古代雑記

一億分の一の検証  昭和枯れ芒、素人のつぶやき。

欠史8代、物語10代。太安万侶の道標、その31。

 神功を卑弥呼と見做し、『百済記』との間に120年のずれを生じさせた『日本書紀』。後世はこれにどう対処すればよいのか。そもそも『日本書紀』は神功を肯定しているのか、それとも否定しているのか。
 思うに、興にも武にも当てはまらない雄略を倭の五王の時代に設定する『日本書紀』の主張は、それらの時代の記録は日本には無かったということではないのか。
 『古事記』序文には次のようにあります。

朕聞かくは、『諸家の賷たる帝紀と本辞と既に正実に違ひ、多く虚偽を加ふといへり』。今の時に当りて、その失を改めずは、いまだ幾年を経ずして、その旨滅びなむとす。これすなはち邦家の経緯、王化の鴻基なり。故ここに帝紀を撰録し、旧辞を討覈して、偽を削り実を定め、後の葉に流へむと欲ふ
《角川文庫『新訂古事記』より》

 これは、天武天皇の詔とされるものです。無論、『古事記』やその序文に関しては偽書説等もあります。しかし、その詔とされる部分が今日まで伝わっていることの意味は大きいと言わねばなりません。
 これによれば、帝紀や本辞は諸家に伝わっていて、またそれぞれが異なった帝紀や本辞を持っていたことになります。ただ、なぜ諸家がそれらを持ち、またどのような形で保持していたのかは推測するほかはありませんが、おそらくは儀礼や儀式の場、特に葬儀の誄詞等の場で必要だったものと思われます。そして仮にそういったものであったとすれば、天皇自身には必要のないものであったとも言えます。また、さらにそういうことであるなら、王宮には帝紀や本辞等は無かったということにもなります。
 思うに、修史の事業は天武が最初ではなかったのか。そうだからこそ「古事記序文」に載る詔を天武が発したのではないだろうか。また、帝紀や本辞が王宮に確乎として存在していなかったからこそ天武は諸家のそれらを気に病んだのではないだろうか。ところで、諸家はどの程度の長さの帝紀を保持していたのだろう。またどの程度の本辞を必要としていたのだろう。

系譜の原型

 『古事記』の中で物語、本辞に当たるものと思いますが、それを持つ天皇は初代の神武のほかには、崇神、垂仁、景行、仲哀(神功)、応神、仁徳、履中、安康、雄略、顕宗の10人程です。つまり、帝紀や本辞は多く見積もっても10代分もあれば充分という事になります。ただ、どの時点から遡っての10代かという問題は残ります。また、それは同時に諸家にとっての初代あるいは創始者と呼べる祖の位置付けともかかわってくる問題でもあります。
 さいわい「記紀」には諸家が代々の先祖をどのように捉えていたか、その典型とも呼べる先祖把握の遣り方が示されています。それは初代と10代との間に欠史8代を置くというものです。8という数はこれまでにも述べておりますように多いという数であって実際の世代数と考える必要はありません。「記紀」では実際の世代としての8代を示していますが、諸家の場合はこれを全て無視しても差し障りはないかもしれません。ただ、これを諸家それぞれの都合で遣りますと、系譜上に齟齬が生じてはきます。あるいは、これが記紀間の系譜に齟齬を引き起こしているのかもしれません。
 なお、諸家が引き起こす齟齬の原因は多々あるとは思いますが、おそらくそのほとんどは中祖の扱い方にあるのではないかとも思われます。中祖については船氏王後墓誌で少し述べています。ただ、そこでは中祖を一人だけということで終えていたと思います。しかし、中興の祖としての中祖は決して一人だけではないはずです。諸家の場合、本辞つまり物語を持つ先祖は初代つまり上祖を除いた他はすべて中祖である可能性があります。
 そこで、『古事記』の系譜を先ず次のように表わします。おそらくここまでは無難なものだと思います。

(表1)
初代 欠史8代 物語10代 欠史10代 当代
神武 綏靖~開化 崇神~顕宗 仁賢~推古 当代?

 次に、この系譜を中祖を含む形の系譜に直します。また、当代までを『日本書紀』等を参考にしてもう少し書き加えてみますと、異論のあるところとは思いますが、『古事記』の成立が和銅年間、つまり元明の世ということでもあり、次のようになります。

(表2)
初代 欠史8代 物語10代 欠史10代 当代
上祖 欠史8代 中祖 物語8代 中祖 欠史9代 中祖 近8代 当代
神武 綏靖~開化 崇神 垂仁~雄略 顕宗 仁賢~崇峻 推古 舒明~文武 元明

 8という数にこだわるわけではありませんが、上のように書き改めて見ると、系譜の基本数は8と言えなくもありません。なお、何度か言ったとは思いますが、8という数は必ずしも正確に8を示しているわけではありません。またそういう意味で、この表の二段目の欠史9代を欠史8代に書き直したとしても何らかまわないでしょう。そもそも欠史に名を連ねる系譜は何の物語も持たず、諸家にとっては誇るべき筋合いの先祖ではないということなのです。しかし、それならば物語を持つ8代は実際の8代かと言えば、実はこれも必ずもそういうことではありません。もし8代に満たないのであれば、あるいは架空の物語を取り揃えることもありうると考えた方が良いかもしれません。
 思うに、『日本書紀』は神武から持統まで40代を数えています。この40という数は明らかに8と5を掛けたものと言えます。また推古で終える『古事記』の場合も、推古が33代目であるため8と4とを掛けた数よりも1代多くなりますが、表2の三段目のように推古を中祖あるいは当代と見做せば8代毎の系譜と言えます。おそらく記紀系譜の一般的な形あるいは原型は次のようなものではないだろうか。《表3⇒表4》

(表3)
初代 欠史8代 中祖8代 欠史8代 当代
(表4)
物語10代
初代 中祖8代 当代
日本的8と乎獲居臣8代

 8という数については既に少なからず述べたとは思いますが、「記紀」や今日的な意味合いで捉えるようになったのは、おそらく日本に易が入ってからのことだと思います。易の基本形は八卦ですから、単純にはそういうことで良いのだと思います。ただ、それがいつ頃のことであるのかということなのですが、
 欽明紀14年(553)に、日本は百済に医博士・易博士・暦博士の交代を要請しています。記事に「番上下」とか「相代年月」とかの言葉があるところから、それらの博士の交代は当番制によるもので、かなり以前よりの慣例のようにも見受けられますが、博士の渡来は応神紀15年の王仁と継体紀7年と10年の段楊爾と漢高安茂の記事を除けばすべて欽明以降にしか見られず、日本が真に博士を必要とし始めたのは欽明以降ということになるのかも知れません。したがって、易や八卦の思想が日本文化に浸透し、今日的8が出来上がるのもこれ以降のことと言えそうです。
 ところで、今日我々は易を「えき」と発音していますが、当時はこれを「やく」と読んでいたようです。易の読みは漢音では「えき」となりますが、呉音では「やく」となります。なお呉音というのは、漢音(唐音)以前の上古音のことで、必ずしも中国江南の呉の漢字音のことを指しているわけではありません。また漢音は、遣唐使や留学僧や帰化人などが洛陽や長安の標準音を直接伝えたもので、平安時代初期には正音として朝廷が奨励したとされています。したがって、日本に易が導入され定着するまでの間、易は「やく」と呼ばれていたことになります。さて、そこで古代人が易(やく)とどのように向き会ったかを想像してみましょう。無論古代人も我々も素人としてではありますが。
 素人から見ると、易は八卦二つを上下に積み重ねた形をしています。《下図ⓐ》
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 ⓐは、易64卦の一つで益と呼ばれているものです。象(かたち)としての意味は、上卦が巽(陽爻が損じて陰爻となった形)で下卦が震(陰爻が益して陽爻となった形)、つまり上を損じて下を益するというもので、貧乏人にとっては有り難い卦ということになります。
 さて、益は「えき」とも「やく」とも読みます。無論、これも漢音と呉音との違いによるもので、「やく」は呉音となります。当時は「やく」と読まれていたはずです。また、この漢字の当時の字形は旧字体のⓒであったと思われます。このⓒの字形、素人目には八を二つ、つまり八卦を二つ重ねたようにも見えます。おそらく当時の人々にもそう見えたと思われます。易(やく)は、益(やく)に繋がり、八卦の八(やっつ)、つまり8にも繋がります。
 思うに、古代人は易(やく)に益(やく)、つまり八(やっつ)を求めたということでしょうか。おそらく今日的縁起の良い8は易と漢字に向かい合った古代日本から必然的に生まれたものと言えそうです。また、そうした8は、『隋書』に載る多利思比孤の時代には既に定着していたことがその王の80戸一伊尼翼制度からもうかがえます。そして、この制度を定めたのが法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘の上宮法皇だとしたら、その王の元号法興の元年591年の時点において今日的8の思想はあったことになります。
 思うに、稲荷山古墳出土の鉄剣銘に記された意富比垝から乎獲居臣に至る8代、この8代をそういった意味で捉えた場合、乎獲居臣は自身が8代目であることを記念してこの剣を作ったとすることも可能となります。そして、その製作年とする辛亥年は、今日的8が定着していた591年が最も相応しいことにもなります。仮に乎獲居臣の死を600年前後とすれば、一世代20年の8世代前、440年前後に意富比垝が死んだことになります。意富比垝の活動期間を30年程とすれば、彼の活動開始時期は410年頃となります。
 さて、この410年という時期ですが、これは『日本書紀』が「晋起居注」より引用している泰初2年(266)の倭の女王の貢献の記事や『晋書』に載る太康10年(289)の東夷絶遠三十餘國來獻の記事から百数十年を経て後、再度『晋書』に載る倭國の方物を献ずの記事の年義熙9年(413)や倭の五王の讃が『宋書』に始めて名を現す永初2年(421)に極めて近い時期と言えます。また、好太王碑文(414年建立)に倭が辛卯年(391)来渡とあるように倭が朝鮮半島に盛んに働き掛けていた時期とも言えます。
 無論、これだけのことで意富比垝を5世紀初頭に活躍した人物などと言うわけではありません。それに一世代20年はあくまで任意のものです。それよりもここでの課題は、日本人がいつ頃から自身の先祖や子孫に対して後世的な認識を持ち始めたかということです。ただし、これを解くに当たっては『魏志』と『宋書』の倭人に関するわずかの記事を手がかりとする他はないようです。また、墳墓を以ってその認識の証とするには少しばかり決め手不足のように思えます。と言うのも、初期の墳墓はある一時代の族長や王の墓で、先祖代々というタイプのものではないからです。ただ、埼玉古墳群のように先祖代々と呼べるものも在るといえばあるのですが、これは5世紀後半からの墳墓群で倭の五王の最後の王武の年代に近く、この王の上表分にもあるようにこの時代には既に後世的先祖観が育っているのです。
 思うに、卑弥呼の時代、『魏志』には世々王有りとはありますが、卑弥呼や壹與が前王の死後の騒乱を経て共立されたように、この時代は王位継承もままならない、先祖はおろか父子の意識さえ希薄な時代であったと言えそうです。思うに、太古より親子の関係というものは母子とその同じ母から生まれた兄弟の関係が先ず無条件で存在し、しかる後に父子の関係が生まれたと考えられます。したがって、先祖への意識が生まれ始めるのは父から子への有形無形の遺産が引き継がれることが確実視されるようになってからのこととするべきでしょう。しかし、それでも嫡子と庶子の問題は残されています。