昭和は遠くなりにけり

古代に思いを馳せ、現在に雑言す。・案山子の落書・

§34 国津神は歌い、天津神は歌わず。

 随分と昔のことですが、私は中学の修学旅行で立ち寄った神社で初めて御神籤を買いました。しかし、それが吉だったか凶だったかは今はもう憶えていません。それに、たとえそれが吉であったとしても、アイスキャンデーのおまけ当たりほどの喜びがあったとも思えません。花より団子と申しますように、吉と凶より、当たりと外れに心を砕いていた遠い昔の記憶の断片です。
 思うに、過去の記憶の断片を繋ぎ合わせてみても、過去の自分がよみがえるわけではありません。歴史もまた同じようなものです。たとえ真実であったとしても、それは僅か数行で終える真実でしかありません。また、そうした真実をいくら繋ぎ合わせたとしても、歴史の隙間から漏れてくる過去のため息を押し留めることはできないでしょう。

過去の理、現在の理。

 倭建は東西を征し、景行と神功とで南北を服した。漸く彼らによって東西南北の四方が征服されました。ただし、この四方、四方は四方でも地方という意味での四方です。と言うのも、「記紀」共に景行から神功にかけての物語の活躍の舞台のほとんどを地方に設定しているからです。しかし、そもそも景行記に「ワケ」を地方に別けたとあるように、「ワケ」の役目は地方を治めることです。したがって、景行に始まる「ワケ」の王朝の物語が地方平定から始まるのも無理からぬことなのかもしれません。

 さて、四方も地方も中央があって始めて意味を成します。そういった観点から「記紀」を眺めた場合、「記紀」が、地方である景行の物語の前に中央である崇神や垂仁の物語を配置するのは理にかなったことだと言えます。また、出雲建の話を役者を代えて崇神紀に移しかえたのも次の垂仁代での出雲祭祀の起源譚につなげるためと見ればこれも理にかなっていると言えます。ただ、この理は垂仁紀には反映されていません。垂仁紀では伊勢祭祀の起源譚となっているのです。しかし、『日本書紀』の編纂の時点では出雲祭祀よりも伊勢祭祀の方が重要視されていたのだとしたら、これもまた理にかなっていると言えなくもありません。
 現在の理が過去の理に優る、いつの時代にも生きている論理です。しかし、この理を逆手に取れば、出雲祭祀の起源譚を載せる『古事記』の時代、天武の時代ですが、この時期には後世的な伊勢祭祀と呼びうる形態のものは無かったのではないかという推測ができます。そして、その前身としての、天武紀に載るの倉橋河の河上に立てた斎宮や持統紀に頻繁に現れる吉野の宮での祭祀があったのではなかったかと。思うに、このことこそが歴史の隙間から漏れてくるため息、いやそれとも素人のため息なのだろうか。

古事記』の理、『日本書紀』の理

 「記神話」によると、国譲りは出雲祭祀と引き換えがその条件となっています。つまり、出雲祭祀が先ずあって、しかる後に伊勢祭祀があるというのがこの場合の理にかなった順序ということになります。しかし、「紀神話」では、国譲りとはせず平定としています。平定ですからいわゆる無条件降伏です。したがって、崇神紀や垂仁紀には『古事記』のような出雲祭祀の起源譚にかかわる物語は必要ないはずです。しかし、それにもかかわらず、崇神紀と垂仁紀に『古事記』と同じ、ただし役者を代えての出雲建の物語や、内容を少し変えての誉津別の物語を載せたのは、やはり本来は出雲祭祀の起源譚につなげるための下準備があったためと見るべきかもしれません。つまり、景行記の出雲建の物語を役者を変えてまで崇神紀に移しかえたのは、おそらくはこれを出雲祭祀が途絶えるという物語に仕立て直した上で、さらにこれを垂仁紀での誉津別のものが言えない理由に繋げるのが当初の目算であったと。
 思うに、国譲り神話を持つ垂仁記の誉津別の物語では、誉津別のものが言えない理由を国譲りの時の条件が未だ満たされていないことに因るものとして、これを出雲祭祀の起源譚に結び付けることができます。しかし、国譲りではなく平定とする神話を持たされた垂仁紀では、誉津別のものが言えない理由を垂仁記と同じとすることはできません。また、出雲建の物語を崇神紀に移しかえ、それなりの背景を整えたとしても、出雲祭祀の途絶が出雲を平定した天孫の皇子に祟るとするわけにはいきません。どうやらここには、祭を重んじる『古事記』と、政を重んじる『日本書紀』との違いがあるようです。しかし、『日本書紀』が、倭建や出雲建の名を出雲振根(ふるね)や出雲飯入根(いいいりね)と変えておきながら、この段に引く歌謡の主人公の名を景行記と同じ出雲建としたままで尚且つ崇神紀に載せているのは、素人の意見ではありますが、やはりそうしたことを後世の人に良く知ってもらいたいからではないだろうか。

や雲立つ 出雲八重垣。 妻隠(つまご)みに 八重垣作る。 その八重垣を。

《歌謡.1》

天なるや 弟棚機(おとたなばた)の うながせる 天の御統(みすまる)、 御統に あな(だま)はや。
 み(たに) (ふた)わたらす 阿遅志貴高日子根(あぢしきたかひこね)の神そ。

《歌謡.7》

やつめさす 出雲建が ()ける(たち)、 黒葛多纒(つづらさわま)き さ()無しにあはれ。

《歌謡.24》

《角川文庫『新訂古事記』》

 上の《歌謡.1》は、須佐ノ男が宮の地を出雲に求め、須賀の地に始めて宮を作った時に歌ったものとされているものです。なお、『古事記』には百十に余る歌謡がありますが、その最初の歌がこれです。そして、その最初の歌い手である須佐ノ男はいわゆる国ツ神の祖なのです。
 《歌謡.7》は『古事記』では7番目に出てくる歌ですが、実はこれと同じ歌が『日本書紀』の一書の一にあります。そして、これが『日本書紀』に載る一番最初の歌となっています。ただし、『古事記』ではこれを歌ったのは下照姫とあるのですが、『日本書紀』では、喪に集まった者、または下照姫となっています。しかし、いずれにしても歌ったのは衆、あるいは国ツ神です。下照姫は「記紀」によれば大国主の娘なのです。
 《歌謡.24》は『古事記』に載る出雲建の歌です。『日本書紀』では、やつめさすや雲立つに変わり、また、これを歌った人物も、倭建とする『古事記』とは違って時の人としています。ここでも『日本書紀』は歌い手を個人から衆に変えています。
 なお、「記紀」には合わせて二百数十首の歌謡があります。大まかには、「物語歌」と「独立歌謡」とに分かれるそうです。なお、素人ですので通説に拠ることになりますが、この中で多少語句を変えながらも重複するものが数十首あり、実数は二百首ほどとされています。そして、この中で「記紀」がそれぞれの最初の歌としているのが先ほど述べた《歌謡.1》と《歌謡.7》です。なお、『古事記』ではこの二つの歌の間に、大国主が沼河日売(ぬなかはひめ)や正妻須勢理比売(すせりびめ)と遣り取りした神語(かむがたり)歌が五首ほど入ります。しかし、大国主神話を持たない『日本書紀』にはそれらはありません。
 あるいは、『日本書紀』がそうしたものを載せないのは、天ツ神が出雲を平定したとする『日本書紀』にとって、国ツ神の出雲での活躍物語などは邪魔でしかなかったのかも知れません。また、須佐ノ男の出雲での活躍物語を載せたのは、後に東征で活躍する天ツ神の子孫倭建を助ける草薙の剣の由来譚として必要だったためと思われます。
 思うに、「記紀」の神話の幕開けの最初の舞台はどちらも高天原です。しかし、神代記歌謡ショーの幕開けの最初の舞台は違うことなく出雲です。高天原の舞台には歌謡はありません。また、伊耶那岐と伊耶那美の夫婦の遣り取りにも歌は用いられていません。無論、これが『日本書紀』だけのことだけであれば、あるいは問題はないのかも知れません。しかし、なぜか、『古事記』でもそうなっていることの意味は考えなければならないのではないだろうか。

 ところで、よく言われることですが、崇神より前は史実ではない、あるいは、実在性の高いのは応神以降であると。ところで、あまりというか全く言われていないことですが、出雲神話以外は実在性が低いと? こうした言い方が適当かはともかく、先を続けます。
 普通、歴史書に神話を書き加える場合、神話は当事者にとって最も都合の好い形で書き加えられます。つまりこの場合、神話が最も新しい記事ということになります。さて、こうしたことをその神話に対してさらに行うとどうなるか。当然、さらに新しい神話が書き加えられることになります。そして、おそらくはその最新の神話には歌謡ショーの段取りは未だ出来ていないと思います。なぜなら、その神話になじむ歌謡が出来上がるまでにはどうしてもそれなりの時間が必要だからです。
 たとえば、『日本書紀』はその成立の翌年(721)から康保2年(965)までの間に7回ほどの講筵(講義)が行われ、その内の4回目の元慶2年(878)の講筵からは終講の際に竟宴が行なわれて『日本書紀』に因む和歌が詠まれたとされています。そして、その歌題として、神や人が取り上げられています。あるいは、こうしたことが『古事記』成立以前にあったのではないかと。そして、その時期と方法というのが天武時代の稗田阿礼の習誦等にかかわるものではなかったかと。つまり天武の時代、稗田阿礼が誦むところの旧辞に合わせて「物語歌」が作られ、または既にある「独立歌謡」の中から旧辞に合った歌が選び出されたのではないだろうか。
 しかし、あるいは次のように言えなくもありません。即ち神が歌うわけがない。神が歌うのは神のあるべき姿ではないと。確かに、『日本書紀』についてはそう言えます。しかし、最初に言ったように『古事記』ではそうは言えないのです。また仮に、『古事記』が『日本書紀』の後にできた書であったとしたら、神は歌わないとする時代の要求に応じて出雲神話の歌謡は外したでしょう。それとも、国ツ神は歌い、天ツ神は歌わないというのだろうか。その歌わない天ツ神の子孫が、神である天皇が、あまりにも多くの歌を残しているのはなぜか。…いずれにしても、高天原神話は、出雲神話よりも後に新しく書き加えられた神話と見えます。

神の管理、神話の岐路。

 ところで、祭政一致という言葉があります。普通、これは古代社会の政治形態を指して使われる言葉です。ただ、日本の場合は、人によっては戦後の民主主義によってこれが初めて崩壊したなどと言われてもいるものです。それはともかく、日本の場合これを一律に古代に押し当てるというわけには行かないようです。たとえば『古事記』と『日本書紀』の世界、これは明らかにどちらも祭政一致の世界と言えます。しかし、『古事記』と『日本書紀』には明らかな違いがあります。思うに、それは邪馬台国時代と奈良時代との違いではないだろうか。
 「魏志倭人伝」によれば卑弥呼は自ら鬼道を事としたとあります。このことは卑弥呼と鬼道つまり祭祀の下に政治があったことを示しています。しかし、奈良時代には律令の下に祭祀を司る神祇官が置かれていました。そして、この神祇官の長官の神祇伯の位は従四位下相当とされています。つまり、神祇官の地位は奈良時代では低く、したがって祭祀は政治の下にあったということになります。
 なお、神祇伯という名称は継体紀に既に載っていますが、これは体系的な神祇官の官制があって初めて意味を成すものです。それに、『隋書』に載る、天を以って兄と為し、日を以って弟と為すの一文からも分かるように、この時代は未だ卑弥呼の時代に近かったということです。したがって、継体紀ばかりでなく欽明紀やそして皇極紀に載る神祇伯等は割り引いて考える必要があります。また、そういうことになりますと、神祇官という名称も同時に載る持統紀が官制としての神祇伯の最初という事になりそうです。

 持統紀には、天皇の3年8月2日の神祇官の記載を最初として、神祇官が4回ほど、神祇伯の記載が2回ほどあります。同年の6月29日に飛鳥浄御原令が諸官司に頒布されていますから、ここでの官制は正しく体系的なものであったと言えます。また、神祇官の記載のある3年8月2日に、百官が神祇官に集り天神地祇について話し合ったとする記事もあり、おそらくこの時点で祭祀が政治の下に組み込まれたものと考えられます。
 なお、天武紀には神官という記載が3回ほどあります。あるいはこれが神祇官の前身かとも思えなくもないのですが、ただ、それらはすべて大嘗と新嘗の祭りに奉仕したとする記事として載せられていて、しかも天武が律令(飛鳥浄御原令)制定の詔を命じる以前の出来事となっています。そこで、飛鳥浄御原令(持統3年施行)以前と以後、つまり天武時代と持統時代の祭祀のあり方を少し比べてみることにしましょう。
 先ず、両者に共通のものとしては、大嘗祭(だいじょうさい)、そして龍田風神と広瀬大忌神の祀りがあります。そして、相違のものとしては新嘗祭(にいなめさい)と大神への幣帛(みてぐら)奉納があります。ただし、これらは単に観た感じで得たものに過ぎず、共通にしても相違にしても単純に割り切れるというものではありません。また、それから提起される問題にしても、あるいは記載漏れで済まされそうなものでもありますが、持統3年8月の天神地祇の話し合の結果、何がどう変わったかを『日本書紀』から見つけ出すのも素人の役割かと。