古代雑記

一億分の一の検証  昭和枯れ芒、素人のつぶやき。

大王の系譜を篩う。太安万侶の道標、その24。

 すべての物事を陰陽的に捉える。これは決して好ましい態度ではありません。しかし、小さな砂粒にさえ影があるように、物事は意外なほど陰陽的に出来ています。
 さて、陰陽は捉えかたによっては相反するものが同時に存在して一見矛盾しているように見えます。継体を陰陽に分けたのも、継体紀がその名とは裏腹に、分注の内容から断絶しているようにも読めたからです。もし、継体紀をその名通りの継体紀にしたいなら、継体紀を継体紀の後に持ってこなくてはなりません。そうすると、継体紀は辛亥年(531)を境として、前半分が断絶紀に、後半分が継体紀となります。これを時系列の表として示すと次のようになります。

  亥年  
断絶紀 継体紀
雄略紀 清寧紀 安閑紀 宣化紀 欽明紀
  武烈紀 顕宗紀 仁賢紀  
大仙陵古墳 大塚山古墳

 少し説明を加えますと、継体紀を継体紀の後ろに持ってきたわけですから当然安閑紀と重なります。また、顕宗・仁賢は断絶王朝を引き継いだいわゆる継体王朝の始祖ですから、これも此処に重なります。次に、継体王朝の前に位置するのは断絶王朝ということになりますから、此処には断絶した王朝が重なることになります。清寧や武烈は断絶した王朝ですから当然此処に重なります。そして、これを表として書き示したのが上の表です。ただし、重ねたままでは書き表わせません。そこで、これを並列に改めて書き表し、上の表としました。
 さて、この表から何が言えるのかというよりも何が言いたいのかということになるのですが、実は「記紀」には設計図があるということです。ここでの場合は『日本書紀』となりますが。例えば、前回は継体が陰陽に分かれ、今回は継体紀が陰陽に分かれました。そして531年を境として断絶王朝とそれを引き継ぐ王朝、ここでは継体王朝と呼んでいますが、それらが上の表のように整理が出来るという事実です。22章では、継体紀の最後の分注を安万呂の道標と呼びましたが、実はこの道標は「記紀」の設計図、私が安万呂の遺産と呼んでいるものへと導くためのものなのです。
 本来、「太安万侶の道標」は拙稿「太安万侶の遺産 記紀の設計図」の補助編として書き始めたものです。拙稿もいずれこのブログで披露することになります。それで、ここでは「記紀」の設計図についての説明は省きますが、上の表のようなことが他でも起こるということを示しておきましょう。そこで、上の表については一度伏せてください。

大王の篩、大王墓と日本書紀

 前章と前々章とで大仙陵古墳の次に来る大王墓を河内大塚山古墳とし、さらにその次を見瀬丸山古墳としました。また、大仙陵と大塚山古墳の被葬者として、前者には清寧と雄略を、後者には顕宗と仁賢を挙げました。丸山古墳の被葬者については未だですので、ここでおおよその目鼻を付けておきましょう。
 これまでの流れ(継体を清寧に宛がったと思います)から、先ず思いつくのが安閑と宣化でしょうか。誰もが知るように、丸山古墳の石室には二つの石棺が安置されています。また、この二つの石棺については、奥にあるほうが新しく、羨道口にあるほうが古いということが分かっています。横穴式石室の場合、単純に考えれば、奥の新しい石棺に眠っているのが弟で出口近くの古い石棺に眠っているのが兄ということになります。そういう意味では安閑と宣化は最適となります。しかし、この墳墳は安万呂の道標では常に上宮法皇の陵墓となっています。ただ、この古墳の地は檜隈と呼ばれていることから、被葬者の一方を檜隈天皇つまり宣化とすることは可能かもしれません。
 残念ながらこれ以上は煮詰め切れませんので、とりあえずこれまでのことを少しまとめて表にしてみましょう。下のようになります。なお、丸山古墳には宣化と上宮法皇ということなのですが、『日本書紀』では宣化の次は欽明ですので欽明とします。また、上宮法皇の治世は推古朝の途中までということでもあり、推古朝は残しています。

大仙陵 大塚山古墳 丸山古墳
雄略 清寧 顕宗 仁賢 武烈 継体 安閑 宣化 欽明 敏達 用明 崇峻 推古
雄略・清寧朝 顕宗・仁賢朝 宣化・欽明朝

 上の表を見ていますと、と言うよりも大王墓の数を限ってしまったのですから、大王の方が余ってしまうのは当然と言えば当然なのですが、とにもかくにも大王も篩い落とさなくてはならないようです。篩い落とすのはaとbの箇所の6名です。先ず、答えの出せそうなbから始めてみましょう。
 なお、答えが出せそうというのは、16章でも述べたことですが、用明天皇のために作られた法隆寺金堂薬師如来像の光背の銘文中の造像紀年干支丁卯年を667年とする考えに立つことでこれが解決できるからです。さて、今日、この像が実際に作られた時期は、彫刻様式や銘文の書風等から7世紀後半以降と考えられています。つまり、この銘文は事実を告げているということです。そもそも丁卯の歳をを607年とすることの方が間違いなのです。607年は『隋書』の阿毎多利思比孤の世であって、推古の御世ではありません。
 思うに、『日本書紀』の最大の欠陥は、神武東征譚や欠史八代等の有ることではなく、『宋書』や『隋書』から大きく逸脱していることにあります。神武東征や欠史八代は歴史や考古学には何の影響も与えません。しかし、『宋書』以降の『日本書紀』の編年は考古学遺物の編年にも影響を与えるもので、その不正確さは古墳や寺院の編年の致命傷となりかねません。例えば、法隆寺の再建か非再建かをめぐって歴史界を二分する論争を巻き起こしたのは、天智9年(670)に法隆寺は一屋余すところなく焼失したという記事が『日本書紀』に載っていたためです。
 現在、焼失したのは現法隆寺ではなくその前身伽藍、いわゆる「若草伽藍」であることが発掘調査に拠り判明しています。しかし、この記事がなぜ天智紀に載っているかについては誰も問題とはしていません。素人目にすれば、この記事に対しての結論は一つしかありません。それは、焼失したのが法隆寺の前身伽藍だとすれば、天智紀が指しているのはこの伽藍ということになります。したがって、この記事は我々に、天智紀をその時期に移動させるかさもなくば天智紀を抹消するかのいずれかを迫っているのだということです。そして、いずれを選んだにせよこの箇所には天智紀ではなく、別の何かが入ることになる他はないのです。つまり、この箇所には、法隆寺金堂薬師如来像光背銘が入るのです。
 そうなると、薬師如来像光背銘にある用明天皇の崩年干支と思われる丙午年は646年となり、少なくとも用明の兄弟、敏達以下の三代は干支を一巡引き下げることが可能となってきます。三代の行き先は、敏達が舒明へ、用明は皇極へ、崇峻は孝徳へとそれぞれが移ることになります。そして、推古の後半は船氏王後の墓誌に載る等由羅宮治天下天皇の御世となり、同墓誌に載る乎沙陁宮治天下天皇は上宮法皇かつ阿毎多利思比孤かつ欽明ということになります。これらを表に纏めてみますと次のようになります。なお、背景色のある呼び名は金石文からのものです。

宣化 欽明 推古(豊浦) 舒明 皇極 孝徳 推古(小治田)



檜隈天皇
阿毎多利思比孤
志帰嶋天皇
乎沙陁天皇
上宮法皇


等由羅天皇


阿須迦天皇



池邊天皇
崇峻天皇
天智天皇




小治田天皇
~585? ~622 ~628 ~641 ~646 ~662 ~671

 上の表を、この場で直ちに是とする決め手も力量も私にはありませんが、これから述べることからある程度の賛同はいただけるのではないかと思います。
 舒明紀に敏達紀を宛がった場合、船氏王後墓誌の記事と敏達紀の船氏の逸話とが整合します。また、法隆寺金堂釈迦三尊像(623)以降、野中寺弥勒像(666)までの半世紀近く天皇のための造仏が行われていません。これも舒明を廃仏派の敏達と見做せば、整合が取れます。なお、孝徳に崇峻ばかりでなく天智も宛がわれていますが、孝徳紀は大化の改新の主役である天智と鎌足が拓いたというのが『紀』の主張と見ればこれもありうることだと思います。ただし、ここでは大化は孝徳の年号ではなく池辺天皇の年号となります。
 思うに、法興が上宮法皇仏教帰依を記念しての年号であったように、大化は用明天皇仏教帰依を記念しての年号と捉えた方がより自然ではないだろうか。また、用明が仏教帰依を記念して大化という年号を定めたのは、舒明朝が廃仏を行っていたこととかかわりがあるというのが私の考えで、以下これについて少し述べることにします。

船氏の道標

 京都府宇治市宇治東内の放生院、通称橋寺にある宇治橋断碑に次のような碑文が刻まれているます。

浼浼横流 其疾如箭 修々征人 停騎成市 欲赴重深 人馬亡命 従古至今 莫知航竿
世有釈子 名曰道登 出自山尻 慧満之家 大化二年 丙午之歳 搆立此橋 済度人畜
即因微善 爰発大願 結因此橋 成果彼岸 法界衆生 普同此願 夢裏空中 導其昔縁

以下続けて、学生社発行『古代日本 金石文の謎』 堀池春峰 宇治橋断碑よりの引用。

浼浼たる横流 その疾きこと箭の如し 修々たる征人 騎を停めて市を成す 重深に赴かんと欲して人馬命を亡なう 古より今に至るまで 航竿を知ることなし
世に釈子有り 名を道登と曰う 山尻慧満の家より出ず 大化二年 丙午の歳 この橋を搆立し 人畜を済度す
即ち微善に因り ここに大願を発し 因をこの橋に結び 果を彼岸に成す 法界衆生 あまねくこの願いを同じくし 夢裏空中 その昔縁を導かん

 断碑はその名前が示すように、上部三分の一ほど、背景色のある部分だけが残されていたものを江戸時代に下部を復元してつなぎ合わせたものです。したがって、復元された部分が原文通りであるかは分かりませんが、上部碑文に「道登」とあることから「大化二年 丙午之歳」の部分は元碑文に近いように思われます。と言うのも、道登は大化元年に沙門狛大法師等と共に十師に選ばれたと孝徳紀にあるからです。また、『日本霊異記』にも道登が大化2年の丙午に宇治橋を作ろうとしたともあります。
 碑文の内容から、この石碑は道登の宇治橋構築を記念してのものとも見えますが、宇治橋の構築は道照が最初とする説もあります。また、仏教的な見地からすれば、そもそも衆生を此岸から彼岸へと橋渡しをするのが僧尼の役割、そして、それを象徴する行為の一つが架橋であると。そう考えた場合、道登も大化も意味のないものになるのですが、碑分に記されている以上何らかの意味のあるものとする他はないようです。
 仮に、道登の追善供養のためのものとしても道登の命日の年の記載はなく、なぜ大化2年の丙午の歳だけが記されているのか。ただ、この年は法隆寺金堂薬師如来像光背銘から用明の崩年と捉えることが可能となります。それにしても、この石碑を誰がいつ建立したのか、碑文の内容から仏教とかかわりのある者が建立したことだけは確かなのですが… 私は道照が建立したのではないかと思っています。
 『続日本紀文武天皇4年の条に宇治橋は道照が作ったとあります。大化2年(646)と文武4年(700)では60年の開きがありますが、文武4年は道照が72歳で死亡した年ですから、道照が架橋したのはこれよりかは何十年も前のことでしょう。道照と道登の関係は分かりませんが、一つだけ共通点があります。それは高句麗です。敏達紀で高句麗の国書を読み解き褒賞された船史王辰爾と道照とは同じ船氏の一族なのです。一方道登は孝徳紀によれば、高句麗の故事を引いて白雉の出現が祥瑞であることを最初に進言したとあります。また『日本霊異記』には、道登は高麗の学生、つまり高句麗への留学僧だったともあります。
 高句麗が出たついでに、舒明紀と敏達紀の整合点を少し述べておきましょう。高句麗が半島経由でなく、直接日本海を渡って来日したと思われる時期があります。それは隋が高句麗遠征を始めた時期です。この時、新羅百済は隋に出兵の申し出をしていたのです。高句麗はこの事で新羅百済を憎み、隋滅亡後、新羅百済に報復の出兵をしています。この対立は高句麗百済が手を結ぶことになる642年まで続き、その間高句麗は日本との国交に日本海を直接渡るという方法を取っていたと思われます。高句麗の使者が越の海岸に漂着したという記事が欽明紀の末から敏達紀の初頭にかけて載っていますが、この記事は舒明紀に置き換えたほうが半島と日本の史実により近くなります。
 さて、道登の出た山尻(山城)には高句麗関係の地名が今日でも残っているように、この地は高句麗の使者が越の海岸に着いた後、近江を経て大和へ向かう道筋に当たり、しかも丁度大和の入り口にも当たる場所です。欽明紀ではここに高麗の館を建てたとあります。 高麗の館が何処にあったかは分かりませんが、おそらく木津川を渡る道筋近くにあったと思われます。そして、そこは当然船着場でもありますから、船氏の管轄場所でもあったはずです。道登が船氏である可能性は高いと言わねばなりません。また、船氏が作りあげた可能性もあります。一説では、船氏が『日本書紀』の編纂にかかわっているともされています。それは、皇極紀4年条に船史恵尺が蘇我蝦夷等が焼こうとした国記をいち早く取り出して、中大兄皇子に献るという記事があることからもうかがい知れます。船氏もまた道標を残しているのです。
 思うに、孝徳軽天皇と道登、文武軽天皇と道照。加えて大化と大宝。先帝の功を後帝が見習うことはよくあることですが、後帝の功を先帝が見習うということは普通あり得ないことであり不可能なことでもあります。しかし、大化の改新の詔は後の大宝律令を焼き鈍したものと見たほうが理解しやすく、ひいては孝徳紀そのものが文武紀の焼き鈍しとさえ言えなくもありません。そもそも、舒明紀に敏達紀を重ね合わせようなどと思ったのも孝徳紀と文武紀にそうした印象を抱いたからです。
 しかし、それならば大化は大宝の焼き鈍し、道登は道照の焼き鈍し、いやいっそ孝徳紀を文武紀の焼き鈍しとしてしまった方がいいのかも知れません。そもそも文武紀の位置には天智紀が入っていたはずなのですから。

王朝の入れ物、大王墓。太安万侶の道標、その23。

 道標は迷うことなく目的地に着くためのものです。そのためには先ず目的地をはっきりと決める必要があります。私の当面の目的地は見瀬丸山古墳です。そのためには、とにもかくにも河内大塚山古墳にたどり着く必要があります。そして、そのためには大仙陵から河内大塚山古墳までに存在する大王墓を篩い落とさなくてはなりません。

三つの古墳群

 発掘考古学というのは、掘り起こした泥を篩いにかける作業から始まるのだそうです。できれば私も『日本書紀』を篩いにかけてみたいのですが、素人の身そうも参りません。そこで、せめて古墳だけでも篩ってみることにしまた。
 前章では篩いの目に墳丘長300mを用いました。無論、これには賛同はいただけないかもしれません。なにせ、『日本書紀』に載る天皇は40を数え、その陵墓の数もまたそれに準じるのですから。しかし、それなら200mにすれば善いのかと言えば、実はこれでも未だ足りないのです。そもそも、全国で墳丘長200m以上の大規模古墳と呼ばれているものは34基ほどしかありません。すべての天皇に大規模古墳をあてがうのは所詮最初から無理な話ということなのです。
 では、どうするべきか。小規模な古墳をあてがうべきか。思うに、古墳時代の大王に小さな古墳をあてがって良しとするのは、古墳時代を遠ざかった者の賢しらではないだろうか。古代人が古墳をどのように捉えていたか、古墳の形の謂われさえ明らかにし得ない者に理解はできません。しかし、古代人が古墳造りにかけた多大の労力と情熱だけは、巨大古墳の前に立つ誰もが感じ取ることだとは思います。
 下の表は、全国の大規模古墳の中から、墳丘長300mを基準に上下を同数だけ揃えたものです。丁度、一位から14位までがそれに当たり、これをAとBとに書き分けました。

大仙古墳
誉田御廟山古墳
上石津ミサンザイ
造山古墳
河内大塚山古墳
見瀬丸山古墳
渋谷向山古墳
486
425
365
360
335
318
302






土師ニサンザイ
仲津山古墳
作山古墳
箸墓古墳
五社神古墳
ウワナベ古墳
市庭古墳
288
286
286
276
276
265
250

 Aは墳丘長300m以上のクラスに、Bは200m後半代のクラスになっています。なお、前にも述べたことですが、古墳の墳丘長は過去の造営の時点においても、今日の計測の時点に於いても必ずしも理想的な正確さのものとはなっておりません。しかし、そのことは古墳間に潜むであろう何らかの傾向を読み取る上での障害とはなりません。実際、AB間には雰囲気の違う何らかの傾向が読み取れます。
 AとBを比べた場合、Aは墳丘の長さの最上位と最下位との差が180m以上もありますが、Bでは50mにも充ちません。つまり、Aからは墳丘を少しでも大きくしようとする意欲と自由が感じられますが、Bからはドングリの背比べというかAのようなそうした意欲も自由も感じられません。しかし、実は外観上そう見えることが、大王墓であるかそうでないかの違いなのです。何故なら、新たなる富は先ず大王に反映します。諸臣に回ってくるのはその後です。また反映の程度も、大王には大きく諸臣には小さく表われます。それに大王にはいくらでも大きくできる自由もあります。つまり、Bに意欲がないというわけではないのです。そもそも大王の富は諸臣が運んでいるのです。また、大王を引き立てるということも諸臣の大事な務めなのです。
 思うに、AとBの傾向の違いからこうしたことが読み取れるということは、墳丘長300m以上は大王墓、それ以下は諸臣の墳墓の可能性があることを示唆しているのではないだろうか。無論、墳墓間の時間差や、大王と諸臣の人数差があることは確かです。しかし、この差のあることがそうした傾向の違いを生み出してもいるのです。なお、この300mの篩いは倭の五王より前の大王墓については当てはまらないかもしれません。
 どうやら、大仙陵以降の王墓は河内大塚山古墳と見瀬丸山古墳の二つだけとなってしまったようです。それなら、大仙陵から丸山古墳まで何人の何という大王がいたことになるのだろうか。大王墓の数を限ってしまった以上、大王の数もまた限る外はないのですが、大塚山古墳の直前が大仙陵ということであれば仁徳から始める必要はなくなり、ある意味では歴史物語から解放されたとも言えます。

大王墓の住人

 大仙陵には二人の大王が眠っています? また、丸山古墳にも二人の大王が眠っています? そうすると大塚山古墳にも二人の大王が眠っていることになります?
 大塚山古墳は剣菱形という新王朝のシンボルを持つ墳墓です。『百済本紀』のいう辛亥年に死んだ旧王朝の天皇の墳墓ではありません。したがって、この天皇は大仙陵に葬られたとするほかはないようです。大塚山古墳の被葬者としては、安閑と宣化が考えられますが、大仙陵を損なった顕宗と仁賢が次の造墓者となりますから大塚山古墳の被葬者は顕宗と仁賢ということになります? そうすると辛亥年に死んだ天皇は清寧に宛がわれます?
 ?ばかりになってしまいましたが、先ず、二人の大王墓ということから始めることにします。10章でも少し触れたことですが、舒明天皇陵には二つの石棺があるといいます。また、野口王墓には天武と持統、二人の天皇が葬られています。そして、仁徳天皇陵とされる大仙陵にも石棺が二つあることが認められています。加えて天皇陵の可能性の高い見瀬丸山古墳にも石棺が二つあることが周知の事実となっております。このことは、大王墓一つに大王一人という「記紀」を読んでいると知らず知らず植えつけられた誰もが陥っていると思われる先入観とは随分と隔たった事実のあることを教えています。即ち、大王墓には複数の埋葬が可能であると。
 大王墓一つに大王一人という観念を捨て去れば、残る疑問はただ一つ、大王墓には大王以外の者が同時に葬れるのかということだけです。この問いの解は、現代人には難しいものがあります。現代からすれば、王の妻や子供達は善いのではないかと思ったりもしますが、それが古代にも通用するものかは… また、仮に是とした場合、はたして大王墓と呼べるのかどうかという疑問も浮かんでまいります。誰もが感じることだと思いますが、大王墓は明らかに特別なものです。当然、葬られる者もまた特別な者に限られます。王族といえど、また王族の中でも大王だけが特別の者なのです。したがって、大王墓には大王だけというのが正解と言うほかはありません。
 大王墓もそうですが、古墳には複数の埋葬があることは周知の事実です。また、それらが王族や一族の墓であることも確かなことと思われます。そして、肝要なことは一つの墳墓に埋葬されるのは同等の地位の者だけとする前提です。そう考えた場合、埋葬の形態として次のような想定が可能となります。
 先ず、一族の一番目の長が死んだとします。そうすると、この長の墓を二番目の長が作り、そして埋葬することになります。普通そうなると思います。ところで、この墓造りの最中に二番目の長が死んだ場合はどうなるか。順序としては三番目の長がこれを引き継ぐことになります。結果として、この墓には一番目と二番目の長が埋葬されることになるはずです。次いで、これを前方後円墳で再現してみましょう。
 前方後円墳は前方部と後円部の二箇所に埋葬が可能です。そして、前方後円墳の発達の経過から見て後円部が埋葬の主体部であったことも確かです。これに前述の埋葬結果を当てはめた場合、後円部には一番目と二番目の長が埋葬され、前方部にはこの墳墓を完成させた三番目の長が埋葬されます。ところで、こうした埋葬様式が前方後円墳に定着していく過程でどのようなことが起こるかと少し想像してみますと、どうも前方部がどんどん大きく立派になっていくのではないかと、ふとそんな気がいたします。
 誰でもそうだと思いますが、自分が埋葬されることになるその場所、つまり前方部を大きく立派にしたいというのが人というものではないでしょうか。

古墳の中の播磨王朝

 大塚山古墳は新王朝の墳墓です。今城塚古墳の系列に繋がりますから、人によっては継体王朝の二代目に当たる墓とも言われています。そこで、初代とされる今城塚古墳の中をちょっと覗いてみますと、ただし高槻市のホームページ "発掘調査でわかったこと" によるものですが、横穴式石室の中には石棺が三つあったらしいとのことです。そして興味深いことには、それらの石棺の産地がすべて異なっていると言うのです。産地が異なるということは材質が異なるということで、それらの産地と材質を示しますと、兵庫県高砂産の竜山石、熊本県宇土産の馬門石、大阪・奈良に跨る二上山の白石となるのだそうです。
 私は素人ですので、感じたことしか述べません。また、それ以外のことは述べたくても述べられません。さて、石棺の産地が異なるという事は、石棺の中身の産地も異なるという事になります。横穴式の場合、基本的には同母の兄弟ということになるのだと思いますが、墳墓を家、さらには王宮と見た場合、家長あるいは大王でありさえすれば誰でも善いのかもしれません。しかし、この場合は同母の兄弟でないことだけは確かと思われます。
 ところで、兵庫県高砂産の竜山石(たつやまいし)、この竜山石で出来た石棺が二つ、大塚山古墳の次に出来たとされる、やはり大王墓の公算の高い見瀬丸山古墳の石室にあります。今度の場合は同じ産地ですから、この二つの石棺は同母の兄弟と見做せそうです。しかも、播磨の竜山石で出来た石棺の兄弟です。この兄弟、石棺の出自から見れば播磨の兄弟と呼べなくもありません。出自といえば、継体の出自は「記・紀」共に越前と証言していますが、彼の石棺の出自は、今城塚古墳の証言では播磨とも肥後とも河内・大和とも、それらいずれとも受け取れるようになっております。仮に彼の石棺を播磨の竜山石で出来ていたとすれば、彼は播磨の出自となり、播磨王朝の始祖となります。
 今城塚古墳の証言からも分かるように、古代人は石棺を使い分けています。古代において石棺と死者は一対のものなのです。石棺から見れば、継体も立派な播磨の出であり、見瀬丸山古墳に至っては正に播磨王朝そのものの墳墓ということになります。そして、当然その古墳系譜の中間に位置する大塚山古墳もまた播磨王朝ということになります。
 大塚山古墳の中に何人の大王が眠っているのか、それは分かりませんが、播磨王朝と呼べる大王の石棺があることは確かと見えます。また、今城塚古墳は播磨王朝の始祖の墓であるかもしれませんが、大王の墓とするには小さ過ぎます。したがって、播磨王朝あるいは実質的継体王朝と呼べる初代の大王の墓は大塚山古墳という事になります。
 なお、播磨王朝は、歴史家の岡田英弘氏が顕宗・仁賢兄弟より始まる王朝につけた名前だそうです。岡田氏はこれ以外にも河内王朝とか越前王朝とか、「記紀」の内容に添った呼び名を用いて王朝の区分けをしています。こうした王朝のブロック化は、私のように陰陽的な視線で「記紀」を見ているものにとっては非常に便利なもので、例えば継体を陰と陽に分けた場合、陰に播磨王朝を宛がい、陽に越前王朝を宛がう、無論その逆でもかまわないのですが、ともかくそういったことが可能になるのです。もっとも、そういったことは歴史から逸脱した馬鹿げたことだと、あるいは叱責を受けるかもしれません。しかし、今日残っている史書のほとんどは今日的な歴史家の手によるものではなく全くの素人とでも呼べる文人や官吏の手によるものなのです。まあ、今しばらく辛抱のほどを。
 さて、継体が陰陽に分けられるのかということですが、実は継体は既に分けられているのです。しかし、その前に2つか3つ、別のものの陰陽分けをしておきましょう。先ず王を分けると、王兄と王弟になります。次に、男を分けると男兄と男弟になります。最後に大を分けると大兄と大弟になります。それぞれの読みの最後は、"え" 、"けい" 、"と" そして "てい" の音がきます。さて、継体の名前ですが、『日本書紀』では男大迹(をほと)とあります。これを男大弟(をほと)としても名前そのものは変わりません。しかし、意味は変わります。男大迹という名前ではなく男大の弟という意味になるわけです。男大の意味はあるいは王のことかも知れません。しかし、これについてはこれ以上の詮索は意味が無いので止めましょう。というのも『古事記』では男大迹は袁本杼(をほと)とあるからです。しかし、これも袁本弟とできます。そうなると、当然、男大兄や袁本兄が存在することになります。
 男大兄と袁本兄、この読みは "をほえ" あるいは "をほけい"となります。この音に近い名前を持つのが本題の主役である播磨王朝の顕宗・仁賢の兄弟です。顕宗は、弘計天皇、来目稚子、袁祁王、袁祁之石巣別命といった呼び名を持ちます。また、仁賢は、億計天皇、大石尊、意祁命、意富祁王、大脚、大為、嶋郎といった呼び名を持ちます。これらの呼び名と継体の男大迹あるいは袁本杼との関係から、顕宗は男兄とでき、仁賢は大兄とできます。つまり、顕宗と仁賢で男大兄ができるのです。
 ところで、顕宗紀には兄弟が播磨の縮見山の石室に隠れ住んだらしいことが載っています。加えて、この兄弟には石のつく呼び名もあります。思うに顕宗紀は、横穴式石室への石棺の埋葬手順から生まれた物語の可能性があります。大仙陵直後、大王墓は横穴式石室に移行した可能性があります。横穴式石室の場合、加えて兄弟が埋葬される場合、石棺をどのように石室に収めるか、おそらく問題になったものと思われます。見瀬丸山古墳では兄のものと思われる石棺が手前に、弟のものと思われる石棺が奥に安置されています。これは、兄が先に生まれるから出口に近い位置を選び、弟は後から生まれるから奥の位置を選んでいると考えられます。しかし、これは見ようによっては弟は墳墓の中心、つまり王墓という玉座に近い位置にいることになります。顕宗・仁賢紀の特異さは兄よりも弟が先に王位に就くという点にありますかあら、あるいは、そうしたことを述べているのかもしれません。また、顕宗紀には父親の遺骨と舎人の遺骨とを選り分ける話もあり、竪穴式という独立を保てた石室から、横穴式という独立を保つことの出来ない埋葬方式への転換点に位置していたのが、あるいは播磨王朝であり越前王朝だったのかもしれません。そして、その最初の横穴式の墳墓が大塚山古墳なのかもしれません。

古墳群の中の道標。紀の中の道標。太安万侶の道標、その22。

 古墳の年代を決めるのは副葬品である。副葬品の中で最も有力視されるのが、土師器や須恵器である。では、土師器や須恵器の年代を決めるものは何か。
 最も確実な方法は、年代のはっきりしている奈良時代の土師器や須恵器から遡ることである。しかし、仮にそれが出来たとしても、どのくらい正確に遡れたかを問う基準を何に求めれば良いのか。
 科学や、考古学資料は嘘はつかないと人は言うが、年輪年代測定や放射性炭素年代測定に用いる木片や炭素は所詮客であって主人ではない。客は嘘をつかないかもしれないが、また気前よく真実を喋ったとしても、それは役に立たない世間話でしかない。結局、最後は嘘をつく人の手による『日本書紀』にたよることになる。しかし、よくよく考えてみれば、土師器や須恵器もまた嘘をよくつく人の手によるものでしかありません。

紀の中の道標

或る本に云う。天皇28年歳次甲寅の年に崩と。而るに此で、25年歳次辛亥の年に崩と云うのは、百済本紀によって文としたからである。其の文には次のようにある。太歳辛亥の年3月。師進みて安羅に至りて、乞乇城を作る。是の月に、高麗は其の王安を弑す。又聞く、日本の天皇及び太子も皇子も倶に崩薨と云えり。此れに由りて云えば、辛亥の年は25年に当たるかな。後の勘校者は之を知らん也。

 以上は、継体紀の最後に載る分注である。私はこれを『日本書紀』に遺された太安万侶の道標と想定してこうしたものを書いています。その真否はともかく、何かを始める以上その起点を先ず見つけなくてはなりません。結果を恐れては素人とは言えません。
 さて、これに拠れば、辛亥の年(531)の3月に天皇及び太子や皇子も共に亡くなったということになります。これを辛亥の変と呼んでいる学者もいますが、果たして変などという程度のもので済ませても善いのだろうか。半島では翌年早くも金官加羅国が新羅に投降をしています。任那地域をめぐっての百済新羅との抗争の激化が加速しているのです。これは倭の勢力の半島からの後退を意味します。『紀』によれば安閑元年は534年ですから、新大王が誕生するまでに3年を要したことになります。そこで、これについての素人の率直な考えを述べさせてもらいますと、継体と呼べる新しい王朝が始まったのはこの年以降からではないかと。そしてそうならば、先ず始めることは継体大王の墓探しということになります。なぜなら、諺にもあるように、新しい酒は新しい皮袋に盛れ、つまりは盛られていると。
 継体天皇の陵墓については、摂津の、大阪府茨木市太田の茶臼山古墳(230m/140m)と大阪府高槻市郡家新町の今城塚古墳(190m/100m)とが政府治定と学会定説とになっているようです。単純には、茶臼山古墳が 230/140 = 1.64 で、今城塚古墳が 190/100 = 1.9 ですから、前者は誉田陵プランの古いタイプと見做せ、後者は大仙陵プランの新しいタイプと見做せます。したがって、今城塚古墳の方が有力ということになります。それに、今城塚は前方部が剣菱形のこれまた斬新ともいえる墳形をしています。ただ、この古墳は大王墓としてはあまりにも小さすぎるような気がします。

古墳群の中の道標

 古墳の規模は、大仙陵をピークとして縮小に向かっています。大仙陵築造後いつの時期か、おそらく次の陵墓の築造開始までには築造期間の短縮を決めたのではないかと思われます。そう思うのは、豪族が一日に動員できる役夫の数は、誉田陵から大仙陵にかけてほとんど変わっていないからです。それは、大王墓であるそれら二つの陵の容積がほとんど変わっていないことからも察することが出来ます。したがって、あとは築造期間を短くすれば墳墓はおのずと縮小することになります。
 しかし、何故縮小に向かい始めたのだろう。いや、それよりも何故巨大化に向かったのだろうか。大きいのがただ好きだからか。しかし、いくら好きだからと言っても先立つものが無くては何も作れません。そう、巨大化の原因は経済成長なのです。水田も増え、人手も増え、何もかもが増えたのです。そして何よりも身内が増えたのです。
 身内の増えることは、往々にして内紛につながります。安閑紀には、武蔵国での同族同士の争いの話が載っています。また、雄略天皇は身内を多数殺していますが、これも身内が増え過ぎたことが最大の原因でしょうか。なお、雄略を倭王武に比定する説があるようですが、武の時代は一族一丸となって戦っていた時代です。身内の粛清は負の要因となります。もし、どうしても雄略を誰かに、あるいはどこかの時代に比定したいのであれば、武烈天皇とその時代が最も相応しいように見えます。

古墳の破壊

 皮肉といえば現代も同じですが、経済発展は繁栄と格差を生み出します。繁栄と格差は紛争を呼び起こします。顕宗記に、雄略に粛清された父の仇を取ろうとする兄弟天皇の話があります。内容は雄略の陵を壊そうというものです。『紀』ではこれを思いとどまったとしていますが、『記』では御陵の傍らを少し掘り取ったとあります。思うに、『紀』と『記』との違い、そして墳墓を損なうという行為、これらにはいろいろの意味合いがあるようです。
 先ず、『紀』と『記』の違いですが、紀は記の内容を打ち消しています。これについては、御陵を損なうという行為が『紀』の編纂当時都合の悪いことだったからと言うほかはありません。しかし、それだけでは『記』の編纂当時は善かったのかということになり兼ねません。ここは、やはり『記』から『紀』へ少しずつ打ち消していったとするのが順当なのやもしれません。そうなると、本来の話は少しだけ掘り取ったということではなかったことになります。ちなみに当時の大陸や半島では、攻め入った王が敵国の王の先王や親の墓を暴いて骨を持ち去ったりもするそうです。ただ、日本の場合は香具山の土を大和の国の物実(もととなるもの)とも呼んでいるように、新王朝が旧王朝の財産を引き継ぐという意味で陵墓の土を持ち去るということは考えられます。
 ところで、大仙陵が人為的に破壊されている可能性のあることを御存知ですか。航空写真等で見る大仙陵は墳形の整った緑豊かな陵墓のように見えるのですが、測量図等によれば墳丘の大半の等高線に大きな乱れがあるとされ、特に後円部の頂上部分の崩壊が酷いと言われています。原因はいろいろと考えられますが、輪郭線にはほとんど乱れがないことから誉田陵のように地震によるものでないことは確かです。また、前方部と後円部に石棺が確認されている以上未完成であったとも思えません。後は、中世以降の城郭利用が考えられますが、どこの誰が何という城を築いたのか未だ聞いておりません。また、仮にそうであったとして城郭なりの乱れのない等高線が得られるはずです。最後に盗掘ですが、盗掘は広く行われているものです。大仙陵だけが特別に酷くなる理由には適しません。
 思うに、大仙陵破壊の唯一の証言者は「記・紀」ということなのでしょう。そうすると、この古墳を損なわせたのは顕宗と仁賢の兄弟ということになり、この古墳の後円部には雄略が眠り、前方部には清寧が眠ることになります。どうやら、大仙陵の次に来る王墓と継体大王墓とは同じもの、つまり河内大塚山古墳がそうであるのかもしれません。…その真偽はともかく次の図に移りましょう。

古墳の差別化

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 個々の古墳の向きについては、東西に合わせるとか、海岸線に合わせるとか、道路の向きや地形に合わせるとか、その他いろいろと指摘できますが、古墳群の向きについては如何でしょうか。無論、先ほど挙げたどれかに当てはまると言われれば、確かにどれかには当てはまるでしょうが、しかし、すべての古墳を同じ向きに揃えるというのはどういった理由によるものでしょうか。
 百舌鳥古墳群は、古墳の向きによりAとBの2つのグループに分けられます。Aのグループには巨大古墳が2基もありますが、Bのグループには巨大古墳が1基もありません。 単純には、本家のグループと分家のグループと呼べなくもないのですが、なぜグループの形を取るのかが分かりません。しかし、ここにはある意味での格差の臭いがします。それは、力の格差とは違ったもっと別の意味での格差です。
 力の格差は古墳の大小に既に表れています。しかし、古市古墳群には力の格差による差別化はまだ起こっていません。ここでは、大小の古墳が、おそらく地形に無理なく合わせてのことだと思いますが、思い思いの方向に墳丘を横たえています。巨大な誉田陵でさえも小さな先輩の傍に行儀良く鎮座をしています。思うに、古市古墳群に誉田陵が築かれた時期は、一族一丸となって遠征を繰り返していた倭の五王の最後の時代ではなかったろうか。また、百舌鳥古墳群に大仙陵の築かれた時期は、増大しきった一族がいがみ合いを始める時代の幕開きとも呼べる次期に当たるのではないだろうか。
 時の流れは一切を無常とします。昨日の友は今日の敵。時の流れは無情でもあります。応神天皇五世の孫も五世を過ぎれば即家来となります。五世代を時間に直せば百年ほどでしょうか。身内も百年経てば相争う関係となる。百年とはそういう時間のことであり、五世の孫という言い方もそうした経験から生まれたものなのでしょう。ところで『紀』は継体の即位を507年としています。この100年前は400年の初頭に当たります。この時期は倭の五王の活躍し始めた時期と丁度重なります。421年には、倭王讃が宋に朝貢しおそらく六國諸軍事安東大将軍の称号を求めたものと思われます。この要求は武の代まで続きます。その背景にあるのは自国倭の国力への自負からでしょう。

巨大古墳の行方

 思うに、古墳の造営は国にとっても民にとっても何の利益ももたらさないある種の贅沢行為と言えます。しかも、この造営には莫大な資金が必要となります。しかし、「記紀」には古墳造営に関しての民の不満の記事は何故かありません。そもそも、斉明天皇の土木工事に不満を漏らすほどの『紀』です。これは不可解なことです。しかし、それらの資金の大半を海外からの収入によるものだとしたらどうでしょう。国の懐は傷まず、労働に従事した庶民にも何がしかの代価は支払われる。無論きつい労働であり、庶民が手放しで喜んだとも思えないが、不満はなかったであろうと。無論これは想像に過ぎません。
 倭王武の上表文には、"昔より祖禰みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉し、寧処にいとまあらず。東は毛人を征すること55国。西は衆夷を服すること66国。渡りて海北を平らげること95国" とあります。海北とは海外つまり朝鮮半島のことです。なお、当時の征服とか平らげるとかを軍事的あるいは政治的に捉えることは私には出来ませんので、ここでは単に何らかの税の取れる状態のことだとでも捉えておきましょう。そうすると、倭王は国内の121国と半島の95国とから収入を得ていたことになります。こうした状態がいつ頃まで続いたかは分かりませんが、少なくとも大仙陵築造前までは続いていたと思われます。
 周知のように、大仙陵を盟主とする百舌鳥古墳群を最後に、巨大古墳を盟主に持つ古墳群は形成されなくなりました。終末期古墳では卓越した規模を誇る二つの巨大古墳、河内大塚山古墳と見瀬丸山古墳はどちらも古墳群を形成しない孤高の墓です。大王に権力が集中した結果には違いないが、ただそれだけではないようです。半島からの収入が断たれてもいるのです。思うに、半島からの収入によって巨大古墳と古墳群は形成された。仮に、巨大古墳を墳丘長300m以上のものとした場合、巨大古墳の中で最も古い位置に来る柳本古墳群の渋谷向山古墳の造営は5世紀を遡ることはなくなるのかもしれません。
 ところで、534年と535年のわずか二年間ほどの安閑紀は、その記事のほとんどを屯倉の設置や献上の話で終始しています。屯倉は王家の収入源です。532年以降半島の権益のほとんどを失った倭王にとって自国の屯倉を増やすことは緊急の課題だったと見えます。では実際どのように対処したのであろうか。記事では地方豪族が何がしかの理由で屯倉を献上したことになっています。例えば、武蔵国の場合は国造の地位をめぐって笠原一族の使主(おみ)と小杵(おき)が争いを起こしています。これを朝廷が裁断し、使主を国造として小杵を処罰したため、使主は畏まるとともに喜んで屯倉を献上したとあります。
 話の内容だけでは使主と小杵とがどういう関係にあるのか分かりかねますが、もし埼玉古墳群が三つのグループ、図ではABCに分けられることと関係しているのだとしたら、これらのグループ化は派閥、おそらく嫡流と庶流による対立が原因で進められたということになります。思うに、百舌鳥古墳群形成の時期、畿内に於いても地方に於いても同族間の差別化が明瞭となっていたと思われます。埼玉古墳群にこの特徴が顕著なのは、やはり天下佐治の乎獲居臣の存在によるものでしょうか。また、墳形にいち早く大仙陵プランを取り入れているのもこの一族が中央に深く食い込んでいたことの証とも見えます。
 差別化がなぜ起こったのか、あるいは差別化することによって一族の財産の拡散を防いだのか、それとも偏に主家の欲によるものか、それは分かりませんが、ある時期を境に倭の膨張も、そして古墳の膨張も止まったことだけは確かです。
 さて、辛亥年以前の大王墓とは即ち大仙陵以後の大王墓ということです。大王墓の大きさを決めるのは大王の力です。確かに、半島における大王の力は低下の一方をたどっています。しかし、国内における大王の力はむしろ増大しています。差別化によって内紛や王朝の交代という弊害に遭ったとしても、差別化が中央集権への道を拓いているのです。
 ところで、武蔵国の紛争中、小杵が助力を求めたのは上毛野です。これには二つほどの意味合いがあります。一つは、当時の地方では朝廷よりも地方の豪族の方が有力であったということです。もう一つは、武蔵国は嘗ては毛野国の領域であった可能性があるということです。しかし、いずれにしても小杵は処罰されています。安閑紀全体に言える事は朝廷の力の地方への浸透ということでしょうか。なお、話では上毛野が処罰を受けた気配はありませんが、これは上毛野三千が天武朝での帝紀と上古の諸事の校訂に携わっていたことによるものと思われます。また、この時期こうした身内の争いは各地で起こっていたはずです。武蔵国の話が取り上げられているのも上毛野三千によるものと思われます。
 さて、大王の力というものはいつの時代に於いても大王の力です。治世の長い大王も治世の短い大王も有する大王の力は同じです。古墳時代に君臨したのが大王なら、大王墓は最初から最後まで巨大であったと言うほかはありません。もし、仮に墳丘長300m以上を巨大とした場合、300m以下の古墳は大王墓ではなくなります。なお、300mという数値は漠然としたものではありませ。最後の巨大古墳、見瀬丸山古墳の墳丘長は318mです。私論としては、これを下回るものは基本的には大王墓ではないと。そうした場合、大仙陵の次の大王墓は河内大塚山古墳となります。無論、これも私論ではありますが。