昭和は遠くなりにけり

古代に思いを馳せ、現在に雑言す。・案山子の落書・

§45.高市大寺は川原寺か?

 さて、元明陵から山田寺まで道標に従って輪廻の路を下ってまいりましが、実はこの路の途中にもう一つ別の道標があるのです。それは吉備池廃寺と呼ばれている古代の寺院跡です。そして、この寺院跡が大官大寺の前身である百済大寺跡ではないかとも言われているものなのです。
 百済大寺については色々な流布伝説があるようですが、私が一番興味を引いたのはこの寺が焼失したということです。焼失した寺としては法隆寺が有名ですが、藤原京大官大寺もまた有名です。特にこの大官大寺の塔の焼亡は平城京の伽藍配置に影響を及ぼしているようにも見えます。例えば、藤原京までの塔が回廊の中に配置されていたのに対し、平城京では塔が回廊の外に配置され、伽藍主要部より切り離されてしまっているのです。
 思うに、大官大寺の焼亡こそが百済大寺の焼亡伝説を作ったのではないかと。しかし、その代わりというか、回廊内から解き放たれた塔は自由さを増し、その数や位置を自由に設定できるようになったとも言えます。正に、東大寺の西塔と大仏殿と聖武陵との位置関係はその賜物ということなのでしょう。
 なお、吉備池廃寺には焼亡の痕跡はありません。しかし、この寺が大寺と呼ばれるにふさわしい規模であることだけは確かのようです。

伽藍配置が示す道標

 大官大寺の名称は天武紀から持統紀にかけて何度か出てきますが、この寺が現実のどの寺に当たるのかは未だ決していないようです。ただ、この寺の前身が百済大寺と呼ばれていたことだけは確かなことのようです。
 さて、その百済大寺ですが、奈良県桜井市吉備の吉備池廃寺がそれではないかとする説が有力視されています。仮にその説が正しいとすると、43章でも述べたことですが、天武時代の大官大寺法隆寺である可能性が生まれてくるのです。と言うのも、吉備池廃寺と法隆寺は伽藍配置がどうも同じらしいのです。また、法隆寺には焼亡の事実もありそれと相まってますます可能性があるようにも思えます。
 下の伽藍図は、吉備池廃寺の伽藍配置とそれに良く似たものとを、また藤原京大官大寺の伽藍配置とそれに良く似たものとをそれぞれ組み合わせて掲げたものです。そして、新旧の関係を推し測って、旧い方から新しいほうへ矢印を向けて指し示したものです。また、図の稚拙さ以外は、同じ縮尺となっています。

 これを見て思うことですが、どう見ても吉備池廃寺から法隆寺へ、川原寺から大官大寺へという流れしか見えてきません。無論、問題点もあります。例えば、法隆寺はなぜ吉備池廃寺よりも小さくなったのか、また川原寺には金堂が二つあるのになぜ大官大寺は一つだけなのか。
 あるいは、この問題が解けなければ、そうした流れの見方そのものを否定しなくてはならないのかもしれません。しかし、仏教隆盛の時期に寺が小さくなるのは、いや正確には法隆寺の場合は小さくなったということではないのです。法隆寺はあくまで標準的な規模の寺なのです。この場合、なぜ大きく出来なかったかということなのかもしれません。そして、この問いに対しての正確な答えは、法隆寺がいつ出来たかということを突きつめれば、あるいは自ずと出てくるものなのかも知れません。
 また、川原寺と大官大寺の問題にしても、図を見ればわかるように、大官大寺の金堂は川原寺の金堂の数倍以上の大きさがあります。つまり、金堂一つでも川原寺の数倍の働きが出来るのです。しかも、これを逆に考えれば、金堂一つで事足りるとしたのは大官大寺がやはり川原寺を基としているからということになるのではないだろうか。

 ところで、『日本書紀』には、天武2年(673)というから壬申の乱の翌年ですが、この年の12月17日に造高市大寺司の任命記事が見えています。おそらく、次の年から高市大寺の造営が始まったものと思われます。また、この記事の分注に、この寺は今の大官大寺であるとしています。結局このせいで、後世も我々もこの高市大寺を当時の大官大寺だと言ってしまっているのです。しかし、今の大官大寺という言い方に疑問はないだろうか。今とは、『日本書紀』編纂の奈良時代のことで、当時のことではないのです。穿った見方をすれば、当時は大官大寺と呼ばれてはいなかったということでもあるからです。
 大官大寺の名称は天武2年の分注以外は天武11年以降になってから見られます。単純には、高市大寺を大官大寺とした場合、高市大寺がこの頃に完成したということになるのかもしれません。また、それにもかかわらず高市大寺の名が見えないのは、『日本書紀』編纂者が高市大寺を全て大官大寺と書き改めたということなのかもしれません。しかし、それならなぜ天武2年の高市大寺を書き改めなかったのであろうか。

高市大寺という道標

 正真正銘大官大寺が存在していた大宝以降、この時期を扱った『続日本紀』には大官大寺の名前は一切ありません。大宝元年7月には、本来なら造大官大寺官と記されるところが造大安寺官となっています。歴史は現代史と言うように現在から推し測っての過去が歴史に記されるのです。そういう意味では高市大寺という名前を残した『日本書紀』は歴史書としては未熟ということなのだろうか。それともこれもまた後世に残した道標なのだろうか。

 思うに、大官大寺という名称には官大寺の中の官大寺という意味しかありません。つまり、官大寺が複数できた時点で始めて意味を為すものです。それに官大寺という意味、これは大きな官寺という意味ではなく、官寺即ち大寺という意味ではないだろうか。
 たとえば、天武9年4月、天武は、「国の大寺二、三を除いて、その他は官司の管理をやめよ」と命じていますが、天武の時代の、後の大官大寺や吉備池廃寺のように巨大な伽藍配置を持っている寺の遺構は二、三どころか一つも発見されていません。つまり、天武の言う大寺とは国営の寺という程度の意味しか持っていないことになます。
 また、天武は先ほどの命に続けて、(正確には)飛鳥寺は官治するべきではないと言っています。それは、飛鳥寺蘇我氏が建てた寺だからです。つまり、このことは大寺の基本は勅願寺であるということで、官治はその当然の結果だということを意味しています。また、天武はさらに続けて、飛鳥寺は功労のある寺で古い大寺として官治が行われているので官治してよいとも言っています。

 ところで、天武がこの時期になぜこのような勅を出したのだろうか。それは、おそらく高市大寺が官寺として機能し始めたからではないだろうか。また、飛鳥寺の処遇について言及したのは、この高市大寺が出来るまでは飛鳥寺がこの地域で官寺として機能していた唯一の寺だったからではないだろうか。
 ところで、そもそも天武はなぜ高市大寺を作ろうとしたのか。思うに、当時の高市には官の大寺がなかったからではないのか。だからこそ高市大寺と言う名称を先ず用いたのではないだろうか。そうなると、飛鳥の官大寺として扱われている川原寺は未だなかったことになります。思うに、高市大寺を大官大寺とする、このあたりの通説から変えていかない限り大官大寺高市大寺も分からず仕舞いになってしまうのではないだろうか。

  以下は天武9年4月の勅の全内容です。講談社学術文庫宇治谷孟・全現代語訳『日本書紀下』によります。

およそ諸寺は、今後、国の大寺二、三を除いて、その他は官司の管理をやめる。ただし食封を所有しているものは、三十年を限度とする。
また思うに飛鳥寺は官治すべきではない。しかし古い大寺として官治が行われたし、かつて功労のあった歴史があるので、今後も官治する中に入れてよい
大寺二、三とは

 さて、このように見てまいりますと、天武9年の時点で飛鳥というか高市と呼ばれる地域には天武が大寺とする寺は、飛鳥寺高市大寺の二つしかなかったことになります。そのうちの飛鳥寺勅願寺ではありませんから二、三と呼ばれる中では三と呼ばれる方に入ることになります。そうすると、二つの勅願寺の中の一つは高市地域以外に有るということになります。

 甲午年三月十八日 鵤大寺徳聡法師 片岡王寺令弁法師
 飛鳥寺弁聡法師 三僧一所生父毋報恩敬奉観世音菩薩

 上は法隆寺に残る銅版に記された観世音菩薩造像銘の一部です。なお、観世音菩薩像本体は残っていないそうですが、持統8年甲午(694)藤原遷都の年に作られたものといわれています。観世音菩薩像は朱鳥元年(688)に天武のために作られていますが、おそらくこれ以降一般にも広がったのではないかと思われます。またそういう意味でも、銘文の甲午年は694年でいいのだと思います。
 そうなりますと、持統年間において鵤大寺と呼ばれる法隆寺は取りも直さず勅願寺、つまり先ほどの二つの勅願寺の中の高市以外の勅願寺となるのではないだろうか。
 さて、そうなると、天武紀に出てくる川原寺とは一体何なのだろうか。このままでは川原寺は、勅願寺でも大寺でもなくなることになります。

 ところで、高市大寺は天武2年にその名前が一度見えるだけで後はまったく見られません。思うに高市大寺というのは、高市の大寺という程度の意味しかなく、当然大官大寺というわけでもなかった。しかし、この寺は間違いなく天武天皇勅願寺です。従って、藤原京での勅願寺は当然この天武の勅願寺を移すことになるはずです。
 この章の始めの方でも述べましたが、藤原京勅願寺である大官大寺の伽藍配置は、川原寺のそれによく似ています。もし高市に川原寺以上に大官大寺に良く似た伽藍配置の寺がないのであれば、川原寺を高市大寺であるとする他はないのではないだろうか。
 そして、そうなれば大官大寺は鵤大寺である可能性もまた生まれてくるのではないだろうか。