昭和は遠くなりにけり

古代に思いを馳せ、現在に雑言す。・案山子の落書・

§4.陳寿の設計図。

 「捨てる神あれば 拾う神あり」と申しますか、亡国の民陳寿にとって晋は正に拾う神そのものだったようです。陳寿にとって『三国志』あるいは『魏志』を書き上げることが晋への恩返しだったのかも知れません。
 『魏志』は30巻。「魏志倭人伝」はその30巻中の最後の巻の最後にあります。この次に来る歴史書はいわゆる「晋書」です。言ってみれば「魏志倭人伝」は、『魏志』より「晋書」へとその誉れを引き渡す栄えある役目の書であると。

漢委奴國から邪馬壹國

 前章までの段階で、奴國を伊都國に取り込み、奴國の戸数2万戸の消化が可能となり、また漢委奴國も伊都国の前身として取り込むことが可能となっています。つまり、3章の仮説図の1についてはほぼクリアーできたのではないかと。無論、未だ詰めが残されてはいますが。しかし、それはもう少し話が全て煮詰まってからの方が良いかと。
 そこで、今回は同じ3章の仮説図の2の課題について話を進めて行くことにします。そして、その課題というのは、漢委奴國⇒(倭)奴國⇒伊都國⇒邪馬壹國ということです。前章ではこれを邪馬台国の名前の変遷という風にしたと思います。

 さて、そこで話をどう進めて行くかということですが、これまでの話の都合上、つまり漢倭奴國が伊都國の前身ということであれば、後は伊都國即ち邪馬壹國とするのが順当なのですが、しかし、陳寿が「倭人伝」に伊都國と邪馬壹國とを別個の国として挙げている以上、これはこのままでは少し無理のようです。
 そこで、話は回りくどくなりますが、日本での国家の最初とされる漢委奴国について述べることから始めることにします。実は、この国を正確に把握できると邪馬台国もまた正確に把握ができるのです。
 なお、漢倭奴國については2章でも少し話をしていますので、少しばかり話の重複が、続くとは思います。

漢籍の中の倭國の流れ
- 表.4a 漢代の倭に関する文献とその時期 -
BC.108年頃 AD.57(中元二年) 107(永初元年) 倭國
大乱
238(景初2年)
分爲百餘國 倭奴國奉貢朝賀 倭國王帥升 倭女王
漢書 後漢書 後漢書 魏志

 漢委奴国という国が文献上に最初に姿を現すのは建武中元二年(57年)、後漢光武帝の時代です。その文献『後漢書』には

倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬

とあります。
 また、後漢代で倭國に関する公式外交記録としては、他には安帝の永初元年(107年)の

倭國王帥升等 獻生口百六十人 願請見

という記事があるのみです。
 ただ、この倭国と(漢)委奴国とが別の国だとする見解もあるようです。なお、(漢)奴國の表記は金印からのもので、『後漢書』では奴國となっています。また、ここに二つを併記したのは委奴国と倭奴国が同じなら、倭奴国倭国さらには奴国もまた同じとなるのではないかと思ってのことです。それは、文字というものは用途によっては省略されたり、文書形式によっては字数を揃えられたりもするからです。
 思うに、これもある種のパズルの趣旨に合わせて整形されたピースと呼べなくもありません。

 さて、倭奴国の前身については想像するほかありませんが、『漢書』の地理志に

樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云

とあります。
 このことから、倭奴国楽浪郡設置のBC108年頃には百余国中の一国にすぎなかったと思われます。
 この百余国中の一国にすぎなかった倭奴国が徐々に国力をつけ、やがては覇権を掌握して、中元二年の57年には後漢より漢委奴國王の称号を与えられています。

倭國王帥升等の国と女王國とは同一の国

 ところで、先ほど、永初元年に後漢王朝に請見を願いでた倭国王の国が中元二年の倭奴国とは違う国だとする見解があると述べました。これは、倭国倭奴国という表記の違いによるものと次のような記事が「魏志倭人伝」に載っているためと思われます。

其の國、本亦男子を以って王と爲し、住まること七・八十年。倭國亂れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王と爲す。名づけて卑彌呼と曰う。鬼道に事え、能<衆を惑わす。年已に長大なるも、夫壻無く、男弟有り、佐けて國を治む。

 上の記事は、普通次のように解釈されているようです。それは、女王国は本来男王が治めていたが、国の成立後70~80年を経た頃に国が乱れ、卑弥呼が王となるまでは歴年混乱状態にあった。そして、その卑弥呼も魏への朝貢を始めた時には、年齢は既に長大となっていた、というものです。
 さて、こういった解釈ですと、歴年と長大年齢とに凡その年数を宛がい、これに住まること七・八十年の七・八十年を加えて、その総計の数値から卑弥呼が王となった年齢の20年ほどを差し引くとこの国の凡その年齢が得られることになります。
 そこで、先ずこの国の年齢を割り出すことから始めてみましょう。それには、混乱期間を示した歴年に先ず10年ほどを宛がい、次に卑弥呼の長大年齢に70歳ほどを宛がってみます。そして卑弥呼の共立時の年齢20歳ほどを差し引くと、この国の年齢を凡そ130~140年とすることができます。
 次に、この年数を先ほど載せた表.4aに収まるように調整します。調整は10年の幅を持って示された七・八十年を72年とするだけで済みます。すると、下のようになります。

- 表.4b-
BC.108年頃 AD.57(中元二年) 107(永初元年) 倭國
大乱
238(景初2年)
分爲百餘國 倭奴國奉貢朝賀 倭國王帥升 倭女王(70歳)
165年 50年 72年 10年 50年

 どうやらこの表から、倭国王帥升等の国と倭女王卑弥呼の国とが同一の国として繋がりそうだという見通しが得られそうです。また、女王の年齢を仮にもう少し引き下げたとしても、十数年ほどの幅に治まるということでそうした見通しに何ら影響は与えません。ただし、このことは同時に倭奴国倭国王帥升等の国とがこの節の最初で述べたように同一の国としては繋がらないという事をも示しているようにも見えるのです。従って、後述する『北史』や『隋書』を活かす上での工夫が必要となるようです。

漢倭奴國と倭國王帥升等の国とは同一の国

 余談というのではないのですが、近年、巻向遺跡を邪馬台国とする説が幅を利かせているようで、邪馬台国九州説の私としては少々気にはなっています。しかし、ここでの場合は、畿内の巻向遺跡では倭国王帥升等の国との一致は望めないでしょう。それに何より、そうした説が邪馬台国の謎を解ける方向に向かわせて行っているという風には見えませんし、むしろ、逆に謎を日本中に拡散させて解けなくしてしまっているように見えます。しかし、そうだからと言って倭国王帥升等の国と倭女王卑弥呼の国との繋がりだけで、この謎が解決に向かうということではありません。思うに、もう一つを、何かを繋ぐ必要があるのです。
 実は、そのもう一つというのが、先ほど倭国王帥升等の国には繋がらないとした倭奴国なのです。しかし、そもそも『北史』や『隋書』にはこの二つの国は、繋がるとか繋がらないとか言う以前に、既に同一の国とされて記載されているのです。

漢の光武の時、使を遣わして入朝し、自ら大夫と稱す。
安帝の時、又使を遣わして朝貢す、之を倭奴國と謂う。

 以上は『隋書』に載る文ですが、『隋書』にはこれ以降にも

則ち魏志の所謂邪馬臺なる者なり

という一文もあり、『隋書』が「魏志倭人伝」を参考にしていることは確かなことです。従って、その『隋書』が倭国王帥升等の国と倭奴国とを同じとしている以上、我々もこれまでのような「魏志倭人伝」の解釈は捨てて、『隋書』に適うような解釈を探し出す必要があります。また、そうしなければこのパズルを始めることは出来ません。大事なことは、このパズルに合うピースを探すことなのです。
 そこで、『隋書』に合わせた場合、「魏志倭人伝」のどの箇所に不都合があるかを探してみますと、
「住まること七・八十年」
という一文にあることが分かります。我々はこれを普通「国が成立して七・八十年」と解釈していたのですから、それ以前に成立した国家である倭奴国とはどうしようとも繋がりません。従って、そうした解釈を変える必要があります。
 さて、これをどのように解釈し直すか。これはそれほど難しい事ではありません。要するに、これを一人の王の治世と見做せば良いだけのことです。つまり表.4bに即して述べれば、先ず治世50年の王が居て、次に治世72年の王が居て、最後は10年の混乱期を経て治世50年目の卑弥呼が現在居るという風に解釈をするのです。

長生きする大王

 思うに、先史時代の王というのは年を経れば経るほどに知識も増し主従関係も濃密になり、ますます王座が安定するのではないだろうか。無論、その結果年老いた王が死ぬまで王座にしがみつく事になりますから、その弊害も当然生まれてきます。治世70年にも余る王の場合、その年齢は90から100にも達することになり、まともな治世が行えなくなる恐れがあります。果して倭國の大乱はこの王の後に起こっています。
 以上は私の勝手な想像に過ぎません。ただ、あるいは陳寿もまたそのような想像をしたのではないかという節がないわけではないのです。それは、「魏志倭人伝」には次のような記事が載せられているからです。

其の人壽考(ながいき)、或は百年、或は八・九十年」

 無論、この記事が倭人に対しての陳寿の感想文等ではなく事実である場合も当然あり得ます。例えば高句麗の長寿王(394~491)の治世は80年近くもあり、年齢も百に手が届くほどでした。倭国王帥升等の治世72年、たとえこれを80年としたとしても長寿王の例があるように決して有り得ない話などではありません。もしかしたら、長寿王の治世を知ることの出来る唐代に書かれた『北史』や『隋書』はそうした想定の下で、

之を倭奴國と謂う

としたのではないだろうか。また、そうではなかったとしても、次に述べるような陳寿の意図を「魏志倭人伝」の中から読み取れば、やはりそうした一文を残したと思います。

陳寿の意図

 先ず、倭人が長寿であるという資料を下に倭国王帥升(等)の治世を70年から80年に見積もってみましょう。すると、倭国の王は漢倭奴国王、倭国王帥升(等)、そして卑弥呼を入れて三代となります。しかもその三代すべてが中国王朝への朝貢儀礼を持つことになりますから、倭國は中国にとってはいわゆる理想の蕃国となります。そして、その理想の蕃国からの朝貢儀礼を受け、その儀礼に答えるように親魏倭王の称号を与えた魏もまた理想の中華の王朝という事になります。
 そして、それは同時にその魏より禅譲を受けた晋もまた理想の中国王朝という栄誉を当然引き継ぐことになりす。つまり、晋の官僚陳寿の意図は晋を理想の中国王朝として世の中に知らしめることに有ったということになります。そして、そのためには先ず魏や倭を理想の国とする必要があったということです。
 なお、「魏志倭人伝」には後漢代の倭の朝貢記事が載っていませんが、陳寿倭人の長寿を具体的に百あるいは九十・八十と数字で示したり、乱以前の時代を七十・八十とこれもまた具体的な数字で示せたのは、後漢代の倭の二つの朝貢記事を参考にしたためとするのが順当な見方ではないだろうか。そして、この時陳寿が参考としたその朝貢記事のどちらの国名も倭奴国となっていたのではないだろうか。
 思うに、陳寿倭人の国に求めたのは、漢倭奴国から連綿と続くところの倭人の国ではなく、代々欠かすことなく中国王朝に朝貢を続けて来たという倭人の国の姿勢ではなかったのか。

 ところで、「倭國王帥升等」の読みですが、通説ではこれを「倭國王帥升ら」と読ませています。ただ、これですと倭国王帥升も一緒に中国王朝へ朝貢したとも解釈ができますので、ここでは帥升等までを王の名前として扱っています。それに、次のような解釈もまた出来なくはないのです。
 つまり、「倭國王が帥升等を遣わして云々」という解釈です。無論、文面からはそのようには読めません。しかし、この倭國という表記ですが、これは当時の状況では個々の国名ではなく広い地域を表わす倭の国の王という普通名詞的な表記と取れます。
 そもそも普通名詞は多くの固有名詞の後に生まれるものです。従って、この王よりも後の王卑弥呼にさえ邪馬臺という固有名詞の国があるのですから、卑弥呼以前の王に固有名詞の国がないというのはある種の矛盾と言えます。しかし、これを脱字あるいは省略と見做せば矛盾とはならなくなります。そしてそうなると、この記事は部分的にあるいは全体的に省略されている可能性が生まれてきます。つまり、下のようにほんの少し語句を補えば、先ほどの「倭國王が帥升等を遣わして云々」と言う解釈が可能となるのです。なお、マーキングのある部分が補った箇所です。

「倭國王帥升等…」⇒「倭國王遣使帥升等…」

最後に、漢籍の原文や読み下し文等は岩波文庫魏志倭人伝後漢書倭伝等に頼りました。