昭和は遠くなりにけり

古代に思いを馳せ、現在に雑言す。・案山子の落書・

§47.高市文化圏。

日本書紀』は、法隆寺の前身とされる若草伽藍の焼亡を670年と記しています。もしそれが事実だとすれば、斑鳩文化圏が成立したのは壬申の乱以降ということになります。また、『日本書紀』は壬申の乱の翌年から高市大寺の造営が始まったとも記しています。そうすると、斑鳩高市とは異なる斑鳩文化圏と呼び得るものがある以上、おそらくは高市にも高市文化圏と呼びうるものがこの時期には成立している、ということになるのではないだろうか。
 それにしても、決して広いとは言えない奈良の盆地のたとえ西のはずれと東南の隅という互いに離れた立場にあったとしても、共に太子道で結ばれている斑鳩高市、果して特徴の異なる文化をそれぞれが時を同じくして独自に育めるものなのだろうか。

寺の創建瓦とその形式

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 前章では、定説あるいは通説と呼んだ方がいいのかも知れませんが、それに合わせての寺院の建立開始時期の設定を試みました(上図参)。
 結果は、南滋賀廃寺と川原寺が天智代の同時期でしかも瓦が同系統ということで通説通りと言う他はないようにも見えるとしました。しかしそれならば、なぜ天智紀には飛鳥寺しか出てこないのかという疑問が生じます。また、法隆寺高市大寺が天武代の同時期という結果にしても、南滋賀廃寺と川原寺が近江と大和という遠隔地でありながらも同系統の瓦が使われていることを思えば、斑鳩とそれほど距離の隔たりのない高市地方に法隆寺系統の瓦が見られないのは、あるいは法隆寺高市大寺とが同時代の造営ではないのではないかという前述の結果とは逆の結果を導く要因になるということではないだろうか。
 思うに、ここに言う定説あるいは通説というものは『日本書紀』以降の文献に拠るものです。そもそも『日本書紀』からは、川原寺が天智の創建とか近江遷都以前の造営とかのシナリオは見えてきません。それに前章で載せた『瓦と古代寺院』からの引用にもあるように、形も文様も大ぶりの複弁蓮華文となってくる法隆寺や川原寺の創建瓦の出現を瓦変遷の一エポックとして捉えることができるのです。

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 上は、臨川選書『瓦と古代寺院』森郁夫著に載る大ぶり文様の瓦です。なお、法隆寺と川原寺の瓦の違いについては、ニューサイエンス社考古学ライブラリー森郁夫著『瓦』に詳しく載っております。下にその一節を少し引用させてもらいました。また、下図.47cもこの『瓦』を参考としたものです。

中房が大ぶりで突出すること、蓮弁の反転が強いことなどは川原寺の軒丸瓦と同様であるが、蓮弁の一単位が完全に分離せず、界線が2弁を1単位として囲んでいる。そして各弁に子葉をおくのである。このように、蓮弁の様子が川原寺と大きく異なる点が法隆寺式の特徴である。さらに外区にめぐらせた鋸歯文が線鋸歯文であるところも川原寺と異なるところである。

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 ところで、法隆寺や川原寺の前後を普通白鳳時代と呼ぶのだそうですが、この時代の大ぶりの文様の瓦はその瓦当文様の特徴から大きく次の五つほどの系統に分けられるのだそうです。そして、それらはそれを代表する寺の名前から、法隆寺式、川原寺式、紀寺式、薬師寺式、大官大寺式と呼ばれています。
 さて、これらの中で紀寺を除く残りの四寺は官寺であることが分かっています。また、これらの中にこれまで問題としてきた法隆寺と川原寺が当然含まれています。ただ、しかし、ここでの最大の問題の寺である天武の勅願寺にちなむ高市大寺式が見当たりません。
 思うに、天武は諸国の氏族に造寺を促したとされています。従って、天武の勅願寺にちなむ瓦が諸国に広がっている可能性は否めません。また、たとえ高市大寺そのものが分からなくとも、この系統の瓦が今日何々寺式という名前で呼ばれている可能性も当然考慮しなくてはなりません。つまり高市大寺を、以上述べた系統のどれかとすることの可能性が当初から存在するのです。そしてそれを、あるいは瓦が教えてくれるのかも知れません。

 今日、高市大寺の有力候補としては、木之本廃寺、奥山廃寺、小山廃寺が挙げられています。ただ、この中で天武2年以降の造営となる高市大寺に適合する瓦を持つ寺は、紀寺式と呼ばれる文様の瓦を出す小山廃寺だけです。しかも、この寺の瓦は畿内を中心としながらも各地に広く分布しています。また、そうであるからこそ紀寺式とも呼ばれているということです。ただ、しかし、この寺はその規模からも、また塔を欠く伽藍遺構からも凡そ大寺とは呼べないほどに貧弱です。しかも、この寺は藤原京の条坊に正しく則っていることから、その造営の時期を条坊設定の天武末年から大きく遡らせることは出来ず、天武2年からの造営とされる高市大寺に比定することは不可能です。
 なお、木之本廃寺と奥山廃寺についてですが、ここから出る単弁蓮華文の瓦は山田寺跡や若草伽藍跡から出る瓦に近く、複弁蓮華文を持つ法隆寺式や川原寺式よりも古いタイプということになります。従って、川原寺よりも後に出来たとされる高市大寺とは最初から程遠い関係と言うほかありません。そしてそうなると、高市大寺に葺かれていた瓦は紀寺式や法隆寺式でないとすれば、これは川原寺式以外には考えられず、しかも、川原寺以上に有力な官寺もまた高市地方には見当たらないとなれば、川原寺即ち高市大寺とするのが自然と導かれる結論のように見えます。そして、そうなると、天武紀や持統紀に川原寺と同時に挙げられている大官大寺法隆寺のことであるとするのが一番適切ということになります。

川原寺は天智代にはなかった

 ところで、高市大寺を川原寺とした場合、さらには法隆寺大官大寺とした場合、何か不都合なことが起こるだろうか。いや、むしろその逆ではないだろうか。そこで、前章の蒸し返しになるとは思いますが、『日本書紀』の中から川原寺とかかわりのありそうな記事の初出を拾い上げて、下の表に表わしてみました。

表.47a 白雉紀と天武紀の奇妙な一致
白雉2年 味経宮で一切経を読ませる 天武2年 書生を集めて川原寺で一切経を写す
白雉4年 仏菩薩像を造って川原寺に安置する 天武4年 一切経を全国に捜し求めさせる
  天武6年 飛鳥寺一切経を読ます

 表や図は、物事の相違点や一致点を際立たせてくれます。上の表もそうしたものだと思いますが、何とはなく作為めいたものを感じさせられもします。たとえば白雉年間の記事は天武紀を基にしているのではないかと。しかし、天武紀が基だからと言って天武紀の記事が合っているということではないようにも見えます。ただ、天武と川原寺と一切経とは切っても切り離せない関係にあるということだけは強く感じ取れます。
 そもそも、斉明の宮を寺にしたのが川原寺だということであれば、斉明の息子である天武にとっても川原寺は天智以上に大事な寺ということになります。従って、この寺で最初の一切経の書写が行われたとしても何ら不思議はありません。しかし、その大事な寺が、この天武2年の記事を最後に天武14年の川原寺への幸行まで何の話題の対象にもなっていないのはやはりおかしいのではないだろうか。
 そこで、『日本書紀』では記事数の多い飛鳥寺と一寸見比べてみましょう。下の表.47bは天武代の飛鳥の三大寺とされる、川原寺、飛鳥寺大官大寺の記事数とその年を書き示したものです。

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- 表.47b 飛鳥三大寺とその記事の年 -
  川原寺 飛鳥寺(元興寺法興寺)



白雉 4年 崇峻 0年・1年
推古 1年・4年・14年・17年
皇極 3年・4年
孝徳 0年
斉明 3年
天智 10年
    飛鳥寺 大官大寺



1
2
6
9
10
11
13
14
15

○1回





○2回
○5回
○1回

○2回
○3回
○1回
○1回
○1回
○2回
○2回

○1回(注)



○1回

○2回
○4回
持統 1年・2年 10年

 さて、川原寺の造営が通説通りに天智代(662~)から始まったとすれば、天武2年(673) の川原寺での一切経の書写は十分過ぎるくらい可能です。しかし、表.47bからも分かるように、天武2年以降に天武が重用したのは川原寺ではなく飛鳥寺です。しかも、この傾向は天武年間だけではなく持統年間にも引き継がれています。これは不思議と言うほかありません。しかも、図.47dからも分かるように、川原寺は浄御原宮からは指呼の間にあります。それに比べて飛鳥寺は浄御原宮より少なくとも500mは離れています。それなのになぜ天武も持統も官寺である川原寺よりも一私寺でしかない飛鳥寺を重用するのだろうか。
 その理由として考えられることはそれほど多くはありません。先ず、と言うよりもおそらくこのことが全ての理由につながるのだろうと思います。それは、川原寺は飛鳥寺に比べて格段に歴史が浅いということです。つまり、歴史が浅いということは、仏事に不慣れな未熟な僧が多いということであり、当然有能な僧も未だ育ってはいないということになります。従って、僧衆の統制も完璧には行われず、日常的な仏事にも不首尾が生じ、結局特別な仏事以外は飛鳥寺に頼ることになったのではないだろうか。
 思うに、川原寺の造営が通説通り天智代に始まり、天武2年の一切経の書写が行えるくらいまでに僧衆が揃っていたのであれば、おそらくかくも飛鳥寺に頼ることは無かったと思われます。無論、官寺ですから有能な僧を集めることは可能です。ただ、当時の場合、有能な僧というのは唐から帰国した学問僧を指すことになります。ここでの場合ですと、白雉年間や斉明代に唐に渡り10年前後の修行を積み天智代に帰国した学問僧ということになります。従って、事実川原寺が天智代の造営であれば、当然そうした学問僧がこの寺に集められたはずです。しかし、そうではなかった。つまり、川原寺は天智代の造営ではなかった。おそらく、そういうことではないだろうか。
 では、川原寺の造営はいつの時代なのだろう。

 周知のように、天武と持統の代は唐との交流が一切無かった時代です。また、天智2年の白村江の戦い以降学問僧が唐へ渡った可能性はなく、天武・持統の代に帰国の時期を迎える学問僧はいなかったと思われます。つまり、天武・持統代に造営された寺院に有能な学問僧を集めることは難しかったということです。おそらく、高市では天武代以前の造営とされる飛鳥寺にこそそうした僧が自然と集まって居たのではないだろうか。
 こう考えた場合、天武代の造営となる高市大寺にも当然そうした僧は居ないことになります。また逆に、そうした僧の居ない寺院は天武代の造営と言える事にもなります。思うに、川原寺は天武代の造営ではないのか。また、何度も言うように川原寺こそが高市大寺ではないのか。
 思うに、法隆寺式の特徴を示すものが斑鳩文化圏だとすれば、川原寺式の特徴を示すものが高市文化圏ということになるのではないだろうか。また、斑鳩にある法隆寺斑鳩大寺と呼ぶのであれば、高市にある川原寺を高市大寺と呼ぶことに不都合はないのではないだろうか。