昭和は遠くなりにけり

古代に思いを馳せ、現在に雑言す。・案山子の落書・

§4.「記紀」の脊椎、下つ道を下る。

 「記紀」の編纂にあたって、安万呂はまず何をしたのでしょうか。幸いなことに、彼はその手掛かりを後世のために残しております。序文には、彼が『古事記』を撰録するとき、稗田阿礼をその道案内としたと書いております。その稗田阿礼が手がかりなのです。
 稗田阿礼については性別やその他様々の見解があるようですが、一致していることは阿礼が猿女の君の一族で大和の稗田にいたのではないかとする説です。猿女の君の先祖は、天の岩戸で有名な天の宇受売の命です。彼女は天孫の降臨の際、先頭に立って道案内をしています。
 つまり、安万呂時代の過去と今との道案内をしたのが稗田阿礼、神代時代の高天原と地上との道案内をしたのが天の宇受売の命、そういう関係になります。

 天の宇受売のように高天原と地上との道案内をすることは私にはできかねますが、稗田阿礼を手がかりに過去と現在の道案内ならできそうです。ところで稗田阿礼の性別はどちらだったのでしょうか。無論、女性です。古代において女性は道案内にうってつけだったのです。女性は陰陽五行説でいう「火行」と「水行」の二つを持つ存在なのです。だだ、稗田阿礼が存在したかどうかは私にはわかりません。それでは始めてみましょう。

記紀神話と陰陽五行

 平城宮朱雀門に立って目を閉じると、朱雀大路の向こうに羅城門、そして、その門をとおしてはるか南に延びる下ツ道が見えてまいります。この下ツ道をさらに南に下ったところに、阿礼が生まれ育った稗田の地があります。先ずは、そこへ行って見ましょう。

 1975年から1980年にかけて、ここ稗田遺跡の発掘調査が何度か行われています。それによりますと、ここ稗田の地を通る下ツ道には橋が架かり、その下には川が流れていたそうです。また祭祀関係の遺物がこの川跡から大量に出土しており、何らかの祭祀がこの橋の近辺でされていたと考えられております。また、この橋は位置的に平城京域と京外との境にあたり、京を遠く去る人、遠く京外から戻る人が何らかの祭祀を行ったのではないかとも考えられています。
 もしかしたら、当時の人にとってこの川はあの世とこの世とを隔てる川だったのかもしれません。もし、そうだとするならば、この橋はあの世とこの世とを繋ぐ橋、あるいは高天原と下界を結ぶ橋、あるいは過去と現在を結ぶ橋だったのかもしれません。

 この橋の上で安万呂と稗田阿礼は過去と現在を結び、天の宇受売はこの橋を渡って下界に下りた。安万呂が振り返れば、平城宮大極殿の中に元明天皇と皇孫聖武天皇の姿が見え、天の宇受売が振り返れば、高天原の天の石位(いわくら)の上に天照大神と皇孫邇邇芸の命が見えた。安万呂がこの橋を天の浮き橋としていたことは確かであります。その証拠に、この道をさらに南に下ると天の八街に出ます。

猿田彦と陰陽五行

 下ツ道は大和郡山市横田町あたりで竜田道と交差します。天の宇受売は、ここ天の八街で猿田彦に出会っています。『古事記』は猿田彦を、高天原と葦原の中つ国を同時に照らすことのできる神だとしています。また『日本書紀』では八十万の神がこの神を恐れて名前を聞くことができなかったとしています。
 ところで、なぜ天の宇受売はこの大神に対峙できたのでしょうか。それは女神である天の宇受売には陰(ほと)があるからです。「ほと」は火戸とも火処とも表記でき、これは陰陽五行思想の「火」にあたります。一方、猿田彦は申田彦とも書け、「申」は五行の「金」に当たります。五行思想では「金」は「火」に負けるのであります。また、神といえども陰陽五行の法則に従うほかはなかったということでもあります

 猿田彦は庚申の神とも言われています。本来、庚申信仰では、庚申の神には人間の悪業を最高神である太一に告げる役目があるとされています。無論、陰陽五行の法則に従う神もこの範疇にあります。したがって、氏神すなわち人の祖先である日本の神々は厳密にはいわゆる神というわけではないのですから、八十万の神がこの神を恐れたのもそういう理由からなのです。しかし、庚申の神にも弱点があります。それは火です。庚申の庚は五行では「金」、申は前述したように「金」、どちらも金行です。庚申の日に火を絶やしてはならないというのも、このことと関係があります。なお、前述した事と今日残っている庚申信仰とでは違いがあるとは思いますが、庚申信仰の元来の主体は竈神信仰であって、竈の火や竈の煙が庚申にかかわっているのです。
 さて、庚申信仰の本尊に青面金剛があります。この青面の青は五行の「木」に当たります。「木」からは「火」が生まれます。これも五行の考え方の一つです。実際、青面金剛の頭髪は竪に聳え、火焔の色の如しと言われています。正に木に火がついている形相です。猿田彦はこの本尊様にも負けるのでございます。猿田彦は「金行」の神、水に溺れる金槌の神でもあります。

 ところで、これまで何とはなく下ツ道を南に下るとしてきましたが、「記紀」神話でもやはり皇孫は南に下っております。実は、南に下るというのは五行では「火行」を行うことでもあるのです。「火行」を行うと「土」が生まれます。「土」には国土の意味もあり、南に下ることにより国が得られるのです。百済の建国神話でもやはり南下をして国を得たという話になっています。しかし、これは建国神話というよりも正確には五行の教えなのです。
 百済の神話では、高句麗を逃れて南下した兄弟が登場します。それぞれ国を造るのですが、兄は海岸に行って失敗し、弟は内陸に行って成功するという話です。
 これは「火行」を行うに「水行」を用いてはならないという教えです。つまり、「火」は「水」に負けます。したがって、せっかく「火行」を行った兄ですが、海岸に行くことで「水行」を用いたことになり、その結果「土」が生まれず国が得られなかったということです。
 また、「記紀」神話の海幸・山幸の話などもこの百済神話の流れを引き継いだものと思われますが、日本の兄弟は仲が悪かったのでしょうか、ついには兄弟が互いに争うという話にまで発展させております。「記紀」には五行思想にかかわる話が多く見受けられます。下ツ道より話はそれますが、少し寄り道をいたしましょう。

大国主神話と陰陽五行

 『記』神話に大国主の話があります。この話は、「海幸山幸」の話よりも五行の教えについて分かりやすく作っています。それは、この話は本来「あとなしごと」の問題だったと思えるからです。「あとなしごと」というのは天武天皇が好んで催した、今日のクイズのようなものです。おそらく、この「あとなしごと」は次のように出題されたろうと思います。

  1. 昔、兄たちと弟の大国主は、因幡の八上姫と結婚するため競って因幡に向けて旅立ちました。
  2. 因幡に至ると白兎が赤裸にされて泣いていました。兄たちは塩を振りかければいいと嘘を教え、赤裸をさらにひどくしました。
  3. 弟は兄達とは違って、先ず赤裸を真水で洗うことを教えました。
  4. また、蒲の花の黄色い花粉を振りかければいいことをも教え、元通りの白兎にしてあげました。
  5. そこで兄たちは弟を苦しめる相談をし、火で大きな石を焼き、それを赤猪だと偽って坂から転がし、弟に受け止めさせて大火傷をさせようとしました。しかし、弟はそれにも屈せず、ついに八上姫と結婚しました。

さて、それは何故でしょう。
 答えは、1.は「金生水」、2.は「火剋金」、3.は「水剋火」、4.は「土生金」、5.は「金行を行うに火行を以ってするな」となります。以下それぞれについて説明しますと、

  1. 天武の宮から見れば、因幡は西の方向にあります。西に向かうことは「金行」を行うということで、「金行」を行えば「金生水」となり、「水行」つまり女性が得られることになります。
  2. 白兎が赤裸になっているのは、「金」が「火」に侵されている「火剋金」の状態だということです。白は「金行」、赤は「火行」であります。従って、この場合まずしなければならないことは「火」を取り除くことです。しかし、兄たちはそうはしなかった。
  3. しかし、弟は「水行」を用いて「火行」を取り除いて「水剋火」とし、
  4. さらに「土行」を用いて「土生金」とし、「金行」の白を復活させました。黄色い花粉の黄色は「土行」で、黄色い花粉を振りかけるとは「土行」を用いるということなのです。

 ただし、ここまでは単に五行相剋と五行相生との関係とそれぞれの効能を示しているだけです。実はこの物語で肝心なことは次の一点、兄たちが規則を破ったということです。規則や約束を破って大切なものを失ったり元の木阿弥になったという話が神話や昔話にはよく出てきますが、兄たちもまたそうなったのです。

  1. つまり、火で石を焼くという行為は「火行」にあたります。「金行」を目指していた兄たちはその行為で「火剋金」となり、元も子もなくしてしまったというわけです。

 この問題を天武が考え出したとしたら彼はなかなかの知恵者だったと思われます。天武は仏教を奨励していますから、出題された者は、悪を行った兄たちが負け、善を行った弟が勝つという因果応報説を必ず持ち出すだろうと天武は読んでいたのかもしれません。
 なお、赤い猪は五行では成立しません。それは、猪は「水行」だからです。話を要約しますと、「火行」を行った兄たちは失敗し、それをしなかった弟は宝を得たということです。つまりここでの教えは、西へ向かうには「火行」を用いてはならないということです。
 なお、五行の「金」には宝の意味もあります。『日本書紀』は、新羅を西に偏した卑しい国と言いながら、他方で宝の国とも栲衾新羅の国とも言っています。栲衾とは白い布のことで西の意味があります。しかも、西は陰陽では陰になり、人に置き換えれば女性となります。大国主命は嫁さんと宝を得たということであります。

神武東征と陰陽五行

 寄り道ついでにもう少し述べておきましょう。神武天皇は最初の東征に失敗して、兄を失っています。「記紀」共にこの原因を日に向かって戦ったからだとしていますが、これも本来は五行の教えだったと思われます。
 その教えとは、「木行」を行うに「金行」を以ってするな、というものです。東に向かうことは「木行」、征服や争いは「金行」なのです。東征は最初から規則違反なのです。これと同じことが倭建の東征にも言えます。この東征で倭建は后の弟橘姫を失い、最後は自分も病死しています。彼の行為で五行にかなっていることは焼津で「木生火」の「火行」を行ったことだけです。
 なお、倭建は征西もしておりますので、これも分析してみましょう。征西は「金行」ですのでこれは五行にかなっています。しかし、西の熊襲は「金」となります。このままでは相打ちとなってしまいます。それで彼は女装をします。女性は「水」と「火」を持ちます。「火剋金」、これで倭建は熊襲に勝てます。
 じゃんけんのような、とんち問答のような不思議な感じがすると思いますが、当時の人にとって五行は神(多くは自然現象や物の怪、あるいは気や霊)を祭る上で大事なことだったのです。古代人にとって、神は必ずしも不可解な存在ではなく、神の行為もまた陰陽五行に基づいていると信じていたのです。したがって古代人にとって、陰陽五行に基づいて行動することが、神のご利益も得られ災いからも逃れられる唯一の方法だったのです。

五行相生は益をもたらし、災いを防ぐもの。

 たとえば、倭建のように東に行くとしましょう。東に行けば「木生火」で火が生じます。倭建は焼津で野火に遭っていますが、彼はここでは「水剋火」の「水行」は用いず、叔母から貰った火打石で「火行」を用いてこの災難から逃れています。なぜかといえば、「水行」を用いれば、「水生木」となり「木行」が生じます。「木行」が生じれば、「木生火」と再び「火行」が生じ堂々巡りとなり、災いを避けることができません。しかし、「火行」を行えば「火生土」となり「土行」が生じます。大国主命は須佐ノ男の火攻めに対し土中に潜って難を逃れています。つまり東に行く場合、「火行」の行える火打石を携帯することが陰陽五行に基づく行動なのです。
 では、西へ行く場合はどうでしょう。西に行けば「金生水」で水が生じます。倭建は西への帰途、醒ヶ井で清水に出会っています。ところで、これが洪水だったとしたらどうしますか。「土剋水」だから「土行」を用いますか。しかし、「土行」を用いれば「土生金」となり、さらに「金生水」となって洪水から逃れられません。この場合は「水行」を用います。「水行」を用いれば、「水生木」で水に浮く木が生じます。これで助かります。倭建は醒ヶ井の清水を飲むことで「水行」を用いたということになるのです。
 それなら南はどうでしょう。南にいけば「火生土」で土が生じます。ここでは国造り、つまり「土行」を用います。ところで、「土行」を用いますと「金行」が生じます。「金行」は五色では白です。倭建を御陵に葬ると白鳥が飛び出しています。埋葬も「土行」になります。
 最後は北です。北に行くと「水生木」で「木行」が生じます。この場合、宮作りが最適となります。ただし、宮殿作りであって都城造りではありません。五行に従えば北には宮があるのです。大津宮はあくまで宮であって京(都)ではありません。大津宮が過大評価され始めたのは平城京(北京)への遷都以降と思われます。
 なお、五行の方位は四方ではなく五方となります。中(央)が加わります。これは「土行」に当たり、これに向かうと「金行」が生じます。「金行」には武器の意味もあり、争いを意味する場合があります。中央に向かえば、争いが生じるのです。争いには武器、「金行」を用います。
 五方に関して述べますと、ある方位に向かった場合その方位から生じた五行を用いるのが陰陽五行に基づく行動ということになります。つまり「五行相生」を用いよということです。これは物事を「相剋」で収めてはならない、いや収まらないという教えなのかもしれません。

 聖徳太子の十七条憲法

…和をもって貴しとなし、逆らうことなきを宗とす。…

とあります。あるいは、このこととも係わりがあるのかもしれません。また、冠位十二階は五行相生の順序になっているとも言われています。
 ところで倭建の物語、これも天武の「あとなしごと」だったとしたらどうでしょう。また、なぜ倭建は息吹の神に敗れたのでしょう。