昭和は遠くなりにけり

古代に思いを馳せ、現在に雑言す。・案山子の落書・

§2.モード19の暦法が生んだ設計図。

 たった60個の組み合わせしか持たない干支ですが、繰り返すことで無限の年数を表すことができます。前号では、「記紀」の骨組みは1501年間に納まると述べましたが、正確には79章の中に納まるということです。下図参照

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 章とは19年を1章と数える暦法の単位です。章法とも呼ばれ、19年のうちの7年を閏年とする平朔法の暦法です。そのため、十九年七閏法とも呼ばれています。日本に最初に伝わったとされる元嘉暦はこの暦法を用いて作られた暦であります。しかし、安万呂の時代にはこの章法にこだわらないもっと優れた破章法(定朔法)の儀鳳暦が伝わっていました。なお、儀鳳暦は新羅経由の呼び名で、本来は麟徳暦と呼ばれています。日本には、成立後一年足らずで新暦として伝わっている可能性があるようです。

持統朝の両暦併用

 『日本書紀』、持統天皇4年(690年)の条に、初めて元嘉暦と儀鳳暦を用いるとあります。そのままに受け取れば、両暦を併用したということです。つまり、どのように利用したのかという疑問は残りますが、『日本書紀欽明天皇14年(552年)の条に、暦博士の交代と暦本とを百済に要請したという記事がありますから、欽明14年から持統4年までは、朝鮮からか、あるいは中国からの暦を利用し、それ以降は儀鳳暦(新暦で定朔)はそのまま輸入し、そしてなぜかは解らないが、元嘉暦(旧暦で平朔)をわざわざ作ったということなのでしょう。しかし、なぜ最新の暦をそのまま利用しなかったのでしょうか。
 2002年飛鳥の石神遺跡から元嘉暦に「具注暦」を配した木簡が出土しています。使用されたのは689年、持統天皇の3年とのことです。この事実と『日本書紀』の記述とは少し矛盾があります。当時の大陸では元嘉暦はすでに使われていません。したがって、この「具注暦」は当然日本製ということになります。また、儀鳳暦は河内野中寺の『弥勒造像記銘』から666年にはすでに伝わっていたことが知られています。ただ不思議なことに、この『弥勒造像記銘』には、わざわざ旧暦表示に直したものが記されています。
 思いますに、干支は毎回繰り返す曜日と同じで、紀年干支も暦日干支もある年のある日を起点とし延々と未来に向かって繰り返し伸びていっているものです。したがって、暦法が違ったからといって、その年やその日の干支が変わるというわけではありません。暦法の違いによって変わるのは朔(ついたち)干支です。4月1日(朔)が甲子になったり乙丑になったりします。この干支の違いが暦注に現れます。つまり暦が違うと同じその日の暦注が違ってくるのです。
 ところで、元嘉暦は儀鳳暦とは違い、19年分の雛形を一度作ってしまえば後は干支と暦注を変えるだけで同じものを繰り返し使うことができます。そもそも、寺院の建立に二十年近くを費やしていた時代です。また19年は一世代にも近く、何をするにも吉凶に左右されていた当時の人にとって、前もって「具注暦」により一世代にわたる生活指針が立てられることは非常に都合のよいことではなかったのではないでしょうか。

モード19の最初は暦の編纂

 現在、日本では西暦表記と元号表記が併用されています。元嘉暦は「具注暦」のため。儀鳳暦は公用のため。そう考えますと、持統朝の両暦併用も納得のできるものとなりますし、『弥勒造像記銘』の旧暦表示の理由も理解できます。またさらに推し量って、前もって長期にわたる「具注暦」を用意するというその行為が、後の「記紀」編纂者にある種の歴史の論理を植えつけるべく働いたのではないかと考えれば、持統四年の「初めて」両暦を併用すとるという内容の記事、これが「初めて」でないことは石神遺跡の木簡や、野中寺『弥勒造像記銘』より明らかですが、この矛盾にもある程度の説明がつくようになります。
 暦の編纂と歴史書の編纂はよく似ています。計算結果から導き出された暦の原型にあるのは、順序良く並んだ大の月や小の月や、あるいは閏月を示す枠だけです。歴史書もよく似たもので、順序良く並んだ歴代王朝の時間枠があるだけです。ここに、後から干支や暦注あるいは王朝記事を順序良く書き込んでいくわけですが、この作業が単純かつ機械的であると想像しがたくはありません。
 ハンコ仕事、あるいはハンコ作業という言葉があります。この「初めて」という表記は、おそらく干支暦注印のようなもので、暦が繰り返すごとに、王朝が繰り返すごとに、いとも簡単に押すことのできる程度のものだったのでありましょう。また各王朝を担当する者にとって初出の記事はすべて初めてということでこのハンコを押すことになっていたのかもしれません。
 それにしても、儀鳳暦が伝わって一世代以上がたつというのに、持統朝が元嘉暦を手放さなかったのはやはり一世代にあまる「具注暦」があったためかもしれません。重複しますが、『日本書紀欽明天皇14年(552年)の条に、暦博士の交代と暦本を百済に要請したという記事があります。おそらくこの時期に元嘉暦法による具注暦が伝わったのだと思われます。
 具注暦木簡の使われていた持統四年は、『日本書紀』編纂の時期より一世代ほど前にあたります。人間五十年と詠われてはいますが、当時の平均寿命は五十歳に満たないものです。印刷出版といった有効な記憶媒体手段を持たなかった彼らにとって、一世代二十年は今からみれば半世紀にも当たる長い時間だったはずです。すなわち過去の記憶の薄れゆくなか、それに反してますます色濃くなってゆく具注暦の文化、その真っただ中で育った書物、それが「記紀」なのです。

日本書紀の両暦利用

 ところで、周知のように『日本書紀』の暦日表記には二つの暦が使われています。仁徳天皇87年(399)以前の千年間ほどは儀鳳暦。安康天皇3年(456)以降の二百年余りは元嘉暦。そして、それらの間の57年ほどはどちらの暦法で計算しても同じ暦日となる、つまり両暦成立というのが今日の定説となっております。

 元嘉暦は宋の元嘉20年(443年)成立。元嘉22年より使われています。安康3年以降を元嘉暦とすることは理にかなっています。
 一方、儀鳳暦は唐の麟徳2年(665年)より使われています。つまり、儀鳳暦は元嘉暦より二百年以上も新しく、精度も良くなっているのです。したがって、長期、ここでは仁徳87年以前、およそ千年間ほどになりますが、その間の暦のずれあるいは誤差は元嘉暦よりも少ないのであります。これもまた理にかなっています。
 そして、さらに注目すべきは儀鳳暦の使われ方であります。定説によると、編纂者は儀鳳暦を平朔で使用しているのです。平朔というのは一朔望月(月の満ち欠けの一巡)の平均値を利用したもので、恒朔とも呼ばれています。これの長所は、大の月と小の月を交互に配置することが容易だということ。短所は、実際の朔が暦上の朔(ついたち)とはずれてしまうことです。儀鳳暦を平朔で使用した場合、暦元・太陽年・太陰月が元嘉暦との違いとなります。暦元というのはそれぞれの暦法の計算上での始発点です。理想的には、干支の始まり・一年の始まり・一月の始まり・一日の始まりが0時0分0秒で一致している時点ということになります。太陽年というのは一年の長さを日の単位で表わしたもの。太陰月というのは一朔望月の長さを同じく日の単位で表わしたものです。
 下にそれぞれの暦法の定数を示しました。

  太陽年 太陰月
元嘉暦 365.2467日 29.53058日
儀鳳暦 365.2447日 29.53059日

 なお、参考文献として『古代の暦日』と『日本書紀暦日原典』、共に雄山閣出版を利用しましたが、ここで述べることの殆どは全くの一試論であり一私論に過ぎません。

19年7潤の雛形

 さて、儀鳳暦を平朔で使用した場合どのようになるのか、また、元嘉暦のように19年7潤といった雛形が得られるのか、兎にも角にも『日本書紀』にそれを探ってみましょう。
 『日本書紀』には、仲哀元年壬申年から持統九年乙未年までの間に合わせて16個の閏月の記載があります。また、これに先ほど述べた参考文献に載る閏字脱落日付三件、垂仁23年甲寅年と履中5年甲辰年と欽明31年庚寅年とを加えて計19個の閏年を1500と1年分の干支年表に落としてみますと下のようになります。なお、下表は必要部分の抜粋です。

・・・・・・③年・・・・・・・⑥年・・・・⑧年・・・・・・・⑪年・・・・・・・⑭年・・・・⑯年・・・・・・・⑲年  ⇒ 19年7潤
丁未・戊申・己酉・庚戌・辛亥・壬子・癸丑・甲寅・乙卯・丙辰・丁巳・戊午・己未・庚申・辛酉・壬戌・癸亥・甲子・乙丑・垂仁二三年

丁巳・戊午・己未・庚申・辛酉・壬戌・癸亥・甲子・乙丑・丙寅・丁卯・戊辰・己巳・庚午・辛未・壬申・癸酉・甲戌・乙亥・仲哀元年

丙戌・丁亥・戊子・己丑・庚寅・辛卯・壬辰・癸巳・甲午・乙未・丙申・丁酉・戊戌・己亥・庚子・辛丑・壬寅・癸卯・甲辰履中五年

辛酉・壬戌・癸亥・甲子・乙丑・丙寅・丁卯・戊辰・己巳・庚午・辛未・壬申・癸酉・甲戌・乙亥・丙子・丁丑・戊寅・己卯・清寧四年
庚辰・辛巳・壬午・癸未・甲申・乙酉・丙戌・丁亥・戊子・己丑・庚寅・辛卯・壬辰・癸巳・甲午・乙未・丙申・丁酉・戊戌・
己亥・庚子・辛丑・壬寅・癸卯・甲辰・乙巳・丙午・丁未・戊申・己酉・庚戌・辛亥・壬子・癸丑・甲寅・乙卯・丙辰・丁巳・安閑元年
戊午・己未・庚申・辛酉・壬戌・癸亥・甲子・乙丑・丙寅・丁卯・戊辰・己巳・庚午・辛未・壬申・癸酉・甲戌・乙亥・丙子・欽明九年
丁丑・戊寅・己卯・庚辰・辛巳・壬午・癸未・甲申・乙酉・丙戌・丁亥・戊子・己丑・庚寅・辛卯・壬辰・癸巳・甲午・乙未・欽明三一年
丙申・丁酉・戊戌・己亥・庚子・辛丑・壬寅・癸卯・甲辰・乙巳・丙午・丁未・戊申・己酉・庚戌・辛亥・壬子・癸丑・甲寅・敏達十年
乙卯・丙辰・丁巳・戊午・己未・庚申・辛酉・壬戌・癸亥・甲子・乙丑・丙寅・丁卯・戊辰・己巳・庚午・辛未・壬申・癸酉・推古十年・十三年
甲戌・乙亥・丙子・丁丑・戊寅・己卯・庚辰・辛巳・壬午・癸未・甲申・乙酉・丙戌・丁亥・戊子・己丑・庚寅・辛卯・壬辰・
癸巳・甲午・乙未・丙申・丁酉・戊戌・己亥・庚子・辛丑・壬寅・癸卯・甲辰・乙巳・丙午・丁未・戊申・己酉・庚戌・辛亥・
壬子・癸丑・甲寅・乙卯・丙辰・丁巳・戊午・己未・庚申・辛酉・壬戌・癸亥・甲子・乙丑・丙寅・丁卯・戊辰・己巳・庚午・斉明五年・天智六年
辛未・壬申・癸酉・甲戌・乙亥・丙子・丁丑・戊寅・己卯・庚辰・辛巳・壬午・癸未・甲申・乙酉・丙戌・丁亥・戊子・己丑・天武二・十・十三年
庚寅・辛卯・壬辰・癸巳・甲午・乙未・丙申・丁酉・戊戌・己亥・庚子・辛丑・壬寅・癸卯・甲辰・乙巳・丙午・丁未・戊申・朱鳥・三・六・九年
・・・・・・1潤・・・・・・・2潤・・・・3潤・・・・・・・4潤・・・・・・・5潤・・・・6潤・・・・・・・7潤    └ 持統 ┘

 周知のように、暦法は安康紀を境に異なっています。閏記事は、元嘉暦圏では16個、儀鳳暦圏ではわずか3個しかありません。しかし、この表を見る限り閏年の位置は両暦とも決まった位置にあるように見えます。そもそも、元嘉暦と儀鳳暦とでは1000年で2日ほどの誤差が出るだけです。単純には1000年の間に大の月を4回ほど多くすれば誤差は解消します。
 平朔では、普通17ヵ月置きぐらいに大の月を続けて置き平均朔望月との誤差を解消しています。無論、これでも誤差が完全に無くなるわけではありません。また、19年7潤法とは言っても暦の最小単位は一日ですから、19年毎に時間の端数が無くなるわけではありません。ちなみに、元嘉暦の19年は6939.6875日、儀鳳暦では6939.6507日となります。小数点以下は端数で、この端数が次の19年に影響しますが、どちらも端数が出ることに変わりは無く、したがって、儀鳳暦、正確には儀鳳暦定数を平朔として用いても19年7潤での使用が出来ることに不思議はありません。
 既に述べたことですが、平朔の長所は大の月と小の月との交互の配置が容易だということ。加えて、19年7潤法の長所は、閏年の配置を固定できることです。上の表からも分かるように、19年中での閏年の位置は、3年目・6年目・8年目・11年目・14年目・16年目・19年目と固定されています。あとは閏月と大の月の続く月を決めればいいだけです。
 思うに、定朔と進朔をしなければ、破章法の儀鳳暦が十九年七閏法の章法として使うことができるようになるのです。そもそも、安康天皇以前、千年に渡る暦日干支を本来の儀鳳暦で得るには大変な時間と労力を費やすことは、目に見えて明らかであります。それに比べ、前にも述べましたが章法の利点は、19年分の雛形を作れば繰り返し使えるということです。すなわち、過去に向かって延々と続く干支の流れの中に19年分の雛形を次々と並べていけば、思いの年の暦日干支がその枠の中にいとも簡単に浮かび上がってくるのです。

 最後に、本来の定朔での儀鳳暦を用いた場合について、参考文献より引用してみますと

…平均朔望月の長さは29日半強である、と言っても月の運動は複雑でかなり長短がある。短い時は29.27日、長い時は29.83日ほどになり平均の29.53日とはかなりの差がある。そこで太陽や月の位置を計算して月の運動の平均運動からのずれを算出し、平均の朔の時刻に補正を加え、月の実運動を忠実に追って朔を求めることを定朔という。定朔を用いると毎月の大小の配列は多様になって大の月は4か月、小の月は3か月も続いたりすることが生ずる。
…当然のことながら定朔の計算は平朔とくらべて、はるかに複雑で数倍の手間がかかるのであるから、1300年も遡った時代からの干支の配当にわざわざ定朔を用いる愚は避けたのであろう。
日本書紀暦日原典より―

 このように見てまいりますと、両暦の使い分け、儀鳳暦の平朔使用、何度か言ったとは思いますが、まことに理にかなっているというほかはありません。古代とはいえ、『日本書紀』の編纂者は非常に合理的精神の持ち主であったということであります。
 そうしますと、19年ごとに繰り返す章法の暦観、「記紀」の編纂者が彼らの知らない遠い過去や未来の天皇の世を、19年あるいはその整数倍として捉えたとしても何ら不自然ではありません。ちなみに、初代天皇、神武の治世は『日本書紀』では76(19×4)年となっています。これは、(19年×n)のモードに他なりません。