昭和は遠くなりにけり

古代に思いを馳せ、現在に雑言す。・案山子の落書・

§30 日本書紀の中の道標。

 不老不死や神仙の思想が古代の日本に入り込んでいることは、「記紀」やそのほかの物語等にそうした思想の産物としての物語が見出せることから確かなことと思われます。しかし、そうだからと言ってそれらの著述者がそうした思想を信じていたかどうかはまた別の問題です。なぜなら、記紀神話では神でさえお隠れになるとしているからです。また、田道間守が常世の国から持ち帰った非時香菓(ときじくのかくのこのみ)、思うにこれは不老不死の果物であったはずです。しかし、「記紀」はこれを単に今の橘とするのみで終えています。
 古代の日本人が不老不死にそれほどの感心を示していなかったことは、『竹取物語』の作者が、かぐや姫と会えなくなったことを嘆く帝に不老不死の薬は無用として富士山でそれを焼かせるというくだりをこの物語に付け加えていることからもおおよそ見当はつくと思います。無論、作者の強調表現ともできますが、記紀神話からもわかりますように、古代人は不老不死よりも人の寿命がなぜ短くなったのかといった因果説話のほうにより強い関心を示していたようです。
 思うに、不老不死や蘇りという道教神仙思想は古代中国の風土が生み出したものです。そうした思想が、死者の存在を常に語りかけている古墳群を風景として暮らしてきた日本人にとっては何の意味も持たないものだったのではなかったろうか。

欽明長寿説

 非時香菓の物語を持つ垂仁に『古事記』は158歳とういう長寿を与え、『古事記』には載らないが竈の煙と浦島の物語を『日本書紀』に持つ暴虐雄略に『古事記』は124歳という長寿を与えています。しかし、『古事記』は竈の煙の物語を持つ聖帝仁徳には83歳という寿命しか与えていません。仁徳は聖帝ではあったが、長寿を象徴する磐の姫との決別が長寿をもたらさなかったとするのが『古事記』の主張と見えます。ここにあるのは、明らかに因果応報の論理です。後世の浦島物語は、亀を助けるという善行に因り竜宮に遊び、玉手箱を明けてはならないという約束を破ることに因り老人となり果ててしまった。禁則を犯すものは必ず報いを受けるというのが当時の考えなのでしょう。
 仁徳の善政も、浦島の善行も、たった一つの禁則を犯すことに因り元の木阿弥となってしまう。逆に雄略のように悪業を行っても禁則を犯さなければ長寿を保てる。なにとはなく現代にも当てはまりそうな世相の反映の結果なのでしょうが、もう少し突き詰めれば、どのような権力者も禁則を犯せばその報いを受ける、ということでもあります。しかし、ただ禁則を犯さなかったというだけでは単に天寿が全うできたというだけでしかありません。『古事記』が雄略に与えた124歳という寿命は天寿以上のものなのですから。
 思うに、雄略の時代になぜ竈の煙が万里に立ち上ったのであろうか。答えは一つしかありません。それは、秦の太秦により庸調が上がるようになったからです。雄略紀には次のようにあります。

天皇愛寵之。詔聚秦民、賜於秦酒公。公仍領率百八十種勝。奉献庸調御調也絹縑。充積朝庭。因賜姓曰禹豆麻佐。
(雄略は、秦酒公を寵愛し、秦の民を集めて彼に与えた。よって秦酒公は多くのスグリを率いるようになり、絹や縑を税として朝廷に積み上げた。それで太秦の姓を賜った。)

 この話、前回の欽明と秦大津父との関係とよく似ていると思いませんか。欽明紀からもう少し抜き出しますと、

召集秦人漢人等諸蕃投化者。安置国郡、編貫戸籍。秦人戸数惣七千五十三戸。以大蔵掾為秦伴造。
(秦人や漢人ら諸蕃の投化者を集めて、国や郡に配置して戸籍に入れた。秦人の戸数は全部で7053になったので、大蔵の掾を秦伴造とした。)

 雄略も欽明も秦の民を集め、それを諸国に配置して秦氏を取り立てることによって国を富ませ万里に炊煙を立ち上らせた。そして、それによって雄略が長寿を得たのであれば、欽明もまた長寿を得たはずです。もう少し付け加えますと、27章で小子部蜾蠃が集めた子供たちの多くは秦の民の子供ではなかったかとしましたが、その子供たち特に少年は火焚き小子とされる場合があるのです。つまり秦氏は直接に竈の煙とも関係があることになります。そして、何度も言うように雄略と欽明にはいろいろな面で共通点があるということなのです。

倭王武はワカタケルか

 江田船山古墳出土鉄刀銘や稲荷山古墳出土鉄剣銘から「獲加多支鹵大王」、すなわちワカタケル大王という文字が読み取られています。通説ではこの大王を『宋書』に載る倭の五王の最後の王武に比定しているようですが、それなら何故鉄剣銘に幼武と記さないのか不可解です。それに『古事記』では武の字を使わずすべて建を用いています。あるいは、古代の銘文の人名表記には万葉仮名的な漢字表記が慣例であったのだろうか。しかし、そうだとしても宋に対して「獲加多支鹵」ではなくなぜ「武」としたのか、それともと「獲加多支鹵」を「武」とする慣例もあったのか。いずれにしても『宋書』が武と記す以上、武の和風名の中には「ぶ」あるいは「む」の音が入っていたとするべきでしょう。例えば、「ほちわけ」とか「ほだわけ」とか。思うに、武をタケと読むのは後世になってからのことではないだろうか。したがって、後世のそのまた後世の今日、武をタケと読むのは少し早計すぎるようにも見えます。
 ところで、倭王武の上表文を見てどのように感じるだろうか。勇ましさ、猛々しさ、いわゆる強さとしての「武」だろうか。

昔より祖禰躬ら甲冑を擐き、山川を跋渉し、寧處に遑あらず。東は毛人を征すること五十五國、西は衆夷を服すること六十六國、渡りて海北を平ぐること九十九國。王道融泰にして、土を廓き畿を遐にす。累葉朝宗して歳に愆らず。臣、下愚なりと雖も、忝なくも先緖を胤ぎ、統ぶる所を驅率し、天極に歸崇し、道百濟を遙て、船舫を装治す。而るに句驪無道にして、圖りて見呑を欲し、邊隸を掠抄し、虔劉して已まず。毎に稽滞を致し、以って良風を失い、路に進むと曰うと雖も、或は通じ或は不らず。臣が亡考濟、實に寇讐ノ天路を壅塞するを忿り、控弦百萬、義聲に感激し、方に大擧せんと欲せしも、奄かに父兄を喪い、垂成の功をして一簣を獲ざらしむ。居リて諒闇に在リ、兵甲を動かさず。是を以って、偃息して未だ捷たざりき。今に至りて、甲を練り兵を治め、父兄の志を申べんと欲す。…
岩波文庫魏志倭人伝・…』より》

 私の読む限りでは、上記上表文の下線部からもわかるように、武は、祖や父や兄の功や志を引き継ぐ者としての主張を述べているように感じられます。実は、漢字の武には継ぐという意味もあるのです。武という文字を勇ましいという意味からだけで捉えていては倭王武を見誤るのではないだろうか。ただ、そうは言っても『日本書紀』が倭王武の時代に幼武すなわち雄略をあてがっている以上、基本的には通説を覆すことは難しいということなのかも知れませんが。
 下の表は、岩波新書倭の五王』に載る年表を参考にしてのものです。行間の都合上時間幅は正確ではありません。また、時間の流れは左から右へとなっています。また、左端の枠は允恭即位年の412年に、右端の枠は武烈の崩年506年に設定しています。
f:id:heiseirokumusai:20171205203657g:plain
 この表からも分かるように、雄略の治世23年間のうち倭王武と重なるのはほんの3年ほどでしかありません。思うに、この3年足らずの一致をもって通説は倭王武を雄略と決め、さらに稲荷山古墳出土鉄剣銘に載る辛亥年を、武の治世ではなく興の治世とする『宋書』を無視してまで471年としています。無論、確かに雄略を武とはしない説もあります。しかし、そうしてみても今度はその3年足らずが逆にこの説の欠陥となってしまいます。
 本稿は二者択一つまり『日本書紀』か『宋書』かということで終始を計っています。したがって、この場合は『宋書』を取ることになるのですが、同時に『日本書紀』が次のように主張していると読み取ることも大事です。すなわち、雄略は倭の五王の興でも武でもないと。そもそも上の表のように一目瞭然の歴史の齟齬を書紀編纂者が見落とすはずはなく、こうした齟齬は編纂者が意図的に作りあげた後世へのメッセージと受け取るべきものです。大和に遺跡の道標があるように『日本書紀』にもやはり道標と呼べる何かがあるのです。
 思うに、人が何かを書き残す。それは自身への記念としての場合もありましょうが、自分以外へのメッセージである場合もあります。『日本書紀』は明らかに後者の場合にあたると言えるでしょう。また、私がこうしたものを書くのもやはり後者の場合ということになります。ただ、私の場合は私論であり試論ですから制約と呼べる程のものは最初からありませんが、書紀編纂者の場合は最初から大きな制約があったと思われます。そういった状態で後世に残せるメッセージといったものを考えた場合、また、あからさまに事実を書くことが憚れる場合、もしかしたら明瞭な歴史の齟齬で知らせるのが一番良い方法ではないだろうか。そして、その齟齬を元に後世が勘校するであろうことを彼ら書紀編纂者は望んでいるのではないだろうか。
 『日本書紀』で、歴史の齟齬が最初に現れるのが神功紀です。神功紀は「漢籍」と『百済記』とによって偏年が組まれています。しかし、この両者には120年ものずれがあります。通説では、このずれは日本書紀編纂者が神功皇后卑弥呼と見做したために生じたとしています。そして、このずれは応神紀まで続いています。
 下表は、神功紀と応神紀に載る百済王の実年代を左から右へ時間の流れに沿ってまとめたものです。
f:id:heiseirokumusai:20171205204045g:plain
 これから百済王の存在時期が実際よりも120年遡っていることが分かると思います。通説では、『百済記』の紀年が干支であったために、書紀編纂者がそうした間違いに気付けなかったとされています。確かに、干支1巡は60年ですから、120年というのは丁度干支2巡に当たり、説明としては妥当とも言えます。しかし、書紀編纂者は本当にこのことに気付かなかったのだろうか。
 なぜなら、神功紀ではこの時間のずれは正確に120年の差として現れていますが、応神紀の後半ではこの時間のずれにもそして記事内容にも齟齬が現れてきます。この齟齬は、実に甚だしいもので、応神25年に死んだ直支王が応神39年に再び生きて顔を出すというものです。この齟齬に編纂者が気付かないはずはないのです。それとも、応神25年から39年の間のどこかで編纂者が交替したとでもいうのだろうか。そしてなにより、後世の写本においても、この齟齬が活かされているというのも不思議というほかはありません。