古代雑記

一億分の一の検証  昭和枯れ芒、素人のつぶやき。

不改常典とは十七条憲法。太安万侶の道標、その42。

 推古天皇元年に聖徳太子摂政になってからを普通飛鳥時代と呼びます。それより前は古墳時代ですから、言うなれば推古元年は泥の時代から金色に輝く仏像と歴史を記す文字の時代へと移り変わろうとする、正にその飛鳥時代の幕開けの年に当たると。
 思うに、飛ぶ鳥の目となって、その飛鳥時代を俯瞰すれば、緑の大地より鈍く築き上げられた古墳の数々と、その間から鋭く碧空へと突き出した金色に輝く相輪を載せた寺々の塔とが綾を為すように見えることでしょう。

 さて、聖徳太子飛鳥時代の寺はと問えば、郷土の俳人正岡子規が、柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺と詠んだように斑鳩の古刹法隆寺を先ず挙げると思います。その古刹法隆寺の金堂には、遥か飛鳥の時代から千数百年の時を越えて尚且つ端座し続ける仏像があると聞きます。その仏像は、光背に歴史を秘めた銘文を背負い、嘗ては飛鳥時代をその金色の輝きで照らしていたと言われています。しかし、今はその金色の輝きは既に無く、ただ千数百年来変わらぬ飛鳥の微笑だけが残されていると聞いております。

三つの時代(聖武天皇東宮聖王・上宮法皇

 飛鳥時代が遺した法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘より上宮法皇の時代が600年代であることが分かります。また、法隆寺金堂寺薬師如来像光背銘より東宮聖王の時代が660年代であることが分かります。そして、奈良時代の寵児、聖武天皇の時代は720年代であることが分かっています。そこで、これら三つの時代を甲寅と甲子との年を中心として関連のある主要な事柄を表にして示すと下のようになります。
 なお、上宮法皇の時代つまり推古紀に当たる箇所ですが、これは前章での聖徳太子の崩年干支辛巳を上宮法皇の崩年干支壬午に合わせるために干支を一年だけ引き下げた結果をうけての配置です。ただし、推古紀外の用明はそのままとしています。
 ところで、前章では干支を引き下げたことで、冠位12階と冠位26階とが同じ甲子となることを話しました。実は、もう一つあるのです。それは、聖徳太子斑鳩の宮へと移り住んだ年の干支と近江遷都の年の干支とが同じ丁卯となってもいるのです。このことから、天智紀に載る近江へ都を移した皇太子とは東宮聖王つまり天武というシナリオが描き出せる事になります。

ー 表.42a ー






丙午    





丙午 646 池辺崩年





丙午    
丁未 707 文武崩年 丁未     丁未 587 用明崩年


               
甲寅 714 聖武立太子 甲寅 654 孝徳崩年 甲寅 594 聖徳立太子
乙卯 715 元正即位 乙卯 655 斉明即位 乙卯    


               
甲子 724 聖武即位 甲子 664 X・⇒
冠位26階
甲子 604 小墾田宮
冠位十二階
乙丑     乙丑 665 X・⇒ 乙丑 605 十七条憲法
丙寅     丙寅 666 弥勒像銘 丙寅    
丁卯     丁卯 667 薬師像銘
近江遷都
丁卯 607 聖徳太子
斑鳩
戊辰     戊辰 668 王後墓誌 戊辰    

 さて、この表をどのように解釈するべきか。とは申しましても、持論通りに解釈する他はありません。

 東宮聖王(聖徳太子)の父池辺大王(用明天皇)の崩年干支を聖武天皇の父文武天皇の崩年干支に合わせて丁未としたのではないかという疑念は、法隆金堂寺薬師如来像光背銘や聖武聖徳太子の生まれ変わりとする思想等に接すれば、誰もが抱くことだとは思います。ただ、それを誰もが納得する説明や証明に変えるということになると、甚だ難しいものがあり一朝一夕とは参りません。それに、これは定説を否定するようなものですので、その初っ端から聞く耳持たずとされる場合の方があるいは多いのかも知れません。
 無論、そうしたことも説明や証明が的確に出来れば問題はないとは言えます。しかし、法隆寺金堂の釈迦三尊像薬師如来像の光背銘の今日の定義的な解釈を見れば分かるように、本来なら原告側の証人となる者が長い年月の間に被告側の証人とされてしまっています。従って、これはある意味では起訴が出来ない状態だとも言えます。結局は、次のように呟くしかないのかも知れません。つまり、前もって嘘だと断わってつく嘘を本当だと信じてしまっている者にそれを嘘ですよと証明して見せることなど誰にも出来ようはずはないと。
 しかし、私的な不満はさて置き。こうした表が描ける以上その真偽は後へ回すとして、この表からさらに何が描けるかを試みてみましょう。

 甲寅という干支を五行の方位や夏暦に当てはめてみますと、東や春や正月さらには日の出といった明るい未来への始まりというイメージで捉えることができます。おそらく、そういったことから神武東征元年や聖徳太子聖武立太子の年にこの干支が当てられているのだと思います。ただ、そういった感覚でこの表の孝徳を見ると、非常に違和感を感じることになります。
 しかし、そうだからと言って、果たして孝徳は本当に甲寅の年(654)に死んだのだろうかなどと始めれば、勝手に思い込んで勝手に悩むなと、そう言われそうな気がしますし、またそれが事実であるからこそ、そうなっているのだと、そうも言われそうな気もします。 確かに、仮説に仮説を重ねれば普通そう言われます。それに仮説に仮説を積み重ねる事は決していい遣り方とは言えません。しかし、要は考え方一つです。これを仮説とせず道標としましょう。つまり道標が道標を導いたと。これはいい遣り方です。思うに、物事は考え方や見方一つで変わります。無論、これもまた勝手な思い込みと言えますし、そう言われもします。

 ところで、近代的な歴史書に慣れた我々は、歴史つまり時間を平面に展開した形で捉えることが出来ます。しかし、古代では必ずしもそうではなかった可能性があります。例えば、本題からは少し外れますが、古代の絵画や壁画の中には、今日的な写実とは違って、多視点から捉えた動物や人物が描かれているものがあると言います。そうしたことは立体の動物等を平面に描こうとすることで起こるのですが、あるいは、古代人は見えない部分を見えないままで残すことに躊躇いがあったのかも知れません。また、あるいは本当に描きたい部分が見える方と見えない方との両方に跨っていたのかも知れません。
 古代エジプトではこの問題を解決するため、描きたい部分のパーツ化を行っています。正に好いとこ取りの手法とも呼べるものですが、横向きの顔に正面を向いた目を描くことになりますので、中高生が真似をしますと国定教科書の美術教師は必ず落第点を付けることになります。しかし、同じような手法で描かれたピカソの絵に対しては何故か落第点ではなく数億何がしかの値札を付けるとか。思うに、見方一つで芸術作品となったり反古となったり、真となったり偽となったりするのがこの世の常かと。そうした世界は、飛ぶ鳥の目で見るよりもいっそ猫の目で見た方がいいのかも知れません。何でも、古代エジプトの壁画には横向きの猫の絵もあるとか。

三つの時代とそれぞれへの投影

 そこで表.42aをいっそのこと横向きにしてみましょう。この表は、干支一回り60年毎の三つのパーツよりなっていますので下図のようにできます。図中の三つの⇒は、ⓐからⓑへの投影をA、ⓑからⓒへの投影をB、ⓐからⓒへの投影をCとしたもので、オリジナルに対しての二次的なものという意味合いを示したものです。右はそれを表にしたもので、表.42aの中に示したX・⇒を導き出すのがここでの課題となります。

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ー 表.42b ー
丁未 崩年 ①⇒   C⇒②
甲寅 立太子 ③⇒   C⇒④
乙卯 即位 ⑤⇒ A⇒⑥  
甲子 遷宮   X・⇒ B⇒⑧
冠位   ⑨⇒ B⇒⑩
乙丑 憲法   X・⇒ B⇒⑫
丁卯 遷宮   ⑬⇒ B⇒⑭

 『日本書紀』は養老4年(720)に完成したとされていますから、ⓐの場合は乙卯(715)よりも後の出来事は基本的に存在しません。従って、ⓑやⓒへの投影は出来ません。表.42bからもそのように読み取れます。ⓐからの投影が可能なのは丁未と甲寅と乙卯の三つで、丁未と甲寅はⓒへ、乙卯はⓑへ投影されています。既に述べていることですが、丁未の場合は、文武の死を投影して用明の死としたもの。また、甲寅の場合は、聖武立太子を投影して聖徳太子立太子としたものです。
 さて、乙卯の場合ですが、これは元正の即位を投影して斉明の即位としたものです。ただ、そのためには斉明は前天皇の死去あるいは譲位を受けなくてはなりません。つまり、結果として孝徳の死を甲寅としなければならなかったいう事です。このことは、孝徳つまり天智は甲寅(654年)に死亡したというわけではないという事になります。では、天智はいつ死んだのだろう。
 確か前章では、天智の行き着く先は孝徳と斉明の17年間の他にはないと言いました。ついては、それをここで決めてみましょう。これは表.42bの X・⇒ B⇒⑧ が即決められれば簡単なのですが、ただ両者の関係は互いが互いを補う関係つまり鶏と卵の関係のようなもので、悪く言えばというより正確には仮説による仮説の証明となります。しかし、これに関しての言訳は本章の中ほどで既に終えていると思います。また、各章での素人云々の記述もそうした意味での表現です。従って、これ以降はこうした言訳染みたもの言いは省くこととします。

 さて、24章では次の表を見せたと思います。これは漠然とした表で、各天皇の治世の末年も背景色のあるところ以外は確証の得られないものです。また、孝徳(天智)の末年をここでは662年としていますが、これは天智つまり孝徳と斉明の治世の末年が661年ではないことを暗に示しているだけであって正確なものではありません。それで、ここではもう少し正確な年代を割り出してみることにします。

ー 表.24c ー
宣化 欽明 推古(豊浦) 舒明 皇極 孝徳 推古(小治田)



檜隈天皇
阿毎多利思比孤
志帰嶋天皇
乎沙陁天皇
上宮法皇


等由羅天皇
敏達天皇

阿須迦天皇
用明天皇


池邊天皇
崇峻天皇
天智天皇




小治田天皇
~585? 622 ~628 641 646 ~662 671

 天智の治世は、池辺天皇(用明)と小治田天皇(推古)との間にあります。用明の崩年は丙午(646)ですから、これに孝徳と斉明の治世17年を加えると663年がはじき出されます。これがいわゆる天智の崩年という事になるのですが、これが合っているか如何かを確かめなくてはなりません。これを確かめる一番の手立ては、推古の元年が664年であることを証明することです。そこで、表.42bへ戻りましょう。
 664年はⓑの甲子に当たります。この証明は先ほども述べたように X・⇒ B⇒⑧ を成立させることです。ⓒの B⇒⑧ は表.42aより推古が小墾田宮へ遷った記事です。これを、ⓑからⓒへの投影とした場合、推古が実際に小墾田宮へ遷ったのは664年となります。つまり推古が小治田天皇と呼ばれることになるのはこの年以降という事になり、この年が実質的推古元年となります。
 少し補足をしますと、推古紀によれば、推古は豊浦宮で即位をしていますが、推古を後世が豊浦天皇と呼んだのは王後墓誌の中でだけです。墓誌は何故推古を当世風に小治田天皇としなかったのか、それは豊浦天皇が小治田天皇とは別人だったからでしょう。墓誌が出来たのは668年近江遷都の直後です。そして、この時には小治田宮治天下天皇は既に近江大津宮治天下天皇となっていたとするのが私の見解です。無論、これだけでは説明としては不十分かもしれません。そこで、もう一つ付け加えて置きましょう。それは当初からの課題、X・⇒ B⇒⑫ を説くあるいは解くことです。
 B⇒⑫をⓑからⓒへの投影とした場合、X はⓑでは何と呼ばれていたのか。それがここでの解題です。私はこれを、元明の言う不改常典と考えています。元明は女帝です。男帝を見習うよりも女帝を見習うことを優先するでしょう。しかも、小治田と東宮聖王が母子の関係だとしたら、文武と母子の関係にある元明にとって小治田は見習うべき先帝となります。
 ところで、天武は11年の9月に唐突な詔を発しています。それは、跪く禮や匍匐(はう)禮は止めて、難波朝の立禮を用いよというものです。このことは難波朝後に跪く禮と匍匐禮が用いられていたことを示すものですが、そうしたことをうかがわせる記事は斉明紀にも天智紀にもありません。しかし、奇妙なことには、そうした記事が難波朝の後にではなく前にはあるのです。推古12年9月、次のような詔の記事があります。「宮門を出入りする時は両手を地面につけて、両足を跪いて敷居を越えてから立って行け」と。推古紀には同じ年に十七条憲法制定の記事がありますから、この二つの記事をⓑからの投影と見做せば天武11年の詔も元明の不改常典も無理なく受け入れられることになります。

推古天皇こそ、故を温ね新しきを知る道標。太安万侶の道標、その41。

 大化の改新明治維新に、そして何とか維新の会。古いものを新しく見せたがるのが古来からの人の性というものなのでしょうか。それともそういった新しいものを疑うのが私の性というものなのでしょうか。
 そういうわけで、『日本書紀』は私から見ると、どうしても古代維新の会の出版物のように見えてし様がないのです。ただ、そうは申しましたが、何も古代維新の会を非難しているわけではございません。ただ、一言だけ付け加えさせて貰いますと、古代維新の会には素朴さと正直さとがございます。しかし、余談というよりもこれが言いたかったのかも知れませんが、つまり現代維新の会にはそれがございません?

天智を否定する『日本書紀

 大化の改新の詔を疑う人はいますが、孝徳や天智を疑う人はいないようです。毒を食らわば皿までとする考えは毛頭ありませんが、私が天智や孝徳を疑い出したのは、鎌足という二股膏薬の存在のせいです。
 そもそも鎌足の存在は天智にとって、プラスなのかマイナスなのか。それが一番最初の疑問です。思うに、鎌足の存在は天智ではなく鎌足の御蔭で皇位に就けた孝徳にとってこそのみ明らかにプラスと言えるのです。従って、そういうことであれば、天智にとっては鎌足の存在は明らかにマイナスと言う他はないのです。実際、天智は鎌足のせいで父帝の死後26年もの長きに渡って皇位に就けないでいるのです。しかし、天智はなぜか鎌足を重用している。そして、これが何よりもの疑問となっています。
 この疑問は、孝徳を天智と見做せば即解決します。ただし、この場合は、孝徳紀に天智をという事であって、天智紀に孝徳をという事ではありません。そもそも天智紀には小治田が入るのですから。また、これが当初からの課題なのですから。従って、これを成立させるためには先ず現天智紀の否定から始めなくてはなりません。そして、この否定は天智紀の矛盾を探し出すことで可能となります。なお、その一つとしては法隆寺薬師如来像光背銘からの指摘が既にあります。しかし、これは外部からのものです。ここでは『日本書紀』自体がこれを否定つまり矛盾を表明しているという事実を先ず指摘しておくことから始めましょう。

 天智紀の矛盾はその元年の最初の数行のうちに見られます。それは、皇太子素服稱制という一文にあります。稱制(しょうせい)とは普通即位をしないで朝政を聴くことを言うらしいのですが、即位をしなければ天皇ではないという法則は『日本書紀』の何処にもありません。例えば天武紀では、天武は即位の前から天皇と表記されているのです。また、天智と同じように稱制とされる持統にしてもその即位前から天皇と表記されているのです。 そういった意味では、天智の皇太子素服稱制は甚だ怪しいと言うことになります。
 そもそも太子は天皇の後を引き継ぐために居るわけですから、天皇が死ねば即位しようとしまいと天皇の権限を引き継ぐことに何ら違いはありません。その結果、望もうと望むまいと結局は天皇として奉られることになります。つまり天皇の死後、皇太子が皇太子のままで居続ける事はありえないのです。このことは、結果としては皇太子や皇后のままで居られなかった、あるいは居させられなかった天武と持統は、いわゆる明位の位に居たということを教えています。明位の位というのは、16章で述べた、太后天皇、皇后、太子のことです。これで言えば、当然天武は太子で持統は皇后という事であり、そして天智に関して言えば、天智はそれらの何れでもなかったということになります。

 思うに後世は、『日本書紀』の真意を測ることなく稱制の意味付けをしたようです。そもそも天智は皇太子でもなんでもなかったのです。天智紀は、その矛盾を我々に教えているのであって、押し付けているわけではないのです。つまり天智紀は、その最初から天智には矛盾がありますよと我々に問いかけているのです。そして、ここには別の何かが入るのではないですかとも問いかけているのです。しかも、そう問いかけているのは何も天智紀だけではありません。皇極紀もそうです。いや、舒明紀からと言った方が良いかもしれません。
 舒明紀によれば、天智は父帝の死の時16歳で太子だったとあります。この年齢が即位の年齢としては若すぎたのか、母親の皇極が天皇となっています。しかし、皇極紀での天智は太子としてではなく単に皇子としてしか登場していません。しかも皇極は天皇の位を子の天智ではなく孝徳に譲っています。このことは、皇極の即位が孝徳に位を譲るためのものだったことを教えています。これは、孝徳を文武に、皇極を持統に置き換えれば納得のいく話の筋とはなりますが、この年代に文武や持統を登場させても何の意味をも成しません。しかし、それは別として、こうした皇極紀の姿勢は、明らかに天智と舒明とのつながりを絶ち延いては天智そのものを否定すると同時に舒明紀と天智の繋がりを絶った皇極紀そのものの在り方をも我々に問いかけていると言えます。

 少々自説に都合のよい話の運びとはなりましたが、どうやら皇極紀に池辺を入れ、天智紀に小治田を入れる段取りだけは出来たようです。ただ、そうなりますと天智の行き場所としては孝徳紀と斉明紀ということになるのですが、天智紀の10年に対して孝徳紀・斉明紀の17年では不整合となってしまいます。無論、孝徳紀だけに宛がえば数字の上では整合はしますが、天智の子供達の生まれた年を考慮した場合、天智の死の上限としては660年を割り込むのは無理のように見えます。しかし、それはさて置き、先ずは天智紀に小治田つまり推古紀が収まるか如何か試みてみましょう。

推古を矛盾させる「記紀

 39章で推古の治世が、皇極(斉明)、持統、元明、元正という4人の女帝の治世を寄せ合わせたものよりなる事を述べました。また、それら女帝それぞれの治世の数え方によって、『日本書紀』の36年と『古事記』の37年との二つがあることを話しました。また、『日本書紀』でも37年とすることが可能だとも話しました。そして、それらの理由として持統の治世と元明の治世の数え方が影響しているとも話しました。
 さて、これらの事をまとめて表にしますと次のようになります。

ー 表.41a (推古の治世) ー
古事記(37) 皇極・斉明(10) 持統(11)   元明(8)     元正(8)  
日本書紀(37) 皇極・斉明(10) 持統(10)   元明(8)     元正(9)  
日本書紀(36) 皇極・斉明(10) 持統(10)   元明(7)     元正(9)  

 先ず①の行、これは『古事記』が推古の治世を37年とする内訳です。しかし、『古事記』は崩年干支を基準とするいわゆる越年称元年代を用いていますから、崇峻の崩年を壬子として、推古の崩年を戊子としたのでは推古の治世は36年となってしまいます。そこで、これを『古事記』の矛盾と見るかということなのですが、その前に次の②と③について少し説明を加えておきましょう。
 ②は文武から元明への皇位継承を死去ではなく譲位によるものとした場合のものです。これは、『続日本紀』に文武の死去と譲位とが5月15日の同じ日であったとあることからの推量によるものです。つまり、この場合どちらとも受け取れるということで、③はこれを死去によるものとしたのではないかと。それならば、譲位の場合もあったのではないかと②を加えたわけです。そうしますと、皇位継承が譲位か死去かとでは天皇の治世に1年の違いが出ますから、②の場合は元明の治世は③よりも1年長くなります。そうなれば、当然推古の治世もまた1年長くなります。つまり『古事記』の37年は矛盾ではなく、②に合わせてのものであると。そして、推古の治世を37年とするのが本来の「記紀」の筋書きではなかったかと。
 無論、これだけでは何のことか分からないと思います。また、39章のⓓ表や上の表.41a が成立するのかという問題もあります。しかし、本当に問題なのは推古紀が成立するのか否かということではないだろうか。そもそも推古紀は、『隋書』とも抵触すれば、法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘とも抵触しているのです。言ってみれば推古紀は四面楚歌とでもいうか、内からも外からも非難されているのです。そして、この状態は推古紀成立の時点で既に分かっていたということです。つまり推古紀は天智紀同様その当初から『日本書紀』に否定されていたということなのです。そして否定されているからこそ天智紀への代入が可能となるのです。では、どのように代入するのか。実は、この答えが39章のⓓ表や上の表.41aにあるのです。そして、それらの答えがそれらの表が成立するという答えにもなるのです。

 表.41aが成立するとした場合、推古の治世は、皇極(斉明)、持統、元明、元正という4人の女帝の治世の長さに影響されていると見做すことができます。しかし、その推古の治世を、『日本書紀』は36年と言い、『古事記』は37年と言います。このことは、「記紀」が必ずしも推古の治世の長さには拘ってはいないことを示しています。しかし、推古がこれらの女帝の治世とかかわっていることを示しているのがこの表なのです。では、一体何が彼女らの治世とかかわっているのだろうか。それは、干支です。「記紀」が拘っているのは実は干支なのです。
 「記紀」が干支に基準を置いていることは、『古事記』が天皇の崩年に干支を用いていることや、神功紀が干支2廻り遡って組み込まれていることからおおよその見当はつくと思います。しかも、神武東征元年と聖武立太子が甲寅の年であったり、斉明と元正の元年が乙卯であったりと、因縁めいた結びつきを示唆するようにも用いられています。
 ところで、元明の元年は丁未、持統の元年は丁亥です。そこで、『古事記』の推古元年をその崩年の戊子から遡って求めてみると壬子となります。皇極の元年が壬寅ですから、これらは十干が一致しているということになります。このことは、全ての女帝の元年が干支や十干でかかわりを持つように仕組まれていることを示しています。しかし、そうなると推古紀の元年癸丑は何にかかわるのだろうかということになります。

 推古紀が推古の元年を癸丑としたのは、一つには前章の表40.cに載る等由羅天皇(欽明)の元年(623)癸羊の干支の十干に合わせたことによるものとできます。この表では、この天皇は壬午年(622)の上宮法皇の死を受けて即位した等由羅天皇(欽明)のことで、その元年は癸羊となります。おそらく『日本書紀』はこの天皇を30年遡らせその元年の干支癸羊を癸丑に変えて推古元年としたのではないかと。推古紀には、推古は元年の前年の12月に豊浦宮で即位したとあるのです。その真偽はともかく、干支や十干に拘ると道標のある所からは色々のものが見えてくることだけは確かな事のようです。
 さて、そうしたことは別として、既に述べているように推古紀は『日本書紀』つまりは編纂者によって否定されているという事の方がこの場合肝要なのです。それは、癸丑年に拘る必要がなくなるからです。実は、編纂者が我々に探させようとしているのは本来のシナリオの推古紀の元年なのです。編纂者つまり安万呂はここにも後世のために道標を残しているのです。そもそも法隆寺金堂釈迦三尊像光背に刻まれた銘文を安万呂を初めとする当時の有識者が知らないはずはありません。そして、彼らは上宮法皇の崩年が壬午の年であることを当然知っていたはずです。つまり、『日本書紀』が我々に示唆しているのは、法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘に合わせて推古紀の聖徳太子(上宮法皇)の死亡年辛巳を銘文の壬午まで引き下げなさいという事なのです。
 そこで、辛巳年を壬午年まで引き下げますと、推古元年は癸丑から甲寅に変わります。この甲寅の年が本来の推古元年なのです。そもそも、この甲寅の年は「記紀」の本当の主役聖武立太子の年なのです。そして、この甲寅の年に合わせて、神武東征元年を甲寅の年とし、さらにはこの甲寅の年を聖徳太子立太子の年としたのです。推古紀には、その元年に廐戸豊聡耳皇子(聖徳太子)を立てて皇太子と為すとあるように、推古元年はどうしても甲寅の年でなければならないのです。
 しかし、あるいは推古元年を最初から甲寅とすればよいものを何故そのように回りくどくしたのかという疑問は残るかもしれません。しかし、これは最初から推古紀に疑いを抱かせるためのものと言う他はありません。30章でも述べたことですが、あからさまに事実を書くことが憚れる場合つまり作為であることを知らせる場合は、明瞭な歴史の齟齬で知らせるのが一番善い方法なのです。しかも、幸いなことに『隋書』があり、そして何より法隆寺金堂には二つの銘文があるのです。そして、この二つの銘文により先ず推古紀が否定され、次いで皇極紀が否定され、最後は天智紀が否定されることになるのです。

 思うに、古代人は嘘を書くことや嘘をつくことを極度に恐れたのではないかと。このことは言霊(ことだま)という言葉があることからもある程度の察しは付くのではないかと。言霊というのは、声に出した言葉を現実のものとする霊力のことで、日本古来よりの思想とされています。ただ、天智紀に誣告や流言を禁じたとあることや、天神寿詞を即位式で最初に取り入れたのが持統であることから、この思想が生まれたのは「記紀」編纂の時点からそれほど遠くない時期であったと思われます。
 さて、そうした思想が文章に就いても言えるのだとしたら。例えば、銅鏡や鉄剣に記された吉祥文や祈願文は言霊とよく似た思想によるものです。そして仏像の光背や台座の銘文も又そうしたものと言えます。思うに、そうした思想は言葉よりもむしろ文章によるものの方が古いのではないかと。それはさて置き、古代人は書いた嘘を否定することで、そうした因果の思想より逃れようとした。そして同時に後世の子孫にその否定を示すことにより、子孫をもこの因果より解き放そうとした。そして、それが道標として残ったと。
 さて、一つの道標にたどり着くと、次の道標も探さなくてはならなくなるのが世の常です。実は、推古元年を甲寅としたことで、新たな道標が一つ見えてきたのです。それは、冠位十二階が制定された年の推古11年が甲子の年へと変わることによって喚起されます。思うに、因果はめぐると言うように、干支もまためぐります。実は、この年から60年後の同じ甲子の年(664)に冠位26階が制定されているのです。この年は天智紀の3年に当たりますが、天智は『日本書紀』によって既に否定されています。また、ここには小治田つまり推古が入ることにもなっているのです。正に、因果はめぐるということなのでしょう。

天武天皇と法隆寺。太安万侶の道標、その40。

 断家についてrikorikoシェスタさんはその感想をブログで述べていました。我が家も私の代で断家となりますが、私は六無斎ですので、当初から断家についてはあまり考えたことはありません。また、そういうわけで墓参りにもあまり行ったことはありません。そろそろ行ってみなくてはならないかなとは思ってはいるのですが、…
 我が家の墓には何代かの先祖が眠っています。しかし、私は2代ほどの名前しか知りません。墓参りの時はこの2代に対してのお参りということになるのですが、それ以前の先祖に対してはどうするべきか考えたこともありません。
 思うに、我々一般庶民が墓所を持ち、墓参りを始めたのはそれほど遠い昔のことではないようです。本稿の主役であり従四位下勲五等の位階を持つ太安万侶でさえ、その墓は奈良県奈良市此瀬町の茶畑に一つポツリとあると聞いております。古代には、今日的な先祖代々の墓といったようなものはなかったように見えます。しかし、有形無形の先祖の入れ物としての墓は存在しています。あるいは、『古事記』もそういったものだったのではないだろうか。そして、法隆寺金堂も。

法隆寺金堂阿弥陀三尊像

 法隆寺金堂には三体の本尊があります。その中で、釈迦三尊像薬師如来像の二つが光背銘を持ち且つ古来よりのものです。また、残りの一体阿弥陀如来像は盗難後の作ではありますが、その台座は古来よりのものと聞きます。阿弥陀像がいつ頃より作られだしたのか詳しくは分かりません。ただ、釈迦像や弥勒像や薬師像よりも遅かったことは確かと思われます。また、橘三千代の念持仏と伝えられる阿弥陀三尊像が最も古いとすれば、あるいは持統朝あたりに作られだしたとも考えられます。
 その兆候は、天武紀の末年朱鳥元年の記事に見えています。そこには、天皇の病気回復を願うため百体の観世音菩薩像を作ったとあるのです。実は、この観世音菩薩像は阿弥陀如来の三尊形式ではその脇侍仏とされているものなのです。もしかしたら、盗難に遭った阿弥陀如来像は天武とかかわりのある仏像なのかもしれません。また、夢殿にある観世音菩薩立像や元は金堂にあったとされる百済観音像は、あるいは朱鳥元年に作られた百体の一部なのかもしれません。
 それはさて置き、次いで持統紀3年7月の記事に目を遣りますと、陸奥蝦夷の僧に金銅薬師仏像と観世音菩薩像を授けたとあります。おそらく、この観世音菩薩像は百体のうちの一つと言えるでしょう。さて、同じ年の4月、新羅が天武の喪を弔うために金銅阿弥陀像と金銅の観世音菩薩と大勢至菩薩の像を奉ったとあるのですが、あるいは、これが盗難に遭った阿弥陀三尊像ではなかったかと。思うに、金堂壁画には浄土図が描かれていることから、また、それには阿弥陀仏の浄土もあることから、新羅から送られた阿弥陀三尊像設置の後にこの壁画が描かれたのかも知れません。

 以上述べたことは全て憶測です。思えば、憶測でものを言うなとは子供の頃によく言い聞かされた文句です。しかし、矛盾が錯綜する古代史。矛盾とただ向きあっているだけでは何の手がかりも得られません。思うに、矛盾を断つには憶測という鈍らの刀の方が振り回しやすい場合があるようです。以下、これによって得られた手がかりを述べることになります。

ー 40.a 表 -
  金堂釈迦三尊 金堂薬師如来  
欽明 敏達 用明 崇峻 推古 舒明 皇極 孝徳 斉明 天智 天武 持統 文武

 24章でも少し述べたことですが、上の表の推古の枠には金堂釈迦三尊光背銘より上宮法皇が入ります。また、金堂薬師如来光背銘より天智の枠には小治田大王天皇が入ります。そして同時に、敏達・用明・崇峻が舒明・皇極・孝徳の枠に入ります。そうすると、下表のように示すことができます。なお、推古の末年と上宮法皇の末年との間には6年のずれがあります。24章では推古(豊浦)としましたが、今回はさらに煮詰めて欽明としました。そもそも、この枠は敏達の先代に当たる箇所なのですから欽明を宛がうのが当然なのです。

ー 40.b 表 -
1   推古 舒明 皇極 孝徳 斉明 天智 天武 持統 文武 元明
2   上宮法皇 欽明 敏達 用明 崇峻 斉明 小治田 天武 持統 文武 元明
3   上宮法皇 欽明 敏達 用明 崇峻 推古 舒明 皇極 孝徳 斉明

 説明をさらに続けますと。1の行は、.a 表をそのまま引き写したもの。2の行は、前述の条件を当てはめてのもの。ただ、このままですと斉明の枠が一つだけ遊離してしまいます。そこで、小治田すなわち推古と見做せば、推古の先代が崇峻となり斉明の枠は崇峻と繋がります。そして、推古の後を、舒明、皇極、…と宛がって行けば3の行となります。
 思うに、本来の系譜は背景色のある枠だけを繋いだものがそれではなかったかと。そこで、これに王後墓誌等の天皇名を当てはめ、さらに系譜を聖武まで伸ばしてみましょう。

ー 40.c 表 -
上宮法皇 欽明 敏達 用明 崇峻 小治田 天武 持統 文武 元明 元正 聖武
乎沙陁
天皇
等由羅
天皇
阿須迦
天皇
池邊
天皇
崇峻
(天智)
小治田
天皇
舒明 皇極
(推古)
孝徳 斉明
(推古)
天智
(推古)
天武

 一目瞭然と言うか、知る限りの金石文にある天皇名を網羅したとも見て取れる表となってしまいました。これに上宮法皇の先代として檜隈天皇を宛がえば、これで大和の天皇がほぼ揃うことになります。
 さて、この表からなにが言えるかということですが。先ず、上宮法皇が乎沙陁(おさだ)天皇であることが分かります。乎沙陁天皇は「記紀」では他田や訳語田と表記されますが、どちらも「おさだ」と読み、基本的には敏達天皇を指します。また、この天皇は『隋書』に載る阿毎多利思比孤(あまたりしひこ)、つまり天足彦のことで、敏達はいわゆる近江息長系となります。これによって、32章での近江息長系の系譜が全て下表のようにまとまります。そしてこの表から左の3つの系譜は、全て右端の天武の系譜を元にしていることが分かります。

ー 40.d 表 -
景行
┰─╂─┒
    皇子 
    ┃ 
    仲哀
    ┃ 
    応神
 ⇐ 敏達
┰─╂─┒
    皇子 
    ┃ 
    舒明
    ┃ 
    天智
 ⇐ 舒明
┰─╂─┒
    26年 
    ┃ 
    天智
    │ 
    天武
 ⇐ 天武
┰─╂─┒
    皇子 
    ┃ 
    文武
    ┃ 
    聖武

 次に、小治田天皇以降に目を遣りますと、男帝は男帝に、女帝は女帝にという具合に上下がうまく組み合わさっているのが分かります。また、元正と天智の組み合わせの場合でも、天智には小治田が宛がわれることになりますから、これも女帝同士の組み合わせということになります。そして、このことが逆に天智が小治田であることを証明してもいるのです。では、なぜ小治田が天智なのか。
 しかし、その前に。天武から聖武までの系譜に舒明から天武までの系譜がうまく対応するのは、舒明以降の系譜が天武以降の系譜を元に組み立てられていることによるものだとは思うのですが、ただ、ここでも天武の系譜がその元とされていることの理由を先ず知っておく必要はあります。なお理由とはいってもそれほど複雑なものではなく、端的には、『日本書紀』は誰かのために書かれたかということで、その誰かと天武の系譜の行き着く先とが同じだということなのです。

東宮聖王は天武

 天武の系譜の行き着く先き。それは、c 表が示すように聖武です。そして、その聖武のために『日本書紀』は書かれています。そして、その聖武への血のつながりを育み守ってきたのが天智系の女帝たちなのです。
 今、c 表のそれら女帝達を全て推古に置き換えると、前章のⓓ表ができ上がることになります。実は、正にこれが小治田なのです。そして、天智とは天智系の女帝の総称ということになるのです。思うに、天武系の血を天智系の女性達が守り育んできた。おそらく、そうしたシナリオが「記紀」全般に流れているということなのでしょう。
 ちなみに言えば、鵜茅不合葺と神武とを守り育んだ豊玉姫玉依姫の姉妹。彼らの関係は母であり叔母であり妻であります。また、天照と邇邇芸命は孫と祖母、神功と応神は母と子、倭建と倭姫は甥と叔母の関係になります。そして、聖徳太子と推古も甥と叔母の関係となります。つまり、こうした関係を、天武、草壁、文武、聖武といった天武系の男性達と斉明、持統、元明、元正といった天智系の女性達との間に見出すことは実に容易なことなのです。
 しかし、それならば天智その者は如何なのかということになるのですが。何度も述べているように天智は孝徳や崇峻、延いては文武と重なり合う背景を持つ天皇です。おそらく天智に関しての正確な描写は『日本書紀』にはないと見た方がいいかもしれません。これは鎌足も同じだと思います。それに、大友皇子の例もあるように、『日本書紀』は天智系の男子については益よりも害があるとみている節もあります。おそらく、これは『日本書紀』を書かせた天智系の女帝の意向が入っているものとも言えます。あるいは、天照と須佐ノ男の物語もそうしたものに因るものなのかも知れません。
 なお、『日本書紀』が天智を近江天皇とするのは、近江大津宮を造営したのが天智だったからでしょう。18章でも述べましたが、大津宮と前期難波宮とはよく似ています。どちらも天智が造ったとしなければいろいろの面でつじつまが合わなくなります。例えば、難波宮を嫌った天智が難波宮と同じような大津宮を造ることは不可解です。また、冠位にしても難波宮朝堂院の7棟2列の7に合わせた7種に固執することも不可解と言う他はありません。それに、この冠位制定の天智3年(664)ですが、この時天智の宮が何処にあったのかがはっきりとしません。仮に大和だったとすれば、何も7種にこだわる必要はないはずです。これに拘ったのは、その時の天智の宮が7棟2列の朝堂を持つ難波宮かあるいは大津宮であったためではないだろうか。つまり、難波天皇すなわち天智とした方が何事に於いても無難だということになるのです。

 思うに、小治田天皇は、天智の死によって天智の宮の難波を離れた後、小治田で即位をし、そして天智の建てた大津宮へ移り住んだということではないのだろうか。大津宮に移り住んだのは、国際情勢の悪化とそしてなによりも法隆寺が完成したことによるものではないだろうか。法隆寺の完成は薬師如来光背銘によれば、用明の死後実に22年もの歳月が経過しているのです。
 ところで、薬師如来光背銘にある東宮聖王とは誰のことなのだろうか。無論、それは天武のことです。なぜなら、光背銘によれば東宮聖王は小治田天皇の太子です。従って、小治田の次の天皇東宮聖王となります。そして、c 表が示すように小治田の次は天武なのです。さて、そうなりますと小治田天皇は天武の母の斉明ということになります。また、そうなりますと、斉明は舒明の皇后ではなく用明の皇后ということになり、天武もまた舒明の子ではなく用明の子となります。しかし、この表から断言できるのは、小治田の次は天武で、天武が東宮聖王だということと、そして、法隆寺を造ったのは天武だということだけです。しかし、法隆寺を造ったのが天武だとすれば、天武のための阿弥陀像や観世音菩薩像が法隆寺に安置されるのは至極当然の成り行きではないだろうか。
 なお、推古紀での推古(小治田)と聖徳太子(東宮聖王)との甥叔母の関係は、おそらくは元正と聖武との関係を反映させたものでしょう。また、聖徳太子の死を推古の末年から数えて7年前としたのは、草壁の死が持統の治世を譲位時の数え方の10年とした場合に丁度その末年から7年前にあることに合わせたものと見るべきでしょう。そして、この草壁に合わせて『日本書紀』は聖徳太子を即位をさせることなく太子のままでその生涯を終えさせたのでしょう。皮肉った言い方をすれば、聖徳太子は草壁と『日本書紀』に殺されたということになります。

 ここで、少しばかり計算をしてみましょう。それには、その下準備として先ず用明の崩年を決めておく必要があります。薬師如来光背銘では池辺天皇(用明)の崩年は丙午(646年)となりますが、「記紀」では共に丁未(577年)としています。そこで、先ずこの丁未(577年)から天武の即位の年(673年)までを計算します。673年-577年=86年となります。次に、これを薬師如来光背銘に合わせて干支一巡繰り下げて計算します。86年-60年=26年となります。結果、86年と26年という二つの年数が算出しました。そこで、先ずはこの26年なのですが、どこかで述べているようにも思うのですが、確か天智がそうではなかったかと。
 そう、38章の最後に、天智の即位は父舒明天皇の死後実に26年もの長きを経てからのものと述べています。思うに、『日本書紀』の中でこれくらい不可解なものはありません。大化の改新の立役者が、しかも太子でありながら皇位に就かず、鎌足に諭されて叔父の孝徳に皇位を譲る。一見美談のようですが、その実鎌足に騙られている。しかし、なぜか天智はこの鎌足を重用している。これほどの矛盾はありません。しかし、天智すなわち孝徳と見做せばこの矛盾は解決します。しかも孝徳は難波天皇ですから仁徳にも繋がります。
 その仁徳に繋がる数が、もう一つの年数86年です。仁徳紀は仁徳の治世を87年としています。86年では仁徳の治世に1年ほど足りませんが、用明の崩年を「記紀」の丁未から薬師如来光背銘の丙午に変えるだけで仁徳の治世の87年となります。そもそも天武には天皇元年と即位元年の二つがあります。天武紀では即位前の天武を天皇と表記しています。そうすると、天皇元年(672)から丙午(646年)までが26年間、即位元年(673)から丙午(576)までが87年間となります。このことは、『日本書紀』が26年と87年の算出に丙午を基準として用いていたことを示しています。つまり用明の崩年が丙午であることを『日本書紀』は認めているのです。
 なお、天智紀での天智元年は天皇元年とはなっていません。天智紀では、天智がその7年に即位するまでは天智を天皇とは表記せず皇太子で通しています。つまり天智の場合、即位元年と天皇元年とは同じということになります。はてさて、これはなにを意味しているのだろうか。考えられることは一つしかありません。それは天智は皇太子ではなかったということです。