昭和は遠くなりにけり

古代に思いを馳せ、現在に雑言す。・案山子の落書・

§32 ワケの系譜と天智天皇九州死亡説。

 天孫の系譜は天照より始まります。いや、正確には須佐ノ男と天照との兄弟げんかより始まりますとするべきかもしれません。なぜなら、旧約聖書にも人類の系譜が兄弟げんかより始まると記されているからです。思うに、人類の争いの系譜をたどれば兄弟げんかにたどり着くというのが古代人の少なからぬ答えのようです。
 さて、嫡子と庶子との関係ですが、これはいわゆる異母兄弟の関係ということになります。思うに、同母の兄弟でさえ争うのですから異母の兄弟ともなればその争いは熾烈を極めたはずです。したがって、異母の兄弟つまり嫡子と庶子とを区別する言葉が記紀系譜の中に当然あってしかるべきです。幸い、景行記には太子以外の子は国々の国造や和気その他に別けたとあります。どうやら和気あるいは獲居(ワケ)は庶子として別けられた子の名前につくものと見えます。無論、「ワケ」を称号や官職名や姓(カバネ)とする説があり、それらが有力な説であることも確かなことです。しかし、先祖から子孫へ、つまり父祖の利権を引き継ぐという系譜上の意義においては嫡子と庶子との関係が最も重要視されます。また、記紀系譜の中で「ワケ」以外に嫡子と庶子とを区別する言葉は見当たりません。したがって、ここではどうでも「ワケ」をそうした言葉として捉えるほかはないのです。

景行より始まる「ワケ」の系譜

 大足彦忍代別(おおたらしひこおしろわけ)、これが景行天皇の和風諡号です。つまり、景行は「ワケ」の初代であり生みの親でもあります。思うに、景行の名前に「ワケ」がつくのは彼が嫡子ではないからです。そもそも垂仁の本来の嫡子は誉津別(ほむつわけ)命です。しかし、垂仁の皇后である彼の母の兄が謀反を起こしたため彼の母はこの乱のさなかに亡くなってしまいます。そして、それと同時に彼も嫡流を外れたものと見えます。彼の名前に別(ワケ)がつくのもその故でしょう。ただし、これによって景行が直ちに嫡子となったわけではないようです。それに、垂仁から景行以降の系譜に関してはいろいろと疑問点があるようです。しかし、この疑問を解きほぐす過程で、「ワケ」の持つ本来の意味も垣間見えても来るようです。
 誰もが即抱く疑問、あるいは私だけなのかもしれませんが、それは下の右端の系譜のようなものだと思います。つまり、崇神、垂仁と来て次の天皇は大足彦忍代別と五十瓊敷入彦(いにしきいりひこ)のどちらが良いかということです。

垂仁┳狭穂姫命(前皇后)
  ┃
  ┗━誉津別命
垂仁┳日葉酢媛命(後皇后)
  ┃
  ┠─五十瓊敷入彦命
  ┃
  ┠─大足彦忍代別尊(景行天皇)
  ┃
  ┠─大中姫命
  ┃
  ┠─倭姫命
  ┃
  ┗━稚城瓊入彦命

御間城入彦五十瓊殖
(崇神天皇)

活目入彦五十狭茅
(垂仁天皇)

大足彦忍代別
or
五十瓊敷入彦

この答え、これら系譜の名前だけを比べてみれば一目瞭然で、五十瓊敷入彦が最適となります。なお、垂仁紀にはそうとはならなかった理由としての物語が載っていますが、本来は大足彦忍代別は嫡流ではなかったと見るべきでしょう。つまり、大足彦忍代別は五十瓊敷入彦とは同母かつ弟の関係にはないということです。五十瓊敷入彦と同母かつ弟の関係にあるのは、同じ入彦の名を持ち、しかも稚や若と呼ばれている稚城瓊入彦(わかきにいりひこ)だけということになります。
 さて、崇神、垂仁、景行の三代の物語を『古事記』より読み解けば、崇神記は三輪山祭祀の起源譚、垂仁記は出雲祭祀の起源譚、景行記は辺境の荒ぶる神あるいは賊(あた)なる神の平定譚とできるはずです。そして、これをさらに煮詰めますと、中央祭祀と辺境祭祀の二つに分離できます。ただ、そうしますと、出雲祭祀はどちらに当たるのかという疑問が湧くとは思いますが、これは中央祭祀となります。と言うのも、垂仁紀では伊勢祭祀の起源譚となっているからです。おそらく、ここに景行が「ワケ」でなくてはならない理由があるのだと思います。
 これは4章でも述べたことですが、伊勢、三輪山、出雲は鬼門軸で繋がっています。つまり、これを陰陽で読み解けば、三輪山の祖霊を陰と陽とに分け、それぞれを出雲と伊勢に祭ったということになります。したがって、それらは中央祭祀、少し言い方を変えるならば嫡流による祭祀ということになります。また同時に、もう一方の辺境祭祀は庶流による祭祀と言い換えられることになります。これが、辺境祭祀の物語を持つ景行が「ワケ」でなくてはならない理由なのです。なお、伊勢祭祀の起源譚が垂仁紀にあって垂仁記にないのは、陰があれば必ず陽もあるという陰陽の規則に因るものですが、あるいは陰の書としての『古事記』、陽の書としての『日本書紀』であることに因るのかもしれません。それはともかく、「ワケ」は景行より始まり天智(天命開別)で終えています。どちらの天皇もその終焉の地は近江です。ここにも「ワケ」の「ワケ」たる由縁があるようです。
 周知のように、近江は東山道の始発点の国で、しかも北陸道の始発点である若狭国東海道の始発点である伊賀国と接しています。さて、この三道には古代の三関、不破関、愛発関、鈴鹿関が設けられ東国への隔てとなっています。しかし、同じ時期、西国へはこの三関のような隔ては設けられていません。このことは、倭王武の上表文に載る西の衆夷(仲間)と東の毛人、つまり夷荻との関係の政治的な表れと解釈できます。つまり、25章でも述べたように、近江が東の毛人の区域と接していた可能性があるということです。そしてこの区域の管轄を任されたのが「ワケ」ではなかったかと。そして、この「ワケ」の要とでも言うべき地が近江ではなかったかと。
 思うに、歴史家が「ワケ」王朝などと呼んだりするように、「ワケ」には嫡流ではないが皇位継承の資格がある。あるいは、このことが「記紀」を複雑にしているのかもしれません。しかし、ひるがえせば、そうであるからこそこれもまた道標とすることができるということなのかもしれません。

天智で終わる「ワケ」の系譜

 天智「ワケ」王朝最後の存続をかけての皇位継承の争い、壬申の乱。幕開けの舞台は近江大津の宮。近江朝の立役者は、伊賀采女宅子娘(いがのうねめ やかこのいらつめ)を母にもつ大友皇子。彼は別名を伊賀皇子とも呼ばれているように彼の母系は伊賀に繋がります。伊賀は東海道の始発点であり「ワケ」の地の始発点でもあります。まさに、「ワケ」が「ワケ」の要に立ったということでしょうか。だだ、残念ながらこの乱からの「ワケ」王朝の存続は成りませんでした。思うに、「ワケ」の王朝は常に成立であり、存続とは呼べないのかも知れません。しかし、それはともかく近江からは幾つかの「ワケ」王朝が成立しています。以下これについて少し述べてみましょう。
 先ず、応神天皇。彼は誉田別(ほむたわけ)の尊と呼ばれているように正真正銘の「ワケ」の天皇です。ただ、神功皇后を母とする嫡流の彼がなぜ庶流の「ワケ」であるのかという疑問があります。また、仲哀記では神功皇后には誉田別の他に誉屋別(ほむやわけ)皇子もいて、どちらも「ワケ」となっています。あるいは、庶流を単純に「ワケ」とするには無理があるということなのだろうか。実は、それらの解の糸口が天智の系譜にあるのです。天命開別(あめみことひらかすわけ)の尊と呼ばれる天智の系譜からは二つほどの解の糸口が見つかります。先ず、次の二つ、㋐と㋑を見比べてください。

-㋐-
父・息長足日広額(舒明天皇


天命開別(天智天皇
母・天豊財重日足姫(斉明天皇
-㋑-
父・足仲彦(仲哀天皇


誉田別(応神天皇
母・気長足姫(神功皇后

再度呼び名にこだわることになりますが、どちらの系譜も足(たらし)系、延いては近江の息長(おきなが)系に繋がります。息長系に関して言えば継体がその最右翼かと。歴史家によっては継体以降を息長系による簒奪王朝とも呼んでいるようです。しかし、それはともかくこの二つよく似ているように見えませんか。そこで、もう一つの糸口を手繰ってみましょう。

-ⓐ-
敏達
┰─╂─┒
    皇子 
    ┃ 
    舒明
    ┃ 
    天智
-ⓑ-
景行
┰─╂─┒
    皇子 
    ┃ 
    仲哀
    ┃ 
    応神
-ⓒ-
履中
┰─╂─┒
    皇子 
    ┃ 
    顕宗
履中
┰─╂─┒
    皇子 
    ┃ 
    仁賢
    ┃ 
    顕宗

 ⓐは㋐の天智の系譜を直系だけでたどったもの。ⓑは㋑の応神の系譜を同じように直系だけでたどったものです。これも又よく似ているとは思いませんか。さらに、似ている箇所を指摘しますと、先ず、皇子とある箇所ですが、ここには押坂彦人大兄(おしさかのひこひとおおえ)皇子と日本武(やまとたける)の尊が入るのですが、『古事記』では彼らはどちらも太子であったと記しているのです。そして、これとは逆に彼らのそれぞれの父、敏達と景行とはどちらも最初からの皇位継承者ではなかったようです。つまり、敏達には箭田珠勝(やたのたまかつ)という大兄が、景行には先ほども述べたように五十瓊敷入彦という兄がそれぞれいたのです。なお、敏達と景行には呼び名の上での類似点が見当たらないようですが、これも又これまでに述べてきたことを加味すればそうではないことが分かります。しかし、この説明は後に回して先を続けましょう。
 次は、天智と応神のそれぞれの母と彼らの即位に関しての類似点になります。先ず、彼らは先代である母親の死後に即位しています。天智の場合は斉明天皇が母、応神の場合は神功皇后が母となります。ただ、彼らの母には一方は天皇で一方は単に皇后という違いがあります。しかし、そうだとしても天智、応神共に母后の死後の即位という類似点は見逃せません。無論、人によっては天皇と皇后とでは雲泥の差があるというかもしれません。しかし、天智にはその即位の前に6年にも渡る空位と呼べる時期があるのです。したがって、仮に神功の世を天皇のいない空位の時期としても、天智と応神の即位が共に空位の後に行われたという更なる類似点を呼び起こすに過ぎません。むしろ類似点の大きさではこの場合の方が勝っているかもしれません。そして何よりの類似点は、どちらの母后にも朝鮮とのかかわりから九州へ赴くという経歴があるということかもしれません。
 このように見てまいりますと、天智と応神は、というよりもⓐの系譜とⓑの系譜はどちらかがどちらかを真似ていると言えそうです。ところで、神功皇后斉明天皇持統天皇がモデルではないかとの説のあることは多くが知るところと思います。おそらくはそうだと思います。しかし、とは申しましても例によって素人の疑問なのですが、つまりそうであるならば、斉明は九州で死んだのに、神功はなぜ九州で死ななかったのかということです。これも素人の答えですが、斉明は九州では死ななかった、死んだのは天智であると。そこで、今度はⓐⓑの系譜のなかから似ていないようで、実は似ているものを少し挙げて見ましょう。
 先ず、天智と仲哀。この二人は、系譜上の位置からはまるで懸け離れた関係にしか見えません。しかし、意外と思えるほどの類似点があるのです。それは先ず名前に認められます。『日本書紀』は、天智を中大兄、仲哀を足仲彦と表記しています。中も仲も同じ意味ですから彼ら二人は中男つまり嫡男ではなかったことになります。もし彼らが庶流であったとしたら、彼らは「ワケ」と呼ばれることになります。実際、天智は「ワケ」と呼ばれています。仲哀の呼び名にはそれはありませんが、あるいは足仲彦(何々)ワケであったのかもしれません。と言うのも、彼らには叔父の天皇の世に皇太子になったという共通点があるからです。また、叔父から甥への皇位継承は彼ら以外には顕宗天皇があるのみで、非常に特異な例と言わねばなりません。しかも、この顕宗には、『古事記』によれば、袁礽石巣別(をけのいわすわけ)という呼び名があるのです。思うに、叔父から甥への継承は明らかに直系とは呼べない傍系つまり庶流への継承で、これらの系譜に「ワケ」があるのは、やはり意味のあることとしなければなりません。《参ⓒ》
 次に、天智と仲哀にかかわる人物の類似点です。天智には叔父の孝徳天皇中臣鎌足とが、仲哀には叔父の成務天皇武内宿禰とが大きくかかわっています。先ず成務ですが、成務は呼び名が稚足彦で宮都が志賀の高穴穂宮という風に紛れもない近江息長とかかわりのある天皇です。次に孝徳ですが、孝徳の場合は呼び名も宮都も近江とはかかわりがありません。しかし、彼の実姉が斉明(天豊財重日足姫)ということで、これも当然近江息長にかかわりがあるとしなければなりません。そして何より武内宿禰鎌足の関係には、鎌足の仕えた様は武内宿禰が仕えた様と同じであるとする孝徳の言葉を引き合いに出す文武天皇の詔が『続日本紀』の慶雲4年の条に見出せることから、この二人と、延いては共に難波天皇と呼べる孝徳と仁徳とは相似であると言えます。
 思うに、天智と仲哀に類似点が見出せ、しかも天智と仲哀にかかわるそれぞれの人物間に類似や相似が認められると云うことは取りも直さず天智すなわち仲哀という構図が描けるということです。
 思うに、ⓐとⓑの系譜は形も内容もその前提とするところは同じです。思うに、「記紀」は九州での天智の死を仲哀に託したものと見えます。そこで、九州で死んだとされる斉明(皇極)に天智を宛がえば、孝徳の治世は天智の治世に挟まれます。しかし、これは有り得ない事です。しかし、さらに孝徳にも天智を宛がえばこれは有り得る事となります。そもそも文武が鎌足の引き合いに祖父の天智ではなくなぜ天智の叔父に当たる孝徳を選んだのか、それは天智すなわち孝徳だったからではないだろうか。また、多くが天智と間人皇女との浮き名は指摘しても、誰も孝徳と斉明との浮き名は指摘しない。これは方手落ちというものではないだろうか。そもそも孝徳は、諱(いみな)を軽、つまり軽皇子と呼ばれています。「記紀」で軽皇子といえば、普通木梨軽皇子を思い出すのではないだろうか。彼と同母妹の軽大娘皇女との伝説は『古事記』中の一大恋愛叙事詩と位置づけられ、同じく『古事記』中の一大英雄譚と位置づけられている倭建伝説と共に時代を越えて今日に語り伝えられてもいるのです。