昭和は遠くなりにけり

古代に思いを馳せ、現在に雑言す。・案山子の落書・

§32 ワケの系譜と天智天皇九州死亡説。

 天孫の系譜は天照より始まります。いや、正確には須佐ノ男と天照との兄弟げんかより始まりますとするべきかもしれません。なぜなら、旧約聖書にも人類の系譜が兄弟げんかより始まると記されているからです。思うに、人類の争いの系譜をたどれば兄弟げんかにたどり着くというのが古代人の少なからぬ答えのようです。
 さて、嫡子と庶子との関係ですが、これはいわゆる異母兄弟の関係ということになります。思うに、同母の兄弟でさえ争うのですから異母の兄弟ともなればその争いは熾烈を極めたはずです。したがって、異母の兄弟つまり嫡子と庶子とを区別する言葉が記紀系譜の中に当然あってしかるべきです。幸い、景行記には太子以外の子は国々の国造や和気その他に別けたとあります。どうやら和気あるいは獲居(ワケ)は庶子として別けられた子の名前につくものと見えます。無論、「ワケ」を称号や官職名や姓(カバネ)とする説があり、それらが有力な説であることも確かなことです。しかし、先祖から子孫へ、つまり父祖の利権を引き継ぐという系譜上の意義においては嫡子と庶子との関係が最も重要視されます。また、記紀系譜の中で「ワケ」以外に嫡子と庶子とを区別する言葉は見当たりません。したがって、ここではどうでも「ワケ」をそうした言葉として捉えるほかはないのです。

景行より始まる「ワケ」の系譜

 大足彦忍代別(おおたらしひこおしろわけ)、これが景行天皇の和風諡号です。つまり、景行は「ワケ」の初代であり生みの親でもあります。思うに、景行の名前に「ワケ」がつくのは彼が嫡子ではないからです。そもそも垂仁の本来の嫡子は誉津別(ほむつわけ)命です。しかし、垂仁の皇后である彼の母の兄が謀反を起こしたため彼の母はこの乱のさなかに亡くなってしまいます。そして、それと同時に彼も嫡流を外れたものと見えます。彼の名前に別(ワケ)がつくのもその故でしょう。ただし、これによって景行が直ちに嫡子となったわけではないようです。それに、垂仁から景行以降の系譜に関してはいろいろと疑問点があるようです。しかし、この疑問を解きほぐす過程で、「ワケ」の持つ本来の意味も垣間見えても来るようです。
 誰もが即抱く疑問、あるいは私だけなのかもしれませんが、それは下の右端の系譜のようなものだと思います。つまり、崇神、垂仁と来て次の天皇は大足彦忍代別と五十瓊敷入彦(いにしきいりひこ)のどちらが良いかということです。

垂仁┳狭穂姫命(前皇后)
  ┃
  ┗━誉津別命
垂仁┳日葉酢媛命(後皇后)
  ┃
  ┠─五十瓊敷入彦命
  ┃
  ┠─大足彦忍代別尊(景行天皇)
  ┃
  ┠─大中姫命
  ┃
  ┠─倭姫命
  ┃
  ┗━稚城瓊入彦命

御間城入彦五十瓊殖
(崇神天皇)

活目入彦五十狭茅
(垂仁天皇)

大足彦忍代別
or
五十瓊敷入彦

この答え、これら系譜の名前だけを比べてみれば一目瞭然で、五十瓊敷入彦が最適となります。なお、垂仁紀にはそうとはならなかった理由としての物語が載っていますが、本来は大足彦忍代別は嫡流ではなかったと見るべきでしょう。つまり、大足彦忍代別は五十瓊敷入彦とは同母かつ弟の関係にはないということです。五十瓊敷入彦と同母かつ弟の関係にあるのは、同じ入彦の名を持ち、しかも稚や若と呼ばれている稚城瓊入彦(わかきにいりひこ)だけということになります。
 さて、崇神、垂仁、景行の三代の物語を『古事記』より読み解けば、崇神記は三輪山祭祀の起源譚、垂仁記は出雲祭祀の起源譚、景行記は辺境の荒ぶる神あるいは賊(あた)なる神の平定譚とできるはずです。そして、これをさらに煮詰めますと、中央祭祀と辺境祭祀の二つに分離できます。ただ、そうしますと、出雲祭祀はどちらに当たるのかという疑問が湧くとは思いますが、これは中央祭祀となります。と言うのも、垂仁紀では伊勢祭祀の起源譚となっているからです。おそらく、ここに景行が「ワケ」でなくてはならない理由があるのだと思います。
 これは4章でも述べたことですが、伊勢、三輪山、出雲は鬼門軸で繋がっています。つまり、これを陰陽で読み解けば、三輪山の祖霊を陰と陽とに分け、それぞれを出雲と伊勢に祭ったということになります。したがって、それらは中央祭祀、少し言い方を変えるならば嫡流による祭祀ということになります。また同時に、もう一方の辺境祭祀は庶流による祭祀と言い換えられることになります。これが、辺境祭祀の物語を持つ景行が「ワケ」でなくてはならない理由なのです。なお、伊勢祭祀の起源譚が垂仁紀にあって垂仁記にないのは、陰があれば必ず陽もあるという陰陽の規則に因るものですが、あるいは陰の書としての『古事記』、陽の書としての『日本書紀』であることに因るのかもしれません。それはともかく、「ワケ」は景行より始まり天智(天命開別)で終えています。どちらの天皇もその終焉の地は近江です。ここにも「ワケ」の「ワケ」たる由縁があるようです。
 周知のように、近江は東山道の始発点の国で、しかも北陸道の始発点である若狭国東海道の始発点である伊賀国と接しています。さて、この三道には古代の三関、不破関、愛発関、鈴鹿関が設けられ東国への隔てとなっています。しかし、同じ時期、西国へはこの三関のような隔ては設けられていません。このことは、倭王武の上表文に載る西の衆夷(仲間)と東の毛人、つまり夷荻との関係の政治的な表れと解釈できます。つまり、25章でも述べたように、近江が東の毛人の区域と接していた可能性があるということです。そしてこの区域の管轄を任されたのが「ワケ」ではなかったかと。そして、この「ワケ」の要とでも言うべき地が近江ではなかったかと。
 思うに、歴史家が「ワケ」王朝などと呼んだりするように、「ワケ」には嫡流ではないが皇位継承の資格がある。あるいは、このことが「記紀」を複雑にしているのかもしれません。しかし、ひるがえせば、そうであるからこそこれもまた道標とすることができるということなのかもしれません。

天智で終わる「ワケ」の系譜

 天智「ワケ」王朝最後の存続をかけての皇位継承の争い、壬申の乱。幕開けの舞台は近江大津の宮。近江朝の立役者は、伊賀采女宅子娘(いがのうねめ やかこのいらつめ)を母にもつ大友皇子。彼は別名を伊賀皇子とも呼ばれているように彼の母系は伊賀に繋がります。伊賀は東海道の始発点であり「ワケ」の地の始発点でもあります。まさに、「ワケ」が「ワケ」の要に立ったということでしょうか。だだ、残念ながらこの乱からの「ワケ」王朝の存続は成りませんでした。思うに、「ワケ」の王朝は常に成立であり、存続とは呼べないのかも知れません。しかし、それはともかく近江からは幾つかの「ワケ」王朝が成立しています。以下これについて少し述べてみましょう。
 先ず、応神天皇。彼は誉田別(ほむたわけ)の尊と呼ばれているように正真正銘の「ワケ」の天皇です。ただ、神功皇后を母とする嫡流の彼がなぜ庶流の「ワケ」であるのかという疑問があります。また、仲哀記では神功皇后には誉田別の他に誉屋別(ほむやわけ)皇子もいて、どちらも「ワケ」となっています。あるいは、庶流を単純に「ワケ」とするには無理があるということなのだろうか。実は、それらの解の糸口が天智の系譜にあるのです。天命開別(あめみことひらかすわけ)の尊と呼ばれる天智の系譜からは二つほどの解の糸口が見つかります。先ず、次の二つ、㋐と㋑を見比べてください。

-㋐-
父・息長足日広額(舒明天皇


天命開別(天智天皇
母・天豊財重日足姫(斉明天皇
-㋑-
父・足仲彦(仲哀天皇


誉田別(応神天皇
母・気長足姫(神功皇后

再度呼び名にこだわることになりますが、どちらの系譜も足(たらし)系、延いては近江の息長(おきなが)系に繋がります。息長系に関して言えば継体がその最右翼かと。歴史家によっては継体以降を息長系による簒奪王朝とも呼んでいるようです。しかし、それはともかくこの二つよく似ているように見えませんか。そこで、もう一つの糸口を手繰ってみましょう。

-ⓐ-
敏達
┰─╂─┒
    皇子 
    ┃ 
    舒明
    ┃ 
    天智
-ⓑ-
景行
┰─╂─┒
    皇子 
    ┃ 
    仲哀
    ┃ 
    応神
-ⓒ-
履中
┰─╂─┒
    皇子 
    ┃ 
    顕宗
履中
┰─╂─┒
    皇子 
    ┃ 
    仁賢
    ┃ 
    顕宗

 ⓐは㋐の天智の系譜を直系だけでたどったもの。ⓑは㋑の応神の系譜を同じように直系だけでたどったものです。これも又よく似ているとは思いませんか。さらに、似ている箇所を指摘しますと、先ず、皇子とある箇所ですが、ここには押坂彦人大兄(おしさかのひこひとおおえ)皇子と日本武(やまとたける)の尊が入るのですが、『古事記』では彼らはどちらも太子であったと記しているのです。そして、これとは逆に彼らのそれぞれの父、敏達と景行とはどちらも最初からの皇位継承者ではなかったようです。つまり、敏達には箭田珠勝(やたのたまかつ)という大兄が、景行には先ほども述べたように五十瓊敷入彦という兄がそれぞれいたのです。なお、敏達と景行には呼び名の上での類似点が見当たらないようですが、これも又これまでに述べてきたことを加味すればそうではないことが分かります。しかし、この説明は後に回して先を続けましょう。
 次は、天智と応神のそれぞれの母と彼らの即位に関しての類似点になります。先ず、彼らは先代である母親の死後に即位しています。天智の場合は斉明天皇が母、応神の場合は神功皇后が母となります。ただ、彼らの母には一方は天皇で一方は単に皇后という違いがあります。しかし、そうだとしても天智、応神共に母后の死後の即位という類似点は見逃せません。無論、人によっては天皇と皇后とでは雲泥の差があるというかもしれません。しかし、天智にはその即位の前に6年にも渡る空位と呼べる時期があるのです。したがって、仮に神功の世を天皇のいない空位の時期としても、天智と応神の即位が共に空位の後に行われたという更なる類似点を呼び起こすに過ぎません。むしろ類似点の大きさではこの場合の方が勝っているかもしれません。そして何よりの類似点は、どちらの母后にも朝鮮とのかかわりから九州へ赴くという経歴があるということかもしれません。
 このように見てまいりますと、天智と応神は、というよりもⓐの系譜とⓑの系譜はどちらかがどちらかを真似ていると言えそうです。ところで、神功皇后斉明天皇持統天皇がモデルではないかとの説のあることは多くが知るところと思います。おそらくはそうだと思います。しかし、とは申しましても例によって素人の疑問なのですが、つまりそうであるならば、斉明は九州で死んだのに、神功はなぜ九州で死ななかったのかということです。これも素人の答えですが、斉明は九州では死ななかった、死んだのは天智であると。そこで、今度はⓐⓑの系譜のなかから似ていないようで、実は似ているものを少し挙げて見ましょう。
 先ず、天智と仲哀。この二人は、系譜上の位置からはまるで懸け離れた関係にしか見えません。しかし、意外と思えるほどの類似点があるのです。それは先ず名前に認められます。『日本書紀』は、天智を中大兄、仲哀を足仲彦と表記しています。中も仲も同じ意味ですから彼ら二人は中男つまり嫡男ではなかったことになります。もし彼らが庶流であったとしたら、彼らは「ワケ」と呼ばれることになります。実際、天智は「ワケ」と呼ばれています。仲哀の呼び名にはそれはありませんが、あるいは足仲彦(何々)ワケであったのかもしれません。と言うのも、彼らには叔父の天皇の世に皇太子になったという共通点があるからです。また、叔父から甥への皇位継承は彼ら以外には顕宗天皇があるのみで、非常に特異な例と言わねばなりません。しかも、この顕宗には、『古事記』によれば、袁礽石巣別(をけのいわすわけ)という呼び名があるのです。思うに、叔父から甥への継承は明らかに直系とは呼べない傍系つまり庶流への継承で、これらの系譜に「ワケ」があるのは、やはり意味のあることとしなければなりません。《参ⓒ》
 次に、天智と仲哀にかかわる人物の類似点です。天智には叔父の孝徳天皇中臣鎌足とが、仲哀には叔父の成務天皇武内宿禰とが大きくかかわっています。先ず成務ですが、成務は呼び名が稚足彦で宮都が志賀の高穴穂宮という風に紛れもない近江息長とかかわりのある天皇です。次に孝徳ですが、孝徳の場合は呼び名も宮都も近江とはかかわりがありません。しかし、彼の実姉が斉明(天豊財重日足姫)ということで、これも当然近江息長にかかわりがあるとしなければなりません。そして何より武内宿禰鎌足の関係には、鎌足の仕えた様は武内宿禰が仕えた様と同じであるとする孝徳の言葉を引き合いに出す文武天皇の詔が『続日本紀』の慶雲4年の条に見出せることから、この二人と、延いては共に難波天皇と呼べる孝徳と仁徳とは相似であると言えます。
 思うに、天智と仲哀に類似点が見出せ、しかも天智と仲哀にかかわるそれぞれの人物間に類似や相似が認められると云うことは取りも直さず天智すなわち仲哀という構図が描けるということです。
 思うに、ⓐとⓑの系譜は形も内容もその前提とするところは同じです。思うに、「記紀」は九州での天智の死を仲哀に託したものと見えます。そこで、九州で死んだとされる斉明(皇極)に天智を宛がえば、孝徳の治世は天智の治世に挟まれます。しかし、これは有り得ない事です。しかし、さらに孝徳にも天智を宛がえばこれは有り得る事となります。そもそも文武が鎌足の引き合いに祖父の天智ではなくなぜ天智の叔父に当たる孝徳を選んだのか、それは天智すなわち孝徳だったからではないだろうか。また、多くが天智と間人皇女との浮き名は指摘しても、誰も孝徳と斉明との浮き名は指摘しない。これは方手落ちというものではないだろうか。そもそも孝徳は、諱(いみな)を軽、つまり軽皇子と呼ばれています。「記紀」で軽皇子といえば、普通木梨軽皇子を思い出すのではないだろうか。彼と同母妹の軽大娘皇女との伝説は『古事記』中の一大恋愛叙事詩と位置づけられ、同じく『古事記』中の一大英雄譚と位置づけられている倭建伝説と共に時代を越えて今日に語り伝えられてもいるのです。

§31 欠史8代、物語10代。

 神功を卑弥呼と見做し、『百済記』との間に120年のずれを生じさせた『日本書紀』。後世はこれにどう対処すればよいのか。そもそも『日本書紀』は神功を肯定しているのか、それとも否定しているのか。
 思うに、興にも武にも当てはまらない雄略を倭の五王の時代に設定する『日本書紀』の主張は、それらの時代の記録は日本には無かったということではないのか。
 『古事記』序文には次のようにあります。

朕聞かくは、『諸家の賷たる帝紀と本辞と既に正実に違ひ、多く虚偽を加ふといへり』。今の時に当りて、その失を改めずは、いまだ幾年を経ずして、その旨滅びなむとす。これすなはち邦家の経緯、王化の鴻基なり。故ここに帝紀を撰録し、旧辞を討覈して、偽を削り実を定め、後の葉に流へむと欲ふ
《角川文庫『新訂古事記』より》

 これは、天武天皇の詔とされるものです。無論、『古事記』やその序文に関しては偽書説等もあります。しかし、その詔とされる部分が今日まで伝わっていることの意味は大きいと言わねばなりません。
 これによれば、帝紀や本辞は諸家に伝わっていて、またそれぞれが異なった帝紀や本辞を持っていたことになります。ただ、なぜ諸家がそれらを持ち、またどのような形で保持していたのかは推測するほかはありませんが、おそらくは儀礼や儀式の場、特に葬儀の誄詞等の場で必要だったものと思われます。そして仮にそういったものであったとすれば、天皇自身には必要のないものであったとも言えます。また、さらにそういうことであるなら、王宮には帝紀や本辞等は無かったということにもなります。
 思うに、修史の事業は天武が最初ではなかったのか。そうだからこそ「古事記序文」に載る詔を天武が発したのではないだろうか。また、帝紀や本辞が王宮に確乎として存在していなかったからこそ天武は諸家のそれらを気に病んだのではないだろうか。ところで、諸家はどの程度の長さの帝紀を保持していたのだろう。またどの程度の本辞を必要としていたのだろう。

系譜の原型

 『古事記』の中で物語、本辞に当たるものと思いますが、それを持つ天皇は初代の神武のほかには、崇神、垂仁、景行、仲哀(神功)、応神、仁徳、履中、安康、雄略、顕宗の10人程です。つまり、帝紀や本辞は多く見積もっても10代分もあれば充分という事になります。ただ、どの時点から遡っての10代かという問題は残ります。また、それは同時に諸家にとっての初代あるいは創始者と呼べる祖の位置付けともかかわってくる問題でもあります。
 さいわい「記紀」には諸家が代々の先祖をどのように捉えていたか、その典型とも呼べる先祖把握の遣り方が示されています。それは初代と10代との間に欠史8代を置くというものです。8という数はこれまでにも述べておりますように多いという数であって実際の世代数と考える必要はありません。「記紀」では実際の世代としての8代を示していますが、諸家の場合はこれを全て無視しても差し障りはないかもしれません。ただ、これを諸家それぞれの都合で遣りますと、系譜上に齟齬が生じてはきます。あるいは、これが記紀間の系譜に齟齬を引き起こしているのかもしれません。
 なお、諸家が引き起こす齟齬の原因は多々あるとは思いますが、おそらくそのほとんどは中祖の扱い方にあるのではないかとも思われます。中祖については船氏王後墓誌で少し述べています。ただ、そこでは中祖を一人だけということで終えていたと思います。しかし、中興の祖としての中祖は決して一人だけではないはずです。諸家の場合、本辞つまり物語を持つ先祖は初代つまり上祖を除いた他はすべて中祖である可能性があります。
 そこで、『古事記』の系譜を先ず次のように表わします。おそらくここまでは無難なものだと思います。

(表1)
初代 欠史8代 物語10代 欠史10代 当代
神武 綏靖~開化 崇神~顕宗 仁賢~推古 当代?

 次に、この系譜を中祖を含む形の系譜に直します。また、当代までを『日本書紀』等を参考にしてもう少し書き加えてみますと、異論のあるところとは思いますが、『古事記』の成立が和銅年間、つまり元明の世ということでもあり、次のようになります。

(表2)
初代 欠史8代 物語10代 欠史10代 当代
上祖 欠史8代 中祖 物語8代 中祖 欠史9代 中祖 近8代 当代
神武 綏靖~開化 崇神 垂仁~雄略 顕宗 仁賢~崇峻 推古 舒明~文武 元明

 8という数にこだわるわけではありませんが、上のように書き改めて見ると、系譜の基本数は8と言えなくもありません。なお、何度か言ったとは思いますが、8という数は必ずしも正確に8を示しているわけではありません。またそういう意味で、この表の二段目の欠史9代を欠史8代に書き直したとしても何らかまわないでしょう。そもそも欠史に名を連ねる系譜は何の物語も持たず、諸家にとっては誇るべき筋合いの先祖ではないということなのです。しかし、それならば物語を持つ8代は実際の8代かと言えば、実はこれも必ずもそういうことではありません。もし8代に満たないのであれば、あるいは架空の物語を取り揃えることもありうると考えた方が良いかもしれません。
 思うに、『日本書紀』は神武から持統まで40代を数えています。この40という数は明らかに8と5を掛けたものと言えます。また推古で終える『古事記』の場合も、推古が33代目であるため8と4とを掛けた数よりも1代多くなりますが、表2の三段目のように推古を中祖あるいは当代と見做せば8代毎の系譜と言えます。おそらく記紀系譜の一般的な形あるいは原型は次のようなものではないだろうか。《表3⇒表4》

(表3)
初代 欠史8代 中祖8代 欠史8代 当代
(表4)
物語10代
初代 中祖8代 当代
日本的8と乎獲居臣8代

 8という数については既に少なからず述べたとは思いますが、「記紀」や今日的な意味合いで捉えるようになったのは、おそらく日本に易が入ってからのことだと思います。易の基本形は八卦ですから、単純にはそういうことで良いのだと思います。ただ、それがいつ頃のことであるのかということなのですが、
 欽明紀14年(553)に、日本は百済に医博士・易博士・暦博士の交代を要請しています。記事に「番上下」とか「相代年月」とかの言葉があるところから、それらの博士の交代は当番制によるもので、かなり以前よりの慣例のようにも見受けられますが、博士の渡来は応神紀15年の王仁と継体紀7年と10年の段楊爾と漢高安茂の記事を除けばすべて欽明以降にしか見られず、日本が真に博士を必要とし始めたのは欽明以降ということになるのかも知れません。したがって、易や八卦の思想が日本文化に浸透し、今日的8が出来上がるのもこれ以降のことと言えそうです。
 ところで、今日我々は易を「えき」と発音していますが、当時はこれを「やく」と読んでいたようです。易の読みは漢音では「えき」となりますが、呉音では「やく」となります。なお呉音というのは、漢音(唐音)以前の漢字音のことで、必ずしも中国江南の呉の漢字音のことを指しているわけではありません。また漢音は、遣唐使や留学僧や帰化人などが洛陽や長安の標準音を直接伝えたもので、平安時代初期には正音として朝廷が奨励したとされています。したがって、日本に易が導入され定着するまでの間、易は「やく」と呼ばれていたことになります。さて、そこで古代人が易(やく)とどのように向き会ったかを想像してみましょう。無論古代人も我々も素人としてではありますが。
 素人から見ると、易は八卦二つを上下に積み重ねた形をしています。《下図ⓐ》
f:id:heiseirokumusai:20180214222741g:plain
 ⓐは、易64卦の一つで益と呼ばれているものです。象(かたち)としての意味は、上卦が巽(陽爻が損じて陰爻となった形)で下卦が震(陰爻が益して陽爻となった形)、つまり上を損じて下を益するというもので、貧乏人にとっては有り難い卦ということになります。
 さて、益は「えき」とも「やく」とも読みます。無論、これも漢音と呉音との違いによるもので、「やく」は呉音となります。当時は「やく」と読まれていたはずです。また、この漢字の当時の字形は旧字体のⓒであったと思われます。このⓒの字形、素人目には八を二つ、つまり八卦を二つ重ねたようにも見えます。おそらく当時の人々にもそう見えたと思われます。易(やく)は、益(やく)に繋がり、八卦の八(やっつ)、つまり8にも繋がります。
 思うに、古代人は易(やく)に益(やく)、つまり八(やっつ)を求めたということでしょうか。おそらく今日的縁起の良い8は易と漢字に向かい合った古代日本から必然的に生まれたものと言えそうです。また、そうした8は、『隋書』に載る多利思比孤の時代には既に定着していたことがその王の80戸一伊尼翼制度からもうかがえます。そして、この制度を定めたのが法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘の上宮法皇だとしたら、その王の元号法興の元年591年の時点において今日的8の思想はあったことになります。
 思うに、稲荷山古墳出土の鉄剣銘に記された意富比垝から乎獲居臣に至る8代、この8代をそういった意味で捉えた場合、乎獲居臣は自身が8代目であることを記念してこの剣を作ったとすることも可能となります。そして、その製作年とする辛亥年は、今日的8が定着していた591年が最も相応しいことにもなります。仮に乎獲居臣の死を600年前後とすれば、一世代20年の8世代前、440年前後に意富比垝が死んだことになります。意富比垝の活動期間を30年程とすれば、彼の活動開始時期は410年頃となります。
 さて、この410年という時期ですが、これは『日本書紀』が「晋起居注」より引用している泰初2年(266)の倭の女王の貢献の記事や『晋書』に載る太康10年(289)の東夷絶遠三十餘國來獻の記事から百数十年を経て後、再度『晋書』に載る倭國の方物を献ずの記事の年義熙9年(413)や倭の五王の讃が『宋書』に始めて名を現す永初2年(421)に極めて近い時期と言えます。また、好太王碑文(414年建立)に倭が辛卯年(391)来渡とあるように倭が朝鮮半島に盛んに働き掛けていた時期とも言えます。
 無論、これだけのことで意富比垝を5世紀初頭に活躍した人物などと言うわけではありません。それに一世代20年はあくまで任意のものです。それよりもここでの課題は、日本人がいつ頃から自身の先祖や子孫に対して後世的な認識を持ち始めたかということです。ただし、これを解くに当たっては『魏志』と『宋書』の倭人に関するわずかの記事を手がかりとする他はないようです。また、墳墓を以ってその認識の証とするには少しばかり決め手不足のように思えます。と言うのも、初期の墳墓はある一時代の族長や王の墓で、先祖代々というタイプのものではないからです。ただ、埼玉古墳群のように先祖代々と呼べるものも在るといえばあるのですが、これは5世紀後半からの墳墓群で倭の五王の最後の王武の年代に近く、この王の上表分にもあるようにこの時代には既に後世的先祖観が育っているのです。
 思うに、卑弥呼の時代、『魏志』には世々王有りとはありますが、卑弥呼や壹與が前王の死後の騒乱を経て共立されたように、この時代は王位継承もままならない、先祖はおろか父子の意識さえ希薄な時代であったと言えそうです。思うに、太古より親子の関係というものは母子とその同じ母から生まれた兄弟の関係が先ず無条件で存在し、しかる後に父子の関係が生まれたと考えられます。したがって、先祖への意識が生まれ始めるのは父から子への有形無形の遺産が引き継がれることが確実視されるようになってからのこととするべきでしょう。しかし、それでも嫡子と庶子の問題は残されています。

§30 日本書紀の中の道標。

 不老不死や神仙の思想が古代の日本に入り込んでいることは、「記紀」やそのほかの物語等にそうした思想の産物としての物語が見出せることから確かなことと思われます。しかし、そうだからと言ってそれらの著述者がそうした思想を信じていたかどうかはまた別の問題です。なぜなら、記紀神話では神でさえお隠れになるとしているからです。また、田道間守が常世の国から持ち帰った非時香菓(ときじくのかくのこのみ)、思うにこれは不老不死の果物であったはずです。しかし、「記紀」はこれを単に今の橘とするのみで終えています。
 古代の日本人が不老不死にそれほどの感心を示していなかったことは、『竹取物語』の作者が、かぐや姫と会えなくなったことを嘆く帝に不老不死の薬は無用として富士山でそれを焼かせるというくだりをこの物語に付け加えていることからもおおよそ見当はつくと思います。無論、作者の強調表現ともできますが、記紀神話からもわかりますように、古代人は不老不死よりも人の寿命がなぜ短くなったのかといった因果説話のほうにより強い関心を示していたようです。
 思うに、不老不死や蘇りという道教神仙思想は古代中国の風土が生み出したものです。そうした思想が、死者の存在を常に語りかけている古墳群を風景として暮らしてきた日本人にとっては何の意味も持たないものだったのではなかったろうか。

欽明長寿説

 非時香菓の物語を持つ垂仁に『古事記』は158歳とういう長寿を与え、『古事記』には載らないが竈の煙と浦島の物語を『日本書紀』に持つ暴虐雄略に『古事記』は124歳という長寿を与えています。しかし、『古事記』は竈の煙の物語を持つ聖帝仁徳には83歳という寿命しか与えていません。仁徳は聖帝ではあったが、長寿を象徴する磐の姫との決別が長寿をもたらさなかったとするのが『古事記』の主張と見えます。ここにあるのは、明らかに因果応報の論理です。後世の浦島物語は、亀を助けるという善行に因り竜宮に遊び、玉手箱を明けてはならないという約束を破ることに因り老人となり果ててしまった。禁則を犯すものは必ず報いを受けるというのが当時の考えなのでしょう。
 仁徳の善政も、浦島の善行も、たった一つの禁則を犯すことに因り元の木阿弥となってしまう。逆に雄略のように悪業を行っても禁則を犯さなければ長寿を保てる。なにとはなく現代にも当てはまりそうな世相の反映の結果なのでしょうが、もう少し突き詰めれば、どのような権力者も禁則を犯せばその報いを受ける、ということでもあります。しかし、ただ禁則を犯さなかったというだけでは単に天寿が全うできたというだけでしかありません。『古事記』が雄略に与えた124歳という寿命は天寿以上のものなのですから。
 思うに、雄略の時代になぜ竈の煙が万里に立ち上ったのであろうか。答えは一つしかありません。それは、秦の太秦により庸調が上がるようになったからです。雄略紀には次のようにあります。

天皇愛寵之。詔聚秦民、賜於秦酒公。公仍領率百八十種勝。奉献庸調御調也絹縑。充積朝庭。因賜姓曰禹豆麻佐。
(雄略は、秦酒公を寵愛し、秦の民を集めて彼に与えた。よって秦酒公は多くのスグリを率いるようになり、絹や縑を税として朝廷に積み上げた。それで太秦の姓を賜った。)

 この話、前回の欽明と秦大津父との関係とよく似ていると思いませんか。欽明紀からもう少し抜き出しますと、

召集秦人漢人等諸蕃投化者。安置国郡、編貫戸籍。秦人戸数惣七千五十三戸。以大蔵掾為秦伴造。
(秦人や漢人ら諸蕃の投化者を集めて、国や郡に配置して戸籍に入れた。秦人の戸数は全部で7053になったので、大蔵の掾を秦伴造とした。)

 雄略も欽明も秦の民を集め、それを諸国に配置して秦氏を取り立てることによって国を富ませ万里に炊煙を立ち上らせた。そして、それによって雄略が長寿を得たのであれば、欽明もまた長寿を得たはずです。もう少し付け加えますと、27章で小子部蜾蠃が集めた子供たちの多くは秦の民の子供ではなかったかとしましたが、その子供たち特に少年は火焚き小子とされる場合があるのです。つまり秦氏は直接に竈の煙とも関係があることになります。そして、何度も言うように雄略と欽明にはいろいろな面で共通点があるということなのです。

倭王武はワカタケルか

 江田船山古墳出土鉄刀銘や稲荷山古墳出土鉄剣銘から「獲加多支鹵大王」、すなわちワカタケル大王という文字が読み取られています。通説ではこの大王を『宋書』に載る倭の五王の最後の王武に比定しているようですが、それなら何故鉄剣銘に幼武と記さないのか不可解です。それに『古事記』では武の字を使わずすべて建を用いています。あるいは、古代の銘文の人名表記には万葉仮名的な漢字表記が慣例であったのだろうか。しかし、そうだとしても宋に対して「獲加多支鹵」ではなくなぜ「武」としたのか、それともと「獲加多支鹵」を「武」とする慣例もあったのか。いずれにしても『宋書』が武と記す以上、武の和風名の中には「ぶ」あるいは「む」の音が入っていたとするべきでしょう。例えば、「ほちわけ」とか「ほだわけ」とか。思うに、武をタケと読むのは後世になってからのことではないだろうか。したがって、後世のそのまた後世の今日、武をタケと読むのは少し早計すぎるようにも見えます。
 ところで、倭王武の上表文を見てどのように感じるだろうか。勇ましさ、猛々しさ、いわゆる強さとしての「武」だろうか。

昔より祖禰躬ら甲冑を擐き、山川を跋渉し、寧處に遑あらず。東は毛人を征すること五十五國、西は衆夷を服すること六十六國、渡りて海北を平ぐること九十九國。王道融泰にして、土を廓き畿を遐にす。累葉朝宗して歳に愆らず。臣、下愚なりと雖も、忝なくも先緖を胤ぎ、統ぶる所を驅率し、天極に歸崇し、道百濟を遙て、船舫を装治す。而るに句驪無道にして、圖りて見呑を欲し、邊隸を掠抄し、虔劉して已まず。毎に稽滞を致し、以って良風を失い、路に進むと曰うと雖も、或は通じ或は不らず。臣が亡考濟、實に寇讐ノ天路を壅塞するを忿り、控弦百萬、義聲に感激し、方に大擧せんと欲せしも、奄かに父兄を喪い、垂成の功をして一簣を獲ざらしむ。居リて諒闇に在リ、兵甲を動かさず。是を以って、偃息して未だ捷たざりき。今に至りて、甲を練り兵を治め、父兄の志を申べんと欲す。…
岩波文庫魏志倭人伝・…』より》

 私の読む限りでは、上記上表文の下線部からもわかるように、武は、祖や父や兄の功や志を引き継ぐ者としての主張を述べているように感じられます。実は、漢字の武には継ぐという意味もあるのです。武という文字を勇ましいという意味からだけで捉えていては倭王武を見誤るのではないだろうか。ただ、そうは言っても『日本書紀』が倭王武の時代に幼武すなわち雄略をあてがっている以上、基本的には通説を覆すことは難しいということなのかも知れませんが。
 下の表は、岩波新書倭の五王』に載る年表を参考にしてのものです。行間の都合上時間幅は正確ではありません。また、時間の流れは左から右へとなっています。また、左端の枠は允恭即位年の412年に、右端の枠は武烈の崩年506年に設定しています。
f:id:heiseirokumusai:20171205203657g:plain
 この表からも分かるように、雄略の治世23年間のうち倭王武と重なるのはほんの3年ほどでしかありません。思うに、この3年足らずの一致をもって通説は倭王武を雄略と決め、さらに稲荷山古墳出土鉄剣銘に載る辛亥年を、武の治世ではなく興の治世とする『宋書』を無視してまで471年としています。無論、確かに雄略を武とはしない説もあります。しかし、そうしてみても今度はその3年足らずが逆にこの説の欠陥となってしまいます。
 本稿は二者択一つまり『日本書紀』か『宋書』かということで終始を計っています。したがって、この場合は『宋書』を取ることになるのですが、同時に『日本書紀』が次のように主張していると読み取ることも大事です。すなわち、雄略は倭の五王の興でも武でもないと。そもそも上の表のように一目瞭然の歴史の齟齬を書紀編纂者が見落とすはずはなく、こうした齟齬は編纂者が意図的に作りあげた後世へのメッセージと受け取るべきものです。大和に遺跡の道標があるように『日本書紀』にもやはり道標と呼べる何かがあるのです。
 思うに、人が何かを書き残す。それは自身への記念としての場合もありましょうが、自分以外へのメッセージである場合もあります。『日本書紀』は明らかに後者の場合にあたると言えるでしょう。また、私がこうしたものを書くのもやはり後者の場合ということになります。ただ、私の場合は私論であり試論ですから制約と呼べる程のものは最初からありませんが、書紀編纂者の場合は最初から大きな制約があったと思われます。そういった状態で後世に残せるメッセージといったものを考えた場合、また、あからさまに事実を書くことが憚れる場合、もしかしたら明瞭な歴史の齟齬で知らせるのが一番良い方法ではないだろうか。そして、その齟齬を元に後世が勘校するであろうことを彼ら書紀編纂者は望んでいるのではないだろうか。
 『日本書紀』で、歴史の齟齬が最初に現れるのが神功紀です。神功紀は「漢籍」と『百済記』とによって偏年が組まれています。しかし、この両者には120年ものずれがあります。通説では、このずれは日本書紀編纂者が神功皇后卑弥呼と見做したために生じたとしています。そして、このずれは応神紀まで続いています。
 下表は、神功紀と応神紀に載る百済王の実年代を左から右へ時間の流れに沿ってまとめたものです。
f:id:heiseirokumusai:20171205204045g:plain
 これから百済王の存在時期が実際よりも120年遡っていることが分かると思います。通説では、『百済記』の紀年が干支であったために、書紀編纂者がそうした間違いに気付けなかったとされています。確かに、干支1巡は60年ですから、120年というのは丁度干支2巡に当たり、説明としては妥当とも言えます。しかし、書紀編纂者は本当にこのことに気付かなかったのだろうか。
 なぜなら、神功紀ではこの時間のずれは正確に120年の差として現れていますが、応神紀の後半ではこの時間のずれにもそして記事内容にも齟齬が現れてきます。この齟齬は、実に甚だしいもので、応神25年に死んだ直支王が応神39年に再び生きて顔を出すというものです。この齟齬に編纂者が気付かないはずはないのです。それとも、応神25年から39年の間のどこかで編纂者が交替したとでもいうのだろうか。そしてなにより、後世の写本においても、この齟齬が活かされているというのも不思議というほかはありません。

§29 竈の煙と天命。

 ねたみそねみは人の世の常ですが、「記紀」はこれを臆面もなく取り上げて、うわなりやこなみや、挙句のはてには天皇までも揶揄し、あるいは誹謗したりもしています。聖帝仁徳もこれに関しては形無しのようです。
 仁徳天皇について、太安万侶は序文に

烟を望みて黎元を撫でたまいき。今に聖帝と傳ふ。

と記しています。
 仁徳と黎元(民)の竈の煙の話は、子供の頃よく聞かされたものですが、仁徳と嫁さんの話は「記紀」を読むまでは知りませんでした。思えば、古代の天皇の中で最初に知ったのが仁徳でした。また、「記紀」を読むまでは、仁徳が一番の長寿だという風に記憶してもいたようです。なお、「記紀」を読むといっても訓読本ですから、本当の意味で読んでいるかは今もって分かりません。ただ、『古事記』を読む限りにおいては、それで善いのだと思います。しかし、『日本書紀』の場合、これは一応歴史書ということですから、『古事記』と同じ次元で扱うことはできないのかもしれません。

仁徳短命説

 思うに、仁徳が長寿であったという記憶は、仁徳の治世が長かったということに起因するのだと思いますが、仁徳の治世がなぜ長かったのか、これについてはそれほど深く考えたことはないように思います。これは、おそらく聖帝ならばそのくらいは当然、いやそうでなければならないと当時の国定教科書の解答を持たされていたせいだと思います。
 ところで、『日本書紀』では仁徳の治世を87年と掲げていますが、『古事記』では仁徳の寿命をその治世よりも短い83歳としています。これは何故なのか。無論、こうしたことにも興味を抱くのは素人だからこそですが、普通には『古事記』と『日本書紀』を同次元で扱ったりはしないとは思います。しかし、『日本書紀』が『古事記』をベースに成り立っているとする立場に立てば、やはり無視のできないものだと言うほかはないのです。
 素人から見た場合、仁徳紀と仁徳記との一番の相違は、天皇と皇后磐之媛との夫婦仲の描き方にあります。仁徳記では仁徳の浮気を皇后が許していますが、仁徳紀では許していません。仁徳記をベースにしているはずの仁徳紀がこれを否定しているのです。思うに、これは仁徳記の方が間違っているのではないかと。そして、同時に我々が仁徳記を読み間違えているのではないかと。これも素人の勘ぐりではありますが。

ここに大山津見の神、石長比売を返したまへるに因りて、いたく恥ぢて、白し送りて言さく、「我が女二人並べたてまつれり由は、石長比売を使わしては、天つ神の御子の命は、雪零り風吹くとも、恒に石の如く、常盤に堅盤に動きなくましまさむ。また木の花の佐久夜比売を使わしては、木の花の栄ゆるがごと栄えまさむと、誓ひて貢進りき。ここに石長此売を返さしめて、木の花の佐久夜比売をひとり留めたまひつれば、天つ神の御子の御寿は、木の花のあまひのみましまさむとす」とまをしき。かれここを以て今に至るまで、天皇たちの御命長くまさざるなり。
《角川文庫『新訂古事記』》

 以上は記神話が、天皇の寿命が長くならなかった原因のいわれを述べている件の一節ですが、実は『古事記』での仁徳の寿命は決して長いとはいえないのです。

神武 孝昭 孝安 孝霊 崇神 垂仁 景行 神功 応神 成務 雄略 仁徳
137 93 123 106 168 153 137 100 130 95 124 83

 上は、『古事記』に載る天皇の寿命を表にしたものです。これからも分かるように、仁徳は必ずしも長寿とは言えないのです。このことは同時に仁徳記でも仁徳は皇后と仲直りをしていなかったことを示しています。それもそのはず、仁徳天皇の皇后の名前は仁徳記では "石の比売"、つまり神話の "石長比売"のことだからです。思うに、孝徳天皇と間人皇后が夫婦別れをしたように、難波天皇というのは当時の人からすれば正しく夫婦別れをする天皇の代名詞みたいなものだったのです。なにせ、難波天皇と木の花の佐久夜比売との仲は歌にも残っているほどなのですから。

 難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花
(なにはづに さくやこのはな ふゆごもり いまははるべと さくやこのはな)

 この歌は「記紀」には載っていないのですが、後世とはいっても平安時代頃だと思いますが、当時の伝説では王仁仁徳天皇に奉ったとされています。後世、こうした伝説が生まれるのは、やはり難波天皇の夫婦別れの原因を木の花の佐久夜比売とする伝承に因るものでしょうか。そして、このことは同時に仁徳の寿命が短かったことをも暗示しているのです。

雄略と竈の煙

 石長比売と佐久夜比売との神話に従えば、仁徳の寿命は短かったと言うほかはありません。しかし、仁徳の治世の長さは、孝安の102年、垂仁の99年に次いで3番目と決して短くはないのです。一見矛盾しているように思いますが、何らかの理由はあるはずですが…
 ところで、『古事記』での雄略天皇の寿命、意外とも言えるほどに長いとは思いませんか。そもそも『古事記』は、引田部の赤猪子(女性の名)の話を載せているように、雄略を長寿の天皇として捉えているのです。しかも、面白いことには、この長寿の答えが『古事記』にではなくて『日本書紀』にあるのです。なお、引田部名の赤猪子の話というのは、普通に歳をとり老いてしまった赤猪子が若い頃に雄略と交わした約束の履行を雄略に迫るというものなのですが、この時の雄略が全く歳をとっていないという、ある種の浦島伝説にも似た内容となっています。ただ、この状態での両者の対面を描いていますので、雄略記特有の滑稽談となってもいます。
 さてその長寿の答えですが、雄略紀の最後の段に載る天皇の遺詔の中にあります。

方今區宇一家 烟火萬里 百姓艾安 四夷賓服 此又天意欲寧區夏
《今、天下は一つにして、竈の煙は万里に上り、万民は治まり安く、四夷もよく従ってい る。これは、天意が国を安らかにしようとしているのである》

 ここには、仁徳紀と同じ "竈の煙" が載っています。加えて "天意" という言葉もあります。これは竈の煙が天に上って、国が善く治まりますようにと天意を催させたということです。そして、その結果雄略の寿命が長くなったということなのです。実は、こうしたことをする神に竈神がいます。ただし、今日に残っている竈神のことではありません。道教の研究書を残した葛洪(かつ こう:283~343)の『抱朴子』に次のようなことが載っています。

天地に過を司るの神あり。人の犯す所の軽重に随って、以ってその算を奪ふ。算減ずれば則ち人は貧耗疾病し、屢しば憂患に逢う。算尽くれば則ち人死す。諸もろの応に算を奪うもの、数百事有り、具には論ずべからず。また言ふ、身中に三尸有り。三尸の物為る、形無しと雖も、実は魂霊鬼神の属なり。人をして早く死せしめんと欲す。この尸はまさに鬼と作ることを得、自づら放縦遊行して、人の祭酹を享くべし。是を以って庚申の日に到る毎に、輒ち天に上りて司命に白し、人のなす所の過失を道ふ。また月晦の夜には、竈の神も亦天に上りて人の罪状を白す。
《中国古典新書『抱朴子』明徳出版》

 以上の多くは今日の庚申信仰の基となるようなことが書かれていますが、要は人の寿命はその人が犯した罪過によって決まるという発想です。そして、その罪過を天上の司命に告げるのが三尸(さんし)や竈神の役目とされているのです。これは、道教におけるガマの油売りの前口上のようなもので、道教ではガマの油の代わりに丹(仙薬)を売ることになります。要するに、丹を買って飲めば体から三尸が居なくなって長寿が保てるという道教製薬の宣伝広告の一種なのです。したがって、三尸とか司命とかは道教の誂えであって、これらから寿命を連想したとしても寄生虫程度のものしか思い浮かばないはずです。
 しかし、竈神、と言うよりも竈の煙からはいろいろの連想が浮かびます。先ず食事が浮かびます。食は命の糧ですから当然寿命とかかわります。また、古代では善政ともかかわります。善政は平和につながり、人は争いで命を失うことなく天寿を全うできます。思うに、竈の煙は為政者の善政を喜ぶ民の声とも聞こえます。その民の声の結果、竈の煙の多い為政者の寿命は長くなり、竈の煙の少ない為政者の寿命は短くなるということです。しかし、それならば雄略は善政を敷いたというのだろうか。

竈の煙と革命

 雄略に関しては「記・紀」共に聖帝と呼べるような記事は一切載せていません。それどころか、その正反対とも呼べるような記事が多々見受けられます。しかし、それにもかかわらず『万葉集』や『日本霊異記』は雄略をその巻頭に据えていますし、『古事記』は雄略のの寿命を124歳の長寿としています。どうやらここにも素人好みの謎があるようです。  さて、天命と言う言葉があります。これには大きく二つの意味があります。先ず天から与えられた寿命、そして天から与えられた使命です。思うに、命は天が人に与えたものです。したがって、天はこれを如何様にも変えることが出来ます。変えることによって人の寿命は短くなり、為政者は倒れます。この天命を左右するのが竈の煙です。竈の神は革命の神でもあるのです。
 顕宗前記、志自牟の新室楽(しじむのにいむろうたげ)の段に次のようにあります。

かれ火焼の少子二口、竈の傍に居たる、その少子どもに舞はしむ。…(略)… ここに遂に兄舞ひ訖りて、次に弟舞はむとする時に、詠したまひつらく、物の部の、…(略)… 伊耶本和気の天皇の御子、市の辺の押歯の王の、奴、末。とのりたまいつ。ここにすなはち小楯の連聞き驚きて、床より堕ち転びて、…(略)… ここにその姨飯豊の王、聞き歓ばして、宮に上らしめたまひき。
《角川文庫『新訂古事記』》

 この段は、普通履中天皇の孫が見つかる契機や清寧天皇以降の王朝の断絶を免れた物語としてしか解釈をされていないようですが、竈神と革命という観点からすれば天皇の孫あるいは現王朝の血筋ということを抜きにしても成り立つ話です。つまり、この段の主旨は竈の神が伝える天命によって顕宗と仁賢が皇位に就いたということなのです。
 なお、顕宗と仁賢の物語を、貴種流離譚や、応神5世の孫という遠縁の継体の即位を無理のないものにするために「記紀」に取り入れられたとする説もあるようですが、そういうことであれば、むしろ貧しい一介の火焚き小僧が天命によって天位に就いたとする方が良いように私には思われます。また、継体即位の下準備として顕宗・仁賢の物語があるのではなく、顕宗・仁賢の真の物語を打ち消すために継体の物語があるとした方が大仙陵古墳の破壊を説明する上で都合がいいようにも思われます。
 思うに、竈の煙が立ち上って天に届く。古代人には竈と天とはつながっているように見えていたのではないだろうか。そうした場合、竈の声は天の声であり、天の声に最も近いのが竈の世話をする火焚き小僧ということになります。あるいは、竈の傍で話す火焚き小僧の言葉もまた天の声ということなのかもしれません。『日本書紀』もこの物語の舞台を竈の傍と記しています。

欽明長寿説

 ところで、『日本書紀』が載せる歴代の天皇の中で、と申しましても可能な限り実在とされる天皇についてですが、その中で最も治世が長く、しかも長寿な天皇は誰なのかということなのですが…
 私が思うには、実在の可能性の薄い推古天皇を除けば、それは欽明天皇ではないかと。ただ、『日本書紀』は欽明は(御)年若干で亡くなったとしています。若干ですから長寿ではないとも受け取れます。また、欽明は年若干で即位したとされていますから、天皇としては最も長い32年の治世があったとしても必ずしも長寿とは言えないのかも知れません。しかし、仮にそうだとしても、欽明が亡くなった時も即位した時も "時年若干" と書き表す『日本書紀』の意図は何処にあるのだろうか。
 ところで、『日本書紀』は欽明即位前紀で夢の中に一人の男が現れて欽明に次のように語ったとしています。

天皇秦大津父者寵愛、壮大及、必天下有。
欽明が秦大津父という人を寵愛すれば、男盛りになった時、必ず天下を知らしめると。

 壮大とは男盛りのことですから、欽明は若干で即位したわけではないことになります。それに、石棺の関係から欽明と宣化は同母の兄弟のはずです。したがって、仮に宣化の治世が短かったとしても、欽明の即位時の年齢はもはや若干とは呼べないほどになっているはずです。『日本書紀』は矛盾しているのだろうか。実は、年齢に関しての矛盾は『古事記』にもあるのです。ただ、『古事記』の場合は多少の齟齬は仕方が無いとは言えますが。
 雄略記に引田部名の赤猪子が年を取るのに雄略が年を取らないという滑稽談のあることを話したと思いますが、実は年を取らない天皇がもう二人ほど居るのです。それは、顕宗と任賢です。雄略の死後、この二人が見つかった時彼らは未だ火焼少子(ひたきのわらは)と呼ばれていたのです。『日本書紀』には引田部の赤猪子も火焼少子も登場しませんが、ただ、顕宗と任賢が丹波小子(たにはのわらは)と名を変えて縮見屯倉首(しじみのみやけ)に仕えたとはあります。ところで、この丹波小子の丹波ですが、かつては但馬と丹後をも含んでいたとされています。
 雄略紀22年に、丹波国与謝郡の水江浦島子が蓬莱山に行ったという話が載っています。これは後世の浦島太郎の物語の基となったとされているもので、かつての丹波国であった但馬や丹後地方にはこうした神仙思想の影響で生まれた不老不死の話が少なからずあったようです。たとえば、垂仁天皇常世の国へ遣わした田道間守(たじまもり)の話もこの一つです。この話は橘の木の伝承譚でもあり、天の日矛の伝説や延いては神功や応神の系譜にも繋がるもので、あるいはここに「記紀」の現代史とも呼べる何かがあるようにも思えます。…以下次回へ。

§28 雄略と宋。

 専門家に解けない謎は素人にも解けない。それが一般的な常識というものなのでしょうが、素人からすれば、専門家に解けない謎は素人でなければ解けない、というのが常識なのです。
 私事で恐縮ですが、私はかつて友人と一人の女性を張り合ったことがあります。その時に思ったことなのですが、彼女が友人になびかなければ自分になびくと。しかし、結果はどちらも振られてしまいました。思うに、素人の常識よりも厳しいのが現実でございました。世の中は必ずしも二者択一で成り立っているわけではないようです。
 しかし、陰陽思想は、陰か陽かの世界を問う思想です、陰で解けなければ陽で解けるという思想です。そういうわけで、常識にもめげず、現実にも屈せず、宮沢賢治のようにと思っている今日この頃でもあります。

 さて、船尽くしの観は否めませんが、船氏は王後墓誌を始め、野中寺の弥勒造像銘、さらには宇治橋碑銘とかかわりがある一族です。今少し連想を進めるのも素人の役目なのかもしれません。

船氏8代

 王後墓誌によれば、王後より船氏の中祖王智仁まで3代を遡ります。1代を20年ほどとすると、3代で60年ほどになります。王後が死亡したのが641年ですから、これより60年ほど遡れば580年前後となり、これが計算上の王智仁の死亡年となります。また、彼の活動した期間を20~30年間と見積もれば、その開始年は550年頃となります。王辰爾が船史となったのが欽明14年(553)年ですから王智仁と王辰爾は重なります。通説では、王智仁は王辰爾のことだともされています。おそらくは、そうなのでしょう。智仁は "ちに" と発音するのかも知れません。
 ところで、墓誌が作られた代より数えると王智仁は4代目に当たります。王智仁は中祖ということですから、計算上これからさらに4代を遡れば上祖ということになります。無論、王智仁の場合、中祖とはいっても歴代の真ん中というよりも中興の祖という意味合いの方が強いかもしれません。なにせ既に述べているように、史が彼の名前にあやかって彼らの祖の名前に利用した可能性もあるのですから。しかし、仮にそうだとしても4代遡っての中祖です、上祖まで8代くらいはあったとするべきでしょう。そうすると、550年から80年遡った頃が上祖の活動を始めた時期になります。その時期は470年頃に当たり、倭王武の兄の興の時代となります。また、漢城時代の百済の滅亡の年475年にも近い時期ともなります。
 雄略紀には、20年(476)冬、高麗王が大軍をもって百済を滅ぼしたとあります。文献の上では1年の誤差になりますが、分注には「蓋鹵王乙卯年(475)、狛大軍来」とあり、前年の事をもまとめて記事にしたものと思われます。ただ問題なのは、倭王武を雄略と見做した場合の『宋書』との齟齬です。倭王武は477年から500年代初頭頃までの治世があったと『宋書』から推測できます。しかし、雄略紀では雄略は457年から479年までの治世となっています。『日本書紀』編纂者が『宋書』を参考にしなかったとも言えますが、雄略紀には呉との交渉の記事が頻繁に見られます。
 呉、記事では "くれ" と読ませていますが、これは中国の南朝のことで、当時南朝といえば宋(420年~479年)しかなく、雄略が交渉していたのは倭王武朝貢していた宋ということになります。思うに、宋の末年と雄略の末年が同じであることから、『日本書紀』は雄略を武ではなく単に宋に合わせたのではないのかとも見えます。と言うのも、雄略の即位年(457)が宋の世祖孝武帝の年号大明元年(457)にも当たるからです。それに、この孝武帝とその兄との行状は雄略とその兄安康の行状によく似ているようでもあります。あるいは、『日本書紀』は『宋書』を参考にしなかったのではなく、むしろ参考にし過ぎたのかも知れません。それはともかく、雄略の時代、呉との交渉に当たっていたのが史部の身狭村主青(むさのすぐりあお)と桧隈民使博徳(ひのくまのたみのつかいはかとこ)なのです。
 ところで、雄略紀にはこの二人の史に関して次のような記事があります。

天皇、み心を以って師と為し。誤ちて人を殺すこと衆し。天下誹謗して言わく。太悪天皇也。唯寵愛する所は、史部の身狹村青と檜隈民使博徳等也。

 身狭と桧隈は大和にありますから、史部としては東漢系ということになりますが、この場合は単に東史とした方が話としては分かりやすいかもしれません。25章で東西の史について少し述べたと思います。船史や田辺史はいわゆる西史に含まれますが、上の記事は、彼ら西史の雄略の東史への贔屓を非難してのものとも見えます。しかし、雄略がなぜ東史を贔屓にしたのか、また、なぜ西史の目にはそのように映ったのか、取るに足りない素人の勘ぐりには違いありませんが、少しばかり時間を費やしてみましょう。

雄略と欽明

 冒頭でも述べていますように、史部の設置は雄略が最初です。また、雄略紀に西史系の田辺史伯孫が登場していることから、史部は最初から東西に設置されていたという事になります。このことは、雄略が東史だけではなく西史をも必要としていたことを教えています。そうなると、雄略がなぜ東史の二人だけを偏重したのか。やはり、少し考えてみる必要があるようです。
 雄略の宮は泊瀬朝倉宮(奈良県桜井市)で、同じ大和とはいっても身狭や桧隈とはかなりの距離があり、雄略の膝下とは言い得ません。また、雄略の陵墓は丹比高鷲(大阪府羽曳野市)で、これは西史の本拠地ですから、雄略と東史の関係は地理的からのものではないことが分かります。では、何にその起因を求めれば善いのか。雄略紀をどう読み返しても、天皇と二人との関係は、二人が史であることと二人が天皇に寵愛されたという記事以外にはなにもありません。このことは、二人というよりも身狭村主青と桧隈民使博徳は最初から雄略に付随していたと解釈する他はないようです。ただ、付随という言葉がこの場合適切か如何か。そこで、付随を次のように解釈します。
 最初から雄略に付随していたものは、雄略の死後も付随すると。こう解釈した場合、身狭村主青と桧隈民使博徳は、雄略の死後も付随して、その陵墓の地である丹比高鷲に付いて行ったということになります。そうすると、この二人の史は当然西史となり、名前も高鷲村主青と丹比民使博徳となります。これを逆に考えてみましょう。雄略は河内から史を連れて大和に入った。結果、河内と大和の二箇所に史の本拠地が出来た。そして、雄略が連れて来た高鷲村主青と丹比民使博徳は身狭村主青と桧隈民使博徳へと変わった。
 思うに、史の先祖はすべて応神朝にその基礎を置きます。言い方を変えれば、史はすべて応神に付随します。もう少し変えると、史は応神天皇陵の近くに居住した。そして、その一部が大和に入り東史となった。応神紀によれば、阿直岐史の先祖は軽の坂の上辺りに住んだといいます。身狭村主青と桧隈民使博徳も、その呼び名からして、やはりその近くに住んでいたことになります。実は、この地には見瀬丸山古墳があるのです。見瀬は身狭のことです。つまり、見瀬丸山古墳の主が高鷲村主青と丹比民使博徳を連れて大和の見瀬あるいは桧隈の地に入ったということです。
 見瀬丸山古墳を雄略の墓と主張するつもりは毛頭ありません。本墳には宣化と欽明が眠ると24章では主張しているのですから。さて、宣化の和風諡号小広国押盾です。したがって、その弟である欽明の和風諡号若武なにがしと呼ばれる可能性があります。
 ワカタケルといえば雄略。雄略といえば倭王武。普通に「記紀」を読んでいれば誰もがそうなります。しかし、果たしてそうなのだろうか。『日本書紀』は雄略を倭王武にではなく宋に合わせています。それに、若、幼あるいは稚は、普通親や兄の名前の上につけてその親の子であること、あるいはその兄の弟であることを示すためのものと言えるのです。無論、これは今日的な考えで、当時はそうではなかったとも言えます。しかし、若、幼、稚は当時からそういった意味で使われていたからこそ今日そういった意味で残ったと見るべきでしょう。そう見た場合、次のようなことが言えるようになります。
 先ず、幼武と呼ばれる雄略ですが、どうしたことか彼には武という名前のつく親兄弟が一人もいません。逆に欽明には、武と呼べる兄が宣化の他にもう一人いるのです。安閑がそれで、彼の名は広国押金日とされています。なお、雄略の子の清寧の名が白髪広国押稚日本根子で、雄略よりも欽明の兄弟の名に似ています。また、稚日本根子とあることから、清寧の父あるいは兄の名が日本根子である可能性もあります。
 次に、稚郎子(わきいらつこ)や稚子宿禰(わくごのすくね)といった呼び名ですが、これだけでは特定の個人を指すことは出来ません。そこで、菟道稚郎子としたり雄朝津間稚子宿禰とすることにより、前者が応神の皇太子であることが分かり、後者は允恭の和風諡号であることが分かるようになります。雄略は、正確には大泊瀬幼武ですから、あるいは幼武だけでは特定の個人を指せないのかも知れません。そうなると、欽明も志帰嶋若武としなくてはならないのかも知れません。それとも、泊瀬若武とする方が善いのだろうか。欽明紀には、その31年に天皇が 「泊瀬柴籬宮に幸す」 という記事もあるのですから。
 どうやら話が思わぬ方向に向かって行っているようです。無論、この向かう先も本稿にとっては大事ではあります。しかし、ここでは見瀬丸山古墳が "ワカタケル" という名で東史につながっているという結論、ただし私論ですが、これを基に話を進めています。
 稚拙な例えかもしれませんが、明治維新によって京都が東京に移ります。無論、京都が移動をしたというわけではありません。移動したのは象徴としての都と幾ばかりかの人です。ほとんどの人は残されました。思うに、見瀬丸山古墳の前代は河内大塚山古墳です。この関係は河内から大和への遷都とも呼べます。取り残された者の言い分が、あるいは身狭村主青と桧隈民使博徳への非難だったのかも知れません。
 雄略は、「記紀」を読む限り、君主とは言い得ません。しかし、『万葉集』も『日本霊異記』もその巻頭を飾るのは雄略でありその時代です。雄略の宮は泊瀬朝倉宮ですが、『日本霊異記』には磐余宮(いわれのみや)にも居たともしています。奈良県桜井市脇本に5世紀後半代の柱穴群を含む脇本遺跡があります。一説ではそれが雄略の泊瀬朝倉宮だともしています。ただ、脇本遺跡には6世紀後半から7世紀にかけてのて大型建物跡なども出土しており、これを欽明天皇の宮殿と推測する人もいます。
 思うに、雄略と欽明はいろいろな意味で近しい関係にあるようです。『万葉集』や『日本霊異記』は雄略をその巻頭に据えてはいますが、その巻頭以後には顕宗も仁賢もそして継体さえも顔を出してはいません。『万葉集』では雄略の次に顔を出すのが舒明、『日本霊異記』では欽明となっています。雄略を欽明、正確には阿毎多利思比孤とした方が『万葉集』にも『日本霊異記』にも負担がかからないように見えます。
 さて、雄略紀の時代は宋の後半代に当たります。しかし、雄略を倭王武にあてはめても 『宋書』とは整合しません。しかし、『日本書紀』の編纂者が宋を知らなかったとは考えられません。なぜなら、『日本書紀』の暦日干支の半分は元嘉暦によるものだからです。元嘉暦はその名が示す通り宋の元嘉22年(445)より始まる暦なのです。
 既に述べたと思いますが、雄略紀は雄略を宋の年譜に合わせています。特に安康から始めれば孝武帝との整合もよくなります。安康の即位年が453年。孝武帝も同じく453年即位なのです。さて、宋は孝武帝の兄以降、その身内に対してあるいはその身内から、さらにはその臣下に対してあるいはその臣下から血なまぐさい抗争の歴史を繰り返す道を歩み歩まされもしています。実際、この年より宋末の479年までに臣下によって殺害された廃帝が二人も出ています。穿った見方をすれば、安康と雄略紀の血なまぐさい記事はこれに合わせたものとも言えます。
 ただ、仮にそうだとしても『日本書紀』の編纂者が自分たちの天皇にそうした話を無条件で押し付けて平然としているというのも不思議な気がします。あるいは、彼らは虚構を前提として『日本書紀』を編纂していたのかも知れません。たとえば、孝武帝は興武帝ともできます。これは倭王興倭王武の両者をまとめて表わす名前ともいえるのです。そうした観点から『日本書紀』を見た場合、血なまぐさい話を持つ、雄略、武烈、崇峻の三天皇の和風諡号に "泊瀬" が付くことの意味は大きいと考えねばなりません。
 泊瀬は初瀬とも書きます。初瀬の意味は瀬の始まる発瀬でもあり、大和川の出発地点でもあるのです。そして、この地から大和の国は排し開け始まるのです。大和の枕詞を冠する敷島天皇(欽明)を天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわ)と呼ぶのもその故です。そして、そうでありながら、そこに、断絶や血なまぐさい話を持ち込む『日本書紀』は、明らかに大和を否定しています。
 思うに、『万葉集』には近江遷都や平城遷都の時多くの人々が飛鳥を懐かしんで詠んだ歌が残されています。それと同じように、河内から大和への遷都の時、西史達が河内を懐かしんだことは想像に難くはありません。彼らは、仁徳を聖帝と仰ぎ、難波長柄豊碕宮を「其の宮殿之状は不可殫論(たとえようがない)」と賞賛し、他方では大和を誹謗してもいるのです。また、河内飛鳥を近飛鳥(ちかつあすか)と呼び、大和飛鳥を遠飛鳥(とおつあすか)と呼ぶのもその故です。
 天武14年6月20日、大倭連(おおやまとのむらじ)以下東漢を含む11氏が忌寸(いみき)の姓を賜ります。しかし、何故かそのなかには船氏も田辺史も入ってはいません。