昭和は遠くなりにけり

古代に思いを馳せ、現在に雑言す。・案山子の落書・

§3.古事記崩年干支の示すもの。

 『古事記』には15個(①~⑮)の崩年干支があります。下表.3aがそれです。

- 表.3a『古事記』記載の崩年干支 -
推古 崇峻 用明 敏達 安閑 継体 雄略 允恭 反正 履中 仁徳 応神 仲哀 成務 崇神
戊子 壬子 丁未 甲辰 乙卯 丁未 己巳 甲午 丁丑 壬申 丁卯 甲午 壬戌 乙卯 戊寅

これを1501年(19年×79章)の干支年表に貼り付けてみましょう。おそらく、誰もが推古天皇の崩年干支、戊子年から始めると思います。この戊子年は『記』・『紀』共に一致する最初の干支で、それは628年に当たります。あとは順次遡って崇神天皇崩年干支、戊寅318年に至ります。下は、その結果であります。

- 表.3b『古事記』の脊椎骨1 -
          ─────────────  脊椎骨  ─────────────
庚午・辛未・壬申・癸酉・甲戌・乙亥・丙子・丁丑戊寅己卯・庚辰・辛巳・壬午・癸未・甲申・乙酉・丙戌・丁亥・戊子 ⑮戊寅(318)崇神
己丑・庚寅・辛卯・壬辰・癸巳・甲午・乙未・丙申丁酉戊戌・己亥・庚子・辛丑・壬寅・癸卯・甲辰・乙巳・丙午・丁未・
戊申・己酉・庚戌・辛亥・壬子・癸丑・甲寅・乙卯丙辰丁巳・戊午・己未・庚申・辛酉・壬戌・癸亥・甲子・乙丑・丙寅 ⑭成務・⑬仲哀
丁卯・戊辰・己巳・庚午・辛未・壬申・癸酉・甲戌乙亥丙子・丁丑・戊寅・己卯・庚辰・辛巳・壬午・癸未・甲申・乙酉・
丙戌・丁亥・戊子・己丑・庚寅・辛卯・壬辰・癸巳甲午乙未・丙申・丁酉・戊戌・己亥・庚子・辛丑・壬寅・癸卯・甲辰 ⑫甲午(394)応神崩
乙巳・丙午・丁未・戊申・己酉・庚戌・辛亥・壬子癸丑甲寅・乙卯・丙辰・丁巳・戊午・己未・庚申・辛酉・壬戌・癸亥 ⑪仁徳・
甲子・乙丑・丙寅・丁卯・戊辰・己巳・庚午・辛未壬申癸酉・甲戌・乙亥・丙子・丁丑・戊寅・己卯・庚辰・辛巳・壬午 ⑩壬申(432)履中崩
癸未・甲申・乙酉・丙戌・丁亥・戊子・己丑・庚寅辛卯壬辰・癸巳・甲午・乙未・丙申・丁酉・戊戌・己亥・庚子・辛丑 ⑧允恭・⑨反正
壬寅・癸卯・甲辰・乙巳・丙午・丁未・戊申・己酉庚戌辛亥・壬子・癸丑・甲寅・乙卯・丙辰・丁巳・戊午・己未・庚申・
辛酉・壬戌・癸亥・甲子・乙丑・丙寅・丁卯・戊辰己巳庚午・辛未・壬申・癸酉・甲戌・乙亥・丙子・丁丑・戊寅・己卯 ⑦己巳(489)雄略崩
庚辰・辛巳・壬午・癸未・甲申・乙酉・丙戌・丁亥戊子己丑・庚寅・辛卯・壬辰・癸巳・甲午・乙未・丙申・丁酉・戊戌・
己亥・庚子・辛丑・壬寅・癸卯・甲辰・乙巳・丙午丁未戊申・己酉・庚戌・辛亥・壬子・癸丑・甲寅・乙卯・丙辰・丁巳 ⑥丁未(527)継体崩
戊午・己未・庚申・辛酉・壬戌・癸亥・甲子・乙丑丙寅丁卯・戊辰・己巳・庚午・辛未・壬申・癸酉・甲戌・乙亥・丙子 ⑤安閑
丁丑・戊寅・己卯・庚辰・辛巳・壬午・癸未・甲申乙酉丙戌・丁亥・戊子・己丑・庚寅・辛卯・壬辰・癸巳・甲午・乙未・
丙申・丁酉・戊戌・己亥・庚子・辛丑・壬寅・癸卯甲辰乙巳・丙午・丁未・戊申・己酉・庚戌・辛亥・壬子・癸丑・甲寅 ④甲辰(584)敏達崩
乙卯・丙辰・丁巳・戊午・己未・庚申・辛酉・壬戌癸亥甲子・乙丑・丙寅・丁卯・戊辰・己巳・庚午・辛未・壬申・癸酉 ③用明・②崇峻
甲戌・乙亥・丙子・丁丑・戊寅・己卯・庚辰・辛巳壬午癸未・甲申・乙酉・丙戌・丁亥・戊子・己丑・庚寅・辛卯・壬辰 ①戊子(628)推古
         ─────────────  脊椎骨  ─────────────

たった是だけのことではありますが、骨格の中でも一番大事な6個の脊椎骨を得ることができました。この6個というのは表からも分かると思いますが、同一の列に並ぶモード19で整えられた干支なのです。
 ところで、実はこれと同じモードによるものと思われる箇所が『日本書紀』に見出せるのです。
 下に示したのがそれです。

-表.3c『日本書紀』の脊椎骨 -
          ─────────────  脊椎骨  ─────────────
癸卯・甲辰・乙巳・丙午・丁未・戊申・己酉・庚戌辛亥壬子・癸丑・甲寅・乙卯・丙辰・丁巳・戊午・己未・庚申・辛酉・
壬戌・癸亥・甲子・乙丑・丙寅・丁卯・戊辰・己巳庚午辛未壬申・癸酉・甲戌・乙亥・丙子・丁丑・戊寅・己卯・庚辰 孝安崩年孝霊元年
辛巳・壬午・癸未・甲申・乙酉・丙戌・丁亥・戊子己丑庚寅辛卯・壬辰・癸巳・甲午・乙未・丙申・丁酉・戊戌・己亥・
庚子・辛丑・壬寅・癸卯・甲辰・乙巳・丙午・丁未戊申・己酉庚戌・辛亥・壬子・癸丑・甲寅・乙卯・丙辰・丁巳・戊午・
己未・庚申・辛酉・壬戌・癸亥・甲子・乙丑・丙寅丁卯戊辰己巳・庚午・辛未・壬申・癸酉・甲戌・乙亥・丙子・丁丑・
戊寅・己卯・庚辰・辛巳・壬午・癸未・甲申・乙酉丙戌丁亥戊子・己丑・庚寅・辛卯・壬辰・癸巳・甲午・乙未・丙申 孝霊崩年孝元元年
丁酉・戊戌・己亥・庚子・辛丑・壬寅・癸卯・甲辰乙巳丙午丁未・戊申・己酉・庚戌・辛亥・壬子・癸丑・甲寅・乙卯・
丙辰・丁巳・戊午・己未・庚申・辛酉・壬戌・癸亥甲子乙丑丙寅・丁卯・戊辰・己巳・庚午・辛未・壬申・癸酉・甲戌・
乙亥・丙子・丁丑・戊寅・己卯・庚辰・辛巳・壬午癸未甲申乙酉・丙戌・丁亥・戊子・己丑・庚寅・辛卯・壬辰・癸巳 孝元崩年開化元年
甲午・乙未・丙申・丁酉・戊戌・己亥・庚子・辛丑壬寅癸卯・甲辰・乙巳・丙午・丁未・戊申・己酉・庚戌・辛亥・壬子・
甲戌・乙亥・丙子・丁丑・戊寅・己卯・庚辰・辛巳壬午癸未・甲申・乙酉・丙戌・丁亥・戊子・己丑・庚寅・辛卯・壬辰 舒明元年
癸巳・甲午・乙未・丙申・丁酉・戊戌・己亥・庚子辛丑壬寅癸卯・甲辰・乙巳・丙午・丁未・戊申・己酉・庚戌・辛亥 舒明崩年皇極元年
壬子・癸丑・甲寅・乙卯・丙辰・丁巳・戊午・己未庚申辛酉・壬戌・癸亥・甲子・乙丑・丙寅・丁卯・戊辰・己巳・庚午 斉明元年・天智元年
         ─────────────  脊椎骨  ─────────────

日本書紀』には、神武東征元年から始めて持統天皇まで、太歳紀年干支が44個ほどあります。そして、そのうちの4個、1割弱ほどが『古事記』のモードと合ったことになります。

・・孝霊・孝元・開化・・・  ・・皇極

 これが多いか少ないか、とにもかくにも痕跡とは呼べそうです。しかし、この痕跡、決して小さくはありません。と言うのもこのモードのあるところがいわゆる欠史8代の箇所だからです。つまり、『古事記』には崇神以前にも骨格があるらしいと言うことになるのです。
 そこで、あらためて崇神までの骨格を書き並べてみました。

・⑮崇神・⑫応神・⑩履中・⑦雄略・⑥継体・④敏達・

そして、これをさらに次のように書き換えてみました。

・○・‥…‥・○・○・崇神・応神・履中・雄略・継体・敏達・○・

そして、「・○・」に当たる部分を補っていくことにします。補い方は19のモード、あるいはその整数倍のモードとします。
 そうすると、19の2倍の38年毎に天皇の治世が代われば良いことが分かります。下がその主要な部分の結果です。なお、右欄に説明の無い白抜き文字にはポインタ表示で説明をつけています。

- 表.3d『古事記』の脊椎骨2 -
          ─────────────  脊椎骨  ─────────────
甲子・乙丑・丙寅・丁卯・戊辰・己巳・庚午・辛未壬申癸酉・甲戌・乙亥・丙子・丁丑・戊寅・己卯・庚辰・辛巳・壬午 甲子(BC.717)邇邇芸
癸未・甲申・乙酉・丙戌・丁亥・戊子・己丑・庚寅辛卯壬辰・癸巳・甲午・乙未・丙申・丁酉・戊戌・己亥・庚子・辛丑・   の命降臨元年
壬寅・癸卯・甲辰・乙巳・丙午・丁未・戊申・己酉庚戌辛亥・壬子・癸丑甲寅・乙卯・丙辰丁巳・戊午・己未庚申 癸丑(668)邇邇芸命
辛酉・壬戌・癸亥・甲子・乙丑・丙寅・丁卯・戊辰己巳庚午・辛未・壬申・癸酉・甲戌・乙亥・丙子・丁丑・戊寅・己卯 甲寅(667)穗穂出見命

癸丑・甲寅・乙卯・丙辰・丁巳・戊午・己未・庚申辛酉壬戌・癸亥・甲子・乙丑・丙寅・丁卯・戊辰・己巳・庚午・辛未・
壬申・癸酉・甲戌・乙亥・丙子・丁丑・戊寅・己卯庚辰辛巳・壬午・癸未・甲申・乙酉・丙戌・丁亥・戊子・己丑・庚寅・
辛卯・壬辰・癸巳・甲午・乙未・丙申・丁酉・戊戌己亥庚子・辛丑・壬寅癸卯・甲辰・乙巳・丙午・丁未・戊申・己酉 己亥(82)穂穂出見崩
庚戌・辛亥・壬子・癸丑・甲寅・乙卯・丙辰・丁巳戊午己未・庚申・辛酉・壬戌・癸亥・甲子・乙丑・丙寅・丁卯・戊辰 己未(62)神武即位
己巳・庚午・辛未・壬申・癸酉・甲戌・乙亥・丙子丁丑戊寅・己卯・庚辰・辛巳・壬午・癸未・甲申・乙酉・丙戌・丁亥・      元年
戊子・己丑・庚寅・辛卯・壬辰・癸巳・甲午・乙未丙申丁酉・戊戌・己亥・庚子・辛丑・壬寅・癸卯・甲辰・乙巳・丙午 丙申(25)神武38年崩
丁未・戊申・己酉・庚戌・辛亥・壬子・癸丑・甲寅乙卯丙辰・丁巳・戊午・己未・庚申辛酉・壬戌・癸亥・甲子・乙丑 BC←→AD
丙寅・丁卯・戊辰・己巳・庚午・辛未・壬申・癸酉甲戌乙亥・丙子・丁丑・戊寅・己卯・庚辰・辛巳・壬午・癸未・甲申 甲戌(14)綏靖38年崩
乙酉・丙戌・丁亥・戊子・己丑・庚寅・辛卯・壬辰癸巳甲午・乙未・丙申・丁酉・戊戌・己亥・庚子・辛丑・壬寅・癸卯・
甲辰・乙巳・丙午・丁未・戊申・己酉・庚戌・辛亥壬子癸丑・甲寅・乙卯・丙辰・丁巳・戊午・己未・庚申・辛酉・壬戌 壬子(52)安寧38年崩
癸亥・甲子・乙丑・丙寅・丁卯・戊辰・己巳・庚午辛未壬申・癸酉・甲戌・乙亥・丙子・丁丑・戊寅・己卯・庚辰・辛巳・
壬午・癸未・甲申・乙酉・丙戌・丁亥・戊子・己丑庚寅辛卯・壬辰・癸巳・甲午・乙未・丙申・丁酉・戊戌・己亥・庚子 庚寅(90)懿徳38年崩
辛丑・壬寅・癸卯・甲辰・乙巳・丙午・丁未・戊申己酉庚戌・辛亥・壬子・癸丑・甲寅・乙卯・丙辰・丁巳・戊午・己未・
庚申・辛酉・壬戌・癸亥・甲子・乙丑・丙寅・丁卯戊辰己巳・庚午・辛未・壬申・癸酉・甲戌・乙亥・丙子・丁丑・戊寅 戊辰(128)孝昭38年崩
己卯・庚辰・辛巳・壬午・癸未・甲申・乙酉・丙戌丁亥戊子・己丑・庚寅・辛卯・壬辰・癸巳・甲午・乙未・丙申・丁酉・
戊戌・己亥・庚子・辛丑・壬寅・癸卯・甲辰・乙巳丙午丁未・戊申・己酉・庚戌・辛亥・壬子・癸丑・甲寅・乙卯・丙辰 丙午(166)孝安38年崩
丁巳・戊午・己未・庚申・辛酉・壬戌・癸亥・甲子乙丑丙寅・丁卯・戊辰・己巳・庚午・辛未・壬申・癸酉・甲戌・乙亥・
丙子・丁丑・戊寅・己卯・庚辰・辛巳・壬午・癸未甲申乙酉・丙戌・丁亥・戊子・己丑・庚寅・辛卯・壬辰・癸巳・甲午 甲申(204)孝霊38年崩
乙未・丙申・丁酉・戊戌・己亥・庚子・辛丑・壬寅癸卯甲辰・乙巳・丙午・丁未・戊申・己酉・庚戌・辛亥・壬子・癸丑・
甲寅・乙卯・丙辰・丁巳・戊午・己未・庚申・辛酉壬戌癸亥・甲子・乙丑・丙寅・丁卯・戊辰・己巳・庚午・辛未・壬申 壬戌(242)孝元38年崩
癸酉・甲戌・乙亥・丙子・丁丑・戊寅・己卯・庚辰辛巳壬午・癸未・甲申・乙酉・丙戌・丁亥・戊子・己丑・庚寅・辛卯・
壬辰・癸巳・甲午・乙未・丙申・丁酉・戊戌・己亥庚子辛丑・壬寅・癸卯・甲辰・乙巳・丙午・丁未・戊申・己酉・庚戌 庚子(280)開化38年崩
辛亥・壬子・癸丑・甲寅・乙卯・丙辰・丁巳・戊午己未庚申・辛酉・壬戌・癸亥・甲子・乙丑・丙寅・丁卯・戊辰・己巳・
庚午・辛未・壬申・癸酉・甲戌・乙亥・丙子・丁丑戊寅己卯・庚辰・辛巳・壬午・癸未・甲申・乙酉・丙戌・丁亥・戊子 戊寅(318)崇神38年崩

甲戌・乙亥・丙子・丁丑・戊寅・己卯・庚辰・辛巳壬午癸未・甲申・乙酉・丙戌・丁亥・戊子・己丑・庚寅・辛卯・壬辰 壬午(622)上宮法皇
癸巳・甲午・乙未・丙申・丁酉・戊戌・己亥・庚子辛丑壬寅・癸卯・甲辰・乙巳・丙午・丁未・戊申・己酉・庚戌・辛亥 辛丑(641)飛鳥天皇

丙午・丁未・戊申・己酉・庚戌・辛亥・壬子・癸丑甲寅乙卯・丙辰・丁巳・戊午・己未・庚申・辛酉・壬戌・癸亥・甲子 甲子長岡遷都
         ─────────────  脊椎骨  ─────────────

以上が、干支より得られた脊椎骨、安万呂の設計図です。『日本書紀』では痕跡程度のものでしたが、『日本書紀』にはもう一つ別のモードでの脊椎骨が認められます。それは干支を三等分した、モード20でのもので、3行ごとに干支が一巡してきます。また、これからも1500と1年の干支年表は得られます。
 なお、これら全体の干支年表は、カテゴリー・古代雑記の案内と表・「記紀」の設計図、表1、表2、表3として載せてあります。

 さて、干支は60年毎に繰り返します。また、章法では19年毎に朔旦冬至が繰り返すように仕組まれています。また前章では、閏年が19年の中の決まった位置、こうした表の場合では決まった列で繰り返すことになっていると述べました。そして、今回は、天皇の死去と即位の年が19年毎の、あるいは何度目かの19年毎のある決まった列で繰り返されるということを述べたということなのですが、実は、安万呂がこの列の位置を決めたのにはちゃんとした理由があるのです。
 そして、その理由となるものが表.3dの最後から2番目と3番目の2行と言うよりも19年を1章と数える単位での2章の中にあるのです。そこでは、正に法隆寺金堂釈迦三尊像光背に記された上宮法皇の崩年干支と、船氏王後墓誌に記された阿須迦天皇の崩年干支とが同じ位置に来るという、この稀有な偶然が起こっているのです。
 偶然と必然、こうした表を用いて始めてそれらが目に見える形となります。つまり「記紀」の骨組は、暦法や干支の特性が醸し出した稀有な偶然をうまく利用して作り上げているのです。そして、そのお陰で、我々は同じ方向に向かう三つの脊椎を得ることができたということです。

 思うに、干支紀年法暦法がなければ稀有な偶然どころかありきたりの偶然さえも起こらなかったでしょう。しかし、ここで本当に注意するべきは、安万呂や『日本書紀』編纂者が上宮法皇の崩年干支を知っていたということです。そして、それにもかかわらず『日本書紀』がこの上宮法皇の死を1年違えて載せているという事実です。
 無論、これには理由があります。それは『日本書紀』が聖武天皇のために書かれたものだからです。つまり、聖武の祖父草壁が太子のままで持統天皇の3年になくなっていることが影響を与えているのです。
 持統の3年は、持統10年、なお持統は11年ありますが持統の11年は文武元年となりますから持統は10年となり、その10年から遡れば草壁の死は8年前となります。一方、上宮法皇つまり聖徳太子の死は推古天皇の末年から数えてやはり8年前となります。つまり、聖徳太子の死を草壁太子の死に合わせたということです。
 思うに『日本書紀』ただ読んでいるだけでは真実は見えてはまいりません。しかし、それはさておき、モード19の設計図が「記紀」に認められるということは、『古事記』の編纂者が『日本書紀』の編纂にも関与している証とも見え、もし『古事記』が安万呂の手によるものだとしたら、安万呂は『日本書紀』にも関与しているということになります。

 思うに、安万呂、いえ古代人は虚構にさえも設計図を必要としているのです。いえ、虚構というよりも理想と云うべきかもしれません。かって奈良盆地を南北に走る三本の理想の道がありました。そして、この道を骨格として藤原京平城京が生まれたのです。
 ところで、表.3dの最初の行と最後の行の骨格の列の干支を見ると、壬申と甲寅とになっています。壬申は近江壬申の乱。甲寅は九州は日向神武東征の年。さて、奈良盆地を南北に走る三本の道。これらの道は北は奈良山を越えて近江につながり、南は海を渡って九州日向につながります。これもまた偶然なのだろうか。

暦注は迷信の設計図か

 古代といえば迷信の支配する世界、と誰もが思いがちですが、迷信の上に理想は築けません。もっとも、人によってはその理想そのものが迷信であるというかもしれません。しかし、この迷信にも立派な決まりごとがあるのです。たとえば「具注暦」、「具注暦」は今日でも使われていますが、古代のような使われかたはされていません。それはおそらく、それらのほとんどが迷信だとされているからでしょう。それに、古代と現代とでは暦注そのものにも大きな違いがあります。
 その違いはさておき、この具注暦に大きくかかわってくるものの一つ、太歳神について少し話をしておきましょう。と申しますのも、この太歳神の本体である太歳は、『日本書紀』が用いている太歳紀年(干支)法の起源となったものでもあるからです。

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 太歳とは木星の鏡像のことです。木星は12年ほどの公転周期を持つ惑星です。つまり木星のモードは12ということになります。モード12といえば、干支もそうですし、月順もそうです。つまり、それがために古代人はこの惑星に長い間多大の関心を払っていました。やがて、12年の公転周期に十二支の方位を割り振り、太歳は毎年その年の十二支と同じ方位にあるとしたのです。つまり太歳を、子の年は子の方位に、丑の年は丑の方位にある太歳神とし、さらには、その神のいる方位に向かって行ってはならない禁則事項つまり暦注を作り上げたのです。これは太歳と十二支方位との立派な決まりごとです。また、禁則事項にしても陰陽五行の決まりごとより導かれたもので、無作為の結果が招いたものではありません。
 なお、木星の動きは十二支方位の並び順とは逆になります。したがって、図では寅と申の起点を結んだ直線を木星と太歳の対称軸としています。これによって太歳は十二支方位の順に運行しているようになります。例えば、丑の位置にある木星の鏡像が寅の位置の太歳となり、子の位置にある木星の鏡像が卯の位置の太歳となり、亥の位置にある木星の鏡像が辰の位置の太歳となるという具合にです。そしてこの位置に太歳神が居ると古代人は考えたのです。

古代人を動かすもの

 人は、あるいは近代人は、その人生の評価を幸、不幸の単位で表現します。また、人の行為を善、悪の単位で表現します。古代人もまた同じようにそれらをある単位を用いて表現していたのです。その単位とは吉と凶です。古代人は、吉と凶の間に人の生活があると考えていたのです。
 どのように科学が発達しようと、明日の幸と不幸、あさっての吉と凶とを知るすべはありません。現代人といえど、明日の吉凶を知りたければ陰陽五行等の占いに頼るほかは無いでしょう。あとは、信じるか信じないかの違いがあるだけです。
 古代人は何故信じたのでしょう。いえ、信じることができたのでしょう。それは天文・暦法が発達し、一年を一月を正確に知ることができるようになったからです。その結果古代人は、季節や月の満ち欠けを正確に予測することができるようになり、一年後の春も一月後の満月も同じ春や満月がめぐりまわってきているという事実を知ることになったからです。
 かって古代人は日に名前をつけていました。一日が終わるごとに新しい日が生まれると考えていたからです。そのために複数の新しい名前を用意しました。

太古、空には十個の太陽が輝いていました・・・羿(ゲイ)という弓の達人が九つの太陽を射落とし・・・

これは中国の太陽神話の一節です。十個の太陽とは、十干のことです。やがて十二支と組み合わせて干支として用いるようになりました。
 思うに、干支は日の名前であって数詞ではありません。たとえば、同じ太陽であっても冬と夏とでは違って見えます。同じ一日、同じ一年ですが,きのうと今日、去年と今年は違います。現に人は年を取っています。人から見れば一日たりとて同じ日はありません。干支もまた同じです。干支は、去年と今年、去年の十二月一日と今年の十二月一日とでは違っています。年や日を干支で呼ぶことは、この人の感傷にそぐう行為なのです。
 「太陽のもと新しきことなし」とは古代人の道破した言葉であると、芥川龍之介はその著に記しています。千変万化のように見える世界ですが、宇宙創成の始めからすべてが備わっている世界です、新しいものなど存在しません。古代人がそう考えたならば、世界のすべてを陰陽五行で表現したとしても不思議ではありません。
 万物流転。これも古代人の言葉です。現代社会は安定しています。しかし、古代は明日はおろか一時間先の運命さえ定かではありません。古代人が一歩を踏み出すためには強い後押しを必要としたのです。そのためにも先ず吉凶を知る必要があったのです。陰陽五行に占い。古代人はそれを信じるというよりも必要としたのです。

§4.陳寿の設計図。

 「捨てる神あれば 拾う神あり」と申しますか、亡国の民陳寿にとって晋は正に拾う神そのものだったようです。陳寿にとって『三国志』あるいは『魏志』を書き上げることが晋への恩返しだったのかも知れません。
 『魏志』は30巻。「魏志倭人伝」はその30巻中の最後の巻の最後にあります。この次に来る歴史書はいわゆる「晋書」です。言ってみれば「魏志倭人伝」は、『魏志』より「晋書」へとその誉れを引き渡す栄えある役目の書であると。

漢委奴國から邪馬壹國

 前章までの段階で、奴國を伊都國に取り込み、奴國の戸数2万戸の消化が可能となり、また漢委奴國も伊都国の前身として取り込むことが可能となっています。つまり、3章の仮説図の1についてはほぼクリアーできたのではないかと。無論、未だ詰めが残されてはいますが。しかし、それはもう少し話が全て煮詰まってからの方が良いかと。
 そこで、今回は同じ3章の仮説図の2の課題について話を進めて行くことにします。そして、その課題というのは、漢委奴國⇒(倭)奴國⇒伊都國⇒邪馬壹國ということです。前章ではこれを邪馬台国の名前の変遷という風にしたと思います。

 さて、そこで話をどう進めて行くかということですが、これまでの話の都合上、つまり漢倭奴國が伊都國の前身ということであれば、後は伊都國即ち邪馬壹國とするのが順当なのですが、しかし、陳寿が「倭人伝」に伊都國と邪馬壹國とを別個の国として挙げている以上、これはこのままでは少し無理のようです。
 そこで、話は回りくどくなりますが、日本での国家の最初とされる漢委奴国について述べることから始めることにします。実は、この国を正確に把握できると邪馬台国もまた正確に把握ができるのです。
 なお、漢倭奴國については2章でも少し話をしていますので、少しばかり話の重複が、続くとは思います。

漢籍の中の倭國の流れ
- 表.4a 漢代の倭に関する文献とその時期 -
BC.108年頃 AD.57(中元二年) 107(永初元年) 倭國
大乱
238(景初2年)
分爲百餘國 倭奴國奉貢朝賀 倭國王帥升 倭女王
漢書 後漢書 後漢書 魏志

 漢委奴国という国が文献上に最初に姿を現すのは建武中元二年(57年)、後漢光武帝の時代です。その文献『後漢書』には

倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬

とあります。
 また、後漢代で倭國に関する公式外交記録としては、他には安帝の永初元年(107年)の

倭國王帥升等 獻生口百六十人 願請見

という記事があるのみです。
 ただ、この倭国と(漢)委奴国とが別の国だとする見解もあるようです。なお、(漢)奴國の表記は金印からのもので、『後漢書』では奴國となっています。また、ここに二つを併記したのは委奴国と倭奴国が同じなら、倭奴国倭国さらには奴国もまた同じとなるのではないかと思ってのことです。それは、文字というものは用途によっては省略されたり、文書形式によっては字数を揃えられたりもするからです。
 思うに、これもある種のパズルの趣旨に合わせて整形されたピースと呼べなくもありません。

 さて、倭奴国の前身については想像するほかありませんが、『漢書』の地理志に

樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云

とあります。
 このことから、倭奴国楽浪郡設置のBC108年頃には百余国中の一国にすぎなかったと思われます。
 この百余国中の一国にすぎなかった倭奴国が徐々に国力をつけ、やがては覇権を掌握して、中元二年の57年には後漢より漢委奴國王の称号を与えられています。

倭國王帥升等の国と女王國とは同一の国

 ところで、先ほど、永初元年に後漢王朝に請見を願いでた倭国王の国が中元二年の倭奴国とは違う国だとする見解があると述べました。これは、倭国倭奴国という表記の違いによるものと次のような記事が「魏志倭人伝」に載っているためと思われます。

其の國、本亦男子を以って王と爲し、住まること七・八十年。倭國亂れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王と爲す。名づけて卑彌呼と曰う。鬼道に事え、能<衆を惑わす。年已に長大なるも、夫壻無く、男弟有り、佐けて國を治む。

 上の記事は、普通次のように解釈されているようです。それは、女王国は本来男王が治めていたが、国の成立後70~80年を経た頃に国が乱れ、卑弥呼が王となるまでは歴年混乱状態にあった。そして、その卑弥呼も魏への朝貢を始めた時には、年齢は既に長大となっていた、というものです。
 さて、こういった解釈ですと、歴年と長大年齢とに凡その年数を宛がい、これに住まること七・八十年の七・八十年を加えて、その総計の数値から卑弥呼が王となった年齢の20年ほどを差し引くとこの国の凡その年齢が得られることになります。
 そこで、先ずこの国の年齢を割り出すことから始めてみましょう。それには、混乱期間を示した歴年に先ず10年ほどを宛がい、次に卑弥呼の長大年齢に70歳ほどを宛がってみます。そして卑弥呼の共立時の年齢20歳ほどを差し引くと、この国の年齢を凡そ130~140年とすることができます。
 次に、この年数を先ほど載せた表.4aに収まるように調整します。調整は10年の幅を持って示された七・八十年を72年とするだけで済みます。すると、下のようになります。

- 表.4b-
BC.108年頃 AD.57(中元二年) 107(永初元年) 倭國
大乱
238(景初2年)
分爲百餘國 倭奴國奉貢朝賀 倭國王帥升 倭女王(70歳)
165年 50年 72年 10年 50年

 どうやらこの表から、倭国王帥升等の国と倭女王卑弥呼の国とが同一の国として繋がりそうだという見通しが得られそうです。また、女王の年齢を仮にもう少し引き下げたとしても、十数年ほどの幅に治まるということでそうした見通しに何ら影響は与えません。ただし、このことは同時に倭奴国倭国王帥升等の国とがこの節の最初で述べたように同一の国としては繋がらないという事をも示しているようにも見えるのです。従って、後述する『北史』や『隋書』を活かす上での工夫が必要となるようです。

漢倭奴國と倭國王帥升等の国とは同一の国

 余談というのではないのですが、近年、巻向遺跡を邪馬台国とする説が幅を利かせているようで、邪馬台国九州説の私としては少々気にはなっています。しかし、ここでの場合は、畿内の巻向遺跡では倭国王帥升等の国との一致は望めないでしょう。それに何より、そうした説が邪馬台国の謎を解ける方向に向かわせて行っているという風には見えませんし、むしろ、逆に謎を日本中に拡散させて解けなくしてしまっているように見えます。しかし、そうだからと言って倭国王帥升等の国と倭女王卑弥呼の国との繋がりだけで、この謎が解決に向かうということではありません。思うに、もう一つを、何かを繋ぐ必要があるのです。
 実は、そのもう一つというのが、先ほど倭国王帥升等の国には繋がらないとした倭奴国なのです。しかし、そもそも『北史』や『隋書』にはこの二つの国は、繋がるとか繋がらないとか言う以前に、既に同一の国とされて記載されているのです。

漢の光武の時、使を遣わして入朝し、自ら大夫と稱す。
安帝の時、又使を遣わして朝貢す、之を倭奴國と謂う。

 以上は『隋書』に載る文ですが、『隋書』にはこれ以降にも

則ち魏志の所謂邪馬臺なる者なり

という一文もあり、『隋書』が「魏志倭人伝」を参考にしていることは確かなことです。従って、その『隋書』が倭国王帥升等の国と倭奴国とを同じとしている以上、我々もこれまでのような「魏志倭人伝」の解釈は捨てて、『隋書』に適うような解釈を探し出す必要があります。また、そうしなければこのパズルを始めることは出来ません。大事なことは、このパズルに合うピースを探すことなのです。
 そこで、『隋書』に合わせた場合、「魏志倭人伝」のどの箇所に不都合があるかを探してみますと、
「住まること七・八十年」
という一文にあることが分かります。我々はこれを普通「国が成立して七・八十年」と解釈していたのですから、それ以前に成立した国家である倭奴国とはどうしようとも繋がりません。従って、そうした解釈を変える必要があります。
 さて、これをどのように解釈し直すか。これはそれほど難しい事ではありません。要するに、これを一人の王の治世と見做せば良いだけのことです。つまり表.4bに即して述べれば、先ず治世50年の王が居て、次に治世72年の王が居て、最後は10年の混乱期を経て治世50年目の卑弥呼が現在居るという風に解釈をするのです。

長生きする大王

 思うに、先史時代の王というのは年を経れば経るほどに知識も増し主従関係も濃密になり、ますます王座が安定するのではないだろうか。無論、その結果年老いた王が死ぬまで王座にしがみつく事になりますから、その弊害も当然生まれてきます。治世70年にも余る王の場合、その年齢は90から100にも達することになり、まともな治世が行えなくなる恐れがあります。果して倭國の大乱はこの王の後に起こっています。
 以上は私の勝手な想像に過ぎません。ただ、あるいは陳寿もまたそのような想像をしたのではないかという節がないわけではないのです。それは、「魏志倭人伝」には次のような記事が載せられているからです。

其の人壽考(ながいき)、或は百年、或は八・九十年」

 無論、この記事が倭人に対しての陳寿の感想文等ではなく事実である場合も当然あり得ます。例えば高句麗の長寿王(394~491)の治世は80年近くもあり、年齢も百に手が届くほどでした。倭国王帥升等の治世72年、たとえこれを80年としたとしても長寿王の例があるように決して有り得ない話などではありません。もしかしたら、長寿王の治世を知ることの出来る唐代に書かれた『北史』や『隋書』はそうした想定の下で、

之を倭奴國と謂う

としたのではないだろうか。また、そうではなかったとしても、次に述べるような陳寿の意図を「魏志倭人伝」の中から読み取れば、やはりそうした一文を残したと思います。

陳寿の意図

 先ず、倭人が長寿であるという資料を下に倭国王帥升(等)の治世を70年から80年に見積もってみましょう。すると、倭国の王は漢倭奴国王、倭国王帥升(等)、そして卑弥呼を入れて三代となります。しかもその三代すべてが中国王朝への朝貢儀礼を持つことになりますから、倭國は中国にとってはいわゆる理想の蕃国となります。そして、その理想の蕃国からの朝貢儀礼を受け、その儀礼に答えるように親魏倭王の称号を与えた魏もまた理想の中華の王朝という事になります。
 そして、それは同時にその魏より禅譲を受けた晋もまた理想の中国王朝という栄誉を当然引き継ぐことになりす。つまり、晋の官僚陳寿の意図は晋を理想の中国王朝として世の中に知らしめることに有ったということになります。そして、そのためには先ず魏や倭を理想の国とする必要があったということです。
 なお、「魏志倭人伝」には後漢代の倭の朝貢記事が載っていませんが、陳寿倭人の長寿を具体的に百あるいは九十・八十と数字で示したり、乱以前の時代を七十・八十とこれもまた具体的な数字で示せたのは、後漢代の倭の二つの朝貢記事を参考にしたためとするのが順当な見方ではないだろうか。そして、この時陳寿が参考としたその朝貢記事のどちらの国名も倭奴国となっていたのではないだろうか。
 思うに、陳寿倭人の国に求めたのは、漢倭奴国から連綿と続くところの倭人の国ではなく、代々欠かすことなく中国王朝に朝貢を続けて来たという倭人の国の姿勢ではなかったのか。

 ところで、「倭國王帥升等」の読みですが、通説ではこれを「倭國王帥升ら」と読ませています。ただ、これですと倭国王帥升も一緒に中国王朝へ朝貢したとも解釈ができますので、ここでは帥升等までを王の名前として扱っています。それに、次のような解釈もまた出来なくはないのです。
 つまり、「倭國王が帥升等を遣わして云々」という解釈です。無論、文面からはそのようには読めません。しかし、この倭國という表記ですが、これは当時の状況では個々の国名ではなく広い地域を表わす倭の国の王という普通名詞的な表記と取れます。
 そもそも普通名詞は多くの固有名詞の後に生まれるものです。従って、この王よりも後の王卑弥呼にさえ邪馬臺という固有名詞の国があるのですから、卑弥呼以前の王に固有名詞の国がないというのはある種の矛盾と言えます。しかし、これを脱字あるいは省略と見做せば矛盾とはならなくなります。そしてそうなると、この記事は部分的にあるいは全体的に省略されている可能性が生まれてきます。つまり、下のようにほんの少し語句を補えば、先ほどの「倭國王が帥升等を遣わして云々」と言う解釈が可能となるのです。なお、マーキングのある部分が補った箇所です。

「倭國王帥升等…」⇒「倭國王遣使帥升等…」

最後に、漢籍の原文や読み下し文等は岩波文庫魏志倭人伝後漢書倭伝等に頼りました。

§47.高市文化圏。

日本書紀』は、法隆寺の前身とされる若草伽藍の焼亡を670年と記しています。もしそれが事実だとすれば、斑鳩文化圏が成立したのは壬申の乱以降ということになります。また、『日本書紀』は壬申の乱の翌年から高市大寺の造営が始まったとも記しています。そうすると、斑鳩高市とは異なる斑鳩文化圏と呼び得るものがある以上、おそらくは高市にも高市文化圏と呼びうるものがこの時期には成立している、ということになるのではないだろうか。
 それにしても、決して広いとは言えない奈良の盆地のたとえ西のはずれと東南の隅という互いに離れた立場にあったとしても、共に太子道で結ばれている斑鳩高市、果して特徴の異なる文化をそれぞれが時を同じくして独自に育めるものなのだろうか。

寺の創建瓦とその形式

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 前章では、定説あるいは通説と呼んだ方がいいのかも知れませんが、それに合わせての寺院の建立開始時期の設定を試みました(上図参)。
 結果は、南滋賀廃寺と川原寺が天智代の同時期でしかも瓦が同系統ということで通説通りと言う他はないようにも見えるとしました。しかしそれならば、なぜ天智紀には飛鳥寺しか出てこないのかという疑問が生じます。また、法隆寺高市大寺が天武代の同時期という結果にしても、南滋賀廃寺と川原寺が近江と大和という遠隔地でありながらも同系統の瓦が使われていることを思えば、斑鳩とそれほど距離の隔たりのない高市地方に法隆寺系統の瓦が見られないのは、あるいは法隆寺高市大寺とが同時代の造営ではないのではないかという前述の結果とは逆の結果を導く要因になるということではないだろうか。
 思うに、ここに言う定説あるいは通説というものは『日本書紀』以降の文献に拠るものです。そもそも『日本書紀』からは、川原寺が天智の創建とか近江遷都以前の造営とかのシナリオは見えてきません。それに前章で載せた『瓦と古代寺院』からの引用にもあるように、形も文様も大ぶりの複弁蓮華文となってくる法隆寺や川原寺の創建瓦の出現を瓦変遷の一エポックとして捉えることができるのです。

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 上は、臨川選書『瓦と古代寺院』森郁夫著に載る大ぶり文様の瓦です。なお、法隆寺と川原寺の瓦の違いについては、ニューサイエンス社考古学ライブラリー森郁夫著『瓦』に詳しく載っております。下にその一節を少し引用させてもらいました。また、下図.47cもこの『瓦』を参考としたものです。

中房が大ぶりで突出すること、蓮弁の反転が強いことなどは川原寺の軒丸瓦と同様であるが、蓮弁の一単位が完全に分離せず、界線が2弁を1単位として囲んでいる。そして各弁に子葉をおくのである。このように、蓮弁の様子が川原寺と大きく異なる点が法隆寺式の特徴である。さらに外区にめぐらせた鋸歯文が線鋸歯文であるところも川原寺と異なるところである。

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 ところで、法隆寺や川原寺の前後を普通白鳳時代と呼ぶのだそうですが、この時代の大ぶりの文様の瓦はその瓦当文様の特徴から大きく次の五つほどの系統に分けられるのだそうです。そして、それらはそれを代表する寺の名前から、法隆寺式、川原寺式、紀寺式、薬師寺式、大官大寺式と呼ばれています。
 さて、これらの中で紀寺を除く残りの四寺は官寺であることが分かっています。また、これらの中にこれまで問題としてきた法隆寺と川原寺が当然含まれています。ただ、しかし、ここでの最大の問題の寺である天武の勅願寺にちなむ高市大寺式が見当たりません。
 思うに、天武は諸国の氏族に造寺を促したとされています。従って、天武の勅願寺にちなむ瓦が諸国に広がっている可能性は否めません。また、たとえ高市大寺そのものが分からなくとも、この系統の瓦が今日何々寺式という名前で呼ばれている可能性も当然考慮しなくてはなりません。つまり高市大寺を、以上述べた系統のどれかとすることの可能性が当初から存在するのです。そしてそれを、あるいは瓦が教えてくれるのかも知れません。

 今日、高市大寺の有力候補としては、木之本廃寺、奥山廃寺、小山廃寺が挙げられています。ただ、この中で天武2年以降の造営となる高市大寺に適合する瓦を持つ寺は、紀寺式と呼ばれる文様の瓦を出す小山廃寺だけです。しかも、この寺の瓦は畿内を中心としながらも各地に広く分布しています。また、そうであるからこそ紀寺式とも呼ばれているということです。ただ、しかし、この寺はその規模からも、また塔を欠く伽藍遺構からも凡そ大寺とは呼べないほどに貧弱です。しかも、この寺は藤原京の条坊に正しく則っていることから、その造営の時期を条坊設定の天武末年から大きく遡らせることは出来ず、天武2年からの造営とされる高市大寺に比定することは不可能です。
 なお、木之本廃寺と奥山廃寺についてですが、ここから出る単弁蓮華文の瓦は山田寺跡や若草伽藍跡から出る瓦に近く、複弁蓮華文を持つ法隆寺式や川原寺式よりも古いタイプということになります。従って、川原寺よりも後に出来たとされる高市大寺とは最初から程遠い関係と言うほかありません。そしてそうなると、高市大寺に葺かれていた瓦は紀寺式や法隆寺式でないとすれば、これは川原寺式以外には考えられず、しかも、川原寺以上に有力な官寺もまた高市地方には見当たらないとなれば、川原寺即ち高市大寺とするのが自然と導かれる結論のように見えます。そして、そうなると、天武紀や持統紀に川原寺と同時に挙げられている大官大寺法隆寺のことであるとするのが一番適切ということになります。

川原寺は天智代にはなかった

 ところで、高市大寺を川原寺とした場合、さらには法隆寺大官大寺とした場合、何か不都合なことが起こるだろうか。いや、むしろその逆ではないだろうか。そこで、前章の蒸し返しになるとは思いますが、『日本書紀』の中から川原寺とかかわりのありそうな記事の初出を拾い上げて、下の表に表わしてみました。

表.47a 白雉紀と天武紀の奇妙な一致
白雉2年 味経宮で一切経を読ませる 天武2年 書生を集めて川原寺で一切経を写す
白雉4年 仏菩薩像を造って川原寺に安置する 天武4年 一切経を全国に捜し求めさせる
  天武6年 飛鳥寺一切経を読ます

 表や図は、物事の相違点や一致点を際立たせてくれます。上の表もそうしたものだと思いますが、何とはなく作為めいたものを感じさせられもします。たとえば白雉年間の記事は天武紀を基にしているのではないかと。しかし、天武紀が基だからと言って天武紀の記事が合っているということではないようにも見えます。ただ、天武と川原寺と一切経とは切っても切り離せない関係にあるということだけは強く感じ取れます。
 そもそも、斉明の宮を寺にしたのが川原寺だということであれば、斉明の息子である天武にとっても川原寺は天智以上に大事な寺ということになります。従って、この寺で最初の一切経の書写が行われたとしても何ら不思議はありません。しかし、その大事な寺が、この天武2年の記事を最後に天武14年の川原寺への幸行まで何の話題の対象にもなっていないのはやはりおかしいのではないだろうか。
 そこで、『日本書紀』では記事数の多い飛鳥寺と一寸見比べてみましょう。下の表.47bは天武代の飛鳥の三大寺とされる、川原寺、飛鳥寺大官大寺の記事数とその年を書き示したものです。

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- 表.47b 飛鳥三大寺とその記事の年 -
  川原寺 飛鳥寺(元興寺法興寺)



白雉 4年 崇峻 0年・1年
推古 1年・4年・14年・17年
皇極 3年・4年
孝徳 0年
斉明 3年
天智 10年
    飛鳥寺 大官大寺



1
2
6
9
10
11
13
14
15

○1回





○2回
○5回
○1回

○2回
○3回
○1回
○1回
○1回
○2回
○2回

○1回(注)



○1回

○2回
○4回
持統 1年・2年 10年

 さて、川原寺の造営が通説通りに天智代(662~)から始まったとすれば、天武2年(673) の川原寺での一切経の書写は十分過ぎるくらい可能です。しかし、表.47bからも分かるように、天武2年以降に天武が重用したのは川原寺ではなく飛鳥寺です。しかも、この傾向は天武年間だけではなく持統年間にも引き継がれています。これは不思議と言うほかありません。しかも、図.47dからも分かるように、川原寺は浄御原宮からは指呼の間にあります。それに比べて飛鳥寺は浄御原宮より少なくとも500mは離れています。それなのになぜ天武も持統も官寺である川原寺よりも一私寺でしかない飛鳥寺を重用するのだろうか。
 その理由として考えられることはそれほど多くはありません。先ず、と言うよりもおそらくこのことが全ての理由につながるのだろうと思います。それは、川原寺は飛鳥寺に比べて格段に歴史が浅いということです。つまり、歴史が浅いということは、仏事に不慣れな未熟な僧が多いということであり、当然有能な僧も未だ育ってはいないということになります。従って、僧衆の統制も完璧には行われず、日常的な仏事にも不首尾が生じ、結局特別な仏事以外は飛鳥寺に頼ることになったのではないだろうか。
 思うに、川原寺の造営が通説通り天智代に始まり、天武2年の一切経の書写が行えるくらいまでに僧衆が揃っていたのであれば、おそらくかくも飛鳥寺に頼ることは無かったと思われます。無論、官寺ですから有能な僧を集めることは可能です。ただ、当時の場合、有能な僧というのは唐から帰国した学問僧を指すことになります。ここでの場合ですと、白雉年間や斉明代に唐に渡り10年前後の修行を積み天智代に帰国した学問僧ということになります。従って、事実川原寺が天智代の造営であれば、当然そうした学問僧がこの寺に集められたはずです。しかし、そうではなかった。つまり、川原寺は天智代の造営ではなかった。おそらく、そういうことではないだろうか。
 では、川原寺の造営はいつの時代なのだろう。

 周知のように、天武と持統の代は唐との交流が一切無かった時代です。また、天智2年の白村江の戦い以降学問僧が唐へ渡った可能性はなく、天武・持統の代に帰国の時期を迎える学問僧はいなかったと思われます。つまり、天武・持統代に造営された寺院に有能な学問僧を集めることは難しかったということです。おそらく、高市では天武代以前の造営とされる飛鳥寺にこそそうした僧が自然と集まって居たのではないだろうか。
 こう考えた場合、天武代の造営となる高市大寺にも当然そうした僧は居ないことになります。また逆に、そうした僧の居ない寺院は天武代の造営と言える事にもなります。思うに、川原寺は天武代の造営ではないのか。また、何度も言うように川原寺こそが高市大寺ではないのか。
 思うに、法隆寺式の特徴を示すものが斑鳩文化圏だとすれば、川原寺式の特徴を示すものが高市文化圏ということになるのではないだろうか。また、斑鳩にある法隆寺斑鳩大寺と呼ぶのであれば、高市にある川原寺を高市大寺と呼ぶことに不都合はないのではないだろうか。

§46.都と寺。

 大官大寺の出発点を示しているかもしれない吉備池廃寺という道標からは随分と離れてしまいました。しかし、吉備池廃寺からの降り道がはっきりとしない以上、この道標からは離れ、藤原京大官大寺から遡るのが順当ということになります。それに、今のところと言うより、おそらくこれからも吉備池廃寺を大官大寺の最初とする見方は変わらないものと思います。
 そうしますと、藤原京大官大寺から吉備池廃寺へどのような流れが模索できるかということになるのですが、前回、川原寺を高市大寺に、法隆寺を天武紀大官大寺に想定しています。つまり、時間の流れは逆になりますが、大官大寺⇒川原寺⇒法隆寺⇒吉備池廃寺という流れが可能かどうかを模索すればいいことになります。またそうすることが、川原寺即ち高市大寺という流れにもつながることになります。

川原寺と南滋賀廃寺

 さて、大官大寺⇒川原寺⇒法隆寺⇒吉備池廃寺という流れ、実はこのままでは川原寺までしか遡ることは出来ません。そこで、これを先ず次のように書き表してみましょう。

- 表.46a 都と寺 -
藤原京 飛鳥京 近江京 ?₁ X₂ ?₃ X₃
大官大寺 川原寺 X₁ ?₂ 法隆寺 ?₄ 吉備池廃寺

 こうすると、少なくとも近江までは遡れそうに見えます。また、それより先は『日本書紀』に頼れば、天智の倭京、斉明の後の飛鳥京へと続きはしますが、残念ながらこれらの都にかかわる寺が『日本書紀』からは見つかりません。従って、近江までを先ず確保することから始めることになります。
 と言うのも、実はこの川原寺そっくりな寺が壬申の乱の舞台である近江大津宮の地に当時あったからです。しかも、造高市大寺司の任命が壬申の乱の翌年から始まっているとすれば、高市の地に先代の都大津京ゆかりのこの寺を移すのは正に当を得た行為ということにもなります。そして、その寺が表.46aのX₁ということになります。
 さて、その寺ですが、その寺は南滋賀廃寺と普通呼ばれています。下図の左端がそれです。下は、ニューサイエンス社発行の考古学ライブラリー27・林 博通 著『大津京』からのものです。

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 なお、川原寺そっくりとは言いましたが、正確には西金堂の向きが違っているのです。川原寺の西金堂は東塔と向かいあっていますが、南滋賀廃寺の場合は塔を東にして南正面を向いているのです。しかし、このことがこの説に不都合を招くということにはなりません。と言うのも、この塔を東にあるいは西にして南正面を向く金堂は斑鳩の寺には普通に見られるものだからです。たとえば、法隆寺法輪寺法起寺がそれに当たります。つまりこれは斑鳩の特徴とも呼べるものなのです。
 そこで、右端の図にも目をやって下さい。これは穴太廃寺と呼ばれている大津京時代の古代寺院の発掘及び推定伽藍は位置図です。この再建穴太廃寺がやはり南滋賀廃寺と同じように塔を東にして南正面を向いているのです。しかも、再建穴太廃寺の場合は、本来塔と金堂とが向かい合っていた創建穴太廃寺をわざわざ西金堂が南正面を向くように作りなおしてもいるのです。正に、斑鳩の勢力が大津に押し寄せて来たといった景観ではないだろうか。
 それにしても、この二つの寺院は大津京時代の有力寺院のはずなのですが、なぜか名前さえ残されてはいません。また、大津京を単純に天智の時代と『日本書紀』も今日も主張していますが、このような寺院の名前が天智の時代に出てこないということを少しは考慮し、さらには既成の定説を考え直さなくなくてはならないという風に考えなくてはならないのではないだろうか。

 思えば随分と昔のことになります。私は図.46aの穴太廃寺の創建と再建の二つの伽藍図をここでの参考図書『大津京』の中に見い出した時、これは法隆寺そっくりだと感じたことを今日のように覚えています。また、もし法隆寺金堂薬師如来像光背銘にあるように東宮聖王が法隆寺を再建したのであれば、この東宮聖王が小治田大王天皇を推戴して大津に遷都したのではないかと、今日までずっとそう思ってきてもいます。そしてそうなれば、表.46aの?₁は必要のない都の時代となるのではないかと。
 無論、それでは『日本書紀』とは合致しなくなります。『日本書紀』では、?₁は斉明の倭古京の時代となるのですから。また、?₂は川原寺の可能性もあります。しかし、天智が母斉明を奉っての難波宮から倭古京への帰還、これは東宮聖王が小治田大王を奉っての近江大津への遷都と、そして近江大津から倭飛鳥への帰還とに非常によく似ているのです。無論、前者は『日本書紀』に載る話の筋、後者は素人の創造に過ぎませんが。しかし、天智と寺の話しは『日本書紀』には殆どないようにも見えます。私は、天智は仏徒ではないと思っています。無論、これも素人の考えですが。

都と寺

思うに、都が移れば寺も移る。藤原の都から奈良の都への時がそうでした。では、飛鳥の都から藤原の都への場合はどうだったろうか。藤原の都には大官大寺があります。この大寺はどこからか移されたものだとされています。やはり、藤原の都でも寺は移されています。では、大津の都から飛鳥の都へ移る時、寺は移されたのだろうか。もし移されたのだとすれば、それはどの寺なのだろうか。
 思うにそれは川原寺ということになりはすまいか。そして、もしそうだとすれば大津の都から移された川原寺はやはりどこからか大津の都に移された寺ということになるのではないだろうか。

 川原寺は孝徳紀白雉4年(653)にその名前が既に載っています。また、天武紀2年(673)3月にも、一切経の書写が初めて行われた寺としてその名が記されています。従って、天武紀2年の12月から造営が始まったとされる高市大寺に川原寺を当てはめる自説はあるいは無理というものかもしれません。
 しかし、今日では川原寺は斉明天皇の川原宮の後に建てられた寺という風に考えられています。そうしますと、白雉4年の川原寺の記事は少々おかしいということになります。しかも、この記事には山田寺の可能性もあるとする分注がついてもいるのです。また、天武2年の川原寺での一切経の書写の記事にしても、天武紀を注意深く読んでみると、なんとも不可解なことに天武4年の10月に四方に使いを遣わして一切経を捜し求めたとする記事が載っているのです。
 そもそも一切経の書写をさせておいてから、その後2年近くも経ってから一切経を探すというのはどう見ても順序が逆で腑に落ちません。無論、一切経は非常に幅の広い経典ですから、あるいは注釈書関係を探させたとも考えられます。しかし、腑に落ちないのはそれだけではないのです。そもそも川原寺で一切経の書写をさせたとしながら、奇妙なことに天武6年8月には川原寺ではなくて飛鳥寺一切経を読ませたとする記事が載せられているのです。

川原寺は天智の勅願寺ではない

 何とはなく、自説に都合の悪い記事への非難口調となってしまったような気もいたしますが、続けますと。
 ところで、一切経の記事は『日本書紀』の中では孝徳紀の白雉年間に一度と天武紀での三度との合わせて四度だけしか載っていません。また、川原寺の記事にしても白雉年間に一度と天武年間に八度だけの全部合わせても九度しかありません。それに天武年間の場合は天武14年より前に限れば、川原寺の記事は一切経を写したという記事以外には見当たりません。つまり、『日本書紀』に於ける川原寺の記事は、天武が重病に陥ってからの記事がほとんどだとさえ言えるのです。
 これは自説と言うよりも、想像なのですが、天武は近江大津宮で死去した母斉明を飛鳥の川原の宮で殯をした後その宮を寺とした。これが川原寺ではないのかと。つまり川原寺は天武の勅願寺であると。なお、『日本書紀』には、天智が九州で死去した斉明を11月7日に飛鳥の川原に殯したとする記事があります。そして、この記事が今日の川原寺は天智の勅願寺という定説を生み出す基となっています。
 しかし、そうした定説とは裏腹に、天智10年(671)に天皇が病気に陥った時、川原寺でも南滋賀廃寺でも天智天皇に対しての病気平癒の祈願も祈りも行われてはいません。ただ、内裏での百体の仏像の開眼供のあったことと、天皇飛鳥寺に珍宝を奉らせたという記事があるのみです。思うにこれはおかしい。そもそも飛鳥寺勅願寺ではない。これでは天智の時代には、勅願寺も天智自身の勅願寺もなかったことになります。それとも寺は未だ完成していなかったと言うのだろうか。

 ところで、臨川選書・森 郁夫著『瓦と古代寺院』によれば近江の南滋賀廃寺や崇福寺の軒瓦には川原寺系統のものが使われていたそうです。当然このことは定説に有利に働くのですが、森郁夫氏は同書の中で川原寺と法隆寺の瓦について次のように述べています。なお、引用最初のこの寺というのは川原寺のことです。

この寺の創建時の軒瓦は大ぶりで、複弁八弁蓮華文軒丸瓦と四重弧文軒平瓦が組み合ったものである。蓮弁は強く反転した仏像の蓮華座を思わせる。蓮弁の周囲には面違い鋸歯文がめぐらされる。大きく作られた中房には写実的な蓮子がおかれる。法隆寺西院といい、七世紀後半に期せずして大ぶりな瓦当面に複弁蓮華文を飾る軒丸瓦が作られることになった。そして両寺ともに、それぞれの系統のものが各地に分布している。法隆寺式の瓦が西国に分布圏があるのに対し、川原寺の瓦は東国の方に多く見受けられる。

 思うに、川原寺は文献上も考古学上も近江に結びつきます。そして更には斑鳩に結びつくということです。そしてそうなると、川原寺は天智には結びつかないことになります。なぜなら、天智は斑鳩には結びつかないからです。なぜなら、そもそも『日本書紀』は天智9年(670)つまり天智の亡くなる前の年に法隆寺が焼亡したとしてるからです。これは正に天智を法隆寺西院ではなく若草伽藍に結び付けていることを示しているのです。
 ここで、ちょっとした計算をしてみましょう。定説によれば川原寺は斉明の死後の662年頃より造営が始まったことになります。また、近江遷都の準備としての南滋賀廃寺や崇福寺の造営も近近始まると考えなくてはなりません。普通、寺院が完成するのに20年前後かかると言われています。ただ、官寺の場合はもう少し短いとは思います。例えば、藤原京大官大寺大宝元年(701)より造営が始まり、10年後の711年焼亡の時には塔の基壇外装や中門等が未だ完成していなかっただけと言われています。また、薬師寺の場合は藤原京の条坊に則っていますから、天皇が京内で宮室を定めたとする天武13年(684)の3月9日以降の造営と考えられます。そして、文武2年(698)に衆僧を住まわせたとする記事のあることから凡その完成までに10年といったところでしょうか。
 そこで、川原寺や南滋賀廃寺の完成に十年程度を要したとしてみましょう。そうするとこれらの寺は672、3年前後の完成ということになります。この時期は丁度天武2年(673)の川原寺での一切経の書写や造高市大寺司の任命の時期と相前後します。無論、これだと当然天智の時期には寺は完成していなかったことになります。しかし、薬師寺の場合はほぼ完成の10年前の持統2年(688)には無遮大会が行われています。つまり寺は完成していなくとも大事な行事は行えるということです。 ── どうやら定説に従ったとしても、天智と川原寺との間には何のかかわりも見出せないということのようです。
 ところで、670年焼亡の法隆寺ですが、前回法隆寺所蔵観世音菩薩造像記銅版に記された造像銘のなかに鵤大寺の名前があることを紹介しています。また銘文には、これが造られたのが甲午の年とあることから、この年を持統8年(694)としました。そうなると再建法隆寺は少なくともこの年より十数年前には造営が始まっているということになります。そしてその十数年前とは、実は高市大寺の造営開始時期と重なるのです。

斑鳩文化圏

 さて、定説に従って関連寺々の造営開始時期を推し測ってみました。すると、川原寺と南滋賀廃寺との造営がほぼ同時期に、そして法隆寺高市大寺の造営もまた同時期にそれぞれ開始されたことになるようです。また、川原寺と南滋賀廃寺との瓦が同系統の瓦であることから、これはほぼ確かなことのようにも見えるのですが、法隆寺高市大寺との瓦に関しては必ずしもそうとは言えないようです。
 と言うのも、先ほど高市大寺の瓦は川原寺系統の可能性があると述べましたが、川原寺系統は大ぶりという点では法隆寺の瓦と一致していますが、文様は全く違った系統となります。また、この時期、法隆寺系統の瓦は高市には殆ど見られず、飛鳥においては全くないとも言われています。
 ところで、森郁夫氏はその著『瓦と古代寺院』の中で法隆寺系統の瓦を斑鳩文化圏の瓦だと述べています。

天武はん。

 このコーナーは本来記事カテゴリーとしては「古代雑記」の役君小角の一言コーナーというものでした。しかし、現ブログからこうした記事は全て「平成雑言」に取り込むこととしました。従って、内容は「古代雑記・安万呂の設計図」と併せ読まないと分かりづらいと思いますので少し説明をつけておきます。また、「古代雑記・安万呂の設計図」もいずれ掲載することとなりますので、興味のある方はお読みください。

 これは私論ですが、私は天皇即位、正確には即位の礼つまり即位の令というのは飛鳥浄御原令の施行以後のことではないかと思っています。浄御原令の施行は持統天皇即位の前年ですから、天武以前の天皇というのは正式に即位した天皇ではないことになります。そして、このことは逆に神功皇后天皇であったとしても何ら差し障りのないことをも意味することになるのではないかと。
 なお、「記紀」が神功皇后天皇と表記しないのは彼女が皇女ではなかったからだとおもいますが、このコーナーはいわゆる史実抜きの雑言ですので、そのつもりでお読みください。

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 イヤー、天武はん。懐かしいでんナー。天武はんの名聞くと忘れてしもうとった大和言葉が口から出てしようがおまへんわ。
 ここだけの話でおますが、天武はんは物言いが少々難儀でおましてな、それでおかあはんと嫁はんがいつもついとりました。天武はんが即位したという話は聞いたことがおまへんが、天武はんは死ぬまで大和では一番偉い方でおられました。それになにより頭がよろしゅうおましたなー。ありゃー、仏像はんそっくりでおましたなー。

 ところで、誉津別命をご存知でおましゃろか。あの垂仁はんの話に出てくる皇子のことでおます。あれは火から生まれた金銅の仏像はんの話でおます。なんせ仏像はんはものはしゃべりまへんさかい。そうそうこの話、天武はんが元となってんのと違いまっしゃろか。それに応神はんもよう似とりますなー。お母はんの神功はんなんぞ、それこそ天武はんのお母はにんそっくりでおますわ。
 思いますに、神功はんがずっと天皇はんやっとたんで、応神はんが天皇になれんかったというのがほんまの話と違いますかいな。

 そうそう何で神功はんが新羅に勝てたか知っとりまっか。それは神功はんが女子だったからですわ。仲哀はんもオカマやっとたら熊襲にも勝てたし新羅にも勝てたし死なんでも済んだのに、ほんまに仲哀はんはオカマの恰好して熊襲タケルを倒した倭健の子ども何やろか。

 そうそう肝心なこと忘れていてしまいおった。十七条の憲法あれはなあ、天武はんが東宮やっとた頃に作ったんでっせ。よう出来ておまっしゃろ。あの頃はほんまに良かったですわ。それが藤原はんに変わったとたん、増税インフレ、挙句の果てに伊豆に島流しでおます。大宝律令の恩恵にもあずかれず、ほんまにかにゃしまへん。それにこの大和言葉?むずかしゅうてかないまへんわ。このへんでやめさせてもらいますわ。

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さてもはや、大和言葉でもなく、標準語でもなく、オカマ語でもない、チンポイ語なる例の呪文を唱えましょう。

色即是空 空即是色
 因果は巡る風車 チンチンポイポイ ポイ捨て
  要らないのいらないの 飛んでけー

結構でございました。