§23 王朝の入れ物、大王墓。
道標は迷うことなく目的地に着くためのものです。そのためには先ず目的地をはっきりと決める必要があります。私の当面の目的地は見瀬丸山古墳です。そのためには、とにもかくにも河内大塚山古墳にたどり着く必要があります。そして、そのためには大仙陵から河内大塚山古墳までに存在する大王墓を篩い落とさなくてはなりません。
三つの古墳群
発掘考古学というのは、掘り起こした泥を篩いにかける作業から始まるのだそうです。できれば私も『日本書紀』を篩いにかけてみたいのですが、素人の身そうも参りません。そこで、せめて古墳だけでも篩ってみることにしまた。
前章では篩いの目に墳丘長300mを用いました。無論、これには賛同はいただけないかもしれません。なにせ、『日本書紀』に載る天皇は40を数え、その陵墓の数もまたそれに準じるのですから。しかし、それなら200mにすれば善いのかと言えば、実はこれでも未だ足りないのです。そもそも、全国で墳丘長200m以上の大規模古墳と呼ばれているものは34基ほどしかありません。すべての天皇に大規模古墳をあてがうのは所詮最初から無理な話ということなのです。
では、どうするべきか。小規模な古墳をあてがうべきか。思うに、古墳時代の大王に小さな古墳をあてがって良しとするのは、古墳時代を遠ざかった者の賢しらではないだろうか。古代人が古墳をどのように捉えていたか、古墳の形の謂われさえ明らかにし得ない者に理解はできません。しかし、古代人が古墳造りにかけた多大の労力と情熱だけは、巨大古墳の前に立つ誰もが感じ取ることだとは思います。
下の表は、全国の大規模古墳の中から、墳丘長300mを基準に上下を同数だけ揃えたものです。丁度、一位から14位までがそれに当たり、これをAとBとに書き分けました。
A | ・ | B | ||
---|---|---|---|---|
大仙古墳 誉田御廟山古墳 上石津ミサンザイ 造山古墳 河内大塚山古墳 見瀬丸山古墳 渋谷向山古墳 |
486 425 365 360 335 318 302 |
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ |
土師ニサンザイ 仲津山古墳 作山古墳 箸墓古墳 五社神古墳 ウワナベ古墳 市庭古墳 |
288 286 286 276 276 265 250 |
Aは墳丘長300m以上のクラスに、Bは200m後半代のクラスになっています。なお、前にも述べたことですが、古墳の墳丘長は過去の造営の時点においても、今日の計測の時点に於いても必ずしも理想的な正確さのものとはなっておりません。しかし、そのことは古墳間に潜むであろう何らかの傾向を読み取る上での障害とはなりません。実際、AB間には雰囲気の違う何らかの傾向が読み取れます。
AとBを比べた場合、Aは墳丘の長さの最上位と最下位との差が180m以上もありますが、Bでは50mにも充ちません。つまり、Aからは墳丘を少しでも大きくしようとする意欲と自由が感じられますが、Bからはドングリの背比べというかAのようなそうした意欲も自由も感じられません。しかし、実は外観上そう見えることが、大王墓であるかそうでないかの違いなのです。何故なら、新たなる富は先ず大王に反映します。諸臣に回ってくるのはその後です。また反映の程度も、大王には大きく諸臣には小さく表われます。それに大王にはいくらでも大きくできる自由もあります。つまり、Bに意欲がないというわけではないのです。そもそも大王の富は諸臣が運んでいるのです。また、大王を引き立てるということも諸臣の大事な務めなのです。
思うに、AとBの傾向の違いからこうしたことが読み取れるということは、墳丘長300m以上は大王墓、それ以下は諸臣の墳墓の可能性があることを示唆しているのではないだろうか。無論、墳墓間の時間差や、大王と諸臣の人数差があることは確かです。しかし、この差のあることがそうした傾向の違いを生み出してもいるのです。なお、この300mの篩いは倭の五王より前の大王墓については当てはまらないかもしれません。
どうやら、大仙陵以降の王墓は河内大塚山古墳と見瀬丸山古墳の二つだけとなってしまったようです。それなら、大仙陵から丸山古墳まで何人の何という大王がいたことになるのだろうか。大王墓の数を限ってしまった以上、大王の数もまた限る外はないのですが、大塚山古墳の直前が大仙陵ということであれば仁徳から始める必要はなくなり、ある意味では歴史物語から解放されたとも言えます。
大王墓の住人
大仙陵には二人の大王が眠っています? また、丸山古墳にも二人の大王が眠っています? そうすると大塚山古墳にも二人の大王が眠っていることになります?
大塚山古墳は剣菱形という新王朝のシンボルを持つ墳墓です。『百済本紀』のいう辛亥年に死んだ旧王朝の天皇の墳墓ではありません。したがって、この天皇は大仙陵に葬られたとするほかはないようです。大塚山古墳の被葬者としては、安閑と宣化が考えられますが、大仙陵を損なった顕宗と仁賢が次の造墓者となりますから大塚山古墳の被葬者は顕宗と仁賢ということになります? そうすると辛亥年に死んだ天皇は清寧に宛がわれます?
?ばかりになってしまいましたが、先ず、二人の大王墓ということから始めることにします。10章でも少し触れたことですが、舒明天皇陵には二つの石棺があるといいます。また、野口王墓には天武と持統、二人の天皇が葬られています。そして、仁徳天皇陵とされる大仙陵にも石棺が二つあることが認められています。加えて天皇陵の可能性の高い見瀬丸山古墳にも石棺が二つあることが周知の事実となっております。このことは、大王墓一つに大王一人という「記紀」を読んでいると知らず知らず植えつけられた誰もが陥っていると思われる先入観とは随分と隔たった事実のあることを教えています。即ち、大王墓には複数の埋葬が可能であると。
大王墓一つに大王一人という観念を捨て去れば、残る疑問はただ一つ、大王墓には大王以外の者が同時に葬れるのかということだけです。この問いの解は、現代人には難しいものがあります。現代からすれば、王の妻や子供達は善いのではないかと思ったりもしますが、それが古代にも通用するものかは… また、仮に是とした場合、はたして大王墓と呼べるのかどうかという疑問も浮かんでまいります。誰もが感じることだと思いますが、大王墓は明らかに特別なものです。当然、葬られる者もまた特別な者に限られます。王族といえど、また王族の中でも大王だけが特別の者なのです。したがって、大王墓には大王だけというのが正解と言うほかはありません。
大王墓もそうですが、古墳には複数の埋葬があることは周知の事実です。また、それらが王族や一族の墓であることも確かなことと思われます。そして、肝要なことは一つの墳墓に埋葬されるのは同等の地位の者だけとする前提です。そう考えた場合、埋葬の形態として次のような想定が可能となります。
先ず、一族の一番目の長が死んだとします。そうすると、この長の墓を二番目の長が作り、そして埋葬することになります。普通そうなると思います。ところで、この墓造りの最中に二番目の長が死んだ場合はどうなるか。順序としては三番目の長がこれを引き継ぐことになります。結果として、この墓には一番目と二番目の長が埋葬されることになるはずです。次いで、これを前方後円墳で再現してみましょう。
前方後円墳は前方部と後円部の二箇所に埋葬が可能です。そして、前方後円墳の発達の経過から見て後円部が埋葬の主体部であったことも確かです。これに前述の埋葬結果を当てはめた場合、後円部には一番目と二番目の長が埋葬され、前方部にはこの墳墓を完成させた三番目の長が埋葬されます。ところで、こうした埋葬様式が前方後円墳に定着していく過程でどのようなことが起こるかと少し想像してみますと、どうも前方部がどんどん大きく立派になっていくのではないかと、ふとそんな気がいたします。
誰でもそうだと思いますが、自分が埋葬されることになるその場所、つまり前方部を大きく立派にしたいというのが人というものではないでしょうか。
古墳の中の播磨王朝
大塚山古墳は新王朝の墳墓です。今城塚古墳の系列に繋がりますから、人によっては継体王朝の二代目に当たる墓とも言われています。そこで、初代とされる今城塚古墳の中をちょっと覗いてみますと、ただし高槻市のホームページ "発掘調査でわかったこと" によるものですが、横穴式石室の中には石棺が三つあったらしいとのことです。そして興味深いことには、それらの石棺の産地がすべて異なっていると言うのです。産地が異なるということは材質が異なるということで、それらの産地と材質を示しますと、兵庫県高砂産の竜山石、熊本県宇土産の馬門石、大阪・奈良に跨る二上山の白石となるのだそうです。
私は素人ですので、感じたことしか述べません。また、それ以外のことは述べたくても述べられません。さて、石棺の産地が異なるという事は、石棺の中身の産地も異なるという事になります。横穴式の場合、基本的には同母の兄弟ということになるのだと思いますが、墳墓を家、さらには王宮と見た場合、家長あるいは大王でありさえすれば誰でも善いのかもしれません。しかし、この場合は同母の兄弟でないことだけは確かと思われます。
ところで、兵庫県高砂産の竜山石(たつやまいし)、この竜山石で出来た石棺が二つ、大塚山古墳の次に出来たとされる、やはり大王墓の公算の高い見瀬丸山古墳の石室にあります。今度の場合は同じ産地ですから、この二つの石棺は同母の兄弟と見做せそうです。しかも、播磨の竜山石で出来た石棺の兄弟です。この兄弟、石棺の出自から見れば播磨の兄弟と呼べなくもありません。出自といえば、継体の出自は「記・紀」共に越前と証言していますが、彼の石棺の出自は、今城塚古墳の証言では播磨とも肥後とも河内・大和とも、それらいずれとも受け取れるようになっております。仮に彼の石棺を播磨の竜山石で出来ていたとすれば、彼は播磨の出自となり、播磨王朝の始祖となります。
今城塚古墳の証言からも分かるように、古代人は石棺を使い分けています。古代において石棺と死者は一対のものなのです。石棺から見れば、継体も立派な播磨の出であり、見瀬丸山古墳に至っては正に播磨王朝そのものの墳墓ということになります。そして、当然その古墳系譜の中間に位置する大塚山古墳もまた播磨王朝ということになります。
大塚山古墳の中に何人の大王が眠っているのか、それは分かりませんが、播磨王朝と呼べる大王の石棺があることは確かと見えます。また、今城塚古墳は播磨王朝の始祖の墓であるかもしれませんが、大王の墓とするには小さ過ぎます。したがって、播磨王朝あるいは実質的継体王朝と呼べる初代の大王の墓は大塚山古墳という事になります。
なお、播磨王朝は、歴史家の岡田英弘氏が顕宗・仁賢兄弟より始まる王朝につけた名前だそうです。岡田氏はこれ以外にも河内王朝とか越前王朝とか、「記紀」の内容に添った呼び名を用いて王朝の区分けをしています。こうした王朝のブロック化は、私のように陰陽的な視線で「記紀」を見ているものにとっては非常に便利なもので、例えば継体を陰と陽に分けた場合、陰に播磨王朝を宛がい、陽に越前王朝を宛がう、無論その逆でもかまわないのですが、ともかくそういったことが可能になるのです。もっとも、そういったことは歴史から逸脱した馬鹿げたことだと、あるいは叱責を受けるかもしれません。しかし、今日残っている史書のほとんどは今日的な歴史家の手によるものではなく全くの素人とでも呼べる文人や官吏の手によるものなのです。まあ、今しばらく辛抱のほどを。
さて、継体が陰陽に分けられるのかということですが、実は継体は既に分けられているのです。しかし、その前に2つか3つ、別のものの陰陽分けをしておきましょう。先ず王を分けると、王兄と王弟になります。次に、男を分けると男兄と男弟になります。最後に大を分けると大兄と大弟になります。それぞれの読みの最後は、"え" 、"けい" 、"と" そして "てい" の音がきます。さて、継体の名前ですが、『日本書紀』では男大迹(をほと)とあります。これを男大弟(をほと)としても名前そのものは変わりません。しかし、意味は変わります。男大迹という名前ではなく男大の弟という意味になるわけです。男大の意味はあるいは王のことかも知れません。しかし、これについてはこれ以上の詮索は意味が無いので止めましょう。というのも『古事記』では男大迹は袁本杼(をほと)とあるからです。しかし、これも袁本弟とできます。そうなると、当然、男大兄や袁本兄が存在することになります。
男大兄と袁本兄、この読みは "をほえ" あるいは "をほけい"となります。この音に近い名前を持つのが本題の主役である播磨王朝の顕宗・仁賢の兄弟です。顕宗は、弘計天皇、来目稚子、袁祁王、袁祁之石巣別命といった呼び名を持ちます。また、仁賢は、億計天皇、大石尊、意祁命、意富祁王、大脚、大為、嶋郎といった呼び名を持ちます。これらの呼び名と継体の男大迹あるいは袁本杼との関係から、顕宗は男兄とでき、仁賢は大兄とできます。つまり、顕宗と仁賢で男大兄ができるのです。
ところで、顕宗紀には兄弟が播磨の縮見山の石室に隠れ住んだらしいことが載っています。加えて、この兄弟には石のつく呼び名もあります。思うに顕宗紀は、横穴式石室への石棺の埋葬手順から生まれた物語の可能性があります。大仙陵直後、大王墓は横穴式石室に移行した可能性があります。横穴式石室の場合、加えて兄弟が埋葬される場合、石棺をどのように石室に収めるか、おそらく問題になったものと思われます。見瀬丸山古墳では兄のものと思われる石棺が手前に、弟のものと思われる石棺が奥に安置されています。これは、兄が先に生まれるから出口に近い位置を選び、弟は後から生まれるから奥の位置を選んでいると考えられます。しかし、これは見ようによっては弟は墳墓の中心、つまり王墓という玉座に近い位置にいることになります。顕宗・仁賢紀の特異さは兄よりも弟が先に王位に就くという点にありますかあら、あるいは、そうしたことを述べているのかもしれません。また、顕宗紀には父親の遺骨と舎人の遺骨とを選り分ける話もあり、竪穴式という独立を保てた石室から、横穴式という独立を保つことの出来ない埋葬方式への転換点に位置していたのが、あるいは播磨王朝であり越前王朝だったのかもしれません。そして、その最初の横穴式の墳墓が大塚山古墳なのかもしれません。
§22 古墳群の中の道標。紀の中の道標。
古墳の年代を決めるのは副葬品である。副葬品の中で最も有力視されるのが、土師器や須恵器である。では、土師器や須恵器の年代を決めるものは何か。
最も確実な方法は、年代のはっきりしている奈良時代の土師器や須恵器から遡ることである。しかし、仮にそれが出来たとしても、どのくらい正確に遡れたかを問う基準を何に求めれば良いのか。
科学や、考古学資料は嘘はつかないと人は言うが、年輪年代測定や放射性炭素年代測定に用いる木片や炭素は所詮客であって主人ではない。客は嘘をつかないかもしれないが、また気前よく真実を喋ったとしても、それは役に立たない世間話でしかない。結局、最後は嘘をつく人の手による『日本書紀』にたよることになる。しかし、よくよく考えてみれば、土師器や須恵器もまた嘘をよくつく人の手によるものでしかありません。
紀の中の道標
或る本に云う。天皇28年歳次甲寅の年に崩と。而るに此で、25年歳次辛亥の年に崩と云うのは、百済本紀によって文としたからである。其の文には次のようにある。太歳辛亥の年3月。師進みて安羅に至りて、乞乇城を作る。是の月に、高麗は其の王安を弑す。又聞く、日本の天皇及び太子も皇子も倶に崩薨と云えり。此れに由りて云えば、辛亥の年は25年に当たるかな。後の勘校者は之を知らん也。
以上は、継体紀の最後に載る分注である。私はこれを『日本書紀』に遺された太安万侶の道標と想定してこうしたものを書いています。その真否はともかく、何かを始める以上その起点を先ず見つけなくてはなりません。結果を恐れては素人とは言えません。
さて、これに拠れば、辛亥の年(531)の3月に天皇及び太子や皇子も共に亡くなったということになります。これを辛亥の変と呼んでいる学者もいますが、果たして変などという程度のもので済ませても善いのだろうか。半島では翌年早くも金官加羅国が新羅に投降をしています。任那地域をめぐっての百済と新羅との抗争の激化が加速しているのです。これは倭の勢力の半島からの後退を意味します。『紀』によれば安閑元年は534年ですから、新大王が誕生するまでに3年を要したことになります。そこで、これについての素人の率直な考えを述べさせてもらいますと、継体と呼べる新しい王朝が始まったのはこの年以降からではないかと。そしてそうならば、先ず始めることは継体大王の墓探しということになります。なぜなら、諺にもあるように、新しい酒は新しい皮袋に盛れ、つまりは盛られていると。
継体天皇の陵墓については、摂津の、大阪府茨木市太田の茶臼山古墳(230m/140m)と大阪府高槻市郡家新町の今城塚古墳(190m/100m)とが政府治定と学会定説とになっているようです。単純には、茶臼山古墳が 230/140 = 1.64 で、今城塚古墳が 190/100 = 1.9 ですから、前者は誉田陵プランの古いタイプと見做せ、後者は大仙陵プランの新しいタイプと見做せます。したがって、今城塚古墳の方が有力ということになります。それに、今城塚は前方部が剣菱形のこれまた斬新ともいえる墳形をしています。ただ、この古墳は大王墓としてはあまりにも小さすぎるような気がします。
古墳群の中の道標
古墳の規模は、大仙陵をピークとして縮小に向かっています。大仙陵築造後いつの時期か、おそらく次の陵墓の築造開始までには築造期間の短縮を決めたのではないかと思われます。そう思うのは、豪族が一日に動員できる役夫の数は、誉田陵から大仙陵にかけてほとんど変わっていないからです。それは、大王墓であるそれら二つの陵の容積がほとんど変わっていないことからも察することが出来ます。したがって、あとは築造期間を短くすれば墳墓はおのずと縮小することになります。
しかし、何故縮小に向かい始めたのだろう。いや、それよりも何故巨大化に向かったのだろうか。大きいのがただ好きだからか。しかし、いくら好きだからと言っても先立つものが無くては何も作れません。そう、巨大化の原因は経済成長なのです。水田も増え、人手も増え、何もかもが増えたのです。そして何よりも身内が増えたのです。
身内の増えることは、往々にして内紛につながります。安閑紀には、武蔵国での同族同士の争いの話が載っています。また、雄略天皇は身内を多数殺していますが、これも身内が増え過ぎたことが最大の原因でしょうか。なお、雄略を倭王武に比定する説があるようですが、武の時代は一族一丸となって戦っていた時代です。身内の粛清は負の要因となります。もし、どうしても雄略を誰かに、あるいはどこかの時代に比定したいのであれば、武烈天皇とその時代が最も相応しいように見えます。
古墳の破壊
皮肉といえば現代も同じですが、経済発展は繁栄と格差を生み出します。繁栄と格差は紛争を呼び起こします。顕宗記に、雄略に粛清された父の仇を取ろうとする兄弟天皇の話があります。内容は雄略の陵を壊そうというものです。『紀』ではこれを思いとどまったとしていますが、『記』では御陵の傍らを少し掘り取ったとあります。思うに、『紀』と『記』との違い、そして墳墓を損なうという行為、これらにはいろいろの意味合いがあるようです。
先ず、『紀』と『記』の違いですが、紀は記の内容を打ち消しています。これについては、御陵を損なうという行為が『紀』の編纂当時都合の悪いことだったからと言うほかはありません。しかし、それだけでは『記』の編纂当時は善かったのかということになり兼ねません。ここは、やはり『記』から『紀』へ少しずつ打ち消していったとするのが順当なのやもしれません。そうなると、本来の話は少しだけ掘り取ったということではなかったことになります。ちなみに当時の大陸や半島では、攻め入った王が敵国の王の先王や親の墓を暴いて骨を持ち去ったりもするそうです。ただ、日本の場合は香具山の土を大和の国の物実(もととなるもの)とも呼んでいるように、新王朝が旧王朝の財産を引き継ぐという意味で陵墓の土を持ち去るということは考えられます。
ところで、大仙陵が人為的に破壊されている可能性のあることを御存知ですか。航空写真等で見る大仙陵は墳形の整った緑豊かな陵墓のように見えるのですが、測量図等によれば墳丘の大半の等高線に大きな乱れがあるとされ、特に後円部の頂上部分の崩壊が酷いと言われています。原因はいろいろと考えられますが、輪郭線にはほとんど乱れがないことから誉田陵のように地震によるものでないことは確かです。また、前方部と後円部に石棺が確認されている以上未完成であったとも思えません。後は、中世以降の城郭利用が考えられますが、どこの誰が何という城を築いたのか未だ聞いておりません。また、仮にそうであったとして城郭なりの乱れのない等高線が得られるはずです。最後に盗掘ですが、盗掘は広く行われているものです。大仙陵だけが特別に酷くなる理由には適しません。
思うに、大仙陵破壊の唯一の証言者は「記・紀」ということなのでしょう。そうすると、この古墳を損なわせたのは顕宗と仁賢の兄弟ということになり、この古墳の後円部には雄略が眠り、前方部には清寧が眠ることになります。どうやら、大仙陵の次に来る王墓と継体大王墓とは同じもの、つまり河内大塚山古墳がそうであるのかもしれません。…その真偽はともかく次の図に移りましょう。
古墳の差別化
個々の古墳の向きについては、東西に合わせるとか、海岸線に合わせるとか、道路の向きや地形に合わせるとか、その他いろいろと指摘できますが、古墳群の向きについては如何でしょうか。無論、先ほど挙げたどれかに当てはまると言われれば、確かにどれかには当てはまるでしょうが、しかし、すべての古墳を同じ向きに揃えるというのはどういった理由によるものでしょうか。
百舌鳥古墳群は、古墳の向きによりAとBの2つのグループに分けられます。Aのグループには巨大古墳が2基もありますが、Bのグループには巨大古墳が1基もありません。 単純には、本家のグループと分家のグループと呼べなくもないのですが、なぜグループの形を取るのかが分かりません。しかし、ここにはある意味での格差の臭いがします。それは、力の格差とは違ったもっと別の意味での格差です。
力の格差は古墳の大小に既に表れています。しかし、古市古墳群には力の格差による差別化はまだ起こっていません。ここでは、大小の古墳が、おそらく地形に無理なく合わせてのことだと思いますが、思い思いの方向に墳丘を横たえています。巨大な誉田陵でさえも小さな先輩の傍に行儀良く鎮座をしています。思うに、古市古墳群に誉田陵が築かれた時期は、一族一丸となって遠征を繰り返していた倭の五王の最後の時代ではなかったろうか。また、百舌鳥古墳群に大仙陵の築かれた時期は、増大しきった一族がいがみ合いを始める時代の幕開きとも呼べる次期に当たるのではないだろうか。
時の流れは一切を無常とします。昨日の友は今日の敵。時の流れは無情でもあります。応神天皇五世の孫も五世を過ぎれば即家来となります。五世代を時間に直せば百年ほどでしょうか。身内も百年経てば相争う関係となる。百年とはそういう時間のことであり、五世の孫という言い方もそうした経験から生まれたものなのでしょう。ところで『紀』は継体の即位を507年としています。この100年前は400年の初頭に当たります。この時期は倭の五王の活躍し始めた時期と丁度重なります。421年には、倭王讃が宋に朝貢しおそらく六國諸軍事安東大将軍の称号を求めたものと思われます。この要求は武の代まで続きます。その背景にあるのは自国倭の国力への自負からでしょう。
巨大古墳の行方
思うに、古墳の造営は国にとっても民にとっても何の利益ももたらさないある種の贅沢行為と言えます。しかも、この造営には莫大な資金が必要となります。しかし、「記紀」には古墳造営に関しての民の不満の記事は何故かありません。そもそも、斉明天皇の土木工事に不満を漏らすほどの『紀』です。これは不可解なことです。しかし、それらの資金の大半を海外からの収入によるものだとしたらどうでしょう。国の懐は傷まず、労働に従事した庶民にも何がしかの代価は支払われる。無論きつい労働であり、庶民が手放しで喜んだとも思えないが、不満はなかったであろうと。無論これは想像に過ぎません。
倭王武の上表文には、"昔より祖禰みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉し、寧処にいとまあらず。東は毛人を征すること55国。西は衆夷を服すること66国。渡りて海北を平らげること95国" とあります。海北とは海外つまり朝鮮半島のことです。なお、当時の征服とか平らげるとかを軍事的あるいは政治的に捉えることは私には出来ませんので、ここでは単に何らかの税の取れる状態のことだとでも捉えておきましょう。そうすると、倭王は国内の121国と半島の95国とから収入を得ていたことになります。こうした状態がいつ頃まで続いたかは分かりませんが、少なくとも大仙陵築造前までは続いていたと思われます。
周知のように、大仙陵を盟主とする百舌鳥古墳群を最後に、巨大古墳を盟主に持つ古墳群は形成されなくなりました。終末期古墳では卓越した規模を誇る二つの巨大古墳、河内大塚山古墳と見瀬丸山古墳はどちらも古墳群を形成しない孤高の墓です。大王に権力が集中した結果には違いないが、ただそれだけではないようです。半島からの収入が断たれてもいるのです。思うに、半島からの収入によって巨大古墳と古墳群は形成された。仮に、巨大古墳を墳丘長300m以上のものとした場合、巨大古墳の中で最も古い位置に来る柳本古墳群の渋谷向山古墳の造営は5世紀を遡ることはなくなるのかもしれません。
ところで、534年と535年のわずか二年間ほどの安閑紀は、その記事のほとんどを屯倉の設置や献上の話で終始しています。屯倉は王家の収入源です。532年以降半島の権益のほとんどを失った倭王にとって自国の屯倉を増やすことは緊急の課題だったと見えます。では実際どのように対処したのであろうか。記事では地方豪族が何がしかの理由で屯倉を献上したことになっています。例えば、武蔵国の場合は国造の地位をめぐって笠原一族の使主(おみ)と小杵(おき)が争いを起こしています。これを朝廷が裁断し、使主を国造として小杵を処罰したため、使主は畏まるとともに喜んで屯倉を献上したとあります。
話の内容だけでは使主と小杵とがどういう関係にあるのか分かりかねますが、もし埼玉古墳群が三つのグループ、図ではABCに分けられることと関係しているのだとしたら、これらのグループ化は派閥、おそらく嫡流と庶流による対立が原因で進められたということになります。思うに、百舌鳥古墳群形成の時期、畿内に於いても地方に於いても同族間の差別化が明瞭となっていたと思われます。埼玉古墳群にこの特徴が顕著なのは、やはり天下佐治の乎獲居臣の存在によるものでしょうか。また、墳形にいち早く大仙陵プランを取り入れているのもこの一族が中央に深く食い込んでいたことの証とも見えます。
差別化がなぜ起こったのか、あるいは差別化することによって一族の財産の拡散を防いだのか、それとも偏に主家の欲によるものか、それは分かりませんが、ある時期を境に倭の膨張も、そして古墳の膨張も止まったことだけは確かです。
さて、辛亥年以前の大王墓とは即ち大仙陵以後の大王墓ということです。大王墓の大きさを決めるのは大王の力です。確かに、半島における大王の力は低下の一方をたどっています。しかし、国内における大王の力はむしろ増大しています。差別化によって内紛や王朝の交代という弊害に遭ったとしても、差別化が中央集権への道を拓いているのです。
ところで、武蔵国の紛争中、小杵が助力を求めたのは上毛野です。これには二つほどの意味合いがあります。一つは、当時の地方では朝廷よりも地方の豪族の方が有力であったということです。もう一つは、武蔵国は嘗ては毛野国の領域であった可能性があるということです。しかし、いずれにしても小杵は処罰されています。安閑紀全体に言える事は朝廷の力の地方への浸透ということでしょうか。なお、話では上毛野が処罰を受けた気配はありませんが、これは上毛野三千が天武朝での帝紀と上古の諸事の校訂に携わっていたことによるものと思われます。また、この時期こうした身内の争いは各地で起こっていたはずです。武蔵国の話が取り上げられているのも上毛野三千によるものと思われます。
さて、大王の力というものはいつの時代に於いても大王の力です。治世の長い大王も治世の短い大王も有する大王の力は同じです。古墳時代に君臨したのが大王なら、大王墓は最初から最後まで巨大であったと言うほかはありません。もし、仮に墳丘長300m以上を巨大とした場合、300m以下の古墳は大王墓ではなくなります。なお、300mという数値は漠然としたものではありませ。最後の巨大古墳、見瀬丸山古墳の墳丘長は318mです。私論としては、これを下回るものは基本的には大王墓ではないと。そうした場合、大仙陵の次の大王墓は河内大塚山古墳となります。無論、これも私論ではありますが。
§21 古墳の分岐点。
『隋書』や『日本書紀』等が歴史の入れ物なら、墳墓は何の入れ物なのだろう。死者の歴史か、それとも単なる過去か。最近、年を取ったせいか過去のいやな記憶は思い出さなくなり、都合の好い記憶だけを選ぶようになりました。思うに、人の脳も何らかの入れ物なのかもしれません。ただ、都合の好い記憶だけを選ぶと、記憶間に時間の齟齬が生じてもいるようです。無論、これは間違いなく私の事を言っているのですが、同時に素人の目から見た今日の古代史の事をも言っているのです。
継体紀に、時間の齟齬を述べた編纂者の言葉があります。そして、編纂者はここではっきりと『百済本紀』を選んだとしています。しかし、今日の歴史家はなぜかこの内容を無視しています。この箇所は継体紀の一番の最後に当たり、最も新しい情報です。これは例えてみれば、HTML文書でのCSSの優先順序にも等しいものです。CSSでは後に組み込まれた宣言が優先されます。つまり『百済本紀』の内容はそれ以前の継体紀の内容よりも優先されるものなのです。
埼玉古墳群と百舌鳥古墳群
600年頃に大化の薄葬令のような厳しい制度があったとも思われませんが、古墳の埋葬様式に大きな変化のあったことは事実です。当時の古墳のほとんどが竪穴式から横穴式へと変化を遂げているのです。背景にあるのは、横穴式は追葬が可能という考えからのようにも見えますが、竪穴式でも墳丘への追葬は可能です、したがって、正確には追葬が易しいと言うべきでしょう。また、横穴式の場合、石室内の追葬ばかりでなく石棺内への追葬も可能となります。九州や出雲地方には横口式家形石棺と呼ばれている追葬に特化したような石棺があるそうです。
思うに、追葬に特化した横穴式や横口式の墳墓は、言ってみれば老い衰えた老人の記憶のように新旧が入り乱れて混在します。神経質な死者や、ましてや上祖の意富比垝以下8代の名前を連綿と書き綴った乎獲居臣にとって、この埋葬方式は耐え難いものだったのではないだろうか。金錯銘鉄剣の埋葬は副葬品の関係から6世紀前半を遡ることはないと言います。仮にその頃の埋葬だとすれば、前章でも述べたように県内最大の二子山古墳への埋葬が最適となります。しかし、そうとはならなかったのは、あるいは以上のような理由によるものなのかもしれません。また、そうだとすれば、被葬者は乎獲居臣本人ということになり、同時に辛亥年も471年から531年以降に引き下げなければならなくなります。
埼玉古墳群の中の大仙陵。
埼玉古墳群は、北に稲荷山古墳が5世紀後半に築かれたのを皮切りに、7世紀初頭築造 の中の山古墳まで大型古墳だけでも9基を数えています。このうち墳丘長が100mを越す
名称 | 墳丘長 | 埋葬施設 | 造営時期 |
---|---|---|---|
稲荷山古墳 | 120m | 竪穴式 | 5世紀後半 |
二子山古墳 | 138m | 竪穴式? | 6世紀前半 |
鉄砲山古墳 | 109m | ? | 6世紀後半 |
将軍山古墳 | 90m | 横穴式 | 6世紀末 |
中の山古墳 | 79m | 横穴式? | 7世紀初頭 |
瓦塚古墳 | 73m | ? | 6世紀前半 |
奥の山古墳 | 66m | ? | 6世紀中頃 |
愛宕山古墳 | 53m | ? | 6世紀中頃 |
丸墓山古墳 | 105m | ?(円墳) | 6世紀前半 |
ものが稲荷山、二子山、鉄砲山の三つの古墳で、北から南へ年代順にきれいに並んでいます。思うに、この三つは後で述べることになりますが、埼玉古墳群内では特別なもののようです。
次に、古墳群中の埋葬施設についてですが、種類の分かっているのは稲荷山古墳と将軍山古墳の二つだけと聞きます。その他は推測するしかないのですが、稲荷山古墳が竪穴式で将軍山古墳は横穴式ですから、少なくともそれらに直近の二子山古墳と中の山古墳の二つだけはそれぞれ竪穴式と横穴式とに推定できそうです。
鉄砲山古墳は竪穴式のグループと横穴式のグループとの丁度中間に位置しどちらとも言えないのですが、墳丘長100mを越す古墳で、しかも稲荷山古墳や二子山古墳とは墳形が同じとされています。また、この三つの古墳は、一説では百舌鳥古墳群の大仙陵古墳をモデルとした縮小版とも言われています。そういう意味では、鉄砲山古墳は竪穴式と言えなくもないのですが、横穴式の可能性もあります。それは、稲荷山から二子山にかけて墳丘は拡大していますが、二子山から鉄砲山にかけては縮小をしているのです。これはオリジナル版とされる大仙陵古墳についても言えることです。大仙陵は日本最大です、つまり本墳を境に日本の古墳は縮小に転じているのです。
縮小に向かう古墳。
大仙陵古墳は5世紀前半から半ばに築造されたとされています。二子山古墳は6世紀前半とされていますから、この二つは時期的には合わないようにも見えます。しかし、大仙陵には5世紀後半という説もありますし、複数の埋葬施設があることもまた確かです。そ こで、大仙陵をⒶⒷ二人の大王の陵墓とし、Ⓐ大王の死後Ⓑ大王が築造をするという慣例を想定した場合、次の陵墓はⒹ大王が築造することになり、ⒸⒹ二人の大王が眠ることになります。また、Ⓑ大王を葬るのはⒸ大王ですからこの時期が5世紀後半であったとすれば、大仙陵5世紀後半説もありうるものとなります。
思うに、拡大を続けていた古墳が縮小に転じる場合、もし前方後円墳が全国的な制度の下で造営されていたなら、当然その縮小に転じる時期は全国同時であったと考えるべきでしょう。図ではⒹ大王の時この取り決めが出来、その最初の陵墓として河内大塚山古墳を挙げていますが、以下これについて話していくことになります。
先ず、大仙陵古墳に続く王墓を探してみなくてはならないのですが、探すに先立ってどの程度の規模に縮小されているのか、埼玉古墳群の例を参考にしてある程度の目安をつけておきましょう。二子山古墳が138mで鉄砲山古墳が109mですから、およそ80%ほどに縮小されていることになります。そうすると、大仙陵が486mありますから、その80%というと、およそ380mほどになります。百舌鳥古墳群の中で380m近くの古墳を探すと履中天皇陵とされている上石津ミサンザイ古墳360mが見つかります。しかし、これは大仙陵よりも古いとされているため、除外するほかありません。
次に目につくのが、全長290mの土師ニサンザイ古墳です。築造時期も5世紀後半となかなか好いのですが、これには三つほど問題点があります。先ず、大きさが60%を切ることです。次に、古墳の向きが大仙陵グループとは違っていることです。最後に、墳形プランも大仙陵とは少し違っていることです。大仙陵は全長486m、後円部径245m、一桁めを切り捨てても繰り上げてもその比は2対1となります。本墳は後円部径が150mですので、その比は 1.93対1ほどになります。しかし、これは或はむしろ好い方なのかもしれません。
墳形のプラン。
百舌鳥古墳群の大型墳のなかで、全長と後円部径との比が 1.9対1ほどになるものが他に二つほどあります。反正天皇陵とされている田出井山古墳148m/76m(1.95:1)と御廟山古墳186m/95m(1.96:1)です。これらは土師ニサンザイ古墳同様、大仙陵よりは新しいとされている墳墓です。そこで、同じか古いとされているものの比を取って比べてみますと、上石津ミサンザイ古墳360m/205mでは、1.76対1。大塚山古墳168m/96mでは 1.75対1。乳岡古墳150m/94mでは1.6対1。イタスケ古墳146m/90mでは 1.62対1となります。
以上のように、百舌鳥古墳群の大型墳は、大仙陵の後とそれ以前とでは全長と後円部径との比がかなり違っています。今日、墳形のプランとして、大仙陵タイプと誉田陵タイプの二つが知られています。誉田陵タイプというのは、応神天皇陵とされている誉田御廟山古墳から得られた全長と後円部径との比、1.67対1の前後の墳形のものを指します。
思うに、今日我々が前方後円墳を当たり障りもなく前方後円墳と呼べるのは、前方後円墳を前方後円墳たらしめる共通の墳形プランがあるからに他ありません。左はその理想とされるものです。ただし古代での事、このプランを正確に地面の上にかき写せたかどうかは疑問です。したがって、墳丘長等のデータはあくまで参考値とするべきものです。
ところで、同じ前方後円墳でもその大きさには無段階とも言えるほどの違いがあるようです。通説では身分による墳丘長の制限があったとされています。しかし、薄葬令に於いても王・上臣・下臣・仁冠・礼冠の5段階しかなく、冠位十二階以前では墳丘を築ける身分は金・銀・銅の三階級ほどだけであったようにも思われます。また、「魏志倭人伝」には邪馬台国には4官があったとされていますが、身分差を表わす記事には大人と下戸しか見えず、基本的には君・臣・民よりなる社会構造としか読み取れません。それになにより、古墳にそうした身分に基づいた制限規則を設けなくても、墳丘の大きさには自然と違いが生じる社会環境が当時既に整っていたようにも見受けられます。
墳丘の大きさを決める最大の要因は、その役夫の動員数にあります。薄葬令の5段階は実にこの役夫の動員数の5段階の制度なのです。『隋書』に、倭には貴人の死に臨んでは3年間外で殯りをする慣習があるとあります。3年の殯りの慣習がいつの頃よりあるのかはわかりませんが、倭王武の上表文に "諒闇" という言葉があります。諒闇というのは正に殯りのことで、倭王武の頃にはそうした慣習が既に出来上がっていたと思われます。殯りの期間は後世になればなるほど短くなるようですが、古墳時代には少なくとも3年以上の殯り、つまり古墳造営の期間はあったはずです。そうすると、一日に何人の役夫を動かせるかが墳丘の大きさを決める唯一の要因となるわけですから、何も豪族間に無駄なストレスを引き起こすかもしれない幾段階にも分かれる墓制制度を無理に制定する必要はないわけです。思うに、通説の言うような墓制制度の無かったことが、大仙陵プランや誉田陵プランの存在につながっているようにも見えます。
国家が定めた陵墓の指定、専門家のみならず多くの人がこれを疑っています。しかし、大仙陵と誉田陵を疑う者は一人もいないと思います。さて、この二つの大王墓、体積は同じだとも言われています。ところが、誰もが大仙陵を日本一大きな古墳だと言います。これはある意味では不本意な結果とも見えます。既に述べているように古墳の大きさを決めるのは役夫の動員数であり、その仕事総量つまりは運んだ土砂の総量によるものです。したがって、計算上この二つの大王墓は同等なのです。
大山古墳 | 誉田山古墳 | |
---|---|---|
墳丘の長さ | 475~486m | 415~430m |
後円部の径 | 245m | 267m |
後円部の高さ | 34m | 36m |
前方部の高さ | 34m | 35m |
表面積 | 104,130㎡ | 111,850㎡ |
総容量 | 145,866㎥ | 143,396㎥ |
左は、昭和56年有斐閣選書『探訪 日本の古墳 西日本編』森浩一編よりのデータの引き写しです。
この数値からも分かるように、大仙陵は誉田陵より2.5%ほどの上積みがあります。しかし、両者の間には少なくとも10年以上の時間差があります。2.5%という数は当時のインフレ率にも満たないものかもしれません。また従来通りの墳形プランでは、2.5%の上積みを地面の上にも図面の上にも生かすことは出来ないでしょう。
ところで、いつも感じることですが、古墳の馬鹿でかさには本当にあきれます。何故こんなにも大きくするのか理解に苦しみます。しかし、古代人がとにもかくにも古墳を大きく見せようとしていることだけは良く分かります。例えば古墳のはしり、山陰から北陸にかけて見られる四隅突出墳丘墓、さらには岡山県倉敷市の楯築墳丘墓、これらは墳丘の形を大きく変えることの分かっている作業道を残したままの状態を墳形としています。このことは、古代人が墳丘の形にではなく大きさにこだわっていることを示しています。要するに作業道を残せば、その分だけ墳丘は大きく見えるのですから。
前方後円墳を円墳築造過程での作業道を残したものとは言いませんが、同じ容量を用いて大きく見せる方法は作業道、つまりは前方部を引き伸ばす方法が一番のようです。柄鏡式と呼ばれている前方後円墳は正にこれの典型ではないかと。大仙陵と誉田陵は容積においてはほとんど変わりませんが、墳丘長では1割以上の開きがあります。つまり大仙陵は大きく見せるために前方部を引き伸ばしたのです。
古墳時代、古墳の大きさを決めたのは墳丘長の制限ではなく、豪族が動員できる役夫の数によって自然と決まったものなのです。さて、そこでもう一度本題に戻り、そして新たな条件を付け加えてみましょう。つまり、大仙陵タイプの80%と誉田陵タイプの80%とはほとんど同じであると。
誉田陵の墳丘長は415~430m。これの80%は332~344m。実は、大仙陵と誉田陵との中ほどに332~344mの墳丘長を持つ古墳が一つだけ存在します。河内大塚山古墳335mがそれです。
§20 歴史の分岐点。
太安万侶の道標、素人の案内でかえって道に迷ったかもしれません。実は、斯く申す私も陰陽の道に太安万侶の道標があるのか、それとも太安万侶の道標に陰陽の道があるのかが分からなくなってしまいました。しかし、それはどちらでも好いことです。歴史の道を歩く上で肝要なのは、その分岐点に来たときです。分かれ道には塞の神の力が働いています。右へ行くか左へ行くか、どちらか一つに決めなければ歴史の道を歩いたとは言い得ません。たとえ、迷うことになるとしてでもです。それに、それが素人の特権というものでもあります。この特権の行使なくしては、素人の素人としての役目は果たせません。
歴史の入れ物
古代史の分岐点の一つに推古紀があります。これを煎じ詰めると、『日本書紀』を取るか『隋書』を取るかという問題につき当たります。利口な歴史家はこれを避けて通りますが、愚かな素人はどちらかを選びます。私は『隋書』を選びました。そして、『隋書』を選んだ以上、当然法隆寺金堂の金石文について一言述べなくてはならなくなりました。なぜなら、この金石文の解釈が『隋書』によって従来のそれとは違ってくるからです。
思うに、歴史の分岐点には必ず歴史の入れ物が落ちています。『日本書紀』や『隋書』や光背、そして鉄剣等です。どうやら、一言では収まりそうにありません、
光背と鉄剣。
法興元丗一年歳次辛巳十二月、鬼前太后崩。明年正月廿二日、上宮法皇枕病弗悆。干食王后仍以労疾、並著於床。時王后王子等、及與諸臣、深懐愁毒、共相發願。仰依三寳、當造釋像、尺寸王身。蒙此願力、轉病延壽、安住世間。若是定業、以背世者、往登浄土、早昇妙果。二月廿一日癸酉、王后即世。翌日法皇登遐。癸未年三月中、如願敬造釋迦尊像并侠侍及荘嚴具竟。乗斯微福、信道知識、現在安隠、出生入死、随奉三主、紹隆三寳、遂共彼岸、普遍六道、法界含識、得脱苦縁、同趣菩提。使司馬鞍首止利佛師造。
以上は法隆寺金堂釈迦三尊像の光背に彫られている銘文です。
この銘文の解釈ですが、従来通りですと、鬼前太后は上宮法皇の母親となります。しかし、『隋書』を優先させれば、鬼前太后は現大王の母親、つまり上宮法皇の皇后となります。また、干食王后は現大王の前皇后となり、銘文の "時王后王子等" の王后は現大王の新しい皇后ということになります。そもそも、最後の一文 "使司馬鞍首止利佛師造" が述べているように止利佛師を使ってこれを作らせたのは現大王なのです。現大王こそがここでの主役なのです。なお、上宮法皇の上宮は上の宮の意味ではなく上祖の上に近い意味を持っていると見るべきです。
さて、銘文によればこの法皇は法興という元号を持ち、その32年2月22日に亡くなっています。この王が仏徒であることは明白で、おそらく仏徒になったその年を記念して法興という元号をつけたものと思われます。ところで、その年、つまりは法興元年ですが、実は591年辛亥の年に当たるのです。辛亥年、しかも仏教とくれば、考古学に興味のある者なら必ず稲荷山古墳(埼玉県行田市埼玉古墳群内)出土の金錯銘鉄剣(稲荷山鉄剣)を思い浮かべるのではないだろうか。この鉄剣には次のような銘文があります。
辛亥年七月中記、乎獲居臣、上祖名意富比垝、其児多加利足尼、其児名弖已加利獲居、其児名多加披次獲居、其児名多沙鬼獲居、其児名半弖比
其児名加差披余、其児名乎獲居臣、世々為杖刀人首、奉事来至今、獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時、吾左治天下、令作此百練利刀、記吾奉事根原也…①
以上は鉄剣の両面に表わされた金錯銘文を片面ずつ二段にして示したものです。
周知のように、この銘文の辛亥年については471年が通説となっております。その他としては、一部に531年という意見があるのみです。それをここでは591年とするのですから、妄想の極みと受けとられ兼ねないことになるとは思いますが、これもまた歴史の道の分岐点、避けていたのでは先には進めません。ただし、古墳そのものの年代を引き下げるのはあるいは難しいのかもしれません。しかし、話を先に進めましょう。
銘文に "獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時" という一文があります。「獲加多支鹵」を地名とした場合、文中の「寺」は王の名前となります。また、「獲加多支鹵」を通説どおり「ワカタケル」という名前とした場合、「寺」はいわいる寺院の寺と通説の云う役所という意味を持つ寺との二通りの解釈につき当たります。ここにも歴史の道の分岐点があります。辛亥を591年とした以上ここでは寺院の寺を選ぶことになります。なお、「ワカタケル」を一般名詞とした場合、「寺」は王の名前となりますが、江田船山古墳出土の鉄刀銘の例もあり、通説どおり「ワカタケル」は王の名前とします。以下参考のため、熊本県玉名郡和水町江田船山古墳出土の鉄刀銘を加えておきます。
治天下獲□□□鹵大王世、奉事典曹人、名无利弖、八月中、用大鉄釜、并四尺廷刀、八十練、九十振、三寸上好刊刀、服此刀者、長寿子孫洋々、得□恩也、不失其所統、作刀者、名伊太和、書者張安也…②
なお、金石文字の判読は専門家にも難しいそうです。また、文の解釈にしても専門家間に相違が見られます。したがって、素人が口出しを出来る範囲は極めて限られています。しかし、それでも口を出したがるのが素人です。もうしばらくお付き合いの程を。
稲荷山鉄剣の主は乎獲居臣。読み方は「ヲワケ」と読むのだそうです。彼は自らを臣と名乗っていますが、ここでの臣というのは、君(きみ)、臣(おみ)、民(たみ)といった一般名詞のうちの一つにすぎず、後世の階級的な違いを表わすようなものではなかったと私は見ています。と言うのも、同じ臣姓ありながら明らかな階級差が認められるからです。
各田卩臣□□□□□大利□…③
上は、島根県松江市大草町岡田山1号墳出土の鉄刀の銘文のうちの判読可能な部分とされたものです。「各田卩臣」の読みは額田部臣(ぬかたべのおみ)だそうです。この額田部臣がこの鉄刀の所有者だとすれば、乎獲居臣との間に明確な格差が存在します。実は、額田部臣の鉄剣の銘文は銀象嵌によるものであるのに対し、乎獲居臣の鉄剣の銘文は金象嵌によるものなのです。つまり、同じ臣でありながら金と銀の違いがあるのです。
推古紀19年の記事に、菟田野の薬猟の時、大徳と小徳は冠の飾りに金を用い、大仁と小仁は豹の尾を用い、大礼以下は鳥の尾を用いたとあります。また、推古紀31年の記事によれば、小徳は将軍、特に副将軍の冠位となっています。あるいは、杖刀人首である乎獲居臣は大徳クラスということになるのかも知れません。また、江田船山鉄刀の場合は銀象嵌ですから、この持ち主の典曹人の无利弖は小徳よりも低いクラスの官人ということになります。察するに、この无利弖の上には典曹人首がいることになります。つまり、首が付くか付かないかで金象嵌になるならないの違いが生じたことになります。首とは将軍以上、大臣クラスの長官ということなのでしょう。
さて、金と銀が出ました。オリンピックではありませんが最後に銅が出なくては話は終わりません。
戊辰年五(月中)…④
兵庫県養父市八鹿町小山箕谷2号墳から待望の銅象嵌による銘文を持つ鉄刀が出土しています。上がその銘文のすべてです。なお、養父は(やぶ)、八鹿は(ようか)、箕谷は(みいだに)と読むそうです。銘文は、稲荷山鉄剣と同じように作刀年の干支紀年を持ちますが、刀身の柄寄りの部分に「戊辰年五(月中)」としかありません。思うに、単に戊辰年を記念してのものなのかと興味の引くところです。そこで、法興の年号内での戊辰年を探してみますと、608年がそれに当たることになります。なお、()内は推定文字です。
墓制の分岐点、前方後円墳の消滅。
『隋書』に、「大業三年(607)、その王多利思比孤、使を遣わして朝貢す」 とあります。また、「明年(608)、上、文林郎裴清を遣わして俀国に使せしむ」 ともあります。そう、戊辰年は卑弥呼以来数百年の年月を隔てての中国の使者の訪れた年なのです。多利思比孤は仏法を興した年を記念して法興という年号を作り、隋の使者の訪れたことを記念して戊辰年銘大刀を作った。そして、戊辰年銘大刀は使者の来訪に功績のあった大礼以下の官人に与えられたもの、とも思えます。そして、そう思えば、辛亥年銘鉄剣の主乎獲居臣は、大王が仏法を興し斯鬼宮に寺を建てたのを記念してこの剣を作ったということになります。
古墳の考古学的年代にこだわらなければ、銘文を持つこれら四つの剣あるいは刀が、素人の稚拙な物語で法興の年号内に収まります。なお、法興という年号は『隋書』には記載がなく、公の年号ではなかったものと思われます。このことは、仏教そのものが公のものではなかったことを意味しています。それは、『隋書』のなかに寺院についての王との会話や報告の記載がないことにも現れています。おそらく、裴清の来日した608年の時点では堂塔の揃った寺院は未だなかったのではないだろうか。そのせいか、辛亥年銘鉄剣は、大王の寺は斯鬼宮に在るとしています。
さて、年代にこだわらなければ、とはしましたが、こればかりは避けては通れそうもありません。先ず辛亥年銘鉄剣の稲荷山古墳ですが、この造営時期は5世紀後半とされています。ただし、この鉄剣が出た礫槨の場所は後円部の中心を外れた前方部寄りの所にあるため、この礫槨に埋葬された主は本墳の真の造墓者ではないとされています。また、礫槨出土副葬品の編年から鉄剣の主は6世紀前半頃に追葬されたと考えられています。
要するに、通説の471年というのは、6世紀前半に礫槨に埋葬されてたのは鉄剣を引き継いだ乎獲居臣の子供の誰かというもので、雄略(ワカタケル)天皇の治世に合わせての471年と推察できます。ここにも歴史の入れ物、そして分岐点があったようです。慎重な専門家と雖も、ワカタケルの誘惑には抗しきれなかったようです。
思うに、古墳の編年や副葬品の編年はその指標となる基準年が変わればすべてが遡ったり降ったりします。ただし、その相対的な年代は変わりません。ここでの場合だと、5世紀後半と6世紀前半との差の半世紀、つまり50年という差です。この差に注目した場合、天下を佐治した乎獲居臣の子孫が50年ほどの間に、しかも古墳時代真っ只中の6世紀前半になぜ新しい前方後円墳が造営出来なくなったのかという疑問が浮かんでまいります。
稲荷山古墳は埼玉古墳群内中最も古い古墳とされています。大きさは二子山古墳に次いで2番目を誇ります。乎獲居臣の子孫がこの古墳に強いてこだわったとも考えられますが、実は二子山古墳は6世紀前半の造営とされているのです。つまり、乎獲居臣の子孫が築いたとすればこの古墳が最適なのです。しかし、通説にこだわる限り、そうとはなりません。通説にこだわれば、彼らは没落したことになる。しかも、それだけでは済まなくなります。そう、鉄剣ばかりでなく、副葬品そのものが先代のものである可能性が出てきます。つまり、この礫槨の年代を決めた副葬品そのものが二次的なものとなってしまうのです。
ところで、前方後円墳消滅の時期について考えたことはないだろうか。1990年発行というから随分と昔ですが、人物往来社から『前方後円墳の消滅』という本が出版されています。本の内容は、関東地方の前方後円墳は600年を境として消滅したらしいというものです。600年はともかく、前方後円墳と同時に巨大古墳が何時の時期か消滅したことは事実です。畿内では、見瀬丸山古墳を最後に前方後円墳と巨大古墳は姿を消しています。その理由を素人なりに探ってみますと、冠位12階にたどりつきます。
察するに、この冠位の出来た時期は、おそらく遣隋使を派遣する前年の599年ではないかと。『旧唐書』によれば、日本は貞観22年(648)を最後に長安3年(703)までの間遣唐使の派遣を中止しています。派遣を再開したのは、『続紀』によれば律令制定の翌年大宝2年となっています。思うに、国家の体裁を整えた上で中国に使者を派遣する、あり得ることではないだろうか。そうだとすれば、600年の遣隋使の派遣は、その前年に国家の体制を整える何らかの制度が完成したことを受けてのものだったということになりはすまいか。そして、その制度の中には冠位12階を含む諸々の制度、当然墓制等もあったのではないのかと。
多利思比孤の墓制によって、600年を境として墓のあり方が変わってゆく。乎獲居臣はこの過渡期の最中に死亡したのではないのか。そして彼は、その永眠の地を最も大きな二子山古墳ではなく最も古くて由緒のある稲荷山古墳としたのではないだろうか。無論、彼の死を600年前後としたのでは、副葬品の編年との整合が壊れます。しかし、副葬品の中には6世紀末から7世紀初頭築造の古墳からの出土品と同型あるいは同類の物もあるのだそうです。
墳墓は、生前から築く寿陵の外はその主の死後築かれます。その時、もし大化の薄葬令のようなものが突然出されたとしたらどのようなことになるだろうか。乎獲居臣は大徳のクラスです、薄葬令によれば使役できる人員は500、期間は5日間だけです。さて、これでどれほどの墳墓が築けるのだろうか。ちなみに、仁徳天皇陵は完成までに15年と8ヶ月、総員数680.7万人を要すると大林組が算出しています。
600年当初に思いをめぐらしてみると、先ず目に入ってくるのが横穴式石室です。さきたま古墳群内で、横穴式と確認されているのは将軍山古墳のみです。さて、どうするべきか。
§19 陰陽という入れ物。
古代人はすべてのものを陰と陽とに分けました。転じれば、すべてのものが陰と陽とに分かれるとなります。前章では太陽を陰と陽とに分けて、八咫烏と金鵄をそれぞれ太陽と月とにしました。それなら、月を陰と陽とに分ければどうなるのか。あるいは、そう皮肉られるかもしれません。実際、これも太陽と月とになります。何とはなく可笑しいようにも思えますが、これは一種の代数です。実際の代数はもっと可笑しなものです。代数方程式は、すべての方程式には解つまり答えがあるとしてこれを解いてゆきます。そのために本来は答えではないものが答えとして出てきます。それは虚数と呼ばれています。虚数と実数、それは陰と陽との関係よりも不可解なものです。しかし、これには複素数としての使い道があります。
入れ物を運ぶ者。
入れ物としての陰陽。
さて、太一(北極星)を陰と陽とに分けるとどうなるか。無論、これも陰と陽とになります。しかし、月と太陽とになるわけではありません。おそらく、天皇大帝と紫微大帝とになるとおもいます。なぜなら、天皇大帝は兄で紫微大帝はその弟だからです。周知のように、日本は昔より甲子を "きのえね" つまり "木の兄子"と呼び、乙丑を "きのとうし" つまり "木の弟丑" と呼んできました。干支を "えと(兄弟)" と呼ぶのはそのためなのです。ここには、兄が陽で弟が陰だとする考え方があるのです。
えと(兄弟)は、十干を陰陽五行に割り振った結果生まれたものです。しかし、転ずれば五行を陰と陽とに分けたとも言えます。つまり、X=YをY=Xとして解くわけです。ちなみに木行を陰と陽とに分ければ、"木の兄" と "木の弟" になります。これは代数式の解き方ですが、こうした方法を用いれば善も陰と陽とに分けることが出来るようになります。善の場合は、"善の兄" と "善の弟" ということになります。代数式が古代になかったことは確かですが、しかし、そうした考え方あるいはやり方はあります。
神武紀に、兄猾(えうかし)・弟猾(おとうかし)と兄磯城(えしき)・弟磯城(おとしき)という二組の兄弟が、それぞれの土地の支配者として神武の前に現れたとあります。実は、これがそのやり方なのです。前者は宇陀の支配者を陰陽に分けたもの。後者は磯城の支配者を陰陽に分けたものなのです。その証拠に、どちらの兄も神武と対立し滅ぼされていますが、どちらの弟も神武に従ってその地域の支配者として認められています。弟が神武に従ったのは陰という性情からです。陰には柔順さらには従順という性情があります。逆に、陽にあるのは剛健さらには強健なのです。
また、祟りすなわち神、神すなわち祟りという考え方もあります。神功紀では、皇后は夫に祟った神の名を探して斎宮にこもっています。何処の何という神かと分かれば、祭り方もまた分かるということでしょう。そのため、何度も神の名を探しています。なお、神功を卑弥呼とするわけではありませんが、あるいは卑弥呼は自然の中から神々の名を探し出し、そして誰もが納得する方法でこれを祭る。もしかしたら、彼女はそうしたことに長けていたために女王に擁立されたのではないだろうか。それはともかく、古来より人は答えが最初からあるとする代数的考え "X=Y⇔Y=X" のXとYという入れ物にありとあらゆる物を放り込んできているようにも見えます。
八角墳と刳り抜き型石槨。
古代、人は八角形の中に、神や仏や生者や死者を何の躊躇もなく放り込んでいます。八角形は易の形であり、蓮弁の形であります。古代人は、八角形の中に浄化や昇華の世界を垣間見ていたのかも知れません。
大阪府の寝屋川市に、石宝殿古墳という刳り抜きタイプの横口式石槨を持つ古墳があります。このタイプの石槨は、飛鳥の石造物の一つ、鬼の爼・鬼の雪隠等を含め、今のところ全国で四例ほどが確認されているだけという大変珍しいものです。しかも、当古墳は八角墳の可能性があるともされています。もしそうだとすれば、牽牛子塚古墳の八角とのかかわりを考えてみる必要があります。無論、八角墳は必ずしも特別なものではないとも言われてはいます。しかし、このタイプの石槨との組み合わせは非常に珍しいと言う他はないでしょう。八角墳は、天武系あるいは斉明系天皇の陵墓の形とも言われています。その原型が、この石宝殿古墳ではないのだろうか。
斉明の墓との呼び声が益々高まる牽牛子塚古墳、本墳には四例ほどしかない刳りぬきタイプの横口式石槨の中ではとりわけて巨大な石槨が用いられています。合葬を目的としているため一つの巨大な石槨に二つの石室が刳り抜かれています。それがために非常に巨大なものとなったようです。基本的には石宝殿の石槨と同じタイプに属しますが、石宝殿等の石槨が上下組み合わせ方式であるのに対し、牽牛子塚古墳は巨大な一つの岩を刳りぬいて造ってあるという違いはあります。そういった点では進歩したとも言えますが、あるいは単に天皇版というだけのものなのかもしれません。と申しますのも、先ほども述べたことですが、これらの刳り抜き型横口式石槨の古墳は例が少なく、石宝殿より始まって牽牛子塚で終わったと言えなくもないからです。
そこで、このことを地図上に示して述べますと、寝屋川市の東端、打上元町の石宝殿古墳より始まり、斑鳩町の龍田神社の裏山、御坊山三号墳を経て、明日香村野口の鬼の俎、同村平田の鬼の雪隠に至り、同村大字越の牽牛子塚古墳で終わる、となります。おそらく、時間にして一世代もかからなかったのではないだろうか。
思うに、石宝殿古墳を築いた集団が、牽牛子塚古墳を築いた。同時に八角墳形のプランが適用された。さらに、想像力をたくましくすれば、飛鳥の巨大石造物のすべては、これらの集団の手によるものではないのかと。
次いでというわけではありませんが、勝手なことをもう一つ付け加えれば、このタイプの石槨プランは生駒山地の西麓を通る、高野街道あるいはその前身道伝いに竜田道を経て飛鳥に伝わったと思われます。ⓐ高野街道→ⓑ竜田道→ⓒ太子道→ⓓ下ツ道→飛鳥。この道順が飛鳥への最短距離となります。ただ、当時これらの道がすべて完備していたかどうかは分かりませ。しかし、牽牛子塚古墳の造営までには、ⓔの横大路を含めすべて揃っていたと思われます。というのも、二上山より切り出された牽牛子塚古墳の巨大石槨はそうした道路があって初めて運搬が可能となるからです。それはさておき、この地域の古墳で飛鳥地域に影響を及ぼしたと思われるものがもう一例存在します。
茨田の地の西を流れる淀川の対岸、摂津北部の三島平野の中央部に6世紀前半に築造されたとされる前方後円墳があります。今城塚古墳と呼ばれているのがそれです。この古墳は陵墓参考地にも入っていませんが、学会では継体天皇陵としての呼び名が高く、しかも埴輪祭祀区の規模が日本最大のものとしても有名です。しかし、何よりもこの古墳を特徴付けているのは、その前方部の中央が突出する剣菱形と呼ばれるその形にあります。
この特異な形の前方部を持つ古墳は、畿内では河内大塚山古墳と大和見瀬丸山古墳の二つが知られています。河内大塚山古墳は大阪府の羽曳野市と松原市との境界に位置し、府道堺大和高田線(長尾街道)のすぐ南にあります。墳丘規模は全国第5位を誇り、後期古墳で横穴式石室を持つと言われています。また、埴輪がないため、今城塚よりも新しく、見瀬丸山古墳よりは古いとされています。なお、本墳には大正の終わり頃まで墳丘内には人が住み、村もあったそうです。現在は陵墓参考地となっています。
見瀬丸山古墳は、名前だけは何度も出したと思います。また、巨大石室等の写真でも人に良く知られている古墳だとも思います。しかし、この古墳の扱われ方を見てみますと、共に巨大古墳と呼べる先ほど述べた河内大塚山古墳と良く似た状況におかれていたようです。本墳の場合は、江戸時代の末になって漸く天武・持統陵とされたのですが、明治の初めの中頃には即陵墓指定から外され、しかも後円部の墳丘の一部だけが陵墓参考地となるという不手際な扱をされています。とは言っても、そもそも本墳はその名前が示すように前方後円墳としてではなく円墳として長い間扱われてきたのですから、それも無理からぬことなのかもしれません。それにしても、全国で5位と6位を誇る大塚山古墳と丸山古墳が長い年月にわたって陵墓とされていないのは不思議というほかはありません。
不思議と言えば、実はこの丸山古墳を以って巨大古墳と今城塚から続く剣菱形古墳とが終焉を迎えています。そして、その丸山古墳から1,500mほど南西よりの距離に本題の牽牛子塚古墳はあります。両古墳の時間の隔たりは半世紀から一世紀までの間。時間や距離の隔たりはありますが、石宝殿古墳から続く刳りぬき式石槨がこの牽牛子塚古墳でやはり終焉を迎えています。左岸と右岸の違いはありますが、共に淀川中流域から発した古墳の文化が大和の飛鳥の地域に運び込まれて終焉を迎えているのです。それにしても、いったい誰がこの文化を運んだというのだろうか。
秦という入れ物。
寝屋川市の東の端を通る大阪府道枚方富田林泉佐野線、かっての高野街道を踏襲しているともいわれていますが、この道路を挟んで南に石宝殿古墳、北に寝屋古墳があります。 また、道路の北西、淀川に向かう一帯はいわゆる太秦地区です。この地区には太秦高塚古墳や高宮廃寺、さらには秦の河勝墓もあります。どうやら、最後の最後までも秦氏とかかわらなくてはならないようです。それでは、秦氏に関しての私論を少し述べてこの章の終わりとしましょう。
斉明天皇と秦氏とのかかわりについては少しではありますが既に話したと思います。また、丸山古墳と秦氏とのかかわりは太秦の地形で少し述べたと思います。そして、この古墳を大陵命(おおみささぎのみこと)の墓とし、仁徳(おおさざきのみこと)の時代を秦河勝の時代にまで引き下げたと思います。
『記』によれば、秦の先祖の渡来は応神天皇の時代。一方『紀』には、秦の表記はありませんが、後世秦の先祖とされる弓月君が百済より120県の人民を引き連れてきたとする記事がやはり応神紀にあります。ところで、この中の120県の120という数は、十干と十二支を掛け合わせた数で多分に作為的な数と見えます。ただ、『隋書』の多利思比孤の120軍尼制や『宋書』の倭王武の倭地の属国数121といった数にも近く、あるいはそうではないのかも知れません。
思うに、120という作為的な数を用いたのは多利思比孤が最初かもしれません。と言うのも、武の属国の121は486年の頃の事、一方多利思比孤の120の軍尼制は600年の頃の事、つまり486年から600年までの114年間、日本は全くと言っていいくらい変わらなかったことになります。これは多利思比孤が、先ほどの作為的な数にこだわって120軍尼制を敷いた為と思えます。そもそもこの王は、冠位を12階と定めてもいるのですから、軍尼制を120とするのは当然といえば当然の事ではあります。しかし、それなら弓月君の120県の人民は事実というのだろうか。
雄略紀15年に、秦の民を分散させて臣連に好きなように使わせたとあります。当時の臣連、特に臣は地域名(国名)プラス臣で呼ばれている者がほとんどで、この記事はある意味では秦の民を日本全国に散らばせたとも受け止められる内容です。そして、なぜか雄略は今度はこの民をわざわざ集めて秦酒君に与えているのです。この記事は、太秦のいわれを説く物語として雄略紀に収められているものですが、15年の条にまとめて書かれており時間的経過の把握が難しいあやふやな感じのする内容となっています。それになにより、神を神とも思わぬ雄略、人を人とも思わぬ雄略、その雄略が臣連のために秦の民を貸し与えたとも思われません。
思うに雄略は強権を発動した天皇です。彼は、逆に臣連から職能部民を取り上げたのではないだろうか。しかし、それが雄略の時代に行われたというわけではありません。あくまで強権の発動できる天皇の時代にということです。そもそも、雄略の時代は古墳造りの絶頂期、たとえ雄略といえどそれは出来なかったでしょう。そう考えれば、この時代に最も相応しいのは多利思比孤の時代、あるいはこの王の前の王の時代ということになるかもしれません。しかし、文献の都合上この王の時とするべきかもしれません。
『隋書』によれば、この王は80戸に1伊尼翼を置き、10伊尼翼で以って1軍尼とし、全国で120軍尼があるとしています。この制度は明らかに中央集権的国家のあり方を示すもので、この制度の施行に於いては土地あるいは戸とは関係のない地方豪族の職能部民の扱いが当然問題となったはずです。そして、これを解決したのが秦氏の先祖ではないかと。
弓月君は湯調君とも書けます。湯は湯沐令(皇族の領地の管理者)、調は租庸調という当時の税制の三本柱の一つ。湯に関しては私のこじつけですが、調に関しては間違いないと思います。雄略紀には、秦酒君はその部民を使って租税としての絹や縑を作らせたとあります。後世の律令制下では、調は繊維製品となっています。雄略紀15年には秦の民によって庸調が上がるようになったとありますが、これは雄略の時代ではなく欽明の時代とすべきでしょう。
欽明紀では、冒頭の天皇の出自記事のすぐ後に秦大津父の名が出てきます。そこには、欽明と大津父(おおつち)との因縁が物語られており、欽明が皇位につけたのは大津父によるものとする内容となっています。思うに、欽明の時代は、河内大塚山古墳や見瀬丸山古墳の築かれた時期に近く、7章でも述べたように大王一人に権力の集中した可能性のある時代でもあります。あるいは、大津父が地方豪族の在地の部民から調を取ることを欽明に進言したのではないだろうか。そして、このときの部民を秦の民としたのではないだろうか。時代が大きく錯誤しているようですが、『紀』の中で秦氏が蔵とかかわりがありとする記事の最初がこの欽明紀なのです。
ところで斉明天皇は、母方をたどっても父方をたどっても、実は欽明につながります。 あるいは、秦もまたそうなのかも知れません。皇極紀は茨田の池の水の様子を何かの前兆として四度にもわたって繰り返し記載をしています。この天皇には秦氏だけではなく茨田とのつながりもあるのかも知れません。思うに、茨田は万田とも出来、秦は八田とも出来ます。万も八も古代から大きな数を表わす数詞として扱われてきました。あるいは、万田とは八田のことかも知れません。その万田あるいは、八田あるいは八多という入れ物にあらゆる職能集団の民を放り込んだ結果が秦あるいは太秦なのかも知れません。