古代雑記

一億分の一の検証  昭和枯れ芒、素人のつぶやき。

朔旦冬至と即位、そして大嘗祭。太安万侶の道標、その37。

 人は、夏の暑い日には日陰を好み、冬の寒い日には日向を好みます。もしかしたら、私達にとって、『古事記』と『日本書紀』とはそう云うものなのかも知れません。
 また、人は、作物や草花を日向には植えても、日陰には植えません。そのせいか、庭の日向は決まって耕されますが、庭の日陰が耕されることはありません。

 いつの頃からかは詳しくは知りませんが、『日本書紀』は、その成立の後で、あるいは成立の直前に、当時の政権にとって都合の好いように書き換えられた可能性があるとの指摘が取り沙汰されて今日に至っています。
 思うに、『日本書紀』は六国史の筆頭として史書の日向を歩む正史ではあります。しかし、この史書は長子として甘やかされて育てられたせいか、神話を初めとする幾多のユルキャラの縫い包みに取り囲まれ、しかも常に日向に身を置く立場にあります。あるいは雑草が生えすぎて耕されようとしているのかも知れません。
 それにつけても、千数百年来変わらぬお国柄というのでしょうか。巷での森友の何とかの文書が書き換えられたとかという騒ぎ、… 日向を歩む者はこうしたことの無いよう常に気を配らねば。… それにひきかえ、日陰に身を置く『古事記』、あるいは私、未だ嘗てそうした取り沙汰は一つもございません。… 喜ぶべきか悲しむべきか。

践祚大嘗祭はなかった?

 大嘗(祭)と新嘗(祭)の名前は『古事記』にも見えます。しかし、『日本書紀』のように使い分けているようには見えません。例えば、『日本書紀』には天照が新嘗キコシメスとしているのですが、『古事記』ではこれを大嘗キコシメスとしています。
 大嘗を践祚の大嘗とした場合、『古事記』は明らかに間違えています。しかし、大嘗を天皇が行う新嘗の言い換えに過ぎないのだとしたら、必ずしもそうとは言い切れません。また、記神話が大嘗キコシメスと表記した時代、践祚大嘗祭というものが未だなかったのだとしたら、その表記はむしろ正しいとさえ言えます。
 思うに、新嘗祭天皇が執り行うようになった時、その瞬間に大嘗という言葉が突如として生まれたということではないはずです。また、大嘗という言葉が生まれたからといって、それが即践祚大嘗祭に繋がったということでもないはずです。それが繋がるには、やはり何らかの手続きがあったはずです。
 聞けば、養老令では大嘗祭新嘗祭も共に大嘗と呼んでいたと言います。養老令は大宝令の改訂版とも言われていますから、この時点で令においてなお書き分ける必要がなかったということは、大嘗祭新嘗祭もその手続きあるいは式次第には令の上での相違点が無かったということになります。
 そもそも、大嘗祭新嘗祭との言葉の使い分けは、祭りそのものの違を表わしているのではなく、この祭の主宰者である天皇の代替わり前とその後での最初の祭とを区別するためのものでしかありません。それは天皇が替わったからといって天皇の意味が変わるということでは無いのと同じです。ただ、当時が唯一違いを明らかにしなければならなかったのは、代替わりの年の新穀を前代の物とするかそれとも後代の物とするかということだけです。そして、その結果、8月以降の即位の場合は翌年に大嘗祭を行い、それよりも前の即位の場合は年内にそれを行うという規定が出来上がったのだと思います。もし、大嘗祭新嘗祭との間に違いがあるのだとしたら、おそらく唯一このことに因るものでしょう。

 思うに、令は、大嘗と新嘗との区別をせず、どちらも大嘗と表記します。それは令が前天皇にとっても現天皇にとっても同じ令だからでしょう。また、『日本書紀』は大嘗と新嘗とを区別するため、異なる二つの表記を用いています。それは個々の天皇を書き分けるというのが『日本書紀』の趣旨だからでしょう。なお、『古事記』には大嘗と新嘗、二つの表記がありますが、新嘗の表記は祭りを指しているのではなく、新嘗屋と呼ばれる建物の名称として用いられています。しかもこの名称は物語の中にではなく歌謡の中にのみ見られるもので、最初にも述べたように『古事記』は大嘗と新嘗とを区別してはいません。『古事記』がそれらを区別しないのは、令と同じ理由によるものなのか、それともこの神話の書かれた時代には践祚大嘗祭はなかったことによるものなのか。前章の説明を補う上でも時間を少し割く必要がありそうです。

 さて、即位の時期によって践祚大嘗祭を年内に行うか、それとも翌年とするかを決めた時期があったということなのですが、それならば、それを決める以前はどのようにしていたのだろうかと、誰もが普通そう思うのではないだろうか。しかし、これに就いてあれこれと考えるよりも、持統の場合は践祚大嘗祭だったかどうかを先ず確かめることから始めた方が順序というものかもしれません。何故なら、持統は令に則って即位した最初の天皇だからです。
 持統は4年の正月一日に即位をしています。しかし、この年内に大嘗祭は行われていません。大嘗祭が行われたのは翌年5年の11月1日戊辰です。持統の場合、その3年の6月には浄御原令の施行があり、さらに8月には天神地祇の談合も持たれています。もし、当時践祚大嘗祭という祭事が存在していたなら、これについての何らかの取り決めがあって当然なのですが。しかし、そうした気配は天武紀からもそして後の文武紀からも感じられません。持統の大嘗祭は、天武紀からもそして後の文武紀からも孤立しているのです。しかし、この意味するものからは無視のできない結論が得られます。それは、天武の大嘗祭践祚のそれではなく単なる新嘗祭であったということです。しかし、これは後に回すとして、持統に就いて続けますと。持統の場合、次のような解釈が成り立たないわけでもありません。
 つまり、前天皇の代での新嘗祭により新天皇の初年度の新穀には前天皇にかかわる穀霊が宿る、とする解釈です。これを推し進めれば、新天皇大嘗祭に先立って先ず自身による新嘗祭を行う必要が生じます。したがって、持統は即位の年に新嘗祭を行い、次の年に大嘗祭を行ったと。しかし、この論理は後世には引き継がれていません。それになにより持統の即位も大嘗祭も前天皇の死後数年を経ているのです。加えて、これはある意味での取り決めとなりますから、11月1日という期日もまた取り決めと見なくてはなりません。しかし、11月1日というのは前章でも述べたように朔旦冬至に擬したものとするべきものです。そうなると、11月1日という期日は取り決めによるものではなくなり、延いてはこうした取り決めは最初から無かったということになります。
 そうすると、今度は持統が、というよりも『日本書紀』が何故この時期を、つまり持統5年を選んだかということになります。と言うのも、『日本書紀』は新嘗と大嘗とを区別していながら、後世の取り決めとは異なった持統5年の11月1日に大嘗祭を置く以上、そこには何らかの理由があるという事になるからです。

持統と則天武后の即位

持統4年(690)、大嘗祭の前の年の記事です。この年の1月に持統は即位し、11月中には暦の施行を迎えています。そして、この年の9月の末には、白雉4年(654)に唐に渡ったとされる学問僧智宗・義徳・浄願の三名と、百済の戦役で唐の捕虜となった大伴部博麻暦が筑紫に帰還しています。そして、この一行が10月10日に都に着いと記事にはあります。おそらく、この時に唐の最新情報がもたらされたと思います。なお、こうした長期滞在あるいは抑留からの帰還の記事は、天武13年(684)の暮れの記事にも載っていますが、この時と今回とでは唐の情勢に大きな違いがあります。
 唐では、弘道元年(683年)の高宗の死亡によって、病気がちな高宗に代わって垂簾政治を執っていた皇后の武照(則天武后)が、実質的支配者となります。天武13年の帰還はこれに因るものと思われます。また、則天武后は息子二人の傀儡政権の後、永昌元年(689)11月を突如載初元年正月と定め、翌年には自ら皇帝に即位をしています。いわゆる武周王朝の成立です。
 ところで、則天武后が永昌元年の11月を載初元年正月と定めたのは三正のうちの周正を選んだためです。これは、周王朝を興した則天武后にしてみれば、子の月を正月とする周

月建 卯…
夏暦 11月 12月丑 正月 2月…
殷暦 12月 正月 2月 3月…
周暦 正月 2月 3月 4月…

の暦に合わせるのは当然の行為ということでしょう。しかし、それはそれとして、では何故この年のこの月に突如それを行わなければならなかったか。例によって素人の勘繰りではありますが、先ほどの事と関係があるやもしれません。少し時間を裂いてみましょう。左は三正(夏暦・殷暦・周暦)。

 最初に結論から申せば、永昌元年(689)11月は朔旦冬至に当たるということです。思うに、朔旦冬至というのは元嘉暦法そのものを言い表しているとも言えるものです。また、当時中国で用いられていた麟徳暦(日本名儀鳳暦)は章法(元嘉暦法等)を否定する立場の暦法で、今日から見れば何とはなく朔旦冬至をも否定しているようにも見えます。しかし、麟徳暦でも朔旦冬至は起こるわけですから、当時この暦法下で朔旦冬至が否定されていたわけではありません。むしろ、より瑞祥吉日とされていたと観るべきかもしれません。
 なお、章法というのは、任意の冬至から19番目の冬至までの時間が平均朔望月235ヶ月分とほぼ等しいという観測結果によって生まれた暦法です。また、この暦法は、235ヶ月が19年と7つの閏月とよりなることから、19年7潤法とも呼ばれています。また、この暦法では、19年毎にめぐって来る冬至を11月の朔に置き、これを朔旦冬至と呼んでいるのです。そして、この朔旦冬至を起点として暦を組んでいくのが章法(19年7潤法)です。他方、麟徳暦は1日を1340分と決め、1年を489428分、平均朔望月を39571分として暦を組んでいくもので、19年という枠組みを持ちません。しかし、この両暦の朔の誤差は19年で4分ほどと言われています。したがって、当時は朔旦冬至が暦から外れることは未だ無かったと思われます。
 さて、そういう訳で、則天武后にとってこの永昌元年(689)11月を逃せば次の朔旦冬至は19年後の708年となってしまいます。悪運が強いと言うか、彼女には永昌元年11月が瑞祥吉日と見えたのかも知れません。実際、則天武后は705年に退位を促された後まもなくして死亡したと言われていますから、この689年が彼女にとって唯一の朔旦冬至の年だったということになります。

 古代、あるいは現代もそうかもしれませんが、人は何かをする場合吉日を占ってもらいます。しかし、占わなくとも瑞祥吉日が目前にあるのだとしたら…。思うに、持統と則天武后の即位はこの朔旦冬至を受けてのものだったのではないだろうか。古来より瑞祥を受けての改元がありました。そして今回は、瑞祥を受けての即位ということなのでしょう。
 思うに、持統と則天武后の即位の年は章法でいう章首の年に当たり、朔旦冬至より前を旧年とすれば、正に19年を経て巡って来る新年と呼べる年なのです。加えて19年は一世代にも近く、人の世の新旧を告げる節目とも受け取れます。正に、朔旦冬至とはそういうものなのかもしれません。

 持統と則天武后、思うにこの二人にはいろいろと共通点があるようですが、これについては別の章で取り上げるとして、本題の大嘗祭に戻りますと。持統5年(691)の11月1日は朔旦冬至ではないことになります。ただ、持統4年施行の儀鳳暦は定朔を目的とする暦法ですので、単に11月1日が朔であったというだけの事なのかもしれません。というのも、斉明5年(659)に遣唐使が唐の朝廷で観たという11月1日の冬至会、あるいはこれもそうであったかも知れないからです。そもそも、斉明5年は朔旦冬至の年とはなりません。ただし、仮に遣唐使が招かれた冬至会が真に朔旦冬至であったとしたなら、この記事はこの年の前後の朔旦冬至の年、670年か、あるいは651年に設定し直すべきかもしれません。しかし、これに就いては別の機会に取り上げましょう。
 なお、定朔というのは、その月の1日と朔とを一致させるという暦法です。これは、月の朔望の周期には29.27日から29.83日ほどの幅があるため、大の月と小の月とをやり繰りして調整するというものです。ただ、調整の幅は一日単位でしかできませんので正確とは言えないかも知れませんが、その分逆に余裕があるとは言えるのかも知れません。
 ところで、11月1日は11月朔ともできます。こうした書き換えがいつ頃より行われているのかを私は知りませんが、ただ平朔法である元嘉暦使用時には必ずしも適切なことだとは言えません。というのも、元嘉暦では1日に朔が来る確率は非常に少ないからです。したがって、元嘉暦使用時に1日を朔と呼ぶことは無かったと考えるべきです。
 思うに、1日を朔と呼んで良い時期は、儀鳳暦が伝わってからではないかと。正確には儀鳳暦法というべきかもしれません。というのは、儀鳳暦は野中寺弥勒菩薩像台座の銘文の書かれた時期には伝わっていた可能性もあるからです。つまり、儀鳳暦が定朔法によるものであることを理解していなければそうした読み換えはできないということです。

 儀鳳暦法が伝わったのは、その名の通り儀鳳年間(676~679)のことと言えます。これは天武朝の5年から8年にかけての時期に当たります。期せずと言うか、願ったり適ったりと言うか、天武5年と6年に告朔という名称の儀礼のあったことが載せられています。