昭和は遠くなりにけり

古代に思いを馳せ、現在に雑言す。・案山子の落書・

§35 天武紀の道標、大嘗祭。

 『日本書紀』を読んで思うことですが、『日本書紀』は支配する側の論理によって書かれていると。
 しかし、こうも思います。すなわち、これを書いたのは支配される側の人達であると。したがって、ここには支配される側の論理もあると。
 思いますに、『日本書紀』をどう読むのか。あるいは、どう読み解くのか。いずれにしても、どちら側の論理によるかで結果は違ってくるはずです。そして、その違いの中にこそ『日本書紀』に記された安万呂の道標があるのだとも言えます。

天武の大嘗祭は持統よりも後世の慣例に近い

 さて、飛鳥浄御原令施行というよりも、持統3年8月2日に百官が神祇官に集り天神地祇について話し合った結果、何がどう変わったかということですが、前章では大嘗祭と龍田と広瀬の祀り、そして新嘗祭と大神への幣帛奉納を既に挙げていますので、先ずこれらを引き続き観てまいりましょう。

 解説書等では、大嘗祭践祚大嘗祭とも呼ばれ基本的には一代一度きりのもので、天皇にとっては格別に大事な祭事とされています。また、その概要は、天皇即位の後の新穀を天照を初めとする天神地祇に奉り、同じく天皇自身もこれを食するという祭事で、この祭事だけを大祀と呼ぶともされています。
 おそらく、この祭事あるいは神事の意味するところは、神と共に食事することに拠り天皇自身も神(真の天皇)になるということだと思います。つまり、少々下賎な例えにはなりますが、「同じ釜の飯を食った仲(間)」ということでしょうか。また、「記神話」にはそれとは逆の環境での「黄泉戸喫(よもつへぐい)」という言葉があります。これは、黄泉(よみ)の国の竈で煮炊きしたものを食すると黄泉の国の者つまり正真正銘の死者となって、二度とこの世には戻れなくなるというのが神話的な解釈です。しかし、素人目には、下賎な例えの方がどちらに於いてもよりよい意を得ているのではないかと。
 それはさて置き、大嘗祭天皇にとって非常に大事なものだということなのですが、実は持統紀さらには天武紀を読むと必ずしもそうとは言えないのです。そしてなに拠りも不可解なのは、天武の儀式次第は持統よりもなぜか後世のしきたりにより近いのです。

 そこで先ず天武ですが、天武はその2年(673)の2月27日に即位をし、その年の11月1日から12月4日までの間に大嘗祭を執り行ったことが、12月5日の大嘗祭に奉仕した人たちへの賜物の記事から伺えます。しかし、それにしても、あるいは素人目かもしれませんが、一世一代の大嘗祭にしてはその日付も記さないというのは、天武紀としては余りにも雑な記事と言うほかはありません。また、あるいはこれも素人目かもしれませんが、天武の大嘗祭は後世の7月以前の即位の場合は年内に行うとする規定に合っていると言うよりも合わせているようにも見えます。無論、これはあるいは偶然かもしれません。しかし、実はこれ以外にもその規定に合わせたと思えるものがあるのです。それは、大嘗祭は11月の卯のつく日に行うというものです。なお、これについては後ほど述べることになります。
 次いで持統です。持統はその4年(690)の1月1日に即位しています。しかし、この年には大嘗祭を行ってはいません。持統が大嘗祭を行ったのは翌5年の11月1日(戊辰)です。つまり、後世の慣例さらには天武の前例とは違っているのです。そして、このことは、飛鳥浄御原令には、大嘗祭は7月以前の即位の場合は年内に行うという後世の決まりは未だなかったことを教えています。ただし、この時、神祇伯の中臣大嶋が天神の壽詞(よこと)を読んでいることから、大嘗祭についての式次第は既に決まっていたものと思われます。しかし、それなら、なぜ天武の前例を考慮しなかったのだろうか。それに、中臣大嶋が天神だけに対して壽詞を読んでいることも気になります。

 ところで、即位の時期と大嘗祭との関係、つまり同一年内に大嘗祭が行える即位時期の下限はいつまでかということなのですが。後世の慣例では、7月以前の即位は年内に、8月以降の即位は翌年に行うとなっています。ただし、これは平安時代からのものです。なお、奈良時代以前ですと、元明が7月17日に即位をし、翌年の11月21日(己卯)に大嘗祭を行っていますから、あるいは当初の慣例というよりも大宝律令では7月の前後で行うか否かを分けていたのかも知れません。ただ、いずれにしてもに飛鳥浄御原令にはないもののようです。そして、実はないものがもう一つあるのです。それは、先ほども述べた11月の卯のつく日という規定です。しかし、この規定は文武天皇の即位までには整えられたと見えます。しかし、この規定は天武紀等を評価する上での道標となりますので、後ほど取り上げることとして、ここでは大嘗祭の原点にあたる新嘗祭を先ず観ておきましょう。

新嘗祭の始めは、天照、卑弥呼それとも持統か。

 新嘗の祭りの記事は神代紀上の天照の祭事に既に見えています。思うに、この神代紀が書かれたのは、新嘗祭が朝廷の祭事として確立されていた時期と見てまず間違いはないでしょう。そして、これを最初に始めたのが天照であるというのが当時の人たちの見解だったと見て取れます。なお、天照については卑弥呼と壹與がモデルであるというのが私の見解なのですが、これは別として、天照が神と見做されるようになったのは、当時からそれほど遠くはない時期、おそらく天皇を神として称え始めた時期と重なることだけは確かと思われます。
 ただ、私にしろ当時の人たちにせよ、卑弥呼が、天照がどのような祭事を行っていたかは知るべくもありません。しかし、前章でも述べたように、過去の理よりも現在の理が優先されます。新しい神話を創りあげる場合、現在の観念やしきたりが適用されます。新嘗祭を始めたのが天照即ち女神とする当時の見解の基となるのは、やはりこれを始めたのが女帝だったからではないだろうか。

 新嘗祭の始まりは、通説では用明天皇の代に始まったとも言われています。この説は、伊勢斎宮が用明の代に始まったとする説も加わるだけに一考の価値のあるものと言えそうです。
 また、他には皇極天皇の時代に始まったとする説も有ります。この説は女帝であるだけに有力ではありますが、ただ彼女の場合は、皇極の時も後の斉明の時もその即位の儀式には神話的要素が揃っていません。実は、天武の即位においてさえ揃ってはいないのです。それらが揃うのは持統の即位の時だけです。おそらく、持統の即位の儀式が神話に反映されたものと見えます。
 持統紀によればこの儀式は、物部の朝臣が大盾をたて、中臣の朝臣が天つ神の壽詞を読み、それが終わると忌部の宿禰が神璽の劒鏡を奉上したとあります。おそらくは、この儀式をもとに記紀神話天孫降臨の場面が描かれたものと思います。この場面には、物部の朝臣以外はすべて揃っているのです。
 つまり、新嘗祭を始めたのは、高天原廣野姫(たかまのはらひろのひめ)つまり持統天皇のなのです。無論、私論ですが。

 それはさて置き、新嘗祭は、新穀を神に供える祭りで、古くから民間にもあったいわゆる収穫祭です。そして、これを天皇が行うようになってからは大嘗祭と呼ばれるようになり、さらにこれを天皇の世毎(代の初め毎)にも用いるようになったため、これと区別するために再び新嘗祭と呼ばれるようになったと、普通言われています。したがって、どちらも新穀を神に供える祭りであるということに変わりはありません。また、これらの祭りで神に供える新穀は、占いによって斎忌(ゆき)と次(すき)に選ばれた国が奉げるという決まりも同じです。なお、新嘗祭は天武紀では天武の5年と6年とにだけ現れて、それ以降は持統紀にも現れていません。

表1
  大嘗祭 新嘗祭 新嘗祭
天武 2年11月?日 播磨・丹波 5年11月1日 尾張丹波 6年11月21日 ?・?
持統 5年11月1日 播磨・因幡

 上の表は、天武と持統の大嘗祭新嘗祭の斎忌と次の国を示したものです。なお、?は記載の無いもの、✕は記事そのものが無いものです。
 さて、この表からどのようなことが推理できるでしょうか。私は、次のように推理をしました。その結果が表2です。どのように推理したかと申しますと、足りないところに余っているものを加え、且つ2で割ったということです。つまり、?の箇所に持統紀のそれぞれを代入し、さらに天武にも持統を代入したということです。

表2
  新嘗祭 大嘗祭 新嘗祭
持統 4年11月1日 播磨・丹波 5年11月1日 尾張丹波 6年11月1日 播磨・因幡

 なお、表2は、大嘗祭の初めは持統という前提でのものです。なお、この前提に関しては次章で取り上げることになります。したがって、表2の説明はここでは省きます。

天武紀の隙間を覗く

 天武と持統の時代、大嘗祭新嘗祭がどの程度の評価を得ていたのか、それは分かりません。しかし、仮にどの程度のものだとしても大嘗祭の日付けを抜かしたり、褒章に与る斎忌と次の国を書き落とすなど史書としてはおおよそあり得ないことです。そう考えた場合、天武紀の不自然さや杜撰さが一際目立ったとしても不思議はありません。つまり、天武紀にはこれらの記事は最初から無かったのだと、そしてその代わりとして持統紀の4年と5年と6年の記事を利用したのだと。
 普通、天武紀は『日本書紀』のなかでは、非常に信憑性が高いとよく言われています。しかし、よく見ると必ずしもそうとはいえない記事が多々目につきます。大嘗祭新嘗祭もそうですが、いわゆる中途半端な記事があります。そして、それらは何故か持統紀以降にまわした方が良いようにも見えるのです。例えば、龍田と広瀬の祀り、これもそうした方がより良いように見えます。

 龍田と広瀬の祀りは、『日本書紀』を読む限り天武が最初です。天武はこの祀りを即位2年後の4年(675)4月に突如行っています。しかし、この年は一度だけで終えています。これを持統と比べると、持統は即位をした4年の年内に龍田と広瀬の祀りを4月と7月の二度にわたって行い、以後これを毎年のように行っています。おそらくこれに関しては、持統の4年に施行した飛鳥浄御原令あるいはその一ヶ月ほど後に行われた神祇官での談合での取り決め、つまり龍田と広瀬の祀りは4月と7月の二度にわたって行うという規定によるものとした方がより理にかなうように見えます。
 しかし、天武に言訳が立たないと言うのではありません。天武の場合は明らかにそれらの魁ということでもあります。したがって、最初はその程度のもの。また、記事にしても中途半端で終えたとしてもしかたがないのではないかと、あるいはそう言えるのかもしれないのです。
 実際、天武紀から受ける印象では、天武8年以降からこの祀りは定着しているようにも見えます。ただし、不可解な点があります。それは、この祀りを執り行うか否かはすべて天皇の裁量に委ねられているようにも見えるからです。たとえば、7年には神々への祭りはすべて取り止めとなっています。また、定着していたと思われていたこの祀りは、天武の死後から持統即位までの間一度も執り行われていません。そしてもう一つ、何故に天武はこの祀りを4年になってから突然に始めたのだろうか。思うに、天武紀の執筆者が、持統がこの祭りを始めた4年に合わせたのではないだろうか。… 我田に引水に見えるかもしれませんが、先を続けます。

 ところで、天武紀には後世のしきたりとなる行事の名前の初出があります。しかし、なぜか一度か二度の執り行いの記事を載せた後、天武紀だけでなくその後の持統紀にも名前を見せなくなっています。新嘗祭然り、相新嘗祭然りです。そして、これから述べることになる告朔(こうさく)があります。なお、相新嘗祭というのは新嘗祭に先立って行われる新穀祭とされている祭事です。したがって、記事としては新嘗祭の前に載ることになります。実際、これは5年の新嘗祭の記事の前に載ってはいます。しかし、6年の新嘗祭の前には載っておらず、5年に載るだけで他にはありません。
 さて、告朔ですが、これも新嘗祭と同じで5年と6年とだけの記事となっています。なお、これは前章では指摘していなかったものです。というのも、これは告朔が無かったという記事でもありますし、また普通にはその月の朔(1日)の記事が無ければ現れないというものでもあります。そしてなにより、告朔が定例化していたと思える時期の史書『続日本紀』にも、その月の朔に行われたという記事は見当たらないのです。それは新嘗祭に関しても同じで、『続日本紀』にはこの記事も数えるほどしかありません。それに、考えてみれば、新嘗や告朔は毎年のあるいは毎月の祭りや儀礼です。決まりきったことは敢えて載せる必要はないのかも知れません。と思いもしたのですが、しかし、それならなぜ天武の5年と6年とだけに載せたのだろうか。
 思うに、仮に天武がそれらを最初に制度化したのだとしても、新嘗の慣例は大嘗に先だつのですから大嘗のしかも4年後に改めて載せる必要はないはずです。また、告朔にしても始めた年の最初の月に行ったということを先ず最初に記載するのが道理であるのに、唐突に行わなかったという記事から載せるのは理に合いません。それにしても、この5年と6年とだけの記載の後に消えるという両者の一致、偶然とは思われません。また、先ほど述べた龍田と広瀬の祀りですが、これも持統と天武共にその4年より始めているのです。
 これらは偶然なのだろうか、それとも先ほど述べたように天武紀執筆者の故意によるものなのだろうか。
 それとも、あるいは創始者である天武に花を持たせたに過ぎないのだろうか。