昭和は遠くなりにけり

古代に思いを馳せ、現在に雑言す。・案山子の落書・

§44.平城京の交差点、大極殿と東大寺大仏殿。

 交差点とは、道の集まるところであると同時に道の分かれるところでもあります。そういう意味では分岐点とも起点ともさらには中心とも呼べるものでもあります。

 「記紀」の書かれた時代、その時代の中心は平城宮第一次大極殿にありました。その大極殿玉座にいたのが元明と元正、二人の女帝です。そして、この二人の女帝の時に日本の歴史の起点「記紀」が成立しているのです。
 では、「記紀」は二人の女帝のために書かれたものなのだろうか。…
否、そうではありません。しかし、その答えは二人の女帝の居た大極殿玉座の東と南とに目を遣ればたやすく見つかります。

 上図からもわかるように、平城宮第一次大極殿の東には聖武陵があり、南には見瀬丸山古墳があります。しかも、聖武陵は一条小路ときれいに重なっていますし、朱雀大路は見瀬丸山古墳を起点とする下ツ道と直結しています。つまり大極殿は下ツ道と一条小路との交点つまり交差点に位置しているのです。
 周知のように、平城京一条小路は計画の上でのものです。下ツ道もまた計画の上でのものです。そうしますと、大極殿聖武陵もまた計画の上でのものということになります。しかも、聖武陵よりも早くできた大極殿の位置は後からできた聖武陵の位置に拠っていると…。
 何度か言ったことですが、「記紀」は聖武天皇のために書かれたものであると。そして、今またそれに大極殿を中心あるいは交差点とする平城京もまた聖武天皇のために造られたという一言を新たにつけ加えることとなります。

平城京条路の基準

 平城京都城の形は、その前後に出来た藤原京平安京がきれいな矩形であるのに対してその東に矩形の出っ張り部りを持つ歪な形をしています。またその宮域部もこれに合わせてか、やはり東に出っ張り部を持っています。
 思うにその原因は、平城京があまりに北により過ぎていることにあるのではないかと。 実際、平城京を一条ほど南に引き下げますと、宮域にかかる大型古墳の破壊は免れ、しかも一条北大路はウワナベ古墳とその東の丘陵部から離れることが出来、計画上だけではなく現実の大路として東四坊大路と真っ直ぐに繋がるのです。また、京域を今度は東に一坊ほどずらしますと、東西五坊ずつの十坊の京域が得られて、出っ張り部の外京に配せられた寺院を全て京域矩形内に収めることが出来るようになります。
 無論、九条十坊の京城などを想定することは、九条八坊を古代の京城の基本のあり方とする定説からは随分と逸脱するものです。しかし、平城京はその形からして既に逸脱しているとも言えます。また近年聞くところによると、十条大路の遺構が見つかったとか。こうなると、これは逸脱というよりも自由な京城造りと言い換えたほうが好いかもしれません。ただ、そうなるとなぜ京域を必要以上に北に偏らせたのかということになります。

 周知のように、藤原京平城京の南北に走る大路が下ツ道を基準にしていることは誰もが認めている事実です。では、京域を東西に走る大路は何を基準としているのだろう。藤原京の場合は横大路がそれとされています。しかし、平城京の場合、何々が基準となっているといった話は未だ聞いたことがありません。しかし、何かを基準としていることは確かなことです。そして、その基準に合わせた結果、平城京は必要以上に北に偏ってしまったと。
 無論、その基準とは聖武天皇陵のことなのですが、その前に。
 藤原京の中軸線の延長線上に山科山陵と野口王墓があることは古代史に興味のある者なら誰もが知っていることだと思います。しかし、平城京の中軸線上に見瀬丸山古墳と聖武天皇陵のあることは誰も知らないというより、誰も言った験しがないと言うべきかもしれません。実際、見瀬丸山古墳はともかく聖武陵は中軸線上にはないのですから。しかし、大極殿平城京の中心と見れば、これを東西によぎる線、ここでは一条小路(条間路)となりますが、これは紛れもなく中軸線と言えます。
 ところで、平城宮の形、これはいわゆるカギ形をしています。カギ形というのは細長い矩形を直角に折り曲げた形で、平城宮でいえば南北に延びている宮城(矩形)を東のほうに折り曲げた形と見做せます。つまり、南北に延びる中軸線が宮域で東に曲げられたということになるのです。そして、このように解釈すれば、平城京の中軸線上に見瀬丸山古墳と聖武陵があると言える事にもなります。
 無論これだけでは説得力に欠けるかも知れません。しかし、曲げられているのは何も平城京の中軸線だけではないのです。実は、藤原京の中軸線もまた曲げられているのです。

 藤原京の中軸線を北に延ばすと、平城京内では東二坊大路となります。そして、この二坊大路は図.44aからも分かるように、平城宮の東で折り曲げられて一条大路に繋がっています。なお、通説では二坊大路が直進を遮られ東に折り曲げられた原因を大路北進方向前面にある海龍王寺としています。また通説によれば、海龍王寺は平城京建設以前から存在している何らかのいわくのある寺であるため、二坊大路をこの寺域の手前で曲げる他はなかったのではないかともしています。
 思うに、東二坊大路は藤原京の中軸線です。この中軸線が曲げられたということは、この先に位置する山科山陵との繋がりが断たれたということになります。では、なぜ山科山陵との繋がりを断ったのだろう。それは前章でも少し述べているように、天智天皇が廃仏派であったことによることが最大の理由と思われますが、あるいは文武天皇の遷都宣言によるものかもしれません。しかし、それはともかく中軸線は曲げられるということです。しかも、これによって大極殿を通る中軸線の両端に陵墓があるという藤原京の原則、無論藤原京だけでは原則とは呼べないのですが、それが平城京にも当て嵌まるとなると、これはやはり原則ということになるのです。

聖武陵を決めた法隆寺山田寺

 大極殿を通る中軸線の両端には陵墓がある。余談かもしれませんが、藤原京の場合はどちらも天皇陵です。そうなると、平城京の場合も天皇陵でなくてはならなくなります。つまり見瀬丸山古墳の主は天皇であると。
 それはともかく、平城京の条路の基準となる聖武陵の位置をどうやって決めたのであろう。前章でも、またこれまでにもそれについての凡そのあらましは述べていますので改めて説明するまでもないとは思いますが、少し付け加えておきましょう。

 上図.44aの中で平城京造営計画以前より存在するのが法隆寺山田寺です。そして、何度も言っているように、法隆寺から北東に延ばした線上に聖武陵があるのです。無論、これは正確にと言いきれるものではありません。また、山田寺から北に延ばした線上にも同じく聖武陵がありますが、無論、これも正確にというわけではありません。実際、この二つの交点は正確には聖武陵よりも少々南寄り且つ西よりの位置にあります。
 さて、この場合この位置に必要とされるのはこの大極殿の主の陵墓となるもの、欲をいえば陵墓と見做せるものです。それは小高くふくらんだ丘が最適ということなのですが、地形図を見れば分かると思いますが、この位置のすぐ北に佐保丘陵の飛び出しがあるのです。これは稀有の偶然というよりも、古代人には神意と見えたかもしれません。

 ところで、多少の反論はあるとは思いますが、『古事記』は元明天皇の代に完成しています。また、『日本書紀』が完成したのは元正天皇の代であります。しかし、この編纂を命じたのは間違いなく元明でしょう。また、元明が孫の聖武のために「記紀」を編纂させたことも間違いのないことでしょう。思うに、「記紀」はいわゆる過去を扱う歴史書です。しかし、「記紀」には未来の王である聖武への願望が託されています。ある意味では、元明は孫の聖武の未来をも編纂させたとも言えるのかも知れません。そして、おそらく聖武の陵墓をも。
 思うに、聖武聖徳太子の生まれ変わりとしたいというのが元明の願望ではなかったのか。また、聖武に祖父蘇我倉山田麻呂の造寺造仏の遺志を引き継がせたいというのが元明の願望ではなかったか。そして、そのために法隆寺の北東の地と山田寺の北の地の重なるところを聖武陵と定め、その陵を基準として東西に引いた直線を平城京の中軸線とし、それと南北に引かれたもう一方の中軸線との交点を大極殿とする平城京を造営した。これ、全ては聖武のためであり、同時に元明の願望でもあった。

 天平17年(745)、聖武元明の願望に答えるかのように平城京の東の地において大仏の建立を始めます。さて、この大仏建立の地とされた位置ですが、あるいはこれも元明の願望の地しかも正確な位置であったのかもしれません。

 上は、法隆寺山田寺東大寺の金堂と塔との配置図です。なお、縮尺は同じではありません。
 さて、この三つの寺、図を見る限りにおいては三者三様の塔と金堂の配置となっています。しかし、東大寺から法隆寺山田寺とを見た場合必ずしもそうとは言い切れないのです。東大寺の場合、普通西塔と金堂と東塔という風に東西関係で捉えられるのですが、これを南北関係で捉えると東大寺の塔は全て南塔ということになります。これは正に山田寺と同じです。
 ところで、東大寺の中軸線、これは普通、南大門、金堂(大仏殿)、講堂といった南北の軸で捉えることになります。この図ではほかに山田寺がそうなっています。しかし、法隆寺の場合は如何でしょう。この場合、中軸線を南北で捉えるのは難しいのではないだろうか。そうすると、東西で捉えることになります。
 しかし、もしかしたら法隆寺の金堂は南面しているから東西の線は金堂の側面を貫くため中軸線とは呼べないと言うかもしれません。しかし、それなら橘寺の場合は如何だろうか。
 橘寺は、東西に塔と金堂が並びしかも金堂は塔に向かいあっています。従って、この場合東西に引かれた線は、塔の中心を通りぬけ、さらに金堂の正面からその中心を通り抜けるようになります。つまりは中軸線となるわけです。

 平城京の中軸線線でも述べたことですが、中軸線は南北だけとは限らず、東西にも想定が可能です。平城京についていえば、大極殿を通るものが中軸線であると。これを寺に当てはめれば、塔と金堂を通るものが中軸線であると。
 そこでもう一度、図44bに目を遣ると、東大寺の中軸線は聖武陵と東大寺西塔と東大寺金堂とを結ぶ線だということがわかります。また、聖武陵や東大寺の西と南に位置する法隆寺山田寺、そのそれぞれの中軸線をそれぞれ西と南からたどれば共に塔そして金堂へと続きやがて聖武陵を経て東大寺の塔そして金堂へと繋がります。つまりこの三つの寺の塔と金堂の配置は同じだということになります。しかも、東大寺の金堂つまり大仏殿を通る中軸線は聖武陵を経て平城京大極殿にも繋がったことになります。