬼門軸のようなものなのです。しかし、そうは言っても、当時の日本に3図や4図のような正確な地図があったわけではありません。しかし、古代の中国人が、自国を北西に陸地が広がり東南に海が開ける、つまり北東に海岸線の延びる地勢だというふうに理解していたように、当時の日本人、とりわけ飛鳥時代の人々はこうしたことをかなり正確に知っていたのではないだろうか。
 下図は、神武即位前の日本の地理図、あるいは神話図です。『日本書紀』の中で神武天皇の名が出てくるのは神武紀とその子綏靖天皇の出自系譜以外は天武紀が最初です。ある意味では神武の出現は天武朝を遡ることはないということなのかもしれません。そういう意味では、この地図は飛鳥時代の神話地図といえなくもありません。
f:id:heiseirokumusai:20151110215634g:plain  地図の無かった古代ですが、北東に延びる海岸線は分かっていたと思われます。4図は、その中でも特に長い海岸線を有する箇所を4つ選んで、色づけて示したものです。
 先ずaですが、これは神話の原点とも言うべき「魏志倭人伝」の世界です。次いでbとc、これは誰もが知る正真正銘の神話、出雲神話と日向神話の世界です。dはcの延長、天孫神武の東征神話の世界です。一目瞭然とはいかないかもしれませんが、これらの世界、いずれも鬼門軸の東南あるは北西に海を臨んでいます。また、それぞれが互いに対峙する関係にもあります。
 そこで、「記紀」神話の双璧、出雲神話bと日向神話cの世界に注目してみますと。bから見てcは南に当たります。cからbを見た場合は、北もしくは東となります。しかし、cの延長d、つまり日向神話の最終目的地の大和から見た場合、bは西となります。その結果、bが西で、cが東となれば、これは、共工祝融の関係と同じです。また、出雲神話には八岐大蛇が出てきますが、共工の話にも同じような大蛇が出てきます。つまり、共工祝融に敗れることを日本の神話に直せば、出雲神話の国神が日向神話の天孫に国を譲らさられたとなるわけです。
 五行思想では、相克の関係で東は西に勝てません。西に勝てるのは南だけです。神武東征といってはいますが、この話の内容は西と南の関係です。神武の最終上陸地点は熊野です。大和から熊野を見ると南になります。また、神武は熊野から大和に東から侵入しています。つまり、大和は神武から見て西になります。これも、共工祝融と同じ西と南の関係なのです。
 ところで、共工祝融が争った結果、中国では天と大地が傾いたのですが、日本ではどうなったのでしょう。そこで、地図の向きを少し傾けてみましょう。
f:id:heiseirokumusai:20151110215913p:plain  5図は、鬼門軸と南北軸を入れ替えたものです。角度にして、45度の傾きがあります。既に述べたことですが、南北は蘇りの軸、北東は霊魂の入れ替わりの軸です。どちらも死者にとっては再生の軸です。祖霊を神とみなせば、神にとって南北軸も北東軸も同じです。神話の世界では、北東軸を南北軸としても何ら不都合は生じないはずです。
 この図を見て、先ず気付くことは、伊勢と出雲が意外なほど西と東の突端にあるように見えることだと思います。おそらく、古代人はもっと極端に感じていたと思われます。そう、出雲は国の最西端、伊勢は国の最東端と。
 そこで、もう一度やり直しますと、伊勢が東で、出雲が西なら、出雲と日向は西と南の関係。また、伊勢が東と決まれば、大和は西か南。しかし、熊野は大和の南。したがって、大和と熊野は西と南の関係。いずれも共工祝融の関係に置き換わります。つまり、西の金行が南の火行に負けて国譲りを迫られるという話がこの二つの神話の骨子です。

 “記紀”の話の中には、陰陽五行の思想から生まれた可能性のあるものが多々見受けられます。このことは、この思想が日本に根付き発展していったためと思われます。特に鬼門軸の一端、裏鬼門の思想は日本独自のものと思われます。鬼門を忌むという風習がいつ頃から起こったのかは分かりませんが、少なくとも飛鳥や奈良時代には無かったと思われます。例えば、神武東征譚。神武の出発地点は鬼門軸方向に延びる日向の海岸、最終上陸地点はやはり鬼門軸方向に延びる熊野の海岸。このことは、鬼門を避けたと言うよりも、鬼門を利用したと言うべきかも知れません。差し詰め、神に近い神武は、鬼門から鬼門へと飛び移って行ったということでいいのかもしれません。
 ところで5図、伊勢が鬼門で、出雲が裏鬼門のようには見えませんか。もし、大和から見てそのような関係が成り立つのだとしたら、f:id:heiseirokumusai:20151110220137p:plain6図のような関係も成り立つのではないだろうか。
 aは霊の行き交うライン。このラインの意味するものは、国土創生の祖と国家創生の祖との対峙です。国家は、支配する者と支配される者とで成り立っています。どちらが欠けても国家は成り立ちません。まさに陰と陽との関係です。したがって、どちらかが上でどちらかが下という関係ではありません。全くの対等です。ただ違うのは、霊が伊勢にあるときは天照、三輪にあるときは大物主となることだけです。
 bは蘇りのラインです。また、同時に神武東征のラインでもあります。その意味するところは、祖廟としての法隆寺の主、即ち丸山古墳の主が朱宮としての日向で神武天皇として蘇ったと。なぜなら、図中図cは、前節で述べた四者の関係を示した同図中図dより必然的に生まれたものだからです。
 どうやら、安万呂の道標、法隆寺・宮滝の天門・風門ラインが出雲をとおして伊勢へとつながったようです。

 斑鳩東方朔 ≪陰陽の風 04≫