§18 朝廷を形作る数。
十や百には、充分あるいは一杯という意味での言葉、十分や百足るがありました。8はどうでしょう。今風には、腹八分目に医者要らずでしょうか。8には、丁度好いという意味もあるのかも知れません。なにせ八卦占いは丁度好いのに限りますから。相撲の "ハッケヨイ" もそういった意味だと聞いています。
『紀』、欽明天皇15年(556)2月の記事に易博士(やくのはかせ)が百済より来たとあります。『紀』が易をわざわざ "やく" と読ませているのは易が益(やく)につながるからかも知れません。日本は易の中に益を見たのかも知れません。なお、『紀』には、易経を含む儒家が重んじる五経を教える百済の五経博士が継体天皇7年(513)より交代で日本に来ていると記しています。あるいは日本と易との関係はこの時より始まるのかも知れません。
思うに古代人は、数を単に数詞だけとしてではなく、いろいろの意味内容を含ませて用いているようです。とりわけ8は、八という字形に加えて八卦すなわち太極・両儀・四象・八卦・六十四卦と末に広がっていく形や、さらには四方をさらに極めた八方という全方位を表わす形として古代人の文化の中に浸透していったように見受けられます。
朝廷を構成するもの、大極殿、朝堂院。
「隋書俀国伝」に次のような記事があります。
倭王は天を以って兄と為し、日を以って弟と為す。天未だ明けざる時、出でて政を聴き跏趺して座し、日出ずれば便ち理務を停め、云うわが弟に委ねんと。
これについては、日本の古代からの慣わし "日嗣" のことを述べたものであるとするのが大方の意見のように見えます。おそらくそうだと思います。しかし、 "日嗣" は兄弟間だけで常に終始するものではありません。また、仮にこの王の時がそうであったとしても、天を兄とし日を弟とするその理由の背景が今一つはっきりしません。あるいは、兄は既に死して天にいるというのだろうか。それなら、生きてると思われる弟がなぜ日となって天空にあるのだろう…。それとも彼も既に死しているというのだろうか。
そこで、これを数字に置き換えてみましょう。すると、兄は長男の一に、自身は二男の二に、弟は三男の三になり、三兄弟が1・2・3という三つの数に置き換わります。
さて、1と云えば太一。2と云えば…、分かりませんが、3と云えば違うことなく太陽です。太陽には三本足のカラスが住み、中国では古来よりり太陽を表す数が3とされてきています。そうなりますと、2は月を表わすことになります。なぜなら、太一は北極星のことで太極でもあります。太極とくれば、太極・両儀・四象・八卦とくるのが当時の習いでしょう。両儀は陰陽、月と太陽のことでもあります。しかし、倭王は自らを月としているわけではありません。なぜなら倭王は大極殿(正確には大内裏)に居しているからです。
「隋書俀国伝」の時代、大極殿が存在していたかはともかく、冒頭でも少し述べたように、八卦(易経)は既に伝わっていたと思われます。例えばこの王が制定した冠位十二階、この十二階に三兄弟の3を加えると15となります。これは太極・両儀・四象・八卦を数に置き換え、これを加え合わせた数と同じなのです。そして八卦が伝わっていたとすれば、太極を理解する上での道教神話もまた伝わっていたはずです。道教神話によれば、紫微宮(大内裏に当る)には北極星を神格化した天皇大帝と紫微大帝の他合わせて4柱の神が居るとされています。また、天皇大帝が長男、紫微大帝が次男とも言われています。もしかしたら、次男を称する倭王は自らをこの紫微大帝に擬しているのかもしれません。と言うのも、紫微大帝は雨や風や日月星辰を司る天帝とされているからです。しかも、倭王の名の阿毎多利思比孤は、雨垂し彦とも出来るのです。なお、大内裏という呼称は12世紀以降に登場します。
朝堂院と数
阿毎多利思比孤は、法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘によれば622年に死亡しています。光背銘はその翌年623年に刻まれていますが、この中に "法興" と "法皇" の文字が見えます。この王が隋の煬帝を "海西の菩薩天子" と呼んでいることから、自身を海東の菩薩天子になぞらえていることは確かで、法興と法皇の "法"は 明らかに仏法の法と読み取れます。また、法皇の皇は道教神からのものでしょう。天皇号の起源をこの天皇大帝に求める説がありますが、おそらくそうでありましょう。思うに、仏教に深く帰依し、八卦を操り、道教の神とも親しむ、これが当時の有識者のあり方なのやも知れません。
ところで、海西の菩薩天子さらには海東の菩薩天子、これらは具体的に何を指しているのだろう。法隆寺金堂には三体の本尊があります。西の間から、阿弥陀如来像、釈迦三尊像、薬師如来像の順で安置されています。これはそのままで既に三尊形式になりますが、本来は個々それぞれが三尊形式だったとされています。今日、三尊像として残っているのは中の間の上宮法皇の尺寸王身釋像だけです。この尊像の両脇侍は銘文から鬼前太后と干食王后とに読み取れます。しかし、そうではあるが、あるいは日光菩薩と月光菩薩に擬しているのかもしれません。
思うに、仏教では西方が阿弥陀如来、東方が薬師如来とされています。すると、海西の菩薩天子とは阿弥陀如来になるべく修行を積んでいる菩薩ということになり、海東の菩薩天子とは薬師如来になるべく修行を積んでいる菩薩ということになります。上宮法皇は尺寸王身釋像の姿になっていますから、既に薬師如来ということなのでしょうか。
薬師如来は、東方浄瑠璃世界の教主で、日光菩薩と月光菩薩を脇侍とし、十二神将を眷属とする、衆生にとっては病と苦しみを癒し救ってくれる多分に現世利益的な仏でもあります。現世利益的といえば、八卦占いや道教もまたそうであります。あるいは、冠位十二階を十二神将に置き換えても好いのかも知れません。また、十二神将を眷属すなわち親族と見做せば、天武の制定した諸王用の位階、明位と浄位が合わせて十二階であることにもつながります。天武もまた儒仏道を修めた天皇なのです。儒教、仏教、道教、これらが錯綜する世界が古代にはあったのです。
王は紫微宮(天の中心)に居して、日月を司る、あるいは従える。道教的神殿に北極星として座し、しかも仏徒として日月を脇侍として天下を治める。これが隋に "日出ずる處の天子" と名乗った倭王阿毎多利思比孤の理想の姿なのです。そして、この理想の姿あるいは形が後の宮殿造りに現れてきます。先ず、藤原宮から見てみましょう。
左は八卦生成の木構造(14章の図14c)を、藤原宮の大極殿から朝堂院にかけて順次宛がっていった図です。太極を大極殿に宛がうことは誰もが先ず考えることだと思います。そして、実際、藤原宮と整合しました。
周知のように、「記紀」成立以前の宮殿で、大極殿と朝堂院とが揃っていたとされるのは前期難波宮と藤原宮だけです。ただ、近江大津の宮が、あるいは前期難波宮の縮小版であるかもしれません。しかし、それはさておき、前期難波宮は藤原宮を先行する宮殿であります。普通に考えるならば、藤原宮は前期難波宮に似ていなくてはなりません。しかし、必ずしもそうとはなっていないようです。
難波宮朝堂院
左は、普通に見かける前期難波宮の復元図です。藤原宮の場合と同じように太極以下を宛がってみました。
図からも分かるように、太極と両儀とは宮殿建物と関連表示することが出来ましたが、四象と八卦とはそれが出来ませんでした。と云うのも、前期難波宮の朝堂院は藤原宮のような東西6棟ずつの12棟の並びではなく、東西7棟ずつの14棟の並びとなっているからです。『紀』によれば、難波宮の造営計画は、孝徳天皇が大化元年(645年)の12月に行った遷都宣言以降と思われますので、上宮法皇の死(622)より23年後、藤原宮造営計画(天武13年とすれば684)の39年前ということになります。そこで、もし仮に近江大津宮が東西7棟ずつの14の朝堂院を有していたとしたら、半世紀近くの間14朝堂院の思想が息衝いていたことになります。
14朝堂院の思想は、倭王阿毎多利思比孤の①の言葉の中にあります。阿毎多利思比孤の時代、大極殿も朝堂院も無かったと思われる時代ですが、仮にこの王がそれらを造ったとすればどうなるかを少し考えてみましょう。
先ず、天を兄とし、日を弟とする倭王の立場ですが、左図のⒶのようになります。
①は太一であり紫微宮でもあります。ここでは、倭王は次男の紫微大帝に当たり、北斗七星を従え恵みの雨を北斗の柄杓より降らせます。と、このように述べれば、この王の宮殿はⒸのように東西日月の下にそれぞれ7つの朝堂院を持つ前期難波宮と同じ14の朝堂院を有する宮殿となるやもしれません。
しかし、それならば冠位を6種12階とはせず、7種13階あるいは14階としているはずです。実際、難波宮の創設者孝徳天皇は7種13階の冠位を制定しているのです。思うに、この王が12階の冠位にこだわったのは、やはり自らを薬師如来を目指す海東の菩薩天子だとする自負があるからでしょう。また、この王に従うのは十二神将をおいて他にはないということなのかもしれません。そしてなにより、四象八卦にも合えば十二支にも合うということでもあります。
しかし、ここでの肝心なことは実際の朝堂院の初めは孝徳朝の14朝堂だということでありながら、それがなぜ12朝堂となったかということなのです。
A | 推古11年(603) | 6種12階 |
B | 大化3年(647) | 7種13階 |
C | 大化5年(649) | 7種19階 |
D | 天智3年(664) | 7種26階 |
E | 天武14年(685) | 8種60階 |
F | 大宝元年(701) | 9種30階 |
左は文献に見える冠位あるいは位階の制度を年代ごとに示したものです。この表から時代を追って冠位の種や位階が増えているのが読み取れます。そういう意味では、AからBへの冠位増加の変化は14朝堂院に合わせてのものと見えます。しかし、Eへの変化をどう見るべきか。実は、Eは普通6種48階と呼ばれているものなのです。8種のうちの明と浄の12階は諸王位用であって一般のものではありません。加えて、この制度は藤原宮にも引き継がれ12朝堂院とも調和しています。つまり、Eへの変化は、必ずしも全面的に増えているとは言い得ないのです。
思うに、政府が大きくなれば位階も増える。単純にはそうだと思います。しかし、二階から目薬とも言います。縦型社会は引き伸ばせば引き伸ばすほど効率が落ち、加えて齟齬も出ます。それに比べて、八卦はわずか三つの爻しかありません。その八卦二つよりなる易は、六つの爻で百般の事象を表わす働きをします。そもそも政府朝廷の要大極殿は易経の太極より出た呼び名です。易が6爻で百般の働きをするなら、朝廷は6種の冠位あるいは位階で百般の働きをさせる。そう云うものではないだろうか。
思うに、孝徳や天智は北極星にこだわり過ぎ、北斗七星こそが百般の働きをすると思い込んだのかも知れません。なお、Fの制度ですが、9種30階で一見12朝堂にはそぐわないようにも見えますが、
E | 2種12階 | 6種48階 |
F | 3種6階 | 6種24階 |
実はEと同じことがFについても言えのです。Fの9種のうち正一位から従三位までの3種6階は、正四位以下にはある上と下の位階がなく特別のものと見ることが出来ます。したがって、Fは実質6種24階となりEの位階を半分に縮めたものとみなすことが出来ますし、そもそも、この制度は藤原宮12朝堂院で出来たものなのです。
八卦と云えば8。しかし、3でもあり6でもあるということです。天武の時代、易の思想は深く根付いてきているようです。最後に、前期難波宮の八角殿についての私論を述べて、この章の終わりといたしましょう。
既にお気付きのこととは思いますが、この建物には日と月を象徴するものが納められていると云うのが私の主張です。孝徳紀によれば、この天皇は仏法を尊んで神道を軽んじたとされています。そういう仏教的な見地に立てば、それらは日光菩薩と月光菩薩ということになります。ただ『紀』には、この天皇の即位の際に大伴の連と犬上の君の二人が金の靫(矢入れ)をつけて壇(たかみくら)の左右に立ったともあります。
これは何とはなく『記』の天孫降臨の一場面を思い浮かべるような内容です。天孫降臨では、大伴の祖の天の忍日の命と天つ久米の命の二人が天の靫・弓・矢を身につけて天孫を導いたとあります。あるいは、金の靫の中にあるのは天の矢かもしれません。矢には、丹塗り矢が稲妻を表わすように光の意味もあります。天の矢とは天からの光で、正に日光と月光のことでしょう。しかし、神話には、天の波波矢(ははや)と天の真鹿児矢(まかごや)とがあるだけです。
ところで、天から矢の様に舞い降りるものがあります。そう、鳥です。神武紀では八咫烏と金鵄が登場し、神武の手助けをしています。この二羽を日月の象徴とすることは出来ないであろうか。無論、古典的には八咫烏も金鵄も太陽の象徴です。しかし、天皇即位の礼の日に用いる大錦旛(だいきんばん)では、八咫烏あるいは金烏を刺繍した大錦旛は日像<纛旛(とうばん)と対にされ、金鵄を刺繍した大錦旛は月像纛旛と対にされています。
思うに、太陽を陰と陽とに分ければ金烏(きんう)と金鵄(きんし)とになるのではないだろうか。金烏玉兎(きんうぎょくと)という言葉があります。金烏は太陽の異称、玉兎は月の異称です。転じて歳月を表わす言葉となるのだそうですが、金烏と金鵄をそのように並べた場合、金烏が太陽なら金鵄は太陰つまりは月となるほかはありません。
『記』には金鵄は登場しませんが、『紀』では対として登場しています。また、後世に於いても対として扱われています。対とは陰陽の対の事です。陰陽思想は、陽があれば必ず陰があるとする法則で成り立っています。そういう意味では『記』にも金鵄は登場しているのです。金鵄は、記載されてはいないが記載されている。これと良く似た扱いをされているものに三種の神器の一つ八尺瓊勾玉があります。
八尺瓊勾玉は八咫鏡と天叢雲剣とで三種の神器をなし、皇位継承の証として代々引き継がれてきたものです。しかし、その継承の記事に剣と鏡の引き継ぎは記載されてはいますが玉の記載はありません。しかし、鏡と玉を陰陽の対と見做せば、玉の記載もあったということになります。ところで、神武紀には神武の三種の神器とでも呼べるものが天から下されています。八咫烏と金鵄と熊野の住人高倉下が神武に献上した剣がそれです。これを本来の三種の神器を見比べて見ると非常によく似ています。思うに、金烏で事足りるものをわざわざ八咫烏としたのは八咫鏡に合わせるためのものと見えます。また、月の異称玉兎と八尺瓊勾玉とは何か通じ合うところがあるようです。
さて、神武の東征は、金鵄が神武の弓の先に止まることによってその最終段階を迎えます。弓は弦月の象徴、その先端に止まる金鵄もまた月の象徴。
§17 神仙、風門がつなぐもの。
とにもかくにも、8は大きな数を表わす。また、そうした意味で古代人がこれを使ってきたことは確かなことです。しかし、古代には百足る、あるいは百足らずという言葉があります。そして何よりも、十分という言葉が今日にあります。そもそも現実の場面では、8は必ずしも大きい数というわけではありません。実際、数えるために用いる人の手の指は10本あるのですから。つまり、10で全部ということになります。それとも、足の指もありますから、百なら全部と言い切れると考えるべきかもしれません。
聖徳太子の十七条憲法には、百寮とか百姓とかの言葉が出てきます。これは、大勢の官僚とか大勢の姓のある者とかという意味よりも全部の官僚あるいは全部の姓のある者という意味合いで使われています。今日で言えば、正に100%という意味です。その証拠に、百足る、あるいは百足らずは百を基準にしての言い回しなのです。
とにもかくにも、数の大きさでは8は百にも十にも劣るようです。しかし、数の形としての大きさではどうでしょうか。そもそも人は100角形を即座に捉えることが出来るだろうか。おそらく10角形でも無理と思います。個人的見解かもしれませんが、3角形や4角形や5角形、そして6角形と、おそらく誰もが8角形までは即座に捉えることが出来ます。しかし、9角形になると角や辺を数えないと確信は持てません。そういう意味では、数の形としての最大のものはやはり8角形ということになりましょうか。
さて、八角堂に八角墳、そして高御座。古代からの八角形の造形物としてはこの三つが際立っています。しかし、その出自に即座に答えられるものとしては天武朝に始まったと思われる高御座ぐらいでしょうか。それ以外は、どれがその最初であるかは俄かには答えられません。ただ、個人的見解を述べさせていただけるなら、八角墳の最初は寝屋川市にある石宝殿古墳。また、八角堂の最初は前期難波宮内裏南門の左右に建っていた八角形の建物と思います。ただ、これに関しては道教関係の建物とする見解もあるようです。
日本的神仙思想
第4章では、八角墳の野口王墓が藤原京の中軸線上にあるとしました。また、これが道教のいう朱宮だともしました。ここまでは確かと思われます。しかし、朱宮が八角形かどうかは分かりません。ただ、道教の建物としての高楼があります。これが八角形であったりすることはよくあることです。しかし、これは道教のいう仙人を呼び寄せたり、あるいは空を飛ぶ仙人を見たりする望楼でしかなく、朱宮ではありません。
そもそも道教は、本来個人の現世利益に特化した方術の宗教で、仏教のように鎮護国家や衆生済度を最初から目指していたものではありません。したがって、たとえ天皇が仙人になれたとしても、果たして人々が "やすみししわがおおきみ" などと唱和したりするものかどうか、はなはだ疑わしいと言うほかありません。それに、天皇が仙人になって如何しようというのだろう。鶴と一緒に空のかなたに飛んで行こうとでも言うのだろうか。秦の始皇帝にしても、漢の武帝にしても、彼らは神仙的仙人になりたかったわけではありません。彼らは、ただ偏に不老長寿になりたかっただけなのです。難波宮内裏南門で神である天皇が仙人を望む。あり得ない話です。
思うに、本家本元の中国でさえいったいどれ程の者が神仙となり得て名を残したというのだろうか。ましてや、道士の渡来のない日本ではなおさらに少なかったと言うほかはありません。私の知る限りでは、奈良県吉野郡吉野町にあった龍門寺に大伴仙・安曇仙・久米仙の三仙人が居たという話ぐらいです。それにしても、道教の仙人が仏教寺院に居たというのも奇妙な話ですが、あるいは神仙等の物語は僧侶が持ち込んだのかも知れません。
時代は下りますが、孫悟空や三蔵法師が出てくる『西遊記』は僧と仙人との物語です。また、『三国遺事』には新羅の慈蔵法師が唐の太和池の辺で神人と会って問答をしたとあります。当時、朝鮮、特に中国ですが、道士と法師の間に疎外感はなかったように見えます。とりわけ外来の仏教からすれば、土地神的道教を積極的に利用し布教に役立てるというのが、常套というものでしょうから。日本でも、仏教説話といわれる『日本霊異記』にさえ少なからず道教的要素が入り込んでいるようにも見えます。思うに、『霊異記』は中国文学や中国仏教説話の影響を受けて出来たものとされています。そして、それらの作品には最初から道教的要素が入り込んでいるのです。
言ってみれば、日本はシルクロード文化の最終処分場のような位置にあります。放っておいても種々の文化が切れ切れの状態で入ってきます。陰陽五行と八卦の思想、加えて天文暦法の技術や儒仏の教え、それら必要なものさえ最低限整えておけば、あとは全体は入らなくとも一部分さえ入っていれば、日本なりの道教が創れるのです。現に後世、陰陽道を創り上げています。そしてなにより、龍門寺の三仙人は既に日本的とも呼べる仙人なのです。思うに、この三仙人は「記紀」が創り出したものと言えます。
藤原宮と神仙境
さてこの三仙人、大伴仙・安曇仙・久米仙と聞いて何を思い出すだろう。それは、おそらく天孫降臨と神武東征の物語ではないだろうか。天孫降臨では、大伴連の祖天忍日命と久米直の祖天つ久米命の二神が武装して邇邇藝命を先導しています。また、神武東征では、八咫烏の案内で莵田の地に入った神武は、この地の支配者兄宇迦斯を大伴連の祖道の臣の命と久米直の祖大久米の命の二人に討たせています。なお、安曇仙は単純には安曇連の役割を受け持っていたということになります。つまり、安曇氏の職掌は皇孫や天皇の食事の世話をする膳職です。思うに、大伴、安曇、久米は常に天皇に付き従っていた伴の造であります。どうやら日本では、仙人になったところで、天皇からは離れられない不自由な身の上でしかなかったのかもしれません。
ところで、三仙人の居た龍門寺跡は竜門岳の南斜面の中腹にあるのですが、この龍門岳の北が神武大和平定の最初の舞台の宇陀なのです。また、時代は下りますが、南は天武が近江朝廷から逃れて隠棲した吉野の宮がある宮滝です。天武はこの吉野の宮から天下平定を目指したといいます。思うに、龍門岳の龍門とは登竜門の竜門のことでしょうか。天下平定を目指す天武の一行は、いわばこの登竜門を昇りきったということなのでしょう。
思うに龍門岳は、飛鳥や藤原の宮人から見れば、ちょうど東南つまりは風門に当たります。まさにこの地は、彼らにとっては神風の吹く神仙境なのです。持統天皇は天武の死後何度もこの地を訪れています。あるいは、神仙となって空を飛ぶ天武の姿を見ようとしていたのかも知れません。持統がつけたとも言われている天武の諡号天渟中原瀛真人、その中の真人は仙人のことだとも言われています。そして、その仙人の姿こそがあるいは神武なのかもしれません。
第4章でも述べたことですが、綏靖と継体紀を除けば神武の名は天武紀にしか見えません。おそらく神武天皇は、天武の時代に生み出されたものなのかも知れません。『紀』によれば、神武は畝傍の東南の橿原の宮で即位し、道の臣と大久米を畝傍山の周りに住まわせたとあります。また、畝傍山の西の川辺の地に久米邑があるのはそのためだともしています。今日、畝傍の南に久米寺と久米の地名が残されていますが、当時つまり天武の時代ですが、伴の造の久米部を大伴氏が率いて常に天皇の側にいたという伝承から久米邑のあるこの地を神武の宮処とした可能性があります。また、膳職に膳の臣ではなく安曇という海部の統率者が顔を出しているのも天武の大海人という名前がかかわっているためとも言えます。三仙人の話は単に伝説にすぎませんが、伝説といえど当時の歴史的背景が生み出したものであることに違いはないと思います。
ずいぶんと横道にそれてしまいましたが、古代人が八角形にこだわるのは実は道教の影響からではなく八卦からのものなのです。また、天皇自身が八角形を利用するという行為は、おそらく仏教からのものと思われます。しかし、これらについては章を改めて述べたいと思います。そこで、最後に久米仙人の話を少し述べてこの章の終わりとしましょう。
久米仙人の話は、『今昔物語』ばかりではなく仏教関係の諸書や『徒然草』など随筆や説話などにも少なからず記述があるそうです。ただ、これらの書は奈良時代を遡ることはなく、この話が天武時代にできた可能性はほとんどありません。しかし、話の内容や久米寺の創建が白鳳時代に遡ることから、全く無いとも言い切れません。
左は、龍門岳と藤原の宮との地理的関係を図示したものです。この図からもわかるように、龍門岳は藤原の宮から単に東南に位置するというだけではなく、飛鳥や藤原の地を流れる川すべての源流域である龍門山地の主峰としての存在感の方がより強いのです。たとえば、『万葉集』の藤原宮御井歌に、"水こそば とこしへにあらめ 御井のま清水" と歌われているように、これも竜門岳があってこその賛歌と言えます。思うに、水の都の藤原京にとって龍門岳は欠くことの出来ない存在なのです。
さて、久米仙人の話しですが、"天平年間に大和国吉野郡の竜門寺に籠もって、飛行の術を行っていたが、川で洗濯する若い女性の白い脛に見惚れたせいで神通力を失って墜落。結局、その女性を妻として俗界に暮らすが、後に高市遷都の折り木材を空に飛ばせて運んだ功により免田30町を賜り、それで久米寺を建立した" というものです。
単純には、これは久米寺縁起とでも呼べそうなものですが、久米寺は白鳳年間の寺で、もう一つの奥山の久米寺になるとさらに古くなり、とても天平年間の話しとは出来ないようです。物語の中に高市遷都とあることから、あるいは難波の宮もしくは大津の宮からの遷都の時の話なのかも知れません。しかし、これに付いては別の章で触れることとし、ここでは猿も木から落ちると言うか弘法も筆の誤りと言うか、なぜ仙人が墜落し、また、それがなぜ久米仙人でなくてはならなかったのか、素人の疑問に少しばかり時間を割いてみましょう。
神武記と久米仙人
『日本霊異記』に、仙人ではありませんが雷が落ちるという話しがあります。これは、雷岳の地名説話が発展したものと思われますが、この原型となるものあるいは同じ原型からできたと思われるものが雄略紀にもあるので少し比べてみますと、どちらも雷を捕らえるという話で、主人公もまた共に少子部蜾臝(スガル)となっています。ただ、『霊異記』では雷岳に落ちた雷を捕らえているのに対し、『紀』では三輪山に登って三輪山の神の化身である蛇を捕らえるという違いはあります。『霊異記』の作者が『紀』を読んでいたかどうかは分かりませんが、雷岳は一つしかありませんし配役もまた同じです。単純には、この二つの話は全く同じものであるということになります。ただ、そうなると三輪山と雷岳は同一の地点ということになります。無論、これは現実としてはあり得ないことではあります。しかし、これがもしあり得ることだとしたら如何でしょう。
何度か言ったことですが、三輪山は藤原や飛鳥からは鬼門に当たります。また、藤原や飛鳥を通り三輪山に向かう北東の線を引くと、この線上に益田岩船と丸山古墳の前方部、そして香具山が乗るということも既に述べたと思います。ところが、実はもう一つ乗るものがあったのです。それは、賽の隈です。第6章ではこれを太秦として話を進めていますが、要は塞の神の居る場所ということです。そこでは川は流れを遮られ、流れを賽のように直角方向へと追い遣られます。そして、おそらくは空を飛んでいる仙人や雷もその上では行く手を遮られ、あるいは墜落することになるのでしょう。
桜井市から橿原市にかけての地図を見ると、山田寺の西で曲がり終えたかっての阿部山田道がほぼ真っ直ぐ真西に向かって橿原市西池尻町の外れまで延びていたことをかなり正確に掴み取ることができます。また、その東と西のそれぞれに賽の隈を持つ川が流れていることも分かります。東の川は飛鳥川で、賽の隈は阿部山田道のすぐ南にあります。もし雷が落ちるとすればこのあたりで、物語の雷の落ちた雷岳は、賽の隈とは阿部山田道を挟む位置関係、山田道の北側にあります。そして、その東には奥山久米寺があります。
次に、西の川は高取川で、万葉集には "賽の隈檜隈川" と歌われています。なお、下線の部分は当て字です。この川の賽の隈は丸山古墳のすぐ西にありますが、阿部山田道からはかなり離れています。しかし、仙人が落ちるとすればこのあたりでしょう。それに、ここが三輪山に向けて北東に引かれた線上に乗るもう一つのもの、つまり本家本元の賽の隈なのです。さて、賽の隈を過ぎた高取川の流れは、やがて阿部山田道を抜け東に久米寺を望んで畝傍山の西へと流れ下ります。その畝傍山の西こそが、神武紀の記す久米邑のある川辺の地なのです。そして、この地と対を成すのが三輪山の西、狭井川の辺なのです。
「記」の天孫降臨や神武の物語から、大伴仙と久米仙が道の臣の命と大久米の命に置き換わるという意味のことは既に述べたと思います。実は、神武記には久米仙が若い女性の白い脛に見惚れて神通力を失うという話に置き換わる物語もあるのです。
物語の場所は狭井川の辺。下図の左上部に拡大図があります。①のT字型の流れを持つ正に賽の川と呼び得る川の辺です。ここで、大久米の命は高佐士野であそぶ七媛女と出会っています。そして、彼と相対したのが七媛女の先頭を歩いていた富登多多良伊須須岐比売の命なのです。
ところでこの話、何かに似ていると思いませんか。そう、天孫降臨の段、天の八街での天の宇受売の命と猨田毘古の神との対峙の場面です。この時、天の宇受売は陰(ほと)をあらわにしたと思われます。これを見て、猨田毘古は初めて口を開いたといいます。天の宇受売が猨田毘古を制したということでしょうか。
天の宇受売は天の岩戸以来 "陰(ほと)" を冠する女神です。そして、富登多多良伊須須岐比売もまた "富登(ほと)" を冠する媛女(おとめ)です。大久米の命は八街のように流れが分かれる川の辺で、七媛女の先頭に立つ "陰(ほと)" を冠する媛女を見たのです。そして、大久米の命は彼の黥ける利目の神通力を失ったということなのでしょう。連想が先走りしているかもしれませんが、他にも数の一致があります。それは、高佐士野の(たかさじの)七媛女に対し高天原の七伴緒(ななとものお)という構図です。
「記紀」には七伴緒という呼び方はありません。あるのは五伴緒という呼び方です。内訳を見てみますと、中臣連の遠祖天児屋命、忌部首の遠祖布刀玉命、猿女君の遠祖天宇受売命、作鏡連の遠祖伊斯許理度売命の五名です。これ以外にも幾柱かの神が付き従っていますが、それらの神は鏡や剣といった三種の神器と同列に語られており、また子孫をも持ちません。この段で、子孫を持ち命と呼ばれているのはこの五伴緒と大伴連の遠祖天の忍日の命と久米直の遠祖天つ久米の命の七名、つまりは七伴緒ということになります。
まとめてみますと、天宇受売命と富登多多良伊須須岐比売は七名の連れの先頭に立って相手と対峙し、これを制した。そしてその場所が、流れや道が交叉する塞の神のいる天の八街や川の八街だったということです。人は相手を見ることによって相手を制したり、逆に制せられたりします。猨田毘古と大久米の命は女性を見たことによってその神通力を制せられた。久米の仙人もまたそうでした。
思うに、久米の仙人の話は天孫降臨神話や神武東征譚がその元となっているようです。また、川辺にある久米邑と三輪山より流れる狭井川の辺は、三輪山と高取川の賽の隈とを結ぶ鬼門軸でつながっているのです。そこで、図17bを見てみましょう。 ⒶとⒷ、良く似ていると思いませんか。そう、ⒶとⒷは阿部山田道を通して東西の関係にあります。つまり、ⒶはⒷでもあるのです。どうやら雷岳と三輪山がつながったようです。つまり、三輪山とⒶとは鬼門軸でつながり、ⒶとⒷとは阿部山田道でつながる。そうなれば、『霊異記』の雷岳と「雄略紀」の三輪山とが重なり合うことになります。
§16 形としての8。
今日、いや昔から我々は8を末広がりの縁起のいい数として捉えています。しかし良く考えてみれば、これは八という漢字が大陸から伝わって以降のことであり、日本古来からの捉え方ではありません。また、「記紀」にしても8を、八十、八十万、八百万といった、とにかく数が大きいことを表わすことに用いているようですが、これとて八卦の思想が伝わって以降のことでなければ、8をそのような意味で使うことはできないはずです。
八卦の思想がいつ頃伝わったのか、それは分かりません。ただ、「隋書俀国伝」に阿毎多利思比孤の国の制度として "八十戸に一伊尼翼を置く"という記載があります。おそらく、600年代頃までには伝わっていたと思われます。そして、やがては形としての8が現れて来るようになります。
八角形と天皇の御世
形としての8は、奈良時代以前だと八角墳に、それ以降だと八角堂にその姿をとどめています。ただ、仏教建築である八角堂は、八角円堂ともいわれるように円の代用とみなすこともできます。また、八角墳にしても、これを天円地方の組み合わせである上円下方墳の変形とみなすこともできなくはありません。しかし、円墳や方墳は八角墳以前より存在しています。しかも、八角墳には単なる八角墳と上八角下方墳の二種類が存在し、素人目にも円墳と方墳の単純な組み合わせではないことだけは明らかです。
ところで、形としての8の姿をとどめているものがもう一つあります。それは天皇の玉座である高御座(たかみくら)です。高御座という呼び名がいつの頃よりあるのかはわかりませんが、『日本書紀』には "壇場" と書いてタカミクラあるいはタカトノと読ませている記事が清寧・武烈・天武の紀に見えます。また、必ず "壇場を設けて" と記載されていることから即位や儀式の場合にのみ用いていたと思われます。ただ、武烈から天武までの200年近くの間、壇場を設けたという記事は見られず、壇場の設置は天武が最初であった可能性があります。そして、その時の壇場が八角形であった可能性もあります。
治天下天皇の御世から馭宇天皇の御世へ
「記紀」に、"やすみししわがおおきみ" とほめたたえる歌謡があります。『記』の場合は漢字の音表記ですが、『紀』はすべて "八隅知" と訓で表記しています。八隅とは、八つの方位の隅のことで、八紘あるいは八荒ともでき、国や世界の隅々ひいては天下を言い表す言葉といえます。そうなりますと、"やすみししわがおおきみ" とは治天下大王の歌謡表現ということになりそうです。さて、古代での治天下という表現は、古くは江田船山古墳鉄刀の銘文にまで遡りますが、書は張安という半島系の人の手によるもので、歌謡表現の "やすみししわがおおきみ" の時代とはかなりの隔たりがあります。したがって、そういう意味でのもっとも古いものとしては船氏王後の墓誌ということになります。これが出来たのが668年で、天武の時代に非常に近くなっています。
惟 船氏故王後首者 是船氏中祖王智仁首児那沛故首之児也 生於乎沙陁宮治天下天皇之世 奉仕於等由羅宮治天下天皇之朝 至於阿須迦宮治天下天皇之朝 天皇照見知其才異 仕有功勲 勅賜官位大仁品為第 三殞亡於阿須迦天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅 故戊辰年十二月殯塟於松岳山上共婦安理故能刀自同墓 其大兄刀羅古首之墓並作墓也 即為安保万代之霊其牢固永刧之寶地也①《王後の墓誌》
なお、八紘に関しては、神武紀に "八紘をおおいて宇とせんこと、亦よからざらむや" とあります。また、「古事記序文」には "天統を得て八荒を包む" ともあります。古代、天皇の御世を "治天下天皇" から "御宇あるいは馭宇天皇" に変わった時期があったとされていますが、思うに、御宇や馭宇に至るには、先ず御世という表現の時期がなくてはなりません。船氏王後の墓誌には、単に "天皇之世" とあるだけで御世とはありません。御世という表現は「古事記序文」に二度ほど用いられていますが、御宇や馭宇の表現は序文にはありません。このことから、序文の書かれた和銅年間(708~715)には、御宇や馭宇の表現は無かったと思われます。なお、慶雲4年(707)の威奈真人大村墓誌銘には御宇の表現があるそうです。一説では、御宇や馭宇の用字は大宝律令以後だともされています。
馭宇の公的表現は養老五年十月の元明天皇の詔 "諡号は、其の国其の郡の朝廷馭宇天皇と稱せ" が最初です。また、この年の前年に『紀』完成の奏上が『続紀』に載っていることから、御世、さらには御宇や馭宇の表現は史書編纂の過程で生まれたものと思われます。思うに、御世は和文表記です。この和文表記を漢文表記らしくしたのが御宇や馭宇の表記だったのではないだろうか。そして、その本となったのが神武紀の "八紘をおおいて宇とせん" であったのかもしれません。
では、御世の表現はいつ頃からあるのだろうか。御世の表記ではありませんが、"御" を同じように用いて、しかも王後の墓誌と同時代に書かれたと思われる金石文があります。
池邊大宮治天下天皇大御身勞賜時 歳次丙午年 召於大王天皇與太子 而誓願賜我大御病太平欲坐 故将造寺薬師像作仕奉詔 然當時崩賜 造不堪 小治田大宮治天下大王天皇及東宮聖王大命受賜 而歳次丁卯年仕奉
と
丙寅年四月大旧八日癸卯開記 栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時 請願之奉弥勒御像也 友等人数一百十八 是依六道四生人等此教可相之也③《野中寺弥勒像》
との二つです。
紀年銘からみる限り、①の王後の墓誌が書かれたのが戊辰年(668)、②の金堂薬師如来は丁卯年(667)、③の野中寺弥勒像は丙寅年(666)となります。無論、②の金堂薬師如来については見当違いと指摘するとは思いますが、しかし①②③の文を見比べた場合、同じ時代に書かれたように見えることもまた確かです。とりわけ問題の②には、①にも③にも共通するキーワードがあります。それにしても、三年も続けてこうした金石分が出来たというのも不思議な気がします。あるいは、667年を境に何かがあったのかも知れません。『紀』によれば、667年に近江への遷都が敢行されています。
8からは随分と離れてしまったようですが、こうした日本語的な文章には、その時代の話し方が反映されているように見えます。②と③押しなべて丁寧な敬語表現となっているのはそのせいでしょう。特に②は優しささえ感じられ、同じ法隆寺の金堂にある釈迦三尊像光背銘とは時代背景がまるで違っているようにさえ思えます。この釈迦三尊像光背銘ができたのが623年ですから、②とでは半世紀近くの隔たりがあるということになります。おそらくそれで好いのだと思います。
思うに、文字による情報の記録が文であり文章です。これは読むことによって情報が引き出されます。また、言葉による情報の記録が話しであり語です。これは語らせるあるいは話させることによって情報が引き出されます。
稗田阿礼が誦んだとされる『記』、ここには "御" を接頭語とする言葉がたくさん出てきます。『記』は②とそれほど遠く離れていない時期に話し言葉で書かれた語り物ということなのでしょう。それはさておき、古事記本文には御世を表わす言葉として "御世" と "治天下" の他は何もありません。つまり、天武の時代には "八紘" あるいは "八荒" は未だ掘り起こされていなかったということになります。しかし、周知のように天武は、八色の姓と、諸王と諸臣の合わせて8種60階の位階の制度を制定した天皇でもあります。しかも、彼の制定した制度はすべて8とかかわりがあり、正に8尽くしの観があるのです。そして、おそらく「古事記序文」が示す "昇りて天位に即きたまいき" 天皇である彼が天位に即くために昇った "壇場" は8角形であったはずです。
それならば、天武の8は何処から来たのであろうか。しかし、その前に彼が定めた位階の制度を少し見てみましょう。
諸王12階 | 諸臣48階 | ||||||||||||||
明位 | 浄位 | 正位 | 直位 | 勤位 | 務位 | 追位 | 進位 | ||||||||
大 | 広 | 大 | 広 | 大 | 広 | 大 | 広 | 大 | 広 | 大 | 広 | 大 | 広 | 大 | 広 |
4階 | 8階 | 8階 | 8階 | 8階 | 8階 | 8階 | 8階 | ||||||||
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 |
左は、天武が制定した位階を表にしたものです。位階は、明位から進位までの8種類、そのそれぞれに大と広の2つの階があり、明位を除くそれらの2階のそれぞれがさらに4つの階に分かれ、明位が4階になる以外はすべて8階となり、すべて合わせると60階になるというものです。
ところで、この位階の構成数"1・2・4・8"、何かに似ていると思いませんか。そう、これは八卦の生成の構成数と同じなのです。しかも、あと4階を加えることが出来れば64階となり、易の64卦そのものになります。そこで、あとの4階を加えてみましょう。思うにそれは、太后、天皇、皇后、太子の4階であったはずです。
そもそも位階制定の時代、位階は天皇が自身と太子を除いた皇親と諸臣に与えたものです。したがって、与える側に位階がないのは当然です。しかし、天皇の位、太子の位という地位はあります。当然、太后や皇后にもあるはずです。
「記紀」の時代延いては「記紀」の編纂された時代、太后や皇后がなんの抵抗もなく天皇位やそれに匹敵する地位ついたとする史実や物語があります。記紀の時代、それは取りも直さず天武の時代ですが、太后、天皇、皇后、太子の地位は同等に近いものであったのやもしれません。少なくとも、太后、皇后、太子はそうであった可能性があります。そのように考えれば、"おおきみは神" と称えられた時代、明位の明は神明の明とするのが妥当かもしれません。もしそうであるなら、天神地祇の神明の位階は、天に4階、地に4階、合わせて8階があることになります。思うに、明こそは日月を表す文字。すなわち、陰と陽、天と地を表す文字なのです。
なお、天武紀によれば明位を授かった者はいません。また、太子である草壁が位階を授けられたのも不可解です。草壁は果たして太子だったのか。歴史、すなわち歴史書。我々が今日歴史と呼んでいるものの本をたどれば歴史書に行きつきます。『紀』は事実も記すが、そうでないものも記す。②の法隆寺金堂薬師如来像光背銘にしても紀年銘通りの667年とすればすべて一つの齟齬もなく前後の金石文とつながるのです。8という数や紀年銘金石文がそのことを語っているようにも見えます。
それにしても、天武を初め古代の日本人が8に思いをかけるさまには、並々ならぬものがあるようです。しかし、高御座と八角墳、古代人はどちらもが八角形であることに戸惑いを感じることはなかったのだろうか。生者と死者、そのいずれをも八角形の中に納めても良し、納まっても良しとする発想は何処から来たものなのだろうか。
思うに、納めるあるいは納まるという以外、つまり八角形の上に立つあるいは座るということであれば、これを仏教に求めることは可能です。それは、仏像の多くが蓮華文を台座としているからです。そして、この蓮華文の基本的な形が、八弁の蓮華文なのです。
左のⒸⒹⒺは、蓮華文を台座としている弥勒と観音像です。Ⓒは③の野中寺金銅弥勒菩薩半迦思惟像。画像は、門脇禎二・水野正好編の吉川弘文舘出版 河内飛鳥 より借用。Ⓓは百済観音像、Ⓔは九面観音像です。どちらも法隆寺の有名な菩薩像です。画像は、高田良信著小学館出版 法隆寺の謎と秘話 よりの借用。
なお、借用とは言っておりますが無断借用でございます。ⒶとⒷもやはりそうでございます。この二つは、森郁夫著ニュー・サイエンス社発行 考古学ライブラリー 43 瓦 からの借用です。なにとぞ御容赦のほどを。
仏といえば蓮の花。仏像に蓮華文は欠かせないというのが日本に普通にある常識です。しかし、日本への蓮華文の最初は小さな仏像、たとえばⒸやⒹのような形で入って来たと思われます。そして、それらは一部の人の目に留まるだけでのものでしかなかったと思います。それが今日の常識を生み出すほど多くの人々の目に留まるようになったのは、やはり寺院の屋根の軒先を飾る瓦当て文様からだと思います。
ⒶとⒷは寺院の軒先を飾った瓦当ての文様です。Ⓐは蓮華文のようには見えませんが、しかも六弁しかありません。実は、これは高句麗の瓦です。高句麗は古くから中国文化と接していたため瓦当ての文様も非常に簡略されたものとなっています。Ⓑは奥山の久米寺のもので見ようによっては八角形に見えなくもありません。なお、Ⓓの台座は6角形、Ⓔの台座は8角形となっており、台座と瓦当て文様とは何らかのかかわりがあるように思えます。それに、寺院には八角堂の他に六角堂も存在します。とは申しても、円の等分割は6や8が一番簡単だからと言われてしまえばそれまでの事ではありますが。
ところで、寺院と言えば瓦、瓦と言えば蓮華文。それが当時の常識です。と言うのも、そもそも瓦は寺院で利用するためだけに日本に入ってきたものだからです。つまり、瓦と蓮華文すなわち寺ということなのです。それが何故か、藤原宮にも平城宮にも蓮華文の瓦が使われています。中国のように瓦やその文様が仏教とはかかわりなく発展していった国ならばともかく、日本のような事情では何らかの抵抗を感じると思われるのだが、それともこれも高御座と八角墳の場合と同じようになんの戸惑もなく受け入れたのだろうか。あるいは、天皇は神であり仏であるということなのかもしれません。
無論そうしたこととは関係なく、高御座や八角墳を道教や古代中国の政治思想の影響として捉えることも可能です。しかし、その道教等にしても八角形を天下八方と主張できるのは八卦八方位の思想があって始めて可能となるものなのです。なぜなら、方位には八方位のさらに上の十二方位があるからです。かって日本では東南を巽(たつみ)、北西を乾(いぬい)と呼んでいました。巽は辰巳のことで、十二支の方位の辰と巳の方角を指し、乾は戌と亥の方角を指しています。そういう訳で、この十二方位から天下を見れば、天下八方とは呼べません。つまり、天下を八方で良しと言えるのは、偏に八卦のおかげなのです。
§15 八卦と8。
造化三神に別天津五神、果ては神世七代。「記神話」は欲張りである。それにひきかえ中国では三皇五帝で終始しています。
思うに、太極と両儀とで簡単に三神が出来ますが、四象を五神とすることは簡単には出来ません。「記神話」が苦労をしたことだけは確かでしょう。記神話 "天地の初めの時" 、これには編纂当初からいろいろの解釈があったようです。
ところで、古今の日本において、7、5、3の他に、8も聖数とする慣習があります。8の使われ方は、特に古代においては、八島、八雲、八咫鏡、八十、八百万といった、とにかく数が大きいことを示すことに専ら使われているようです。しかし、それなら8がなぜ大きいものを表わすことが出来るのか、…
思うに、それはやはり八卦が森羅万象を表わせるからでしょう。
国生みと8
『古事記』神話では、国生みは先ず大八島を生み、次に六つの島を生んで完了します。この場合の八は文字通りの8で、6と共に地の数を示しているとも言えます。そこで、これを下の表のようにまとめてみますと、いろいろと面白いことが言えるようになります。
8島 | 6島 | ||||
---|---|---|---|---|---|
島名 | 別名 | 場所 | 島名 | 別名 | 場所 |
淡道之島 | 穂之狭別 | 内海 | 吉備児島 | 建日方別 | 内海 |
伊予之二名島 | (四つの国) | 内海 | 小豆島 | 大野手比売 | 内海 |
隠伎之三子島 | 天之忍許呂別 | 外海 | 大島 | 大多麻流別 | 内海 |
筑紫島 | (四つの国) | 外海 | 女島 | 天一根 | 内海 |
伊伎島 | 天比登都柱 | 外海 | 知訶島 | 天之忍男 | 外海 |
津島 | 天之狭手依比売 | 外海 | 両児島 | 天両屋 | 外海 |
佐度島 | 外海 | ||||
大倭豊秋津島 | 天…豊秋津根別 | 外海 |
先ず、場所に注目しますと、内海のグループと呼べるものが6、外海のグループと呼べるものが8となっています。内海というのは瀬戸内海のことです。なお、四国の南部は外海にも面していますが、その呼び名を伊予之二名島としているように、古代人は四国を瀬戸内海側から捉えていることから、これは内海のグループとできます。また、そういう意味で九州筑紫島を見ると、これは外海のグループとなります。
さて、国生み神話の最初の舞台が瀬戸内海だとしたら、実は内海に属する島は8となります。と言うのも、国生みの最初の段階で、伊邪那岐と伊邪那美は水蛭子と淡島とを生んでいるからです。この二つを内海グループの6に加えれば8となります。
次に、別名の中の"天"の付くものを探してみますと、7島ほど拾うことができます。このうち女島を除く残り全部が外海となっています。このことから、"天"の付くものは基本的に外海に属しているものである可能性が高くなってきます。そこで、別名の記載のない外海に属している佐度島にも"天"の付く別名があるとしたら、"天"の付くものがやはり8となります。
しかし、それにしても、なぜ内海の女島に "天" が付いているのか。実は、これも8とかかわりがあるからなのです。
"天" の付く女島を内海グループから引き離すと、淡道島から大島まで5島が残ります。このなかの伊予之島は4ヵ国で出来ていますから、伊予之島の代わりにこの4ヵ国を残りの4島に加えると8になります。女島を除くこの8は、言ってみればいわゆる四国エリアとも呼べそうです。つまり、女島は四国エリア外という意味で "天" を付けたのかもしれません。
そして、そうなりますと、次に九州エリアと呼べるものがないのかということになります。
筑紫島は伊予と同じ4ヵ国よりなります。したがって、残り4島を決めれば九州エリアの8が出来上がります。候補としては外海に並ぶ、伊伎島、津島、知訶島、両児島の4島が最適となります。両児島については正確な比定はされていないようですが、島の生まれた順序としては、この島は最後でしかも西の端ということであり、いずれにしても九州エリアということになります。それにしても、四国エリアにも九州エリアにも属していない女島は本州エリアと言う他はないようです。実際、図15aの四国九州エリアを取り除くと、女島は本州の西南端の外海にあるようにも見えます。
それでは、佐度島と隠伎之三子島と女島と大倭豊秋津島とで本州エリアを作りあげてみましょう。先ずと言っても、クリアすべき条件はたったの一つしかありません。その条件とは、大倭豊秋津島を5と数えることです。さて、『日本書紀』には四道将軍の話があります。四道とは基本的には四方を指します。四方、とは言っても現実にはどこかに中心を設けないと四方は存在しません。当時ですと、その中心は大和になります。つまり、大和と四道とで5となります。『古事記』には四道将軍の呼称の記載はありませんが、何とかの "道" に何がしの命を派遣したという話はあります。そもそも「記紀」の編纂された時代は、陰陽・五行・八卦が生きていた時代でもあります。あらゆる所にそれらの思想が入り込んでいる可能性があります。つまり、大倭豊秋津島に五方が完備して初めて国生みが完成するのです。
神生みと8
八十神、八十万神、八百万神、「記紀神話」には神の多さを八を用いて表わしています。思うに、古代中国人は八卦を用いて世界を言い当てようとしていました。あるいは、古代の日本人は神を用いて世界を言い当てようとしていたのかも知れません。
A | 1 | ⒈大事忍男神 |
2 | ⒉石土毘古神 ⒊石巣比売神 |
|
3 | ⒋大戸日別神 | |
4 | ⒌天之吹男神 | |
5 | ⒍大屋毘古神 | |
6 | ⒎風木津別之忍男神 | |
7 | ⒏大綿津見神 | |
8 | ⒐速秋津日子神 ⒑速秋津比売神 |
|
B | 1 | ⒈沫那藝神 |
2 | ⒉沫那美神 | |
3 | ⒊頬那藝神 | |
4 | ⒋頬那美神 | |
5 | ⒌天之水分神 | |
6 | ⒍国之水分神 | |
7 | ⒎天之久比奢母智神 | |
8 | ⒏国之久比奢母智神 | |
C | 1 | ⒈志那都比古神 |
2 | ⒉久久能智神 | |
3 | ⒊大山津見神 ⒋鹿屋野比売神 |
|
D | 1 | ⒈天之狭土神 |
2 | ⒉国之狭土神 | |
3 | ⒊天之狭霧神 | |
4 | ⒋国之狭霧神 | |
5 | ⒌天之闇戸神 | |
6 | ⒍国之闇戸神 | |
7 | ⒎大戸惑子神 | |
8 | ⒏大戸惑女神 | |
E | 1 | ⒈鳥之石楠船神 |
2 | ⒉大宜都比売神 | |
3 | ⒊火之夜藝速男神 | |
4 | ⒋金山毘古神 ⒌金山毘売神 |
|
5 | ⒍波邇夜須毘古神 ⒎波邇夜須毘売神 |
|
6 | ⒏彌都波能売神 | |
7 | ⒐和久産巣日神 | |
8 | ⒑豊宇気毘売神 |
左は、「記神話」神生みのくだりを、神話の進展どおりに生まれた神々の名を上から下へと書き連ねたものです。ここで生まれた神の総数は40神ですが、なぜか記神話は国生みと神生みの段の最後のまとめとして、これを35神としています。この数え方についてはそれなりの理由があるのですが必ずしも明確というわけではありません。とゆうのは、記神話はAのくだりを10神、Bを8神、Cを4神、Dを8神、Eを8神と数えているためです。そう、これらを合わせると38神となってしまい、40神にも35神にも当てはまらなくなるのです。
40神を35神と数える「記神話」の常套手段としては、"天地の初め"の段にもあるように男女一対の神を1神と数えることです。しかし、この条件を満たすすべての組み合わせにこれを当てはめると、Aは8神、Bは6神、Cは3神、Dは7神、Eは8神となり、合わせると32神と数え方としては最も少なくなってしまいます。また、Eの伊邪那美の同じ尿から生まれた彌都波能売神と和久産巣日神を男女一対神と見做せばさらに少なくなります。
思うに「記神話」は、Aを10神、Bを8神、Cを4神、Dを8神、Eを8神と数えているように、地の数ここでは10・8・4ですが、その中でも特に8にこだわっていることが見て取れます。8は地の数の中では最大のものでもなければ、易でいう老陰の数でもありません。しかし、国生み以降の記神話の舞台は天上の高天原ではなく地上であります。地上とは天地間のことであり八卦の世界でもあります。八卦の八という数が主役となる世界と見るべきなのかもしれません。
さて、前章では10を8と数えたり、12を10と数える話をしましたが、この段では記神話が10を8と数えてもいるようです。神話はEのくだりの10神を"天の鳥船より豊宇気毘売神まで併せて8神"としています。なお、天の鳥船は鳥之石楠船の別名です。そこで、Aの10神を8神とすれば、合わせて36神となります。さらに、Cの4神のなかでDの神々を生む大山津見神と鹿屋野比売神を男女一つの神とみなせばCは4神となり、すべて合わせれば記神話のいう35神となります。
35神の35という数は、3と5という天の数で出来ていますが。神話の流れが、天上の神が生まれ、そして地上での神が生まれるとなっているように、天の数の3と5から地の数の8が生まれるというシナリオを「記神話」は考えているのかもしれません。
八卦は天地間の事つまり地上での現象を問うものです。そういう意味では、八卦は天上には存在しないともいえます。それになにより、八卦の八は地の数の8です。そういう意味では天上には四方も存在しないのかも知れません。天上にあるのは五方です。五方は、地上にもありますが、古代の日本人、特に天武以降の人々は五方よりも八方を用いたように見受けられます。
§14 八卦の生成と記紀神話
陰陽には善悪も醜美も喜怒もありません。しかし、森羅万象を陰陽二元論で説く古代人は、万物を陰と陽に分けました。したがって、善をも悪をも醜をも美をも当然分けたはずです。そして陰をも陽をもです。
八卦の生成と記紀神話
陰を陰と陽に分ければどうなるか、言葉をかえれば "陰が陽に転化した、あるいは陰が陽を産んだ" となります。卦図を用いて説明しますと、①☷→☳と②☷→☵と③☷→☶の三つの状態を指します。これは坤が、①では一番下の陰爻が陽爻に転化して震に、②では真ん中の陰爻が転化して坎に、③では一番上の陰爻が転化して艮になったものです。ちなみに易ではこの変化する爻を変爻と呼び、それが陰爻である場合は老陰、陽爻である場合は老陽と呼びます。そして、この変爻があることによって一つの筮占から本卦と之卦(シケ)という二つの占い結果が出てくるようになるのです。そこで、改めて易の卦図について少し説明を加えておきましょう。
左図14aは筮占より得られた卦を示したものです。左端の1から6までの数は爻の順位を示す数です。普通は1は初、6は上と表記します。下から数えるのは、机上や前面に卦を展開した場合、自身から見て一番近い手前が下になるからです。又そのために、1から3までの爻を下卦あるいは内卦と呼び、4から6までを上卦あるいは外卦とも呼びます。なお、易の操作、筮占は爻を導き出す為のもので、この筮占からは4種類の爻が得られます。老陰、老陽、少陰、少陽の4つがそれです。老陰・老陽は変化可能な爻、少陰・少陽は変化不可能な爻です。ただ、「─」と「--」という二種類だけの爻の記号では老少の区別はできません。それで、易ではこれらを区別するために新たな記号を加えたり、数字や漢字等を用いて表してもいます。→図14b参)
さて、筮占により64卦のうちの地という卦が出ました。これが本卦です。しかし、初爻に変爻の老陰があるために卦が変わってしまい64卦のうちの復という卦になります。この変わって之(ゆ)く卦の意からこれを之卦と呼ぶのだそうです。なお、占断には本卦と之卦を踏まえ、本卦の変爻の辞に拠るとされています。ところで、易の卦の上卦を無視すると八卦の坤が震に変わったのと同じことになります。そして、坤もそのまま残ります。つまり、陰が陰と陽に分かれたということです。どうやら、八卦の生成には変爻の思想がかかわっているようです。
八卦生成の順序
八卦は陰と陽の二つだけの組み合わせが生み出すものです。したがって、2進数表示が可能となります。ただし、2進数表示とは2進数で数えること、つまり一つずつ加算していくことで、必ずしも都合のよい順で揃って生成するわけではありません。
\ | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 |
A | 0 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 |
000 | 001 | 010 | 011 | 100 | 101 | 110 | 111 | |
B | ☷ | ☳ | ☵ | ☱ | ☶ | ☲ | ☴ | ☰ |
坤 | 震 | 坎 | 兌 | 艮 | 離 | 巽 | 乾 |
左の表のAは三爻の組み合わせを二進数で表したものです。000から始め1づつを加算していって111になるまでを示しています。10進数では0から7になります。Bは0を陰、1を陽とした場合の八卦図と八卦名です。これを見ますと、兌と艮が小陰あるいは小陽それぞれのグループから外れています。また、加算展開ですので元の値に戻っての循環もありません。ただ、二進数には1に1を加えると桁上がりをして0になる、ある意味での変爻に似た働きがあります。とは申しましても、0に0を加えても桁上がりはありません。
左図14cは、内容や形を少し変えてはいますが、八卦の解説書などでよく見かける八卦生成の木構造図と同じものです。本来の木構造図は、古来からの易の解説文献「繋辞伝上」にある太極→両儀→四象→八卦という八卦生成の過程を、南宋の朱熹(1130~1200)が陰陽の爻記号を用いて説いたものを図としたものです。ただ、ここではその図を基に次の二つの観点から少し変形を試みています。
先ず、節点から陰陽二俣の枝の出る木構造とする事。次に、八卦の順序を2進数に合わせる事。この二つです。前者は、陰からも陽からも陰陽が生まれるという一貫した流れをこの木構造に持たせる為の必要不可欠な原則です。後者は、というよりも後者を成立させるには、爻を上に重ねるのではなく下に差し込んでゆく必要があります。これは筮占によって初爻から上爻へと爻を導き出していくやり方とは逆になりますが、ここでの爻は導き出した爻ではなく最初からある変爻ですので差し込んだということにはなりません。そして、その最初からある変爻とは太極のことです。
図14cを文章に直しますと、"太極から両義が生まれ、太極と両義から四象が生まれ、太極と四象から八卦が生まれる" となります。これは、"太一から水が生まれ、太一と水から天が生まれ、太一と天から地が生まれる" とする⒓章で述べた竹簡文書「太一生水」と同じ古代の論理に合わせたもので、太極→両儀→四象→八卦をそのように解釈しても齟齬は出ないと思います。なお、原文では "易有太極 是生兩儀 兩儀生四象 四象生八卦" となっていて、"太極と" という言葉はありませんが、「荘子斉物論」に "一と言えば一と一と言った言葉とで既に二であり、二と言えば二と二と言った言葉とで既に三である" といったようなことが書かれています。荘子は、1は100よりも大きい、あるいは同じであるとも説いているのですが、それには言った言葉を補えとも言っているのです。つまり、古代にはそうした考え方もあるのです。
さて、陰陽両儀を生じる太極は変爻です。変爻ですから老陰か老陽のどちらかとなりますが、太極の最初はどちらでもかまいません。しかし、両儀の陽以降は老陽としての太極が残り、両儀の陰以降は老陰としての太極が残ります。そして、太極が残るのは常に初爻の位置です。太極とは荘子の謂う "何々といった言葉" のことなのかもしれません。
素人の考えを長々と述べてまいりましたが、木構造以外は一試論であり一私論でもあります。しかし、易の解説文献「易伝」は易経成立後に出来たものです。したがって、其処にはこじつけや無理強いがあると見るべきでしょう。それはある意味での誰かの試論であり私論であると思います。さて、そこで今度は古代の素人の考えを見てまいりましょう。
独り神と男女一対の神
太極 | 両義 | 四象 | 八卦 |
---|---|---|---|
天之御中主 | 高御産巣日 | 宇摩志阿斯 訶備比古遅 |
宇比地邇 |
須比智邇 | |||
天之常立 | 角杙 | ||
活杙 | |||
神産巣日 | 国之常立 | 意富斗能地 | |
大斗乃弁 | |||
豊雲野 | 於母陀流 | ||
阿夜訶志古泥 |
左は「記神話」、"天地(あめつち)の初めの時" の段に登場する神々、天之御中主から伊邪那岐・伊邪那美までの神を太極・両義・四象・八卦の枠組みの中にそれぞれの意味する数の分だけ出現の順序に従って割り振っていったものです。八卦の枠に伊邪那岐・伊邪那美が収まっていませんが、「紀神話」の本文と一書の第一では男女一対の神は4組8柱となっており、伊邪那岐・伊邪那美はその二例の中に常に含まれています。
なお、「紀神話」では、本文の他に一書の第一、一書の第二、そして次の箇所の一書の第一の都合三例の他書からの引用があります。その三例のうち、前から二例は親子関係を述べたもので、おそらく神世七代に関しての引用だったと思われ、男女一対の神についての引用例とはできません。したがって、男女一対の神は4組8柱というのが「紀神話」の見解と見えます。ただ、本文と最後の一書とでは4組中の一組が異なっているようです。その異なっている一組というのは、本文では「記神話」のいう意富斗能地と大斗乃弁の組がそれであり、一書では角杙と活杙の組がそれに当たります。
「紀神話」は読む限りにおいては八卦の枠に都合のよい4組8柱なのですが、もしかしたら、一書には意富斗能地・大斗乃弁が、本文には角杙・活杙がそれぞれ抜け落ちていると考えなければならないのかもしれません。しかし、あるいはそれよりも一組を抜かしてでも4組8柱にしなければならなかったと考えるべきなのかもしれません。
ところで、『日本書紀』の冒頭には、"古、天地未だわかれず、陰陽分れざりしとき" とする一文があります。これは『淮南子』からの引用とされていますが、『淮南子』ではそれに続けて、"四時未だ分れず、萬物未だ生ぜず" とあるのだそうです。これは、太極(天地)、両儀(陰陽)、四象(四時)、八卦(萬物)に即置き換わるもので、「紀神話」の4組8柱は八卦に合わせたものと言えなくもありません。もしそうだとすれば、「記神話」は逆に一組多いということになるのかもしれません。実際、『古事記』の序文冒頭に
臣安万侶言さく、それ混元既に凝りしかども、気象いまだ敦くならず、名も無く為も無く、誰かその形を知らむ。然れども乾と坤と初めて分かれて、参神造化の首と作り、陰と陽とここに開けて、二霊群品の祖となりたまひき。
とあるように、『古事記』にも陰陽八卦の影響が色濃く反映しています。無論、安万呂の序文と稗田阿礼が詠んだ天武時代の本文とでは時代の隔たりはありますが、天武は天文遁甲の占いを能くしたともいわれています。そう、そうした占いの基本は陰陽八卦にこそあるのです。
では、「記神話」に多い一組とはどれを指すのだろう、意富斗能地・大斗乃弁か、それとも角杙・活杙か。実は、伊邪那岐・伊邪那美がそれになります。周知のように、伊邪那岐と伊邪那美は「美"斗"のまぐわい」の神でもあります。つまり、伊邪那岐と伊邪那美は意富"斗"能地と大"斗"乃弁の別名とも読み取れるのです。神話では、意富斗能地・大斗乃弁の次に於母陀流・阿夜訶志古泥がきます。この於母陀流・阿夜訶志古泥を"美斗のまぐわい"の段の表現に置き変えると、「あなにやし、えおとめを」・「あなにやし、えおとこを」となります。"まぐわい"は"目合"ともでき、じっと於母(面)を見合うことでもあります。於母陀流は「紀神話」では面足と書いています。
思うに、伊邪那岐・伊邪那美の神は次の段の国生みや神生みの神話の主役であります、あるいは意富斗能地・大斗乃弁をこの段の話しに相応しい名前に改めたものか、あるいは本来別々の話であったものを組み合わせたために一組分多くなってしまったものか、それとも別天津神を5柱とし、神世を7代としたために一組分多くなってしまったものか、いずれにしても伊邪那岐・伊邪那美と意富斗能地・大斗乃弁とを同一と見做せばすべての神々がすべての枠に過不足なく収まります。そしてそうなりますと、天之御中主から豊雲野までの7柱を「記神話」が "独神(ひとりがみ)"と呼ぶことにも納得が行くことになります。
なお、「記神話」が八卦の枠外の7柱を"独神"と呼ぶのは、男女一対の神あるいは陰陽一対の神に対比してのものではなく、八卦として成り立っていないという意味での呼び方と見えます。つまり、八卦として成り立てば、易としても成り立つからです。なぜなら、易は常に八卦二つを対として成り立っているからです。
聖数に貪欲な記神話
図14cの基となる図は12世紀南宋の頃の考えによるものですが、天武や安万呂の時代にもこれと良く似た考えのあったことが記紀神話から伺えるようです。ただ、前章でも述べたことですが、「記神話」はここでも数あるいは数の流れにこだわっていて、こうした考えを活かそうとしていないようにも見えます。そのことは、7柱の独神を神世七代とすればすこぶる簡単明瞭となるものを、最初の3柱を参神造化、さらにはこれに2柱を加えた5柱を改めて別天津神と呼び、最後は互いに性格の違う2柱の独神と5組の男女一対の神とをわざわざ組み合わせて神世七代と呼ばせていることからもうかがえます。また、ここでの数あるいは数の流れは、3・2・5・2・5・7で、これはおそらく3と2とで5、5と2とで7というものだと思います。加えて、3・5・7はいわゆる聖数で、天の数でもあり陽の数でもあります。
そこで、『古事記』冒頭、"天地の初めの時" を数に置き換えてみますと、天は一、地は十となります。一は太一、つまりは太極。そうなれば、十は八卦とする他はなく、八卦は5組10柱となります。あるいは、「記神話」はそう考えて八卦枠に10柱をあてがったのかもしれません。無論、8を10と数える法則など何処にもありはしませんが。しかし、聖徳太子が制定した冠位十二階、大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智の中の、仁、礼、信、義、智の五つは儒教や五行での五つの徳、つまり五徳と呼ばれているものです。したがって、本来ならこの冠位は十階であったはずです。しかし、太子はそれらの総称の徳をも加えて十二階としました。つまりは10を12と数えたのです。
八卦は天地間の事物事象すべてを表しているとされています。しかし、八卦の八方位は四方八方の八方位で天と地への方位はありません。したがって、天地への二方位を加えて十方位とすることによって、八卦は初めて天地間の事物事象への方位を整えたことになります。つまりは8を10と数えることになったわけです。
一を聞いて十を知る。一と言えば、一と一と言った言葉とで既に二である。『論語』や『荘子』にある数を用いた喩え話です。ところで、『老子』に、"道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず" とありますが、この万物生成論、太極→両儀→四象→八卦という八卦生成論とそっくりに見えませんか。この『老子』については⒒章でも取り上げているのですが、今回はこれを八卦から解いてみましょう。
八 卦 |
太極 | 両儀 | 四象 | 八卦 | |
---|---|---|---|---|---|
生数 | 1 | 2 | 4 | 8 | |
爻数 | 0 | 1 | 2 | 3 | |
老子 | 道 | 1 | 2 | 3 |
左は、八卦と万物の生成論をそれぞれの数に置き換えてみたものです。この表から八卦の爻数の欄と老子とのそれが全く同じだということが見て取れます。また、八卦が三爻によって天地間の事物事象すべてを表している事が、『老子』の万物を生み出す数が三で留まっている事の最大の理由のようにも見えます。三は聖数七・五・三の中では一番小さな数ですが、『荘子』が三よりあとは誰にも数えきることが出来ないと言っているように、三は人が捉えることのできる最大の数でもあります。そして、三爻よりなる八卦の八もまた最大の数といえます。