昭和は遠くなりにけり

古代に思いを馳せ、現在に雑言す。・案山子の落書・

§2.漢の倭の奴國はなかった。

 例えとしてはどうかとは思いますが… 先ずは始めましょう。

 大和は本来奈良盆地の東南地域だけを指しての呼称でした。それが時代が降るとともに拡大されて、先ず奈良県全体を指す呼称へと変わり、そして最後は大和民族という呼び方があるように日本の国を指す呼称へと変わって行きました。
 そこで、そうゆうことなら、漢委奴國、あるいは倭奴國、さらには伊都國の場合はどうかと考えてみたのです。そこで、時代を卑弥呼の時代まで降ってみましょう。すると、「魏志倭人伝」の記す戸数千余戸は狭義の伊都國、「魏略逸文」の記す万余戸は広義の伊都國とすればいいことに気がつきました。

漢委奴國の後裔

 邪馬台国親魏倭王の称号を持ち、30ヵ国もの国々を統治する王国です。官の配置は国家の威信を示すものです、何の決め事もなく官を配置することはあり得ません。そう考えての前回での仮説でした。この仮説、的は存外はずれてはいないと思います。そうなりますと、奴國、ますます取り除ける可能性が出てまいりました。しかし、「二萬餘戸 東南百里」がまだ残っています。
 そこで、仮説をもう一つ立てましょう。

● それは、奴國が漢委奴國か、あるいは伊都國が漢委奴國かということです。

 漢委奴國の初出は建武中元二年(57年)、後漢光武帝の時代です。『後漢書』に

倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬

とあります。
 後漢代で、倭國に関する公式外交記録としては、他に安帝の永初元年(107年)の記事

倭國王帥升等 獻生口百六十人 願請見

があるのみです。
 ただ、この倭國と委奴國とが別の国だとする見解もあるようです。なお、漢委奴國の表記は金印からのもので、『後漢書』の倭奴國のことです。
 倭奴國の前身については想像するほかありませんが、『漢書』の地理志に

…樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云…

とあります。
 このことから、倭奴國は楽浪郡設置のBC108年頃には百余国中の一国にすぎなかったと思われます。

 さて、百余国中の一国から徐々に国力をつけた倭奴國はやがて頭角を表わすとともに覇権を得て、中元二年(57)には後漢より漢委奴國王の称号を与えられています。BC108年頃に百余国あった倭人国が、この時期どの程度の数が淘汰されて減っていたかは分かりません。しかし、減った数の分だけ倭奴國が大きくなったことは確かでしょう。
 ところで、先ほどの永初元年に後漢王朝より倭國王という称号をうけた国が漢委奴國とは違う国だとする見解があるといいました。しかし、仮にそうだとしても、その国が漢委奴國を差し置いてどのようにして覇権を得ることが出来たというのだろう、それに違う国なら『後漢書』に当然そうした記載があるはずです。やはりこの時期、倭奴國は更に拡大し名実共に倭を代表する国家へと成長していったと見るべきでしょう。また、そう見ることで、この時期に最初の倭人国の王ではなくいわゆる倭国の王が誕生したと言い得ることが出来るようにもなります。

 思うに、『後漢書』が記す「倭國王帥升等 獻生口百六十人 願請見」というさりげない記事の裏に倭国大変貌があったことは確かなことです。なお、『北史』と『隋書』はこの国を倭奴國としています。

成長する古代国家

 倭奴國王と倭國王をとの違い、そこには隔絶するほどの権力の差があったはずです。そして、そのことが倭国を大乱へと導く要因となったと思われます。ただし、倭國王の表記を倭奴國王を単に略したものとする見方があります。しかし、略して尚且つ意味が通じるとされる倭奴國王の実力、そもそも生口百六十人を献じるという背景には倭奴國王の倭國王としての絶大の権力があったと想定する他はないでしょう。
 すなわち、倭奴國王から倭國王への変貌が倭国を変貌させた。そして、なによりも倭奴國そのものが大きく変貌した。このことを抜きにして、那珂川の入り江近辺に二万余戸の弥生国家奴國を想定したり、糸島半島の付け根に一万余戸の同じく弥生国家伊都國を想定したりすることは無駄というほかありません。

 ところで、倭奴國が膨張した場合どのようなことになるでしょう。単純には、膨張前の国に対する呼び名と膨張後の国に対する呼び名との二つの呼び名ができるはずです。つまり、以前のままの倭奴國と仮称大倭奴國とです。この場合、以前の倭奴國はどのように扱われるのでしょうか。おそらく、「倭人伝」の中の伊都國のように特別な地域として扱われるのではないでしょうか。もしそうだとすれば、漢委奴國は奴國にはなり得ず、伊都國へたいしてのみ可能となります。
 そうすると、伊都國は委奴國の別表記ということになります。おそらく伊都國と表記したのは委奴という卑字を嫌ったためと思われます。伊都國は、中国の使者が留まったり一大率が置かれてもいる特別な国です、そういったことは当然ありうることです。そして、そのように考えれば、倭奴國を「倭人伝」の記す戸数千余の伊都國とすることもでき、膨張した倭奴國を『魏略』逸文にある戸数万余の伊都國とすることも出来るようになるのです。しかも、「倭人伝」と『魏略』のいずれの記事もが妥当となり得るのです。

 さて、これまでに述べたこと、内容の是非は別として、齟齬を感じなかった読者は倭奴國を「いとこく」と読んだのだと思います。また、齟齬を感じた読者は「わのなこく」と読んだのだと思います。実は、この章の最初に「漢委奴國、あるいは倭奴國、さらには伊都國」としたためたのは倭奴國を「いとこく」と読んでほしかったからです。

漢委奴國は漢の倭の奴國か

 漢委奴國王を「漢の倭の奴国王」とする読み方は、漢委奴國を「魏志倭人伝」に載る奴國の前身と見ることから始まったものです。また、奴國を「なこく」と読むのは九州博多地区を儺県(ながあがた)と呼んだ時期があり、その名残りの那(な)によるものです。従って、この読み方が正しいかどうかは、儺県に漢委奴國の遺産が残されているかどうかを確かめればよいことになるはずです。
 ところで、前章では「記紀」に載る北部九州の三つの地名、末盧、伊都、宇美を「魏志倭人伝」の、末盧、伊都、不彌にそれぞれ対応させました。無論、これが正しいと言うのではありません。ただ、神功紀の分注に「魏志倭人伝」からの引用があることから、『日本書紀』そして『古事記』の編纂者が「魏志倭人伝」を読んでいると判断したからです。そして、それなら彼らはこの「魏志倭人伝」からどれだけの国名を理解しえたのだろうかと考え、神功記そして神功紀と仲哀紀とからこの三点セット(末盧・伊都・宇美)に至ったわけです。
 前章では、この「記紀」の三点セットと国生み神話とから、少し乱暴であったかもしれませんが、奴國の官制を末盧國へ移すことができました。また、「記紀」の三点セットという突拍子もないものに固執したのは、「記紀」編纂者らにも末盧から邪馬壹までの6ヵ国のうち、末盧、伊都、不彌の三国以外は理解でき得なかったという、いささかというよりもかなり乱暴な結論を引き出し、とどのつまりは、彼らの理解でき得なかった国は抹消、あるいは更地にして、理解のできる形に再構築するべきという、これもまた乱暴な結論に至ったわけです。
 思うに、「記紀」の編纂者にも分からなかった地名が現代の我々に分かるはずはありません。まして、通説にとらわれて奴國を那国とすることに固執してしまっては、せっかく神功紀にも、かつ神功記にも那の県どころか那の津さえも姿が見えていない事実を無駄にしてしまう事になります。そもそも、当時の港が伊都の近辺にあったことは「魏志倭人伝」が述べていることでもあります。港を支配することは当時の覇者の必須の条件です。もし覇者である漢委奴國王が奴國の王であるならば、当然漢委奴國王の最大の遺産である港は奴國にあり、加えて倭國の港を管理する一大卒は当然奴國に居たはずです。しかし、一大卒が居たのは伊都國です。それに、通説が奴國とする地域に、奴國を覇権国家へと導けるような港があったかどうか、疑問です。

奴國と儺県は有名無実の関係

 下の図は神功紀と仲哀紀に載る北部九州の海に面した4つの県の凡その位置関係を示したものです。

 さて、仲哀紀によれば天皇一行が筑紫に入ることを聞きつけた岡県主が船で周芳の沙麼に出迎えたといいます。周芳の沙麼は今の山口県防府市あたりですから非常に遠くから出迎えたことになります。また、同じように聞きつけた伊都県主が今度は穴門の彦島に船で出迎えたといいます。穴門の彦島というのは今の山口県下関市ですからこれも非常に遠くから出迎えたことになります。
 こうした出迎えは、天皇の権威の表れと言ってしまえばそれまでですが、ただそうだとしても実は儺県主がなぜかこれに加わっていない。順序からすれば、岡県主の次が儺県主となるべきだと思うのだが、それとも権威の誇示よりも地名説話の有る無しの方が大事ということなのだろうか。しかし、岡県主には何の説話もないのです。それに説話と言っても所詮はこじつけですから、無ければ作ればいいだけのことではないだろうか。どう割り引いても、儺県主が顔を出さないのは不可解です。
 そもそも儺県は筑紫の表玄関とも呼べる那の津を擁する古代の地方行政区域です。しかも仲哀紀をしたためた『日本書紀』の編纂の時期には那の津は那の大津とも呼ばれ遣唐使船等の出発港でもありました。従って、そうした行政区域からの天皇への出迎えの記事のない仲哀紀は、それを編纂する側にもまたそれを読む側にも不自然な感を与えるのではないだろうか。しかし、この港が出来たのが当時の人の記憶に残るほど新しいものだとしたら如何だろう、当然仲哀天皇の時代では天皇を出迎える船はなかったということになり、誰もがそうした記事のないことにも得心するのではないだろうか。

 ところで、古代では唐津湾から博多湾にかけての津の中心は糸島水道にあった可能性があります。糸島水道というのは図.2bにあるように糸島半島のつけ根部にある唐津湾に開いた河口と博多湾に開いた河口とが繋がっている状態をいうものです。しかも時代を遡れば遡るほどこの二つの河口は奥行きも広かったということでもあります。従って、この水道が塞がったとしてもこの二つの河口は港として充分に機能したろうということです。

 卑弥呼の時代、この水道は当然開いていました。しかし、神功紀が書かれた時代、この水道は閉じていました。しかし、神功紀が書かれた時代においてさえこの糸島の港は有名だったようにも見えます。
 たとえば、神功紀によれば、神功皇后新羅遠征への筑紫での出発地点をこの糸島の港としているように見えます。無論、懐石の説話のために糸島つまり伊都に立ち寄らせたとも出来ますが、伊都の説話は既に仲哀紀に載っているのです。それに何より『古事記』では皇后が新羅遠征から帰還し、懐石を捨てたところが伊都だとしているのです。つまり伊都は、皇后の本土上陸の最初の地点であり本土出発の最後の地点だという事を「記紀」は教えているのです。しかもこの糸島の港の有名さは、「記紀」編纂の時点まで語り継がれるほど長い期間そうであったことをも教えているのです。

 卑弥呼の時代、通説が奴國とする地域に国家が管理するほどの港はなかった。しかし、伊都國には後世に語り継がれるほどの港があった。つまり、奴國には古代の覇者の必要条件とされる有力な港がなく、伊都國にはそれがあった。従って、奴國を古代の覇者漢倭奴國の後裔とすることはできないが、伊都國をそれとすることはできるということです。
 どうやら奴國を通説から切り離し浮き上がらせることだけは出来たようです。ただし、これはあくまで奴國と伊都國とが異なった国である場合のことでの結論です。本当に証明しなくてはならないのは、漢倭奴國⇒(倭)奴國⇒伊都國なのです。しかし、漢倭奴國を「漢の倭の奴国」と読む限り、また奴國を「なこく」と読む限りこの証明は不可能です。つまり、この場においては「漢の倭の奴国」はなかったとする他はないのです。