昭和は遠くなりにけり

古代に思いを馳せ、現在に雑言す。・案山子の落書・

§33 倭建が背負ったもの。

 建前と本音。心中はNoであるのに、Yesと返事をしてしまう。裏と表を使い分ける。今もそうだとは申しませんが、これが一昔前の日本人でした。しかし、これぞ陰陽の極意。狭い日本のことです、裏と表を使い分けてこそ狭い日本も広くなるというもの。

神功と景行は陰と陽の関係

 下の図は、神功と景行のそれぞれの九州巡行過程をAとBとで表わしたものです。ただし、正確ではありません。また、巡行の順序も違っています。特に景行のBの場合は九州での巡航過程の多くが逆順になっています。しかし、そのことはこれから述べることに何の影響も与えません。

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 見ての通り、AとBとは陰と陽との関係に置き換わります。つまり、Aの神功が陰でBの景行が陽ということです。加えて、神功の三韓征伐は北上を意味することになり、景行の熊襲討伐は南下を意味することになります。さて、この北上と南下という行為ですが、陰陽五行では、北上は陰性の「水行」を表わし、南下は陽性の「火行」を表わすことになります。つまり、陰性の神功が陰性の「水行」を行い、陽性の景行が陽性の「火行」を行うことが陰陽五行の法則にかなう事になるわけです。
 さて、陰陽思想は2極が原理です。つまり、北と言えば南、西と言えば東と言うのがその基本です。したがって、これに五行を加えようと八卦を加えようとその基本は変わりようもありません。思いますに、四方(世界)の陰陽思想での最初の捉え方は下図の①と②の二つを用いてではなかったかと。なお、③と④はこの捉え方を日本に宛がったものです。無論、そうしたのは「記紀」もまたそのように日本を捉えているように見えたからです。

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 先ず、③。これは最初に掲げた図33-aとまったく同じというよりも、この図を描き直したものが実は③なのです。そもそも、こうしたことが可能だったからこそ、「記紀」がそうした捉え方をしていると思ったのです。それはさておき、③が景行と神功の世界であるなら、④は当然のように倭建の世界となります。「記紀」では倭建は西征と東征をしているように、倭建の世界は西と東で捉えられた世界なのです。ただし、倭建の世界も③と同じように陰と陽とが織り為す世界であることに変わりはありません。したがって、この倭建の世界にも陰陽の掟は確乎として存在することになります。

倭建の世界

 「古事記」によれば、倭建は西征に際して彼の叔母の倭媛よりはなむけの品として彼女の衣裳を渡されています。これは、女装のためというよりも彼女の陰性を譲り受けたというべきかもしれません。なぜなら、西征は西へ向かうことでもあり、これは五行では「金行」を行うことを意味します。つまり、「金行」は陰性ですからこれを行うには陰性でなくてはなりません。倭建は叔母の陰性を譲り受けることによってこれが可能となったのです。
 また、と言うよりも、ところがと言うべきかもしれません。それは、今回の倭建の任務は東征だからです。つまり、東征は東へ向かうことで、当然これは陽性の「木行」となりますから陽性の倭建には何の助けがなくとも可能なことなのです。しかし、なぜか今回も倭建は叔母よりはなむけの品を渡されています。それは前回のような衣裳ではなく剣と火打石の入った袋です。したがって、今回渡された剣と火打石にはこれまでとは違った解釈が必要ということになりそうです。幸い、東征に関しては先例があります。神武東征がそれです。そこで、これを少しばかり参考にしてみましょう。

 神武の東征譚に、日下での敗退の理由として次のような言葉が述べられています。それは、日の御子が日に向かって戦うことは良くないというものです。実際、結果として神武の兄の五瀬ノ命は命を失います。ただし、これには別の解釈も成り立ちます。
 普通、西と東とでは、西が「金行」で東が「木行」となりますから、相剋の原理「金剋木」によって西は東に克てることになります。ただ、これですと日下での神武の敗退はありません。なお、陰陽には相剋の原理はありませんし、方位の関係に於いてもやはりそうした原理はありません。したがって、この場合は、陰陽にかかわる行為、五行にかかわる行為の主体と東との位置関係が問題となってきます。
 神武記によれば、神武は天下を治めるに相応しい地を求めて、日向の地を後に東征に出立したとあります。また、神武紀ではこの日向の地の宮を西洲之宮(にしのくにのみや)としています。この西洲之宮という表現ですが、これは神武紀の作者が居る大和(奈良)から見ての西ということだとも言えますが、日向を後に東に向かう神武一行から見ての西だとも言えます。この場合、神武一行は大和を東と捉えていますので、後者が良いように思います。さてそうなりますと、東西の中央は何処かということになります。ただし、これを大和と日向との中間と捉えて、安芸の多祁理の宮か、あるいは吉備の高島の宮かのどちらかとしても意味を成しません。と言うのも、東征途中の神武には日向の廃都と行く先々での仮宮の他には何もないのです。したがって、この場合の中央は神武天皇等その一行ということになります。
 そして、五行からは、中央(土行)と東(木行)との間に五行相克の一つである「木剋土」が成立します。そもそも五行では、中央にとって東は唯一の鬼門とも呼べる存在なのです。つまり、日下での神武の戦いは、「木行」の大和に対しての「土行」である神武達の無謀な挑戦でしかないのです。結果、神武は敗退し、兄の五瀬ノ命を失うことになります。

 さて、倭建が叔母より渡された剣と火打石ですが、思いますに、これはどちらも「土行」とは五行相生の関係にあるように見えます。つまり、剣は金性、火打石は火性となり、それぞれからは「土生金」と「火生土」という相生が成立します。そして、この二つの相生が共に「土行」を左右から支えることによって、「土行」をさらに盛り立てていくのだとも解釈ができます。
 思うに、倭建は天皇から中央という「土行」を背負わされて東征に出された者です。しかし、「土行」には「木剋土」という掟から東征は不可能です。そもそも倭建の東征は最初から死を意味していたのです。しかし、叔母より渡された剣と火打石とが「土行」を盛り立て、同時に「木行」を制御することをも可能としたのです。つまり、「木行」に対して、剣は「金剋木」の相剋を起こし、火打石は「木生火」の相生を進めたのです。相克と相生、これは正にブレーキとアクセルとの関係だとも言えます。そして、その結果、倭建は弟橘媛を失った以外は東征を無事終えたと言えます。しかし、彼は帰途、伊吹の神と争って病を得、伊勢の能煩野で病没しています。その原因は、おそらく叔母より渡されたはなむけの品、特に剣を手放したためと思います。

 最初に述べましたように、倭建の世界は西と東の世界です。東征のみに限れば、中央と東の世界となります。これを東征の原点とすれば、近江の伊吹の神は、あるいは尾張の倭建からは西や北に見えたのではないかと「記紀」の読者は言うかもしれませんが、やはりここでは東の神と見なければならないのです。ここでの「記紀」の作者の主張は、倭建は神を見誤ったと同時に、「土行」である彼自身を過信しさらには見失ったのだと。では、倭建が弟橘媛を失ったことに対する「記紀」作者の主張は何なのだろうか。無論、これにも何らかの主張があります。しかし、これは陰陽五行とは少し隔たりがありますので、これについては章を改めるとして、ここでは倭建の別の帰途での物語を一つ加えておきましょう。
 倭建には、東征の帰途の物語の他に、西征の帰途での物語が『古事記』にあります。それは、倭建が出雲建と太刀合わせをして、出雲建を打ち殺したというものです。これは、一見すると倭建が狡猾な手段で出雲建をだまし討ちにしたとも受け取れる内容ですが、これは意外とも言えるほど五行の思想と合致しているのです。以下少し要約しますと。

 出雲建の物語は、倭建が出雲建を欺き騙すための本物に似せた木の太刀を造る事から始まります。彼はそれを造り終えると、それを携えて出雲建と川で水浴をします。先に川より上がった彼は、出雲建の真刀と木の太刀とを取替え、後から上がった出雲建に木の太刀を取らせたうえでの太刀合わせ(真剣勝負)を挑みます。結果、出雲建は刀を抜くことが出来ず、無防備の状態にされたままで倭建に殺されます。
 これはあまりにも酷い内容なので、体裁を重んじる『日本書紀』ではこの物語を倭建のものとはせず、出雲の兄弟の争いとして崇神紀に差し替えています。そして、その代わりとして倭建の帰途の活躍を吉備に移しています。思うに、吉備と出雲は互いに表と裏、つまりは陽と陰との関係となりますから、あるいはここにも何らかの意味が含まれているのかも知れません。しかし、それはさて置き、この物語を勝負つまりゲームと見た場合、これはババ抜きゲームの一種とも呼べそうです。これを五行のルールに合わせますと、相生のカードを残し相克のカードを先に捨てた者が勝ちとなります。
 さて、倭建は中央で「土行」ですから、相生のカードは「火」と「金」、相克のカードは「木」と「水」となります。対する出雲建は西で「金行」、よって相生のカードは「土」と「水」、相克のカードは「木」と「火」となります。そこで、今度はそれぞれのカードを物語の事物と対応させてみると、「木」は木の太刀に、「金」は出雲建の真刀に、「水」は川あるいは水浴にそれぞれ対応となります。なお、「土」と「火」とには対応するものはありません。したがって、ゲームのテーブルにあるカードは、「木」、「金」、「水」の三枚ということになります。
 次の表は、二人のゲームの進行を川での水浴とその前と後との合わせて三つの段階で表わしたものです。読み方は、●印の多い方が負け、○印の多い方が勝ちとなります。

  倭建(土行) 出雲建(金行)
相生(金のみ) 相克(木と水) 相生(水のみ) 相克(木のみ)
無し ●木の太刀 無し 無し
水浴 無し ●川の水浴 ○川の水浴 無し
○出雲建の真刀 無し 無し ●木の太刀

 表を見れば分かるように、このゲームは初手から倭建が不利であったということです。 つまり、倭建がこのゲームに勝つには、出雲建を川から上げて木の太刀を渡せば良いということになります。なお、倭建が出雲建を簡単に騙せたのは彼(土)と出雲建(金)とは相生の関係にあるからで、熊襲建(金)の場合もそうであったと言えます。また、出雲建が水浴に応じたのも、彼出雲建(金)が水浴(水)と相生の関係にあるからで、出雲建は倭建からすれば御しやすく且つ騙しやすい相手だったということになります。そして、逆に「木剋土」や「土剋水」といった相克の関係に当たる伊吹の神は御し難かったということです。

 冗長となってはしまいましたが、伊吹の神に関してもう少し私論を述べさせてもらいますと。伊吹の神は、景行記では白猪、景行紀では大蛇となって倭建の前に現れています。そこで、白猪を祥瑞的な思想から離れ五行で捉えると、「金行」と「水行」を合わせ持つ獣ということになります。これは「土行」の倭建からすれば非常に御しやすい相手と見えます。 しかし、実際は東の神でもあり倭建には苦手な神でもあるのです。つまり、倭建はここでは騙されたということになります。また、大蛇ですが、これは即座に五行の何とは言えないのですが、ただ、須佐ノ男の八岐大蛇は背に苔や木を生やしていたとあることから、これを「水生木」と解釈すれば、大蛇を「水行」とでき、これも倭建には御しやすい相手となります。いずれにしても倭建は神を見誤り病を得たということなのです。
 ところで、崇神紀では同様の話を配役名だけを変えて載せています。そして、それを出雲臣達が出雲大神をしばらく祭らなくなった理由だとしています。おそらく、この物語の本来の筋書きは水辺の祭りを倭建つまり中央が邪魔をしたというものであったと思われます。と言うのも、この場には「木」と「金」という「水」とは相生の関係にあるすべてが揃っているのです。つまり、相克の関係となる「土」は余計なのです。おそらく、祭りの本来の姿は、相克を避け、相生を招くというものだったのではないかと。
 思うに、相生も相剋も変化と循環を繰り返すということでは同じなのですが、相克の場合は相手に取って変わるという変化をするため、人の社会で言えばいわゆる恨みを残すということなります。また、循環しますから相手に打ち克つからといって相克を選んでいてはいずれ自分が打ち負かされる順番が回ってきます。また、神社の御神籤ではありません が、相生は吉へ、相克は凶へと人の行為を繋げていくものなのです。したがって、相克はf:id:heiseirokumusai:20180228183623g:plain 避けるものであって戦に利用するものではありまん。
 なお、出雲建の物語には『記』と『紀』との関係を知る上での手懸りがありますので、次章でも少し取り上げることになります。