昭和は遠くなりにけり

古代に思いを馳せ、現在に雑言す。・案山子の落書・

§1.奴國を取り除け、戸数は語る。

 邪馬台国問題は、煎じ詰めれば「魏志倭人伝」そのものの問題です。どう解釈するかということも大事ですが、忘れてならないことは "「魏志倭人伝」は陳寿の作ではあるが、陳寿の見聞録ではない "ということです。つまり、「魏志倭人伝」は他者の手になる資料を陳寿が集め、彼自身の考えの下で再度組み立てられた結果出来上がったものだということです。
 従って、「魏志倭人伝」というそうした文献が引き起こす諸問題等への解決の糸口は、陳寿が集めた資料を彼がどのように組み立てたかを先ず知ることから始めなくてはならないはずです。そして、そのためには、陳寿が用いなかった資料を知ることもまた大事なこととなるはずです。つまり、用いた資料は陳寿を含む当事者の証言、用いなかった資料は第三者の証言ということになります。

パズルる邪馬台国

 早速始めたいと思います。ただ、じぃじぃだすのことでございます、くどくどと前置きが少々長くなりますことを前もってお断りしておきます。また、これは連載ものですので適当な長さで話を切り揃えたりもいたします。これも前もってお断り申し上げておきたいと思います。

さまよえる古代

 タクラマカン砂漠の蜃気楼の中にさまよえる古代都市国家楼蘭がある。スウェン・ヘディンは楼蘭がさまようのはロプノール湖がさまようからだといい。近代科学はロプノール湖がさまようのは気候がさまようからだという。
 伝説のみやこ楼蘭は、古代という砂漠の上で揺らぐ蜃気楼と近代科学との狭間を、眠れる女王のとわの夢をいだいて今もさまよっている。

 「考古学は総合科学」と言われだしてから久しくなります。近代科学の前では、楼蘭邪馬台国老い先わずかの夢を剥ぎ取られた老婆のように、やがては行くことになる古代という墓標の前にうずくまるほかはないようです。今や文献史学は意味不明のお経の感すらあり、考古学との溝が広がっています。しかし、この溝を埋めるのはおそらく文献史学でありましょう。なぜなら、考古学は近代科学の分析データに益々縛られて来るからです。
 それはさておき、遥か西北の砂漠の中をさまよう伝説の古代都市国家楼蘭ならば、遥か東南海中をさまよう伝説の古代都市国家が我らが邪馬台国である。邪馬台国をさまよわせているものは何か、吉野ヶ里か、纏向か、はたまた三内丸山か。
 邪馬台国は「魏志倭人伝」の中にのみ存在する都市国家である。たとえ親魏倭王の金印がどこからか掘り出されようとも、漢委奴国王の金印が何も語らなかったように、それもまた何も語らないであろう。強いて年輪や同位元素に語らせたとしても、さらに邪馬台国をさまよわせるだけである。

 思うに、一番最初に邪馬台国をさまよわせたのは、皮肉にも「魏志倭人伝」そのものなのです。「倭人は帯方の東南大海の中に在り」より始まる通称「魏志倭人伝」の里程あるいは道程と呼ばれている位置関係を示す記事データーが、邪馬台国を西へ東へとさまよわせているのです。
 それならば、それらの記事のデーターを取り除けばよい。誰しも考えることではないのか。いや、いっそすべてを取り除いたらどうだろうか。もっとも、これは誰もが考えることではないのかもしれない。

戸数は語る

 今日、古代日本というよりも先史時代とも呼べる日本を知る上で「魏志倭人伝」は欠かせない史料ではあります。ただ、誰もが読んで感じるように、そのままでは古代国家成立の過程を探る資料としては精度がかなり落ちると言うほかはありません。そこで、少し工夫をしてみましょう。無論、先ほどの極端な考えを用いてですが。

 「魏志倭人伝」の中から国名とされるもの、それも今日理解が可能なもの以外を取り除くと、狗邪韓、倭、對馬、一大、末盧、伊都の六国ほどしか残りません。しかし、これとても順序良く並んでいるからこそ可能であって、単独では狗邪韓と倭以外は分からなかったかもしれません。しかし、そういうことであれば「魏志倭人伝」順序だけは合っているのかもしれません。
 それなら、伊都の後を続けてみましょう。伊都の次に来るのは何か。実は、宇美が来るのです。無論、「魏志倭人伝」では奴国が来ます。しかし、『古事記』の神功皇后の物語を読むと分かると思いますが、ここには奴(那)という国も地名も登場しません。その代わりに、末盧、伊都、宇美が神功記での物語の舞台として登場しています。
 なお、『日本書紀』には儺県と儺河とが出ていますが、それらは「なノ県」と「なノ河」という読みではなく、「なが県」と「なか河」となっていて奴(那)という地名からのものではないように見えます。
 そういう訳で、「魏志倭人伝」から宇美に当たるものを探してみますと、不彌がそれに当たりそうだということになります? …とりあえずはそうしておきましょう。
 そうなりますと、順序として不彌の前にある奴国が邪魔になります。そこで、奴国が取り除けるかどうかを試みてみましょう。

 下に示す表は、陳寿が自身で集めた資料を基に陳寿自身の考えの下で組み上げた倭国です。私は、これをジグソーパズルの一つの解、つまり陳寿の解答であって正解とは見ていません。それは陳寿の解答にはピースの埋まっていない部分があるからです。
 なおこの表は、「倭人伝」の里程記事を順序通りに五項目にまとめ、表中に収まるよう適当に縮めたものです。

表.1a 陳寿が組み立てた倭國
国名 官名 副官名 戸数 里程
對馬 卑狗 卑奴母離 千餘戸 海渡千餘里
一大 卑狗 卑奴毋離 三千許家 海渡千餘里
末盧     四千餘戸 海渡千餘里
伊都 爾支 副官二名 千餘戸 東南五百里
兕馬觚 卑奴毋離 二萬餘戸 東南百里
不彌 多模 卑奴毋離 千餘家 東行百里
投馬 彌彌 彌彌那利 五萬餘戸 南水行二十日
邪馬壹 官四名   七萬餘戸 南水行十日陸行一月

 ご覧のように、この表には空欄があります。つまり、パズルの答えとしては不完全ということになります。無論、空欄もまた一つのピ-スとする見方もあります。つまり、陳寿の用いた資料には最初からそれ等の情報が無かったとする見方です。しかし、これでは単に水掛け論を招くだけで話の進展へとは繋がりません。また、それ等を脱字等によるとする見方も同じような結果を招きますから、ここではそうした見方等は後に回して、先ずはこれを陳寿自身のミスと見做して話を進めることとします。

末盧国の官を探せ

 「倭人伝」によれば、邪馬台国は倭の三十ヵ国を束ねる盟主国とあります。従って、そこには邪馬台国が三十ヵ国を束ねるために設けた国々の仕組みあるいは制度が当然あるはずです。そして、それらの制度にはそれらの基となる何らかの決め事もまたあるはずです。
 そこで、先ず最上段の二番目の項目、官名の卑狗に注目してください。この官のある国は、對馬、一大といった遠隔の島国です。また、邪馬台国の敵対国狗奴国にも狗古智卑狗があることから、卑狗は自由裁量権を認められたかなり身分の高い者の官職名と見ることができます。又、ついでということではありませんが、すこし付け加えますと、狗奴国もかっては邪馬台国の一員であった可能性があります。
 次いで三番目の項目、副官の卑奴毋離に目を遣りましょう。この官があるところは、對馬、一大、奴、不彌の四ヶ国となっています。この中で奴の二萬餘戸を除けば、あとは對馬と不彌の千餘戸と一大の三千許家という具合にすべて単位が千戸代となっています。
 そこで、今度は仮説、最初の仮説ということになります。これを立ててみましょう。

● それは、卑奴毋離は戸数一万に満たない地域に置かれた官職だとすることです。

 そうすると、伊都の千餘戸と奴の二萬餘戸とがこの仮説に当てはまらなくなります。この場合、奴は当てはまらない方が都合が良いのですが、伊都が当てはまらないのでは都合良くありません。しかし、幸いなことに「…伊都國、戸万餘…」とする『魏略』逸文があります。下は、日本に伝わる「翰苑巻三十」に残るその『魏略』逸文です。なお、これは岩波文庫からの抜粋です。

従帯方至倭、循海岸水行、歴韓國、到拘邪韓國七千里。始度一海千餘里、至對馬國、其大官曰卑狗、副曰卑奴、無良田、南北市糴。南度海、至一支國、置官、與對同、地方三百里。又度海千餘里、至末盧國、人善捕魚、能浮没水取之。東南五百里、到伊都國、戸萬餘、

 通説では、「魏志倭人伝」は『魏略』を参考にしているとも言われているのですが、伊都国の戸数に関してはなぜか違えているようです。しかし、そもそも「魏志倭人伝」は伊都に対しては、中国の使者が留まったり、一大率が置かれてもいる倭国においては特別な国として書き分けているのですから、對馬や不彌と同じ千餘という戸数を宛がうのでは最初からして不自然の極みです。ここは、『魏略』逸文どおり伊都国を万餘戸とするべきでしょう。そうしますと、仮説に当てはまらないのは奴国だけとなり、奴国が取り除けるという可能性が出てまいりました。そこで、どうすれば奴国が除けるかということになるのですが…。

 面白いことに、『古事記』の国生み神話に「吾が身の成り余れる処を、汝が身の成り合わぬ処に刺し塞ぎて、国土生みなさむ」とあります。つまり、この神話と同じ事をここで試みようというのです。そこで、表1aを見てください。一番最初に何に気づかれますか。それは、末盧国にだけ官名の記載がないということではないでしょうか。そう、末盧国には成り合わぬ処があるのです。
 さて、その末蘆国ですが、「倭人伝」の中での末盧國に関する情報は、奴や不彌や投馬の国々よりも多いのです。しかも、對馬や一大の国々の記事と同じように、見聞によったと思えるほどの詳しい記述です。従って、記載漏れや官名の報告漏れがあったとは到底考えられません。そうなりますと、末盧國の官は陳寿の編纂過程で何処かへ紛れ込んだか、誤用されたとする他はないのです。
 それでは末盧国の官は何処へいったのだろう。もしこれが誤用されたのだとしたら、何処かにそれによる不都合が生じているはずです。そう、末盧国の官は隣の奴国へいったのです。末盧国の戸数は四千餘。これは仮説条件では卑奴毋離が存在する国に当たります。逆に、奴国は戸数二萬餘で卑奴毋離の存在しない国に当たります。つまり奴国にとって、官の卑奴毋離の記載記事は不都合を生じさせる余分な記事なのです。
 どうやら国生み神話のように奴国の余分なものを末盧国の足りない処にあてがえば、仮説は不都合もなく完成するようです。

 そこで、表.1aを改めて書き直し、表.1bとしておきましょう。なお、国順を一部変更しています。

表.1b 新たに組み立てた倭國
国名 官名 副官名 戸数 里程
對馬 卑狗 卑奴母離 千餘戸 海渡千餘里
一大 卑狗 卑奴毋離 三千許家 海渡千餘里
末盧 馬觚 卑奴毋離 四千餘戸 海渡千餘里
不彌 多模 卑奴毋離 千餘家 東行百里
伊都 爾支 副官二名 千餘戸 東南五百里
萬餘戸
    二萬餘戸 東南百里
投馬 彌彌 彌彌那利 五萬餘戸 南水行二十日
邪馬壹 官四名   七萬餘戸 南水行十日陸行一月

 この表は戸数に従って、戸数の少ない国を上へ戸数の多い国を下へと順次並べていったものです。そうすると、副官の卑奴毋離が上部の千戸代の組に全て収まり非常にすっきりとしたものになります。それに、新たな何かがまた見えてもきたようです。例えば、千戸代を全て加えると萬餘戸となります。これに『魏略』逸文の伊都国萬餘戸を加えると奴国の二萬餘戸が出ます。この二萬餘戸に投馬国の五萬餘戸を加えると邪馬台国の七萬餘戸が出ます。
 どうやら、パズルはまだまだ進展するようです。