昭和は遠くなりにけり

古代に思いを馳せ、現在に雑言す。・案山子の落書・

§29 竈の煙と天命。

 ねたみそねみは人の世の常ですが、「記紀」はこれを臆面もなく取り上げて、うわなりやこなみや、挙句のはてには天皇までも揶揄し、あるいは誹謗したりもしています。聖帝仁徳もこれに関しては形無しのようです。
 仁徳天皇について、太安万侶は序文に

烟を望みて黎元を撫でたまいき。今に聖帝と傳ふ。

と記しています。
 仁徳と黎元(民)の竈の煙の話は、子供の頃よく聞かされたものですが、仁徳と嫁さんの話は「記紀」を読むまでは知りませんでした。思えば、古代の天皇の中で最初に知ったのが仁徳でした。また、「記紀」を読むまでは、仁徳が一番の長寿だという風に記憶してもいたようです。なお、「記紀」を読むといっても訓読本ですから、本当の意味で読んでいるかは今もって分かりません。ただ、『古事記』を読む限りにおいては、それで善いのだと思います。しかし、『日本書紀』の場合、これは一応歴史書ということですから、『古事記』と同じ次元で扱うことはできないのかもしれません。

仁徳短命説

 思うに、仁徳が長寿であったという記憶は、仁徳の治世が長かったということに起因するのだと思いますが、仁徳の治世がなぜ長かったのか、これについてはそれほど深く考えたことはないように思います。これは、おそらく聖帝ならばそのくらいは当然、いやそうでなければならないと当時の国定教科書の解答を持たされていたせいだと思います。
 ところで、『日本書紀』では仁徳の治世を87年と掲げていますが、『古事記』では仁徳の寿命をその治世よりも短い83歳としています。これは何故なのか。無論、こうしたことにも興味を抱くのは素人だからこそですが、普通には『古事記』と『日本書紀』を同次元で扱ったりはしないとは思います。しかし、『日本書紀』が『古事記』をベースに成り立っているとする立場に立てば、やはり無視のできないものだと言うほかはないのです。
 素人から見た場合、仁徳紀と仁徳記との一番の相違は、天皇と皇后磐之媛との夫婦仲の描き方にあります。仁徳記では仁徳の浮気を皇后が許していますが、仁徳紀では許していません。仁徳記をベースにしているはずの仁徳紀がこれを否定しているのです。思うに、これは仁徳記の方が間違っているのではないかと。そして、同時に我々が仁徳記を読み間違えているのではないかと。これも素人の勘ぐりではありますが。

ここに大山津見の神、石長比売を返したまへるに因りて、いたく恥ぢて、白し送りて言さく、「我が女二人並べたてまつれり由は、石長比売を使わしては、天つ神の御子の命は、雪零り風吹くとも、恒に石の如く、常盤に堅盤に動きなくましまさむ。また木の花の佐久夜比売を使わしては、木の花の栄ゆるがごと栄えまさむと、誓ひて貢進りき。ここに石長此売を返さしめて、木の花の佐久夜比売をひとり留めたまひつれば、天つ神の御子の御寿は、木の花のあまひのみましまさむとす」とまをしき。かれここを以て今に至るまで、天皇たちの御命長くまさざるなり。
《角川文庫『新訂古事記』》

 以上は記神話が、天皇の寿命が長くならなかった原因のいわれを述べている件の一節ですが、実は『古事記』での仁徳の寿命は決して長いとはいえないのです。

神武 孝昭 孝安 孝霊 崇神 垂仁 景行 神功 応神 成務 雄略 仁徳
137 93 123 106 168 153 137 100 130 95 124 83

 上は、『古事記』に載る天皇の寿命を表にしたものです。これからも分かるように、仁徳は必ずしも長寿とは言えないのです。このことは同時に仁徳記でも仁徳は皇后と仲直りをしていなかったことを示しています。それもそのはず、仁徳天皇の皇后の名前は仁徳記では "石の比売"、つまり神話の "石長比売"のことだからです。思うに、孝徳天皇と間人皇后が夫婦別れをしたように、難波天皇というのは当時の人からすれば正しく夫婦別れをする天皇の代名詞みたいなものだったのです。なにせ、難波天皇と木の花の佐久夜比売との仲は歌にも残っているほどなのですから。

 難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花
(なにはづに さくやこのはな ふゆごもり いまははるべと さくやこのはな)

 この歌は「記紀」には載っていないのですが、後世とはいっても平安時代頃だと思いますが、当時の伝説では王仁仁徳天皇に奉ったとされています。後世、こうした伝説が生まれるのは、やはり難波天皇の夫婦別れの原因を木の花の佐久夜比売とする伝承に因るものでしょうか。そして、このことは同時に仁徳の寿命が短かったことをも暗示しているのです。

雄略と竈の煙

 石長比売と佐久夜比売との神話に従えば、仁徳の寿命は短かったと言うほかはありません。しかし、仁徳の治世の長さは、孝安の102年、垂仁の99年に次いで3番目と決して短くはないのです。一見矛盾しているように思いますが、何らかの理由はあるはずですが…
 ところで、『古事記』での雄略天皇の寿命、意外とも言えるほどに長いとは思いませんか。そもそも『古事記』は、引田部の赤猪子(女性の名)の話を載せているように、雄略を長寿の天皇として捉えているのです。しかも、面白いことには、この長寿の答えが『古事記』にではなくて『日本書紀』にあるのです。なお、引田部名の赤猪子の話というのは、普通に歳をとり老いてしまった赤猪子が若い頃に雄略と交わした約束の履行を雄略に迫るというものなのですが、この時の雄略が全く歳をとっていないという、ある種の浦島伝説にも似た内容となっています。ただ、この状態での両者の対面を描いていますので、雄略記特有の滑稽談となってもいます。
 さてその長寿の答えですが、雄略紀の最後の段に載る天皇の遺詔の中にあります。

方今區宇一家 烟火萬里 百姓艾安 四夷賓服 此又天意欲寧區夏
《今、天下は一つにして、竈の煙は万里に上り、万民は治まり安く、四夷もよく従ってい る。これは、天意が国を安らかにしようとしているのである》

 ここには、仁徳紀と同じ "竈の煙" が載っています。加えて "天意" という言葉もあります。これは竈の煙が天に上って、国が善く治まりますようにと天意を催させたということです。そして、その結果雄略の寿命が長くなったということなのです。実は、こうしたことをする神に竈神がいます。ただし、今日に残っている竈神のことではありません。道教の研究書を残した葛洪(かつ こう:283~343)の『抱朴子』に次のようなことが載っています。

天地に過を司るの神あり。人の犯す所の軽重に随って、以ってその算を奪ふ。算減ずれば則ち人は貧耗疾病し、屢しば憂患に逢う。算尽くれば則ち人死す。諸もろの応に算を奪うもの、数百事有り、具には論ずべからず。また言ふ、身中に三尸有り。三尸の物為る、形無しと雖も、実は魂霊鬼神の属なり。人をして早く死せしめんと欲す。この尸はまさに鬼と作ることを得、自づら放縦遊行して、人の祭酹を享くべし。是を以って庚申の日に到る毎に、輒ち天に上りて司命に白し、人のなす所の過失を道ふ。また月晦の夜には、竈の神も亦天に上りて人の罪状を白す。
《中国古典新書『抱朴子』明徳出版》

 以上の多くは今日の庚申信仰の基となるようなことが書かれていますが、要は人の寿命はその人が犯した罪過によって決まるという発想です。そして、その罪過を天上の司命に告げるのが三尸(さんし)や竈神の役目とされているのです。これは、道教におけるガマの油売りの前口上のようなもので、道教ではガマの油の代わりに丹(仙薬)を売ることになります。要するに、丹を買って飲めば体から三尸が居なくなって長寿が保てるという道教製薬の宣伝広告の一種なのです。したがって、三尸とか司命とかは道教の誂えであって、これらから寿命を連想したとしても寄生虫程度のものしか思い浮かばないはずです。
 しかし、竈神、と言うよりも竈の煙からはいろいろの連想が浮かびます。先ず食事が浮かびます。食は命の糧ですから当然寿命とかかわります。また、古代では善政ともかかわります。善政は平和につながり、人は争いで命を失うことなく天寿を全うできます。思うに、竈の煙は為政者の善政を喜ぶ民の声とも聞こえます。その民の声の結果、竈の煙の多い為政者の寿命は長くなり、竈の煙の少ない為政者の寿命は短くなるということです。しかし、それならば雄略は善政を敷いたというのだろうか。

竈の煙と革命

 雄略に関しては「記・紀」共に聖帝と呼べるような記事は一切載せていません。それどころか、その正反対とも呼べるような記事が多々見受けられます。しかし、それにもかかわらず『万葉集』や『日本霊異記』は雄略をその巻頭に据えていますし、『古事記』は雄略のの寿命を124歳の長寿としています。どうやらここにも素人好みの謎があるようです。  さて、天命と言う言葉があります。これには大きく二つの意味があります。先ず天から与えられた寿命、そして天から与えられた使命です。思うに、命は天が人に与えたものです。したがって、天はこれを如何様にも変えることが出来ます。変えることによって人の寿命は短くなり、為政者は倒れます。この天命を左右するのが竈の煙です。竈の神は革命の神でもあるのです。
 顕宗前記、志自牟の新室楽(しじむのにいむろうたげ)の段に次のようにあります。

かれ火焼の少子二口、竈の傍に居たる、その少子どもに舞はしむ。…(略)… ここに遂に兄舞ひ訖りて、次に弟舞はむとする時に、詠したまひつらく、物の部の、…(略)… 伊耶本和気の天皇の御子、市の辺の押歯の王の、奴、末。とのりたまいつ。ここにすなはち小楯の連聞き驚きて、床より堕ち転びて、…(略)… ここにその姨飯豊の王、聞き歓ばして、宮に上らしめたまひき。
《角川文庫『新訂古事記』》

 この段は、普通履中天皇の孫が見つかる契機や清寧天皇以降の王朝の断絶を免れた物語としてしか解釈をされていないようですが、竈神と革命という観点からすれば天皇の孫あるいは現王朝の血筋ということを抜きにしても成り立つ話です。つまり、この段の主旨は竈の神が伝える天命によって顕宗と仁賢が皇位に就いたということなのです。
 なお、顕宗と仁賢の物語を、貴種流離譚や、応神5世の孫という遠縁の継体の即位を無理のないものにするために「記紀」に取り入れられたとする説もあるようですが、そういうことであれば、むしろ貧しい一介の火焚き小僧が天命によって天位に就いたとする方が良いように私には思われます。また、継体即位の下準備として顕宗・仁賢の物語があるのではなく、顕宗・仁賢の真の物語を打ち消すために継体の物語があるとした方が大仙陵古墳の破壊を説明する上で都合がいいようにも思われます。
 思うに、竈の煙が立ち上って天に届く。古代人には竈と天とはつながっているように見えていたのではないだろうか。そうした場合、竈の声は天の声であり、天の声に最も近いのが竈の世話をする火焚き小僧ということになります。あるいは、竈の傍で話す火焚き小僧の言葉もまた天の声ということなのかもしれません。『日本書紀』もこの物語の舞台を竈の傍と記しています。

欽明長寿説

 ところで、『日本書紀』が載せる歴代の天皇の中で、と申しましても可能な限り実在とされる天皇についてですが、その中で最も治世が長く、しかも長寿な天皇は誰なのかということなのですが…
 私が思うには、実在の可能性の薄い推古天皇を除けば、それは欽明天皇ではないかと。ただ、『日本書紀』は欽明は(御)年若干で亡くなったとしています。若干ですから長寿ではないとも受け取れます。また、欽明は年若干で即位したとされていますから、天皇としては最も長い32年の治世があったとしても必ずしも長寿とは言えないのかも知れません。しかし、仮にそうだとしても、欽明が亡くなった時も即位した時も "時年若干" と書き表す『日本書紀』の意図は何処にあるのだろうか。
 ところで、『日本書紀』は欽明即位前紀で夢の中に一人の男が現れて欽明に次のように語ったとしています。

天皇秦大津父者寵愛、壮大及、必天下有。
欽明が秦大津父という人を寵愛すれば、男盛りになった時、必ず天下を知らしめると。

 壮大とは男盛りのことですから、欽明は若干で即位したわけではないことになります。それに、石棺の関係から欽明と宣化は同母の兄弟のはずです。したがって、仮に宣化の治世が短かったとしても、欽明の即位時の年齢はもはや若干とは呼べないほどになっているはずです。『日本書紀』は矛盾しているのだろうか。実は、年齢に関しての矛盾は『古事記』にもあるのです。ただ、『古事記』の場合は多少の齟齬は仕方が無いとは言えますが。
 雄略記に引田部名の赤猪子が年を取るのに雄略が年を取らないという滑稽談のあることを話したと思いますが、実は年を取らない天皇がもう二人ほど居るのです。それは、顕宗と任賢です。雄略の死後、この二人が見つかった時彼らは未だ火焼少子(ひたきのわらは)と呼ばれていたのです。『日本書紀』には引田部の赤猪子も火焼少子も登場しませんが、ただ、顕宗と任賢が丹波小子(たにはのわらは)と名を変えて縮見屯倉首(しじみのみやけ)に仕えたとはあります。ところで、この丹波小子の丹波ですが、かつては但馬と丹後をも含んでいたとされています。
 雄略紀22年に、丹波国与謝郡の水江浦島子が蓬莱山に行ったという話が載っています。これは後世の浦島太郎の物語の基となったとされているもので、かつての丹波国であった但馬や丹後地方にはこうした神仙思想の影響で生まれた不老不死の話が少なからずあったようです。たとえば、垂仁天皇常世の国へ遣わした田道間守(たじまもり)の話もこの一つです。この話は橘の木の伝承譚でもあり、天の日矛の伝説や延いては神功や応神の系譜にも繋がるもので、あるいはここに「記紀」の現代史とも呼べる何かがあるようにも思えます。…以下次回へ。