昭和は遠くなりにけり

古代に思いを馳せ、現在に雑言す。・案山子の落書・

§19 陰陽という入れ物。

 古代人はすべてのものを陰と陽とに分けました。転じれば、すべてのものが陰と陽とに分かれるとなります。前章では太陽を陰と陽とに分けて、八咫烏と金鵄をそれぞれ太陽と月とにしました。それなら、月を陰と陽とに分ければどうなるのか。あるいは、そう皮肉られるかもしれません。実際、これも太陽と月とになります。何とはなく可笑しいようにも思えますが、これは一種の代数です。実際の代数はもっと可笑しなものです。代数方程式は、すべての方程式には解つまり答えがあるとしてこれを解いてゆきます。そのために本来は答えではないものが答えとして出てきます。それは虚数と呼ばれています。虚数と実数、それは陰と陽との関係よりも不可解なものです。しかし、これには複素数としての使い道があります。

入れ物を運ぶ者。

入れ物としての陰陽。

 さて、太一(北極星)を陰と陽とに分けるとどうなるか。無論、これも陰と陽とになります。しかし、月と太陽とになるわけではありません。おそらく、天皇大帝と紫微大帝とになるとおもいます。なぜなら、天皇大帝は兄で紫微大帝はその弟だからです。周知のように、日本は昔より甲子を "きのえね" つまり "木の兄子"と呼び、乙丑を "きのとうし" つまり "木の弟丑" と呼んできました。干支を "えと(兄弟)" と呼ぶのはそのためなのです。ここには、兄が陽で弟が陰だとする考え方があるのです。
 えと(兄弟)は、十干を陰陽五行に割り振った結果生まれたものです。しかし、転ずれば五行を陰と陽とに分けたとも言えます。つまり、X=YをY=Xとして解くわけです。ちなみに木行を陰と陽とに分ければ、"木の兄" と "木の弟" になります。これは代数式の解き方ですが、こうした方法を用いれば善も陰と陽とに分けることが出来るようになります。善の場合は、"善の兄" と "善の弟" ということになります。代数式が古代になかったことは確かですが、しかし、そうした考え方あるいはやり方はあります。
 神武紀に、兄猾(えうかし)・弟猾(おとうかし)と兄磯城(えしき)・弟磯城(おとしき)という二組の兄弟が、それぞれの土地の支配者として神武の前に現れたとあります。実は、これがそのやり方なのです。前者は宇陀の支配者を陰陽に分けたもの。後者は磯城の支配者を陰陽に分けたものなのです。その証拠に、どちらの兄も神武と対立し滅ぼされていますが、どちらの弟も神武に従ってその地域の支配者として認められています。弟が神武に従ったのは陰という性情からです。陰には柔順さらには従順という性情があります。逆に、陽にあるのは剛健さらには強健なのです。
 また、祟りすなわち神、神すなわち祟りという考え方もあります。神功紀では、皇后は夫に祟った神の名を探して斎宮にこもっています。何処の何という神かと分かれば、祭り方もまた分かるということでしょう。そのため、何度も神の名を探しています。なお、神功を卑弥呼とするわけではありませんが、あるいは卑弥呼は自然の中から神々の名を探し出し、そして誰もが納得する方法でこれを祭る。もしかしたら、彼女はそうしたことに長けていたために女王に擁立されたのではないだろうか。それはともかく、古来より人は答えが最初からあるとする代数的考え "X=Y⇔Y=X" のXとYという入れ物にありとあらゆる物を放り込んできているようにも見えます。

八角墳と刳り抜き型石槨。

 古代、人は八角形の中に、神や仏や生者や死者を何の躊躇もなく放り込んでいます。八角形は易の形であり、蓮弁の形であります。古代人は、八角形の中に浄化や昇華の世界を垣間見ていたのかも知れません。
 大阪府寝屋川市に、石宝殿古墳という刳り抜きタイプの横口式石槨を持つ古墳があります。このタイプの石槨は、飛鳥の石造物の一つ、鬼の爼・鬼の雪隠等を含め、今のところ全国で四例ほどが確認されているだけという大変珍しいものです。しかも、当古墳は八角墳の可能性があるともされています。もしそうだとすれば、牽牛子塚古墳の八角とのかかわりを考えてみる必要があります。無論、八角墳は必ずしも特別なものではないとも言われてはいます。しかし、このタイプの石槨との組み合わせは非常に珍しいと言う他はないでしょう。八角墳は、天武系あるいは斉明系天皇の陵墓の形とも言われています。その原型が、この石宝殿古墳ではないのだろうか。
f:id:heiseirokumusai:20170807230824g:plain  斉明の墓との呼び声が益々高まる牽牛子塚古墳、本墳には四例ほどしかない刳りぬきタイプの横口式石槨の中ではとりわけて巨大な石槨が用いられています。合葬を目的としているため一つの巨大な石槨に二つの石室が刳り抜かれています。それがために非常に巨大なものとなったようです。基本的には石宝殿の石槨と同じタイプに属しますが、石宝殿等の石槨が上下組み合わせ方式であるのに対し、牽牛子塚古墳は巨大な一つの岩を刳りぬいて造ってあるという違いはあります。そういった点では進歩したとも言えますが、あるいは単に天皇版というだけのものなのかもしれません。と申しますのも、先ほども述べたことですが、これらの刳り抜き型横口式石槨の古墳は例が少なく、石宝殿より始まって牽牛子塚で終わったと言えなくもないからです。
 そこで、このことを地図上に示して述べますと、寝屋川市の東端、打上元町の石宝殿古墳より始まり、斑鳩町龍田神社の裏山、御坊山三号墳を経て、明日香村野口の鬼の俎、同村平田の鬼の雪隠に至り、同村大字越の牽牛子塚古墳で終わる、となります。f:id:heiseirokumusai:20170807231119g:plainおそらく、時間にして一世代もかからなかったのではないだろうか。
 思うに、石宝殿古墳を築いた集団が、牽牛子塚古墳を築いた。同時に八角墳形のプランが適用された。さらに、想像力をたくましくすれば、飛鳥の巨大石造物のすべては、これらの集団の手によるものではないのかと。
 次いでというわけではありませんが、勝手なことをもう一つ付け加えれば、このタイプの石槨プランは生駒山地の西麓を通る、高野街道あるいはその前身道伝いに竜田道を経て飛鳥に伝わったと思われます。ⓐ高野街道→ⓑ竜田道→ⓒ太子道→ⓓ下ツ道→飛鳥。この道順が飛鳥への最短距離となります。ただ、当時これらの道がすべて完備していたかどうかは分かりませ。しかし、牽牛子塚古墳の造営までには、ⓔの横大路を含めすべて揃っていたと思われます。というのも、二上山より切り出された牽牛子塚古墳の巨大石槨はそうした道路があって初めて運搬が可能となるからです。それはさておき、この地域の古墳で飛鳥地域に影響を及ぼしたと思われるものがもう一例存在します。
 茨田の地の西を流れる淀川の対岸、摂津北部の三島平野の中央部に6世紀前半に築造されたとされる前方後円墳があります。今城塚古墳と呼ばれているのがそれです。この古墳は陵墓参考地にも入っていませんが、学会では継体天皇陵としての呼び名が高く、しかも埴輪祭祀区の規模が日本最大のものとしても有名です。しかし、何よりもこの古墳を特徴付けているのは、その前方部の中央が突出する剣菱形と呼ばれるその形にあります。
f:id:h eiseirokumusai:20170807231313g:plain  この特異な形の前方部を持つ古墳は、畿内では河内大塚山古墳と大和見瀬丸山古墳の二つが知られています。河内大塚山古墳は大阪府羽曳野市松原市との境界に位置し、府道堺大和高田線(長尾街道)のすぐ南にあります。墳丘規模は全国第5位を誇り、後期古墳で横穴式石室を持つと言われています。また、埴輪がないため、今城塚よりも新しく、見瀬丸山古墳よりは古いとされています。なお、本墳には大正の終わり頃まで墳丘内には人が住み、村もあったそうです。現在は陵墓参考地となっています。
 見瀬丸山古墳は、名前だけは何度も出したと思います。また、巨大石室等の写真でも人に良く知られている古墳だとも思います。しかし、この古墳の扱われ方を見てみますと、共に巨大古墳と呼べる先ほど述べた河内大塚山古墳と良く似た状況におかれていたようです。本墳の場合は、江戸時代の末になって漸く天武・持統陵とされたのですが、明治の初めの中頃には即陵墓指定から外され、しかも後円部の墳丘の一部だけが陵墓参考地となるという不手際な扱をされています。とは言っても、そもそも本墳はその名前が示すように前方後円墳としてではなく円墳として長い間扱われてきたのですから、それも無理からぬことなのかもしれません。それにしても、全国で5位と6位を誇る大塚山古墳と丸山古墳が長い年月にわたって陵墓とされていないのは不思議というほかはありません。
 不思議と言えば、実はこの丸山古墳を以って巨大古墳と今城塚から続く剣菱形古墳とが終焉を迎えています。そして、その丸山古墳から1,500mほど南西よりの距離に本題の牽牛子塚古墳はあります。両古墳の時間の隔たりは半世紀から一世紀までの間。時間や距離の隔たりはありますが、石宝殿古墳から続く刳りぬき式石槨がこの牽牛子塚古墳でやはり終焉を迎えています。左岸と右岸の違いはありますが、共に淀川中流域から発した古墳の文化が大和の飛鳥の地域に運び込まれて終焉を迎えているのです。それにしても、いったい誰がこの文化を運んだというのだろうか。

秦という入れ物。

 寝屋川市の東の端を通る大阪府枚方富田林泉佐野線、かっての高野街道を踏襲しているともいわれていますが、この道路を挟んで南に石宝殿古墳、北に寝屋古墳があります。 また、道路の北西、淀川に向かう一帯はいわゆる太秦地区です。この地区には太秦高塚古墳や高宮廃寺、さらには秦の河勝墓もあります。どうやら、最後の最後までも秦氏とかかわらなくてはならないようです。それでは、秦氏に関しての私論を少し述べてこの章の終わりとしましょう。
 斉明天皇秦氏とのかかわりについては少しではありますが既に話したと思います。また、丸山古墳と秦氏とのかかわりは太秦の地形で少し述べたと思います。そして、この古墳を大陵命(おおみささぎのみこと)の墓とし、仁徳(おおさざきのみこと)の時代を秦河勝の時代にまで引き下げたと思います。
 『記』によれば、秦の先祖の渡来は応神天皇の時代。一方『紀』には、秦の表記はありませんが、後世秦の先祖とされる弓月君百済より120県の人民を引き連れてきたとする記事がやはり応神紀にあります。ところで、この中の120県の120という数は、十干と十二支を掛け合わせた数で多分に作為的な数と見えます。ただ、『隋書』の多利思比孤の120軍尼制や『宋書』の倭王武の倭地の属国数121といった数にも近く、あるいはそうではないのかも知れません。
 思うに、120という作為的な数を用いたのは多利思比孤が最初かもしれません。と言うのも、武の属国の121は486年の頃の事、一方多利思比孤の120の軍尼制は600年の頃の事、つまり486年から600年までの114年間、日本は全くと言っていいくらい変わらなかったことになります。これは多利思比孤が、先ほどの作為的な数にこだわって120軍尼制を敷いた為と思えます。そもそもこの王は、冠位を12階と定めてもいるのですから、軍尼制を120とするのは当然といえば当然の事ではあります。しかし、それなら弓月君の120県の人民は事実というのだろうか。
 雄略紀15年に、秦の民を分散させて臣連に好きなように使わせたとあります。当時の臣連、特に臣は地域名(国名)プラス臣で呼ばれている者がほとんどで、この記事はある意味では秦の民を日本全国に散らばせたとも受け止められる内容です。そして、なぜか雄略は今度はこの民をわざわざ集めて秦酒君に与えているのです。この記事は、太秦のいわれを説く物語として雄略紀に収められているものですが、15年の条にまとめて書かれており時間的経過の把握が難しいあやふやな感じのする内容となっています。それになにより、神を神とも思わぬ雄略、人を人とも思わぬ雄略、その雄略が臣連のために秦の民を貸し与えたとも思われません。
 思うに雄略は強権を発動した天皇です。彼は、逆に臣連から職能部民を取り上げたのではないだろうか。しかし、それが雄略の時代に行われたというわけではありません。あくまで強権の発動できる天皇の時代にということです。そもそも、雄略の時代は古墳造りの絶頂期、たとえ雄略といえどそれは出来なかったでしょう。そう考えれば、この時代に最も相応しいのは多利思比孤の時代、あるいはこの王の前の王の時代ということになるかもしれません。しかし、文献の都合上この王の時とするべきかもしれません。
 『隋書』によれば、この王は80戸に1伊尼翼を置き、10伊尼翼で以って1軍尼とし、全国で120軍尼があるとしています。この制度は明らかに中央集権的国家のあり方を示すもので、この制度の施行に於いては土地あるいは戸とは関係のない地方豪族の職能部民の扱いが当然問題となったはずです。そして、これを解決したのが秦氏の先祖ではないかと。
 弓月君は湯調君とも書けます。湯は湯沐令(皇族の領地の管理者)、調は租庸調という当時の税制の三本柱の一つ。湯に関しては私のこじつけですが、調に関しては間違いないと思います。雄略紀には、秦酒君はその部民を使って租税としての絹や縑を作らせたとあります。後世の律令制下では、調は繊維製品となっています。雄略紀15年には秦の民によって庸調が上がるようになったとありますが、これは雄略の時代ではなく欽明の時代とすべきでしょう。
 欽明紀では、冒頭の天皇の出自記事のすぐ後に秦大津父の名が出てきます。そこには、欽明と大津父(おおつち)との因縁が物語られており、欽明が皇位につけたのは大津父によるものとする内容となっています。思うに、欽明の時代は、河内大塚山古墳や見瀬丸山古墳の築かれた時期に近く、7章でも述べたように大王一人に権力の集中した可能性のある時代でもあります。あるいは、大津父が地方豪族の在地の部民から調を取ることを欽明に進言したのではないだろうか。そして、このときの部民を秦の民としたのではないだろうか。時代が大きく錯誤しているようですが、『紀』の中で秦氏が蔵とかかわりがありとする記事の最初がこの欽明紀なのです。
 ところで斉明天皇は、母方をたどっても父方をたどっても、実は欽明につながります。 あるいは、秦もまたそうなのかも知れません。皇極紀は茨田の池の水の様子を何かの前兆として四度にもわたって繰り返し記載をしています。この天皇には秦氏だけではなく茨田とのつながりもあるのかも知れません。思うに、茨田は万田とも出来、秦は八田とも出来ます。万も八も古代から大きな数を表わす数詞として扱われてきました。あるいは、万田とは八田のことかも知れません。その万田あるいは、八田あるいは八多という入れ物にあらゆる職能集団の民を放り込んだ結果が秦あるいは太秦なのかも知れません。