昭和は遠くなりにけり

古代に思いを馳せ、現在に雑言す。・案山子の落書・

§3.奴國は伊都國。

 最近、邪馬台国に関しての新しい知見が得られなくなりました。それは、古代史ブームが去ったということにもよるのでしょうが、もしかしたら新たな発掘の成果待ちという歴史家の消極的な研究態度によるものも又あるのではないかと思ったりもします。

 ところで、これは初回でも述べたことですが、いわゆる邪馬台国は「魏志倭人伝」の中にのみ存在する国家です。したがって、もしこの国家に謎があるのだとすれば、その謎は当然「魏志倭人伝」の中に於いてこそ解かなければならないという事になるのでしょうが、あるいは、もしかしたら「魏志倭人伝」の中に於いてのみ解ける謎であるのかもしれません。

戸数が示す邪馬台国の構図

 前章では、伊都國に奴國を取り込めませんでした。しかし、倭奴國と奴國を切り離せたようには思えます。しかし、切り離したからと言って、漢倭奴國⇒(倭)奴國⇒伊都國の関係が壊れるわけではありません。奴國を(倭)奴國とすれば良いだけです。

さて、百余国中の一つ、委奴國が成長して漢委奴國となった。その漢委奴國が成長して伊都國と呼ばれるようになった。そして、その伊都國がさらに成長して旧都部のみが従来どおり伊都國と呼ばれ続けられるようになった。無論、これは仮説です。そして、その仮説ついでにもう一つ、奴國は成長した大伊都國つまり(大倭)奴國であると。

 下に示した表.3aは、1章での仮説の成果である表.1bから得られた新たな成果です。そして、その成果とは、對馬國から伊都國までの戸数を合わせれば奴國の戸数となり、奴國の戸数と投馬國の戸数とを合わせれば邪馬壹國の戸数となることです。

- 表.3a -
對馬國 一大國 末盧國 不彌國 伊都國 奴國 投馬國 邪馬壹國
千餘戸 三千許家 四千餘戸 千餘家 千餘戸 萬餘戸 二萬餘戸 五萬餘戸 七萬餘戸
萬餘戸
二萬餘戸 七萬餘戸

 この表を見て感じることですが、奴国と邪馬台国は戸数の対応から一つの国としての名前ではなく、いわゆる連合あるいは連邦の国家としての名前のようにも受け取れます。また、伊都国には戸数の上で二つの顔があるようにも見えます。実は、伊都国に二つの顔を持たせることがここでの味噌なのです。

 ところで邪馬台国の謎の解き方、殆どの人が道程や方位のやり繰りで終始してしまい、戸数から謎を解こうとする人はあまりいないようです。しかし、邪馬台国の戸数7万戸はあるいは奴国の戸数2万と投馬国の戸数5万とを加えた数なのではないかという疑惑は誰もが抱くことではないだろうか。
 また、それ以外にも、記事中の戸数等の数に関しては、上の表.3aからも分かるように、8ヵ国の戸数のうち千、万という単位を除いた数の6以外は1から7まですべて揃えているありさまで、これは故意に揃えたのではないかというような非常に芳しくない評判もあるわけですから、もう少し戸数に目を遣っても良いのではないかと…
 しかし、それはさて置き、今度は表.3aを新たな仮説として、奴国を取り除くべくと言うよりも取り込むべく話を進めて参ります。そこで、奴国までの仮説図を先ず用意しましょう。

仮説図1

 さて、パズルを表や図形に直しますと非常に解き易くなります。無論、ある決まった形に整えるのですからいわゆる四捨五入といったようなことが起こります。四捨五入は数の場合は非常にすっきりとしたものになりますが、事象の場合は必ずしもそうはまいりません。例えば、四捨は余分の情報の切り捨て、五入は空白部を含む情報の取り込みとなります。
 切り捨ての場合は、何を捨てるかが分かりますから、無用のものを捨てれば何の問題も起こりません。しかし、取り込みの場合は問題が生じます。それは、空白の部分を持つ情報は決まった形に整えられて取り込まれるわけですから、その取り込まれる時点で、その情報は空白部を埋めるまでに拡大されるからです。拡大する場合、それを行う者の主観等が入り込みます。ここでの場合ですと私の主観、伊都国が拡大解釈されて取り込まれることになります。

 伊都国については、先ず倭奴国と書き換えが可能です。倭奴国というのは金印にもある漢の委奴国のことで、これは前回の冒頭でも述べた大和と同じで拡大が可能です。また、周知のように伊都国の戸数に関しては、魏志に千余戸とある一方で魏略には万余戸とあります。ただし、これを二者択一としたのでは何の進展も得られません。これもやはり前回の冒頭で述べたように拡大して取り込みます。
 では、どのようにして取り込むか、その形を先ず決めなくてはなりません。しかし、これは以外とも言えるほど簡単なことです。それは既に述べているように、奴国の2万と投馬国の5万とを加えれば邪馬台国の7万になるという手順の形です。これがここでのパズルのピースの形なのです。そして、これを発展させて簡単な図として示しますと下のようになります。

- パズル邪馬壹國のピース、パズル奴國のピース 【table図.3a】-
對馬国から伊都国までの総戸数 1万 奴国 2万 邪馬台国 7万
?国 1万
  投馬国 5万

 そしてこの図の ?国 を指定すればいいわけです。そして、幸いというよりも、「魏略逸文」に伊都国の戸数を1万とする記事がある事を知っていたためにこうした拡大が出来たというわけです。
 さて、図.3aでは伊都国の総戸数を1万1千とし、これを旧都部と新都部とに振り分けてそれぞれの戸数を1千戸と1万戸としました。また、奴国を拡大伊都国の意味をこめて大倭奴国としました。無論、そうすることで伊都国が倭奴国や奴国であるという証明が必要となってはきます。しかし、そうではあるが、ここで見方を少し変えれば逆に伊都国が倭奴国や奴国であるという証明がこれによって出来たと言えなくもないのです。

仮説図2

 この図は、伊都國を拡大解釈した以外は、「魏志倭人伝」に載る戸数の合計が任意の数になる毎に順次囲い込んでいっただけのものです。この図は基本的には上のtable図.3aと同じものですが、こうしてみると邪馬壹国の構造やその成長過程が驚くほどよく映し出されてもいる事に気付くと思います。ただし、今度は邪馬台国と伊都国が同じ国とした場合でのことではあります。しかし、その説明は後程にまわすこととして、ここでは、これまで述べたことがそれほどの見当違いではないことを先ずこの図を用いて説明しておきましょう。

  1. このaの段階は、伊都國が周辺の集落国家を吸収し膨張を始めた時期。なお、戸数の1万1千余は女王国の時代のもので、当時の戸数は旧都部伊都国を除いて数千程度と思われます。しかし、對馬国から不彌国までの4ヵ国の総戸数も当時は数千程度と思われますから、伊都国がそれらの国々を傘下に収めるのは時間の問題でしかなかったでしょう。年代としては紀元前から中元二年(57年)までということでしょうか。この時期は単一の国としての成長途上の段階です。
  2. このbの段階は、中元二年(57年)の漢委奴國王の時代以降に当たります。近隣諸国を傘下に置き、大陸との交易の独占を確立した時期とできるでしょう。なお、図中の四ヶ国は「倭人伝」時期における当時の国数です。従って、実際にはもっと多かったかもしれません。これはaの段階でもそうであったということですが、漢委奴國がいわゆる連邦制あるいは連合制をとっていた場合、あるいはずっと同じ国数であったかもしれません。年代としては、中元二年(57年)から永初元年(107年)までといったところでしょうか。
  3. このcの段階は、永初元年(107年)の倭國王帥升の時代から倭国大乱を経た、「倭人伝」における当時、景初2年(238年)からの邪馬壹國の二女王の代まで、ということになります。

 なお、図中記載の戸数はすべて女王国の時代のものとなります。また、少し付け加えますと、狗奴國は倭國王帥升の時代に倭国編入され、大乱後に倭国より離反したとも考えられます。なお、後漢代の漢委奴國はいわゆる倭人国で、後世で言う倭国とは少しニュアンスが違います。またaの段階での倭奴国は拡大第一段階目の伊都国という意味です。

 ところで、図中より得られえる邪馬壹國の構造、何かに似ているとは思いませんか。そう、江戸時代の幕藩体制によく似ているのです。たとえば、伊都國が将軍家、對馬國から不彌國までの四ヶ国が親藩あるいは譜代、投馬國が外様、そして邪馬壹國が天皇家というふうに順次置き換えが可能です。ただし、伊都國と邪馬壹國との関係は同族となります。
 なぜなら、この図が示しているのは、邪馬壹國は伊都國つまり倭奴國の成長過程での節目の一つの呼び名に過ぎないということだからです。創造をたくましくするならば、あるいは「ヤマタイコク」は邪馬壹國ではなく、邪馬大倭奴國と表記されていた可能性も見えてくるのです。また、奴國は、倭奴國の中枢部を伊都國と呼んだために倭奴國あるいは伊都國とは別の国と誤解され「倭人伝」に付け加えられたものという風にも解釈が出来るのです。

 こうしてみますと、邪馬台国の変遷が大和の変遷と非常に良く似ていることが分かります。ただ違うのは、大和が一貫して大和であったのに対し邪馬台国の場合は倭奴国から伊都国へと、そして邪馬台国へと名前の変遷があったようにも見えることです。しかし、伊都は倭奴とも表記出来、大和の初期の表記は大倭なのですから、あるいは「倭人伝」の編纂過程での不手際によるものともできそうです。
 これは初回でも述べたことですが、「魏志倭人伝」は陳寿の「倭人伝」だということです。それが正確であるかどうかは、偏に陳寿が資料をどれだけ正確に集めたか、そしてそれをどれだけ正確に用いたかどうかにかかっています。ただ、個人として思うことですが、こうした図やパズルのピースが得られるということは、陳寿の「倭人伝」は別として、邪馬壹國にかんする情報の多くは「魏略逸文」等をも含めて正確に魏に伝えられているということであり、「倭人伝」の記事部品としての価値は高いといわねばなりません。