古代雑記

一億分の一の検証  昭和枯れ芒、素人のつぶやき。

日本書紀の中の道標。太安万侶の道標、その30。

 不老不死や神仙の思想が古代の日本に入り込んでいることは、「記紀」やそのほかの物語等にそうした思想の産物としての物語が見出せることから確かなことと思われます。しかし、そうだからと言ってそれらの著述者がそうした思想を信じていたかどうかはまた別の問題です。なぜなら、記紀神話では神でさえお隠れになるとしているからです。また、田道間守が常世の国から持ち帰った非時香菓(ときじくのかくのこのみ)、思うにこれは不老不死の果物であったはずです。しかし、「記紀」はこれを単に今の橘とするのみで終えています。
 古代の日本人が不老不死にそれほどの感心を示していなかったことは、『竹取物語』の作者が、かぐや姫と会えなくなったことを嘆く帝に不老不死の薬は無用として富士山でそれを焼かせるというくだりをこの物語に付け加えていることからもおおよそ見当はつくと思います。無論、作者の強調表現ともできますが、記紀神話からもわかりますように、古代人は不老不死よりも人の寿命がなぜ短くなったのかといった因果説話のほうにより強い関心を示していたようです。
 思うに、不老不死や蘇りという道教神仙思想は古代中国の風土が生み出したものです。そうした思想が、死者の存在を常に語りかけている古墳群を風景として暮らしてきた日本人にとっては何の意味も持たないものだったのではなかったろうか。

欽明長寿説

 非時香菓の物語を持つ垂仁に『古事記』は158歳とういう長寿を与え、『古事記』には載らないが竈の煙と浦島の物語を『日本書紀』に持つ暴虐雄略に『古事記』は124歳という長寿を与えています。しかし、『古事記』は竈の煙の物語を持つ聖帝仁徳には83歳という寿命しか与えていません。仁徳は聖帝ではあったが、長寿を象徴する磐の姫との決別が長寿をもたらさなかったとするのが『古事記』の主張と見えます。ここにあるのは、明らかに因果応報の論理です。後世の浦島物語は、亀を助けるという善行に因り竜宮に遊び、玉手箱を明けてはならないという約束を破ることに因り老人となり果ててしまった。禁則を犯すものは必ず報いを受けるというのが当時の考えなのでしょう。
 仁徳の善政も、浦島の善行も、たった一つの禁則を犯すことに因り元の木阿弥となってしまう。逆に雄略のように悪業を行っても禁則を犯さなければ長寿を保てる。なにとはなく現代にも当てはまりそうな世相の反映の結果なのでしょうが、もう少し突き詰めれば、どのような権力者も禁則を犯せばその報いを受ける、ということでもあります。しかし、ただ禁則を犯さなかったというだけでは単に天寿が全うできたというだけでしかありません。『古事記』が雄略に与えた124歳という寿命は天寿以上のものなのですから。
 思うに、雄略の時代になぜ竈の煙が万里に立ち上ったのであろうか。答えは一つしかありません。それは、秦の太秦により庸調が上がるようになったからです。雄略紀には次のようにあります。

天皇愛寵之。詔聚秦民、賜於秦酒公。公仍領率百八十種勝。奉献庸調御調也絹縑。充積朝庭。因賜姓曰禹豆麻佐。
(雄略は、秦酒公を寵愛し、秦の民を集めて彼に与えた。よって秦酒公は多くのスグリを率いるようになり、絹や縑を税として朝廷に積み上げた。それで太秦の姓を賜った。)

 この話、前回の欽明と秦大津父との関係とよく似ていると思いませんか。欽明紀からもう少し抜き出しますと、

召集秦人漢人等諸蕃投化者。安置国郡、編貫戸籍。秦人戸数惣七千五十三戸。以大蔵掾為秦伴造。
(秦人や漢人ら諸蕃の投化者を集めて、国や郡に配置して戸籍に入れた。秦人の戸数は全部で7053になったので、大蔵の掾を秦伴造とした。)

 雄略も欽明も秦の民を集め、それを諸国に配置して秦氏を取り立てることによって国を富ませ万里に炊煙を立ち上らせた。そして、それによって雄略が長寿を得たのであれば、欽明もまた長寿を得たはずです。もう少し付け加えますと、27章で小子部蜾蠃が集めた子供たちの多くは秦の民の子供ではなかったかとしましたが、その子供たち特に少年は火焚き小子とされる場合があるのです。つまり秦氏は直接に竈の煙とも関係があることになります。そして、何度も言うように雄略と欽明にはいろいろな面で共通点があるということなのです。

倭王武はワカタケルか

 江田船山古墳出土鉄刀銘や稲荷山古墳出土鉄剣銘から「獲加多支鹵大王」、すなわちワカタケル大王という文字が読み取られています。通説ではこの大王を『宋書』に載る倭の五王の最後の王武に比定しているようですが、それなら何故鉄剣銘に幼武と記さないのか不可解です。それに『古事記』では武の字を使わずすべて建を用いています。あるいは、古代の銘文の人名表記には万葉仮名的な漢字表記が慣例であったのだろうか。しかし、そうだとしても宋に対して「獲加多支鹵」ではなくなぜ「武」としたのか、それともと「獲加多支鹵」を「武」とする慣例もあったのか。いずれにしても『宋書』が武と記す以上、武の和風名の中には「ぶ」あるいは「む」の音が入っていたとするべきでしょう。例えば、「ほちわけ」とか「ほだわけ」とか。思うに、武をタケと読むのは後世になってからのことではないだろうか。したがって、後世のそのまた後世の今日、武をタケと読むのは少し早計すぎるようにも見えます。
 ところで、倭王武の上表文を見てどのように感じるだろうか。勇ましさ、猛々しさ、いわゆる強さとしての「武」だろうか。

昔より祖禰躬ら甲冑を擐き、山川を跋渉し、寧處に遑あらず。東は毛人を征すること五十五國、西は衆夷を服すること六十六國、渡りて海北を平ぐること九十九國。王道融泰にして、土を廓き畿を遐にす。累葉朝宗して歳に愆らず。臣、下愚なりと雖も、忝なくも先緖を胤ぎ、統ぶる所を驅率し、天極に歸崇し、道百濟を遙て、船舫を装治す。而るに句驪無道にして、圖りて見呑を欲し、邊隸を掠抄し、虔劉して已まず。毎に稽滞を致し、以って良風を失い、路に進むと曰うと雖も、或は通じ或は不らず。臣が亡考濟、實に寇讐ノ天路を壅塞するを忿り、控弦百萬、義聲に感激し、方に大擧せんと欲せしも、奄かに父兄を喪い、垂成の功をして一簣を獲ざらしむ。居リて諒闇に在リ、兵甲を動かさず。是を以って、偃息して未だ捷たざりき。今に至りて、甲を練り兵を治め、父兄の志を申べんと欲す。…
岩波文庫魏志倭人伝・…』より》

 私の読む限りでは、上記上表文の下線部からもわかるように、武は、祖や父や兄の功や志を引き継ぐ者としての主張を述べているように感じられます。実は、漢字の武には継ぐという意味もあるのです。武という文字を勇ましいという意味からだけで捉えていては倭王武を見誤るのではないだろうか。ただ、そうは言っても『日本書紀』が倭王武の時代に幼武すなわち雄略をあてがっている以上、基本的には通説を覆すことは難しいということなのかも知れませんが。
 下の表は、岩波新書倭の五王』に載る年表を参考にしてのものです。行間の都合上時間幅は正確ではありません。また、時間の流れは左から右へとなっています。また、左端の枠は允恭即位年の412年に、右端の枠は武烈の崩年506年に設定しています。
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 この表からも分かるように、雄略の治世23年間のうち倭王武と重なるのはほんの3年ほどでしかありません。思うに、この3年足らずの一致をもって通説は倭王武を雄略と決め、さらに稲荷山古墳出土鉄剣銘に載る辛亥年を、武の治世ではなく興の治世とする『宋書』を無視してまで471年としています。無論、確かに雄略を武とはしない説もあります。しかし、そうしてみても今度はその3年足らずが逆にこの説の欠陥となってしまいます。
 本稿は二者択一つまり『日本書紀』か『宋書』かということで終始を計っています。したがって、この場合は『宋書』を取ることになるのですが、同時に『日本書紀』が次のように主張していると読み取ることも大事です。すなわち、雄略は倭の五王の興でも武でもないと。そもそも上の表のように一目瞭然の歴史の齟齬を書紀編纂者が見落とすはずはなく、こうした齟齬は編纂者が意図的に作りあげた後世へのメッセージと受け取るべきものです。大和に遺跡の道標があるように『日本書紀』にもやはり道標と呼べる何かがあるのです。
 思うに、人が何かを書き残す。それは自身への記念としての場合もありましょうが、自分以外へのメッセージである場合もあります。『日本書紀』は明らかに後者の場合にあたると言えるでしょう。また、私がこうしたものを書くのもやはり後者の場合ということになります。ただ、私の場合は私論であり試論ですから制約と呼べる程のものは最初からありませんが、書紀編纂者の場合は最初から大きな制約があったと思われます。そういった状態で後世に残せるメッセージといったものを考えた場合、また、あからさまに事実を書くことが憚れる場合、もしかしたら明瞭な歴史の齟齬で知らせるのが一番良い方法ではないだろうか。そして、その齟齬を元に後世が勘校するであろうことを彼ら書紀編纂者は望んでいるのではないだろうか。
 『日本書紀』で、歴史の齟齬が最初に現れるのが神功紀です。神功紀は「漢籍」と『百済記』とによって偏年が組まれています。しかし、この両者には120年ものずれがあります。通説では、このずれは日本書紀編纂者が神功皇后卑弥呼と見做したために生じたとしています。そして、このずれは応神紀まで続いています。
 下表は、神功紀と応神紀に載る百済王の実年代を左から右へ時間の流れに沿ってまとめたものです。
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 これから百済王の存在時期が実際よりも120年遡っていることが分かると思います。通説では、『百済記』の紀年が干支であったために、書紀編纂者がそうした間違いに気付けなかったとされています。確かに、干支1巡は60年ですから、120年というのは丁度干支2巡に当たり、説明としては妥当とも言えます。しかし、書紀編纂者は本当にこのことに気付かなかったのだろうか。
 なぜなら、神功紀ではこの時間のずれは正確に120年の差として現れていますが、応神紀の後半ではこの時間のずれにもそして記事内容にも齟齬が現れてきます。この齟齬は、実に甚だしいもので、応神25年に死んだ直支王が応神39年に再び生きて顔を出すというものです。この齟齬に編纂者が気付かないはずはないのです。それとも、応神25年から39年の間のどこかで編纂者が交替したとでもいうのだろうか。そしてなにより、後世の写本においても、この齟齬が活かされているというのも不思議というほかはありません。

竈の煙と天命。太安万侶の道標、その29。

 ねたみそねみは人の世の常ですが、「記紀」はこれを臆面もなく取り上げて、うわなりやこなみや、挙句のはてには天皇までも揶揄し、あるいは誹謗したりもしています。聖帝仁徳もこれに関しては形無しのようです。
 仁徳天皇について、太安万侶は序文に

烟を望みて黎元を撫でたまいき。今に聖帝と傳ふ。

と記しています。
 仁徳と黎元(民)の竈の煙の話は、子供の頃よく聞かされたものですが、仁徳と嫁さんの話は「記紀」を読むまでは知りませんでした。思えば、古代の天皇の中で最初に知ったのが仁徳でした。また、「記紀」を読むまでは、仁徳が一番の長寿だという風に記憶してもいたようです。なお、「記紀」を読むといっても訓読本ですから、本当の意味で読んでいるかは今もって分かりません。ただ、『古事記』を読む限りにおいては、それで善いのだと思います。しかし、『日本書紀』の場合、これは一応歴史書ということですから、『古事記』と同じ次元で扱うことはできないのかもしれません。

仁徳短命説

 思うに、仁徳が長寿であったという記憶は、仁徳の治世が長かったということに起因するのだと思いますが、仁徳の治世がなぜ長かったのか、これについてはそれほど深く考えたことはないように思います。これは、おそらく聖帝ならばそのくらいは当然、いやそうでなければならないと当時の国定教科書の解答を持たされていたせいだと思います。
 ところで、『日本書紀』では仁徳の治世を87年と掲げていますが、『古事記』では仁徳の寿命をその治世よりも短い83歳としています。これは何故なのか。無論、こうしたことにも興味を抱くのは素人だからこそですが、普通には『古事記』と『日本書紀』を同次元で扱ったりはしないとは思います。しかし、『日本書紀』が『古事記』をベースに成り立っているとする立場に立てば、やはり無視のできないものだと言うほかはないのです。
 素人から見た場合、仁徳紀と仁徳記との一番の相違は、天皇と皇后磐之媛との夫婦仲の描き方にあります。仁徳記では仁徳の浮気を皇后が許していますが、仁徳紀では許していません。仁徳記をベースにしているはずの仁徳紀がこれを否定しているのです。思うに、これは仁徳記の方が間違っているのではないかと。そして、同時に我々が仁徳記を読み間違えているのではないかと。これも素人の勘ぐりではありますが。

ここに大山津見の神、石長比売を返したまへるに因りて、いたく恥ぢて、白し送りて言さく、「我が女二人並べたてまつれり由は、石長比売を使わしては、天つ神の御子の命は、雪零り風吹くとも、恒に石の如く、常盤に堅盤に動きなくましまさむ。また木の花の佐久夜比売を使わしては、木の花の栄ゆるがごと栄えまさむと、誓ひて貢進りき。ここに石長此売を返さしめて、木の花の佐久夜比売をひとり留めたまひつれば、天つ神の御子の御寿は、木の花のあまひのみましまさむとす」とまをしき。かれここを以て今に至るまで、天皇たちの御命長くまさざるなり。
《角川文庫『新訂古事記』》

 以上は記神話が、天皇の寿命が長くならなかった原因のいわれを述べている件の一節ですが、実は『古事記』での仁徳の寿命は決して長いとはいえないのです。

神武 孝昭 孝安 孝霊 崇神 垂仁 景行 神功 応神 成務 雄略 仁徳
137 93 123 106 168 153 137 100 130 95 124 83

 上は、『古事記』に載る天皇の寿命を表にしたものです。これからも分かるように、仁徳は必ずしも長寿とは言えないのです。このことは同時に仁徳記でも仁徳は皇后と仲直りをしていなかったことを示しています。それもそのはず、仁徳天皇の皇后の名前は仁徳記では "石の比売"、つまり神話の "石長比売"のことだからです。思うに、孝徳天皇と間人皇后が夫婦別れをしたように、難波天皇というのは当時の人からすれば正しく夫婦別れをする天皇の代名詞みたいなものだったのです。なにせ、難波天皇と木の花の佐久夜比売との仲は歌にも残っているほどなのですから。

 難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花
(なにはづに さくやこのはな ふゆごもり いまははるべと さくやこのはな)

 この歌は「記紀」には載っていないのですが、後世とはいっても平安時代頃だと思いますが、当時の伝説では王仁仁徳天皇に奉ったとされています。後世、こうした伝説が生まれるのは、やはり難波天皇の夫婦別れの原因を木の花の佐久夜比売とする伝承に因るものでしょうか。そして、このことは同時に仁徳の寿命が短かったことをも暗示しているのです。

雄略と竈の煙

 石長比売と佐久夜比売との神話に従えば、仁徳の寿命は短かったと言うほかはありません。しかし、仁徳の治世の長さは、孝安の102年、垂仁の99年に次いで3番目と決して短くはないのです。一見矛盾しているように思いますが、何らかの理由はあるはずですが…
 ところで、『古事記』での雄略天皇の寿命、意外とも言えるほどに長いとは思いませんか。そもそも『古事記』は、引田部の赤猪子(女性の名)の話を載せているように、雄略を長寿の天皇として捉えているのです。しかも、面白いことには、この長寿の答えが『古事記』にではなくて『日本書紀』にあるのです。なお、引田部名の赤猪子の話というのは、普通に歳をとり老いてしまった赤猪子が若い頃に雄略と交わした約束の履行を雄略に迫るというものなのですが、この時の雄略が全く歳をとっていないという、ある種の浦島伝説にも似た内容となっています。ただ、この状態での両者の対面を描いていますので、雄略記特有の滑稽談となってもいます。
 さてその長寿の答えですが、雄略紀の最後の段に載る天皇の遺詔の中にあります。

方今區宇一家 烟火萬里 百姓艾安 四夷賓服 此又天意欲寧區夏
《今、天下は一つにして、竈の煙は万里に上り、万民は治まり安く、四夷もよく従ってい る。これは、天意が国を安らかにしようとしているのである》

 ここには、仁徳紀と同じ "竈の煙" が載っています。加えて "天意" という言葉もあります。これは竈の煙が天に上って、国が善く治まりますようにと天意を催させたということです。そして、その結果雄略の寿命が長くなったということなのです。実は、こうしたことをする神に竈神がいます。ただし、今日に残っている竈神のことではありません。道教の研究書を残した葛洪(かつ こう:283~343)の『抱朴子』に次のようなことが載っています。

天地に過を司るの神あり。人の犯す所の軽重に随って、以ってその算を奪ふ。算減ずれば則ち人は貧耗疾病し、屢しば憂患に逢う。算尽くれば則ち人死す。諸もろの応に算を奪うもの、数百事有り、具には論ずべからず。また言ふ、身中に三尸有り。三尸の物為る、形無しと雖も、実は魂霊鬼神の属なり。人をして早く死せしめんと欲す。この尸はまさに鬼と作ることを得、自づら放縦遊行して、人の祭酹を享くべし。是を以って庚申の日に到る毎に、輒ち天に上りて司命に白し、人のなす所の過失を道ふ。また月晦の夜には、竈の神も亦天に上りて人の罪状を白す。
《中国古典新書『抱朴子』明徳出版》

 以上の多くは今日の庚申信仰の基となるようなことが書かれていますが、要は人の寿命はその人が犯した罪過によって決まるという発想です。そして、その罪過を天上の司命に告げるのが三尸(さんし)や竈神の役目とされているのです。これは、道教におけるガマの油売りの前口上のようなもので、道教ではガマの油の代わりに丹(仙薬)を売ることになります。要するに、丹を買って飲めば体から三尸が居なくなって長寿が保てるという道教製薬の宣伝広告の一種なのです。したがって、三尸とか司命とかは道教の誂えであって、これらから寿命を連想したとしても寄生虫程度のものしか思い浮かばないはずです。
 しかし、竈神、と言うよりも竈の煙からはいろいろの連想が浮かびます。先ず食事が浮かびます。食は命の糧ですから当然寿命とかかわります。また、古代では善政ともかかわります。善政は平和につながり、人は争いで命を失うことなく天寿を全うできます。思うに、竈の煙は為政者の善政を喜ぶ民の声とも聞こえます。その民の声の結果、竈の煙の多い為政者の寿命は長くなり、竈の煙の少ない為政者の寿命は短くなるということです。しかし、それならば雄略は善政を敷いたというのだろうか。

竈の煙と革命

 雄略に関しては「記・紀」共に聖帝と呼べるような記事は一切載せていません。それどころか、その正反対とも呼べるような記事が多々見受けられます。しかし、それにもかかわらず『万葉集』や『日本霊異記』は雄略をその巻頭に据えていますし、『古事記』は雄略のの寿命を124歳の長寿としています。どうやらここにも素人好みの謎があるようです。  さて、天命と言う言葉があります。これには大きく二つの意味があります。先ず天から与えられた寿命、そして天から与えられた使命です。思うに、命は天が人に与えたものです。したがって、天はこれを如何様にも変えることが出来ます。変えることによって人の寿命は短くなり、為政者は倒れます。この天命を左右するのが竈の煙です。竈の神は革命の神でもあるのです。
 顕宗前記、志自牟の新室楽(しじむのにいむろうたげ)の段に次のようにあります。

かれ火焼の少子二口、竈の傍に居たる、その少子どもに舞はしむ。…(略)… ここに遂に兄舞ひ訖りて、次に弟舞はむとする時に、詠したまひつらく、物の部の、…(略)… 伊耶本和気の天皇の御子、市の辺の押歯の王の、奴、末。とのりたまいつ。ここにすなはち小楯の連聞き驚きて、床より堕ち転びて、…(略)… ここにその姨飯豊の王、聞き歓ばして、宮に上らしめたまひき。
《角川文庫『新訂古事記』》

 この段は、普通履中天皇の孫が見つかる契機や清寧天皇以降の王朝の断絶を免れた物語としてしか解釈をされていないようですが、竈神と革命という観点からすれば天皇の孫あるいは現王朝の血筋ということを抜きにしても成り立つ話です。つまり、この段の主旨は竈の神が伝える天命によって顕宗と仁賢が皇位に就いたということなのです。
 なお、顕宗と仁賢の物語を、貴種流離譚や、応神5世の孫という遠縁の継体の即位を無理のないものにするために「記紀」に取り入れられたとする説もあるようですが、そういうことであれば、むしろ貧しい一介の火焚き小僧が天命によって天位に就いたとする方が良いように私には思われます。また、継体即位の下準備として顕宗・仁賢の物語があるのではなく、顕宗・仁賢の真の物語を打ち消すために継体の物語があるとした方が大仙陵古墳の破壊を説明する上で都合がいいようにも思われます。
 思うに、竈の煙が立ち上って天に届く。古代人には竈と天とはつながっているように見えていたのではないだろうか。そうした場合、竈の声は天の声であり、天の声に最も近いのが竈の世話をする火焚き小僧ということになります。あるいは、竈の傍で話す火焚き小僧の言葉もまた天の声ということなのかもしれません。『日本書紀』もこの物語の舞台を竈の傍と記しています。

欽明長寿説

 ところで、『日本書紀』が載せる歴代の天皇の中で、と申しましても可能な限り実在とされる天皇についてですが、その中で最も治世が長く、しかも長寿な天皇は誰なのかということなのですが…
 私が思うには、実在の可能性の薄い推古天皇を除けば、それは欽明天皇ではないかと。ただ、『日本書紀』は欽明は(御)年若干で亡くなったとしています。若干ですから長寿ではないとも受け取れます。また、欽明は年若干で即位したとされていますから、天皇としては最も長い32年の治世があったとしても必ずしも長寿とは言えないのかも知れません。しかし、仮にそうだとしても、欽明が亡くなった時も即位した時も "時年若干" と書き表す『日本書紀』の意図は何処にあるのだろうか。
 ところで、『日本書紀』は欽明即位前紀で夢の中に一人の男が現れて欽明に次のように語ったとしています。

天皇秦大津父者寵愛、壮大及、必天下有。
欽明が秦大津父という人を寵愛すれば、男盛りになった時、必ず天下を知らしめると。

 壮大とは男盛りのことですから、欽明は若干で即位したわけではないことになります。それに、石棺の関係から欽明と宣化は同母の兄弟のはずです。したがって、仮に宣化の治世が短かったとしても、欽明の即位時の年齢はもはや若干とは呼べないほどになっているはずです。『日本書紀』は矛盾しているのだろうか。実は、年齢に関しての矛盾は『古事記』にもあるのです。ただ、『古事記』の場合は多少の齟齬は仕方が無いとは言えますが。
 雄略記に引田部名の赤猪子が年を取るのに雄略が年を取らないという滑稽談のあることを話したと思いますが、実は年を取らない天皇がもう二人ほど居るのです。それは、顕宗と任賢です。雄略の死後、この二人が見つかった時彼らは未だ火焼少子(ひたきのわらは)と呼ばれていたのです。『日本書紀』には引田部の赤猪子も火焼少子も登場しませんが、ただ、顕宗と任賢が丹波小子(たにはのわらは)と名を変えて縮見屯倉首(しじみのみやけ)に仕えたとはあります。ところで、この丹波小子の丹波ですが、かつては但馬と丹後をも含んでいたとされています。
 雄略紀22年に、丹波国与謝郡の水江浦島子が蓬莱山に行ったという話が載っています。これは後世の浦島太郎の物語の基となったとされているもので、かつての丹波国であった但馬や丹後地方にはこうした神仙思想の影響で生まれた不老不死の話が少なからずあったようです。たとえば、垂仁天皇が常世の国へ遣わした田道間守(たじまもり)の話もこの一つです。この話は橘の木の伝承譚でもあり、天の日矛の伝説や延いては神功や応神の系譜にも繋がるもので、あるいはここに「記紀」の現代史とも呼べる何かがあるようにも思えます。…以下次回へ。

雄略と宋。太安万侶の道標、その28。

 専門家に解けない謎は素人にも解けない。それが一般的な常識というものなのでしょうが、素人からすれば、専門家に解けない謎は素人でなければ解けない、というのが常識なのです。
 私事で恐縮ですが、私はかつて友人と一人の女性を張り合ったことがあります。その時に思ったことなのですが、彼女が友人になびかなければ自分になびくと。しかし、結果はどちらも振られてしまいました。思うに、素人の常識よりも厳しいのが現実でございました。世の中は必ずしも二者択一で成り立っているわけではないようです。
 しかし、陰陽思想は、陰か陽かの世界を問う思想です、陰で解けなければ陽で解けるという思想です。そういうわけで、常識にもめげず、現実にも屈せず、宮沢賢治のようにと思っている今日この頃でもあります。

 さて、船尽くしの観は否めませんが、船氏は王後墓誌を始め、野中寺の弥勒造像銘、さらには宇治橋碑銘とかかわりがある一族です。今少し連想を進めるのも素人の役目なのかもしれません。

船氏8代

 王後墓誌によれば、王後より船氏の中祖王智仁まで3代を遡ります。1代を20年ほどとすると、3代で60年ほどになります。王後が死亡したのが641年ですから、これより60年ほど遡れば580年前後となり、これが計算上の王智仁の死亡年となります。また、彼の活動した期間を20~30年間と見積もれば、その開始年は550年頃となります。王辰爾が船史となったのが欽明14年(553)年ですから王智仁と王辰爾は重なります。通説では、王智仁は王辰爾のことだともされています。おそらくは、そうなのでしょう。智仁は "ちに" と発音するのかも知れません。
 ところで、墓誌が作られた代より数えると王智仁は4代目に当たります。王智仁は中祖ということですから、計算上これからさらに4代を遡れば上祖ということになります。無論、王智仁の場合、中祖とはいっても歴代の真ん中というよりも中興の祖という意味合いの方が強いかもしれません。なにせ既に述べているように、史が彼の名前にあやかって彼らの祖の名前に利用した可能性もあるのですから。しかし、仮にそうだとしても4代遡っての中祖です、上祖まで8代くらいはあったとするべきでしょう。そうすると、550年から80年遡った頃が上祖の活動を始めた時期になります。その時期は470年頃に当たり、倭王武の兄の興の時代となります。また、漢城時代の百済の滅亡の年475年にも近い時期ともなります。
 雄略紀には、20年(476)冬、高麗王が大軍をもって百済を滅ぼしたとあります。文献の上では1年の誤差になりますが、分注には「蓋鹵王乙卯年(475)、狛大軍来」とあり、前年の事をもまとめて記事にしたものと思われます。ただ問題なのは、倭王武を雄略と見做した場合の『宋書』との齟齬です。倭王武は477年から500年代初頭頃までの治世があったと『宋書』から推測できます。しかし、雄略紀では雄略は457年から479年までの治世となっています。『日本書紀』編纂者が『宋書』を参考にしなかったとも言えますが、雄略紀には呉との交渉の記事が頻繁に見られます。
 呉、記事では "くれ" と読ませていますが、これは中国の南朝のことで、当時南朝といえば宋(420年~479年)しかなく、雄略が交渉していたのは倭王武朝貢していた宋ということになります。思うに、宋の末年と雄略の末年が同じであることから、『日本書紀』は雄略を武ではなく単に宋に合わせたのではないのかとも見えます。と言うのも、雄略の即位年(457)が宋の世祖孝武帝の年号大明元年(457)にも当たるからです。それに、この孝武帝とその兄との行状は雄略とその兄安康の行状によく似ているようでもあります。あるいは、『日本書紀』は『宋書』を参考にしなかったのではなく、むしろ参考にし過ぎたのかも知れません。それはともかく、雄略の時代、呉との交渉に当たっていたのが史部の身狭村主青(むさのすぐりあお)と桧隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)なのです。
 ところで、雄略紀にはこの二人の史に関して次のような記事があります。

天皇、み心を以って師と為し。誤ちて人を殺すこと衆し。天下誹謗して言わく。太悪天皇也。唯寵愛する所は、史部の身狹村青と檜隈民使博徳等也。

 身狭と桧隈は大和にありますから、史部としては東漢系ということになりますが、この場合は単に東史とした方が話としては分かりやすいかもしれません。25章で東西の史について少し述べたと思います。船史や田辺史はいわゆる西史に含まれますが、上の記事は、彼ら西史の雄略の東史への贔屓を非難してのものとも見えます。しかし、雄略がなぜ東史を贔屓にしたのか、また、なぜ西史の目にはそのように映ったのか、取るに足りない素人の勘ぐりには違いありませんが、少しばかり時間を費やしてみましょう。

雄略と欽明

 冒頭でも述べていますように、史部の設置は雄略が最初です。また、雄略紀に西史系の田辺史伯孫が登場していることから、史部は最初から東西に設置されていたという事になります。このことは、雄略が東史だけではなく西史をも必要としていたことを教えています。そうなると、雄略がなぜ東史の二人だけを偏重したのか。やはり、少し考えてみる必要があるようです。
 雄略の宮は泊瀬朝倉宮(奈良県桜井市)で、同じ大和とはいっても身狭や桧隈とはかなりの距離があり、雄略の膝下とは言い得ません。また、雄略の陵墓は丹比高鷲(大阪府羽曳野市)で、これは西史の本拠地ですから、雄略と東史の関係は地理的からのものではないことが分かります。では、何にその起因を求めれば善いのか。雄略紀をどう読み返しても、天皇と二人との関係は、二人が史であることと二人が天皇に寵愛されたという記事以外にはなにもありません。このことは、二人というよりも身狭村主青と桧隈民使博徳は最初から雄略に付随していたと解釈する他はないようです。ただ、付随という言葉がこの場合適切か如何か。そこで、付随を次のように解釈します。
 最初から雄略に付随していたものは、雄略の死後も付随すると。こう解釈した場合、身狭村主青と桧隈民使博徳は、雄略の死後も付随して、その陵墓の地である丹比高鷲に付いて行ったということになります。そうすると、この二人の史は当然西史となり、名前も高鷲村主青と丹比民使博徳となります。これを逆に考えてみましょう。雄略は河内から史を連れて大和に入った。結果、河内と大和の二箇所に史の本拠地が出来た。そして、雄略が連れて来た高鷲村主青と丹比民使博徳は身狭村主青と桧隈民使博徳へと変わった。
 思うに、史の先祖はすべて応神朝にその基礎を置きます。言い方を変えれば、史はすべて応神に付随します。もう少し変えると、史は応神天皇陵の近くに居住した。そして、その一部が大和に入り東史となった。応神紀によれば、阿直岐史の先祖は軽の坂の上辺りに住んだといいます。身狭村主青と桧隈民使博徳も、その呼び名からして、やはりその近くに住んでいたことになります。実は、この地には見瀬丸山古墳があるのです。見瀬は身狭のことです。つまり、見瀬丸山古墳の主が高鷲村主青と丹比民使博徳を連れて大和の見瀬あるいは桧隈の地に入ったということです。
 見瀬丸山古墳を雄略の墓と主張するつもりは毛頭ありません。本墳には宣化と欽明が眠ると24章では主張しているのですから。さて、宣化の和風諡号小広国押盾です。したがって、その弟である欽明の和風諡号若武なにがしと呼ばれる可能性があります。
 ワカタケルといえば雄略。雄略といえば倭王武。普通に「記紀」を読んでいれば誰もがそうなります。しかし、果たしてそうなのだろうか。『日本書紀』は雄略を倭王武にではなく宋に合わせています。それに、若、幼あるいは稚は、普通親や兄の名前の上につけてその親の子であること、あるいはその兄の弟であることを示すためのものと言えるのです。無論、これは今日的な考えで、当時はそうではなかったとも言えます。しかし、若、幼、稚は当時からそういった意味で使われていたからこそ今日そういった意味で残ったと見るべきでしょう。そう見た場合、次のようなことが言えるようになります。
 先ず、幼武と呼ばれる雄略ですが、どうしたことか彼には武という名前のつく親兄弟が一人もいません。逆に欽明には、武と呼べる兄が宣化の他にもう一人いるのです。安閑がそれで、彼の名は広国押金日とされています。なお、雄略の子の清寧の名が白髪広国押稚日本根子で、雄略よりも欽明の兄弟の名に似ています。また、稚日本根子とあることから、清寧の父あるいは兄の名が日本根子である可能性もあります。
 次に、稚郎子(わきいらつこ)や稚子宿禰(わくごのすくね)といった呼び名ですが、これだけでは特定の個人を指すことは出来ません。そこで、菟道稚郎子としたり雄朝津間稚子宿禰とすることにより、前者が応神の皇太子であることが分かり、後者は允恭の和風諡号であることが分かるようになります。雄略は、正確には大泊瀬幼武ですから、あるいは幼武だけでは特定の個人を指せないのかも知れません。そうなると、欽明も志帰嶋若武としなくてはならないのかも知れません。それとも、泊瀬若武とする方が善いのだろうか。欽明紀には、その31年に天皇が 「泊瀬柴籬宮に幸す」 という記事もあるのですから。
 どうやら話が思わぬ方向に向かって行っているようです。無論、この向かう先も本稿にとっては大事ではあります。しかし、ここでは見瀬丸山古墳が "ワカタケル" という名で東史につながっているという結論、ただし私論ですが、これを基に話を進めています。
 稚拙な例えかもしれませんが、明治維新によって京都が東京に移ります。無論、京都が移動をしたというわけではありません。移動したのは象徴としての都と幾ばかりかの人です。ほとんどの人は残されました。思うに、見瀬丸山古墳の前代は河内大塚山古墳です。この関係は河内から大和への遷都とも呼べます。取り残された者の言い分が、あるいは身狭村主青と桧隈民使博徳への非難だったのかも知れません。
 雄略は、「記紀」を読む限り、君主とは言い得ません。しかし、『万葉集』も『日本霊異記』もその巻頭を飾るのは雄略でありその時代です。雄略の宮は泊瀬朝倉宮ですが、『日本霊異記』には磐余宮(いわれのみや)にも居たともしています。奈良県桜井市脇本に5世紀後半代の柱穴群を含む脇本遺跡があります。一説ではそれが雄略の泊瀬朝倉宮だともしています。ただ、脇本遺跡には6世紀後半から7世紀にかけてのて大型建物跡なども出土しており、これを欽明天皇の宮殿と推測する人もいます。
 思うに、雄略と欽明はいろいろな意味で近しい関係にあるようです。『万葉集』や『日本霊異記』は雄略をその巻頭に据えてはいますが、その巻頭以後には顕宗も仁賢もそして継体さえも顔を出してはいません。『万葉集』では雄略の次に顔を出すのが舒明、『日本霊異記』では欽明となっています。雄略を欽明、正確には阿毎多利思比孤とした方が『万葉集』にも『日本霊異記』にも負担がかからないように見えます。
 さて、雄略紀の時代は宋の後半代に当たります。しかし、雄略を倭王武にあてはめても 『宋書』とは整合しません。しかし、『日本書紀』の編纂者が宋を知らなかったとは考えられません。なぜなら、『日本書紀』の暦日干支の半分は元嘉暦によるものだからです。元嘉暦はその名が示す通り宋の元嘉22年(445)より始まる暦なのです。
 既に述べたと思いますが、雄略紀は雄略を宋の年譜に合わせています。特に安康から始めれば孝武帝との整合もよくなります。安康の即位年が453年。孝武帝も同じく453年即位なのです。さて、宋は孝武帝の兄以降、その身内に対してあるいはその身内から、さらにはその臣下に対してあるいはその臣下から血なまぐさい抗争の歴史を繰り返す道を歩み歩まされもしています。実際、この年より宋末の479年までに臣下によって殺害された廃帝が二人も出ています。穿った見方をすれば、安康と雄略紀の血なまぐさい記事はこれに合わせたものとも言えます。
 ただ、仮にそうだとしても『日本書紀』の編纂者が自分たちの天皇にそうした話を無条件で押し付けて平然としているというのも不思議な気がします。あるいは、彼らは虚構を前提として『日本書紀』を編纂していたのかも知れません。たとえば、孝武帝は興武帝ともできます。これは倭王興倭王武の両者をまとめて表わす名前ともいえるのです。そうした観点から『日本書紀』を見た場合、血なまぐさい話を持つ、雄略、武烈、崇峻の三天皇の和風諡号に "泊瀬" が付くことの意味は大きいと考えねばなりません。
 泊瀬は初瀬とも書きます。初瀬の意味は瀬の始まる発瀬でもあり、大和川の出発地点でもあるのです。そして、この地から大和の国は排し開け始まるのです。大和の枕詞を冠する敷島天皇(欽明)を天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわ)と呼ぶのもその故です。そして、そうでありながら、そこに、断絶や血なまぐさい話を持ち込む『日本書紀』は、明らかに大和を否定しています。
 思うに、『万葉集』には近江遷都や平城遷都の時多くの人々が飛鳥を懐かしんで詠んだ歌が残されています。それと同じように、河内から大和への遷都の時、西史達が河内を懐かしんだことは想像に難くはありません。彼らは、仁徳を聖帝と仰ぎ、難波長柄豊碕宮を「其の宮殿之状は不可殫論(たとえようがない)」と賞賛し、他方では大和を誹謗してもいるのです。また、河内飛鳥を近飛鳥(ちかつあすか)と呼び、大和飛鳥を遠飛鳥(とおつあすか)と呼ぶのもその故です。
 天武14年6月20日、大倭連(おおやまとのむらじ)以下東漢を含む11氏が忌寸(いみき)の姓を賜ります。しかし、何故かそのなかには船氏も田辺史も入ってはいません。