昭和は遠くなりにけり

古代に思いを馳せ、現在に雑言す。・案山子の落書・

§13 八卦の象徴と三爻の中の陰陽 

 八卦のそれぞれの自然の象徴、天、水、山、雷、風、火、地、沢が中国の地勢に適った方位に組み合わされていることは前章で述べました。したがって、そのほかの象徴、家族や性情や身体等の組み合わせにおいても無理のない関係が見出せるはずです。そこで、今回はそれに加えて、古代日本がこれらをどのように受け止めていたかということも「記紀」を交えて連想を進めていきたいと思います。

八卦の象徴と三爻の中の陰陽

 『易経』の解説文献「説卦伝」には八卦の象徴する物象を多く挙げ、それらすべてに解説を加えています。しかし、それらは必ずしもオリジナルなものばかりとは言い得ず、二次的な発想によるものもあるようです。そしてなにより、それらは解説というよりもむしろ定義めいたもののようにも見えます。そこで、ここではそれらをすべて無視して話しを進めて行きたいと思っています。

八卦







自然
家族 長男 中男 少男 長女 中女 少女
性情
身体

 左は古来からの普通に見かける八卦とそのそれぞれが示す象徴との一覧表です。おそらく、古代においてはこれだけで人事自然百般の運勢や吉凶を占えたものと思われます。
 先ず、家族の項に注目をしてみますと、乾(天)を父に、坤(地)を母に当てはめています。これは、"父なる天、母なる大地"というおそらく誰もが普通に抱く自然なイメージからのもので、陰陽思想でも陰(地)は女性に、陽(天)は男性に割り振られています。つまり、乾(天)を父に、坤(地)を母に当てはめる事は至極自然な成り行きと言えます。しかし、家族のもう一つの成員、子供達に関しては必ずしもそうとは言えないようです。しかし、父母が決まれば、次に述べるある意味での八卦さらには陰陽の特有の性質とも呼べるものがこれらを成立させてしまうこともまた確かです。
 周知のように、卦は陰爻(--)と陽爻(一)との組み合わせよりなる三つの爻で出来ています。三爻の組み合わせは全部で8個ですが、陰と陽とが4個づつの二組に分かれます。また、爻の組み合わせも、三爻すべてが同じであるものと一爻だけが違うものとの二組に分かれます。そこで、三爻すべてが同じであるものを大、一爻だけが違うものを小と呼んだ場合、☰を大陽(父)、☷を大陰(母)と呼ぶことに齟齬はないと思います。あとは、☳・☵・☶のグループと☴・☲・☱のグループのどちらかを小陽あるいは小陰と呼べば好いことになります。では、どちらをどう呼ぶのが好いのだろうか。
 表によれば、☳・☵・☶のグループは小陽(長男・中男・少男)に、☴・☲・☱のグループは小陰(長女・中女・少女)に当てられています。しかし、これでは一見逆のように感じられはしませんか。というのも、小陽の☳・☵・☶の場合明らかに陰爻の数の方が勝っていますし、小陰の☴・☲・☱では陽爻の数が勝っているからです。これではあたかも大陽から小陰が、大陰から小陽が生まれたように見えなくもありません。しかし、実はこれが陰陽の性質であり規則でもあるのです。この規則は陰陽の転化と循環の規則とも呼ばれ、自然の理にもかなっているもので、決して不自然で押し付けがましいものではありません。

陰陽の転化と循環

 陰陽の転化と循環の規則を自然に求めれば、それは昼夜の繰り返しや朔望の繰り返しに、さらには春秋の繰り返し等に見出せます。ただ、自然がアナログ的な転化と循環であるのに対し、陰陽の爻はデジタル的な転化と循環であるという違いはあります。しかし、一日には朝・昼・夕・夜、一月には朔・上弦・望・下弦、一年には春・夏・秋・冬というある意味での四段階デジタル表現があることもまた確かです。そこで、先ずこれらを大陽・小陽・大陰・小陰という呼び方に合わせてみると、それぞれが、小昼・大昼・小夜・大夜、大朔・小望・大望・小朔、小夏・大夏・小冬・大冬と呼べることになります。《参図13aⒷ》

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 なお、Ⓐでは四季を八卦と同じ8段階で表示していますが、初春・春・初夏を小夏とし、初秋・秋・初冬を小冬とすれば四段階となります。また、昼夜や朔望も八段階表示、いや、それ以上の表示も可能ですが、ここでは四季だけを八卦に合わせその例として取り上げます。なお、四季の四段階表示では、冬を大冬、夏を大夏、初春・春・初夏を小夏、初秋・秋・初冬を小冬としたわけですが、もしかしたら、大春や大秋、小春や小秋の表示でも好いのではないかとか、初春・春・初夏を小夏等と呼ぶのは適切かといった疑問を投げ掛けるかとも思われますので少し説明を加えておきましょう。
 四季の中で最も厳しく季節を感じるのは冬と夏です。冬には酷寒、夏には酷暑という表現があります。一方、陽春や涼秋の言葉を持つ春や秋は最も気候の穏やかな季節です。Ⓐ図では既にそうなっていますが、四季を五行方位で表せば、冬は北、夏は南、春と秋は東と西に配されます。前章でも述べたことですが、南と北とは対峙の関係になります。したがって、陰と陽とが対峙するごとく冬と夏とが対峙し、陰を大陰、陽を大陽と呼べば、自ずと冬は大冬、夏は大夏となります。また東西は、前章では移動や接近の関係としたように、それらに振り当てられている春と秋とは対峙ではなく対称の位置関係になります。ただ、春と秋とではその向かう方向が違うのです。春は夏に向かい、秋は冬に向かいます。つまり、春の基底は夏、秋の基底は冬、したがって、春を小夏、秋を小冬と呼ぶことに齟齬はないはずです。そして、このことは同時に、大陰から大陽に向かうものを小陽、大陽から大陰に向かうものを小陰と呼ぶことにも齟齬がないことをも示しているのです。

陰陽の流れ

 大陰から大陽に向かうものが小陽ならば、小陽は大陰から生まれたことになります。また、小陰は大陽から生まれたことにもなります。思うに、冬はとどまっていては季節はめぐりません。陰もまたとどまっていては陰陽の転化と循環は起こりません。真冬を過ぎれば春とも申します。陰も極まれば陽に向かいます。陰の極まった位置を大陰と見做せば、大陰を過ぎれば即陽の世界です。つまり、Ⓐを通る直系軸とⒷを通る直系軸は、冬と夏とを、陰と陽とをそれぞれ隔てていることになります。
 さて、そこで大陰(☷)は陰の極まったもの、大陽(☰)は陽の極まったものと見做せば、隔ての直径軸を境にして、大陰は小陽へ、大陽は小陰へと転化循環を始めます。その時、小陰(☴・☲・☱)と小陽(☳・☵・☶)を構成する三爻はどのように変化していくかということなのですが、表によれば、☳と☴は長男と長女、☵と☲は中男と中女、☶と☱は少男と小女ということですから、☷)→(☳⇒☵⇒☶⇒☰)→(☴⇒☲⇒☱⇒☷)とした順序での変化ということになります。なお、→は転化、⇒は移動を示します。
 ところで、三爻の変化のさせ方なのですが、図13aのⒸのようなさせ方もあります。これは、陽爻あるいは陰爻の数を増していく方法です。ただ、この方法だと☵と☲が生成しませんし、小陽だけ、あるいは小陰だけのグループを成立させることもできません。また、Ⓑと八卦方位図はある直径軸あるいは対角線を挟んで陰と陽のグループに二分できるのですが、Ⓒではそれができません。このことから、八卦における陰陽の転化や循環の規則は陰陽の量や強弱の変化によるものではなく、陰爻や陽爻の占める位置の変化によるものだということが分かります。つまり三つの爻のうちの一つの爻が陰爻あるいは陽爻である場合、その一つの爻の占める位置により長女や中女であったり少女であったり、さらには長男や中男あるいは少男であったりするわけです。

性情と身体

 八卦が象徴する家族については、一通りの説明は終えたと思います。残るのは性情と身体の項となりました。これ自体の説明はそれほど難しいというものではありませんが、ただ問題なのは、八卦がなぜ多々ある性情表現や身体構成部分からそれらだけを選んだかということです。思うに、八卦はその名の示す通り八種類の象徴しか扱えません。それに、その内の半分を陰に属するもの、残りの半分を陽に属するものとしなければなりません。
 表によれば、性情(順・入・麗・悦)と身体(腹・股・目・口)が陰に、性情(健・動・陥・止)と身体(首・足・耳・手)が陽に属するものとなっています。そこで、これらに関係すると思われる陰陽の属性を少しばかり表にしてみますと、

湿

左のようになります。これから、陰の身体は柔らかくて潤いや凹み感の在るものを、陽の身体は乾いて硬くはっきりと突き出ているものを選んでいることが分かります。単純には女性的なものと男性的なものとを選び分けたとも言えます。しかし、それなら性情もそうかといえば、必ずしもそうとは言い得ないものもあるようです。
 陰に属する性情の中で、順と入は従順や受け入れ易さといった意味を持ち、これは明らかに女性的なものであると言えます。しかし、麗と悦は女性的かもしれませんが陰の属性に入るのかどうかは分かりません。そもそも麗(醜美)や悦(喜怒)を陰陽で分けることは出来ません。陰陽は対峙の関係にありますが、善悪の対峙とは違います。陰陽には善悪も醜美もありません。ところで、麗は"リ"とも発音します。これは卦名の離と同じです。また悦は喜びのことで、卦名の兌と同じ意味を持っています。それに字の形も似ています。どうやら、麗と悦は卦名とかかわりがあるようです。
 麗と離の共通点を辞典で調べてみますと、二つのものが並び立つとする意味がそれであると分かります。そして、それが目であることが身体の項から分かります。また、悦と兌は、悦が悅とも書けることから、悦はそもそも兌の性情を表しているものということが言えます。つまり、兌には穴の意味があり口をも指し、これも卦名、身体、性情が揃ったことになります。さしずめ喜びは口元に溢れるということなのかもしれません。最後に、陽の性情ですが、健・動・止は、剛健・動・押し止めると書き換えれば陽に属するものとなります。また、首は確り、足で動き、手で押し止めるとすれば、身体と性情が揃ったことになります。ただ陥は、卦名の坎からのものとする他はないようです。思うに、陥も坎も落とし穴のことです。人を策略で落としこむ。その基本は耳から入れる騙りでしょうか。

記紀神話八卦

 八卦は古代のものですが、その基礎的な部分に限れば素人の現代人にも付き合えるものです。そして、おそらく古代の素人にも付き合えたはずです。
 陰性であるのに大陽(☰)から生まれたように見える小陰(☴・☲・☱)、陽性であるのに大陰(☷)から生まれたように見える小陽(☳・☵・☶)、実はこれとそっくりな光景が「記神話」の中にあります。それは、天照と須佐ノ男の誓約の段にあります。話しを要約しますと、天照は須佐ノ男の剣を借りて三柱の女神(宗像三神)を生み、須佐ノ男は天照の珠を借りて五柱の男神を生みます。そして、天照は

この後に生れませる五柱の男子は、物実我が物に因りて成りませり。かれおのずから吾が子なり。先に生れませる三柱の女子は、物実汝の物に因りて成りませり。かれすなわち汝の子なり
《角川文庫・新訂古事記武田祐吉訳注》

という理由を述べ、最終的には彼女の生んだ女神を須佐ノ男の子とし、須佐ノ男の生んだ男神を彼女の子としてしまいます。これは、大陰が大陽の陽爻を借りて小陽(三男子)を、大陽が大陰の陰爻を借りて小陰(三女子)を生むのと全く同じことです。ただ、小陽が三男子であるのに対して神話では五男子となっているのが少し違ってはいます。しかし、これも神話をよく読むと三男子として扱っても好いようにも見えるのです。
 五男子の生成の内訳を見ますと、先ず三男子が頭の髪飾り用の珠から、残りの二男子が腕飾り用の珠から生まれています。さて、これをどのように見るか。単純には、珠の出所が違うわけですから、別々の所作と見るのが好いのかもしれません。それに、最初の三男子はすべて氏族系譜につながりますが、残りの二男子にはそれがありません。《下表参》

正勝吾勝勝速日
天之忍穂耳命
子の邇邇芸命は、地上での皇統の系譜につながる
天之菩卑命 子の建比良鳥命は、出雲國造・无耶志國造・上菟上國造・下菟上國造・伊自牟國造・津嶋縣直・遠江國造らの祖
天津日子根命 河内国造・額田部湯坐連・茨城国造・大和田中直・山城国造・馬来田国造・道尻岐閇国造・周防国造・大和淹知造・高市県主・蒲生稲寸・三枝部造の祖
活津日子根命 この神の後裔氏族は不明
熊野久須毘命 熊野の神と関係があるとも言われるが不明

 そこで、活津日子根命熊野久須毘命を取り除けば、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命は☳に、天之菩卑命は☵に、天津日子根命は☶にそれぞれ納まります。これに宗像三神の多紀理毘売命(☴)・市寸島比売命(☲)・多岐都比売命(☱)を加え、さらに須佐ノ男を☰に、天照を☷に当てはめれば、八卦が揃います。
 思うに、「記神話」は数にこだわっているようにも見えます。その数とは、2と3です。2は、雌雄一対、あるいは陰陽二元を表す数です。3は、老子等の言う万物を生み出す数です。つまり、2と3とですべての数または事物が表せるのです。この段の数字の現れ方を見てみますと、先ず須佐ノ男と天照で2、次いで宗像三神の3、さらに髪飾りの三神の3、最後に腕飾りの二神の2という順序になっています。
 さて、2・3・3・2という並び、なんとなく上から読んでも下から読んでもといった感じもしなくはないのですが、おそらくどちらから辿っても5と8になるというものでしょうか。それに、それらすべて合わせると10という数にもなります。⒒章でも述べましたが、10は「漢書律暦志」のいう天地の五方位が完備して終わる数"十"でもあるのです。天照は天孫の祖、須佐ノ男は地孫の祖というこなのでしょう。

§12 八卦方位図が示すもの。

 安万呂の道標に従って思うままに進んではまいりましたが、不手際や説明不足、さらには書き漏らし等が目立ってきているようです。そこで、今回はそれらの中でも特に矛盾めいた事柄について少し補足をしておきたいと思います。

八卦方位図と自然

 陽と揚。陰と隠。これら漢字の音に連想をめぐらせば、陽は日の揚がることを意味し、陰は日の隠れることを意味していることになります。そして、これによって、東を陽とすることが出来、西を陰とすることが出来るようになります。以上は4章で述べたことですが、これに遅れ馳せながらもう少し付け加えますと、日の揚がる天を陽とし、日の隠れる地を陰とすることもまた可能となります。

天南地北、天北地南

 さて、そうなりますと陽の東、陽の南が天ということになり、陰の西、陰の北が地ということになります。f:id:heiseirokumusai:20170619223158g:plainそこで、左の図を見てください。これは、陰陽五行の八方位図に八卦方位図と四門を描き加えたものです。この図では、天は陰の極みに位置し、地は陰陽の狭間に位置しています。さらに、南北関係だけでこれを見れば天北地南となります。また、東西関係では天と地は西に偏して東にはありません。これは、どう見ても矛盾としか言い得ません。
 しかし、既に述べていると思いますが、五行の方位には土行つまり中央があります。これはまた陰陽の中央でもあります。これを単純に陰陽のどちらかと決めることは出来ません。それに天地は上下の関係で東西南北の関係ではありません。しかし、仮にそうだとしても八卦方位図は何故このような形をとるのだろうか。
 これも既に述べていることと思いますが、陰陽五行は自然に適った無理の無い思想です。当然、八卦もそうであると見るべきでしょう。
 下図は、上図を中国地図の上に重ねたものです。これを見れば分かるように、中国の東と南は海です。f:id:heiseirokumusai:20170619223406g:plain海人ならいざ知らず、東あるいは南に天や地を配することは出来ません。したがって、西と北に配置するほかはないのです。しかし、西と北とでは対峙の関係にはなりません。この関係が可能なのは南北の関係に置き換えられる南西と北西に配置した場合のみです⇒(南西⇔北西)= 西(南⇔北)。
 つまり、西の陸側に天地を配することになるわけです。その結果、西に偏ってしまったのです。無論、これだけですと問題はないのですが、なぜか陽の天を陰の北、陰の地を陽の南としてしまっているのです。これもまた矛盾と言うほかありません。そこで、今度は次の図に目を移して下さい。この図から、これが必ずしも矛盾ではないことが読み取れます。
f:id:heiseirokumusai:20170619223559g:plain 左は五行思想の基本原理、五行相生の関係を表わしたものです。この基本原理、相生の関係を右の五行八方位図で成立させようとすると南西方向の土行のみが有効となります。土行は土地をも意味しますから、この位置に八卦の象徴の一つ地を配置することは至極自然な成り行きなのです。

天子南面

 さて、地を南西つまりは南に配置したのは、前述した通り妥当なことです。では、そのために天を北西つまり北としたことは妥当なことなのだろうか。
 ところで、天子南面という言葉があります。古来より、天子は臣下に対してその北側に位置し南を正面としたために生まれた言葉です。ただし、北半球では南にある太陽の陽光を取り入れるために天子ばかりか家屋でさえ南面しています。あるいは、そういう事でもあるのかも知れません。しかし、これだけでは単に南面でしかありません。肝心なことは北に位置するということです。陽の天の子が陰の北に位する。思うに、古代人にとって、天を北にすることは何ら不自然ではない事のようです。
 「易伝」の一つに「繋辞伝」があります。それには"易に太極あり"といった言葉があるそうですが、この太極、易や陰陽思想では万物の根源を表わす言葉となっております。これを自然に照らし合わせてみますと、宇宙の根源あるいは中心となります。ところで、この宇宙の根源や中心を表わすも一つ別の言葉に"太一"があります。太一は普通、北極星と解されています。古代中国では、この北極星を天子になぞらえてもいます。また、日本でも天皇の御座のあるところを大極殿と呼んでいるように、古来より太極・太一は自然の中では北極星を指しているのです。天子が人間界の中心にあるように北極星は天の中心にあるというわけです。そして、これが宇宙の中心、天の中心でもあるのです。
 陰の極みともいうべき北極星の位置に陽である天の中心がある。これは矛盾でも何でもありません。「緯書」の中に"斗は陰に居し、陽に布く。故に北斗と称す"とあります。北斗とは北斗七星のことです。北斗七星は柄杓の形をした星座です。これが北極星の周りを回ることから、古代人はこれが何か、ここでは陽ということになるのだと思いますが、あたかもそれを振り撒いているように見えていたのかもしれません。つまり、北斗七星は陰に居て陽として振舞っているということなのです。

八卦方位の決め方

 八卦方位図の中で最も不自然と思われた天と地の位置が、実際は自然の理に適った配置でした。今日、普通に見かける八卦方位図は、「説卦伝」にある 上帝は震から出発し、巽…離…坤…兌…乾…坎…艮で…成しとげる によるもので古来からのものです。震から艮は八卦名で、ここでは自然との関係から話を進めていますので、それらはここではその自然の象徴としての雷・風・火・地・沢・天・水・山になります。雷は方位では東に位置し、山は北東に位置します。単純には、太陽が東から昇って、山の向こうに沈むといった類のものなのかもしれません。それはともかく、これらの配置が自然なものなのかを少し考えてみましょう。
 図12aからも分かるように中国の東南は海です。したがって、東と東南と南の方位に置くことの出来ない自然の象徴が出てくることになります。それは、天と地と山と、そして沢です。そこで、沢を何処に置くのが最も自然であるかを先ず考えてみましょう。
 沢は沼沢の沢で、常に水で潤っている状態のところです。周知のように、中国の地勢は西高東低となっています。したがって、その主要な河川、黄河揚子江淮河、珠江は西から東に流れています。つまり、西にはそれらの源流域があることになります。当然、そこは常に水で潤っていなければなりません。方位図が沢を西に置いていることは自然の理に適っています。
 次に、山はどうか。沢が西で、北西と南西が天と地ということですから、山は北か北東のどちらかということになります。ところで、中国で山といえば五行方位(東南西北中)に合わせて名づけられた五岳(ごがく)が有名です。その五岳の中で最も名高いのが、東岳に当てられている泰山です。泰山は春秋戦国の時代から既に大山の象徴としての名を馳せていたことが孔子荘子の話しからうかがえます。さて、東岳と呼ばれる泰山ですが、周王朝の都があった西安や洛陽からは東というよりもむしろ北東に近く、八卦方位図に合わせれば正に北東の艮に当たります。つまり、古代中国で山といえば泰山のことであり、それが周の都の北東に聳えているとなれば、山を北東とすることに不自然はありません。
 さて、残る組み合わせは水を北に配することですが、周知のように水は五行方位でも北に配されています。易はこれに倣ったのだろうか。しかし、仮にそうだとしても五行思想はなぜ水を北に配したのだろう。よく言われるように、冷たい水を同じように冷たい北に配したということなのだろうか。それとも、火を南に配したためなのだろうか。

太一生水

 1993年、中国湖北省荊門市にある郭店楚墓から出土した竹簡に、太一から始まる宇宙の生成順を示したものがあるという。それは、太一、水、天、地、神明、陰陽、四時、倉熱、湿燥、歳という順序だそうです。面白いことに、太一から先ず水が生まれています。
 太一は前節で述べた北極星のことです。また、柄杓の形の北斗七星が陽を撒き散らすとしましたが、現実には柄杓から撒き散らされるのは水でしょう。そして、この水は雨となり、先ず天から、そして次に地へと降り注ぎます。つまり、水が雨となるためには天と地を必要とします。天と地が出来れば、天地を司る神が必要となります。神が生まれれば、天地を照らす太陽と月を造ります。日は日を数え、月は月を数えて四季を割り振ります。四季が生まれれば、寒い季節や暑い季節をあてがいます。寒暖が生まれれば、湿乾も生じます。そうして、一年が出来がります。その一年(歳)が経巡り回って万物(宇宙)を育みます。なお、竹簡文では、太一から水が生まれ、水と太一から天が生まれ、太一と天から地が生まれ、太一と地から神明が生まれるとなっているそうです。
 実に、素朴で明解な宇宙生成の順序です。郭店楚墓は紀元前300年頃の楚の貴族の墓とされていますから、これは秦漢以前の宇宙生成論とも言えるものです。これによると、陰陽は月と日のことで暦によって正確に四季が決められ、一年が、そしてすべてが規則正しく始まるということなのでしょう。中国で正確な暦が出来たのはこの頃とされています。
 思うに、自然現象の中で空から雨が降るということ以上に人の生活を左右するものは無いのではないだろうか。今も昔も、農耕民にとって、作物を育む雨と種蒔きを知らせる暦は欠かせないものです。しかし、人は暦は造れても雨は造れません。もしかしたら、易占の最初は、雨が降るか降らないかというもではなかったのか。それはともかく、古代文明はすべて川つまりは水とかかわっています。古代人は、何を差し置いても先ず水を優先させていたということです。
 さて、雨は空つまりは天から降ります。古代人が、雨は天が降らせるものだと考えたとしても不思議はありません。そして、雨を降らせる天の中心が北天にあるのなら、雨の元となる水を北に配したとしても何ら不自然ではありません。八卦が水を北に配したのは陰陽五行の思想からではなく、偏に雨が天から降るという自然の事実からなのです。

八卦方位の決まり事

 古代人は神よりも水を優先させました。その証拠に、八卦の象徴のなかで水とかかわりのあるのが沢、水、雷と三つあります。これをその他と比べてみると、地つまり大地にかかわるのが地と山とで二つ、天つまりは空にかかわりのあるのが天と風との二つ、残り火が一つとなり、水にかかわるものが一番多いのです。無論、この分け方には異論があると思いますが、これは古代ギリシャ四大元素(地水火風)論にも繋がるものであり、古代中国にもそうした考えはあったとするべきでしょう。
 ところで、これまで示してきた八卦方位図、実は、古代人が見ていたものとは南北の向きが逆になっています。左の図が、その本来の向きです。f:id:heiseirokumusai:20170619223746g:plain
 古代社会では、文物のすべてが天子一個人のものとされています。したがって、南面する天子が方位図を見た場合、北が手前となり南がその向こうとなります。そういうわけで、方位図はすべて南が上となるように描かれているのです。
 天子南面が古代の常識なら、家臣北面もまた古代の常識です。そして、このことから主従の関係とは南北の関係であることがわかります。これを五行で表わせば、水剋火となるわけです。八卦方位図には明らかに南北の対峙があります。天と地の対峙、水と火の対峙そして山と風の対峙です。そう、山は風を遮るのです。
f:id:heiseirokumusai:20170619224001g:plain  左は、南北関係a、東西関係b、対角線関係cをそれぞれ別個に示したものです。
 先ず、南北関係に目をやりますと、四角で囲っているそれぞれの八卦の爻が東西軸を境にして反転させた鏡像関係にあることがわかります。これを言葉にしますと対峙あるいは対立となります。
 次に、東西関係。最初に、一番上の風と地。風は乾の卦の最初の爻が陰を得た形です。言葉にしますと、乾(陽)が地(陰)に近づいている、つまりは移動接近を表わすいわゆる協調のことです。次いで、雷と沢。雷は沢の卦の真ん中の爻が陰を得た形です。また、沢は雷の真ん中の爻が陽を得た形です。言葉にしますと、水(陰)を求める沢の形が雷、雷が水を手放した形が沢となります。つまりは雷雨が沢を潤すということで、これも協調となります。次いで一番下の山と天。山は坤の卦の一番上の爻が陽を得た形です。言葉にしますと、坤(陰)が天(陽)に近づいている、つまり接近を示し協調を表わしています。
 最後は、対角線の関係ですが、最初から言葉にしますと、天の膨張が風となり、地の膨張が山となった。つまりは、発展や進化を表わしています。
 思うに、対立、協調、発展はどの社会においても常に見られる現象です。古代人は社会のあり様を、様々の角度からの自然を通して捉えようとしているのです。方位図の南北線東西線や対角線、これらを単純に捉えれば、それらは上下の関係であり、左右の関係であり、変化の関係となります。日は、東より西へ、下から上へ、上から下へと変化を交えて移動します。あるいは、その様に捉えても良いのかもしれません。
 古代は迷信の支配する社会です。しかし、迷信が支配したからといって、その素朴さが変わるわけではありません。古代は、見た通りの社会です。複雑に捉える必要はありません。そこで、最後に雷と風がなぜ東と東南に位置するのかを単純に考えてみますと、これは台風に関係しているとも見えます。と言うのも、中国に近づく台風は東か東南からに限られるからです。

§11 太安万侶の道標、

 藤原京が教えるように、古代日本は古代中国の理想を忠実に実践をしてきた観があります。しかも、安万呂の道標が示すように、陰陽思想は日本独特の発展を既にこの時点で遂げてもいます。思うに、こうしたことが可能だったのも陰陽思想が日本の自然の理に適ったものだったからに他なりません。
 前章では陰陽の基本ともいう手順で、地を分割しました。次いでというわけではありませんが、今度も同じような手順で天を分割してみましょう。

方は分割し、円は集める

 井田制も条坊制もその基本は方形にありました。方形は陰の形ですが、生み出す数は陽の9です。井田が9区画、条坊が(9×9)区画というふうにです。ところで、易では9の数は陽爻を表わします。また、陰爻を表わす数は6と決められています。そうすると、陽爻の9を方形の陰の形が生み出した以上、陰爻の6を生み出すものは円形の陽の形ということになります。つまり、方形の整列が陽数を生み出すのであれば(下図bの左、下図cの右)、円の整列が陰の数を生み出すはずです(下図a、下図bの右)。
f:id:heiseirokumusai:20170612051144g:plain  6を生み出す円の並べ方としては、a図の①から⑥までの並べ方が最も最小の形であります。しかし、これには井田の中央に当たるものがありません。一段増やして⑩まで並べれば⑤が中央となりはしますが、残りが奇数となり陰陽の対とはなり得ません。それになにより、この形は円とはかけ離れていますし最小形でもありません。また、地の基本形井田に擬することも出来ません。したがって、この場合はb図の右が正解ということになります。この右図は最小の個数で陰爻の数6を含み、形も天の基本形円に近いといえます。そして、これらをさらに円に近い形に並べれば(c図左)、49+1本という易占で用いる筮竹の数あるいは大衍の数も生まれてくるのです。つまり、b図の右を発展させるとc図の左になるわけです。これは井田を発展させて条坊を作り上げたのとまったく同じ手順です。同じ手順で、それぞれの特質を生かし、しかも、論理的にも納得の出来る結果が出せる。古代人がこうした結果を見逃すことはなかったでしょう。それに、さらなる論理的にも納得が出来る結果がc図の左右より導き出せもするのです。
 c図左は円という陽の集まり、つまりは天です。これを一つの世界と考えた場合、右図の方という陰の集まりつまりは地の世界がそうであったように、当然、この天の世界も陰と陽が対として存在することになります。地方の右図の場合は中央の一区画を減らすことによってこれを成立させました。天円の左図の場合は、逆に一区画増やすことによってこれを成立させることになります。方形の集まりとは違って、円形の集まりは隙間だらけです。49個の円の要素を取り除けば大きな一つの天の形、円の要素が残ることになります。これを加えれば50という陰陽調和の数が出来上がります。この50という数は、易経のいう大衍の数でもあります。このような結果が、やはり古代人にとっては無視の出来ないものであったと考える他はないでしょう。
 無論、こうした結果は図形が持つ性質の一つに過ぎず、陰陽とはかかわりのないものではあります。しかし、陰陽思想の究極は、陽からも陰陽が生じ、陰からも陰陽が生じるとする考えにあります。この考えは、太陽の動きによって昼から夜つまり陽から陰に遷り変わるという自然界の消長盛衰だけでは説明のつかないものです。例えば、陰(雌)からは陰陽(雌雄)は生まれますが、陽(雄)からは何も生まれません。ここにはどうしても抽象的な思考が入り込まざるを得ないのです。当時の抽象的な思考の最たるものは数の計算と幾何です。例えば7は陽数ですが、これを陽数3と陰数4とに分けることが出来ます。つまり陽から陰陽が生まれたのです。したがって、「記紀神話」で男神伊邪那岐命が多数の神々を生むとすることに何の不思議もありません。また、陰の方形同士、陽の円形同士を陰陽の対と見なすことにも何ら矛盾は生じません。

数と形

 古代を野蛮な時代とする人がいますが、抽象に関する限り現代と大差はありません。例えば、『老子』に、道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず、とあります。これを現代は、こうしたことを限りなく続けることが万物を生じることに繋がるなどと解釈していますが、三が四を生じ、四が五を生じ、さらに‥‥と続けみても、生じるのは抽象の数であって物ではありません。『老子』が三が物を生じると言っている以上やはりこれは物につなげなくてはなりません。
 抽象の数が最初にとる物の形は幾何です。今日の幾何では、一は点を表し二は直線を表わします。そして、三は三角形を表わすことになります。三角形は抽象に於いても現実に於いても形つまり物の最小単位なのです。したがって、この場合現代的な解釈によって、物の最小単位の三角形から万物が生まれるとするのが最も適切なのです。それに、古代においては数と形とには密接な関係があり、古代人が数を形として捉えていた節もあるのです。
f:id:heiseirokumusai:20170612051727g:plain  「漢書律暦志」に、その算木の制度は口径一分、長さ6寸、それを271本用いれば六角形をなし、一握りとなるとあります。
 算木は紀元前から中国にあった、竹や木で出来た数学の計算用具です。271本という数は45×6+1= 271と出来、一本の算木を中心に45本の算木で出来た正三角形六個が取り囲んでいる形を示しています(ハ図)。ロ図は算木を正三角形に積み上げた各段ごとの総数を右端に示したものです。これは、いわゆる俵積み算の説明で使う図形と同じです。三段で6俵。9段で45俵。つまり数を形で捉えるという方法です。しかも、9は陽爻の数、6は陰爻の数ですから、9段の6個では270となり、さらに中心の一本とで271となります。しかもこの271は、2+7+1とでき、さらに2+3+4+1つまり1+2+3+4= 10とすれば、「漢書律暦志」のいう天地の五方位が完備して終わる数"十"とすることが出来るのです。また、これは5を中心とする正三角形の俵積みの形でもあります。
 また「律暦志」には、算によって事物を計り数え、生命の道理に順うともあります。偶奇陰陽を備えた数や幾何図形は事物や道理を推し測るにはうってつけの道具ともいえるものなのです。計算に算木、易占に筮竹。易の最小単位は八卦八卦は三爻よりなります。三や三角形は事物や道理の最小単位でもあるのです。
 今日、数学も幾何学も古代に比べ数段の進歩はありますが、その基本となる抽象の概念に変わりはないのです。また、古代も現代も抽象と現実とを繋ぐ役割を数と幾何が担っていることにも変わりはないのです。古代思想とはいえ陰陽五行や八卦は論理的完成度の高い思想といわねばなりません。論理的完成度が高いからこそ、後進地域の日本に根付くことが出来たと考えるべきです。

地は分割し、天は一つに集める

 最後に、天即ち陽を分割したとは言いましたが、正確には、陽は寄せ集めると言うべきかも知れません。なぜなら、陽は2分割出来ない奇数でもあり、寄せ集める他はないからです。それに、奇数を寄せ集めれば、偶数にも奇数にもなります。一方偶数は、2分割することにより偶数にも奇数にもなりますが、寄せ集めただけでは偶数にしかなりません。したがって、方(地)は分割し、円(天)は集めるということになります。
 皇極紀元年の条の最後に、聖徳太子の娘上宮大娘姫王が『天に二つの日無く、地に二人の王無し。…』と言ったとあります。確かに、天には二つの日はありません。しかし、地には多くの王がいました。思うに、世界即ち地を統一即ち集めることは、アレクサンダーにもチンギスハンにも難しかったという事なのでありましょう。

§10 石舞台古墳は飛鳥天皇陵か、

石舞台古墳は飛鳥天皇陵か
 天円地方という言葉があります。古代の中国人が、天は円く地は四角いと考えたことから生まれた言葉です。しかし、古代人はどのようにして、天は円く地は四角いとする考えに至ったのでしょう。また、この考えを、古代の日本はどのように受け止めたのか。また、それはいつの時代に伝わってきたのか。そして、その考えは古墳造りに何らかの影響を及ぼしているのかいないのか。これも、古代史の一つの課題です。

天円道地方  条坊制都市藤原京を覆う碁盤の目。地を地の形で覆われた藤原京は陰陽思想に適う都市といえます。しかし、地を四角とする考えは島国国家日本で何の抵抗も無く受け入れられているものなのだろうか。天を円いとする考えは天円道(太陽の動き)からある程度つかめたと思いますが(1図)、地を四角とする考えはどこから来たのでしょうか。
f:id:heiseirokumusai:20151220231631g:plain  「魏志倭人伝」には今の対馬を方四百余里といった正方形で捉える表現があります。これは面積を表す場合に便利な表現で、古代中国の土地制度の井田制(方格線地割)から生まれたものと思われます(a図)。古代人は、この井田制を国中に施し、さらには世界中に施せば、どのように複雑な世界も無数の正方形の集まりで捉えられることに気づきました(b図)。そして、終には全世界を正方形で表せると考えるようにもなったのです。つまり、大きな正方形からは小さな正方形が生まれ。逆に、その小さな正方形を集めれば元の大きな正方形に戻る。したがって、全世界の小さな井田を集めれば、大きな井田つまり九州が出来るとしたのです(c図)。そして、天は円く、地は方に象るとする古代中国の思想に至ったわけです(1図)。
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境の神と賽の神  地を方とする思想は土地を四角に分けるという行為から生まれています。無論、これは私見であり仮説に過ぎません。それに、それほど重要ではありません。ただ、何らかの行為が思想を生み、何らかの思想が行為を生むという点においては重要なことです。
 土地を四角に分けるという行為。日本では、条坊制の遺構や条里制の遺構として各地に残っています。条坊遺構は、藤原京を手始めに各時代ごとの成立年代やその過程が史料との突合せによって詳しく調べ上げられています。しかし、条里遺構は史料との関係から、制度としては奈良時代中期の天平年間を遡らないとされています。つまり、条坊制は国の制度として始まったが、条里制はそうではなかったということになります。
 条里や条坊という方格地割の制度を離れれば、土地を分ける、あるいは割くという行為は弥生時代の環濠より始まります。環濠は不整形のもので、外部からの進入を防ぐという実用一点張りのものがその最初です。しかも、この時代は村落共同の社会で、土地(耕地)を分けてそれぞれに配分するという制度の無かった時代でした。しかし、環濠という人工の境界が生まれた意義は大きかったはずです。
 内と外、幸いと災い、環濠を挟んで相反するものが対峙する世界が、環濠によって生まれたのです。外敵という具象が造らせた環濠が様々の抽象をも造り始めたのです。やがて、これらが陰陽思想と結びつくのは時間の問題でしかありません。
 ところで、抽象化は環濠の内と外だけに起こったのでしょうか。いや、環濠そのものの抽象化も起こったと考えるべきでしょう。古代人は環濠に何を見出したか。それは境の神ではないだろうか。ただし、それは単なる境界の神ではなく、外敵を阻止する神、災いを阻止する神、後世でいうところのサイの神ではなかったか。
 サイの神が水の流れや人の行く手に立ちはだかった時、人や流れはその向きを大きく変えます。人の場合は引き返せますが、流れは引き返すことは出来ません。f:id:heiseirokumusai:20151220232048g:plainしたがって、右か左かに流れを変化させます。この変化のさまは賽の転がり方によく似ています(左図参)。賽は正方形の辺を境にしていずれか一方に転がります。また、賽の目は陰か陽つまりは右か左かを示します。結果として、人や流れは90度方向を変えることになります。この流れや道筋をパターン化して組み合わせれば、ちょうど碁盤の目のようになります。

 さて、条里制とは里を碁盤の目のように区画したものです。また、条坊制とは坊を碁盤の目のように区画したものです。里は一里四方の面積区画を表し、坊も同じような面積区画を表しています。

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いずれにしても基本の形は、井田制や九州制にあります。ただ、里は陰の数6×6の36分割するすのに対して、坊は陽の数9×9の81倍するという違いがあります。ただし、これは文献上の定義で、ここで必要なことはどちらも正方形を表しているということです。つまり、地を方とする抽象的な古代中国の世界観の定義を支えているのがこの具体的かつ現実の方形区画の制度なのです。
 日本にも、この二つの制度は存在しますが、地を方として捉えていたかどうか良くは分かりません。崇神紀には四道将軍を畿外に派遣して国を安定させたとあります。四道は、北陸、東海、西海、丹波の四つで、正確に東西南北を指しているわけではありませんが、国土を畿内と畿外とに分けさらに畿外を四つに分けていることから、これは陰陽五行の五方として国土を捉えていると考えられます。五方の国土はやがて八卦の八方位と組み合わされ、八方で表わされることになります。

道祖神・岐の神・木の俣の神・御井の神  どうやら日本では、地は形の方としてではなく、方向の四方や八方として捉えられていたようです。そして、この四方八方の具象としての道の制度があったのだと思われます。このことは、サイの神が賽の神や塞の神としてではなく道祖神として後世に残されていることによっても、ある程度は推察できるのではないでしょうか。
 道祖神はその名が示すように道の神です。祖形は中国にあるとされています。日本の道の神としては「記神話」に伊邪那岐命の褌から道俣神が生まれたという話があります。人の股を覆う褌から道の俣の神が生まれるという発想は、なかなかおおらかで面白いのですが、伊邪那岐命男神であるのが少々気になるというのが一般的な感想でしょうか。
 道俣神は岐の神(巷の神または辻の神)のことで、道路が分岐や交叉をする場所に現れるとされる神です。ところで、「記神話」にはもう一柱の別の神が分岐や交叉をする場所に現れています。それは、木の俣の神です。古代人がここに神を見出したのは、真っ直ぐに伸びている木が分かれるのは神の力が働いたため、木の俣には神が宿る、そう考えたためという他はないでしょう。
 古代人は、川や道が向きを変えるところに神を見出し、さらには道が分かれるところにも神を見出し、今また、木の俣に神を見出しました。しかし、この木の俣の神にはもう一つの別名があるのです。「記神話」は、この神のまたの名を御井の神としております。
 御井の神とは、その名のとおりの井戸の神です。しかし、木の俣の神と井戸の神とが同じというのはどういうことなのでしょうか。その答えは井の字に組んだ井桁にあります。木で出来た井桁は、人口の木の俣ともいえる形をしているからです。そして、この井桁を複数個地面に並べると、井田や条坊そっくりにもなるのです。
f:id:heiseirokumusai:20151220233903g:plain  さて、これまでは単に境とか分けるとかで話を進めてまいりましたが、これからは陰陽思想が生み出す原則を交えて話を進めていくことにいたします。
 陰陽思想における境とは陰と陽との境のことです。この境は鬼神や霊魂さらには神々が出入りをする場所であります。また、分けるとは陰と陽とに分けることを意味し、方格線で分けられた区画はすべて陰と陽とが対になるように分けられていることになります。この原則は、条里制・井田制・九州制・条坊制に生かされています。なお、今日文献で見る九州は、実際の州を当てはめたもので、本来の考えに基づくものではありません。むしろ日本の畿内・畿外制の方がよりその基本に近いものといえます。つまり、畿内即ち中央、畿外即ち地方、地方即ち八方、ということです。
 条里制の基本は36区画よりなります。36は偶数ですから条里制は正確に陰陽の対で出来ています。井田制・九州制と条坊制はそれぞれ9区画と81区画ですので対としては一区画余ることになります。しかし、この一区画は公田と中央と宮域としてそれぞれにあてがわれますので、これもやはり原則通りといえます。そうしますと、陰陽を分ける方格線つまり道は、神々の出入りするところであり、陰陽の境の神の居る所ということになります。
 井桁は、この陰陽の境の神の居る方格線道路に相当します。しかも、四つの境と四つの交叉を持つ構造をしているのです。つまり、八方に境の神を宿す構築物といえます。八方はすべての方向をも意味していますから、井桁はすべての方向からの災いを遮る理想的な形ともいえます。正倉院の校倉造はこの井桁を積み上げたものです。また、藤原京もこの井桁を並べた都なのです。
 井桁はその名のとおり、基本は井戸に用いるものです。しかし、井戸水の神ではありません。井戸の水を守る神です。いや、正確には井(桁)そのものの神というべきかもしれません。このことは、桂川に築かれた灌漑用の葛野大堰、この大堰を大井と表記し、井堰という国字にもなっていることからもうかがい知れると思います。井は八方すき無く、内を守り外をはらうという字形です。水の流れを変える堰や水の流入を防ぐ堤に用いるに最適の文字なのです。そして、おそらくは墓にもです。

最初で最後の方墳石舞台?  古代の日本は、地を方として捉えたのではなく、方を、賽や塞やそして井つまりサイの神に守られている方形の区域として捉えていたのです。さて、そうなりますと、上円下方墳あるいは上八角下方墳の下方は地の方ではなくサイの神に守られた方形墳ということになります。
 墳墓におけるこうした捉え方は、前方後円墳が築かれていた時代には当然なかったと思われます。仮に、見瀬丸山古墳を大王墓としての最後の前方後円墳とした場合、最初の大王墓としての方墳は石舞台古墳ということになります。石舞台古墳は、飛鳥京区域の最奥の奥津城と呼ぶにふさわしい場所にあります。単純には飛鳥天皇の墓と呼べるはずです。しかし、封土の剥ぎ取られた石舞台を天皇陵であったと呼ぶ者はいません。ただ、本居宣長の『菅笠日記』のなかに、地元民が石舞台を推古天皇陵と呼んでいたとする記述があるそうです。つまり、『記』では推古は改葬されていますから、この古墳も改葬の可能性があるということになります。
 では、石舞台古墳を改葬してみましょう。先ず、最初にしなければならないことは封土を剥いでサイの神に守られた方形墳をなくすことです。次に、石棺を取り出して改葬地に運び、安置することです。しかし、その前に改葬地を選ばなくてはなりません。どのように選ぶか。無論、霊魂の移動の可能な北東方向に設定します。そこで、石舞台から北東方向に向かいますと、舒明天皇陵につきあたることになります。
 舒明天皇陵は、上八角下方墳で、牽牛子塚古墳よりも新しい墳形プランで築かれています。しかし、中に安置されているのは横穴式石室用の石棺です。しかも、丸山古墳と同じ T字型に二つの石棺を安置しているということです。つまり、舒明陵は丸山古墳に近しい横穴式石室墓からの改葬であると言えるのです。さて、丸山古墳に最も近しい墳墓、それは今のところ石舞台だけのようです。

 斑鳩東方朔 ≪陰陽の風 03≫

§9 牽牛子塚古墳は皇祖母陵、

多氏と秦氏、その3
 多氏は神武直系の皇別氏族です。神武記の系譜は、多氏一色で塗りつぶされているといっても過言ではありません。いってみれば、日本全国津々浦々に多氏がいるということです。秦氏もまた、多氏に劣らず日本全国に居を構えています。このことは、多氏が秦氏を率いてか、あるいは多氏が秦氏に誘導されてか、いずれにしてもこの両氏は何らかの繋がりを持って全国に散らばっていったと思われます。

多神社は神八井耳命そのもの  今回は二番目の課題、牽牛子塚古墳と多氏・秦氏とのかかわりについての私見を述べてみましょう。その前に、多氏の系譜と秦氏の寝屋川近辺の居住地について、少し述べておきましょう。河内国茨田郡には、幡多郷、秦村、太秦村があり、摂津国豊島郡には、秦下郷、秦上郷があります。どちらの郡にも秦氏が多数居住していたことが、これだけのことからでも確認できると思います。ちなみに、『記』では、これら二つの郡とかかわりのある茨田連と豊島連は共に日子八井命の子孫となっています。下に示したのは、『記』による系譜です。なお、手島連は豊島連、意富臣は多臣のことです。

神倭伊波礼毘古命神武天皇







日子八井命(茨田連の祖・手島連の祖)


神八井耳命(意富臣・小子部連・坂合部連・雀部臣ら合わせて20氏の祖)

神渟名川耳命綏靖天皇
・伊須気余理比売

 さて、この系譜から何が言えるでしょう。そう、言えることは、一つしかありません。それは、皇祖神武の直系はすべて多臣にかかわる氏族だということです。大臣クラスでも豪族クラスでもない多氏になぜこのようなことが豪語できるのか、それは、とりもなおさず神武陵の真北に多神社があるということに他ならないからです。そもそも、多臣の祖、神八井耳命の引き受けた役目は、「記紀」にもあるように、神祇を掌る忌人(いはいびと)となることだったのです。
 神祇とは、天神地祇のことで、この場合は天ツ神と国ツ神とになります。多神社は、南に天ツ神の神武を、東に国ツ神の三輪山を奉ることの出来る位置にあります。『紀』によれば、神八井耳命畝傍山の北に葬られたとあります。多神社の地は正にそれに適合します。
 神八井耳命は、多神社に祭られていますが、この神は自らが祭られると同時に自らも天神地祇を奉る神でもあるのです。このことは、伊勢の祭神天照にも当てはまることで何ら不思議はありません。神や仏を拝んでいた老人が、やがては仏になって拝まれる。日常茶飯事、古代より続く見慣れた光景です。

牽牛子塚古墳の前身、益田岩舟  さて、1図のもう一つの課題、牽牛子塚古墳と二氏とのかかわりですが、この答えは、既に安万呂の道標に見えています。すなわち、益田岩舟がその答えです。なお、今回、神武陵の位置を少し変更しました。詳しくは、章を改めて説明していくことになります。
 益田岩船は飛鳥の石造物の一つで、非常に巨大なものです。今日、この岩船は、他所から運び込まれたものではなく、最初からこの場所にあったものとされています。このことは、本来多神社は、この岩船と三輪山とを同時に奉るために建てられた神社であったことを物語っています。と申しますのも、益田岩船と三輪山と多神社とを直線で結ぶと、きれいな直角三角形が出来るからです。≪下図参≫
f:id:heiseirokumusai:20151211200250g:plain 三輪山、香具山、丸山古墳が鬼門軸上に載ることは既に話しましたが、今回新たに岩船が加わりました。丸山古墳以外は自然物ですから、非常に起こり難い偶然というほかはありません。しかし、こうした偶然を見つけ出し、これを利用するということは、とりもなおさず、古代人が何よりも陰陽五行思想の観点から自然を見つめていたという証でもあります。
 しかし、ある程度の誤差はともかく、自然を完璧なまでに利用することは現代に於いても不可能です。それは益田の岩船も同じです。岩船については次のような説明がウィキペディアにあるのでこれを載せます。

横口式石槨の古墳・横口式石槨の建造途中で石にひびが入っていることが分り放棄されという説。その後別の石を使って完成したものが、岩船から南西(東が正しい)へ500メートルほど行ったところにある牽牛子塚古墳であるという。東側の穴と違って、西側の穴には水がたまらない事からも亀裂が入っている事がわかる。

 益田の岩船が横口式石槨の陵墓として造られようとしていたことは、丸山古墳との関係から確かと思われます。また、牽牛子塚古墳が岩船の後継であることも、本墳が岩船のほぼ南東に位置することからして確かと思われます。なぜなら、南東は天門・風門ライン、法隆寺・多神社・吉野宮そして伊勢内宮のラインだからです。そしてそうならば、益田の岩船は法隆寺あるいは多神社となり、牽牛子塚古墳は吉野宮あるいは伊勢内宮となります。

牽牛子塚古墳は皇祖母陵  古代人は、益田の岩船を陵墓とすることには失敗しましたが、牽牛子塚古墳をその後継とすることで、真北の笠縫邑より東南に八卦地母神葛城山を拝することをも付け加えることが可能となり、災いを転じて福と成したわけです。これこそが、陰陽五行の真骨頂なのです。古代人が、八卦や陰陽五行を自在に操って、大和の地にまほろぼを築こうとしていたことだけは、上の図からも読み取れると思います。
 ところで、益田岩船が陵墓として完成していたとしたら如何でしょう。多神社ー父(神武)ー母(岩船)という並びになるのではないでしょうか。神武は初代の天皇です。いってみれば皇祖父です。そうしますと、母は当然皇祖母ということになります。牽牛子塚古墳を益田岩船の後継とすれば、牽牛子塚古墳は皇祖母の陵墓となります。
 皇祖と呼ばれる神あるいは人は『紀』の中には何名かいますが、皇祖母尊の号を奉られているのは皇極斉明だけです。そうすると、俄然生きてくるのが牽牛子塚古墳を斉明陵とする説です。この説は古くよりあるようですが、近年この古墳の近くから大田皇女のものとされる墳墓が発見され、この説はさらに強固なものとなってきています。

大和を覆う幾何学文様  詳細は省きますが、牽牛子塚古墳は、見瀬丸山古墳同様それぞれの時代の頂点を極めているといっても過言ではないほどの規模と豪華さを備えた古墳です。しかし、見瀬丸山古墳がそうであるように、本墳も陵墓の指定はありません。また、「記紀」にも何も記されてはおりません。しかし、人は語らずとも、この二つの墳墓は安万呂の道標の中で、大和を見守るように配置されているのです。
f:id:heiseirokumusai:20151211200509g:plain  日本で最初の条坊制都市、藤原京。直交する直線が描く賽の目で覆われた世界です。この賽の目で覆われた世界を、二つの直角三角形a・cと一つの平行四辺形bとが互いを補い合うように、さらに覆いかぶさっています。今話題としている牽牛子塚古墳は、その平行四辺形bの一つの頂点にあります。
 牽牛子塚古墳、畝傍山三輪山、そして舒明陵(段ノ塚古墳)、この四つを直線で結ぶと、きれいな平行四辺形が出来ます。これは偶然ではあり得ません。それに、天武系の祖の舒明陵がこの位置にあるのは不自然です。また、牽牛子塚古墳は益田岩船との関係から位置を変えることは出来ません。したがって、この平行四辺形を成立させるためには、舒明陵をこの位置へ持ってくるのが最善の方法です。それに『紀』によれば、皇極二年九月に舒明天皇は改葬されたとあります。
 ところで、舒明天皇は最初どこに葬られていたのだろうか。『紀』には滑谷岡(なめはさまのおか)とあります。比定地は明日香村の外れの山中、これもまた天武系の祖としては不自然な場所です。思いますに、元舒明陵は野口王墓(天武陵)のある鬼の俎板や鬼の雪隠の辺りにあったとするのが自然と思われます。あるいは、そのいずれかが本来の舒明陵であった可能性もあります。現舒明陵には二つの石棺があると聞きます。双墓(ならびのはか)と言われている鬼の俎板と雪隠、二つとも舒明陵に移したと思えなくもありません。ただ、石棺である点に疑問は残ります。
 既に述べたことですが、牽牛子塚古墳は(単なる)八角墳です。しかし、舒明陵は上八角下方墳です。墳形としては舒明陵の方が明らかに新しい形です。つまり、舒明陵はいつの時代かに、おそらくは文武天皇の時代に山科山陵と一緒に造られたものと思われます。なぜなら、山科山陵も上八角下方墳だからです。また、『続日本紀』文武三年十月に載る越智山陵と山科山陵の造営の記事、この中の越智山陵を段ノ塚古墳(現舒明陵)とすれば、つじつまがすべて合います。それに何より、『紀』のいう皇極二年の改葬記事に合わせたのでは、舒明陵は上八角下方墳どころか単なる八角墳の可能性もありません。
 それはさておき、この平行四辺形の意味するものは何なのか。そこで、当時の人に畝傍山と問えば、どのような連想をするかを想像してみましょう。おそらくそれは、神武と畝傍の橿原宮ではないでしょうか。そして、さらに続けて三輪山と問えばどうでしょう。当然、神武の后、三輪山の神の娘ヒメタタライスズヒメが答えとして返ってくるはずです。つまり、平行四辺形の四つの頂点のうちの二つ、畝傍山三輪山とで夫婦を表しているということなのです。
 どうやら、牽牛子塚古墳は舒明の后、斉明の陵墓であると言う他はないようです。すなわち、この四辺形に囲まれた藤原の宮は、神武の子孫、舒明の子孫にふさわしい都なのです。
 さて、牽牛子塚古墳が皇祖母の墓となれば、当然多氏はその子孫です。また、秦河勝が茨田連の血族だとすれば、これもその子孫となります。仮に血族でなかったとしても。秦大蔵造万理は皇孫建王を奉る子孫と言えなくもありません。それになりより、秦氏は皇祖母斉明とのつながりだけでなく、もう一方の皇祖母ヒメタタライスズヒメとのつながりもあった可能性があるのです。
f:id:heiseirokumusai:20151211200815g:plain  神代紀および神武紀によれば、ヒメタタライスズヒメ三輪山の神の娘であると同時に三島のミゾクイの神の孫でもあります。三島のミゾクイの神の三島とは、秦氏がその名前を地名に残すほど居住していた豊島郡と茨田郡との間にある摂津国三島郡のことです。また、ミゾクイの神のミゾクイは溝杭とも表記でき、灌漑技術とかかわりのある神の名とも受け取れます。灌漑技術の神といえば、秦河勝もまたそう呼べなくもありません。
 秦氏が、天皇家外戚あるいはその祖と何らかのかかわりがあることは確かと思われます。なお、この地には讚良郡があり、野讚良の諱を持つ持統天皇とのかかわりも考えなければなりません。彼女の諡、高天原廣野姫には皇祖母の意味もあるのです。

 斑鳩東方朔 ≪陰陽の風 09≫