昭和は遠くなりにけり

古代に思いを馳せ、現在に雑言す。・案山子の落書・

§38 儀鳳暦と大射。

 十三夜に十五夜十六夜、そして二十三夜。これらは全て月の呼び名です。ただし、これらの呼び名が成立するためには定朔の暦が出来ていなくてはなりません。
 定朔の暦の最初は戊寅元暦と呼ばれているものです。ただ、時期尚早というか、これは後に平朔の暦とされてしまいます。
 定朔の暦が確実に定着したのは麟徳2年(665)から使用された麟徳暦と呼ばれているものです。この暦は、麟徳2年から開元16年(728)までの73年間用いられたとされています。

天武年間までの定朔暦
歳次丙寅年正月生十八日記 高屋大夫 為分韓婦夫人名阿麻古願 南无頂礼作奏也

 上は、法隆寺から献納されて御物となった金銅弥勒菩薩像の台座に彫られている銘文です。作られたのは丙寅年、666年とされています。

対馬国司、使を筑紫の大宰府に遣して言さく、月生ちて二日、沙門道文…。

 上は、天智紀の10年(671)11月10日に載る記事です。

辛巳年正月生十日柴江五十戸人

 上は、静岡県浜松市郊外の伊場遺跡で発見された木簡の文書です。さて、上記の三例は雄山閣出版大谷光男著『古代の暦日』よりの引用です。ついては、説明に代えて、もう少し引用させてもらいます。なお、横書きで読み辛くなる漢数字はアラビア数字に改めさてもらいました。

この辛巳年は井上光貞氏によると、「木簡の出土した地層からいっても、大宝令以前は年号ではなく干支で年代を示す通例からいっても、天武朝の681年にあたることに間違いない。(中略)生十日といえば、新月がうまれた日(朔)から数えて十日目という意味でいかにも七世紀という時代にふさわしい」(「伊場と木簡」『学士会会報』1975年726号)とのことで、天武天皇十年と断定している。
 一方、今井湊氏は「飛鳥時代暦法」で弥勒菩薩造像記銘の丙寅年も天智天皇五年と認めれば「野中寺造仏銘文と同年である。又、対馬国司の場合もそこが朝鮮交通の要地にあるのであるから、これ等はむしろ新しい麟徳定朔暦による記日の暦の新造語ではなかったかとも考えられる。恐らく当時この暦法の定朔と云う事が力説されたに違いなく、このは日食の場合の生えの生と同じことを意味するのではなかろうか」(『天官書』第一輯)と、「」はいはゆる麟徳暦伝来による新造語ではなかろうかと述べている。

 以上の引用からもわかるように、麟徳定朔暦は唐での施行後一年も経ずして日本に伝来しているようです。ただ、日本に麟徳暦といった呼び名がないことから、この暦はあるいは朝鮮交易に携わる商人が私的に持ち込んだのかもしれません。それにという新造語にしても、それが朝鮮で生まれたのか、それとも日本でなのかはこれだけでは分かりません。ただ、前章から問題としている「朔(ついたち)」という言葉に関しては、天武時代には未だなかったとは言えそうです。
 なお、天智紀では月生ちてを後世の「ついたち」に合わせて「月生ち(つきたち)」と読ませていますが、造像銘や木簡に記されたは上記の説明のように「生え(はえ)」と読まれていた可能性があります。説明では日食の場合の生えとしていますが、『日本書紀』では蝕と書いてこれを「はえ」と読ませています。おそらく、暦法の確立した時代に編纂された『日本書紀』が最新の暦法言語に合わせたのでしょう。

 このように見てまいりますと、天武5年と6年とに出てくる告朔の儀は、時間的には儀鳳暦が伝わったとされる時期と都合好く重なりはしますが、やはり正朔の確立した持統4年以降に回すのが順当のように思えます。なお、天武朝での定朔の影響ですが、これは正月の行事の「射」に現れているようです。ただ、これについても少々疑問点があるにはあるのですが、とりあえずは続けましょう。
 「射」は天武紀では4年以降に見られるもので、また、正月以外にも行われているようですが、『隋書』に日本の風習として、正月一日毎に射戯と飲食をするという記事のあることから、「射」は本来は正月一日の行事であったと思われます。また、この行事の主体は一般庶民で、おそらく弓の上達を願っての丁度今日での書初めと同じような意味を持っての民間行事ではなかったかと。また、「射」を当時どのように呼んでいたのかは分かりませんが、これがやがて「大射」と呼ばれるようになる様は新嘗が大嘗と呼ばれるようになる様とよく似ており、あるいはこの行事もいつの時期かに朝廷でも執り行うようになったのではないかと。なお、この行事は奈良時代から平安時代中に「射禮(じゃらい)」と呼ばれるようになっているようです。

仁徳 天武 持統
 12年8月10日 ◎4年正月17日
◎5年正月16日
◎6年正月17日
◎7年正月17日
◎8年正月18日
◎9年正月17日
 9年9月9日
◎10年正月17日
◎13年正月23日
 14年5月5日
 3年7月15日
 3年8月23日
 5年8月5日
◎8年正月17日
◎8年正月18日
◎9年正月17日
◎10年正月18日
清寧
 4年9月1日
孝徳
◎大化3年正月15日
天智
◎9年正月7日
続日本紀に載る大射◎と射○
大宝元年正月18日
慶雲3年正月17日
霊亀元年正月17日
 養老7年8月9日
神亀5年正月17日
天平12年正月17日
天平13年正月15日
天平寶字3年正月19日
天平寶字4年正月17日(射禮)
天平寶字7年正月21日
○寶亀11年正月16日

上の二つの表は『日本書紀』と『続日本紀』に載る「射」関係の記事の年月日だけを集めたものです。なお、参考としたのは吉川弘文館出版国史大系のそれぞれの普及版です。また、これまでの『日本書紀』引用の原文はすべてこの吉川弘文館出版国史大系普及版からのものです。
 天武以前の「射」は記事数が少なく参考とはできないかもしれませんが、天武以降の「射」特に正月のそれは15日つまり満月以降に行われていると言えそうです。「射」とは弓を引くことですからいわゆる弓張り月という表現がこの場合にはあてはまることになります。したがって、実際の月の形と弓を引いた形とに特別興味が注がれたとしても不思議はありません。しかも、定朔の暦ですから日にちを決めることも容易です。
 思うに、天武以降の正月の「射」は下弦の月の日を選んでいるように見受けられます。この下弦の弓張り月は、弓を上向きに構えた状態を表していますから、単純には弓が上達するという風にも受け取れなくもないのですが、8月や9月の場合はその逆の構えのようにも見えるため、あるいは次のように考えた方がいいのかも知れません。

4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 正月 2月 3月
大壮
 
新月 上弦の月 満月 下弦の月
 
太陽 陽⇒陰つまり地に向かう 太陰 陰⇒陽つまり天に向かう
三日月や十三夜月等 15夜 十六夜月や二十三夜月等

 月を陰陽消長で捉えると、新月が太陽、満月が太陰となります。これを定朔の暦に当てはめれば新月が1日、満月がほぼ15日となります。また、64卦では新月が乾の4月に、満月は坤の10月に相当します。陰陽は消長しますから太陰の満月を過ぎれば陽へと向かいます。これは64卦の復で11月の冬至一陽来復の復に同じで、月齢では17日前後の下弦の月に当たります。そこで、月の形に合わせて弓を引けば、弓は天を向き、矢は陽に向かいます。そして、上弦の月ではその逆となり弓は地を向き、矢は陰に向かいます。正に自然と陰陽消長の調和とも呼べる行事のようにも見えます。なお、正月は64卦では泰となり、月齢だと下弦の月の23日頃の半月となります。卦図も陰陽半々、つまり上卦が坤で内卦が乾の丁度その様な形になっています。

 『隋書』の記事の時代、正月一日に行われていた射戯が天武の時代には下弦の月の17日前後となり、8月9月の「射」は上弦の月の日に行われるようになったものと見えます。これは定朔の暦によって月の満ち欠けをその月の日付で捉えることが出来るようになり、月の日付と易64卦の12ヶ月とを対応させた結果、「射」の行事を月毎に上弦あるいは下弦に合わせるようになったためと思われます。つまり、上弦の月の範囲に当たる5月から9月まではその月の2日から15夜の前日までに「射」を行い、下弦の月の範囲に当たる11月から3月まではその月の16日から晦日の前日までに「射」を行うということです。
 無論、そうした取り決めが実際あったか如何かは分かりません。しかし、平安時代には 「射禮」は正月の17日と決められていたと聞きます。また、奈良時代には15日から21日までの範囲でこれが行われていたようです。思うに月の満ち欠けと易経とは古代から今日まで何ら変わることのない同じものです。そして、その同じ物に対しての連想に、古代も現代も変わりはないということです。

 さて、いつの時期か「射」を朝廷でも行うようになって、これが「大射」と呼ばれるようになりました。また、いつの時期か「新嘗」を朝廷でも行うようになって、これが「大嘗」と呼ばれるようになりました。思うに、これら二つの事実が教えているのは、嘗て朝廷では「新嘗」も「射」も行われてはいなかったという事です。そして、これら二つの行事が始まったのは、それほど古くはない時期、おそらく、以外ともいえるほど新しい時期ではなかったかと。
 「新嘗」も「射」も古くは仁徳紀にその記事がありますが、仁徳すなわち難波天皇、難波天皇すなわち孝徳天皇孝徳天皇すなわち軽天皇、軽天皇すなわち文武天皇と読み解けば、この記事は持統を遡ることはなくなります。無論、こうしたやり方を正しいと言うのではありません。しかし、こうした行事が持統朝に成立したという仮定に立てば、仁徳紀にこうした記事が出てくる理由を当然考えなければならないわけですから、前後が逆になりはしましたがこうしたやり方もあってしかるべきかと。また、この行事の成立の時期を持統朝としましたが、仮にこれを別の朝に違えたとしても結果は何ら変わりません。例えばこれを天智朝としてみましょう。
 天智と孝徳が同一ではないかということは、既に何度か話していますが、今回は別の観点から少し覗いてみましょう。それに天智紀には、舒明以降が敏達以降に置き換わるという道標の最初もあるのです。それは、天智7年の天皇即位の記事の分注にあります。分注には、「ある本には、6年3月即位とある」とあります。つまり、これにより天智の治世は5年と5年とに分かれることになります。これは、孝徳の治世が5年と5年とに分かれるのと全く同じです。また、本文どおりの7年即位とした場合は、今度は文武と同じになります。しかもこれは皇極斉明の治世とも似てくるのです。なお、文武の即位は持統紀ではその11年ですから、此処での場合、この年は持統の治世として計算することになります。

ー 分注による ー
孝徳 大化が5年間 白雉が5年間 全治世10年間 ⓐ表
天智 即位前が5年間 即位後が5年間 全治世10年間
ー 本文による ー     ・
天智 即位前が6年間 即位後が4年間 全治世10年間 ⓑ表
文武 文武が3年間 大宝が3年間 慶雲が4年間 全治世10年間
斉明 皇極が3年間 斉明が7年間 全治世10年間

 ⓐとⓑとを見比べてどのように感じるだろうか。私は文武を雛形として、斉明、孝徳、天智の治世が割り出されたのではないかと考えています。つまり天智即位年の分注の記事は、天智の治世のもう一つの設計図あるいはシナリオではなかったかと、だからこそこの分注が天智紀にあるのだと。
 さて、少し遡りますが、また、本題とは随分と離れてしまいましたが。確か32章では、皇極、孝徳、斉明に天智を宛がえば(こうしたシナリオは)ありうることだと述べました。これは、一つには24章で述べた敏達を舒明に宛がった結果を受けてのものですが、もう一つには、天智の即位が父舒明天皇の死後実に26年もの長きを経てからのものだということによるものです。思うに、これは文武の享年とほとんど変わりません。文武は15歳で即位し、25歳で亡くなったとされていますから、あるいは天智というよりも孝徳を16歳で即位をさせ26歳で死亡させるというのが本来のシナリオであったのではないかと。思うに、難波天皇短命説は文武天皇がその出所かも。どうやら連想が先走ってもいるようです。