昭和は遠くなりにけり

古代に思いを馳せ、現在に雑言す。・案山子の落書・

§40 天武天皇と法隆寺。

 断家についてrikorikoシェスタさんはその感想をブログで述べていました。我が家も私の代で断家となりますが、私は六無斎ですので、当初から断家についてはあまり考えたことはありません。また、そういうわけで墓参りにもあまり行ったことはありません。そろそろ行ってみなくてはならないかなとは思ってはいるのですが、…
 我が家の墓には何代かの先祖が眠っています。しかし、私は2代ほどの名前しか知りません。墓参りの時はこの2代に対してのお参りということになるのですが、それ以前の先祖に対してはどうするべきか考えたこともありません。
 思うに、我々一般庶民が墓所を持ち、墓参りを始めたのはそれほど遠い昔のことではないようです。本稿の主役であり従四位下勲五等の位階を持つ太安万侶でさえ、その墓は奈良県奈良市此瀬町の茶畑に一つポツリとあると聞いております。古代には、今日的な先祖代々の墓といったようなものはなかったように見えます。しかし、有形無形の先祖の入れ物としての墓は存在しています。あるいは、『古事記』もそういったものだったのではないだろうか。そして、法隆寺金堂も。

法隆寺金堂阿弥陀三尊像

 法隆寺金堂には三体の本尊があります。その中で、釈迦三尊像薬師如来像の二つが光背銘を持ち且つ古来よりのものです。また、残りの一体阿弥陀如来像は盗難後の作ではありますが、その台座は古来よりのものと聞きます。阿弥陀像がいつ頃より作られだしたのか詳しくは分かりません。ただ、釈迦像や弥勒像や薬師像よりも遅かったことは確かと思われます。また、橘三千代の念持仏と伝えられる阿弥陀三尊像が最も古いとすれば、あるいは持統朝あたりに作られだしたとも考えられます。
 その兆候は、天武紀の末年朱鳥元年の記事に見えています。そこには、天皇の病気回復を願うため百体の観世音菩薩像を作ったとあるのです。実は、この観世音菩薩像は阿弥陀如来の三尊形式ではその脇侍仏とされているものなのです。もしかしたら、盗難に遭った阿弥陀如来像は天武とかかわりのある仏像なのかもしれません。また、夢殿にある観世音菩薩立像や元は金堂にあったとされる百済観音像は、あるいは朱鳥元年に作られた百体の一部なのかもしれません。
 それはさて置き、次いで持統紀3年7月の記事に目を遣りますと、陸奥蝦夷の僧に金銅薬師仏像と観世音菩薩像を授けたとあります。おそらく、この観世音菩薩像は百体のうちの一つと言えるでしょう。さて、同じ年の4月、新羅が天武の喪を弔うために金銅阿弥陀像と金銅の観世音菩薩と大勢至菩薩の像を奉ったとあるのですが、あるいは、これが盗難に遭った阿弥陀三尊像ではなかったかと。思うに、金堂壁画には浄土図が描かれていることから、また、それには阿弥陀仏の浄土もあることから、新羅から送られた阿弥陀三尊像設置の後にこの壁画が描かれたのかも知れません。

 以上述べたことは全て憶測です。思えば、憶測でものを言うなとは子供の頃によく言い聞かされた文句です。しかし、矛盾が錯綜する古代史。矛盾とただ向きあっているだけでは何の手がかりも得られません。思うに、矛盾を断つには憶測という鈍らの刀の方が振り回しやすい場合があるようです。以下、これによって得られた手がかりを述べることになります。

ー 40.a 表 -
  金堂釈迦三尊   金堂薬師如来  
欽明 敏達 用明 崇峻 推古 舒明 皇極 孝徳 斉明 天智 天武 持統 文武

 24章でも少し述べたことですが、上の表の推古の枠には金堂釈迦三尊光背銘より上宮法皇が入ります。また、金堂薬師如来光背銘より天智の枠には小治田大王天皇が入ります。そして同時に、敏達・用明・崇峻が舒明・皇極・孝徳の枠に入ります。そうすると、下表のように示すことができます。なお、推古の末年と上宮法皇の末年との間には6年のずれがあります。24章では推古(豊浦)としましたが、今回はさらに煮詰めて欽明としました。そもそも、この枠は敏達の先代に当たる箇所なのですから欽明を宛がうのが当然なのです。

ー 40.b 表 -
1   推古 舒明 皇極 孝徳 斉明 天智 天武 持統 文武 元明
2   上宮法皇 欽明 敏達 用明 崇峻 斉明 小治田 天武 持統 文武 元明
3   上宮法皇 欽明 敏達 用明 崇峻 推古 舒明 皇極 孝徳 斉明

 説明をさらに続けますと。1の行は、.a 表をそのまま引き写したもの。2の行は、前述の条件を当てはめてのもの。ただ、このままですと斉明の枠が一つだけ遊離してしまいます。そこで、小治田すなわち推古と見做せば、推古の先代が崇峻となり斉明の枠は崇峻と繋がります。そして、推古の後を、舒明、皇極、…と宛がって行けば3の行となります。
 思うに、本来の系譜は背景色のある枠だけを繋いだものがそれではなかったかと。そこで、これに王後墓誌等の天皇名を当てはめ、さらに系譜を聖武まで伸ばしてみましょう。

ー 40.c 表 -
上宮法皇 欽明 敏達 用明 崇峻 小治田 天武 持統 文武 元明 元正 聖武
乎沙陁
天皇
等由羅
天皇
阿須迦
天皇
池邊
天皇
崇峻
(天智)
小治田
天皇
舒明 皇極
(推古)
孝徳 斉明
(推古)
天智
(推古)
天武

 一目瞭然と言うか、知る限りの金石文にある天皇名を網羅したとも見て取れる表となってしまいました。これに上宮法皇の先代として檜隈天皇を宛がえば、これで大和の天皇がほぼ揃うことになります。
 さて、この表からなにが言えるかということですが。先ず、上宮法皇が乎沙陁(おさだ)天皇であることが分かります。乎沙陁天皇は「記紀」では他田や訳語田と表記されますが、どちらも「おさだ」と読み、基本的には敏達天皇を指します。また、この天皇は『隋書』に載る阿毎多利思比孤(あまたりしひこ)、つまり天足彦のことで、敏達はいわゆる近江息長系となります。これによって、32章での近江息長系の系譜が全て下表のようにまとまります。そしてこの表から左の3つの系譜は、全て右端の天武の系譜を元にしていることが分かります。

ー 40.d 表 -
景行
┰─╂─┐
    皇子 
    ┃ 
    仲哀
    ┃ 
    応神
 ⇐ 敏達
┰─╂─┒
    皇子 
    ┃ 
    舒明
    ┃ 
    天智
 ⇐ 舒明
┰─╂─┒
    26年 
    ┃ 
    天智
    │ 
    天武
 ⇐ 天武
┰─╂─┒
    皇子 
    ┃ 
    文武
    ┃ 
    聖武

 次に、小治田天皇以降に目を遣りますと、男帝は男帝に、女帝は女帝にという具合に上下がうまく組み合わさっているのが分かります。また、元正と天智の組み合わせの場合でも、天智には小治田が宛がわれることになりますから、これも女帝同士の組み合わせということになります。そして、このことが逆に天智が小治田であることを証明してもいるのです。では、なぜ小治田が天智なのか。
 しかし、その前に。天武から聖武までの系譜に舒明から天武までの系譜がうまく対応するのは、舒明以降の系譜が天武以降の系譜を元に組み立てられていることによるものだとは思うのですが、ただ、ここでも天武の系譜がその元とされていることの理由を先ず知っておく必要はあります。なお理由とはいってもそれほど複雑なものではなく、端的には、『日本書紀』は誰かのために書かれたかということで、その誰かと天武の系譜の行き着く先とが同じだということなのです。

東宮聖王は天武

 天武の系譜の行き着く先き。それは、c 表が示すように聖武です。そして、その聖武のために『日本書紀』は書かれています。そして、その聖武への血のつながりを育み守ってきたのが天智系の女帝たちなのです。
 今、c 表のそれら女帝達を全て推古に置き換えると、前章のⓓ表ができ上がることになります。実は、正にこれが小治田なのです。そして、天智とは天智系の女帝の総称ということになるのです。思うに、天武系の血を天智系の女性達が守り育んできた。おそらく、そうしたシナリオが「記紀」全般に流れているということなのでしょう。
 ちなみに言えば、鵜茅不合葺と神武とを守り育んだ豊玉姫玉依姫の姉妹。彼らの関係は母であり叔母であり妻であります。また、天照と邇邇芸命は孫と祖母、神功と応神は母と子、倭建と倭姫は甥と叔母の関係になります。そして、聖徳太子と推古も甥と叔母の関係となります。つまり、こうした関係を、天武、草壁、文武、聖武といった天武系の男性達と斉明、持統、元明、元正といった天智系の女性達との間に見出すことは実に容易なことなのです。
 しかし、それならば天智その者は如何なのかということになるのですが。何度も述べているように天智は孝徳や崇峻、延いては文武と重なり合う背景を持つ天皇です。おそらく天智に関しての正確な描写は『日本書紀』にはないと見た方がいいかもしれません。これは鎌足も同じだと思います。それに、大友皇子の例もあるように、『日本書紀』は天智系の男子については益よりも害があるとみている節もあります。おそらく、これは『日本書紀』を書かせた天智系の女帝の意向が入っているものとも言えます。あるいは、天照と須佐ノ男の物語もそうしたものに因るものなのかも知れません。
 なお、『日本書紀』が天智を近江天皇とするのは、近江大津宮を造営したのが天智だったからでしょう。18章でも述べましたが、大津宮と前期難波宮とはよく似ています。どちらも天智が造ったとしなければいろいろの面でつじつまが合わなくなります。例えば、難波宮を嫌った天智が難波宮と同じような大津宮を造ることは不可解です。また、冠位にしても難波宮朝堂院の7棟2列の7に合わせた7種に固執することも不可解と言う他はありません。それに、この冠位制定の天智3年(664)ですが、この時天智の宮が何処にあったのかがはっきりとしません。仮に大和だったとすれば、何も7種にこだわる必要はないはずです。これに拘ったのは、その時の天智の宮が7棟2列の朝堂を持つ難波宮かあるいは大津宮であったためではないだろうか。つまり、難波天皇すなわち天智とした方が何事に於いても無難だということになるのです。

 思うに、小治田天皇は、天智の死によって天智の宮の難波を離れた後、小治田で即位をし、そして天智の建てた大津宮へ移り住んだということではないのだろうか。大津宮に移り住んだのは、国際情勢の悪化とそしてなによりも法隆寺が完成したことによるものではないだろうか。法隆寺の完成は薬師如来光背銘によれば、用明の死後実に22年もの歳月が経過しているのです。
 ところで、薬師如来光背銘にある東宮聖王とは誰のことなのだろうか。無論、それは天武のことです。なぜなら、光背銘によれば東宮聖王は小治田天皇の太子です。従って、小治田の次の天皇東宮聖王となります。そして、c 表が示すように小治田の次は天武なのです。さて、そうなりますと小治田天皇は天武の母の斉明ということになります。また、そうなりますと、斉明は舒明の皇后ではなく用明の皇后ということになり、天武もまた舒明の子ではなく用明の子となります。しかし、この表から断言できるのは、小治田の次は天武で、天武が東宮聖王だということと、そして、法隆寺を造ったのは天武だということだけです。しかし、法隆寺を造ったのが天武だとすれば、天武のための阿弥陀像や観世音菩薩像が法隆寺に安置されるのは至極当然の成り行きではないだろうか。
 なお、推古紀での推古(小治田)と聖徳太子(東宮聖王)との甥叔母の関係は、おそらくは元正と聖武との関係を反映させたものでしょう。また、聖徳太子の死を推古の末年から数えて7年前としたのは、草壁の死が持統の治世を譲位時の数え方の10年とした場合に丁度その末年から7年前にあることに合わせたものと見るべきでしょう。そして、この草壁に合わせて『日本書紀』は聖徳太子を即位をさせることなく太子のままでその生涯を終えさせたのでしょう。皮肉った言い方をすれば、聖徳太子は草壁と『日本書紀』に殺されたということになります。

 ここで、少しばかり計算をしてみましょう。それには、その下準備として先ず用明の崩年を決めておく必要があります。薬師如来光背銘では池辺天皇(用明)の崩年は丙午(646年)となりますが、「記紀」では共に丁未(577年)としています。そこで、先ずこの丁未(577年)から天武の即位の年(673年)までを計算します。673年-577年=86年となります。次に、これを薬師如来光背銘に合わせて干支一巡繰り下げて計算します。86年-60年=26年となります。結果、86年と26年という二つの年数が算出しました。そこで、先ずはこの26年なのですが、どこかで述べているようにも思うのですが、確か天智がそうではなかったかと。
 そう、38章の最後に、天智の即位は父舒明天皇の死後実に26年もの長きを経てからのものと述べています。思うに、『日本書紀』の中でこれくらい不可解なものはありません。大化の改新の立役者が、しかも太子でありながら皇位に就かず、鎌足に諭されて叔父の孝徳に皇位を譲る。一見美談のようですが、その実鎌足に騙られている。しかし、なぜか天智はこの鎌足を重用している。これほどの矛盾はありません。しかし、天智すなわち孝徳と見做せばこの矛盾は解決します。しかも孝徳は難波天皇ですから仁徳にも繋がります。
 その仁徳に繋がる数が、もう一つの年数86年です。仁徳紀は仁徳の治世を87年としています。86年では仁徳の治世に1年ほど足りませんが、用明の崩年を「記紀」の丁未から薬師如来光背銘の丙午に変えるだけで仁徳の治世の87年となります。そもそも天武には天皇元年と即位元年の二つがあります。天武紀では即位前の天武を天皇と表記しています。そうすると、天皇元年(672)から丙午(646年)までが26年間、即位元年(673)から丙午(576)までが87年間となります。このことは、『日本書紀』が26年と87年の算出に丙午を基準として用いていたことを示しています。つまり用明の崩年が丙午であることを『日本書紀』は認めているのです。
 なお、天智紀での天智元年は天皇元年とはなっていません。天智紀では、天智がその7年に即位するまでは天智を天皇とは表記せず皇太子で通しています。つまり天智の場合、即位元年と天皇元年とは同じということになります。はてさて、これはなにを意味しているのだろうか。考えられることは一つしかありません。それは天智は皇太子ではなかったということです。