昭和は遠くなりにけり

古代に思いを馳せ、現在に雑言す。・案山子の落書・

§39 『古事記』の中の法隆寺。

 現在の理が過去の理に勝る。『日本書紀』を読めばたいていの場合そう言えなくもありません。例えば、孝徳も文武も正確には軽王であって軽皇子ではありません。しかし、文武の場合は『日本書紀』編纂の時点では元明天皇の皇子となります。この現在の理により文武が『日本書紀』に登場する場合は常に皇子として登場することになります。したがって、孝徳が文武の投影というのが『日本書紀』の理とすれば、彼も常に皇子として登場することになります。実際そうなっています。つまり、孝徳が文武の投影であることは『日本書紀』が認めていることなのです。
 思うに、『日本書紀』は古代人の歴史書であって現代人のそれではありません。また、古代人の歴史書といっても彼らの歴史書というわけでもありません。古代では、全てのものは天子一個人の物とされるからです。したがって、現代史あるいは近代史と同じレベルで論じても真実は見えてきません。ただし、真実が見えたからといってそれが史実ということではありません。しかし、古代人の理であることに違いはないはずです。

記紀」の明細書

 さて、文武は持統から、孝徳は斉明からそれぞれ譲位をされて天皇となっています。そこで持統と斉明との治世のあり様を比べてみますと、下ⓒ表のように全く同じとなってしまいます。

斉明 皇極が3年間 斉明が7年間 全治世10年間
持統 即位前が3年間 即位後が7年間 全治世10年間

 無論、あるいは持統の治世は11年ではないかと言うかもしれません。確かに持統の治世には持統11年があります。しかし、ここでは皇極から孝徳、持統から文武という関係で話を進めています。したがって、孝徳が皇極4年に即位をし、その年を大化元年と改めている以上、これに合わせて文武の即位の年持統11年を文武元年とするのが道理というものでしょう。しかし、『日本書紀』は持統11年で記述を終えています。以上のような比較をしなければ持統は11年というのが道理なのかも知れません。
 しかし、系譜は持統の後も続きます。持統を11年とするか10年とするかによって次の文武の治世が、10年となったり11年となったりします。あるいはこれもまた道理に適っていると言うほかはないのかも知れません。しかし、どちらであったもしても、文武と持統とを合わせてしまえば、二人の総治世は何ら変わることはありません。あるいはこれが本来の、ただし譲位の場合にのみ通用する道理なのかもしれません。
 ところで、『古事記』は推古の治世を『日本書紀』が36年とするところを37年としています。また、崇峻の治世を『日本書紀』が5年とするところを4年としています。さて、これを矛盾と言うべきか。それとも、先ほど述べたように、それぞれを合わせた総治世は『古事記』も『日本書紀』もどちらも同じ41年で矛盾はなしと見るべきか。
 思うに、総額は合っているのに明細が違う。どこかの会計報告というわけではないのですが、確かうちの自治会でもそんなことがありました。しかし、明細の項目の立て方が違うというだけで別段問題にはならなかったようです。そこで、これの明細の中身を覗いてみましょう。

  崇峻と推古との総治世(41)年
古事記 崇峻(4)  推古(37)
  持統(11) 斉明(10) 元明(8) 元正(8)
日本書紀 崇峻(5)   推古(36)
持統(10) 斉明(10) 元明(7) 元正(9)

 こうした明細書が会計監査で通るかどうか。また、その是非はさて置き、こうしたものが成立する以上、『隋書』と齟齬を来たす推古天皇についてはその存在を疑ってみる必要があることだけは確かのようです。なお、ここでは『古事記』記載の用明と崇峻の崩年干支がもたらす矛盾は考慮せず、治世年だけを取り上げています。なお、この二つの崩年干支については後ほど説明をすることとします。
 さて、私は『古事記』も『日本書紀』も太安万侶が編纂したという前提でこの両書を見ています。そして両書の齟齬のあるところには、安万呂の道標があるものと想定をしています。

古事記』の理、『日本書紀』の理、素人の理

 さて、崇峻と推古の治世の両書での齟齬ですが、これは『古事記』の理と『日本書紀』の理との違いから来るものです。ここでの場合、それは天皇の治世の数え方、延いては天皇の元年をどこに置くかの違いでもあります。具体的には、前天皇の死をうけての即位と前天皇からの譲位をうけての即位とを区別するかしないかの違いでもあります。そこで、この関係を表として下に示しました。西暦の数字年は、前天皇の死亡年かつ新天皇の即位年を、又は譲位年かつ即位年を示しています。なお、斉明は省いています。

←・→ 持統11年   元明元年 ←・→ 元明9年   聖武元年 ←・→
  697 …… 707 …… 715 …… 724  
  文武元年 ←・→ 文武11年   元正元年 ←・→ 元正10年  

 理と言いながら、『古事記』には載らない天皇の治世を『古事記』の理として話をしている。当然、それは理に合わないと言う向きも居られると思います。しかし、これは『古事記』の理というよりも太安万侶の理と言うべきものなのです。また、『日本書紀』の理もまた太安万侶の理と言うべきものなのです。なお、これは矛盾とはりません。安万呂にとって『古事記』と『日本書紀』は陰と陽の関係にあるというのが私の論です。陰陽は相反しますが、矛盾とはなりません。

 個々の天皇の治世を年単位で捉えようとすると、ある年で新旧の天皇の治世が重なる場合があります。上の表では西暦年数字の箇所がその年になります。なお、この表では、下線のあるのは死去と即位の年、その他は全て譲位と即位の年となります。そして、この年をどちらの天皇の治世とするかによって、その天皇の治世の長さが変わります。しかし、こうしたことには何らかの決まり事があり、全てこれに合わせれば治世の長さに変化は生じません。しかし、譲位の年と死去の年、これを共に同じように扱えるのかという問題が当然生じます。
 『日本書紀』では天皇の死去の場合は越年称元(しょうげん)年代とか言われるように、新天皇の元年は翌年からとなっています。しかし、天皇の譲位の場合はその逆で、皇極から孝徳への譲位の場合では譲位の年が新天皇の元年とされています。つまり『日本書紀』は、死去の年と譲位の年とではその元年の置き方を違えているのです。そして、このことが『古事記』と『日本書紀』との間に齟齬を生じさせているのです。しかし、このことから、『古事記』が死去の年と譲位の年とを区別していないということが分かりもするのです。下ⓕ表。

日本書紀 持統(10) 文武(11) 元明(7) 元正(9) 聖武
  697 …… 707 …… 715 …… 724
古事記 持統(11) 文武(10) 元明(8) 元正(8) 聖武

 思うに、『古事記』は末年崩年干支の書です。『古事記』からすれば、譲位の年は末年の年ということなのでしょう。一方、『日本書紀』は元年太歳干支の書です。正に譲位の年こそ元年にふさわしいと。おそらくはそういう事なのでしょう。末年と元年、正に陰と陽ということになります。
 なお、『続日本紀』の捉え方によっては、文武から元明への皇位継承が譲位であったとする見方もできます。この場合は、持統、斉明、元明、元正の治世の総計が『古事記』と同じ37年となり、『日本書紀』が故意に推古の治世を一年縮めている可能性があります。しかし、これに就いては、別の章で述べることになります。
 ところで、『古事記』は和銅年間の書なのですが、元正の即位の年と聖武の即位の年を知っていたのでしょうか。笑止な問いと言われればそれまでの事ではありますが、安万呂の道標と思えば別段不可解ということにはなりません。と言うのも、安万呂が『古事記』をしたためたのは過去の天皇のためではなく現在の天皇のためであることは、当時のいや現代の社会通念から推しても確かなことだからです。
 権力者が歴史を作る、あるいは書かせる。古代も現代も書かせられる側からすれば、それほどの変わりはありません。つまるところ古代においては『古事記』も『日本書紀』も天皇一個人のために書かれた書物ということです。おそらく、それらの編纂を命じたのは元明とは思いますが、果たして彼女自身のために書かせたものなのだろうか。思うに、元明も元正もいわゆる中継ぎの天皇です。彼女たちの役目は聖武への皇位継承の橋渡しにあります。そう、「記紀」は聖武のために書かれているのです。そして、聖武元年を甲子の年とすることを決めているのです。

古事記』の中の法隆寺金堂

 「記紀」が聖武のために書かれていることを証明する手がかりがあります。それは用明の崩年干支です。用明の崩年は、法隆寺金堂薬師如来像光背銘より丙午の年であることが分かります。しかし、「記紀」共にこの天皇の崩年を丁未の年としています。これは、聖武聖徳太子の生まれ変わりとするというよりも、生まれ変わりとしたいという当時の社会の願望によるもので、聖徳太子の父用明の崩年干支を聖武の父文武の崩年干支丁未に合わせたものと見えます。

沼名倉太玉敷の命、…壱拾肆歳(とをまりよとせ)天の下治らしめしき。…甲辰(きのえたつ)年…崩りたまひき。
橘の豊日の王、…参歳(みとせ)天の下治らしめしき。…この天皇丁未(ひのとひつじ)の年…崩りたまひき。
長谷部の若雀の天皇、…四歳(よとせ)天の下治らしめしき。壬子(みずのえね)の年…崩りたまひき。
豊御食炊比売の命、…参拾漆歳(みそとせまりななとせ)天の下治らしめしき。戊子(つちのえね)の年…崩りたまひき。

 上は、角川文庫『新訂 古事記』よりの引用です。そして、これに載る敏達から推古までの治世年と崩年干支とを横並びの時間枠の桝目に示したものが下の表です。先ず一行目ですが、これは『古事記』をそのままに写し置いたものです。ただ、このままですと治世年と崩年干支との間に矛盾が生じますので、これを直して二行目に表わしました。三行目は、丙午を基準としてそれぞれの治世年に合わせて崩年を移動させたものです。最後の行は『日本書紀』からのものです。

ー ⓖ表 ー
敏達(14) 用明(3) 崇峻(4)表では5年 推古(37)表では36年
敏達(14) 用明(3) 崇峻(4) 推古(37)
敏達(13) 用明(3) 崇峻(4) 推古(37)  
癸卯 甲辰 乙巳 丙午 丁未 戊申・己酉・庚戌 辛亥 壬子 癸丑・甲寅… …丁亥 戊子
敏達(14)表では15年 用明(2) 崇峻(5) 推古(36)

 さて、二行目と三行目とを見比べてみると、二行目は三行目を一干支だけ繰り下げたものだという事が分かります。つまり、用明天皇の崩年を丙午から丁未に繰り下げたいうことになります。また、推古の元年が辛亥年つまり法興元年であったことも分かります。思うに、『古事記』はこの箇所に法隆寺金堂を構築したのではないか。
 法隆寺金堂には三つの本尊が並んでいます。それらの作られた時代はそれぞれ違いますが、それらは同じ一つの空間に錯綜することなく並べられています。今、薬師如来像と釈迦三尊像が敏達から推古にかけての『古事記』金堂に見出せました。残るは、阿弥陀如来像です。そこで、これを探してみましょう。
 表より、『古事記』金堂の幅は(14+3+4+37)の58年となります。これに『日本書紀』の編年を宛がうと敏達が14年から15年に変わります。また、三行目では13年になっていますから、敏達は、13年、14年、15年といった三つの治世年を持つことが分かります。 このことから、敏達には三つのシナリオがあるのではないかと想定が出来ます。そして、探し当てたのが次の表です。

敏達   即位後が14年間 全治世14年間 ⓗ表
天武 即位前が1年間 即位後が13年間 朱鳥が1年間 全治世15年間
舒明   即位後が13年間   全治世13年間

 敏達が舒明に重なることは24章で述べたことですが、今回は天武とも重なるようになってしまったようです。実は、敏達紀には壬申の乱とかかわりのある記事があるのです。