昭和は遠くなりにけり

古代に思いを馳せ、現在に雑言す。・案山子の落書・

§6 太秦と川。

斎宮、笠縫邑、秦楽寺、そして太秦
 伊勢内宮は瀧原宮を遷したもの。瀧原宮は吉野宮を遷したもの。では、斎宮は如何なる宮を遷したものなのだろう。
 これはそれほど難しい課題ではありません。というのも、伊勢内宮にしろ瀧原宮にしろ、その造宮の基本は、それらを吉野宮の真東に位置させることだったからです。従って、斎宮も、何かの宮を真東に遷したものと考えればいいわけです。つまり、斎宮の真西にどのような宮があるかという事になります。無論、理想の地形の上でのことではありますが。
 結論から先に申しますと、それは秦楽寺となります。正確には、笠縫邑というべきかも知れません。崇神紀6年の記事に、宮中に祀られていた天照大神倭大国魂神を皇居の外に移し、天照大神を豊鍬入姫命に託し、笠縫邑に祀らせたとあります。そう、この記事中の笠縫邑のことです。
 今日、笠縫邑の候補地としては、この秦楽寺の他にもいくつかあります。しかし、現斎宮と地形的に似通ったところとしては秦楽寺の他はあまりないように思われます。なお、現斎宮の跡地は東西二キロ南北七百メートルもある広大なもので、現秦楽寺の境内とは比べ物にはなりません。したがって、秦楽寺、ましてやその中の笠縫神社をそれとするのではなく、もっと広い意味での笠縫邑として捉えた方が良いかも知れません。しかし、どうしても正確にというのであれば次のような方法があります。
f:id:heiseirokumusai:20151120210654g:plain  左図は、秦楽寺の置かれた位置関係図です。この図から、笠縫邑を点として捉えることが可能となります。その点とは、葛城山の北東に伸ばした直線と、牽牛子塚古墳の北に伸ばした直線との交点がそれです。
 逆に申しますと、こうした関係図が描けるということが、秦楽寺が笠縫邑であるといえることにもなるのです。なお、図中の神武陵は現今の陵とは違って「記紀」の言う神武天皇陵です。
 ところで、秦楽寺と書いてはおりますが、どう読むべきでしょうか。シンラク寺でしょうか、それともハタラク寺でしょうか。実は、ジンラク寺と読みます。秦楽寺と書いて、何故ジン楽寺と読ませるのか、それは分かりません。だだ、この寺は田原本町秦庄という所にあります。秦庄という地名がいつ頃からあるのかはわかりませんが、秦庄というからには、秦氏との関わりがあると思われます。おそらく、そこに、ジンにどうしても秦をあてがわなければならない理由があったのだと思われます。

 なお、秦は呉音では "ジン" と発音します。奈良時代以前は基本的に呉音の時代ですからあるいは従来からの呉音の "ジン" がそのまま残ったのかもしれません。それとも、本来は神楽寺であったものを秦庄にある関係から秦楽寺としたのかもしれません。神も呉音では "ジン" と発音します。ただし、秦氏の秦は あくまで"ハタ" であってシンでもジンでもありません。ただ、秦河勝の後裔と称している世阿弥が申楽という文字を用いています。申は神の字に近く興味を引くところではあります…
 さて、普通、秦氏と寺といえば、聖徳太子との関係で語られることが多いのですが、推古後の飛鳥時代に限った場合、斉明天皇との関わりが最も深いようです。斉明四年五月、皇孫建王が八歳で亡くなっています。斉明は、この皇孫の冥福のために秦大蔵造万理に何かを作らせています。私は、これが、斑鳩中宮時に残る天寿国曼荼羅繍帳だと思っています。

太秦と川  さて、斉明は、天皇の二年、吉野の宮を作らせています。実は、これにかかわっているのが秦氏なのです。秦氏がどのようにかかわってくるか、太秦の位置する地形から話を始めてまいりま しょう。
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上図三図は、すべて太秦という地名です。2-1図には太秦は載ってはいませんが、田原本町秦庄と田原本町多とを組み合わせると太秦が出来上がります。なぜなら、多安万呂は太安万呂でもあるからです。
 無論、これでは判じ物となります。しかし、我々は今日、「記紀」や「倭人伝」を判じ物として扱っています。もっとも、そうした多くは素人によるものかもしれません。しかし、年輪年代測定、同位元素年代測定、これらも広い意味での判じ物です。近代とはいえ、所詮、我々は多かれ少なかれ何らかの判じ物に頼っているのです。まして、古代人ならなおさらのことでしょう。
 「古事記序」には、日下と書いてクサカと謂い、帯と書いてタラシと謂うとあります。これは立派な判じ物です。それになにより、帝紀の撰録と旧辞の討かくを命じた天武は、「あとなしごと(クイズ)」の大家なのです。これも一私見ですが、こうしたものは天武時代に出来たのではないかと私は考えています。そして、その最たるものが太秦ではないかと。しかし、もしかしたら、秦を「はた」あるいは「はだ」と読む方が、謎が大きいのかもしれません。

 それはさておき、太秦の場所に関しての一つの仮説を立てましょう。それは、太秦のある地形は川が大きく曲がり西に向かうという共通点がある、と。
 この共通点は、前節で述べてきた、吉野宮、瀧原宮、伊勢内宮との共通点と全く同じです。都合六箇所の共通点の一致、偶然とはいえないでしょう。秦氏がこれらの三つの宮の造営に関与していることは確かです。では、それなら、これら川と地形の意味するものは何か。また、これらのものに先行するオリジナルは何なのか。また、それはあるのか、それとも無いのか。
 しかし、その前に2-3図の説明をしておきましょう。広隆寺に関しては、平安遷都前後に現在地に移転したという説があります。また、村上天皇の日記から、秦河勝の邸宅が大内裏の位置にあったことが知られています。つまり、とはいっても仮説の先取りになるのですが、元広隆寺大内裏の南、天神川の曲がりの東の位置にあったとすることが出来ます。これは、仮説からの単純な計算結果ではありますが、結果の指し示している処には古代人の基本的な思想があります。
 東西の関係、そして南北の関係には、1図からも分かるように古代人にとっては単純かつ明瞭な何らかの思想を見出していたと思われる節があります。これもまた一つの仮説ですが、太陽は東から西へと移動しますが、移動前も移動後も同じ太陽です。もし、古代人がそう考えたとしたら、大内裏の南にあった広隆寺も西に移った広隆寺もやはり同じ広隆寺です。
 つまり、ものを東西に移動させても変わらないということです。東西関係にある秦楽寺斎宮、同じく吉野宮と瀧原宮と伊勢内宮、これらはすべてそれぞれに同じだということです。そして、蘇りの南北関係、これもある意味では同じということなのかもしれません。

 さて、川の曲がり角に、古代人は何を見出したのだろうか。それは、サイの神です。川が大きく曲がるのは神の力が働いたため。神が流れをさえぎったため。古代人がそう考えることはありうることです。
 「記紀神話」には多くの神が登場しますが、古代人はどういった処に神を感じていたのだろうか。感覚としては尋常ではない処ということなのだと思います。例えば、草しかない野原の一角に巨大な岩が置き忘れられたようにあったりした場合、人が運ぶことの出来ない岩であれば、神が運んだと。そう考えるのではないだろうか。
f:id:heiseirokumusai:20151120211220g:plain  3-1図は、太秦のオリジナルとも呼べるものです。川の曲がり角にはサイの神がいます。この神はあらゆるものを遮ります。悪霊も、災いも。つまり、丸山古墳はこの神によって守られているのです。そして、そう、太秦も。そして、無論、吉野宮等もです。
 サイの神は、賽の神とも書けます。賽は、一天地六、陰陽のはかりです。形は、正方形の集まり。意味するところは正義です。3-2図は、甘樫の丘の下を流れる飛鳥川です。飛鳥川はこの丘の下で正しく、賽の川の如く曲がっています。允恭天皇はこの丘で氏姓を正したといいます。

 斑鳩東方朔 ≪陰陽の風 06≫