昭和は遠くなりにけり

古代に思いを馳せ、現在に雑言す。・案山子の落書・

§27 秦氏の出自。

 地震に大雨、そして争い。ある日突然住み慣れた土地を離れなければならなくなる時があります。古代においても現代においても世界のどこかの一角で常に起こっている悲しい歴史の繰り返しでもあります。歴史は、我々に何を教えようとしているのだろう。
 古代は、その幾多の悲しい繰り返しが、新しい技術や文化をこの日本に運んできたと教えています。しかし、現代は我々に何を教えようとしているのだろうか。
 自然の歴史をも左右する現代社会、知らなかったでは済まされない時代がやって来ています。せめて、社会の矛盾、歴史の矛盾に疑問を抱くぐらいのことはしなくてはならないのではないだろうか。

巴氐(はてい)と巴賨(はそう)

 前回、船氏の出自を前秦の王苻堅の宰相王猛の後裔としました。これを直接証明する手掛かりは今のところありませ。しかし、秦氏の出自を前秦とする手掛かりが実はあるのです。無論、私論ではあります。なお、前秦という国号はなく、正式には単に秦とのみ記す国号です。また、前秦を建てたのは五胡の一つである氐(てい)族、通説ではチベット系の民族と言われています。
 氐族は五胡十六国時代(304~439年)に、成漢、前秦後涼などの国を建てています。秦氏のルーツとして先ず浮かび上がってくるのが成漢(304~347年)を建国した氐族です。この氐族は巴氐あるいは巴賨とも呼ばれています。巴氐の巴(は)は巴蜀の地の巴で、蜀と共に秦嶺山脈より南の漢中盆地と四川盆地一帯を指す呼び名です。巴賨の賨(そう)も同じ四川の東部の原住民を指す呼び名です。ただ、この呼び名には同時に原住民(南の異民族)の貢物、主として布を指す意味もあるとされています。
 ここで、ちょっと次の文、新人物往来社発行・京都文化博物館偏『古代豪族と朝鮮』の中の森浩一執筆「考古学から見た渡来文化・灌漑技術と秦氏の出自の関係」を参考にしておきましょう。

最近言われているのは、秦という戦国の国は、灌漑技術が非常に発達していた。そのために水田開発で大きな安定した富を得た。その一番いい現われが、四川省成都というところ、マーボードーフの故郷でありますが、成都の郊外に残っている、始皇帝の確か二代前の昭襄王の時に作った都江堰が有名なんです。…(中略)…
基本構造は嵐山の葛野大堰と同じですね。川が山から平野にでてくるところに人工の島を作って、その島の位置が難しいんです、まんなかではないんです、その島の位置の作り方が難しい、水を分ける。そして、やはり、基本的な水は左岸へ引いている。

 戦国時代の秦が強くなったのは蜀を征服し、この地の開発を行って以降のことだと言われています。開発の主役、灌漑技術が秦のものなのか、それともこの蜀の地にあったものなのかはこれだけでは分かりませんが、四川の都江堰(とこうえん)と葛野大堰とが作りも水の引き方も同じという事に関しては一考の価値はあります。ただ、秦氏の直接の出自を都江堰(昭襄王:~BC.251)を手掛けた戦国時代の秦としたのでは、葛野大堰との間に千年もの隔たりが生じます。そして、この千年もの間、秦氏が灌漑技術を忘れることなくどのようにして日本に辿りついたのか、とにもかくにもこの千年を埋めることから始めなくてはなりません。
 幸い、森浩一氏はこれに対する答もそこに用意されてもいるようです。

なぜこの葛野大堰が、秦氏と関係しているとわかるかといいますと、そういう灌漑用の設備の維持、どこがお金を出すのかという法律論争が行われたことがある。その時に葛野大堰の先例を出して、これは要するに秦氏がやったものだけれども、管理は地域全体が負担をしているという、そういう記録の中に出てくるんですね。

 森氏が四川の都江堰を訪れたのが1980年代頃らしいのですが、二千年も前の堰が残っていたということは、当然、誰かが常に管理と補修をしていたということになります。古代でも現代でも技術というものは身についていて始めて役に立つものです。先祖が嘗て何々の技術者であったいうだけでは、何の役にも立ちません。秦氏が、秦の灌漑技術を葛野大堰に活かしたのであれば、彼らは日本に来る直前まで四川の都江堰や朝鮮半島のどこかに彼らが築いた井堰の管理と補修に携わっていたとするべきでしょう。
 さて、巴氐は "はてい" または "はたい" と読みます。音としては秦(はだ)に近いと言えます。また、秦を機織の機(はた)の意味とするのは巴賨の賨に布の意味があるからだとも言えます。秦氏を通説通りの灌漑技術を持ち布を貢ぐ民と見た場合、彼らを巴蜀の地に国を建てた氐族の後裔と見做すことにそれほどの矛盾はありません。都江堰と蜀錦、秦氏がこの二つの技術を持って日本に来たとすれば、また、蜀錦を呉(呉:くれはとり)と見做せば、応神記に載る

かれ命を受けて貢上れる人、名は和邇吉師、すなわち論語十巻、千字文一巻、并はせて十一巻を、この人に付けて貢進りき。この和邇吉師は文の首等が祖なり。また手人韓鍛名は卓素、また呉服西素二人を貢上りき。またの造の祖、漢の直の祖、また酒を醸むことを知れる人、名は仁番、またの名は須須許理等、まゐ渡り来つ。
《角川文庫『新訂古事記』より》

の記事とも一致します。
 なお、『日本書紀』では、応神37年にも呉織・穴織と縫女の兄媛・弟媛が、また雄略14年にも呉織・漢織と衣縫いの兄媛・弟媛が、呉から来たとなっていて、応神の時代が最初なのか、雄略の時代が最初なのか判然とはしませんが、25章でも述べたように、「文化の渡来」が『古事記』の応神の時代にあり、その時期を漢城百済の滅亡475年以降とすれば、この時期は『日本書紀』では雄略の時代に当たることになります。したがって、これら二つの記事は同じ時期の同じ出来事を述べていると見るべきでしょう。また、この二つの記事は、呉織と穴織あるいは漢織、そして兄媛と弟媛といった具合にどちらも対として表現していることから、多分に作為的な記事とみたほうがいいかもしれません。それに、兄媛と弟媛というのは明らかに織姫を陰と陽とに分けたもののように見えます。また、織姫は織女(しょくじょ)つまり蜀女とも出来、蜀錦を織る織姫とも出来ます。ただし、呉服あるいは呉織が本当の意味での蜀錦に当たるのかは分かりません。また、穴織も漢織も呉の織物らしいのですが、漢(あや)が呉延いては蜀地域とかかわりがある呼び名だとすれば、漢の直の祖もまた秦氏と同じこれらの地域から来たことになるのかも知れません。
 ところで、秦氏の出自については通説では、百済とも、新羅とも、字の通りの秦とも言われています。秦氏自身は、後世になりますが『新撰姓氏録』では秦始皇帝の後裔としています。しかし、「記紀」にはそのような記述はありません。ただ、「記紀」の秦氏に関しての記述は非常に好意的であることから、秦氏が船氏や多氏と親密であった可能性は否めません。『新撰姓氏録』には、雄略の時代に散らばっていた秦の民を、小子部雷が大隅と阿多の隼人を率いて捜し集めたとあります。小子部は多氏の一族ですから、そういった話からも多氏と秦氏との関係がうかがえます。
 思うに雄略紀には、秦の民を集めるとか、子供を集めるとかの話が載っていますが、これらはすべて小子部の職掌、少年を組織して宮門の警備や宮中の雑務をさせていたことから生まれた話で、おそらく、少年の多くが秦氏から集められたことによるものではなかったかとも思われます。と言うのも、秦の子供とは、秦即ち呉服あるいは呉織そのものである絹の子供即ち蚕のことだからです。雄略紀では、天皇が小子部蜾蠃(すがる)に国中の蚕を集めさせたところ、蚕(こ)を子供のことと勘違いをして子供を集めたとあります。
 また、小子部蜾蠃が雷を捕らえたという話も、秦氏が鳴り鏑(矢)を用いる松尾神社(京都市西京区)を氏神としていたことによるものと言えます。『古事記』にはつぎのようにあります。

此神者、坐近淡海國之日枝山、亦坐葛野之松尾、用鳴鏑神者也。
岩波文庫古事記』より》

 鳴鏑(なりかぶら矢)とは雷鳴と電光のこと、つまり蜾蠃が捕らえた雷のことです。ところで、上記下線部を読み下すとどのようになるだろうか。私は、"鳴鏑を用いる" としました。この "用いる" は次のように "餅(を)射る" とも書けます。矢で餅を射て稲がなるという話は、これも秦氏とかかわりのある稲荷神社(京都市伏見区)の縁起の話です。稲荷神社は「記紀」には登場しませんが、『古事記』の神話は後世まで影響を与えていたように見えます。

記紀」について

 「記紀」からの引用がだいぶ増えてきたようですので、またそれらの記事に対しての連想あるいは妄想が多くなっているようにも見えますので、遅れ馳せではありますが、ここで少し「記紀」への私見を述べておきましょう。
 「記紀」を語呂合わせや判じ物の論で語るつもりはありませんが、『日本書紀』の完成が養老4年(720)だということを考えた場合、自然とそういった論に傾いてしまうこともまた確かです。と言うのも、その7年ほど前の和銅5年(712)に、先ず『古事記』が献上され、さらに、その一年後の和銅6年に『風土記』編纂の命が下されているからです。言ってみれば、『日本書紀』は『古事記』や『風土記』をベースにして出来ているとも言えます。ただ、『風土記』に関して言えば、今日残っているのは五つほどの地域とその外の少しの地域の逸文でしかなく、しかも和銅年間のものかどうかも分からないものです。しかし、何々天皇の世とする部分を無視すれば、その故事来歴の多くは歴史的と言うよりも説話や語呂合わせに終始しているようにも見えます。また、『古事記』にしても帝紀旧辞よりなるとは言いますが、最も大事と思われる系譜にしても『日本書紀』には取り入れられていないものも多く、そしてなにより『日本書紀』自身がその系譜に疑問を投げ掛けるような書き方をしてもいるのです。
 無論、『古事記』に関しては『続日本紀』には撰録の記載がなく、『日本書紀』とは何の関わりもない、とする見解もあります。しかし、応神と仁徳が重なり、仁徳と雄略が重なり、そして、ここでは雄略と応神が重なるという構図があります。応神と仁徳が重なるという構図は既に7章でも述べていますように「記紀」が持つ共通の表現、巨大古墳を大みささぎと呼べることに拠るものです。また、仁徳と雄略が重なるのは、現実の墳墓の乱れと「記紀」の墳墓破壊の物語との整合性よるもので、22章以降何度か述べていると思いますが、こうした重なりは言ってみれば一種の矛盾であります。そして、「記紀」共にそうした矛盾を共有することは、一方が他方をベースにしている証と見るべきものと言えます。また、通説にもあるように、両者は同一の資料を利用したのであって、両者の間には直接の関係はないとしてみたとしても、こうした重なりが生まれる背景にどういった資料の想定が出来るかと言えば、これはかなりまとまっている資料でなくてはそういった共通の矛盾は生まれません。つまりは、『古事記』のようなものでなくてはならないわけです。
 私は一素人ですから、「記紀」を読んで理解できないことを無理に理解する必要のある身ではありません。また、素人ですから、ホンのちょっとした共通点や類似点から連想や妄想を育んだり膨らませたりもします。しかし、これを間違ったやり方だという風には思っていません。むしろ、こうしたことが可能だということは、「記紀」そのものが連想や妄想の産物であるためだとさえ思っているほどです。しかし、そうだからと言って「記紀」の記事を否定するつもりもありません。記事を否定してしまっては、連想や妄想の行き着く先を失ってしまいます。
 「記紀」個々の記事についてどうのこうのと批評を加えるだけの力量は私にはありませんが、「記紀」を読み比べて思うことは、『古事記』を元に『日本書紀』を書こうとは思っても、『日本書紀』を元に『古事記』を書こうとは思はないことです。そして、さらに次のようにも妄想します。自分もそう思うのだから古代人もまたそう思うのではないだろうかと。現代から古代を推し測ることは適切とはいえませんが、現代の素人が古代の素人を推し測ることに何ら不都合は生じないはずです。
 ところで、素人がなぜ古代史に顔を突っ込むのだろうか。それは専門家にも解けない謎があるからです。専門化にも解けない謎を素人が解こうとする。滑稽といえば滑稽な話ではありますが、必ずしも道理から離れているという訳ではありません。例えば、専門家をAと置き、素人をその否定形の-Aとし、謎の答えをXとした場合、専門家に解けない謎は次のような式で表わせます。

A=-X

このままでは謎は解けませんから、専門家のAに素人の-Aを代入します。すると

-A=-X ⇒ A=X

となって、この謎は解けることになります。つまり、謎に対しては素人が専門家になるという構図です。あるいは、これこそが妄想なのかも…