昭和は遠くなりにけり

古代に思いを馳せ、現在に雑言す。・案山子の落書・

都市と地方。

 近頃、人の間だけでなく自然の間にも格差が生じているとか。異常気象に環境異変。上から下への富やエネルギーの流れに偏りが生じている証なのかも知れません。
 これも古い話でございますが、暇ならどうぞお読みください。誠惶誠恐、頓首頓首。

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 先だって、スコットランドの独立への賛否を問う選挙がありました。結果は変化よりも現状維持を望む反対票が多く、独立はなりませんでした。ただ、自治権が拡大されることとなったのは大きな成果だと評価もされているようです。
 しかし、自治権が拡大してもロンドンが小さくなるわけではありません。ロンドンが小さくならなければ富の還元はありません。かえって自治権の拡大した分自治政府は大きくなり、予算が足りなくなるだけでしょう。先進国家の南北問題、富の流れとその配分、富が大きくなればなるほど根が深くなるようです。

 金の流れと人の流れはよく似ています。金も人も少ない方から多い方に流れていきます。何故そうなるのか、それは金も人も大きくなるためにです。大きくならなければ他に呑み込まれるからです。この流れが地方と都市の格差を広げるのです。
 思いますに、有史以来支配者は常に都市に住み、地方の疲弊を省みず富や人材を集めてまいりました。それもまた大きくなるための行為です。

 近代都市社会であると、都市文化を満喫している者はそう豪語しています。しかし、この社会が追いかけているのはそうした過去の支配者が作り上げた文化や芸術です。今日、支配者と呼べる支配者はいません。しかし、支配者の作り上げた文化や芸術を追いかける都市という社会が支配者の役割を果たしているように見えます。
 社会に居座る権力。都市に住まう権威、政治の権威、文化の権威、芸術の権威、これらを合わせるといないはずの支配者の姿が都市の中に浮かび現れてきます。民主主義社会とはいっていますが、支配者を部品化して隠しただけの社会なのかもしれません。

 技術が社会を救う。そう言われて久しくなります。確かに救われた者はたくさんいたでしょう。しかし、救われなかった者もたくさんいたのです。都市と地方という意味での地方がその一つです。
 運輸網や通信網の完備した現代、企業は地方にいようが都市にいようが効率よく生産活動ができます。しかし、なぜか企業は、特にその本社は都市に集中しています。
 今日、物や情報はどこにあろうと効率よく動かせますが、人は違います。人は地方では動き辛く住み辛くなっているのです。地方の電車やバスの運行は一時間一本が普通です。買い物一つにも車を必要とします。車を利用すればするほど電車やバスの運行は少なくなります。そして、廃線となります。地方ではこの悪循環が始まっています。この悪循環は自治権を拡大しても止まりません。

 人は、町を造った都市を創ったとは言うが、地方を造った田舎を創ったとは決して言わない。町や都市には成功や繁栄の意味があるが、地方や田舎にはそうした意味合はありません。
 無論、地方都市、田舎町という言葉はありはします。しかし、人がこの言葉を口にするのは、地方都市をどう発展させるか、田舎町をどう維持するかといった悲観的な物言いの場合に用いられる事の方が多いようです。
 時たま地方創生の救世主が現れてニュースで取り上げられたりもしていますが、これとても結局は地方内での格差を止めることは出来ません。地方においての中央と辺境、地方の辺境では限界集落が生まれているのです。

 都市造り町造りという言葉が示すように、都市も町も人の造った製品の一つに過ぎません。掃除機となんら変わりはないのです。ただ、悲しいことにコンセントとスイッチの場所がいつの間にか国民や市民から遠く離れ、見えなくなってしまっているのでしょう。

 

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なぁーんも なぁーんも
寛容 寛容
へば 寛容

何事も寛容寛容へば寛容、誠惶誠恐、頓首頓首。