昭和は遠くなりにけり

古代に思いを馳せ、現在に雑言す。・案山子の落書・

§46.都と寺。

 大官大寺の出発点を示しているかもしれない吉備池廃寺という道標からは随分と離れてしまいました。しかし、吉備池廃寺からの降り道がはっきりとしない以上、この道標からは離れ、藤原京大官大寺から遡るのが順当ということになります。それに、今のところと言うより、おそらくこれからも吉備池廃寺を大官大寺の最初とする見方は変わらないものと思います。
 そうしますと、藤原京大官大寺から吉備池廃寺へどのような流れが模索できるかということになるのですが、前回、川原寺を高市大寺に、法隆寺を天武紀大官大寺に想定しています。つまり、時間の流れは逆になりますが、大官大寺⇒川原寺⇒法隆寺⇒吉備池廃寺という流れが可能かどうかを模索すればいいことになります。またそうすることが、川原寺即ち高市大寺という流れにもつながることになります。

川原寺と南滋賀廃寺

 さて、大官大寺⇒川原寺⇒法隆寺⇒吉備池廃寺という流れ、実はこのままでは川原寺までしか遡ることは出来ません。そこで、これを先ず次のように書き表してみましょう。

- 表.46a 都と寺 -
藤原京 飛鳥京 近江京 ?₁ X₂ ?₃ X₃
大官大寺 川原寺 X₁ ?₂ 法隆寺 ?₄ 吉備池廃寺

 こうすると、少なくとも近江までは遡れそうに見えます。また、それより先は『日本書紀』に頼れば、天智の倭京、斉明の後の飛鳥京へと続きはしますが、残念ながらこれらの都にかかわる寺が『日本書紀』からは見つかりません。従って、近江までを先ず確保することから始めることになります。
 と言うのも、実はこの川原寺そっくりな寺が壬申の乱の舞台である近江大津宮の地に当時あったからです。しかも、造高市大寺司の任命が壬申の乱の翌年から始まっているとすれば、高市の地に先代の都大津京ゆかりのこの寺を移すのは正に当を得た行為ということにもなります。そして、その寺が表.46aのX₁ということになります。
 さて、その寺ですが、その寺は南滋賀廃寺と普通呼ばれています。下図の左端がそれです。下は、ニューサイエンス社発行の考古学ライブラリー27・林 博通 著『大津京』からのものです。

 なお、川原寺そっくりとは言いましたが、正確には西金堂の向きが違っているのです。川原寺の西金堂は東塔と向かいあっていますが、南滋賀廃寺の場合は塔を東にして南正面を向いているのです。しかし、このことがこの説に不都合を招くということにはなりません。と言うのも、この塔を東にあるいは西にして南正面を向く金堂は斑鳩の寺には普通に見られるものだからです。たとえば、法隆寺法輪寺法起寺がそれに当たります。つまりこれは斑鳩の特徴とも呼べるものなのです。
 そこで、右端の図にも目をやって下さい。これは穴太廃寺と呼ばれている大津京時代の古代寺院の発掘及び推定伽藍は位置図です。この再建穴太廃寺がやはり南滋賀廃寺と同じように塔を東にして南正面を向いているのです。しかも、再建穴太廃寺の場合は、本来塔と金堂とが向かい合っていた創建穴太廃寺をわざわざ西金堂が南正面を向くように作りなおしてもいるのです。正に、斑鳩の勢力が大津に押し寄せて来たといった景観ではないだろうか。
 それにしても、この二つの寺院は大津京時代の有力寺院のはずなのですが、なぜか名前さえ残されてはいません。また、大津京を単純に天智の時代と『日本書紀』も今日も主張していますが、このような寺院の名前が天智の時代に出てこないということを少しは考慮し、さらには既成の定説を考え直さなくなくてはならないという風に考えなくてはならないのではないだろうか。

 思えば随分と昔のことになります。私は図.46aの穴太廃寺の創建と再建の二つの伽藍図をここでの参考図書『大津京』の中に見い出した時、これは法隆寺そっくりだと感じたことを今日のように覚えています。また、もし法隆寺金堂薬師如来像光背銘にあるように東宮聖王が法隆寺を再建したのであれば、この東宮聖王が小治田大王天皇を推戴して大津に遷都したのではないかと、今日までずっとそう思ってきてもいます。そしてそうなれば、表.46aの?₁は必要のない都の時代となるのではないかと。
 無論、それでは『日本書紀』とは合致しなくなります。『日本書紀』では、?₁は斉明の倭古京の時代となるのですから。また、?₂は川原寺の可能性もあります。しかし、天智が母斉明を奉っての難波宮から倭古京への帰還、これは東宮聖王が小治田大王を奉っての近江大津への遷都と、そして近江大津から倭飛鳥への帰還とに非常によく似ているのです。無論、前者は『日本書紀』に載る話の筋、後者は素人の創造に過ぎませんが。しかし、天智と寺の話しは『日本書紀』には殆どないようにも見えます。私は、天智は仏徒ではないと思っています。無論、これも素人の考えですが。

都と寺

思うに、都が移れば寺も移る。藤原の都から奈良の都への時がそうでした。では、飛鳥の都から藤原の都への場合はどうだったろうか。藤原の都には大官大寺があります。この大寺はどこからか移されたものだとされています。やはり、藤原の都でも寺は移されています。では、大津の都から飛鳥の都へ移る時、寺は移されたのだろうか。もし移されたのだとすれば、それはどの寺なのだろうか。
 思うにそれは川原寺ということになりはすまいか。そして、もしそうだとすれば大津の都から移された川原寺はやはりどこからか大津の都に移された寺ということになるのではないだろうか。

 川原寺は孝徳紀白雉4年(653)にその名前が既に載っています。また、天武紀2年(673)3月にも、一切経の書写が初めて行われた寺としてその名が記されています。従って、天武紀2年の12月から造営が始まったとされる高市大寺に川原寺を当てはめる自説はあるいは無理というものかもしれません。
 しかし、今日では川原寺は斉明天皇の川原宮の後に建てられた寺という風に考えられています。そうしますと、白雉4年の川原寺の記事は少々おかしいということになります。しかも、この記事には山田寺の可能性もあるとする分注がついてもいるのです。また、天武2年の川原寺での一切経の書写の記事にしても、天武紀を注意深く読んでみると、なんとも不可解なことに天武4年の10月に四方に使いを遣わして一切経を捜し求めたとする記事が載っているのです。
 そもそも一切経の書写をさせておいてから、その後2年近くも経ってから一切経を探すというのはどう見ても順序が逆で腑に落ちません。無論、一切経は非常に幅の広い経典ですから、あるいは注釈書関係を探させたとも考えられます。しかし、腑に落ちないのはそれだけではないのです。そもそも川原寺で一切経の書写をさせたとしながら、奇妙なことに天武6年8月には川原寺ではなくて飛鳥寺一切経を読ませたとする記事が載せられているのです。

川原寺は天智の勅願寺ではない

 何とはなく、自説に都合の悪い記事への非難口調となってしまったような気もいたしますが、続けますと。
 ところで、一切経の記事は『日本書紀』の中では孝徳紀の白雉年間に一度と天武紀での三度との合わせて四度だけしか載っていません。また、川原寺の記事にしても白雉年間に一度と天武年間に八度だけの全部合わせても九度しかありません。それに天武年間の場合は天武14年より前に限れば、川原寺の記事は一切経を写したという記事以外には見当たりません。つまり、『日本書紀』に於ける川原寺の記事は、天武が重病に陥ってからの記事がほとんどだとさえ言えるのです。
 これは自説と言うよりも、想像なのですが、天武は近江大津宮で死去した母斉明を飛鳥の川原の宮で殯をした後その宮を寺とした。これが川原寺ではないのかと。つまり川原寺は天武の勅願寺であると。なお、『日本書紀』には、天智が九州で死去した斉明を11月7日に飛鳥の川原に殯したとする記事があります。そして、この記事が今日の川原寺は天智の勅願寺という定説を生み出す基となっています。
 しかし、そうした定説とは裏腹に、天智10年(671)に天皇が病気に陥った時、川原寺でも南滋賀廃寺でも天智天皇に対しての病気平癒の祈願も祈りも行われてはいません。ただ、内裏での百体の仏像の開眼供のあったことと、天皇飛鳥寺に珍宝を奉らせたという記事があるのみです。思うにこれはおかしい。そもそも飛鳥寺勅願寺ではない。これでは天智の時代には、勅願寺も天智自身の勅願寺もなかったことになります。それとも寺は未だ完成していなかったと言うのだろうか。

 ところで、臨川選書・森 郁夫著『瓦と古代寺院』によれば近江の南滋賀廃寺や崇福寺の軒瓦には川原寺系統のものが使われていたそうです。当然このことは定説に有利に働くのですが、森郁夫氏は同書の中で川原寺と法隆寺の瓦について次のように述べています。なお、引用最初のこの寺というのは川原寺のことです。

この寺の創建時の軒瓦は大ぶりで、複弁八弁蓮華文軒丸瓦と四重弧文軒平瓦が組み合ったものである。蓮弁は強く反転した仏像の蓮華座を思わせる。蓮弁の周囲には面違い鋸歯文がめぐらされる。大きく作られた中房には写実的な蓮子がおかれる。法隆寺西院といい、七世紀後半に期せずして大ぶりな瓦当面に複弁蓮華文を飾る軒丸瓦が作られることになった。そして両寺ともに、それぞれの系統のものが各地に分布している。法隆寺式の瓦が西国に分布圏があるのに対し、川原寺の瓦は東国の方に多く見受けられる。

 思うに、川原寺は文献上も考古学上も近江に結びつきます。そして更には斑鳩に結びつくということです。そしてそうなると、川原寺は天智には結びつかないことになります。なぜなら、天智は斑鳩には結びつかないからです。なぜなら、そもそも『日本書紀』は天智9年(670)つまり天智の亡くなる前の年に法隆寺が焼亡したとしてるからです。これは正に天智を法隆寺西院ではなく若草伽藍に結び付けていることを示しているのです。
 ここで、ちょっとした計算をしてみましょう。定説によれば川原寺は斉明の死後の662年頃より造営が始まったことになります。また、近江遷都の準備としての南滋賀廃寺や崇福寺の造営も近近始まると考えなくてはなりません。普通、寺院が完成するのに20年前後かかると言われています。ただ、官寺の場合はもう少し短いとは思います。例えば、藤原京大官大寺大宝元年(701)より造営が始まり、10年後の711年焼亡の時には塔の基壇外装や中門等が未だ完成していなかっただけと言われています。また、薬師寺の場合は藤原京の条坊に則っていますから、天皇が京内で宮室を定めたとする天武13年(684)の3月9日以降の造営と考えられます。そして、文武2年(698)に衆僧を住まわせたとする記事のあることから凡その完成までに10年といったところでしょうか。
 そこで、川原寺や南滋賀廃寺の完成に十年程度を要したとしてみましょう。そうするとこれらの寺は672、3年前後の完成ということになります。この時期は丁度天武2年(673)の川原寺での一切経の書写や造高市大寺司の任命の時期と相前後します。無論、これだと当然天智の時期には寺は完成していなかったことになります。しかし、薬師寺の場合はほぼ完成の10年前の持統2年(688)には無遮大会が行われています。つまり寺は完成していなくとも大事な行事は行えるということです。 ── どうやら、天智と川原寺との間には何のかかわりもないということのようです。
 ところで、670年焼亡の法隆寺ですが、前回法隆寺所蔵観世音菩薩造像記銅版に記された造像銘のなかに鵤大寺の名前があることを紹介しています。また銘文には、これが造られたのが甲午の年とあることから、この年を持統8年(694)としました。そうなると再建法隆寺は少なくともこの年より十数年前には造営が始まっているということになります。そしてその十数年前とは、実は高市大寺の造営開始時期と重なるのです。

斑鳩文化圏

 さて、定説に従って関連寺々の造営開始時期を推し測ってみました。すると、川原寺と南滋賀廃寺との造営がほぼ同時期に、そして法隆寺高市大寺の造営もまた同時期にそれぞれ開始されたことになるようです。また、川原寺と南滋賀廃寺との瓦が同系統の瓦であることから、これはほぼ確かなことのようにも見えるのですが、法隆寺高市大寺との瓦に関しては必ずしもそうとは言えないようです。
 と言うのも、先ほど高市大寺の瓦は川原寺系統の可能性があると述べましたが、川原寺系統は大ぶりという点では法隆寺の瓦と一致していますが、文様は全く違った系統となります。また、この時期、法隆寺系統の瓦は高市には殆ど見られず、飛鳥においては全くないとも言われています。
 ところで、森郁夫氏はその著『瓦と古代寺院』の中で法隆寺系統の瓦を斑鳩文化圏の瓦だと述べています。