古代雑記

一億分の一の検証  昭和枯れ芒、素人のつぶやき。

推古天皇こそ、故を温ね新しきを知る道標。太安万侶の道標、その41。

 大化の改新明治維新に、そして何とか維新の会。古いものを新しく見せたがるのが古来からの人の性というものなのでしょうか。それともそういった新しいものを疑うのが私の性というものなのでしょうか。
 そういうわけで、『日本書紀』は私から見ると、どうしても古代維新の会の出版物のように見えてし様がないのです。ただ、そうは申しましたが、何も古代維新の会を非難しているわけではございません。ただ、一言だけ付け加えさせて貰いますと、古代維新の会には素朴さと正直さとがございます。しかし、余談というよりもこれが言いたかったのかも知れませんが、つまり現代維新の会にはそれがございません?

天智を否定する『日本書紀

 大化の改新の詔を疑う人はいますが、孝徳や天智を疑う人はいないようです。毒を食らわば皿までとする考えは毛頭ありませんが、私が天智や孝徳を疑い出したのは、鎌足という二股膏薬の存在のせいです。
 そもそも鎌足の存在は天智にとって、プラスなのかマイナスなのか。それが一番最初の疑問です。思うに、鎌足の存在は天智ではなく鎌足の御蔭で皇位に就けた孝徳にとってこそのみ明らかにプラスと言えるのです。従って、そういうことであれば、天智にとっては鎌足の存在は明らかにマイナスと言う他はないのです。実際、天智は鎌足のせいで父帝の死後26年もの長きに渡って皇位に就けないでいるのです。しかし、天智はなぜか鎌足を重用している。そして、これが何よりもの疑問となっています。
 この疑問は、孝徳を天智と見做せば即解決します。ただし、この場合は、孝徳紀に天智をという事であって、天智紀に孝徳をという事ではありません。そもそも天智紀には小治田が入るのですから。また、これが当初からの課題なのですから。従って、これを成立させるためには先ず現天智紀の否定から始めなくてはなりません。そして、この否定は天智紀の矛盾を探し出すことで可能となります。なお、その一つとしては法隆寺薬師如来像光背銘からの指摘が既にあります。しかし、これは外部からのものです。ここでは『日本書紀』自体がこれを否定つまり矛盾を表明しているという事実を先ず指摘しておくことから始めましょう。

 天智紀の矛盾はその元年の最初の数行のうちに見られます。それは、皇太子素服稱制という一文にあります。稱制(しょうせい)とは普通即位をしないで朝政を聴くことを言うらしいのですが、即位をしなければ天皇ではないという法則は『日本書紀』の何処にもありません。例えば天武紀では、天武は即位の前から天皇と表記されているのです。また、天智と同じように稱制とされる持統にしてもその即位前から天皇と表記されているのです。 そういった意味では、天智の皇太子素服稱制は甚だ怪しいと言うことになります。
 そもそも太子は天皇の後を引き継ぐために居るわけですから、天皇が死ねば即位しようとしまいと天皇の権限を引き継ぐことに何ら違いはありません。その結果、望もうと望むまいと結局は天皇として奉られることになります。つまり天皇の死後、皇太子が皇太子のままで居続ける事はありえないのです。このことは、結果としては皇太子や皇后のままで居られなかった、あるいは居させられなかった天武と持統は、いわゆる明位の位に居たということを教えています。明位の位というのは、16章で述べた、太后天皇、皇后、太子のことです。これで言えば、当然天武は太子で持統は皇后という事であり、そして天智に関して言えば、天智はそれらの何れでもなかったということになります。

 思うに後世は、『日本書紀』の真意を測ることなく稱制の意味付けをしたようです。そもそも天智は皇太子でもなんでもなかったのです。天智紀は、その矛盾を我々に教えているのであって、押し付けているわけではないのです。つまり天智紀は、その最初から天智には矛盾がありますよと我々に問いかけているのです。そして、ここには別の何かが入るのではないですかとも問いかけているのです。しかも、そう問いかけているのは何も天智紀だけではありません。皇極紀もそうです。いや、舒明紀からと言った方が良いかもしれません。
 舒明紀によれば、天智は父帝の死の時16歳で太子だったとあります。この年齢が即位の年齢としては若すぎたのか、母親の皇極が天皇となっています。しかし、皇極紀での天智は太子としてではなく単に皇子としてしか登場していません。しかも皇極は天皇の位を子の天智ではなく孝徳に譲っています。このことは、皇極の即位が孝徳に位を譲るためのものだったことを教えています。これは、孝徳を文武に、皇極を持統に置き換えれば納得のいく話の筋とはなりますが、この年代に文武や持統を登場させても何の意味をも成しません。しかし、それは別として、こうした皇極紀の姿勢は、明らかに天智と舒明とのつながりを絶ち延いては天智そのものを否定すると同時に舒明紀と天智の繋がりを絶った皇極紀そのものの在り方をも我々に問いかけていると言えます。

 少々自説に都合のよい話の運びとはなりましたが、どうやら皇極紀に池辺を入れ、天智紀に小治田を入れる段取りだけは出来たようです。ただ、そうなりますと天智の行き場所としては孝徳紀と斉明紀ということになるのですが、天智紀の10年に対して孝徳紀・斉明紀の17年では不整合となってしまいます。無論、孝徳紀だけに宛がえば数字の上では整合はしますが、天智の子供達の生まれた年を考慮した場合、天智の死の上限としては660年を割り込むのは無理のように見えます。しかし、それはさて置き、先ずは天智紀に小治田つまり推古紀が収まるか如何か試みてみましょう。

推古を矛盾させる「記紀

 39章で推古の治世が、皇極(斉明)、持統、元明、元正という4人の女帝の治世を寄せ合わせたものよりなる事を述べました。また、それら女帝それぞれの治世の数え方によって、『日本書紀』の36年と『古事記』の37年との二つがあることを話しました。また、『日本書紀』でも37年とすることが可能だとも話しました。そして、それらの理由として持統の治世と元明の治世の数え方が影響しているとも話しました。
 さて、これらの事をまとめて表にしますと次のようになります。

ー 表.41a (推古の治世) ー
古事記(37) 皇極・斉明(10) 持統(11)   元明(8)     元正(8)  
日本書紀(37) 皇極・斉明(10) 持統(10)   元明(8)     元正(9)  
日本書紀(36) 皇極・斉明(10) 持統(10)   元明(7)     元正(9)  

 先ず①の行、これは『古事記』が推古の治世を37年とする内訳です。しかし、『古事記』は崩年干支を基準とするいわゆる越年称元年代を用いていますから、崇峻の崩年を壬子として、推古の崩年を戊子としたのでは推古の治世は36年となってしまいます。そこで、これを『古事記』の矛盾と見るかということなのですが、その前に次の②と③について少し説明を加えておきましょう。
 ②は文武から元明への皇位継承を死去ではなく譲位によるものとした場合のものです。これは、『続日本紀』に文武の死去と譲位とが5月15日の同じ日であったとあることからの推量によるものです。つまり、この場合どちらとも受け取れるということで、③はこれを死去によるものとしたのではないかと。それならば、譲位の場合もあったのではないかと②を加えたわけです。そうしますと、皇位継承が譲位か死去かとでは天皇の治世に1年の違いが出ますから、②の場合は元明の治世は③よりも1年長くなります。そうなれば、当然推古の治世もまた1年長くなります。つまり『古事記』の37年は矛盾ではなく、②に合わせてのものであると。そして、推古の治世を37年とするのが本来の「記紀」の筋書きではなかったかと。
 無論、これだけでは何のことか分からないと思います。また、39章のⓓ表や上の表.41a が成立するのかという問題もあります。しかし、本当に問題なのは推古紀が成立するのか否かということではないだろうか。そもそも推古紀は、『隋書』とも抵触すれば、法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘とも抵触しているのです。言ってみれば推古紀は四面楚歌とでもいうか、内からも外からも非難されているのです。そして、この状態は推古紀成立の時点で既に分かっていたということです。つまり推古紀は天智紀同様その当初から『日本書紀』に否定されていたということなのです。そして否定されているからこそ天智紀への代入が可能となるのです。では、どのように代入するのか。実は、この答えが39章のⓓ表や上の表.41aにあるのです。そして、それらの答えがそれらの表が成立するという答えにもなるのです。

 表.41aが成立するとした場合、推古の治世は、皇極(斉明)、持統、元明、元正という4人の女帝の治世の長さに影響されていると見做すことができます。しかし、その推古の治世を、『日本書紀』は36年と言い、『古事記』は37年と言います。このことは、「記紀」が必ずしも推古の治世の長さには拘ってはいないことを示しています。しかし、推古がこれらの女帝の治世とかかわっていることを示しているのがこの表なのです。では、一体何が彼女らの治世とかかわっているのだろうか。それは、干支です。「記紀」が拘っているのは実は干支なのです。
 「記紀」が干支に基準を置いていることは、『古事記』が天皇の崩年に干支を用いていることや、神功紀が干支2廻り遡って組み込まれていることからおおよその見当はつくと思います。しかも、神武東征元年と聖武立太子が甲寅の年であったり、斉明と元正の元年が乙卯であったりと、因縁めいた結びつきを示唆するようにも用いられています。
 ところで、元明の元年は丁未、持統の元年は丁亥です。そこで、『古事記』の推古元年をその崩年の戊子から遡って求めてみると壬子となります。皇極の元年が壬寅ですから、これらは十干が一致しているということになります。このことは、全ての女帝の元年が干支や十干でかかわりを持つように仕組まれていることを示しています。しかし、そうなると推古紀の元年癸丑は何にかかわるのだろうかということになります。

 推古紀が推古の元年を癸丑としたのは、一つには前章の表40.cに載る等由羅天皇(欽明)の元年(623)癸羊の干支の十干に合わせたことによるものとできます。この表では、この天皇は壬午年(622)の上宮法皇の死を受けて即位した等由羅天皇(欽明)のことで、その元年は癸羊となります。おそらく『日本書紀』はこの天皇を30年遡らせその元年の干支癸羊を癸丑に変えて推古元年としたのではないかと。推古紀には、推古は元年の前年の12月に豊浦宮で即位したとあるのです。その真偽はともかく、干支や十干に拘ると道標のある所からは色々のものが見えてくることだけは確かな事のようです。
 さて、そうしたことは別として、既に述べているように推古紀は『日本書紀』つまりは編纂者によって否定されているという事の方がこの場合肝要なのです。それは、癸丑年に拘る必要がなくなるからです。実は、編纂者が我々に探させようとしているのは本来のシナリオの推古紀の元年なのです。編纂者つまり安万呂はここにも後世のために道標を残しているのです。そもそも法隆寺金堂釈迦三尊像光背に刻まれた銘文を安万呂を初めとする当時の有識者が知らないはずはありません。そして、彼らは上宮法皇の崩年が壬午の年であることを当然知っていたはずです。つまり、『日本書紀』が我々に示唆しているのは、法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘に合わせて推古紀の聖徳太子(上宮法皇)の死亡年辛巳を銘文の壬午まで引き下げなさいという事なのです。
 そこで、辛巳年を壬午年まで引き下げますと、推古元年は癸丑から甲寅に変わります。この甲寅の年が本来の推古元年なのです。そもそも、この甲寅の年は「記紀」の本当の主役聖武立太子の年なのです。そして、この甲寅の年に合わせて、神武東征元年を甲寅の年とし、さらにはこの甲寅の年を聖徳太子立太子の年としたのです。推古紀には、その元年に廐戸豊聡耳皇子(聖徳太子)を立てて皇太子と為すとあるように、推古元年はどうしても甲寅の年でなければならないのです。
 しかし、あるいは推古元年を最初から甲寅とすればよいものを何故そのように回りくどくしたのかという疑問は残るかもしれません。しかし、これは最初から推古紀に疑いを抱かせるためのものと言う他はありません。30章でも述べたことですが、あからさまに事実を書くことが憚れる場合つまり作為であることを知らせる場合は、明瞭な歴史の齟齬で知らせるのが一番善い方法なのです。しかも、幸いなことに『隋書』があり、そして何より法隆寺金堂には二つの銘文があるのです。そして、この二つの銘文により先ず推古紀が否定され、次いで皇極紀が否定され、最後は天智紀が否定されることになるのです。

 思うに、古代人は嘘を書くことや嘘をつくことを極度に恐れたのではないかと。このことは言霊(ことだま)という言葉があることからもある程度の察しは付くのではないかと。言霊というのは、声に出した言葉を現実のものとする霊力のことで、日本古来よりの思想とされています。ただ、天智紀に誣告や流言を禁じたとあることや、天神寿詞を即位式で最初に取り入れたのが持統であることから、この思想が生まれたのは「記紀」編纂の時点からそれほど遠くない時期であったと思われます。
 さて、そうした思想が文章に就いても言えるのだとしたら。例えば、銅鏡や鉄剣に記された吉祥文や祈願文は言霊とよく似た思想によるものです。そして仏像の光背や台座の銘文も又そうしたものと言えます。思うに、そうした思想は言葉よりもむしろ文章によるものの方が古いのではないかと。それはさて置き、古代人は書いた嘘を否定することで、そうした因果の思想より逃れようとした。そして同時に後世の子孫にその否定を示すことにより、子孫をもこの因果より解き放そうとした。そして、それが道標として残ったと。
 さて、一つの道標にたどり着くと、次の道標も探さなくてはならなくなるのが世の常です。実は、推古元年を甲寅としたことで、新たな道標が一つ見えてきたのです。それは、冠位十二階が制定された年の推古11年が甲子の年へと変わることによって喚起されます。思うに、因果はめぐると言うように、干支もまためぐります。実は、この年から60年後の同じ甲子の年(664)に冠位26階が制定されているのです。この年は天智紀の3年に当たりますが、天智は『日本書紀』によって既に否定されています。また、ここには小治田つまり推古が入ることにもなっているのです。正に、因果はめぐるということなのでしょう。