昭和は遠くなりにけり

古代に思いを馳せ、現在に雑言す。・案山子の落書・

悪の論理。

 強者が弱者を追いつめて悪事に走らせる。これを悪の論理と言います。無論私の勝手な雑言ですが、暇のある方はお読みください。

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 悪の論理は社会の至る所で実践されています。また、この論理は狭義には狩猟をする動物全てが持っているもので、おそらく人類はこの論理を長い狩猟時代の間に学んだものと思われます。
 人も動物もそうですが、彼らが単独で狩猟をする場合は待ち伏せや不意を衝いて獲物を捕らえるというのがその一般的なやり方です。しかし、複数での狩の場合は獲物を自分達にとって都合の良い場所へ追いつめるという方法を用います。そして当然追いつめる先には、仲間が待ち構えていたり、罠や落とし穴や絶壁があったりするわけです。

 悪の論理は、元元は獲物に対してのものです。しかし、人はこれを人に対してもいつの頃からか用いるようになっています。例えば、近いところでは北朝鮮への圧力制裁というのがそれと見えます。この狙いは、国連の場で北朝鮮に圧力をかけ、北朝鮮が国連から脱退することを促し、北朝鮮を世界から孤立させるというものです。しかし、北朝鮮は嘗ての日本が国際連盟から脱退したようなことはしませんでした。それは、アメリカの悪の論理を知っていたからでしょう。
 ただ、それにつけてもこの場に日本が居て北朝鮮に圧力をかけたことを思うと、因果はめぐると言うか歴史の皮肉と言うか、…
 それにしても「明日は我が身」と言いますが、この時の日本は「昨日は我が身」とは考えもしなかったのだろうか。

 嘗て、日本はアメリカの悪の論理に負けて真珠湾を攻撃してしまいました。この攻撃によってアメリカはドイツへの攻撃権を得、第二次世界大戦終戦へと導くことが出来たのです。結果としては、めでたしめでたしという事ですが、実は同時に悪の論理の優秀さが証明されたという事でもあるのです。

 さて、悪の論理は強者が弱者を追い詰める為の論理つまり強者の論理です。そして、その強者の論理で世界は動き歴史は書かれています。つまり、強者にとっては強弱の関係を善悪の関係に置き換えることはいとも容易なことなのです。つまり、日米を善として、北朝鮮を悪とする。ここに強者の論理、悪の論理の真骨頂があるのです。
 こうした観点から金正男の暗殺やシリアのサリンを省みた場合、これまでとはまるで違った事実関係が見えてまいります。

 強者の論理でしか動かないアメリカや日本の社会、正にサイレントプアの社会としか言いようがない。しかし、サイレントプアの時代は終わりを告げるかもしれない。北朝鮮の核ミサイル、これはサイレントプアの悪の論理に他ならない。弱者が強者に悪の論理を仕掛けたのである。そして、日本はこれに負けてしまっているようにも見える。
 そもそも日本は世界で唯一の核の被爆国です。本来なら日本は世界が目指す核廃絶運動の旗頭とならねばならない国です。しかし、日本はこの運動に参加しないばかりか核廃絶の署名さえ拒否している。もしこれが北朝鮮の核保有に対しての皮肉の表現だとしたら、正に北朝鮮の悪の論理に負けたことに他ならない。
 それにしても、核廃絶の署名を拒否する日本が、一体どのような面で北朝鮮に核放棄を迫るのか、霞ヶ関幼稚園のお猿の面をつけての政治お遊戯としか言いようがありません。
 それにしても、日本くらい悪の論理に弱い国はない。

 

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なぁーんも なぁーんも
寛容 寛容
へば 寛容

何事も寛容寛容へば寛容、誠惶誠恐、頓首頓首。

§3.奴國は伊都國。

 最近、邪馬台国に関しての新しい知見が得られなくなりました。それは、古代史ブームが去ったということにもよるのでしょうが、もしかしたら新たな発掘の成果待ちという歴史家の消極的な研究態度によるものも又あるのではないかと思ったりもします。

 ところで、これは初回でも述べたことですが、いわゆる邪馬台国は「魏志倭人伝」の中にのみ存在する国家です。したがって、もしこの国家に謎があるのだとすれば、その謎は当然「魏志倭人伝」の中に於いてこそ解かなければならないという事になるのでしょうが、あるいは、もしかしたら「魏志倭人伝」の中に於いてのみ解ける謎であるのかもしれません。

戸数が示す邪馬台国の構図

 前章では、伊都國に奴國を取り込めませんでした。しかし、倭奴國と奴國を切り離せたようには思えます。しかし、切り離したからと言って、漢倭奴國⇒(倭)奴國⇒伊都國の関係が壊れるわけではありません。奴國を(倭)奴國とすれば良いだけです。

さて、百余国中の一つ、委奴國が成長して漢委奴國となった。その漢委奴國が成長して伊都國と呼ばれるようになった。そして、その伊都國がさらに成長して旧都部のみが従来どおり伊都國と呼ばれ続けられるようになった。無論、これは仮説です。そして、その仮説ついでにもう一つ、奴國は成長した大伊都國つまり(大倭)奴國であると。

 下に示した表.3aは、1章での仮説の成果である表.1bから得られた新たな成果です。そして、その成果とは、對馬國から伊都國までの戸数を合わせれば奴國の戸数となり、奴國の戸数と投馬國の戸数とを合わせれば邪馬壹國の戸数となることです。

- 表.3a -
對馬國 一大國 末盧國 不彌國 伊都國 奴國 投馬國 邪馬壹國
千餘戸 三千許家 四千餘戸 千餘家 千餘戸 萬餘戸 二萬餘戸 五萬餘戸 七萬餘戸
萬餘戸
二萬餘戸 七萬餘戸

 この表を見て感じることですが、奴国と邪馬台国は戸数の対応から一つの国としての名前ではなく、いわゆる連合あるいは連邦の国家としての名前のようにも受け取れます。また、伊都国には戸数の上で二つの顔があるようにも見えます。実は、伊都国に二つの顔を持たせることがここでの味噌なのです。

 ところで邪馬台国の謎の解き方、殆どの人が道程や方位のやり繰りで終始してしまい、戸数から謎を解こうとする人はあまりいないようです。しかし、邪馬台国の戸数7万戸はあるいは奴国の戸数2万と投馬国の戸数5万とを加えた数なのではないかという疑惑は誰もが抱くことではないだろうか。
 また、それ以外にも、記事中の戸数等の数に関しては、上の表.3aからも分かるように、8ヵ国の戸数のうち千、万という単位を除いた数の6以外は1から7まですべて揃えているありさまで、これは故意に揃えたのではないかというような非常に芳しくない評判もあるわけですから、もう少し戸数に目を遣っても良いのではないかと…
 しかし、それはさて置き、今度は表.3aを新たな仮説として、奴国を取り除くべくと言うよりも取り込むべく話を進めて参ります。そこで、奴国までの仮説図を先ず用意しましょう。

仮説図1

 さて、パズルを表や図形に直しますと非常に解き易くなります。無論、ある決まった形に整えるのですからいわゆる四捨五入といったようなことが起こります。四捨五入は数の場合は非常にすっきりとしたものになりますが、事象の場合は必ずしもそうはまいりません。例えば、四捨は余分の情報の切り捨て、五入は空白部を含む情報の取り込みとなります。
 切り捨ての場合は、何を捨てるかが分かりますから、無用のものを捨てれば何の問題も起こりません。しかし、取り込みの場合は問題が生じます。それは、空白の部分を持つ情報は決まった形に整えられて取り込まれるわけですから、その取り込まれる時点で、その情報は空白部を埋めるまでに拡大されるからです。拡大する場合、それを行う者の主観等が入り込みます。ここでの場合ですと私の主観、伊都国が拡大解釈されて取り込まれることになります。

 伊都国については、先ず倭奴国と書き換えが可能です。倭奴国というのは金印にもある漢の委奴国のことで、これは前回の冒頭でも述べた大和と同じで拡大が可能です。また、周知のように伊都国の戸数に関しては、魏志に千余戸とある一方で魏略には万余戸とあります。ただし、これを二者択一としたのでは何の進展も得られません。これもやはり前回の冒頭で述べたように拡大して取り込みます。
 では、どのようにして取り込むか、その形を先ず決めなくてはなりません。しかし、これは以外とも言えるほど簡単なことです。それは既に述べているように、奴国の2万と投馬国の5万とを加えれば邪馬台国の7万になるという手順の形です。これがここでのパズルのピースの形なのです。そして、これを発展させて簡単な図として示しますと下のようになります。

- パズル邪馬壹國のピース、パズル奴國のピース 【table図.3a】-
對馬国から伊都国までの総戸数 1万 奴国 2万 邪馬台国 7万
?国 1万
  投馬国 5万

 そしてこの図の ?国 を指定すればいいわけです。そして、幸いというよりも、「魏略逸文」に伊都国の戸数を1万とする記事がある事を知っていたためにこうした拡大が出来たというわけです。
 さて、図.3aでは伊都国の総戸数を1万1千とし、これを旧都部と新都部とに振り分けてそれぞれの戸数を1千戸と1万戸としました。また、奴国を拡大伊都国の意味をこめて大倭奴国としました。無論、そうすることで伊都国が倭奴国や奴国であるという証明が必要となってはきます。しかし、そうではあるが、ここで見方を少し変えれば逆に伊都国が倭奴国や奴国であるという証明がこれによって出来たと言えなくもないのです。

仮説図2

 この図は、伊都國を拡大解釈した以外は、「魏志倭人伝」に載る戸数の合計が任意の数になる毎に順次囲い込んでいっただけのものです。この図は基本的には上のtable図.3aと同じものですが、こうしてみると邪馬壹国の構造やその成長過程が驚くほどよく映し出されてもいる事に気付くと思います。ただし、今度は邪馬台国と伊都国が同じ国とした場合でのことではあります。しかし、その説明は後程にまわすこととして、ここでは、これまで述べたことがそれほどの見当違いではないことを先ずこの図を用いて説明しておきましょう。

  1. このaの段階は、伊都國が周辺の集落国家を吸収し膨張を始めた時期。なお、戸数の1万1千余は女王国の時代のもので、当時の戸数は旧都部伊都国を除いて数千程度と思われます。しかし、對馬国から不彌国までの4ヵ国の総戸数も当時は数千程度と思われますから、伊都国がそれらの国々を傘下に収めるのは時間の問題でしかなかったでしょう。年代としては紀元前から中元二年(57年)までということでしょうか。この時期は単一の国としての成長途上の段階です。
  2. このbの段階は、中元二年(57年)の漢委奴國王の時代以降に当たります。近隣諸国を傘下に置き、大陸との交易の独占を確立した時期とできるでしょう。なお、図中の四ヶ国は「倭人伝」時期における当時の国数です。従って、実際にはもっと多かったかもしれません。これはaの段階でもそうであったということですが、漢委奴國がいわゆる連邦制あるいは連合制をとっていた場合、あるいはずっと同じ国数であったかもしれません。年代としては、中元二年(57年)から永初元年(107年)までといったところでしょうか。
  3. このcの段階は、永初元年(107年)の倭國王帥升の時代から倭国大乱を経た、「倭人伝」における当時、景初2年(238年)からの邪馬壹國の二女王の代まで、ということになります。

 なお、図中記載の戸数はすべて女王国の時代のものとなります。また、少し付け加えますと、狗奴國は倭國王帥升の時代に倭国編入され、大乱後に倭国より離反したとも考えられます。なお、後漢代の漢委奴國はいわゆる倭人国で、後世で言う倭国とは少しニュアンスが違います。またaの段階での倭奴国は拡大第一段階目の伊都国という意味です。

 ところで、図中より得られえる邪馬壹國の構造、何かに似ているとは思いませんか。そう、江戸時代の幕藩体制によく似ているのです。たとえば、伊都國が将軍家、對馬國から不彌國までの四ヶ国が親藩あるいは譜代、投馬國が外様、そして邪馬壹國が天皇家というふうに順次置き換えが可能です。ただし、伊都國と邪馬壹國との関係は同族となります。
 なぜなら、この図が示しているのは、邪馬壹國は伊都國つまり倭奴國の成長過程での節目の一つの呼び名に過ぎないということだからです。創造をたくましくするならば、あるいは「ヤマタイコク」は邪馬壹國ではなく、邪馬大倭奴國と表記されていた可能性も見えてくるのです。また、奴國は、倭奴國の中枢部を伊都國と呼んだために倭奴國あるいは伊都國とは別の国と誤解され「倭人伝」に付け加えられたものという風にも解釈が出来るのです。

 こうしてみますと、邪馬台国の変遷が大和の変遷と非常に良く似ていることが分かります。ただ違うのは、大和が一貫して大和であったのに対し邪馬台国の場合は倭奴国から伊都国へと、そして邪馬台国へと名前の変遷があったようにも見えることです。しかし、伊都は倭奴とも表記出来、大和の初期の表記は大倭なのですから、あるいは「倭人伝」の編纂過程での不手際によるものともできそうです。
 これは初回でも述べたことですが、「魏志倭人伝」は陳寿の「倭人伝」だということです。それが正確であるかどうかは、偏に陳寿が資料をどれだけ正確に集めたか、そしてそれをどれだけ正確に用いたかどうかにかかっています。ただ、個人として思うことですが、こうした図やパズルのピースが得られるということは、陳寿の「倭人伝」は別として、邪馬壹國にかんする情報の多くは「魏略逸文」等をも含めて正確に魏に伝えられているということであり、「倭人伝」の記事部品としての価値は高いといわねばなりません。

お定まりのメニュー。(どうせこの世は損なものc10 社会と笑い)

 これは歴史ブログの合間に入れるべく書いたものですが、投稿の折りもなく今日に到ってしまいました。歴史ブログは斑鳩東方朔が担当ですので、東方朔のボヤキをうけての六無斎の更なるボヤキということになります。
 内容は陰陽五行思想の拡大解釈を行っていますので少し説明をしておきます。暇な方はお読みください。

 五行では西は「金行」で、西に行くことを「金行」を行うと言います。「金行」を行うと五行相生の「金生水」が成立します。そうすると水は陰性で女性を表わし、金は宝をも表わしますからこれを綺麗な嫁さんというふうに読み解きます。
 また、南は「火行」でこれを行うと「火生土」が成立します。土は国土を意味し、火は麗をも意味しますからこれは立派な国土というふうに読み解けます。
 また、北は「水行」でこれを行うと「水生木」が成立します。水は湿気、木は気でもありますからこれは湿っけた気で病気を意味することになります。
 また、東は「木行」でこれを行うと「木生火」が成立します。これは正に木に火が付いたということです。

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「陰陽五行寓話少々冗長の感があったとは思いますが、まだまだ続きます。が、ここいらで少しかいつまんで申しますと、西に行けば綺麗な嫁さんがもらえ、南に行けば立派な国が得られ、北に行けば湿っけてカビが生えて病気になり、東に行けば薪をしょわされカチカチ山の狸にされるというのが陰陽五行寓話の御定まりのメニューなのでございます」

「ところで、私東方朔は漢の都を離れはるばるとこの東の地にやってまいりましたが、五行の御定まりのメニューの一つというのでございましょうか、東にへと行ったばっかりに、アベノミクス増税インフレ、私の懐はカチカチ山の狸でございます 」

 東方朔の言葉を借りるまでもないことでございますが、増税・インフレ・生活苦、この三つはアベノミクスのお定まりのメニューなのかもしれません。
 どうやら、アベノミクス三本の矢、貧乏人の懐に深く刺さったようでございます。それとも、見るだけ損、言うだけ損、聞くだけ損のネット社会の三つの損を信奉する秘密結社〝スリー損損〟の仕組んだことなのでございましょうか。
 貧乏人には辛い東の国の話でございます。

・∙∙∙∙∙∙ ♬ ∙∙∙∙∙∙・

皆様、
茶店の勘定は全て他人に押し付ける皆様、御定まりの祈りのメニューが回ってまいりました。今日はスリー損損平成音頭でまいりましょう。

 皆の衆 皆の衆
  どうせこの世は損なもの
   損じゃないかエー 皆の衆 ソン ソン

結構でございました。

§46.都と寺。

 大官大寺の出発点を示しているかもしれない吉備池廃寺という道標からは随分と離れてしまいました。しかし、吉備池廃寺からの降り道がはっきりとしない以上、この道標からは離れ、藤原京大官大寺から遡るのが順当ということになります。それに、今のところと言うより、おそらくこれからも吉備池廃寺を大官大寺の最初とする見方は変わらないものと思います。
 そうしますと、藤原京大官大寺から吉備池廃寺へどのような流れが模索できるかということになるのですが、前回、川原寺を高市大寺に、法隆寺を天武紀大官大寺に想定しています。つまり、時間の流れは逆になりますが、大官大寺⇒川原寺⇒法隆寺⇒吉備池廃寺という流れが可能かどうかを模索すればいいことになります。またそうすることが、川原寺即ち高市大寺という流れにもつながることになります。

川原寺と南滋賀廃寺

 さて、大官大寺⇒川原寺⇒法隆寺⇒吉備池廃寺という流れ、実はこのままでは川原寺までしか遡ることは出来ません。そこで、これを先ず次のように書き表してみましょう。

- 表.46a 都と寺 -
藤原京 飛鳥京 近江京 ?₁ X₂ ?₃ X₃
大官大寺 川原寺 X₁ ?₂ 法隆寺 ?₄ 吉備池廃寺

 こうすると、少なくとも近江までは遡れそうに見えます。また、それより先は『日本書紀』に頼れば、天智の倭京、斉明の後の飛鳥京へと続きはしますが、残念ながらこれらの都にかかわる寺が『日本書紀』からは見つかりません。従って、近江までを先ず確保することから始めることになります。
 と言うのも、実はこの川原寺そっくりな寺が壬申の乱の舞台である近江大津宮の地に当時あったからです。しかも、造高市大寺司の任命が壬申の乱の翌年から始まっているとすれば、高市の地に先代の都大津京ゆかりのこの寺を移すのは正に当を得た行為ということにもなります。そして、その寺が表.46aのX₁ということになります。
 さて、その寺ですが、その寺は南滋賀廃寺と普通呼ばれています。下図の左端がそれです。下は、ニューサイエンス社発行の考古学ライブラリー27・林 博通 著『大津京』からのものです。

 なお、川原寺そっくりとは言いましたが、正確には西金堂の向きが違っているのです。川原寺の西金堂は東塔と向かいあっていますが、南滋賀廃寺の場合は塔を東にして南正面を向いているのです。しかし、このことがこの説に不都合を招くということにはなりません。と言うのも、この塔を東にあるいは西にして南正面を向く金堂は斑鳩の寺には普通に見られるものだからです。たとえば、法隆寺法輪寺法起寺がそれに当たります。つまりこれは斑鳩の特徴とも呼べるものなのです。
 そこで、右端の図にも目をやって下さい。これは穴太廃寺と呼ばれている大津京時代の古代寺院の発掘及び推定伽藍は位置図です。この再建穴太廃寺がやはり南滋賀廃寺と同じように塔を東にして南正面を向いているのです。しかも、再建穴太廃寺の場合は、本来塔と金堂とが向かい合っていた創建穴太廃寺をわざわざ西金堂が南正面を向くように作りなおしてもいるのです。正に、斑鳩の勢力が大津に押し寄せて来たといった景観ではないだろうか。
 それにしても、この二つの寺院は大津京時代の有力寺院のはずなのですが、なぜか名前さえ残されてはいません。また、大津京を単純に天智の時代と『日本書紀』も今日も主張していますが、このような寺院の名前が天智の時代に出てこないということを少しは考慮し、さらには既成の定説を考え直さなくなくてはならないという風に考えなくてはならないのではないだろうか。

 思えば随分と昔のことになります。私は図.46aの穴太廃寺の創建と再建の二つの伽藍図をここでの参考図書『大津京』の中に見い出した時、これは法隆寺そっくりだと感じたことを今日のように覚えています。また、もし法隆寺金堂薬師如来像光背銘にあるように東宮聖王が法隆寺を再建したのであれば、この東宮聖王が小治田大王天皇を推戴して大津に遷都したのではないかと、今日までずっとそう思ってきてもいます。そしてそうなれば、表.46aの?₁は必要のない都の時代となるのではないかと。
 無論、それでは『日本書紀』とは合致しなくなります。『日本書紀』では、?₁は斉明の倭古京の時代となるのですから。また、?₂は川原寺の可能性もあります。しかし、天智が母斉明を奉っての難波宮から倭古京への帰還、これは東宮聖王が小治田大王を奉っての近江大津への遷都と、そして近江大津から倭飛鳥への帰還とに非常によく似ているのです。無論、前者は『日本書紀』に載る話の筋、後者は素人の創造に過ぎませんが。しかし、天智と寺の話しは『日本書紀』には殆どないようにも見えます。私は、天智は仏徒ではないと思っています。無論、これも素人の考えですが。

都と寺

思うに、都が移れば寺も移る。藤原の都から奈良の都への時がそうでした。では、飛鳥の都から藤原の都への場合はどうだったろうか。藤原の都には大官大寺があります。この大寺はどこからか移されたものだとされています。やはり、藤原の都でも寺は移されています。では、大津の都から飛鳥の都へ移る時、寺は移されたのだろうか。もし移されたのだとすれば、それはどの寺なのだろうか。
 思うにそれは川原寺ということになりはすまいか。そして、もしそうだとすれば大津の都から移された川原寺はやはりどこからか大津の都に移された寺ということになるのではないだろうか。

 川原寺は孝徳紀白雉4年(653)にその名前が既に載っています。また、天武紀2年(673)3月にも、一切経の書写が初めて行われた寺としてその名が記されています。従って、天武紀2年の12月から造営が始まったとされる高市大寺に川原寺を当てはめる自説はあるいは無理というものかもしれません。
 しかし、今日では川原寺は斉明天皇の川原宮の後に建てられた寺という風に考えられています。そうしますと、白雉4年の川原寺の記事は少々おかしいということになります。しかも、この記事には山田寺の可能性もあるとする分注がついてもいるのです。また、天武2年の川原寺での一切経の書写の記事にしても、天武紀を注意深く読んでみると、なんとも不可解なことに天武4年の10月に四方に使いを遣わして一切経を捜し求めたとする記事が載っているのです。
 そもそも一切経の書写をさせておいてから、その後2年近くも経ってから一切経を探すというのはどう見ても順序が逆で腑に落ちません。無論、一切経は非常に幅の広い経典ですから、あるいは注釈書関係を探させたとも考えられます。しかし、腑に落ちないのはそれだけではないのです。そもそも川原寺で一切経の書写をさせたとしながら、奇妙なことに天武6年8月には川原寺ではなくて飛鳥寺一切経を読ませたとする記事が載せられているのです。

川原寺は天智の勅願寺ではない

 何とはなく、自説に都合の悪い記事への非難口調となってしまったような気もいたしますが、続けますと。
 ところで、一切経の記事は『日本書紀』の中では孝徳紀の白雉年間に一度と天武紀での三度との合わせて四度だけしか載っていません。また、川原寺の記事にしても白雉年間に一度と天武年間に八度だけの全部合わせても九度しかありません。それに天武年間の場合は天武14年より前に限れば、川原寺の記事は一切経を写したという記事以外には見当たりません。つまり、『日本書紀』に於ける川原寺の記事は、天武が重病に陥ってからの記事がほとんどだとさえ言えるのです。
 これは自説と言うよりも、想像なのですが、天武は近江大津宮で死去した母斉明を飛鳥の川原の宮で殯をした後その宮を寺とした。これが川原寺ではないのかと。つまり川原寺は天武の勅願寺であると。なお、『日本書紀』には、天智が九州で死去した斉明を11月7日に飛鳥の川原に殯したとする記事があります。そして、この記事が今日の川原寺は天智の勅願寺という定説を生み出す基となっています。
 しかし、そうした定説とは裏腹に、天智10年(671)に天皇が病気に陥った時、川原寺でも南滋賀廃寺でも天智天皇に対しての病気平癒の祈願も祈りも行われてはいません。ただ、内裏での百体の仏像の開眼供のあったことと、天皇飛鳥寺に珍宝を奉らせたという記事があるのみです。思うにこれはおかしい。そもそも飛鳥寺勅願寺ではない。これでは天智の時代には、勅願寺も天智自身の勅願寺もなかったことになります。それとも寺は未だ完成していなかったと言うのだろうか。

 ところで、臨川選書・森 郁夫著『瓦と古代寺院』によれば近江の南滋賀廃寺や崇福寺の軒瓦には川原寺系統のものが使われていたそうです。当然このことは定説に有利に働くのですが、森郁夫氏は同書の中で川原寺と法隆寺の瓦について次のように述べています。なお、引用最初のこの寺というのは川原寺のことです。

この寺の創建時の軒瓦は大ぶりで、複弁八弁蓮華文軒丸瓦と四重弧文軒平瓦が組み合ったものである。蓮弁は強く反転した仏像の蓮華座を思わせる。蓮弁の周囲には面違い鋸歯文がめぐらされる。大きく作られた中房には写実的な蓮子がおかれる。法隆寺西院といい、七世紀後半に期せずして大ぶりな瓦当面に複弁蓮華文を飾る軒丸瓦が作られることになった。そして両寺ともに、それぞれの系統のものが各地に分布している。法隆寺式の瓦が西国に分布圏があるのに対し、川原寺の瓦は東国の方に多く見受けられる。

 思うに、川原寺は文献上も考古学上も近江に結びつきます。そして更には斑鳩に結びつくということです。そしてそうなると、川原寺は天智には結びつかないことになります。なぜなら、天智は斑鳩には結びつかないからです。なぜなら、そもそも『日本書紀』は天智9年(670)つまり天智の亡くなる前の年に法隆寺が焼亡したとしてるからです。これは正に天智を法隆寺西院ではなく若草伽藍に結び付けていることを示しているのです。
 ここで、ちょっとした計算をしてみましょう。定説によれば川原寺は斉明の死後の662年頃より造営が始まったことになります。また、近江遷都の準備としての南滋賀廃寺や崇福寺の造営も近近始まると考えなくてはなりません。普通、寺院が完成するのに20年前後かかると言われています。ただ、官寺の場合はもう少し短いとは思います。例えば、藤原京大官大寺大宝元年(701)より造営が始まり、10年後の711年焼亡の時には塔の基壇外装や中門等が未だ完成していなかっただけと言われています。また、薬師寺の場合は藤原京の条坊に則っていますから、天皇が京内で宮室を定めたとする天武13年(684)の3月9日以降の造営と考えられます。そして、文武2年(698)に衆僧を住まわせたとする記事のあることから凡その完成までに10年といったところでしょうか。
 そこで、川原寺や南滋賀廃寺の完成に十年程度を要したとしてみましょう。そうするとこれらの寺は672、3年前後の完成ということになります。この時期は丁度天武2年(673)の川原寺での一切経の書写や造高市大寺司の任命の時期と相前後します。無論、これだと当然天智の時期には寺は完成していなかったことになります。しかし、薬師寺の場合はほぼ完成の10年前の持統2年(688)には無遮大会が行われています。つまり寺は完成していなくとも大事な行事は行えるということです。 ── どうやら、天智と川原寺との間には何のかかわりもないということのようです。
 ところで、670年焼亡の法隆寺ですが、前回法隆寺所蔵観世音菩薩造像記銅版に記された造像銘のなかに鵤大寺の名前があることを紹介しています。また銘文には、これが造られたのが甲午の年とあることから、この年を持統8年(694)としました。そうなると再建法隆寺は少なくともこの年より十数年前には造営が始まっているということになります。そしてその十数年前とは、実は高市大寺の造営開始時期と重なるのです。

斑鳩文化圏

 さて、定説に従って関連寺々の造営開始時期を推し測ってみました。すると、川原寺と南滋賀廃寺との造営がほぼ同時期に、そして法隆寺高市大寺の造営もまた同時期にそれぞれ開始されたことになるようです。また、川原寺と南滋賀廃寺との瓦が同系統の瓦であることから、これはほぼ確かなことのようにも見えるのですが、法隆寺高市大寺との瓦に関しては必ずしもそうとは言えないようです。
 と言うのも、先ほど高市大寺の瓦は川原寺系統の可能性があると述べましたが、川原寺系統は大ぶりという点では法隆寺の瓦と一致していますが、文様は全く違った系統となります。また、この時期、法隆寺系統の瓦は高市には殆ど見られず、飛鳥においては全くないとも言われています。
 ところで、森郁夫氏はその著『瓦と古代寺院』の中で法隆寺系統の瓦を斑鳩文化圏の瓦だと述べています。

♪.昭和は遠くなりにけり。

 江戸に三代住めば立派な江戸っ子だそうですが、私はこのブログで三回目です。そうしますと、私も立派なブログっ子ということになるわけですかな。
 しかし、立派な江戸っ子にしろブログっ子にしろ老いぼれては立つの落とし子ならぬ立たないお年寄り子というわけですな-。つまらんことですな-
 チョット、チンポイ放送でも聞いてみますか。確か、葛城山彦と御隠居さんとの話が始まっていると思いますが。

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「葛城村に住んで、私で三代目」
「私もそろそろ立派な葛城村っ子ということになります」

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「ホウ、もうそんなになるのかのう」
「ワシなんぞ何代目になのるか、数えたこともないがのう」
「なにせ、こんな村では何代住もうと田舎っぺであることに変わりはないけにのう」
「そうそう昔の事じゃが、確か、よそへ行くぞう とかなんとかいう名の歌手が、オラこんな村イヤだとか歌っておったが」
「思うに、あの頃のワシも よそへ行くぞう じゃったかいのう」

「うーん、それが何で未だ葛城村に住んでいるのかって」
「うん、それはのう、これも随分と昔のことじゃが」
「あれは暑い暑い夏の日のことじゃったが、ほれ落語家に三遊亭円楽という人がおるじゃろ」
「その三遊亭円楽師匠がこの村に来たことがあったんじゃよ」
「いやいや、今の黒円楽師匠ではなく、先代の円楽さんのことじゃよ」
「それにしても今の円楽師匠は色が黒いのう、なんでも腹はもっと黒いとか」

「何、腹が黒いとどうなるかて」
「うーん、そうよのう腹は黒うても頭の中は真っ白つう奴も居るけにのう」
「それに、俗に背に腹はかえられんとも言うが」
「もしかしたら黒円楽師匠の場合、かえられるぐらい背中も黒いんとちがうんやろか」

「マア、それはともかくとしてじゃ」
「先代の円楽師匠がこの村に来たんじゃよ」
「ただのう、来てくれたのは好いんじゃが、師匠ときたら江戸っ子の自慢ばかりするんでのう」
「そいでワシャ次のように言い返してやったでナアー」
「円楽さんヨウ、江戸っ子の自慢ばかりしとるがのう、落語に出てくる江戸っ子は与太郎から始めて隠居までみんな馬鹿ばっかりとちがうんけ」
「と、まあそんなふうにな」
「そしたら円楽師匠、扇子で頭をピシャリとやり、イヤまいりましたと言って汗を拭き拭き帰って行きおった」
「引き時を心得た立派な御仁じゃったが,良い後継者には恵まれなかったかのう…」

「マア、それはそれとしてじゃ」
「あの日は本当に暑い日じゃった」
「確か、あの頃の葛城村には朝に一往復、夕に一往復のバスの便があっただけでのう」
「円楽師匠、バス停で何時間もまっとったんじゃなかろうかのう」
「それにつけて思うことじゃが、円楽さんが色の黒い楽太郎に跡を継がせたのは葛城村での出来事を戒めとするためじゃなかったかのうとなあ」
「なにせ、バス停で何時間もまっとったら日焼けして真っ黒になってしまうけのう」
「本当にあの日は暑い日じゃったきに」

「アッそうじゃ、与太郎と言えば『与太郎戦記』の春風亭柳昇師匠がおったけのう」
「ワシャ子供の頃この師匠が とんち教室 つう番組でとちるのをよう聞いとったが」
「アリャ、でっぱなの決まり文句の自己紹介でもうとちっておったがのう」
「なんでも 元へ とか何とか言ってやり直しておったが、ワシャ未だにこの御仁がなんで とんち教室 に出とったんかがよう分からん」
「なにせあの頃 とんち と言えば一休さんしか思い出さんかったきに」
「そいでもって とんち教室 とくれば一休さんみたいなのばっかりの集まりと思うとったきに」

「そうそう、一休さんといえば桂歌丸師匠の頭が一休さんみたいやったかのう」
「なんやて、頭の一休さん林家木久扇やて」
「あんなあー、林家木久扇師匠の頭は一休やのうて全休や」
「あの御仁の頭の中はなあラーメンのようにこんがらかってて、ところどころにナルトが渦を巻いとるつう話や」
「それにしてもお前はん昇天を見とるんやのう」
「なに、昇天やのうて笑点やろて」
「あんなあー、春風亭昇太師匠様が司会をおやらりりになられれるようになりりましててからはのう、笑点ではのうて昇天におななりにならられたんでございまっせ」
「そこでじゃ、ちょっとしたとんち教室なんじゃが」
「昇太の太の字じゃが、これは大の字に点じゃ、点は天じゃからこれを上に持ってくると太の字が天の字になる」
「ほいでもって、昇太が昇天になるちゅうわけよ」

「なんでも昇太さんを司会者に推したのは歌丸師匠ということなんじゃが」
「やっぱ、歌丸師匠は一休さんじゃたんじゃのう」
「その歌丸師匠もつい最近なくなられたそうじゃが、正に大昇天じゃったということかのう」
「思うに、歌丸さんが後任の司会者に黒円楽ではなく昇太を推したのは、黒円楽に真人間になってもらって昇天させてやろうという歌丸さんの親心だったんじゃろのう」
「うん、まあな、というのは表向きの話じゃが」
「実際は、円楽さんが政治批判をやるのが司会者として不都合じゃったんじゃろう」
「それに円楽が司会をやったんでは政治批判で答える者がおらんようになるでなあー」
歌丸さんとしては政治批判も大事じゃったんじゃろ、現に円楽さんの政治批判にはいつも座布団をやっとたでな」
「落語だけでは世の中良くならん、政治批判が大切、歌丸さんはそう思っとったんじゃろな」

「さて、その歌丸さんも死んでしまいおった」
「昭和はますます遠退くのう」
「来年には年号(元号)が変わるそうじゃが、これでワシも昭和、平成、そして次の年号と年号を三代生きることになるのじゃが、年号三代を生きると何っ子になるんけのう」
「年号っ子かそれとも元号っ子か、どっちかのう」
元号っ子 じゃと元興寺(がんごうじ)にちかくなるんじゃが」
「がんごうじ つうのは、ワシらが子供の頃のお化けのことで確か がんごうじ ではなくがんごうち と言っておったかナァー」
「マア、いずれにしてもお化けのことなんじゃが、やっぱお化けになるんかのう」

「何、それよりも葛城村にずっと住んどる訳はどうなっているのかって」
「そうじゃじゃのう、あれも暑い暑い夏の日のことじゃった」
「ワシャ東京までの運賃を持ってバス停でまっとった」
「なんせ前の夜は熱帯夜でのう、なかなか寝つけんかったんじゃ、そいで朝のバスに乗り遅れたんじゃよ」
「なにせ、暑い暑い夏の日の昼下がりのことじゃ、待っとるだけで喉が渇いてしもうた」
「そいでなんか飲もうと思って、バス停の向かいの駄菓子屋に行ったんじゃよ」
「そしたら、キャリーピャムピャムちゃんがサイダー飲んどる看板がかかっておった」
「それにしても、キャリーちゃんはいつ見ても可愛いのう」

「うん、マアそいでもってじゃ、サイダーを飲もうと思って店の戸を開けたんじゃよ」
「そしたら涼しい空気と一緒に守屋浩の歌が聞こえてきおった」
「ここの婆さんは守屋浩の大ファンでなあ、朝から晩まで守屋浩の歌ばかりをかけとるんじゃよ」
「戸を閉めてお婆って呼ぶと、有難や有難や の歌に合わせてお婆が仏頂面さげて出てきおった」
「そいで、サイダーくれと言おうとした時、守屋浩と本間千代子が美味しそうにビールを飲んどるポスターが目に入ったんじゃよ」
「で、ビールくれって言ってしもうたんじゃ」
「その頃のビールは高かったんじゃが、お婆が栓を開けるのも早かった」
「グラスにビールがとくとくと注がれ、こぼれんばかりにグラスに泡が盛り上がっていきおった」
「生唾と一緒にそいつを一気に飲み干すと、体中の毛穴から汗が吹き飛んでいった」
「その時じゃ、守屋浩の 泣いちっち の歌が聞こえたんじゃよ」
「僕も行こうあの娘の住んでる東京へ という歌がな」

「その時、ワシャ何もかも分かってしもうたんじゃよ」
「東京には何も無いということがな」
「東京にはワシを待っていてくれるあの娘もいなければ、キャリーちゃんもいない」
「この村と同じじゃとな」
「そいでワシャ決心したんじゃ」
「この村で がんごうち になろうとな、三遊亭小遊三になろうとな」

「なんで三遊亭小遊三かて」
「実はな、小遊三師匠とはその昔自動販売機の下で百円を争うた仲なんじゃよ」
「それにしても、最近の自動販売機の下、百円玉はおろか十円玉も落ちとらん」
「ほんに、昭和は遠くなりにけりやなあ」

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 皆様。自動販売機の下で百円を拾えなかった皆様、
せめて例の呪文を拾いましょう。

 けっこうけだらけ ねこはいだらけ
        チチンプイプイ たむろっど

結構でございました。