昭和は遠くなりにけり

古代に思いを馳せ、現在に雑言す。・案山子の落書・

§47.高市文化圏。

日本書紀』は、法隆寺の前身とされる若草伽藍の焼亡を670年と記しています。もしそれが事実だとすれば、斑鳩文化圏が成立したのは壬申の乱以降ということになります。また、『日本書紀』は壬申の乱の翌年から高市大寺の造営が始まったとも記しています。そうすると、斑鳩高市とは異なる斑鳩文化圏と呼び得るものがある以上、おそらくは高市にも高市文化圏と呼びうるものがこの時期には成立している、ということになるのではないだろうか。
 それにしても、決して広いとは言えない奈良の盆地のたとえ西のはずれと東南の隅という互いに離れた立場にあったとしても、共に太子道で結ばれている斑鳩高市、果して特徴の異なる文化をそれぞれが時を同じくして独自に育めるものなのだろうか。

寺の創建瓦とその形式

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 前章では、定説あるいは通説と呼んだ方がいいのかも知れませんが、それに合わせての寺院の建立開始時期の設定を試みました(上図参)。
 結果は、南滋賀廃寺と川原寺が天智代の同時期でしかも瓦が同系統ということで通説通りと言う他はないようにも見えるとしました。しかしそれならば、なぜ天智紀には飛鳥寺しか出てこないのかという疑問が生じます。また、法隆寺高市大寺が天武代の同時期という結果にしても、南滋賀廃寺と川原寺が近江と大和という遠隔地でありながらも同系統の瓦が使われていることを思えば、斑鳩とそれほど距離の隔たりのない高市地方に法隆寺系統の瓦が見られないのは、あるいは法隆寺高市大寺とが同時代の造営ではないのではないかという前述の結果とは逆の結果を導く要因になるということではないだろうか。
 思うに、ここに言う定説あるいは通説というものは『日本書紀』以降の文献に拠るものです。そもそも『日本書紀』からは、川原寺が天智の創建とか近江遷都以前の造営とかのシナリオは見えてきません。それに前章で載せた『瓦と古代寺院』からの引用にもあるように、形も文様も大ぶりの複弁蓮華文となってくる法隆寺や川原寺の創建瓦の出現を瓦変遷の一エポックとして捉えることができるのです。

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 上は、臨川選書『瓦と古代寺院』森郁夫著に載る大ぶり文様の瓦です。なお、法隆寺と川原寺の瓦の違いについては、ニューサイエンス社考古学ライブラリー森郁夫著『瓦』に詳しく載っております。下にその一節を少し引用させてもらいました。また、下図.47cもこの『瓦』を参考としたものです。

中房が大ぶりで突出すること、蓮弁の反転が強いことなどは川原寺の軒丸瓦と同様であるが、蓮弁の一単位が完全に分離せず、界線が2弁を1単位として囲んでいる。そして各弁に子葉をおくのである。このように、蓮弁の様子が川原寺と大きく異なる点が法隆寺式の特徴である。さらに外区にめぐらせた鋸歯文が線鋸歯文であるところも川原寺と異なるところである。

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 ところで、法隆寺や川原寺の前後を普通白鳳時代と呼ぶのだそうですが、この時代の大ぶりの文様の瓦はその瓦当文様の特徴から大きく次の五つほどの系統に分けられるのだそうです。そして、それらはそれを代表する寺の名前から、法隆寺式、川原寺式、紀寺式、薬師寺式、大官大寺式と呼ばれています。
 さて、これらの中で紀寺を除く残りの四寺は官寺であることが分かっています。また、これらの中にこれまで問題としてきた法隆寺と川原寺が当然含まれています。ただ、しかし、ここでの最大の問題の寺である天武の勅願寺にちなむ高市大寺式が見当たりません。
 思うに、天武は諸国の氏族に造寺を促したとされています。従って、天武の勅願寺にちなむ瓦が諸国に広がっている可能性は否めません。また、たとえ高市大寺そのものが分からなくとも、この系統の瓦が今日何々寺式という名前で呼ばれている可能性も当然考慮しなくてはなりません。つまり高市大寺を、以上述べた系統のどれかとすることの可能性が当初から存在するのです。そしてそれを、あるいは瓦が教えてくれるのかも知れません。

 今日、高市大寺の有力候補としては、木之本廃寺、奥山廃寺、小山廃寺が挙げられています。ただ、この中で天武2年以降の造営となる高市大寺に適合する瓦を持つ寺は、紀寺式と呼ばれる文様の瓦を出す小山廃寺だけです。しかも、この寺の瓦は畿内を中心としながらも各地に広く分布しています。また、そうであるからこそ紀寺式とも呼ばれているということです。ただ、しかし、この寺はその規模からも、また塔を欠く伽藍遺構からも凡そ大寺とは呼べないほどに貧弱です。しかも、この寺は藤原京の条坊に正しく則っていることから、その造営の時期を条坊設定の天武末年から大きく遡らせることは出来ず、天武2年からの造営とされる高市大寺に比定することは不可能です。
 なお、木之本廃寺と奥山廃寺についてですが、ここから出る単弁蓮華文の瓦は山田寺跡や若草伽藍跡から出る瓦に近く、複弁蓮華文を持つ法隆寺式や川原寺式よりも古いタイプということになります。従って、川原寺よりも後に出来たとされる高市大寺とは最初から程遠い関係と言うほかありません。そしてそうなると、高市大寺に葺かれていた瓦は紀寺式や法隆寺式でないとすれば、これは川原寺式以外には考えられず、しかも、川原寺以上に有力な官寺もまた高市地方には見当たらないとなれば、川原寺即ち高市大寺とするのが自然と導かれる結論のように見えます。そして、そうなると、天武紀や持統紀に川原寺と同時に挙げられている大官大寺法隆寺のことであるとするのが一番適切ということになります。

川原寺は天智代にはなかった

 ところで、高市大寺を川原寺とした場合、さらには法隆寺大官大寺とした場合、何か不都合なことが起こるだろうか。いや、むしろその逆ではないだろうか。そこで、前章の蒸し返しになるとは思いますが、『日本書紀』の中から川原寺とかかわりのありそうな記事の初出を拾い上げて、下の表に表わしてみました。

表.47a 白雉紀と天武紀の奇妙な一致
白雉2年 味経宮で一切経を読ませる 天武2年 書生を集めて川原寺で一切経を写す
白雉4年 仏菩薩像を造って川原寺に安置する 天武4年 一切経を全国に捜し求めさせる
  天武6年 飛鳥寺一切経を読ます

 表や図は、物事の相違点や一致点を際立たせてくれます。上の表もそうしたものだと思いますが、何とはなく作為めいたものを感じさせられもします。たとえば白雉年間の記事は天武紀を基にしているのではないかと。しかし、天武紀が基だからと言って天武紀の記事が合っているということではないようにも見えます。ただ、天武と川原寺と一切経とは切っても切り離せない関係にあるということだけは強く感じ取れます。
 そもそも、斉明の宮を寺にしたのが川原寺だということであれば、斉明の息子である天武にとっても川原寺は天智以上に大事な寺ということになります。従って、この寺で最初の一切経の書写が行われたとしても何ら不思議はありません。しかし、その大事な寺が、この天武2年の記事を最後に天武14年の川原寺への幸行まで何の話題の対象にもなっていないのはやはりおかしいのではないだろうか。
 そこで、『日本書紀』では記事数の多い飛鳥寺と一寸見比べてみましょう。下の表.47bは天武代の飛鳥の三大寺とされる、川原寺、飛鳥寺大官大寺の記事数とその年を書き示したものです。

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- 表.47b 飛鳥三大寺とその記事の年 -
  川原寺 飛鳥寺(元興寺法興寺)



白雉 4年 崇峻 0年・1年
推古 1年・4年・14年・17年
皇極 3年・4年
孝徳 0年
斉明 3年
天智 10年
    飛鳥寺 大官大寺



1
2
6
9
10
11
13
14
15

○1回





○2回
○5回
○1回

○2回
○3回
○1回
○1回
○1回
○2回
○2回

○1回(注)



○1回

○2回
○4回
持統 1年・2年 10年

 さて、川原寺の造営が通説通りに天智代(662~)から始まったとすれば、天武2年(673) の川原寺での一切経の書写は十分過ぎるくらい可能です。しかし、表.47bからも分かるように、天武2年以降に天武が重用したのは川原寺ではなく飛鳥寺です。しかも、この傾向は天武年間だけではなく持統年間にも引き継がれています。これは不思議と言うほかありません。しかも、図.47dからも分かるように、川原寺は浄御原宮からは指呼の間にあります。それに比べて飛鳥寺は浄御原宮より少なくとも500mは離れています。それなのになぜ天武も持統も官寺である川原寺よりも一私寺でしかない飛鳥寺を重用するのだろうか。
 その理由として考えられることはそれほど多くはありません。先ず、と言うよりもおそらくこのことが全ての理由につながるのだろうと思います。それは、川原寺は飛鳥寺に比べて格段に歴史が浅いということです。つまり、歴史が浅いということは、仏事に不慣れな未熟な僧が多いということであり、当然有能な僧も未だ育ってはいないということになります。従って、僧衆の統制も完璧には行われず、日常的な仏事にも不首尾が生じ、結局特別な仏事以外は飛鳥寺に頼ることになったのではないだろうか。
 思うに、川原寺の造営が通説通り天智代に始まり、天武2年の一切経の書写が行えるくらいまでに僧衆が揃っていたのであれば、おそらくかくも飛鳥寺に頼ることは無かったと思われます。無論、官寺ですから有能な僧を集めることは可能です。ただ、当時の場合、有能な僧というのは唐から帰国した学問僧を指すことになります。ここでの場合ですと、白雉年間や斉明代に唐に渡り10年前後の修行を積み天智代に帰国した学問僧ということになります。従って、事実川原寺が天智代の造営であれば、当然そうした学問僧がこの寺に集められたはずです。しかし、そうではなかった。つまり、川原寺は天智代の造営ではなかった。おそらく、そういうことではないだろうか。
 では、川原寺の造営はいつの時代なのだろう。

 周知のように、天武と持統の代は唐との交流が一切無かった時代です。また、天智2年の白村江の戦い以降学問僧が唐へ渡った可能性はなく、天武・持統の代に帰国の時期を迎える学問僧はいなかったと思われます。つまり、天武・持統代に造営された寺院に有能な学問僧を集めることは難しかったということです。おそらく、高市では天武代以前の造営とされる飛鳥寺にこそそうした僧が自然と集まって居たのではないだろうか。
 こう考えた場合、天武代の造営となる高市大寺にも当然そうした僧は居ないことになります。また逆に、そうした僧の居ない寺院は天武代の造営と言える事にもなります。思うに、川原寺は天武代の造営ではないのか。また、何度も言うように川原寺こそが高市大寺ではないのか。
 思うに、法隆寺式の特徴を示すものが斑鳩文化圏だとすれば、川原寺式の特徴を示すものが高市文化圏ということになるのではないだろうか。また、斑鳩にある法隆寺斑鳩大寺と呼ぶのであれば、高市にある川原寺を高市大寺と呼ぶことに不都合はないのではないだろうか。

§46.都と寺。

 大官大寺の出発点を示しているかもしれない吉備池廃寺という道標からは随分と離れてしまいました。しかし、吉備池廃寺からの降り道がはっきりとしない以上、この道標からは離れ、藤原京大官大寺から遡るのが順当ということになります。それに、今のところと言うより、おそらくこれからも吉備池廃寺を大官大寺の最初とする見方は変わらないものと思います。
 そうしますと、藤原京大官大寺から吉備池廃寺へどのような流れが模索できるかということになるのですが、前回、川原寺を高市大寺に、法隆寺を天武紀大官大寺に想定しています。つまり、時間の流れは逆になりますが、大官大寺⇒川原寺⇒法隆寺⇒吉備池廃寺という流れが可能かどうかを模索すればいいことになります。またそうすることが、川原寺即ち高市大寺という流れにもつながることになります。

川原寺と南滋賀廃寺

 さて、大官大寺⇒川原寺⇒法隆寺⇒吉備池廃寺という流れ、実はこのままでは川原寺までしか遡ることは出来ません。そこで、これを先ず次のように書き表してみましょう。

- 表.46a 都と寺 -
藤原京 飛鳥京 近江京 ?₁ X₂ ?₃ X₃
大官大寺 川原寺 X₁ ?₂ 法隆寺 ?₄ 吉備池廃寺

 こうすると、少なくとも近江までは遡れそうに見えます。また、それより先は『日本書紀』に頼れば、天智の倭京、斉明の後の飛鳥京へと続きはしますが、残念ながらこれらの都にかかわる寺が『日本書紀』からは見つかりません。従って、近江までを先ず確保することから始めることになります。
 と言うのも、実はこの川原寺そっくりな寺が壬申の乱の舞台である近江大津宮の地に当時あったからです。しかも、造高市大寺司の任命が壬申の乱の翌年から始まっているとすれば、高市の地に先代の都大津京ゆかりのこの寺を移すのは正に当を得た行為ということにもなります。そして、その寺が表.46aのX₁ということになります。
 さて、その寺ですが、その寺は南滋賀廃寺と普通呼ばれています。下図の左端がそれです。下は、ニューサイエンス社発行の考古学ライブラリー27・林 博通 著『大津京』からのものです。

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 なお、川原寺そっくりとは言いましたが、正確には西金堂の向きが違っているのです。川原寺の西金堂は東塔と向かいあっていますが、南滋賀廃寺の場合は塔を東にして南正面を向いているのです。しかし、このことがこの説に不都合を招くということにはなりません。と言うのも、この塔を東にあるいは西にして南正面を向く金堂は斑鳩の寺には普通に見られるものだからです。たとえば、法隆寺法輪寺法起寺がそれに当たります。つまりこれは斑鳩の特徴とも呼べるものなのです。
 そこで、右端の図にも目をやって下さい。これは穴太廃寺と呼ばれている大津京時代の古代寺院の発掘及び推定伽藍は位置図です。この再建穴太廃寺がやはり南滋賀廃寺と同じように塔を東にして南正面を向いているのです。しかも、再建穴太廃寺の場合は、本来塔と金堂とが向かい合っていた創建穴太廃寺をわざわざ西金堂が南正面を向くように作りなおしてもいるのです。正に、斑鳩の勢力が大津に押し寄せて来たといった景観ではないだろうか。
 それにしても、この二つの寺院は大津京時代の有力寺院のはずなのですが、なぜか名前さえ残されてはいません。また、大津京を単純に天智の時代と『日本書紀』も今日も主張していますが、このような寺院の名前が天智の時代に出てこないということを少しは考慮し、さらには既成の定説を考え直さなくなくてはならないという風に考えなくてはならないのではないだろうか。

 思えば随分と昔のことになります。私は図.46aの穴太廃寺の創建と再建の二つの伽藍図をここでの参考図書『大津京』の中に見い出した時、これは法隆寺そっくりだと感じたことを今日のように覚えています。また、もし法隆寺金堂薬師如来像光背銘にあるように東宮聖王が法隆寺を再建したのであれば、この東宮聖王が小治田大王天皇を推戴して大津に遷都したのではないかと、今日までずっとそう思ってきてもいます。そしてそうなれば、表.46aの?₁は必要のない都の時代となるのではないかと。
 無論、それでは『日本書紀』とは合致しなくなります。『日本書紀』では、?₁は斉明の倭古京の時代となるのですから。また、?₂は川原寺の可能性もあります。しかし、天智が母斉明を奉っての難波宮から倭古京への帰還、これは東宮聖王が小治田大王を奉っての近江大津への遷都と、そして近江大津から倭飛鳥への帰還とに非常によく似ているのです。無論、前者は『日本書紀』に載る話の筋、後者は素人の創造に過ぎませんが。しかし、天智と寺の話しは『日本書紀』には殆どないようにも見えます。私は、天智は仏徒ではないと思っています。無論、これも素人の考えですが。

都と寺

思うに、都が移れば寺も移る。藤原の都から奈良の都への時がそうでした。では、飛鳥の都から藤原の都への場合はどうだったろうか。藤原の都には大官大寺があります。この大寺はどこからか移されたものだとされています。やはり、藤原の都でも寺は移されています。では、大津の都から飛鳥の都へ移る時、寺は移されたのだろうか。もし移されたのだとすれば、それはどの寺なのだろうか。
 思うにそれは川原寺ということになりはすまいか。そして、もしそうだとすれば大津の都から移された川原寺はやはりどこからか大津の都に移された寺ということになるのではないだろうか。

 川原寺は孝徳紀白雉4年(653)にその名前が既に載っています。また、天武紀2年(673)3月にも、一切経の書写が初めて行われた寺としてその名が記されています。従って、天武紀2年の12月から造営が始まったとされる高市大寺に川原寺を当てはめる自説はあるいは無理というものかもしれません。
 しかし、今日では川原寺は斉明天皇の川原宮の後に建てられた寺という風に考えられています。そうしますと、白雉4年の川原寺の記事は少々おかしいということになります。しかも、この記事には山田寺の可能性もあるとする分注がついてもいるのです。また、天武2年の川原寺での一切経の書写の記事にしても、天武紀を注意深く読んでみると、なんとも不可解なことに天武4年の10月に四方に使いを遣わして一切経を捜し求めたとする記事が載っているのです。
 そもそも一切経の書写をさせておいてから、その後2年近くも経ってから一切経を探すというのはどう見ても順序が逆で腑に落ちません。無論、一切経は非常に幅の広い経典ですから、あるいは注釈書関係を探させたとも考えられます。しかし、腑に落ちないのはそれだけではないのです。そもそも川原寺で一切経の書写をさせたとしながら、奇妙なことに天武6年8月には川原寺ではなくて飛鳥寺一切経を読ませたとする記事が載せられているのです。

川原寺は天智の勅願寺ではない

 何とはなく、自説に都合の悪い記事への非難口調となってしまったような気もいたしますが、続けますと。
 ところで、一切経の記事は『日本書紀』の中では孝徳紀の白雉年間に一度と天武紀での三度との合わせて四度だけしか載っていません。また、川原寺の記事にしても白雉年間に一度と天武年間に八度だけの全部合わせても九度しかありません。それに天武年間の場合は天武14年より前に限れば、川原寺の記事は一切経を写したという記事以外には見当たりません。つまり、『日本書紀』に於ける川原寺の記事は、天武が重病に陥ってからの記事がほとんどだとさえ言えるのです。
 これは自説と言うよりも、想像なのですが、天武は近江大津宮で死去した母斉明を飛鳥の川原の宮で殯をした後その宮を寺とした。これが川原寺ではないのかと。つまり川原寺は天武の勅願寺であると。なお、『日本書紀』には、天智が九州で死去した斉明を11月7日に飛鳥の川原に殯したとする記事があります。そして、この記事が今日の川原寺は天智の勅願寺という定説を生み出す基となっています。
 しかし、そうした定説とは裏腹に、天智10年(671)に天皇が病気に陥った時、川原寺でも南滋賀廃寺でも天智天皇に対しての病気平癒の祈願も祈りも行われてはいません。ただ、内裏での百体の仏像の開眼供のあったことと、天皇飛鳥寺に珍宝を奉らせたという記事があるのみです。思うにこれはおかしい。そもそも飛鳥寺勅願寺ではない。これでは天智の時代には、勅願寺も天智自身の勅願寺もなかったことになります。それとも寺は未だ完成していなかったと言うのだろうか。

 ところで、臨川選書・森 郁夫著『瓦と古代寺院』によれば近江の南滋賀廃寺や崇福寺の軒瓦には川原寺系統のものが使われていたそうです。当然このことは定説に有利に働くのですが、森郁夫氏は同書の中で川原寺と法隆寺の瓦について次のように述べています。なお、引用最初のこの寺というのは川原寺のことです。

この寺の創建時の軒瓦は大ぶりで、複弁八弁蓮華文軒丸瓦と四重弧文軒平瓦が組み合ったものである。蓮弁は強く反転した仏像の蓮華座を思わせる。蓮弁の周囲には面違い鋸歯文がめぐらされる。大きく作られた中房には写実的な蓮子がおかれる。法隆寺西院といい、七世紀後半に期せずして大ぶりな瓦当面に複弁蓮華文を飾る軒丸瓦が作られることになった。そして両寺ともに、それぞれの系統のものが各地に分布している。法隆寺式の瓦が西国に分布圏があるのに対し、川原寺の瓦は東国の方に多く見受けられる。

 思うに、川原寺は文献上も考古学上も近江に結びつきます。そして更には斑鳩に結びつくということです。そしてそうなると、川原寺は天智には結びつかないことになります。なぜなら、天智は斑鳩には結びつかないからです。なぜなら、そもそも『日本書紀』は天智9年(670)つまり天智の亡くなる前の年に法隆寺が焼亡したとしてるからです。これは正に天智を法隆寺西院ではなく若草伽藍に結び付けていることを示しているのです。
 ここで、ちょっとした計算をしてみましょう。定説によれば川原寺は斉明の死後の662年頃より造営が始まったことになります。また、近江遷都の準備としての南滋賀廃寺や崇福寺の造営も近近始まると考えなくてはなりません。普通、寺院が完成するのに20年前後かかると言われています。ただ、官寺の場合はもう少し短いとは思います。例えば、藤原京大官大寺大宝元年(701)より造営が始まり、10年後の711年焼亡の時には塔の基壇外装や中門等が未だ完成していなかっただけと言われています。また、薬師寺の場合は藤原京の条坊に則っていますから、天皇が京内で宮室を定めたとする天武13年(684)の3月9日以降の造営と考えられます。そして、文武2年(698)に衆僧を住まわせたとする記事のあることから凡その完成までに10年といったところでしょうか。
 そこで、川原寺や南滋賀廃寺の完成に十年程度を要したとしてみましょう。そうするとこれらの寺は672、3年前後の完成ということになります。この時期は丁度天武2年(673)の川原寺での一切経の書写や造高市大寺司の任命の時期と相前後します。無論、これだと当然天智の時期には寺は完成していなかったことになります。しかし、薬師寺の場合はほぼ完成の10年前の持統2年(688)には無遮大会が行われています。つまり寺は完成していなくとも大事な行事は行えるということです。 ── どうやら定説に従ったとしても、天智と川原寺との間には何のかかわりも見出せないということのようです。
 ところで、670年焼亡の法隆寺ですが、前回法隆寺所蔵観世音菩薩造像記銅版に記された造像銘のなかに鵤大寺の名前があることを紹介しています。また銘文には、これが造られたのが甲午の年とあることから、この年を持統8年(694)としました。そうなると再建法隆寺は少なくともこの年より十数年前には造営が始まっているということになります。そしてその十数年前とは、実は高市大寺の造営開始時期と重なるのです。

斑鳩文化圏

 さて、定説に従って関連寺々の造営開始時期を推し測ってみました。すると、川原寺と南滋賀廃寺との造営がほぼ同時期に、そして法隆寺高市大寺の造営もまた同時期にそれぞれ開始されたことになるようです。また、川原寺と南滋賀廃寺との瓦が同系統の瓦であることから、これはほぼ確かなことのようにも見えるのですが、法隆寺高市大寺との瓦に関しては必ずしもそうとは言えないようです。
 と言うのも、先ほど高市大寺の瓦は川原寺系統の可能性があると述べましたが、川原寺系統は大ぶりという点では法隆寺の瓦と一致していますが、文様は全く違った系統となります。また、この時期、法隆寺系統の瓦は高市には殆ど見られず、飛鳥においては全くないとも言われています。
 ところで、森郁夫氏はその著『瓦と古代寺院』の中で法隆寺系統の瓦を斑鳩文化圏の瓦だと述べています。

§3.奴國は伊都國。

 最近、邪馬台国に関しての新しい知見が得られなくなりました。それは、古代史ブームが去ったということにもよるのでしょうが、もしかしたら新たな発掘の成果待ちという歴史家の消極的な研究態度によるものも又あるのではないかと思ったりもします。

 ところで、これは初回でも述べたことですが、いわゆる邪馬台国は「魏志倭人伝」の中にのみ存在する国家です。したがって、もしこの国家に謎があるのだとすれば、その謎は当然「魏志倭人伝」の中に於いてこそ解かなければならないという事になるのでしょうが、あるいは、もしかしたら「魏志倭人伝」の中に於いてのみ解ける謎であるのかもしれません。

戸数が示す邪馬台国の構図

 前章では、伊都國に奴國を取り込めませんでした。しかし、倭奴國と奴國を切り離せたようには思えます。しかし、切り離したからと言って、漢倭奴國⇒(倭)奴國⇒伊都國の関係が壊れるわけではありません。奴國を(倭)奴國とすれば良いだけです。

さて、百余国中の一つ、委奴國が成長して漢委奴國となった。その漢委奴國が成長して伊都國と呼ばれるようになった。そして、その伊都國がさらに成長して旧都部のみが従来どおり伊都國と呼ばれ続けられるようになった。無論、これは仮説です。そして、その仮説ついでにもう一つ、奴國は成長した大伊都國つまり(大倭)奴國であると。

 下に示した表.3aは、1章での仮説の成果である表.1bから得られた新たな成果です。そして、その成果とは、對馬國から伊都國までの戸数を合わせれば奴國の戸数となり、奴國の戸数と投馬國の戸数とを合わせれば邪馬壹國の戸数となることです。

- 表.3a -
對馬國 一大國 末盧國 不彌國 伊都國 奴國 投馬國 邪馬壹國
千餘戸 三千許家 四千餘戸 千餘家 千餘戸 萬餘戸 二萬餘戸 五萬餘戸 七萬餘戸
萬餘戸
二萬餘戸 七萬餘戸

 この表を見て感じることですが、奴国と邪馬台国は戸数の対応から一つの国としての名前ではなく、いわゆる連合あるいは連邦の国家としての名前のようにも受け取れます。また、伊都国には戸数の上で二つの顔があるようにも見えます。実は、伊都国に二つの顔を持たせることがここでの味噌なのです。

 ところで邪馬台国の謎の解き方、殆どの人が道程や方位のやり繰りで終始してしまい、戸数から謎を解こうとする人はあまりいないようです。しかし、邪馬台国の戸数7万戸はあるいは奴国の戸数2万と投馬国の戸数5万とを加えた数なのではないかという疑惑は誰もが抱くことではないだろうか。
 また、それ以外にも、記事中の戸数等の数に関しては、上の表.3aからも分かるように、8ヵ国の戸数のうち千、万という単位を除いた数の6以外は1から7まですべて揃えているありさまで、これは故意に揃えたのではないかというような非常に芳しくない評判もあるわけですから、もう少し戸数に目を遣っても良いのではないかと…
 しかし、それはさて置き、今度は表.3aを新たな仮説として、奴国を取り除くべくと言うよりも取り込むべく話を進めて参ります。そこで、奴国までの仮説図を先ず用意しましょう。

仮説図1

 さて、パズルを表や図形に直しますと非常に解き易くなります。無論、ある決まった形に整えるのですからいわゆる四捨五入といったようなことが起こります。四捨五入は数の場合は非常にすっきりとしたものになりますが、事象の場合は必ずしもそうはまいりません。例えば、四捨は余分の情報の切り捨て、五入は空白部を含む情報の取り込みとなります。
 切り捨ての場合は、何を捨てるかが分かりますから、無用のものを捨てれば何の問題も起こりません。しかし、取り込みの場合は問題が生じます。それは、空白の部分を持つ情報は決まった形に整えられて取り込まれるわけですから、その取り込まれる時点で、その情報は空白部を埋めるまでに拡大されるからです。拡大する場合、それを行う者の主観等が入り込みます。ここでの場合ですと私の主観、伊都国が拡大解釈されて取り込まれることになります。

 伊都国については、先ず倭奴国と書き換えが可能です。倭奴国というのは金印にもある漢の委奴国のことで、これは前回の冒頭でも述べた大和と同じで拡大が可能です。また、周知のように伊都国の戸数に関しては、魏志に千余戸とある一方で魏略には万余戸とあります。ただし、これを二者択一としたのでは何の進展も得られません。これもやはり前回の冒頭で述べたように拡大して取り込みます。
 では、どのようにして取り込むか、その形を先ず決めなくてはなりません。しかし、これは以外とも言えるほど簡単なことです。それは既に述べているように、奴国の2万と投馬国の5万とを加えれば邪馬台国の7万になるという手順の形です。これがここでのパズルのピースの形なのです。そして、これを発展させて簡単な図として示しますと下のようになります。

- パズル邪馬壹國のピース、パズル奴國のピース 【table図.3a】-
對馬国から伊都国までの総戸数 1万 奴国 2万 邪馬台国 7万
?国 1万
  投馬国 5万

 そしてこの図の ?国 を指定すればいいわけです。そして、幸いというよりも、「魏略逸文」に伊都国の戸数を1万とする記事がある事を知っていたためにこうした拡大が出来たというわけです。
 さて、図.3aでは伊都国の総戸数を1万1千とし、これを旧都部と新都部とに振り分けてそれぞれの戸数を1千戸と1万戸としました。また、奴国を拡大伊都国の意味をこめて大倭奴国としました。無論、そうすることで伊都国が倭奴国や奴国であるという証明が必要となってはきます。しかし、そうではあるが、ここで見方を少し変えれば逆に伊都国が倭奴国や奴国であるという証明がこれによって出来たと言えなくもないのです。

仮説図2

 この図は、伊都國を拡大解釈した以外は、「魏志倭人伝」に載る戸数の合計が任意の数になる毎に順次囲い込んでいっただけのものです。この図は基本的には上のtable図.3aと同じものですが、こうしてみると邪馬壹国の構造やその成長過程が驚くほどよく映し出されてもいる事に気付くと思います。ただし、今度は邪馬台国と伊都国が同じ国とした場合でのことではあります。しかし、その説明は後程にまわすこととして、ここでは、これまで述べたことがそれほどの見当違いではないことを先ずこの図を用いて説明しておきましょう。

  1. このaの段階は、伊都國が周辺の集落国家を吸収し膨張を始めた時期。なお、戸数の1万1千余は女王国の時代のもので、当時の戸数は旧都部伊都国を除いて数千程度と思われます。しかし、對馬国から不彌国までの4ヵ国の総戸数も当時は数千程度と思われますから、伊都国がそれらの国々を傘下に収めるのは時間の問題でしかなかったでしょう。年代としては紀元前から中元二年(57年)までということでしょうか。この時期は単一の国としての成長途上の段階です。
  2. このbの段階は、中元二年(57年)の漢委奴國王の時代以降に当たります。近隣諸国を傘下に置き、大陸との交易の独占を確立した時期とできるでしょう。なお、図中の四ヶ国は「倭人伝」時期における当時の国数です。従って、実際にはもっと多かったかもしれません。これはaの段階でもそうであったということですが、漢委奴國がいわゆる連邦制あるいは連合制をとっていた場合、あるいはずっと同じ国数であったかもしれません。年代としては、中元二年(57年)から永初元年(107年)までといったところでしょうか。
  3. このcの段階は、永初元年(107年)の倭國王帥升の時代から倭国大乱を経た、「倭人伝」における当時、景初2年(238年)からの邪馬壹國の二女王の代まで、ということになります。

 なお、図中記載の戸数はすべて女王国の時代のものとなります。また、少し付け加えますと、狗奴國は倭國王帥升の時代に倭国編入され、大乱後に倭国より離反したとも考えられます。なお、後漢代の漢委奴國はいわゆる倭人国で、後世で言う倭国とは少しニュアンスが違います。またaの段階での倭奴国は拡大第一段階目の伊都国という意味です。

 ところで、図中より得られえる邪馬壹國の構造、何かに似ているとは思いませんか。そう、江戸時代の幕藩体制によく似ているのです。たとえば、伊都國が将軍家、對馬國から不彌國までの四ヶ国が親藩あるいは譜代、投馬國が外様、そして邪馬壹國が天皇家というふうに順次置き換えが可能です。ただし、伊都國と邪馬壹國との関係は同族となります。
 なぜなら、この図が示しているのは、邪馬壹國は伊都國つまり倭奴國の成長過程での節目の一つの呼び名に過ぎないということだからです。創造をたくましくするならば、あるいは「ヤマタイコク」は邪馬壹國ではなく、邪馬大倭奴國と表記されていた可能性も見えてくるのです。また、奴國は、倭奴國の中枢部を伊都國と呼んだために倭奴國あるいは伊都國とは別の国と誤解され「倭人伝」に付け加えられたものという風にも解釈が出来るのです。

 こうしてみますと、邪馬台国の変遷が大和の変遷と非常に良く似ていることが分かります。ただ違うのは、大和が一貫して大和であったのに対し邪馬台国の場合は倭奴国から伊都国へと、そして邪馬台国へと名前の変遷があったようにも見えることです。しかし、伊都は倭奴とも表記出来、大和の初期の表記は大倭なのですから、あるいは「倭人伝」の編纂過程での不手際によるものともできそうです。
 これは初回でも述べたことですが、「魏志倭人伝」は陳寿の「倭人伝」だということです。それが正確であるかどうかは、偏に陳寿が資料をどれだけ正確に集めたか、そしてそれをどれだけ正確に用いたかどうかにかかっています。ただ、個人として思うことですが、こうした図やパズルのピースが得られるということは、陳寿の「倭人伝」は別として、邪馬壹國にかんする情報の多くは「魏略逸文」等をも含めて正確に魏に伝えられているということであり、「倭人伝」の記事部品としての価値は高いといわねばなりません。

§45.高市大寺は川原寺か?

 さて、元明陵から山田寺まで道標に従って輪廻の路を下ってまいりましが、実はこの路の途中にもう一つ別の道標があるのです。それは吉備池廃寺と呼ばれている古代の寺院跡です。そして、この寺院跡が大官大寺の前身である百済大寺跡ではないかとも言われているものなのです。
 百済大寺については色々な流布伝説があるようですが、私が一番興味を引いたのはこの寺が焼失したということです。焼失した寺としては法隆寺が有名ですが、藤原京大官大寺もまた有名です。特にこの大官大寺の塔の焼亡は平城京の伽藍配置に影響を及ぼしているようにも見えます。例えば、藤原京までの塔が回廊の中に配置されていたのに対し、平城京では塔が回廊の外に配置され、伽藍主要部より切り離されてしまっているのです。
 思うに、大官大寺の焼亡こそが百済大寺の焼亡伝説を作ったのではないかと。しかし、その代わりというか、回廊内から解き放たれた塔は自由さを増し、その数や位置を自由に設定できるようになったとも言えます。正に、東大寺の西塔と大仏殿と聖武陵との位置関係はその賜物ということなのでしょう。
 なお、吉備池廃寺には焼亡の痕跡はありません。しかし、この寺が大寺と呼ばれるにふさわしい規模であることだけは確かのようです。

伽藍配置が示す道標

 大官大寺の名称は天武紀から持統紀にかけて何度か出てきますが、この寺が現実のどの寺に当たるのかは未だ決していないようです。ただ、この寺の前身が百済大寺と呼ばれていたことだけは確かなことのようです。
 さて、その百済大寺ですが、奈良県桜井市吉備の吉備池廃寺がそれではないかとする説が有力視されています。仮にその説が正しいとすると、43章でも述べたことですが、天武時代の大官大寺法隆寺である可能性が生まれてくるのです。と言うのも、吉備池廃寺と法隆寺は伽藍配置がどうも同じらしいのです。また、法隆寺には焼亡の事実もありそれと相まってますます可能性があるようにも思えます。
 下の伽藍図は、吉備池廃寺の伽藍配置とそれに良く似たものとを、また藤原京大官大寺の伽藍配置とそれに良く似たものとをそれぞれ組み合わせて掲げたものです。そして、新旧の関係を推し測って、旧い方から新しいほうへ矢印を向けて指し示したものです。また、図の稚拙さ以外は、同じ縮尺となっています。

 これを見て思うことですが、どう見ても吉備池廃寺から法隆寺へ、川原寺から大官大寺へという流れしか見えてきません。無論、問題点もあります。例えば、法隆寺はなぜ吉備池廃寺よりも小さくなったのか、また川原寺には金堂が二つあるのになぜ大官大寺は一つだけなのか。
 あるいは、この問題が解けなければ、そうした流れの見方そのものを否定しなくてはならないのかもしれません。しかし、仏教隆盛の時期に寺が小さくなるのは、いや正確には法隆寺の場合は小さくなったということではないのです。法隆寺はあくまで標準的な規模の寺なのです。この場合、なぜ大きく出来なかったかということなのかもしれません。そして、この問いに対しての正確な答えは、法隆寺がいつ出来たかということを突きつめれば、あるいは自ずと出てくるものなのかも知れません。
 また、川原寺と大官大寺の問題にしても、図を見ればわかるように、大官大寺の金堂は川原寺の金堂の数倍以上の大きさがあります。つまり、金堂一つでも川原寺の数倍の働きが出来るのです。しかも、これを逆に考えれば、金堂一つで事足りるとしたのは大官大寺がやはり川原寺を基としているからということになるのではないだろうか。

 ところで、『日本書紀』には、天武2年(673)というから壬申の乱の翌年ですが、この年の12月17日に造高市大寺司の任命記事が見えています。おそらく、次の年から高市大寺の造営が始まったものと思われます。また、この記事の分注に、この寺は今の大官大寺であるとしています。結局このせいで、後世も我々もこの高市大寺を当時の大官大寺だと言ってしまっているのです。しかし、今の大官大寺という言い方に疑問はないだろうか。今とは、『日本書紀』編纂の奈良時代のことで、当時のことではないのです。穿った見方をすれば、当時は大官大寺と呼ばれてはいなかったということでもあるからです。
 大官大寺の名称は天武2年の分注以外は天武11年以降になってから見られます。単純には、高市大寺を大官大寺とした場合、高市大寺がこの頃に完成したということになるのかもしれません。また、それにもかかわらず高市大寺の名が見えないのは、『日本書紀』編纂者が高市大寺を全て大官大寺と書き改めたということなのかもしれません。しかし、それならなぜ天武2年の高市大寺を書き改めなかったのであろうか。

高市大寺という道標

 正真正銘大官大寺が存在していた大宝以降、この時期を扱った『続日本紀』には大官大寺の名前は一切ありません。大宝元年7月には、本来なら造大官大寺官と記されるところが造大安寺官となっています。歴史は現代史と言うように現在から推し測っての過去が歴史に記されるのです。そういう意味では高市大寺という名前を残した『日本書紀』は歴史書としては未熟ということなのだろうか。それともこれもまた後世に残した道標なのだろうか。

 思うに、大官大寺という名称には官大寺の中の官大寺という意味しかありません。つまり、官大寺が複数できた時点で始めて意味を為すものです。それに官大寺という意味、これは大きな官寺という意味ではなく、官寺即ち大寺という意味ではないだろうか。
 たとえば、天武9年4月、天武は、「国の大寺二、三を除いて、その他は官司の管理をやめよ」と命じていますが、天武の時代の、後の大官大寺や吉備池廃寺のように巨大な伽藍配置を持っている寺の遺構は二、三どころか一つも発見されていません。つまり、天武の言う大寺とは国営の寺という程度の意味しか持っていないことになます。
 また、天武は先ほどの命に続けて、(正確には)飛鳥寺は官治するべきではないと言っています。それは、飛鳥寺蘇我氏が建てた寺だからです。つまり、このことは大寺の基本は勅願寺であるということで、官治はその当然の結果だということを意味しています。また、天武はさらに続けて、飛鳥寺は功労のある寺で古い大寺として官治が行われているので官治してよいとも言っています。

 ところで、天武がこの時期になぜこのような勅を出したのだろうか。それは、おそらく高市大寺が官寺として機能し始めたからではないだろうか。また、飛鳥寺の処遇について言及したのは、この高市大寺が出来るまでは飛鳥寺がこの地域で官寺として機能していた唯一の寺だったからではないだろうか。
 ところで、そもそも天武はなぜ高市大寺を作ろうとしたのか。思うに、当時の高市には官の大寺がなかったからではないのか。だからこそ高市大寺と言う名称を先ず用いたのではないだろうか。そうなると、飛鳥の官大寺として扱われている川原寺は未だなかったことになります。思うに、高市大寺を大官大寺とする、このあたりの通説から変えていかない限り大官大寺高市大寺も分からず仕舞いになってしまうのではないだろうか。

  以下は天武9年4月の勅の全内容です。講談社学術文庫宇治谷孟・全現代語訳『日本書紀下』によります。

およそ諸寺は、今後、国の大寺二、三を除いて、その他は官司の管理をやめる。ただし食封を所有しているものは、三十年を限度とする。
また思うに飛鳥寺は官治すべきではない。しかし古い大寺として官治が行われたし、かつて功労のあった歴史があるので、今後も官治する中に入れてよい
大寺二、三とは

 さて、このように見てまいりますと、天武9年の時点で飛鳥というか高市と呼ばれる地域には天武が大寺とする寺は、飛鳥寺高市大寺の二つしかなかったことになります。そのうちの飛鳥寺勅願寺ではありませんから二、三と呼ばれる中では三と呼ばれる方に入ることになります。そうすると、二つの勅願寺の中の一つは高市地域以外に有るということになります。

 甲午年三月十八日 鵤大寺徳聡法師 片岡王寺令弁法師
 飛鳥寺弁聡法師 三僧一所生父毋報恩敬奉観世音菩薩

 上は法隆寺に残る銅版に記された観世音菩薩造像銘の一部です。なお、観世音菩薩像本体は残っていないそうですが、持統8年甲午(694)藤原遷都の年に作られたものといわれています。観世音菩薩像は朱鳥元年(688)に天武のために作られていますが、おそらくこれ以降一般にも広がったのではないかと思われます。またそういう意味でも、銘文の甲午年は694年でいいのだと思います。
 そうなりますと、持統年間において鵤大寺と呼ばれる法隆寺は取りも直さず勅願寺、つまり先ほどの二つの勅願寺の中の高市以外の勅願寺となるのではないだろうか。
 さて、そうなると、天武紀に出てくる川原寺とは一体何なのだろうか。このままでは川原寺は、勅願寺でも大寺でもなくなることになります。

 ところで、高市大寺は天武2年にその名前が一度見えるだけで後はまったく見られません。思うに高市大寺というのは、高市の大寺という程度の意味しかなく、当然大官大寺というわけでもなかった。しかし、この寺は間違いなく天武天皇勅願寺です。従って、藤原京での勅願寺は当然この天武の勅願寺を移すことになるはずです。
 この章の始めの方でも述べましたが、藤原京勅願寺である大官大寺の伽藍配置は、川原寺のそれによく似ています。もし高市に川原寺以上に大官大寺に良く似た伽藍配置の寺がないのであれば、川原寺を高市大寺であるとする他はないのではないだろうか。
 そして、そうなれば大官大寺は鵤大寺である可能性もまた生まれてくるのではないだろうか。

§2.モード19の暦法が生んだ設計図。

 たった60個の組み合わせしか持たない干支ですが、繰り返すことで無限の年数を表すことができます。前号では、「記紀」の骨組みは1501年間に納まると述べましたが、正確には79章の中に納まるということです。下図参照

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 章とは19年を1章と数える暦法の単位です。章法とも呼ばれ、19年のうちの7年を閏年とする平朔法の暦法です。そのため、十九年七閏法とも呼ばれています。日本に最初に伝わったとされる元嘉暦はこの暦法を用いて作られた暦であります。しかし、安万呂の時代にはこの章法にこだわらないもっと優れた破章法(定朔法)の儀鳳暦が伝わっていました。なお、儀鳳暦は新羅経由の呼び名で、本来は麟徳暦と呼ばれています。日本には、成立後一年足らずで新暦として伝わっている可能性があるようです。

持統朝の両暦併用

 『日本書紀』、持統天皇4年(690年)の条に、初めて元嘉暦と儀鳳暦を用いるとあります。そのままに受け取れば、両暦を併用したということです。つまり、どのように利用したのかという疑問は残りますが、『日本書紀欽明天皇14年(552年)の条に、暦博士の交代と暦本とを百済に要請したという記事がありますから、欽明14年から持統4年までは、朝鮮からか、あるいは中国からの暦を利用し、それ以降は儀鳳暦(新暦で定朔)はそのまま輸入し、そしてなぜかは解らないが、元嘉暦(旧暦で平朔)をわざわざ作ったということなのでしょう。しかし、なぜ最新の暦をそのまま利用しなかったのでしょうか。
 2002年飛鳥の石神遺跡から元嘉暦に「具注暦」を配した木簡が出土しています。使用されたのは689年、持統天皇の3年とのことです。この事実と『日本書紀』の記述とは少し矛盾があります。当時の大陸では元嘉暦はすでに使われていません。したがって、この「具注暦」は当然日本製ということになります。また、儀鳳暦は河内野中寺の『弥勒造像記銘』から666年にはすでに伝わっていたことが知られています。ただ不思議なことに、この『弥勒造像記銘』には、わざわざ旧暦表示に直したものが記されています。
 思いますに、干支は毎回繰り返す曜日と同じで、紀年干支も暦日干支もある年のある日を起点とし延々と未来に向かって繰り返し伸びていっているものです。したがって、暦法が違ったからといって、その年やその日の干支が変わるというわけではありません。暦法の違いによって変わるのは朔(ついたち)干支です。4月1日(朔)が甲子になったり乙丑になったりします。この干支の違いが暦注に現れます。つまり暦が違うと同じその日の暦注が違ってくるのです。
 ところで、元嘉暦は儀鳳暦とは違い、19年分の雛形を一度作ってしまえば後は干支と暦注を変えるだけで同じものを繰り返し使うことができます。そもそも、寺院の建立に二十年近くを費やしていた時代です。また19年は一世代にも近く、何をするにも吉凶に左右されていた当時の人にとって、前もって「具注暦」により一世代にわたる生活指針が立てられることは非常に都合のよいことではなかったのではないでしょうか。

モード19の最初は暦の編纂

 現在、日本では西暦表記と元号表記が併用されています。元嘉暦は「具注暦」のため。儀鳳暦は公用のため。そう考えますと、持統朝の両暦併用も納得のできるものとなりますし、『弥勒造像記銘』の旧暦表示の理由も理解できます。またさらに推し量って、前もって長期にわたる「具注暦」を用意するというその行為が、後の「記紀」編纂者にある種の歴史の論理を植えつけるべく働いたのではないかと考えれば、持統四年の「初めて」両暦を併用すとるという内容の記事、これが「初めて」でないことは石神遺跡の木簡や、野中寺『弥勒造像記銘』より明らかですが、この矛盾にもある程度の説明がつくようになります。
 暦の編纂と歴史書の編纂はよく似ています。計算結果から導き出された暦の原型にあるのは、順序良く並んだ大の月や小の月や、あるいは閏月を示す枠だけです。歴史書もよく似たもので、順序良く並んだ歴代王朝の時間枠があるだけです。ここに、後から干支や暦注あるいは王朝記事を順序良く書き込んでいくわけですが、この作業が単純かつ機械的であると想像しがたくはありません。
 ハンコ仕事、あるいはハンコ作業という言葉があります。この「初めて」という表記は、おそらく干支暦注印のようなもので、暦が繰り返すごとに、王朝が繰り返すごとに、いとも簡単に押すことのできる程度のものだったのでありましょう。また各王朝を担当する者にとって初出の記事はすべて初めてということでこのハンコを押すことになっていたのかもしれません。
 それにしても、儀鳳暦が伝わって一世代以上がたつというのに、持統朝が元嘉暦を手放さなかったのはやはり一世代にあまる「具注暦」があったためかもしれません。重複しますが、『日本書紀欽明天皇14年(552年)の条に、暦博士の交代と暦本を百済に要請したという記事があります。おそらくこの時期に元嘉暦法による具注暦が伝わったのだと思われます。
 具注暦木簡の使われていた持統四年は、『日本書紀』編纂の時期より一世代ほど前にあたります。人間五十年と詠われてはいますが、当時の平均寿命は五十歳に満たないものです。印刷出版といった有効な記憶媒体手段を持たなかった彼らにとって、一世代二十年は今からみれば半世紀にも当たる長い時間だったはずです。すなわち過去の記憶の薄れゆくなか、それに反してますます色濃くなってゆく具注暦の文化、その真っただ中で育った書物、それが「記紀」なのです。

日本書紀の両暦利用

 ところで、周知のように『日本書紀』の暦日表記には二つの暦が使われています。仁徳天皇87年(399)以前の千年間ほどは儀鳳暦。安康天皇3年(456)以降の二百年余りは元嘉暦。そして、それらの間の57年ほどはどちらの暦法で計算しても同じ暦日となる、つまり両暦成立というのが今日の定説となっております。

 元嘉暦は宋の元嘉20年(443年)成立。元嘉22年より使われています。安康3年以降を元嘉暦とすることは理にかなっています。
 一方、儀鳳暦は唐の麟徳2年(665年)より使われています。つまり、儀鳳暦は元嘉暦より二百年以上も新しく、精度も良くなっているのです。したがって、長期、ここでは仁徳87年以前、およそ千年間ほどになりますが、その間の暦のずれあるいは誤差は元嘉暦よりも少ないのであります。これもまた理にかなっています。
 そして、さらに注目すべきは儀鳳暦の使われ方であります。定説によると、編纂者は儀鳳暦を平朔で使用しているのです。平朔というのは一朔望月(月の満ち欠けの一巡)の平均値を利用したもので、恒朔とも呼ばれています。これの長所は、大の月と小の月を交互に配置することが容易だということ。短所は、実際の朔が暦上の朔(ついたち)とはずれてしまうことです。儀鳳暦を平朔で使用した場合、暦元・太陽年・太陰月が元嘉暦との違いとなります。暦元というのはそれぞれの暦法の計算上での始発点です。理想的には、干支の始まり・一年の始まり・一月の始まり・一日の始まりが0時0分0秒で一致している時点ということになります。太陽年というのは一年の長さを日の単位で表わしたもの。太陰月というのは一朔望月の長さを同じく日の単位で表わしたものです。
 下にそれぞれの暦法の定数を示しました。

  太陽年 太陰月
元嘉暦 365.2467日 29.53058日
儀鳳暦 365.2447日 29.53059日

 なお、参考文献として『古代の暦日』と『日本書紀暦日原典』、共に雄山閣出版を利用しましたが、ここで述べることの殆どは全くの一試論であり一私論に過ぎません。

19年7潤の雛形

 さて、儀鳳暦を平朔で使用した場合どのようになるのか、また、元嘉暦のように19年7潤といった雛形が得られるのか、兎にも角にも『日本書紀』にそれを探ってみましょう。
 『日本書紀』には、仲哀元年壬申年から持統九年乙未年までの間に合わせて16個の閏月の記載があります。また、これに先ほど述べた参考文献に載る閏字脱落日付三件、垂仁23年甲寅年と履中5年甲辰年と欽明31年庚寅年とを加えて計19個の閏年を1500と1年分の干支年表に落としてみますと下のようになります。なお、下表は必要部分の抜粋です。

・・・・・・③年・・・・・・・⑥年・・・・⑧年・・・・・・・⑪年・・・・・・・⑭年・・・・⑯年・・・・・・・⑲年  ⇒ 19年7潤
丁未・戊申・己酉・庚戌・辛亥・壬子・癸丑・甲寅・乙卯・丙辰・丁巳・戊午・己未・庚申・辛酉・壬戌・癸亥・甲子・乙丑・垂仁二三年

丁巳・戊午・己未・庚申・辛酉・壬戌・癸亥・甲子・乙丑・丙寅・丁卯・戊辰・己巳・庚午・辛未・壬申・癸酉・甲戌・乙亥・仲哀元年

丙戌・丁亥・戊子・己丑・庚寅・辛卯・壬辰・癸巳・甲午・乙未・丙申・丁酉・戊戌・己亥・庚子・辛丑・壬寅・癸卯・甲辰履中五年

辛酉・壬戌・癸亥・甲子・乙丑・丙寅・丁卯・戊辰・己巳・庚午・辛未・壬申・癸酉・甲戌・乙亥・丙子・丁丑・戊寅・己卯・清寧四年
庚辰・辛巳・壬午・癸未・甲申・乙酉・丙戌・丁亥・戊子・己丑・庚寅・辛卯・壬辰・癸巳・甲午・乙未・丙申・丁酉・戊戌・
己亥・庚子・辛丑・壬寅・癸卯・甲辰・乙巳・丙午・丁未・戊申・己酉・庚戌・辛亥・壬子・癸丑・甲寅・乙卯・丙辰・丁巳・安閑元年
戊午・己未・庚申・辛酉・壬戌・癸亥・甲子・乙丑・丙寅・丁卯・戊辰・己巳・庚午・辛未・壬申・癸酉・甲戌・乙亥・丙子・欽明九年
丁丑・戊寅・己卯・庚辰・辛巳・壬午・癸未・甲申・乙酉・丙戌・丁亥・戊子・己丑・庚寅・辛卯・壬辰・癸巳・甲午・乙未・欽明三一年
丙申・丁酉・戊戌・己亥・庚子・辛丑・壬寅・癸卯・甲辰・乙巳・丙午・丁未・戊申・己酉・庚戌・辛亥・壬子・癸丑・甲寅・敏達十年
乙卯・丙辰・丁巳・戊午・己未・庚申・辛酉・壬戌・癸亥・甲子・乙丑・丙寅・丁卯・戊辰・己巳・庚午・辛未・壬申・癸酉・推古十年・十三年
甲戌・乙亥・丙子・丁丑・戊寅・己卯・庚辰・辛巳・壬午・癸未・甲申・乙酉・丙戌・丁亥・戊子・己丑・庚寅・辛卯・壬辰・
癸巳・甲午・乙未・丙申・丁酉・戊戌・己亥・庚子・辛丑・壬寅・癸卯・甲辰・乙巳・丙午・丁未・戊申・己酉・庚戌・辛亥・
壬子・癸丑・甲寅・乙卯・丙辰・丁巳・戊午・己未・庚申・辛酉・壬戌・癸亥・甲子・乙丑・丙寅・丁卯・戊辰・己巳・庚午・斉明五年・天智六年
辛未・壬申・癸酉・甲戌・乙亥・丙子・丁丑・戊寅・己卯・庚辰・辛巳・壬午・癸未・甲申・乙酉・丙戌・丁亥・戊子・己丑・天武二・十・十三年
庚寅・辛卯・壬辰・癸巳・甲午・乙未・丙申・丁酉・戊戌・己亥・庚子・辛丑・壬寅・癸卯・甲辰・乙巳・丙午・丁未・戊申・朱鳥・三・六・九年
・・・・・・1潤・・・・・・・2潤・・・・3潤・・・・・・・4潤・・・・・・・5潤・・・・6潤・・・・・・・7潤    └ 持統 ┘

 周知のように、暦法は安康紀を境に異なっています。閏記事は、元嘉暦圏では16個、儀鳳暦圏ではわずか3個しかありません。しかし、この表を見る限り閏年の位置は両暦とも決まった位置にあるように見えます。そもそも、元嘉暦と儀鳳暦とでは1000年で2日ほどの誤差が出るだけです。単純には1000年の間に大の月を4回ほど多くすれば誤差は解消します。
 平朔では、普通17ヵ月置きぐらいに大の月を続けて置き平均朔望月との誤差を解消しています。無論、これでも誤差が完全に無くなるわけではありません。また、19年7潤法とは言っても暦の最小単位は一日ですから、19年毎に時間の端数が無くなるわけではありません。ちなみに、元嘉暦の19年は6939.6875日、儀鳳暦では6939.6507日となります。小数点以下は端数で、この端数が次の19年に影響しますが、どちらも端数が出ることに変わりは無く、したがって、儀鳳暦、正確には儀鳳暦定数を平朔として用いても19年7潤での使用が出来ることに不思議はありません。
 既に述べたことですが、平朔の長所は大の月と小の月との交互の配置が容易だということ。加えて、19年7潤法の長所は、閏年の配置を固定できることです。上の表からも分かるように、19年中での閏年の位置は、3年目・6年目・8年目・11年目・14年目・16年目・19年目と固定されています。あとは閏月と大の月の続く月を決めればいいだけです。
 思うに、定朔と進朔をしなければ、破章法の儀鳳暦が十九年七閏法の章法として使うことができるようになるのです。そもそも、安康天皇以前、千年に渡る暦日干支を本来の儀鳳暦で得るには大変な時間と労力を費やすことは、目に見えて明らかであります。それに比べ、前にも述べましたが章法の利点は、19年分の雛形を作れば繰り返し使えるということです。すなわち、過去に向かって延々と続く干支の流れの中に19年分の雛形を次々と並べていけば、思いの年の暦日干支がその枠の中にいとも簡単に浮かび上がってくるのです。

 最後に、本来の定朔での儀鳳暦を用いた場合について、参考文献より引用してみますと

…平均朔望月の長さは29日半強である、と言っても月の運動は複雑でかなり長短がある。短い時は29.27日、長い時は29.83日ほどになり平均の29.53日とはかなりの差がある。そこで太陽や月の位置を計算して月の運動の平均運動からのずれを算出し、平均の朔の時刻に補正を加え、月の実運動を忠実に追って朔を求めることを定朔という。定朔を用いると毎月の大小の配列は多様になって大の月は4か月、小の月は3か月も続いたりすることが生ずる。
…当然のことながら定朔の計算は平朔とくらべて、はるかに複雑で数倍の手間がかかるのであるから、1300年も遡った時代からの干支の配当にわざわざ定朔を用いる愚は避けたのであろう。
日本書紀暦日原典より―

 このように見てまいりますと、両暦の使い分け、儀鳳暦の平朔使用、何度か言ったとは思いますが、まことに理にかなっているというほかはありません。古代とはいえ、『日本書紀』の編纂者は非常に合理的精神の持ち主であったということであります。
 そうしますと、19年ごとに繰り返す章法の暦観、「記紀」の編纂者が彼らの知らない遠い過去や未来の天皇の世を、19年あるいはその整数倍として捉えたとしても何ら不自然ではありません。ちなみに、初代天皇、神武の治世は『日本書紀』では76(19×4)年となっています。これは、(19年×n)のモードに他なりません。