昭和は遠くなりにけり

古代に思いを馳せ、現在に雑言す。・案山子の落書・

§43.輪廻の交差点、法隆寺。

 人は過去を直接見ることはできません。それが現実というものです。前章では、過去を横から眺めましたが、これが出来るのは宇宙広しといえど、アカンベーをして人を煙に巻いて死んで行った物理学界の徐福アインシュタインだけであります。

 思うに、人は過去を見ることは出来ませんが想像することは出来ます。しかし、出来るといっても現代と古代とではその想像の結果に大きな違いが現れます。それは、過去を想像するといっても、ただ漠然と想像すれば良いというわけではないからです。
 普通、過去の何らかを想像するにはそれなりの過去の何らかの情報を必要とします。また、その情報の多さ、その正確さがその想像の結果を左右します。しかし、周知のように古代は情報の記録の極端に少ない時代です。古代での想像には、その初手から既に限界が見えているのです。しかし、古代は過去を想像しています。そして、それは、古代が過去の情報の多寡には影響されない何か別の情報に頼っていることを教えているのです。
 あるいは、無論勝手な推測ですが、またこれ以外には何も思い当たらないからということでもあるのですが、おそらくそれは広い意味での輪廻の思想に拠るものではないかと。

 輪廻の思想がいつ頃より日本にあるのかはわかりませんが、法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘に普遍六道とあることから、7世紀前半までには仏教的なそうした思想はあったということでしょうか。また、そういった宗教的な意味合いを離れて、輪廻を単なる繰り返しという意味合いだけで捉えれば、一日の繰り返し、朔望の繰り返し、季節の繰り返し、人の生き様の繰り返し、そうした過去の繰り返しといったものを人は遠い昔より経験に経験を積み重ねてきています。そして、そうした積み重ねの結果、人は最後には歴史の繰り返しというものに行き当たることになるのではないだろうか。そして、遂には少ない情報を繰り返し使うことに拠って、掴みどころのない過去への想像という無駄を省くことに到るのかもしれません。

法隆寺東大寺をつなぐ聖武

 3章では、法隆寺聖武陵とが、裏鬼門と鬼門との関係に当たると述べました。また、聖武の霊と聖徳太子の霊とが互いに行き交うことの出来る関係にあるとも述べました。もし、法隆寺金堂の嘗ての阿弥陀如来像が天武のために新羅が贈ってきたものだとすれば、加えて、天武すなわち東宮聖王だとすれば、下の様な関係図を描くことができます。

 上図中で、中央の聖武陵と法隆寺との因果図を除いた他の二つの場合は「記紀」編纂当時既にこうした因果関係が成立していました。そして、その二つの因果関係が成立していたからこそ聖武陵と法隆寺との因果が構築されたのだと思います。
 ただ、それにしても聖徳太子の生まれ変わりとされる聖武は、756年5月2日に死亡し、佐保山陵への埋葬が5月19日とされていますから、『日本書紀』奏上の720年5月21日から丁度36年もの月日が流れたことになります。正に因果は繰り返すと言うか、『日本書紀』が描き出した三つの時代が36年を経た後、因果と輪廻の轍によって法隆寺聖武陵との間が現実に目に見えるかたちで繋がったという事でしょうか。
 思うに、輪廻や因果は過去へも未来へも繋がるものです。あるいは、この三つの時代を描き出した『日本書紀』も又そういうものなのかもしれません。もしそうだとしたら、聖武の未来つまり聖武陵は『日本書紀』編纂の時点で既にその場所が決まっていた可能性があります。しかし、これについては次回以降にて取り上げることとします。

 下に載せる図は10万分の1の地図を利用してのもので、厳密には正確なものではありません。しかし、古代という時代を語る場合は、むしろその程度のものの方がより正確な情報を引き出せる場合があります。それに何より必要以上に正確さに拘っていたのでは、直ぐ目の前にある事実さえ拾い上げることが出来なくなります。それに、古代史の迷路を歩む者にとって、正確に迷路を歩むのが好いなどとは笑い話の類ですし、さりとて正確でない歩み方が好いなどとしたのでは、今度は間の抜けた話となります。…
 笑い話にならないうちに、間の抜けた話にならないうちに、とにもかくにも正確かどうかは別として実際に拾い上げてみるのが一番好いという事なのでしょう。

 聖武天皇陵は、法隆寺からは北東の位置、東大寺西塔からは北西の位置にあります。つまり、聖武陵は、法隆寺とは鬼門軸で繋がり、東大寺西塔即ち東大寺とは天門風門軸で繋がっていることになります。このことは同時に法隆寺即ち東大寺という図式をも生み出すことになります。そして、そうなれば、東宮聖王の時代さらには天武の時代に、法隆寺大官大寺と呼ばれていた可能性さえも生まれてくるのです。
 しかし、これについても詳しくは次回以降とし、今回は平城京をも含めた大和全体での輪廻の交差点とでも呼べる遺跡の繋がりについてあらましを述べるということで、この図の説明を続けたいとおもいます。

 何らかの問題点はありますが、この図のなかでは法隆寺が最も古く、そしてその次が元明天皇陵という前提で始めます。
 また何らかの問題点はありますが、法隆寺の金堂ができたのは薬師如来光背銘より668年頃、元明陵が721年ですから両者の間には53年もの時間差があるとします。
 この53年という時間、平均寿命の延びた現代からしても長いものです。まして平均寿命の短かった古代人からすればなおさらのものと言えます。しかし、そうではありますが、図からも分かるように、聖武陵は法隆寺から北東に伸ばした線と元明陵から南に延ばした線との交点にあり、しかも、この交点から南東に延ばした線上にはこれまた東大寺の西塔があるのです。聖武陵は756年、西塔もその前後に出来たと聞きますから、これらと元明陵とでも35年の時間差があり、法隆寺とでは実に90年近くもの時間差があるのです。
 思うに、90年もの時間の隔たりがあるにもかかわらず、こうした関係図が描けるということは、もしかしたら、古代人の思想というものは時間と共に薄れて行くのではなく、逆に濃縮されれて行くものなのかもしれません。

山田寺東大寺をつなぐ聖武

 ところで、聞く処によれば、元明陵は幕末になってから現在の場所に治定とされたらしいとの事です。従って、これが本当に元明陵であるのかという疑いを抱いたとしても何ら不思議はありません。また、そういうわけで、これまでに述べた事はこうした事を無視してのものです。しかし、幕末に此処を元明陵に治定したのには何らかの根拠があっての事だと思います。それになにより、これから述べるように、この位置は元明の陵としては極めて理想的でもあるのです。そして、それは元明陵から南にただ線を引くだけで理解が可能となるのです。
 しかし、その前に、南に向けて線を引くということの意味ですが、3章でも述べたように、南北の線はいわゆる蘇りの道となります。ここではさらに輪廻の道とも呼べることになります。そこで、そういったことを頭に入れて、この道が聖武陵に突き当たることを考えてみますと、聖武は歴とした元明の孫です。従って、この路の上に孫の聖武の陵があるのは正に理想と言えます。しかも、この路をさらに南へ延ばしますと、最後には山田寺に到達します。
 山田寺は、蘇我倉山田石川麻呂が建立した寺です。そう、元明は正にこの寺を建立した蘇我倉山田石川麻呂の娘の姪娘(めいのいらつめ)を母としているのです。この路の到達点に元明の祖父が建立した寺があるのは正に理想と言う他はありません。

 なお、山田寺元明陵・聖武陵との位置関係ですが、10万分の1程度の地図上ですと南北の位置関係にある言えるのですが、この場合は大和の理想地図、つまり平城京の条坊と藤原京の条坊との対応関係から、正確には平城京六坊大路の延長路を挟んで西と東とに位置していて、いわゆる南北の関係とはできません。しかし、どちらも六坊大路の延長路に面していますから、これらは六坊大路を通して繋がっていると言うことが出来ます。
 また、山田寺東大寺との位置関係、これも南北の関係でもそのほかの関係でもないのですが、東大寺の南大門から南に延びる道は上ツ道に繋がっています。しかもこの上ツ道は山田寺に面した山田道に繋がっていますから、山田寺は上ツ道を通して東大寺と繋がっていると言えることになります。

 思うに山田寺も、そして法隆寺もそうですが、東大寺元明陵や聖武陵とは時間の点でもそれ以外の点でも全く何の関係もなく建てられています。それが大和の計画道路や方位との間に、多少の誤差を認めれば、偶然とはいえこうした関係が描けるということは、古代人が稀有な偶然を積極的に利用したためと考えるのが自然でしょう。
 さて、これによって、最初に載せた図.43aの聖武天皇の影絵の位置に東大寺盧舎那仏が入ることになります。そして、これによって次のような表が成立することになります。

ー 43.a 表 -
法隆寺 東大寺
阿弥陀如来 釈迦三尊 薬師如来 盧舎那仏
天武天皇 上宮法皇 池辺天皇 聖武天皇
ー 43.b 表 -
飛鳥寺 野中寺
飛鳥大仏 弥勒
等由羅天皇 中宮(小治田)天皇

そしてこの表から、さらに次のようなことが言えるようになります。すなわち、舒明天皇天智天皇は廃仏派であったと。
 下に載せるのは40章で用いた表に新たな項目を付け加えたものです。項目の主旨は、造仏あるいは造仏供養とかかわりのある天皇を崇仏派として○で示し、そのうち自身のための造仏がありまたそれが残されている天皇を特に◎としました。また逆にそうではない天皇を廃仏派と見做して✕で示したものです。

ー 40.c 表 -
上宮法皇 欽明 敏達 用明 崇峻 小治田 天武 持統 文武 元明 元正 聖武
乎沙陁
天皇
等由羅
天皇
阿須迦
天皇
池邊
天皇
崇峻
(天智)
小治田
天皇
舒明 皇極
(推古)
孝徳 斉明
(推古)
天智
(推古)
天武
ー 43.c 表 -
崇仏
崇仏
廃仏
崇仏
廃仏
崇仏
崇仏
崇仏
崇仏
崇仏
崇仏
崇仏

 賛同はいただけないかもしれませんが、続けます。
この表から、天皇のために仏像を造るという風潮は持統朝を境として、それ以降ほとんど見られなくなっていることが分かります。これは造仏等にかわって得度(出家)や読経が盛んになったせいだと思います。しかし、天武以前について言えば、一般庶民においてさえ造仏の風潮が盛んであったことは造像銘を持つ小金銅仏が少なからず残されていることからも明らかなことです。従って、天武以前の舒明と天智に仏像はおろか造仏の記事さえ残されていないのは、この二人の天皇が廃仏派であったことを物語っているように私には感じられるのです。
 思わぬ方向に向かってしまいましたが、古代の迷路の道標とはそういうものです。しかし、これについてはまたの機会としましょう。