昭和は遠くなりにけり

古代に思いを馳せ、現在に雑言す。・案山子の落書・

§36 大嘗祭の最初は持統天皇か。

 飛鳥から木簡が出土し、大化の改新の詔の信憑性が疑われ出してから久しくなります。しかし、大化の改新そのものを疑う人は未だ居ないようです。まして、壬申の乱を疑う人はさらに居ないでしょう。しかし、改新の詔を疑う以上、大化の改新そのものをも疑うというのが順序ではないだろうか。それとも、評を郡へと単に制度の名前を変えたに過ぎないと言うのでああろうか。しかし、それなら中の大兄も鎌足もそして軽も単に名前を変えているに過ぎないと言って良いのだろうか。
 『日本書紀』は疑い出せば限がない書物です。しかし、それが『日本書紀』に課せられた古代からのメッセージと観れば、これもまた楽しいものです。

天武紀を疑う

 誰もが指摘するように『古事記』と『日本書紀』とは、それぞれ違った観点で整えられている書き物です。しかし、その掲げているところのものは一致しています。それは、天武天皇を称えるということです。『日本書紀』が天武に2巻を裂いているのはその現れです。また、『古事記』に序文があるのもそのためです。
 しかし、古代も現代も天武を過大評価し過ぎているのではないだろうか。それは、古代の主張である天武は旧政治体制を崩壊させて天位に就いた偉大な天皇とする天武紀に現代が追従し、皇親政治といった言葉を生み出している処におおむね現れています。しかし、考えてみれば、天武は1巻を費やすほどの壬申の乱後、半年そこそこで天位に就いています。しかも、天武紀に載る乱後の処理は本の数行で終える程度のもの。天下をめぐる争いの幕引きとしては余りに呆気ないと言うほかありません。また、天武がこの時どのような政治体制を敷いていたかは皆目見当もつきませんが、大乱の直後でありながら政治的混乱はまったくなかったということのようです。
 ただ、そうなると。穿った見方をすれば、本当に天武紀上に載るような壬申の乱はあったのだろうかと。それはともかく、天武紀上(壬申紀)に則って天武紀下のこれまでに述べたことを省みた場合、仮に天武がそれらの創始者だとしても、記事に載らない政治体制、いわゆる皇親政治の下で、後世の律令体制にも耐え得るほどのそれらの制度化が進められたかどうか、すこぶる疑問と言う他はありません。
 さて、天武は同じような政治体制の下でそれら以外にも、例えば僧尼や寺の統制をはかる詔を発しています。ただ、これらは天武が律令の編纂を命じる前後に載る記事で、おそらくこの時期の前後に天武自身が令制の必要を痛感したのだと思います。また、これと同じ時期に「古事記序」に載る帝紀旧辞の撰録と校訂とを命じています。しかし、これは「古事記序」にあるように完成していません。おそらく、これ以外の諸事についてもそうだったものと思われます。そして、その原因は人員不足によるものであったことがその年の記事から想像できます。天武は10年2月の詔の中で次のように述べています。然れども、にわかにこれをなさば、公事かくことあらむ、人を分けて行うようにと。
 とにもかくにも、天武の時代、事はなりませんでした。これが成ったのは持統3年の6月のことです。しかし、この時点に於いても未だ令のみで律令とまでは至っていません。しかし、翌年の4年7月には、太政大臣、右大臣、八省百寮も選任され政治体制は整ったといえます。そして何より重要なことは、この年の11月中から暦の使用、正確には自国で作られた暦が使われだしたということです。つまり、これにより天皇が暦つまり正朔を定めたとされる事になるわけです。そして、これが告朔につながり、12月さらには翌年の5年からの告朔の儀が可能となるのです。
 無論、天武の時代にも暦はあります。しかし、それは日本自身の手によったものではなかったと思われます。ただ、元嘉暦に関してはあるいは日本で作られた可能性もないわけではないのですが、ただ平朔法である元嘉暦は何十年分もの作り置きが可能であるため、あるいは半島で作らせておいた可能性もあります。しかし、いずれにしても最新の儀鳳暦は天武の時代には未だ作れなかったということです。これは天皇たる天武にとって、というよりも「記紀」編纂者にとって非常に歯がゆい事ことだったと思われます。
 そもそも、暦造りは天子にとっては非常に重要なことなのです。それは、正朔という言葉に現れています。正朔、これは1月1日を決めた暦のことですが、延いてはこれを制定した天子の統治を意味する言葉にもなります。これを当時の東アジアに当てはめると、中国の正朔を奉じていた朝鮮半島はいわゆる中国の統治下(冊封)にあったということになります。一方、日本は中国の冊封下にはありませんでしたが、半島から取り寄せた暦を使用することで真の独立国ではなかったということになります。つまり、天武の時代、真の天皇としての威信を保つことは難しかったと思われます。おそらく、このことが大嘗祭や告朔の儀式を生んだのではないかと。
 以上を考慮して、再度天武紀に目を遣りますと。天武4年に始まる龍田と広瀬の祀り、そして天武の5年と6年とに現れる告朔と新嘗祭、思うに、これらの記事は本来持統紀の記事であったとした方がより自然なのではないかと。これは天武を称えすぎた結果、本来持統が最初であったものを天武紀に遡らせたのではないかと。無論、これは一私論です。しかし、持統よりも早いとされる天武の大嘗祭、実は、ここからもそうしたことの言える箇所が見出せるのです。

収穫祭と冬至

 既に述べていますが、大嘗祭というのは、新嘗祭天皇版のことです。そして、この大嘗祭が即位版となったために再び新嘗祭と呼ばれるようになった。つまり、『日本書紀』が天武紀の中で大嘗祭新嘗祭の二つを用いているのは、当時の最新の情報に頼ったと見るべきなのです。しかし、それは後にして、前章で残した課題、表2と、新嘗祭大嘗祭が11月の卯の日となったことについて少し説明及び考察を加えてみましょう。
 天武紀には、大嘗祭の行われた日の明確な記載はありません。ただ、12月5日に大嘗祭に奉仕した人達への賜物の記事があることから、おそらく11月28日がそうではなかったかと思われます。また、新嘗祭のそれは、5年には11月1日に、6年には11月23日になっています。一方、持統の大嘗祭は5年の11月1日ですから、これだけを較べた場合、天武5年の新嘗祭はこれに倣ったものと言えます? 取り敢えずそうしておきましょう。
 下は、持統朝前後の新嘗祭大嘗祭の日付と干支を表に示したものです。なお、天武の場合は、11月16日丁卯としても良いのですが、11月28日己卯としたのは先ほど述べた12月5日の記事からそうしました。しかし、実際はどちらでも構いません。要は、11月の1日でなければ好いのです。また、清寧の場合は大嘗祭の準備が11月の記事にあることから、その日が11月1日よりも後であることを示したものです。これも、11月の1日でさえなければ構わないのです。

表1
  清寧 用明 舒明 皇極 天武 持統 文武 元明 元正 聖武
大嘗 11/1
他日
      11/28
11/1
戊辰
11/23
11/21
11/19
11/23
新嘗   4/2
丙午
1/1
11/16
11/1
乙丑
         
        11/21
         

 後世、大嘗祭もそうですが、新嘗祭は11月の中旬以降の卯の日に行うというのが慣例となっています。したがって、そういった観点からこの表を見た場合、11月1日戊辰の日の持統の大嘗祭は異質な感じがしなくもありません。しかし、仮に大嘗祭の最初が持統だとしたなら、後世の慣例に近い持統以前のそれらの方が、却って不自然に感じられることになります。なお、これ以降は新嘗祭大嘗祭と呼んで話を進めて行くことにします。
 ところで、大嘗祭をなぜ11月の卯の日としたのだろうか。ある程度の推測は可能です。ただ、正解か如何か、いずれ話すことになります。しかし、それよりも持統の11月1日の場合はかなり納得のいく説明が可能となります。それは、朔旦冬至(さくたんとうじ)を祝う祭りに起因するというものです。
 朔旦冬至というのは19年毎に、11月1日(朔)が冬至と重なることを言います。古来中国ではこの日を吉日として朝廷で祝いをするのが慣わしとなっています。日本でのこの慣わしは聖武朝に始まるとされていますが、日本がこの中国の慣わしを知ったのは聖武朝よりもずっと以前のことです。しかも、斉明紀には、その5年に伊吉博徳(いきのはかとこ)の書から引いた、日本の使者が中国の朝廷でこの祝いそのものを、ただしここには冬至会とあるのみで19年毎の朔旦冬至かは不明ですが、それを直接目にしたとする記事を載せてもいます。思うに、大嘗祭とは和風の朔旦冬至の祝いではなかったかと。そして、それを最初に行ったのが持統ではないかと。

 しかし、あるいはこう言うかもしれません。もし、仮に大嘗祭が持統の代に始まるのなら、なぜ後世の慣例は持統の11月1日のそれとは違うのかと。しかし、それに対してはこう言い返すことが出来ます。もし、仮に後世の慣例が皇極の代に始まるとするなら、天武の5年や持統の場合はなぜこれに合わせてはいないのかと。また、後世の慣例に適合する皇極の場合、何を以ってこの日を決めたのかと。しかし、これには次のように言い返されることになるのかも知れません。すなわち、皇極から文武までの間、大嘗祭を11月の何日とするかは模索の段階であったと。しかし、これに対しては、それを言うのであれば、皇極からではなく清寧あるいは用明からとするべきではないかと。そう反論もできます。ただ、こう進んでしまいますと何日ということだけでなく11月についても検討しなくてはならなくなります。
 思うに、そもそも秋の収穫の祭りがなぜ真冬のしかも冬至の近辺になったのだろうか。やはり、このことから始めなくてはならないようです。これに就いては先ほど述べたようにある程度の推測は可能です。これも冬至との関わりからの推測ですが、その前に、大嘗祭新暦のいつ頃に当たるかを冬至を交えてちょっと覗いてみましょう。

 先ず、冬至ということから始めますと。冬至は北半球では太陽の南中高度の最も低い時 点を指す言葉です。ただし、冬至新暦では12月の22日前後とほぼ一定していますが、旧暦では11月中と幅がかなり広くなっています。したがって、たとえば冬至新暦からは最も遠い旧暦の11月の1日だとすると、11月中旬以降と決められている大嘗祭新暦の正月以降に10日近くも食い込むことになります。
 なお、表1の用明と舒明の新嘗が左図よりそれぞれ旧暦の立春立夏に当たることが分かると思いますが、あるいは新嘗は本来収穫とは関係がなかったのやも知れません。
 しかし、それは別として、新暦に慣れた現代からすれば、秋の収穫祭が年明けになるというのは奇妙な気がいたしますが、当時は季節暦ですから新暦の正月はまだまだ真冬に当たります。そして、その真冬が来たことを教えてくれるのが冬至なのです。そして、面白いことに、それと同時に春が来ることをも冬至は教えているのです。何せ、冬至を過ぎれば日は再び高くなって行くのですから。正に、冬来たりなば春遠からじということでしょう。それとも、「一陽来復」と言った方が良いでしょうか。何せ、これは冬至を祝っての言葉ですから。

 さて、一陽の陽は陰陽の陽のことです。つまり冬至は、陰陽八卦に言う、陰極まりて、始めて一陽を生ず、とされる位置にあることを示しています。そして、この象(かたち)は八卦の震と呼ばれているものと同じなのです。これを八卦の図象で説明しますと、震(☳)は陰の極まった象の坤(☷)が始めて一陽を得た象で、四季では春を、四方では東を、そして十二支では卯を指します。また、震の図象☳を陰陽で捉えると、陰が陽を覆っているとできます。これを、草木が茂って影に覆われていると読み解けば十二支の卯の性状と一致します。また、易64卦の中の一つ、益の名称を持つ卦の図象で下卦あるいは内卦と呼ばれる位置にあるのもこの震(☳)です。
 このように見てまいりますと、収穫祭を冬至を含む11月の卯の日に行うのは、種としての収穫物に命を芽生えさせ、再生と豊穣とを願っての神への祈りとすることができそうです。なお、もう少し補いますと。冬至あるいは11月は、十二支では子、八卦では坎となります。さて、この十二支の子は、新しい生命が種子の中に萌(きざ)し始める状態を表しているとされています。そこで八卦の坎に目を遣りますと、この図象は陰の中に陽がある形をしています。この形☵は陰の中に確りしたものがある状態、つまり種子の中に命が芽生えた状態と読み解けば、先ほどの子の性状と一致します。坎(☵)は八卦では二番目に陽を得た象とされていて、これも来復つまり再生を意味しています。

 思うに、大嘗祭天皇とのかかわりから複雑に解釈する向きもありますが、それよりも天皇が古来からの収穫祭をある時期に制度化をしたものに過ぎないと考えたほうが良いのではないだろうか。そうすれば、五穀にとって死(玄冬)と同時に再生(青春)を約束する冬至を含むに11月のしかも卯の日にこの祭りをおくことが、八卦や易、延いては益に適うことに繋がるのです。つまり、大嘗祭冬至とのかかわりの中で生まれたとすることが可能となります。そして、その冬至を称える祭りが朔旦冬至にあるのですから、最初の大嘗祭は11月1日(朔旦冬至?)に行った持統ということになります。